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誰と付き合うかで自分の将来は決まるという、当たり前の話。

しばらく会っていなかった友人に再会すると、あれ? 雰囲気が変わったな。と思うことがある。

「実は転職したんだ。」

目の前に座る人物の、肉体そのものは変わっていない。新しい恋人ができたわけでもない。どこかへ引っ越したわけでもない。変わったのは職場だけなのに、中身は別人のように感じる。

 

それだけ職場環境は人の雰囲気に影響を与えるということだ。

わかりやすいところで言えば、服装や持ち物は影響されやすい。

コンサルタントというカタイ仕事をしていた時代は、バリバリのスーツに身を包み、カツカツと鳴るヒールを履き、ガラガラのキャリーケースを引っ張っていた。周りの同僚も似たような服装だった。

一方、Webマガジンのフリーライターという現在は、ボーダーのシャツに履き古したジーパン。歩きやすいスニーカーを履いて、Macbook Air・iPhone・Kindleの三種の神器が詰まったリュックを背負う。身近な人も、大体同じような服装だ。

スニーカーにリュック=that’s my style. なんて強いこだわりがあったから、今の仕事を選んだわけではない。たまたま周りの人たちがゆるい服装をしているから、私もスニーカーにリュックで働いているだけ。

 

多くの人は、程度の差こそあれ、身近な人の影響を最も受けやすい。

服装だけでなく、何より思想への影響を見過ごすことはできない。

一緒に働いていると、読んでる本がかぶったり、書く文章が似てきたり、口癖まで似てくることがあり、恐ろしくなる。ここまで影響を受けるのならば、誰と付き合うかで将来の自分は決まるな、と思ってしまう。

 

では「誰と付き合うか」という重要な決断は、どうやって行えば良いのだろう。

 

友人との付き合いは無理する必要なし。

徒然草 「友とするに悪き者、七つあり」 に学ぶ友人関係

一緒に仕事を出来る友人もいれば、遊ぶだけで一緒に仕事はしたくない、と言う友人もいて、「友達付き合い」は様々な人間関係の縮図とも言える。

さて、友人は、家族の次に近い存在なので「友人の選び方」はおそらく重要である。

「朱に交われば赤くなる」と言ったことわざがあるように、友人の影響は大きい。また、Dropboxの創業者であるドリュー・ヒューストンは、「あなたは、あなたの周りにいる最も近しい人(サークル)5人の平均だ」と言う。

しかし、「友達の選び方」など、そもそも正解があるのだろうか?

最近、友人と仕事相手の境界線はほとんど曖昧になってきているんじゃないかと感じる。

名刺交換をすればそのままFacebookで友達申請し、プライベートで繋がっていく。逆もしかりで、中学の同級生が起業するから、一緒に新しくビジネスを行う。そんな話をしょっちゅう聞く。

であれば、友人選びはかなり重要だ。

「友人関係は、無理をするものではないし、「真の友情」などといったロマンのあるものではない。「すごい人」も友達として不適格だ。「打算的でも」いいから、適度な付き合いをしよう

 

誰と付き合わないか、で決める

誰と付き合うべきか、という視点で考えると、選定のための判断基準が無限に出てきてしまう。

それよりも、誰と付き合わないかを考えたほうが、実用的だ。

例えば、飲み会に誘われて行くべきか、行かないべきか。今の上司について行くべきか、転職すべきか。このお客さんと永く付き合うべきか、そろそろ取引を終わりにすべきか。

いちいち迷う必要はない。軸が決まっていれば、素早く意思決定できる。

 

「あわない人」とは一緒に仕事しない、という鉄則。

勘違いしやすいが「合わない」というのは「嫌なことを言う」とイコールではない。厳しく、嫌なことをいう人でも、合う人はいる。

その場合は「あの人、嫌なことを言ってくれるけど、まっとうだな」と感じるはずだ。

しかし、合わない人には、何を言われても響かない。言っていることも空虚に聞こえる。「この人は結局信用できない」と感じるはずだ。

誰でも、付き合いが長くなれば本能的に「この人は信用できそうである」という判断ができる。子供ですらできる。

合わない、というのは本質的に「この人物は信用出来ない」というシグナルを感じ取っているのであり、無理して付き合ってもそれが解消されることは稀である。

まっとうではないな、信用出来ないな、と感じる人と無理して働く必要はない。それは努力の問題ではない。思想の問題、考え方の違いに起因するものであり、解決不能なものだ。

 

そーゆー自分は、付き合いたいと思われているの?

「友人を選ぼう」とか、「誰と付き合ないかが大事だ」とかウダウダ言ってみたものの、そもそも自分は選べる立場にいるのだろうか。

ソシャゲーのガチャをベースに考える、最善の婚活戦略

出会いがないと嘆く人は多い。そういう人は、このまま同じような生活を続けても結婚できそうな人と出会える確率は、ほぼゼロだろう。ここで役に立つのがネットワーク理論についての知識だ。

ネットワーク理論に6次の隔たりという概念がある。これはどんな人間でも6人隔てれば、全世界の人間と繋がれるという概念だ。これによれば、一般人でも安倍首相だろうがオバマ大統領だろうが誰にでもつながれる可能性がある。

(中略)

だけど多くの人が、よき伴侶に出会えずに困っている。

何故か?それはあなたがネットワークの片隅にいるからである。ネットワーク理論も6次の隔たりも理論的には正しい。だが、あくまでその恩恵を預かれるのはネットワークの中心となる存在と強固な関わりを持つものだけである。

(中略)

最後に非常に大切な事を強調しておくが、あなた自身が人に紹介されても恥ずかしくない立派な存在になる事が最も大切だ。どんなに素晴らしい人脈があなたにあろうが、あなた自身が悪質な商品なら商売は成立しない。

結局どんな業界であれ、自分の頭で戦略をキチンと練って真面目に行動し続けるものが最後に勝つのだ。

どこかの本で、三流の人は三流同士で固まる、と読んだ。なぜなら三流の世界はプレッシャーもないし、努力もしなくていいし、何より楽だからだ。

自分は将来どうなるのか。その答えは周りの友人を見渡せば、案外簡単にわかるかもしれない。

 

(文:大島里絵 https://www.facebook.com/rie.oshima.520


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「仕事の丸投げ」は上司からの信頼の証?それとも上司が怠けたいだけ?

上司や先輩から仕事を丸投げされたとき、どう思いますか?

「マジかよ、最悪の上司(先輩)だな」

と思う方が多いかもしれません。あの人と話すと仕事を押し付けてくるからあまり近づかない方がいい…なんて人がどこの会社にも一人くらいはいるかも…

 

でも、丸投げってそんなに悪いことでしょうか。

自分に置き換えて考えてみると、部下や後輩に丸っと仕事を任せるときは、どんな風に考えて任せますか?

「こいつになら任せて大丈夫だろう」

という考えがあるはずです。

仕事を任せる側にも責任があるので、絶対に失敗すると思ったら任せません。ということは、そこには期待と信用があるわけです。もしかしたらまだ早いかもしれないし、もう少し時間をかけてレクチャーした方が良いかもしれないけれど、信用して、思い切って任せても大丈夫だろうと判断しての結果です。

 

つまり、「丸投げ=仕事を押し付けられた」と考えるのではなく、信用して任せられたと思うべきなのです。

しかし、残念ながらすべてがそうではなく、ただの他力本願からの丸投げも中にはあります。自分がサボりたいだけで、なんだかんだ理由をつけて仕事を押し付けてくるどうしようもない上司や先輩が…

 

では、どうやってその違いを見抜くか。

それは上司や先輩から丸投げされた仕事の結果が悪かったときに、どんな行動をとるかで判断できます。

例えば、ミスをしてしまったときにどんな反応があったか。

 

ミスに対しての叱責だけの場合、残念ながらその上司、先輩は面倒な仕事をあなたに押し付けただけかもしれません。勝手に押し付けておきながら、仕事のできない奴と思っているかもしれない最低の人間です。

 

反対に、まずミスに対しての処理を第一に行い、なぜ起きてしまったか、どうすれば防げたか、次からどう動くべきかを指示し、問題が解決してから少しだけ注意してくるぐらいの上司、先輩であれば、あなたを圧倒的に信用して仕事を任せたと言えます。あなたはその信用に対し、信頼で返すべきです。

 

理想を言えば、同様のケースを何度もサブとして担当してから任せてほしいですよね。手取り足取り、わからないところは理解するまで何度でも丁寧に指導されたい気持ちもわかります。

 

でも、それって遅くないですか?

どんどん仕事をして、スキルを身に着けて、出世なり起業なりしたくないですか?

丸投げしてくれて、その後にフォローしてくれる上司や先輩を見つけることで、同期の何倍も仕事が回ってきますし、成長スピードに差をつけることができるわけです。

また、あなたがその上司、先輩になることで部下や後輩がどんどん育ちますし、仕事が円滑に回るようになります。

あの人、すぐに仕事を押し付けてくるから…と敬遠せずに、上手く見極めて立ち回ることをおすすめします。

 

それではまた。ご存じ、ゆうせいでした。

 

 

【著者プロフィール】

名前: ゆうせい 企画、執筆、編集、モデルを提供する「カンパニオ」代表。

ぱくたそでフリー素材モデルとして不倫素材や、記者風素材を提供している。映画大好きの愛妻家を自負しているが、恋愛映画や恋愛系コラムは苦手。とにかく水曜どうでしょうが大好きでしかたがない。

Twitter:W8HeBCLk_400x400のコピー @wm_yousay

ブログ:http://huniki.hatenablog.com/「雰囲気で話す」

実際に頑張るだけでなく「頑張ってるように見せる」という社内マーケティングも非常に重要である理由。

「手間をかけたもの」は、一般的に「良いものである」と認識をする人が多いのではないだろうか。

 

例えば、オフィスのまわりにはお弁当屋さんが数多くある。

観察をしていると「手づくりのお弁当」という謳い文句を掲げるお店が非常に多い。「工場の大量生産弁当」というキャッチを掲げるお店は1件もない。

おそらく殆どの人がその比較では「手作り」を選択するだろう。

実際、「手作り」と聞くと

・愛情を感じる
・手間を掛けたほうが、ありがたい
・いいものを使っていそう

といったイメージが挙がっていた。

 

このように「手間ひまかけて」や「コスト度外視で」というキャッチフレーズを見ると、我々はどうしても反応してしまう。

品質が同じであれば手作りだろうと大量生産だろうとどちらでも良いとする人は実は少なく、人はコストがかかっており、手間をかけたものを重要視する。

 

デューク大の心理学者、ダン・アリエリーは著書*1の中で、こんな実験について触れている。

ボストン在住の100名の成人に、新薬の実験に協力する被験者となってもらう。

最初に「新薬はオピオイド系の鎮痛剤で、服用して10分の間に92%の人に効果があった」と説明。さらに、この薬は一錠あたり、2ドル50セントという価格をつけたパンフレットを見せてから行われた。

さて、彼らには薬を飲む前に、電気ショックを与えられ、その痛みの程度を記録する。その後、彼らは鎮痛剤を服用し、その後同じ電気ショックを与えられると……殆どの人は痛みが軽減したと申告した。

何も問題はない。薬は見事に効能を発揮した。

……薬がただのビタミンCの錠剤であり、鎮痛効果がないと言うこと以外は。

そして、この実験はもう一度行われた。

次は、一錠あたり格安の10セントまで値引きしたパンフレットを見せられてから同一の実験を行うと……なんと、効果があったという人物は、半数まで減ってしまった。

 

この実験は、思い込みが実際に体験を作ること、もう一つ、価格は、経験そのものを変化させる場合があることを証明している。

*1

 

 

少し前、堀江貴文氏が、「寿司屋の長期間の下積みや修行は必ずしも必要ない」と述べたことが話題となった。

ホリエモン「大事なものが欠けているのはお前らの脳だと思うよ」寿司屋の修行重視の考え方を一蹴

大阪にある寿司屋「鮨 千陽」の料理人は、鮨を握った経験が1年未満ながら「ミシュランガイド京都・大阪2016」に掲載されたという。この事実を例に出し、長期間の下積みや修行は必ずしも必要ないと持論を展開したホリエモン。寿司屋に限らず、下積みを過度に重んじる「下積み原理主義者」を「大事なものが欠けているのはお前らの脳だと思うよ」と徹底批判した。

言わんとしていることはわかるが、上の実験結果を見ると、「修行期間が長く、苦労している寿司職人が握った寿司のほうが実際に美味しく感じる」は十分にありえる話だ。

我々は皆、ミシュランの調査員のように鋭敏な舌を持っているわけではない。

「どこで修行した」「◯年の厳しい指導を受けた」といった寿司職人その人が有する物語が、実際に体験する味を変えるのである。

 

これは我々が「バカ」なのではない。そもそも人間の感覚などほとんど当てにならず、主観とはそのようなものであると認めなければならないのだ。

そして、企業の中でも同じようなことが起きている。

 

例えばある企画書を部下に命じたとする。

部下の一人であるAさんは、30分で企画書を仕上げて、提出した。そしてもう一人の部下であるXさんは、1週間、毎日遅くまで残って企画書を書き直し、ようやく出来上がった企画書を提出した。

あなたはXさんが頑張って企画書を書いたことを知っている。そして、手間を掛けている仕事のほうが、実際に良い仕事に見える。

あなたは言う。

「さすが、頑張って書いた企画書だけあるな。Xの企画書はやはり質が違う。コチラを採用だ。」

だがAさんは言う。

「待ってください。企画書の内容を見てください。私のほうが優れているはずです。」

だが、あなたは聞く耳を持たない。なぜなら、実際にXさんが作った企画書のほうが、よく見えるのだ。

 

 

Aさんが犯した過ちはなんだろうか。

端的に言えば、人の心理を知らないこと、そして上司向けのマーケティングを怠ったことである。

 

人は本能的にコストをかけていることのほうがよく見えるものだ。もし自分の能力に自信があり、会社で活躍したいのなら、上司の心理を読むこと。よく思われるよう「社内向け」のマーケティングをすること。

態度が悪いヤツの言うことなんて、だれも聞いてはくれないのだ。所詮上司も人であり「すべてを客観的に見る上司」なんて、いるはずがない。

これは組織内では極めて当たり前のことであり、これを知っている人が「気のきく部下」だ。

 

もちろん、こんな「社内マーケティング」にやすやすと引っかかる上司もどうかとは思うが、それはまた、別の話である。

 

 

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Mokiko

中学生とその両親に伝えたい、公立中学校で生き残るために大切なこと

私が生まれ育った町は、こと風通しが悪く、窮屈なところだった。

横浜のベッドタウンで、都会でも田舎でもない住宅地だ。マイルドヤンキーの温床といえば想像しやすいだろうか。

最寄り駅まで歩いて30分ほどかかるので、ほとんどの用事を国道沿いのファミリーレストランやスーパーで済ませる。町の子は揃って近所の公立小学校や中学校に通っていた。

私立へ行く子は、小学校のクラスに1人いるかも、ぐらいだ。

私はその町の公立中学校へ通っていた。地域でも評判の「やんちゃ」な学校だった。

いわゆるヤンキーやギャルが何人もいて、窓ガラスは頻繁に割れた。授業に出ずタバコを吸っていた生徒がいて、ボヤ騒ぎになったこともある。

そこまでは行かなくとも、どことなくみんな悪いことをしたり、騒いだりしていた。

授業は大体うるさい。帰宅部かつ文化系で可愛くもない私は、不登校にもならず、ひどいいじめの標的にもならず、よくぞ生き延びられたなと思う。

「町を出た組」の中で、唯一きちんと連絡を取り合っている子とは、会うたびにお互いの生存を称え合っている。

公立中学校を生き延びることはそう易いことじゃない。同じ地域に生まれただけで寄せ集められた、家庭環境も勉強のでき具合も様々な子がいるのだ。

中学校を卒業すれば、自分の頭に見合った高校へ行って、自分と似た雰囲気や家庭環境の子に出会える。思春期も落ち着き、アルバイトもでき、ぐんと過ごしやすくなる。

公立中学校の3年間を生き延びることは、そのあとの人生においてかなり重要だ。私がもし母になり、子どもを近所の公立中学校に通わせることになったら、以下のことを伝えてあげたい。

1.八方美人でいること。

公立中学校は、個人的な好き嫌いだけで治安が動いてしまう場所だ。先生の力は残念ながら、あまり届かない。

ヤンキーやギャルに対してだけでなく、多くの場合において、嫌われなければ大事は起こらないと言える。

上っ面だけでもいい。仲良くしようとする。笑顔であしらう力が生き延びる秘訣だ。

 

2.「あいつクソだな」と言い合える友だちを持つこと。

とはいえ自分自身も、好きや嫌いが渦巻く年齢だ。嫌いを吐き出せなければひどいストレスである。

そういうときはやっぱり、愚痴や悪口を言い合える仲が必要だと思う。

できれば3人以上のグループを2つ持っておきたい。誰かが、もしくはどちらかのグループが自分を裏切ったとしても、居場所がなくなることはないからだ。

 

3.恋はしてもいいけど、相手を考えること。

話しているだけで浮気とかなんなのアイツとか言われちゃう世界である。

恋はしてもいいが、身分不相応だったり恋人のいる子だったりすると、たちまち揉め事になる。女子であれば戦争勃発だ。

止められないなら仕方がないものの、平和を思えば、相手は自然を決まってくるはず。

誰にどんな恋をしてもいいのは、高校生になってから。ここで間違えるとダメージはかなり大きい。

 

4.授業はちゃんと聞き、勉強をきちんとすること。

中学校の勉強は、やればできるものだ。

ここでつまづくのは才能が足りないとか部活で忙しいとかなんでもなくて、ただやっていないだけである。めちゃくちゃに頑張って、県内一の高校へ行く必要は全然ない。

でも、頭のいい友だちとは、今後の人生にとてもいい影響を与えてくれる大切な存在だ。出会うためには、普通にきちんと勉強しておくことが近道である。

ふつうの高校へ行こう。周りに流されちゃいけない。

 

5.疲れたら、学校から離れること。

家でも図書館でも区民センターでもなんでもいいので、疲れたら学校から離れるといい。

放課後すぐ帰ってもいいし、行きたくないなら行かなくてもいいのだ。漫画もゲームもテレビもインターネットもある。大人は、疲れたなと思ったら会社を休むことができる。中学生も同様に、リフレッシュのために休んでもいいのだ。

「サボったと思われるのが怖い」とか「しばらく休んだら馴染めなくなりそう」とかあるだろうけれど、風邪だのなんだのと理由をつけて、親の私が学校に連絡するから大丈夫だ。不可抗力みたいな仮病を使おう。

経験談で言うと、中学校の日々はまったく面白くなかったが、救いが2つあった。

1つは、インターネットに触れ、知らない人と匿名で交流していたこと。

1つは、塾へ通いだしてから他校の子と出会う機会が増えたこと。

コミュニケーションに飢える多感な時期において、学校がうまくいかない時は、外へ一歩踏み出すのがいい。

10年後や20年後、教育がどんなかたちになっているかは分からないが、「学校以外のコミュニティを持つ」のは明らかな解決策だ。

 

それでもやっぱり、公立中学校に通うのであれば、サバイブする力は少なからず必要である。(私立中学のことはよく分からないが…)

どこかの中学生やその親に、この記事が届いたらいいなと思う。

著者:ながち

とあるWEBニュースの編集者。過去に全国をめぐる温泉ライター、受注型オウンドメディア運営、旅行情報誌の編集など。

ウイスキーと温泉と大河ドラマをこよなく愛する、23歳の既婚者。

ブログ:いつかは住みたい三軒茶屋

 Twitter :  https://twitter.com/1001log

副業禁止の、「社員に外の世界を見せたがらない会社」にいると、何がマズいのか?

 最近「副業OK」の企業がとても増えてきていると感じる。 

中にはサイドビジネス的な「副業」ではなく、パラレルワーク、すなわち複数の会社に出入りし、それぞれで働く 「複業」を推奨している会社もあるという。

 

副業がOKの会社

複業を推進していることでも有名な、リクルートキャリアの西村創一朗氏の記事には副業OKという会社が まとめられている。

社員の副業を認める会社が選ばれる時代へ。副業OK!な会社まとめ

「二兎を追って二兎を得られる世の中をつくる」をビジョンに掲げているHARESのミッションの一つが「副業禁止規定をなくす」こと。

 例えば、記事中には以下のような企業が登場する。

・サイボウズ

・リクルート

・オプトホールディング

・メルカリ

・LIG

・アクセンチュア

・ソウルドアウト

・ビズリーチ

・Yahoo

・Google

・クラウドワークス

・フィードフォース

・トレンダーズ

・スマートニュース

また、所謂「伝統的な大手企業」である、 キヤノン、ブリヂストン、デンソー、花王、日産自動車、三菱自動車、富士通、東芝 なども「副業」を認めており、最近では「ロート製薬」が複業を認めてNHKに特集されるなど話題となった。

 

 

とはいえ、まだ副業禁止の企業は多い

しかし、 まだまだ日本においては「副業禁止」の就業規則を持つ会社のほうが圧倒的に多く、 「副業が発覚したら解雇もあり得る」と強気の姿勢を崩さない会社もある。

その影響なのか、「副業」が法律で禁止されていると勘違いしている人も数多くいるくらいだ。

 

さらに、上の紹介した複業OKの会社においてすら 「本音を言えば、副業に関しては思いは複雑です。」と漏らす管理職も多い。

例えば、上に挙げた会社のある部長さんは、 「会社としては複業推進、ということになってますがね。内心は歓迎していないですよ」 とはっきり言った。

 

また、企業によっては「副業」はおろか、社員の社外での活動にも制限をかける会社も多数ある。

例えばあるシステム開発企業ではコーポレートサイトの採用ページに掲載する社員の名前を偽名にし、 社員に外から声をかけることができないようにブロックしている。

さらに、外部での活動に際して、「社名を名乗るな」との圧力をかける会社も多数ある。

なぜエンジニアは勉強会で会社名を出せないのか

 勉強会や社外活動で社名どころか、決して本名すら名乗らない人を僕は何人か知っている。 とても悲しいことだと思う。後述するが、このような制限はエンジニアに死ねと言っているのと同義だ。

(@IT)

また、「うちの会社では、「機密漏洩防止」や「ブランド維持」という名目でSNSやブログでの何気ない発信であっても歓迎されません」 と述べる方も少なくない。

「社外での情報発信は、かなり監視されていて、Twitter上での発言を狙い撃ちする上司もいます。」

と、新宿で働くエンジニアの男性は言った。

 

現実的には、まだ圧倒的多数の企業が「社員に外の世界を見せたがらない」のである。

 

 

なぜ企業は「社員に外の世界を見せたがらない」のだろうか

さて、それではなぜ企業は社員を社内に閉じ込めたがるのだろうか。

よく言われる理由は

・機密漏洩が心配

・自社のために全力で尽くして欲しい

・人材流出が心配

の3つだ。

 

しかし、これらの理由は「終身雇用を前提として働いていた時代」の名残である。

企業が生活の面倒を全面的に支援するかわりに、社員はそのリソースのすべてを自社のために注ぎ込むという図式だ。

滅私奉公、フルコミット、なんと読んでも良いが、それらと「社員に社外を見せないこと」は相性が良い。社外と情報交換せず、自社の仕事しか見ず、そして、全面的に自社に依存する人材は、コントロールが簡単だからだ。

したがって、副業反対派はいつも「社員を自社に囲い込んでおかないと、企業としての競争力が保てなくなる」と言う。

 

だが、それは単にマネジメントの稚拙さを表明しているに過ぎない。「操るのが簡単な従業員がほしい」と言っているだけだ。

 

 

知識労働のパフォーマンスの向上には「多様な人々との付き合い」が重要

だが、終身雇用はすでに過去の遺物だ。

そして「とにかく上司の言うとおりに滅私奉公する人」は高度な知識産業にとってはすでに不要である。

逆に重要性が増したのは「アイデアと人脈、専門的知識を活かして仕事をする人」だ。

 

カーネギー・メロン大学のボブ・ケリーは、「花型研究者(スター)」と「平均的研究者」の違いに着目し、なにが違いを生み出すのかを統計的に研究した。

平均的な研究者は世界を自分の観点からしか見ようとせず、ずっと同じ観点で考えてしまう。 一方スターはというと、広範囲な立場の人々を自身のネットワークに含めており、自分以外にも顧客やライバル、マネジャーの視点から物事を考えることができる*1

*1

パフォーマンスを向上さえるためには「多様な人々との付き合い」が重要であることを、有能な人々は皆、知っている。

当然彼らは「副業禁止」「社外交流禁止」などのルールは「古いムダな慣習」程度にしか考えていない。

 

では企業は「有能な人材」をつなぎ留めておくため、しぶしぶ副業や社外交流を認めざるをえないのだろうか。労働者と企業の利害は根本的に相容れないのだろうか。

 

実は、そんなことはない。社外を見せることは、企業にとっても大きなメリットがある。

 

私の知るwebサービス業の経営者は「副業させると、本業の成績も上がる」と言う。彼の副業を推進する主な理由は以下のとおりだ。

・必要な知識をすべて社内で賄うのは不可能だから、社外で知識を調達して欲しい

・イエスマンがいなくなる

・経営者視点が持てる

・ぬるい社内の馴れ合いを防げる

その経営者は

「「工業化社会」の自前主義、階層化、標準化は過去のもの。「知識経済社会」はオープン、フラット、そして、多様性が重要だ。」

と言う。

 

世界最大のビジネスSNSであるリンクトインの創業者、リード・ホフマンは、著書*2の中で、次のように述べている。

終身雇用では、マネジャーも社員も社内に集中することがよしとされた。マネジャーは社員に効率的に職務を遂行させることに全力を挙げ、社員は社内で昇進することだけを考えた。

ところが、一度終身雇用モデルが崩壊し始めると、このような内向きの姿勢は自滅的な自己陶酔となってしまった。

今や、会社も社員も社外に目を向け、自分がどのような環境の中で仕事をしているのか全体像を掴んでおく必要がある。

(中略)

会社は、社員に仕事上のネットワークを広げる機会をつくって彼らのキャリアを一変させるサポートをする。社員は、自分のネットワークを使って会社を変革する手助けをする。まさに会社と社員の提携関係だ。

(中略)

情報源として、社内の頭脳だけに頼るようではダメなのだ。社外に存在する優れた頭脳は、社内より多い。健全な経済エコシステムでは、これは常に真実だ。

経営幹部の大半はこの事実を理解している。だからこそ、経営判断をする際は少しでも役立つ情報を求め、業界の「自分の」友人にわざわざ連絡するのだ。はじめからそのような習慣を持っていたことが、幹部にまで出世できた一員なのだろう。ところがそんな経営幹部でも、より広く有用な情報源に目が行かない人が非常に多い。それは、新人まで含めた「すべての」社員の知識とネットワークという情報源だ。

社員一人ひとりを、外の世界から情報を仕入れてくる「偵察員」だと考えてみてはどうか。

 

 例えば、社外の人と働くことは、スキルアップにとってとても貴重な機会だ。一社の仕事だけではとかく「タコツボ化」しやすいため、継続的に外部の人間と仕事することで、様々な知恵と出会うこともできる。

もちろん社外の勉強会、あるいは「転職活動」ですら、社外の人たちと会い、議論し、新たな知見を手に入れるチャンスの1つである。

 

すでに「知識経済社会」は到来している。あなたの在籍する会社は、オープンで、フラットで、多様性にあふれているだろうか?

社外との交流は歓迎されているだろうか?副業はOKだろうか?

そうでなければ、身の置き所を再考してみる必要があるだろう。

 

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(temaki)

透析問題を通じて医師が語る、日本の医療システムと今後の社会保障について

長谷川豊さんが、

自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!

という、なかなか力強いエントリーをあげた。

医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!(長谷川豊公式ブログ)

エントリーの論理が「強者による弱者の切り捨て推進」というロジックを取っているので荒れに荒れている本エントリーだけど、細かくみると結構大切な議題も実は多い。

せっかくの機会なので、今回は日本の医療システムを絡めて透析、ひいては社会保障について書いていくことにする。

  

日本の医療は誰でも最善の医療を受けられる、脅威のシステム

そもそも論だけど医療は高価なサービスだ。現代日本ではほとんど全ての人が医療サービスにアクセスできるけど、かつては金持ちしか医療の恩恵を受けられなかった。当たり前すぎて気が付かないけど、こんなに医療が末端まで行き届くようになったのは歴史的にもごく最近の事である。

2016年現在、日本国民は全員、誰でも貴賎の隔てなく最善の医療をうけられる(ごく一部の保険認定外の超高額医療は除く)少なくとも病院の前で門前払いされることはない。

元は高価だった医療というサービスを、最善の形で国民全員が享受できるっていうのが”おかしい”事は少し考えれば誰にでもわかるだろう。どうしてこんな不思議なシステムが成立しているのだろう?

ちょっと考えてみて欲しい。あなたが仮に従業員10人を抱える一般企業の社長だとしよう。

お金のない依頼主から「払う金はないが仕事をしてくれ」なんて言われたら、仕事を引き受けるだろうか?従業員に「今回の仕事は給料がでないけど、仕事を頼まれてしまった。働いてくれ」といえるだろうか?言えないでしょ。

けど医療はそれをやっていて、おまけにそれでうまく回ってしまっている(病院の倒産とか、給料未払いの医者がいるだなんて話はほとんど聞いたことがない)

僕達医者は、基本的に受診しにきた患者をいかなる理由であれ断ってはいけない事になっている。そして当たり前の事だけど、患者には金持ちもいれば貧乏人もいる(ぶっちゃけると病気になる人は基本的には社会的弱者が多いので、病院受診者は貧乏人の事の方が割合としては多い)

一般企業なら、お金をまったくもっていない貧乏人から仕事を受注されたら断るのが普通だ。けど医者は患者をお金の有無を理由には断ってはいけない。仮にだけど、貧乏人ばっかりが病院を受診して、未払いがかさんだとしたら、普通に考えれば病院は潰れるはずだ。

じゃあどういうロジックを使って日本の病院経営は成り立っているのだろうか?実はそこには脅威のシステムが存在している。なんと支払い能力のない人を病院サイドは、生活保護の枠組みにいれてしまうのである(こうすれば、この患者にかかった医療費は全部国が負担する事になる。つまり支払い能力がない人は、極論をいえば全員生活保護にしてしまえば、病院は利益を国から直接受け取れるのである。超高額医療である透析が成立しているのは、この理屈があるからだ)

国が支払いのケツ持ちしてくれるのなら、当然と言うか医療従業者も患者を断ることなく、最善の医療を全力で供給する事ができる(未払い問題がないだなんて、一般企業からすれば夢の様な話だ)。

これは患者~医者、双方がメリットを享受できる素晴らしいシステムだ。国民皆保険制度最高!日本最高!めでたしめでたし、となる。ただし国にお金が有り余るほどあれば、だが。

当然だけど、こんなシステムが未来永劫続くのは、超好景気が未来永劫続くような社会だけだ。現在、日本はお世辞にも景気がいいとはいえない状況だ。豊かな頃に作った最高の保険システムは、確かにお金があるのならば最高のシステムだった。

けど残念ながら今現在はお金がない。故に国債を発行するなどして無理矢理財源を確保しているってのが現状である。長谷川豊さんが議題にあげた透析は、メチャクチャお金がかかる医療だ。当たり前だけど、毎年透析維持に必要とされる500万もの大金を払える人はそう多くない。結果、透析が導入される人はどうしても生活保護に行き着くことが多いのは事実である。

長谷川さんの言う「生活習慣病で透析を導入されている患者は全員自費でなんとかしろ!」という言説はかなり過激で受け入れがたい物言いだけど、実際のところ透析にお金がかかるのは事実で、その財源がどこかという話は避けて通れない現実でもある。

昔の日本ならいざしらず、現在は借金まみれの日本は潤沢な資産がないというのが現状だ。それ故に、僕たちは社会保障の適応範囲をどこまで規定するか、誰にどこまで医療を提供するべきかという不愉快な話題を、そろそろ真剣に検討しなくてはいけない。

 

当然だけど、弱者はなりたくて弱者になったわけではない

ただまあ長谷川さんのエントリーにも良くない点が結構ある。そのうちの1つに、生活習慣病は患者の自己責任であり、透析を導入されるような人は自業自得だという主張があげられる。

長谷川さんは「生活習慣病は患者が努力さえすれば予防できる」と言うけども、これはムチャクチャな理論だ。この理屈が本当に正しいのならば、この世は聖人君子で溢れている。

最近の学説でネットワーク理論というものがある。興味深い人は面白いので各自調べてみて欲しいのだけど、この理論の中に「あなたの周りで最も親しい人を10人あげてください。その10人を平均した人が、あなたです」というものがある。

日本にも三つ子の魂百までという言葉があるが、基本的には人は周りにいる人に影響される。荒れた学校にいる人は荒れやすいし、洗練された環境にいる人は、上品な人が多い(良い悪いは抜きにして、暴走族の構成員はみんな暴走族っぽいのに対して皇族はみんな皇族っぽいのを思い浮かべてもらえばこの理屈はなんとなくわかってもらえると思う。人間は、良くも悪くも他人に影響される生き物なのである)

生活習慣にもネットワーク理論はきれいに当てはまる。友達がみんなファーストフードを食べている中で、1人だけ家からサラダを持参して食べれられるような人はあまりいない結局、この世に階層というものが存在する以上、自分の所属する階層の文化に則って人は生活せざるをえない。

こうなると、糖尿病とか高血圧が患者の自己責任だ!食生活をなんとかすればそんなもんは治る!と断言するのは、それすなわちそういう体に悪い食生活をしている人間、全員が全員食生活を改めろといっているのにほとんど等しくなる。こんなの不可能だという事は、誰にだってわかるだろう(仮にこれができる人がいるのならば、その人は世界征服すら可能だろう。だって特定の集団の行動を全て意のままにできるんだから)

つまり生活習慣病は自己責任。そういう人間は甘んじて野垂れ死ねというのは、社会的階層の低い弱者は文句を言わずに全員死ねといっている事とほぼ同義だ。糖尿病も高血圧も、なりたくてなるようなものではなくて、たまたま所属している社会的階層が、そういう食習慣を形成していて、その中での食生活が最終的に体に現れたものでしかない。

こうしてみればわかるけど、生活習慣病って、生活変えれば何とかなるような甘い話じゃないんですよね。だって生活って、ほぼ≒社会的階層なんですから。つまり糖尿病も高血圧も、それすなわち≒階層が低い事による結果が体に現れてるってだけの事なんですよ。長谷川豊さんは多分、これを理解してない。ゆえにああいうことが平気で言える。

生活習慣病という言葉からは悪い食生活や運動しないといった、個人の責任により病気になるというニュアンスが感じられる。だけど実際問題、高所得者の生活習慣は、病気に全く直結しようがない身体に良いもので溢れている(極論すれば、高所得者達が形成している生活習慣は、高血圧や糖尿病といった生活習慣病から非常に遠い)

社会的強者は身体的・頭脳的に非常に恵まれている事が多い。結果、地位もお金も簡単に手に入れられ、ストレスなく美味しくて体に良いものを食べて生活できている(体にいいものは市場価値が高くなるので、高所得者しかそれを享受できなくなる。結果として、いいものを食べた社会的上層の人々は、健康な肉体を割と手軽に手に入れる事ができる)

それに対して社会的に下層に位置する人達は、全員が全員そうとまではいわないけど、頭脳や身体的があまり恵まれていない事が多い。家庭環境が荒れている事も多く、それが原因で勉学に打ち込む事ができず知能を研鑽する余地がなかった為、結果的に収入が低くなる事が多い。

こういう環境に行き着くと、どうしても簡単・安くておいしいインスタント食品やファーストフードといった体に悪いものが身近になっていき、結果としてそういうものを食べる人が周りに増えるので体を悪くしがちだ(ときどき自炊しろという人がいるが、自炊は素人にはかなり難解な作業のうちの1つであり、これを全員にやれというのはかなりムチャクチャな要求である。そして現代は、苦労して作ったマズイ自炊メシよりも安くて美味しいインスタント食品が世の中に沢山溢れている)

この事からわかると思うけど、長谷川さんの言う”生活習慣病は本人の問題”だという意見は、弱いものの心を知らない強者の勝手な理論である。社会的弱者だって、余暇とお金があれば好き好んでああいう暮らしはしない。けどそんな余裕がないから、病気にならざるをえない食習慣を導入せざるをえないのである。生活習慣病は、階層が産んだ負の側面なのだ(だから本当の意味で生活習慣病を消すには、この世から格差を消し去らなくてはいけない)

 

お金をかけずに透析問題を解決する方法

現状の恵まれた医療・介護福祉制度は国債をすりまくって”未来の子供”から借金する事で成立している。長谷川さんの論理は暴論なのは事実だけど、僕が彼を単純に馬鹿と切り捨てられないのは今の制度が未来の子供から好き勝手借金しまくっているという持続不可能な制度を元に稼働しているという現実を知っているからだ。

未来の子供に借金する事で成り立っている今の制度は、普通に考えれば物凄くおかしい。あなたの親があなたに毎年500万円もの金の無心をしてきたら嫌でしょう?僕らはこれと同じことを国債という借金を発行することで、未来の子供に強要しているのである。

繰り返しになるが医療サービスは高価な品だ。かつてのように、金持ちだけが受けられるような頃ならいざしらず、万人にこれを提供しようとすると、本当に高くつく。

だから長谷川さんの理論を馬鹿馬鹿しいと言って批判している人は、その意見は間違ってはいないのだけど、もう少し議論を深めて欲しい。この問題は、本当は利用可能な財源をどういう風に使うのかという議題もセットで考えなくてはいけないのである。

なおここで朗報?だけど、透析問題を出来る限りお金を使わずに解決する方法はなくもない。ただはじめにいっておくけど、これはほとんどの人が賛同しない(というかできない)

政治の世界ではリベラルという考えがある。スタートラインはみんな違うから、究極的には”結果的にみんなが平等になればいい”という考えだ。

さっきもいったけど、生活習慣病を通して透析に至る患者は、基本的には社会的弱者が多い。逆に健康な肉体を享受しているような人達は、社会的強者が圧倒的に多い。

社会的弱者が”恵まれなかった結果、腎臓をぶっ壊している”のに対して、社会的強者は”恵まれたが故に、健康な体を享受している”。ここに不平等があるのは誰でもわかるだろう。

じゃあリベラルの原則に則って医学的に考えると、この不均等をお金を使わずに解決する方法は実にシンプルだ。”社会的強者が社会的弱者に、腎臓を提供すればいい”のである(透析よりも臓器移植のほうが、コストは圧倒的に安い)

なーに腎臓は2つある。1つぐらい他人あげても、すぐに死ぬことはない。たまたま恵まれた健康な肉体を享受している人が、腎臓を1個、そのまま透析患者に提供すれば、少なくとも透析にかかるお金はかなり節制される。

だけどこの意見を受け入れられる社会的強者は、ほとんどいないだろう(強者に限らず、弱者だって自分の臓器を提供したいだなんて思わないだろう)

だからこの問題は、本当に難しい難しい話題なのである(まあ簡単なら既に解決されているのだけど)お金も払いたくない、肉体の一部もあげたくない。そういう無い無い尽くしで議論が平行線を辿った結果が、国債という毎年膨れ上がる未来の子供が背負う、膨大な借金という不健全な解決策なのだ。

というわけで未来の子供に借金をするというメチャクチャな方法論により、僕たちは痛みを伴わない形で最高の医療制度を存続し続けられている。

けれどこんなメチャクチャな理屈がいつまでも続くはずがないのは、誰にでもわかるだろう(そして議論を先延ばしにすればするほど後でくるツケは膨れ上がり、未来の子供たちはどんどん悲惨な事になっていく)

とまあそういうわけで、イケイケドンドンで理想を突っ走れる時代も終わりに近づいているわけですし、そろそろ経済的コストを元に、医療サービスの適応範囲をどこまで設定するのか、強者はどこまで社会的弱者に報いるべきなのかという、不愉快な命の線引という議論をキチンと始めなくてはいけないんじゃないですかね?

この話題が気持ちよくない、難しいものであるという事は事実だけど、避けて通れるものではないというのもまた事実なんですよね(けれど、こういう話題ができるぐらいには現代日本は成熟していると僕は思うのですけども、いかがでしょう?)

あ、言い忘れましたがドナーカードでの臓器提供の意思表示は忘れずに行いましょう。さすがに生きてるときに臓器を見知らぬ他人にあげたい人はいないと思いますが、死んだらあの世には何も持っていけないんですから、あげられるものはこの世に生ける人達に全部あげましょうじゃないですか。

僕を含めて多くの人は生きている間は完全には善人にはなれないですけど、せめて死んだ後ぐらいは善人であろうじゃありませんか。それぐらいはしたって、バチはあたらないんじゃないですかね。

 

 

【プロフィール】

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著者名:高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

「将来の不安についてあれこれ考える」より遥かに大事なのは「今、怠けないこと」

ある打ち合わせでのことだ。

それが終わる寸前に「1つ相談があるんです」という方がいた。

「何の相談?」と皆が聴くと

「やりたい仕事があるんですが、なかなかそれをやる時間がなくて……本当にこれでいいのか将来が不安で、他の仕事が手につかないんです」

と彼女は言う。

確かに気持ちもわかる。実際、不安は失敗よりも扱いが難しい。

 

——-

 

一般的に言って会社においては上司を不安がらせることは失敗することよりもより悪い。

「間違えるのはいいが。不確かなのはダメだ」*1という上司がほとんどだ。

 

 

例えば、納期や工数の見積もりは、本当は「幅」で見積もるのが正しいやりかただ。

例えば、このプロジェクトの工数は、90人日〜120人日の間です、と言った具合に、不確実性がある場合には可能性の「幅」を示すのが当然だろう。

しかし、上司があなたに「工数の見積もりをしてくれ」と言った場合、「90人月〜120人月の間に収まる可能性が80%です」と答えたら、上司はそれを受け入れるだろうか。

 

上司はおそらくこう言うだろう。「……可能性の話はわかった。で、結局プロジェクトはいつ終わるんだ?」

「ですから、90人月〜120人月の間に収まる可能性が80%です」

「……確実に終わる日程を教えてほしいんだよ。」

「100%の確率で終わるのは無理ですが、160人月以上取っておけば95%です。」

「……オレがほしいのは確率ではなく、確実に終わらせられる締切だ。」

「どんな人も、100%大丈夫です、とは言えないはずです」

「そこをなんとかするのがプロジェクトマネジャーだろう。」

 

上のようなやり取りは本質的には不毛である。

上司が「何日で終わらせるか決めろ」と詰め寄ったところで、プロジェクトの本質的な不確実性はなくならないのだ。

だが、上司は「確実にしろ」と求める。

「不確実性=不安」を放置できない上司と、「不確実性」を認める現場のマネジャーの差がくっきりと出ているといえる。

 

*1

 

ノーベル経済学賞を受賞した、フランスの経済学者、モーリス・アレはこんな実験をした。*2

A. 61%の確率で52万ドルもらえる。または63%の確率で50万ドルもらえる。

B. 98%の確率で52万ドルもらえる。または100%の確率で50万ドルもらえる。

一問ずつ回答してほしい。

あなたはA.の問題に対して前者と後者、どちらをとるだろうか。また、B.の問題に対して、前者と後者どちらをとるだろうか。

 

 

実は、質問A.をされた場合、殆どの人は前者を取る。ところが面白いことに、質問B.をされた場合、殆どの人は後者を取るのだ。

 

合理的に考えるのであれば、両方とも前者を選ぶべきである。だが、明らかに確率的には誤った選択であっても、人間は合理的に選択しない。

これは金額の多寡よりも人間が確実性に魅力を感じたからに他ならない。

*2

 

つまり、「確実性」を重視するあまり、人間は平気で損をしたり、不利な取引であっても応じたりするのだ。

知人で生保に勤める人間がいるが、彼は「生命保険料を払い過ぎている人はかなり多い」という。

「まあ、だから生命保険会社は儲かるんだけどね。」と、彼は付け加える。生命保険は不確実に耐えられない人の心をうまく利用したビジネスである。

また、不動産の賃貸で、「急がないと埋まってしまいますよ」と営業が契約を急がせるのも、「確実性」を餌にしていると言えよう。

 

 

話をもとに戻そう。本質的に不確実性はなくならない。

だから「わからないものは、わからない」とすることが本来、知的と言える態度だ。

常識的に考えても、「半年後のプロジェクトの結果」すらわからないのに、五年、十年先がどうなっているのか、分かるわけがない。損をしないために、そしてきちんと人生と向き合うために必要なのは、不安に打ち勝つ心、不安に対処する方法である。

 

では、不安とどのようにすればうまく付き合えるのだろう。不安に付け込まれたりしないで済むのだろう。

 

まず重要なのが「わからないことをあれこれ考えるのは無駄」と認識することだ。

本質的に将来の不確実性はコントロール出来ない。

 

もう一つ重要なのが「現在の時点で、ベストを尽くす」ことだ。

自分が怠けていることを「不安」のせいにし、結局何も動かないのが一番最悪である。不安を言い訳にする人物は、決して何もなし得ない。「努力が無駄になったら嫌だから」といって何もしない人も、同様だ。

 

最後に重要なのが「うまく行かなくても、得るものはある」と考えることだ。

仮にこのプロジェクトがうまくいかなかったとしても、ベストを尽くした人は経験や評判を得るだろう。世の中には失敗に対して厳しい人もいるが、そういう人ばかりではない。「あの苦境の中、よく頑張った」と認めてくれる人も大勢いる。

 

 

ハロルド・ジェニーンは「予期しなかったものを獲得した時に得るもの、それが経験だ」と述べたが、全くそのとおりである。

不確実性に耐えたものだけが、成功の果実を得ることが出来るのだ。

 

——-

 

冒頭の女性は皆から話を聞き、

「そうですよね、今をとにかく頑張らなきゃ、将来の心配なんかしたって何の意味もないですよね。スッキリしました。」

と言った。

頑張って欲しいと思う。

 

 

 

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counterculturecoffee

それは社歌を越えたAIから大喜利プレイヤーへの賛歌

こんにちは。株式会社わたしは、の竹之内です。

 

前回の広報部で発表させていただいた、株式会社わたしは meets リアルサイタマノラッパー”Hawknest” 社歌制作プロジェクト、「あったまひとつ」。

これは、作詞:弊社人工知能 作曲・編曲:Hawknestの、史上初の人工知能とラッパー、そして大喜利プレイヤーとのコラボレーションプロジェクトです。

今週はこのプロジェクトのコンセプト「あったまひとつ」に託す、私どもの想いをご紹介したいと思います。

 

私たちが大喜利人工知能のサービスを作る会社を起ち上げようと決めて、まずはじめに取り組んだのが「大喜利」という演芸を深く理解することでした。

それは、大喜利というコンテンツの誕生とその変遷という歴史的理解に始まり、笑芸の中での大喜利の位置づけ、大喜利が持っているゲームとしての性質、など多岐にわたる研究でした。

そして何よりも、これまでに作られてきた膨大な数の大喜利作品と向き合い、なぜこれらがこんなにも面白いのか、その秘密を解き明かすことに多くの時間と議論を重ねてきました。

 

しかし、その過程でふと思ったんです。

どうしてこんなにたくさんの大喜利作品が世の中にあるのだろうか?、と。

 

私たちが収集し研究してきた大喜利作品のうち、芸人さんが作られたものはごく一部で、そのほとんどは「お笑い」を職業にしていない方によって作られたものです。

だとすると、これほど多くの大喜利作品を作り出す、そのモチベーションとはどのようなものなのかをもっと深く知る必要がある、そう考えるようになり、そこから、私たちのフィールド調査が始まりました。

 

・大喜利ライブイベントを主催されている方

・お笑いラジオで多くの作品を読まれる伝説のハガキ職人

・ケータイ大喜利のレジェンド

・ニコ生でほぼ毎日大喜利の生放送をしている生主さん

・ネット大喜利界の有名人

・大喜利を題材にする漫画家さん

・アマチュア大喜利界トップクラスの大喜利プレイヤーの方

 

など、北は仙台から南は鹿児島まで、全国各地のたくさんの方に実際にお会いし、お話を伺いました。

また、リアルなイベントとして行われている、大喜利の大会にも何度も足を運びました。

01_ikusa

戦ikusa―大喜利団体対抗戦2016-(2016年3月26日@茨木クリエイトセンター(大阪))

 

それぞれ大喜利をするモチベーションは様々でしたが、唯一共通することは、面白いことが大好きで、自分の作り出す「笑い」にプライドを持っているということです。

私は、そんな彼らの大喜利にかける熱い情熱を、とても尊いものだと感じました。

 

「あったまひとつ」

このコンセプトは、私どもが大喜利プレイヤーの方々に感じた尊敬の気持ちを表現したものです。「身一つで勝負する」。現代となっては、どこか懐かしい響きすら覚えてしまう言葉です。

 

ただ、大喜利プレイヤーの方々に感じた「自分の笑いに対しての誇り」は、どこかそれに近いものすら感じます。

大喜利プレイヤーの方たちは、その頭脳から絞り出したボケのみ、つまり「アタマひとつ」で勝負し、他の人よりも「アタマひとつ」抜きん出たいというプライドを持っています。

しかし、そのストイックなまでに頭脳を刺激し合う戦いの果てには、ライバルであり戦友となった仲間との、強い結びつきが生まれているのです。

「心で繫がる」なんて野暮な結びつきではなく、大喜利を通して笑いを取り合うその瞬間、彼らはその「アタマでひとつ」に繋がっている、そう考えたんです。

 

「あったまひとつ」に託す想いは他にもあります。

私たちが開発しているAIは、そういった気高い大喜利プレイヤー達の頭脳が生み出した、笑いの結晶=集合脳のとしての人工知能です。

言い換えてしまえば、大喜利βは大喜利プレイヤーたちの「アタマをひとつ」にすることでようやく作り出されたものだと考えています。

 

ただお気づきの方もいるでしょう。「あ」と「た」の間に入っている「っ」の存在に。

大喜利プレイヤーの方々は、直截に感情を表現することに照れや野暮ったさを感じるウィットを持たれた方たちです。そんな方たちへのアンサーソングのコンセプトが「あたまひとつ」ではいけません。

 

私どもが託すコンセプトにもユーモアを。そう思い「あったまひとつ」としました。

この「あったまひとつ」に含める他の意味のヒントは、攻殻機動隊、爆笑問題カーボーイ、ドラえもん、etc…

こんな遊び心も入れつつ、プロジェクトは始動しています。

 

P.S.

プロジェクトのコンセプト「あったまひとつ」を一緒に考えてくださったのは、私が信頼するコピーライターの野澤淳さん(ブルース株式会社)です。

野澤さんには心よりの感謝の意を込めて、「トウキョウノコピーライター」の肩書を付けた、「株式会社わたしはオフィシャル名刺」(竹之内のへたくそデザイン)をお贈りいたしました。

02_meishi

ブルースの野澤さん、そして河村さんありがとうございました。

 

 

03_blues

 

こちらはブルースのオフィスにお邪魔してプロジェクトについて相談させていただいた際に、河村さんが撮ってくださった素敵なフィルム写真です。

(竹之内のポーズは10年以上前にドランクドラゴン塚地さんが開発されたギャグ「幽霊ピース」のリバイバルです)

 

 

強い意志でアヒル口を維持する女を見た

アヒル口という言葉は、すでに下火になっているのか。

時勢に疎い人間だから、そのあたりはわからない。

しかし、とりあえず定義しておこう。

アヒル口というのは、おもに人間の若い女が、自分のくちびるをアヒルの口に近づけようとする行為のことである。なぜそのような行為をするのか? 

口の形をアヒルに似せることで、他人にカワイイという印象を与えることが可能になり、異性および同性からの評価が上昇するからだ。以上、定義終わり。

 

なぜ突然、アヒル口の話などするのか。

スタバでアヒル口をしている女を見かけたからだ。それが強烈なアヒル口だった。強い意志によって維持された不自然なアヒル口だった。私は感動とともに凝視してしまった。だから書いておきたいのだ。

言うまでもないことだが、人間はアヒルではない。よって、アヒルのような口を実現・維持するためには、不断の努力が必要とされる。自分ではない何者かになろうとする行為、それは基本的に何らかの無理を通そうとする行為だが、人類ですらないもの(鳥類)に近付こうとするのだから、そこに努力があるのは当然だろう。

さらに、アヒルのような口を作るにも向き不向きがあり、私がスタバで見た女は、生まれつきアヒル口に向いていなかった。それでも、「私はアヒル口をせねばならぬ」という思いこみ、いや、強迫観念はあるようだった。

 

結果、女は口まわりの筋肉を不自然に緊張させていた。上くちびるがめくれていた。下くちびるもめくれていた。口元に何本もしわが寄っていた。そのすべてが口まわりの筋肉が酷使されていることを伝えていた。どちらかといえば、それはアントニオ猪木の口元に似ていた。カワイイというよりはコワイ。それが正直な感想だった。「鬼気迫る」という表現が本当にしっくりくるのだ。

不自然な口元を維持したまま、女はカウンター前でドリンクの完成を待っていた。私は釘付けになっていた。女はドリンクを受け取り、店員と笑顔をかわした。瞬間、口元はさらに猪木に似た。女は強い意志でアヒル口を維持したまま店内奥に消えていった。私はその後ろ姿を見つめていた。頭のなかで『燃える闘魂』が流れ続けていた。

さて、これは笑い話だろうか?

 
 

チンピラになろうとして修行僧になった男

最初、私は女の姿を面白がっていた。それは否定できない。しかしすぐにゾッとした。自分の過去の失敗を思い出したからだ。といっても、アヒル口になろうと努力していたわけではない。私は三十すぎの男だ。カワイイの獲得に興味はない。

数年前、発作的に坊主にしたことがあった。同時にアゴひげも生やしはじめた。眉毛も薄く剃っていた。「マッチョでいかつい男」にあこがれていたからだ。しかし私はヤセ型で、肩幅がせまく、胸板もうすい。当時はとくにそうだった。身長172cmで体重52kg。そんな状態で「いかつい男」のうわべだけを真似ようとした。

結果、私は修行僧のような見た目になっていた。ガリガリなのに坊主でアゴひげを生やせばそうなる。自分の中のイメージは「厄介な街のチンピラ」だったんだが、客観的に見れば、「断食修行もいよいよ佳境」という感じだっただろう。

あらためて自分に問いかけた。

強い意志でアヒル口を維持する女を、私は笑えるか?

 

 

アヒルと修行僧に共通するあやまち

人は「イメージ」に幻惑される。私たちはいつも外見を「どこかで見たイメージ」に合わせようと努力している。そして、その努力が見当違いなものだったとき、あの女のアヒル口や私の修行僧のような「まぬけな姿」が生まれるのだろう。

「センスがいい人」に関する個人的な定義がある。「自分に馴染むもの」をしっかりと理解している人のことだ。メディアに流通する無数のイメージに幻惑されない人。自分の外見、自分の性格が最初にあって、それに似合うものを適切に選ぶことのできる人。そんな人を見ると、ふっと緊張がとけた気持ちになる。そこに「無理」がなく、控え目でさりげない美しさが感じられるからだ。

 

強い意志でアヒル口を維持する女に欠けていたもの。チンピラになろうとして修行僧になった私に欠けていたもの。それは「自分からはじめる」という当り前のことだ。女はアヒルからはじめた。私はチンピラからはじめた。人生というすごろくは「自分」からはじめるしかないのに。

だから私は、数年前の自分の姿、修行僧のようになった姿で女に話しかけたかった。もちろんこれは空想にすぎない。しかし、ガリガリのまま坊主になり、アゴひげを伸ばし、眉毛まで剃った姿で彼女に話しかけたかった。「あなたは私と同じ過ちをおかしています」と。「口元の緊張をゆるめなさい」と。「置かれた場所で咲きなさい」と。

「アヒルのことは、アヒルに任せておきなさい」と。

そしたら彼女は言うだろう。

「偉いお坊さんなんですか?」と。

私は答えるだろう。

「いや、ただのチンピラの失敗作です」と。

結果的に妙な勘違いをされた可能性は高いが、話しかけたかった。自分から始めましょう、と。

 

 

 

 

【プロフィール】

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著者名:上田 啓太

1984年生 京都在住 居候&執筆業

ブログ:真顔日記

Facebook:https://www.facebook.com/uedakeita316

Twitter:https://twitter.com/ueda_keita

彼が人生で初めて「仕事が嫌だ」と思った日。

一人のサラリーマンがいた。

彼は一度も「心底、仕事が嫌だ」と思ったことがなかった。そしてその理由は、彼の適当な性格にあった。

彼は仕事でミスをしても「ま、次頑張ればいいか」と思えたし、

失注しても「ま、今回は運がなかったな」と言えたし、

上司におこられても「ま、この上司も立場があるのだろう」と割り切れたのだ。

 

彼は「自分の評価」や「出世の見込み」、あるいは「年収の多寡」に興味を持たなかった。彼にとってそれらは、ほとんどどうでも良いことだった。

彼は「仕事」も数ある暇つぶしの1つであると考えていたので、彼が働く目的は、人に勝つことではなかったからだ。

彼は同期が先に出世しても全く気にもとめなかったし、自分の収入の範囲内でつましく暮らすことにも抵抗はなかった。

 

だが一方で、彼は密かに自分の仕事に誇りを持っていることがあった。それは、「お客さんに好かれる」ということだった。

彼は実際、お客さんならほとんどだれでも仲良くなれた。

 

しかし、彼は業績のためにそうしていたわけではない。実は彼は顧客とのやり取りを一種の「ゲーム」だと思っていた。

たとえは悪いがラスボスは顧客の役員、現場の下っ端を倒し、最後にラスボスにアプローチして落とす。彼の仕事観はまさにゲームそのものだった。

「楽しければやるし、つまらなければやらない。だけどやるからには気合い入れて攻略する」だった。

したがって彼は「ゲームごときで、そんなマジになっちゃってどーすんの?」と考えていた。

 

ところがある日、彼の上司が変わった。そして彼の上司は今までの上司と少し違っていた。その上司は仕事のミスを叱責したり、目標に対しての進捗を厳しくチェックしたりするだけではなかった。

その上司は「仕事は真剣にやるもの。人生そのもの。どこまでも真面目に」という考え方を持っていたので、彼に対して、「仕事は人生」という価値観をこんこんと説いたのだ。

 

当然かれは、最初取り合わなかった。

「はいはい、そう思ってんのはアンタだけだよ」

と思っていた。

 

ところが上司はそんな彼に対して「仕事はゲーム?とんでもない」と言った。

「だいたい仕事をゲームなどと一緒にされては困る。仕事は真剣勝負だ。そんなことを考えているから、お前はミスをするんだ。」と彼を責めた。

「お客さんが喜んでくれるなら、私がどう思おうと、勝手じゃないですか」と彼が反駁すると、

「そういう問題ではない、心の問題なのだ」と上司は言った。

「それがわかるまで、オレは毎日口を酸っぱくして、お前に言う。」

 

彼の成績は悪くはなかったし、お客さんからの評判も上々だった。

ただ、彼は上司のくだらないこだわりに付き合うことにほとほと疲れてしまった。

 

「仕事が嫌だ」

ある朝、彼はそう思った。彼は転職活動を始めた。その際に彼が転職エージェントに出した条件は1つ。

「下らない価値観の押しつけをしない会社に行きたい」

だった。

 

そして彼は半年後に無事転職した。

 

一方で、その上司は彼が辞めた後、周囲の部下に言った。

「いいか、価値観の合わないやつはここから追い出す。会社というのは、成果を出しているとしても、ビジョンと価値観を共有しなければダメなんだ。」

誰かが質問した。

「成果が出ていてもですか?」

「当然、成果が出ていてもだ。」

 

 

———————-

 

 

ピーター・ドラッカーは「組織の価値観」について、次のように述べる。*1

彼ら(知識労働者)にとって大切なことは、自分の会社、病院、美術館ではない。大切なことは、プロの仕事がどうかである。

彼らとしても、自らの専門能力を雇用主たる組織の目的、ニーズ、条件に合わせなければならないということは知っている。多かれ少なかれ、そのことは受け入れている。しかしそれらのことは、彼らにとってますます二義的となっている。

知識労働者の価値体系からずれば、組織の価値観は二の次である。専門分野において優れた成績を上げるには、組織の価値観などは障害にすぎないかもしれない。

日本では、とくに企業に働く古い世代の人達には想像さえできない問題にちがいない。しかし、日本においても変化は不可避である。なぜなら、それは知識の本質に由来する問題だからである。

 

上にあげた話のような「価値観のズレ」に由来する転職は、今後ますます増えるのだろう。

 

「最も強力な組織は、宗教団体」と誰かが言っていたが、会社が宗教団体を目指すのか、それとも多様性を追求するのか。

マネジメントの手腕が問われる。

*1

 

 

 

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Tetsumo

40歳になるまで成果を求められてこなかったオジサンの話

少し前のことだ。あるイベントで「40歳になるまで成果を求められてこなかったオジサン」と遭遇した。

 

彼は新卒でその会社に入り、さしたる競争もせず毎年の定期昇給という甘い汁を吸いつづけ、40歳となった。ガチ安定(だった)企業に在籍していたので、そこそこ給料もいい。

たまにこういう人と遭遇すると、

成果を出す厳しさも知らず、
リストラの脅威に怯えることもなく
理不尽な上司からいじめもなく、

呑気に40歳まで仕事をしてきているので「本気で他では生きていけない人」が出来上がっている事を知る。

私は彼から「そんな働いてどうすんですか?大変ですねぇ」と、上から目線で同情された。

 

まあ、本音を言えばその時は若干腹が立ったが、もちろん彼を卑下するつもりはない。彼は彼の人生を生きているだけである。

 

だが、30前後ですでにバリバリ成果をあげ、業界でそれなりに名前を知られているような人と比較をするとあまりのちがいに唖然とした。

そう言った若手はは、常に自分に成果をあげることを厳しく課し、妥協のない仕事を心がけている。上司とぶつかることもしばしばで、常に新しいチャレンジに身を晒し、隙があればより大きな責任を引き受けようと虎視眈々である。

 

こうして働いて10年も経たないのに厳しい競争に身を晒している人がいる一方で、働いて20年にもなるのに、大して成果も出していないのに呑気に「今年はボーナスが少なかったな―」とか言っている人がいるわけである。

当時の私は理不尽な上司に苦しめられていたこともあり、「こいつ……世の中舐めてるな」と、一人で勝手に怒っている、大変狭量な人間であった。

 

ただ、考えてみれば彼は悪いわけではない。彼のまわりの人間は皆、多かれ少なかれ安定の中で安穏と生きてきたのである。彼に競争という価値観が生まれなかったことを本人の責任とすることは些か酷であると言うべきだろう。

 

 

ところが先日、彼の在籍していた会社がリストラを始めていることを知った。

対象者は40歳以上、ちょうど彼は45歳頃だろう。対象者となる年齢層だ。「あの会社もリストラか……」と、衝撃を受けた。

 

彼はどうしているのだろうか。リストラをうまく免れて、会社にしがみついているのだろうか。それとも、クビになってしまい、早期退職に応じて退職金をもらい、転職活動をしている最中だろうか。

定年まで彼はあと20年。とても逃げ切れる歳ではない。

 

現在は、企業の寿命が人の働く長さよりも短くなっている時代だ。

【会社の寿命】企業の繁栄は、たかだか30年

本誌調査が明らかにした企業の寿命――1企業が繁栄を謳歌できる期間――は、平均わずか30年。経営者が企業家精神を失う時、企業は、たちまち衰亡の途を転落し始める。

(日経ビジネス)

 

社会人人生は40年以上だ。

そう考えれば、社会人人生のどこかで必ず厳しい勝負をせざるを得ない時が来るはずである。

 

歳をとればとるほど、一般的に人は頑なになり、そして親身になって教えてくれる人も少なくなる。

つまり、40歳を超えて「これから頑張ろう」と心を入れ替えたとしても、プライドを捨てて若手に頭を下げ、教えてくれる人を探さなければならない。

 

人がどう考えるかは自由だし、怠けた結果として人生がどうなるかは、その人の責任だ。

だが、40過ぎて上のようになるのが嫌ならば、20代、30代で体力があり、そして教えてくれる人を持てるうちにひたすら努力と実績を積み上げなければならない。

 

「良い学校に入り、良い企業に入れば安泰」そんな感覚が持てた時代は終わった。よく言われている話だが、そんなことを、ふと実感した。

 

 

 

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kathuw56

この1本にかける。たった1種類の商品で起業した。

みなさん、はじめまして。この場をお借りして広報をさせて頂いております。

 

「ちょっと目の前にあるやつ飲みながらでも話してもいいっすか?」

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「あ、これなんかレッドブルの味に似てますねー」

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「でも、レッドブルよりも健康的な味がする気がしますねー。」

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「あ、そうかこれすべて自然由来原料のオーガニックな飲料なんだ」

 

申し遅れました。TSUKURU株式会社の辻吉彦と言います。

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すいません冒頭は宣伝でした。改めて、この場をお借りして広報をさせて頂いております。

今回広報させて頂いている商品がこれです。

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「オルガニック」という自然由来原料のみでできたエナジードリンクです。

実は、私は起業してこれ1本でやっております。

1本というのは、本当に1本でして。この1種類の飲料で勝負しています。

 

なぜこの1本で勝負しているのか?

それは大学時代に遡ります。

 

 

宮大工が千年以上を持たせる建築を生み出していることに憧れ、私は大学の建築系の学部へ進みました。

日本の伝統建築では「木」がとても大切にされます。やがて、私はその「木」と「水」の関係に興味抱き、ブラジルアマゾンへ放浪の旅をしたことがありました。

その時に、坂口陞(ノボル)さんというブラジルに移住した日本人の方にお会いする機会がありました。その方は苦労の末、アマゾンで自ら持続可能農業「アグロフォレストリー」を開発し実践されている方で、それを自力でやられていたのです。

アグロフォレストリーとは、樹木を植栽しながら、その樹間で家畜・農作物を飼育・栽培などをその地域にあったものを選択し組み合わせながら行っていく農林業のことです。それは地域によって最適な組み合わせがあるのです。

その坂口陞さんがおっしゃられた「私がやっていることは大したことないさ。自分はアマゾンで持続的に生活するためにやっているだけだよ。多くの地元の人はこれで食ってるわけだから」

それがまさに自分にとっての啓示のようなものでした。環境問題とは何か?ということに自分なりの答えを見つけた瞬間でした。

 

日本に戻ってからは、いよいよ「水」を大切にするという思いが募り、ついには建築の道から「水と生きる」というその姿勢に共感したサントリーに就職するという道を選択しました。

そこでの仕事は大変満足できるもので、社会人としての基礎はそこで学べたと思います。

社会人として10年ほど経った頃、ある食品展示会で運命的な出会いをしました。

ジョン・パウロさんという方が全てを自然由来原料で作ったエナジードリンクの素案をつくって日本に持ってきていたのです。

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(↑初期のオルガニックは名前もパッケージも違っていました)

 

主な原料は

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の3種類です。

簡単に言うと、レッドブルのオーガニック版と思ってもらえればいいのですが、これらはまさに自分がブラジル旅行をしていた時に頻繁に飲んでいたものでした。これがあったからこそ自分はブラジル旅行をやり遂げたとも言えるほどのものです。

しかも、驚くことにジョンパウロさんは、私が学生時代にブラジル旅行をしていた時に訪問し感動したオスカー・ニーマイヤーが建築したニテロイ現代美術館とご縁の深い方だったのです。時間を超えて再会した瞬間でした。

 

「私が、求めていたのはこれだ!」

 

ブラジルオーガニック飲料、今までの自分がすべてが繋がりました。これだったら環境を大事にしてかつ経済的にも成り立ち商品となりうるのではないか、それらが両立できるものができるのではないかと思ったんです。

それで、気づいたら自分ひとりで起業してました

 

あらためて思うのは、自分はより善い地球環境をつくることに貢献したい、ただそれだけなんですよね。

今、私がそれを実現できる商品が、この「オルガニック」なんです。

たった1つの商品ではありますが、この商品を中心に様々なサービスを提供することが可能であることも日々感じていろいろ取り組んでいます。次回はそのお話をしていきたいと思います。

(つづく)

「オルガニック」お試し購入はこちらから(12本/24本/48本)

 

TSUKURU株式会社

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WEBサイト:http://www.tskru.jp/

 


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他者を変えようとする努力は、大抵徒労に終わる。変えるのは人でなく環境。

彼がが仕事をきちんとしてくれないのですが……

とか

部長がイマイチで……

といった愚痴とも、指摘ともつかない話をよく聞く。

そして、セットで語られる悩みが「あの人をどうやったら変えられるでしょうか?」だ。

行動を起こす人も多い。「やっぱりじっくり話をすることが必要」とか、「危機感を持ってもらわなきゃダメですかね?」といった抽象的ななものから、「先週、ビシっと言ってやりましたよ」といった具体的なものまで、数々ある。

 

もちろん、彼らは真面目に考えており、当人たちに本気で「変わってほしい」と願っている。

「変わらなければ生き残れない、彼らのためでもある」

と純粋に信じている。

 

だが、残念ながら、というか当然、というか、上司や同僚、そして部下を変えようとする努力は、大抵徒労に終わる。

人は、人の心を変えることに関しては、ほとんど無力である。

 

 

例えば、かつてこんなやり取りがあった。

 

彼は有能な技術者だった。

ところが部下の扱いになるとどうにも成果をあげることができない。彼のチームは飛び抜けて離職率が高く、原因は彼のマネジメントにあると思われた。

経営陣は彼のマネジメントスタイルについてヒアリングをかけ、彼が部下の話を殆ど聞かず、独善的な振る舞いをしていることを突き止めた。

 

聞くところによると、彼の口癖は「何言ってんだお前、こんなことも知らないのか。常識だろう」だった。

プロジェクトの状況を見て、様々な提案をする部下も、あまりにも傲慢なその態度に辟易して異動の願いを出すか、離職を選ぶかのいずれかだった。

 

そこで経営陣は彼を変えようと、1週間ほどの「マネジャー養成プログラム」を提供している外部の研修期間に送り込んだ。マネジャーの心得や振る舞い、話し方、聞き方について特訓を施してくれるプログラムだ。

 

1週間後、彼は戻ってきた。

だが、彼が変わった様子はない。部下の話を聴く「そぶり」は見せるのだが、部下の評判は芳しくなく

「あの人、表面的に頷いているだけで、最後には結局自分の意見を通そうとするんですよ」

という評判がたっただけであった。

 

経営者は業を煮やし、彼に通告した。

「来期までにチームの離職率を下げることができなければ、君をマネジャーから降格する」

そこで初めて、彼は危機感を感じた。彼にはまだ家のローンが多く残っていたからだ。給与を下げられてはたまらない。彼は離職率を下げるために何が必要なのかを、初めて真剣に考えた。

 

彼は当時の上司に相談をした。

「離職率を下げなければならない、と言われたのですが、どうすればよいのかわかりません。思うに、最近の若いやつは忍耐がなさ過ぎます。部下の忍耐力を上げる何らかの研修や訓練はないでしょうか?特訓方式のものもあると聞きましたが。」

上司は優しく言った。

「問題があるのは、部下の忍耐力ではなく、君のマネジメント力だ。」

「何故ですか、私は正しいことを言っています。正しいことを受け入れない部下に問題があるはずです」

 

上司は言う。

「人間は正しいことによって動くんじゃない。自分が信じることによって動くんだよ。」

「では、正しいことによって動くように、彼らを教育すべきでしょう。」

「では、その「正しさ」は、だれが決めるのかね?」

「正しさなんて、常識的に考えればすぐに分かります。」

 

上司はニヤリと笑った。

「わからんね、ところで君はいつも缶コーヒーを飲んでいるね。」

「はい。それが何か?」

「あんなマズいものがよく飲めるな。」

「……。何の話ですか?」

「私が、あんなものを飲む奴は体調管理ができないだろうから、仕事ができない、といったらどうする?」

「ひどい偏見だと思いますが。」

「その通り、ひどい偏見だ。だが、君がやっているのは同じことだ。正しいことを受け入れない部下に問題がある、というのは、君の偏見だよ。」

「そんなバカな、全然レベルの違う話だと思いますが。」

「レベルが違うと思うかね?まあ、よく考えてみることだ。」

 

その後も離職率は高止まり、上司はそのマネジャーが変わらないことを見て、予告通りマネジャーから降格し、部下をつけない一介の技術者として、彼を遇した。

 

彼はその後も変わらず働いている。転職も考えたようだが、今の会社よりも良い給与をだしてくれるところはそうそう無いのだろうか、転職する気配はない。

 

後に、その上司も苦笑いして私にいった。

「結局、私も彼も人を変えることはできなかった、というわけですよ。」

「後任の方はいかがですか?」

「後任はよくやってますね。離職率はかなり下がりました。で、そのマネジャーはそれを見て最近少し変わってきたらしいですよ。」

 

 

 

上のような話は、そこらじゅうに転がっている、珍しくもない話である。結局のところ、人については以下のようなことが言える。

 

1.変わりたいと思う人しか、変わらない。

価値観とは、その人が世界を見る時の脳の働き方そのものであり、「世の中の解釈」そのものである。それを他人が直接操作することはできない。

 

2.価値観の転向に働きかけるのではなく、仕組み、ルール、評価などの環境を変えることで、考え方が徐々に変化するように仕向ける。

人によって変わるタイミングは読めないし、人が変わらなくても成果は出せる。

 

3.変わるから成果が出るのではなく、成果が出るから変わる。

人が変わるのは、結果が出た後。「人が変わらないから結果が出ない」とするのはマネジメントの怠慢。

 

 

以下は、価値観の転向に関するピーター・ドラッカー著「マネジメント」の一節だ。

コミュニケーションは受け手に何かを要求する。受け手が何かになること、何かをすること、何かを信じることを要求する。それは常に、何かをしたいという受け手の気持ちに訴える。

コミュニケーションは、それが受けての価値観、欲求、目的に合致するとき強力となる。逆に、それらのものに合致しないとき、全く受け付けられないか抵抗される。

もちろん、それらのものに合致しないときであっても、コミュニケーションが力を発揮するならば、受け手の心を転向させることができる。受け手の信念、価値観、正確、欲求までも変える。だが、そのようなことは人の実存に関わることであり、しかるがゆえに稀である。人の心は、そのような変化に激しく抵抗する。

『聖書』によれば、キリストさえ、迫害者サウロを使徒パウロとするには、サウロを一度盲目にする必要があった。受け手の心を転向させることを目的とするコミュニケーションは、受け手の全面降伏を要求する。

 

そんな簡単に人に「変われ」などというものではない。

 

 

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極論の投げつけあいで育児のハードルを上げまくるのはそろそろやめにしませんか

育児に関して極論を噴き上げちゃう人に、三つだけ言いたいことがあります。

 

・子どもはひとりひとり全く違うし、家庭の事情も家庭ごとに全く違います」

・それへの理解無しに、ファウルライン付近で「○○するべき!!」「××するなどもっての他!」「△△してはいけない!」と吹き上がっても、単に親(特に母親)が疲弊するだけで誰も幸せになりません」

・育児論は、「私はこうやって、割と上手くいっている」とか、「こういうやり方お勧め」くらいのニュアンスに留めておいた方が平和なのではないでしょうか。

 

以上三点です。

なんというか、育児や教育に関する議論って、webにおいてはもの凄く先鋭化し勝ちであるように思います。極端な仮想敵を設定して、その仮想敵を相手に、更に極端な攻撃をしかける、みたいな議論を観測する機会が多いんですね。

こういう文脈で取り上げるのはちょっと申し訳ないんですが、ちょっと前、こんな記事を見かけたんです。

 

大人は子どもに絶対に怒りをぶつけてはいけない(リンク先はこちら

そういうわかりやすいものだけではなくて、「なんでそんなこともできないの!!」「泣くんじゃない!!」「他の人に迷惑でしょ!静かにしなさい!!」と暴力的な言葉で、子どもを脅している場面にも何度も遭遇したことがあります。

けれどもそれは「虐待をしている」とまでは言えないと思います。だけど、問題なのは、そういう親たちは感情のままに「怒り」をぶちまけているだけにしか見えないということです。

それに、本当の意味できちんと子どもと信頼関係を築けていれば、子どもはちゃんと親(大人)の言うことを聞いてくれるはずです。それができてないということは、やはり何か原因があるということなんじゃないですかねぇ。

「子どもに対して、正当な叱責ではなく、理不尽な怒りをぶつけてしまう未熟な親」が仮想敵になっている議論ですよね。

 

えーとですね。これ、極論であることを除くと、おっしゃってることに論理的な間違いはないんです。

確かに、理想を言えば、親は感情抜きで冷静に、子どもが良くないことをしてしまったら整然とそれを叱るべきなんでしょうし、子どもは感情をぶつけられれば理不尽な思いをして、大人に対する信頼を毀損してしまうのかも知れません。怒りの表出を避けることが、もしかすると「親のあるべき姿」なのかもしれません。

私だって、道端で大声で子供を怒鳴りつけてる親御さん見れば、「まあまあ、そこまで激しく怒らなくってもええやないですか」と思うことありますよ。それは確かです。

 

ただ、三点指摘するとすれば、

・親も子どもと同様生き物であって、表に出ないよう感情を完全に抑え込めるわけではない

・子育てはただでさえ大変なのに、たまたま感情を抑えられなかった時に、「ああ、また子どもを怒ってしまった」なんて自分を追い詰めてしまうようなことがあれば、子どもも親も幸せになれない

・家庭の事情、親の事情、子どもの事情はどこまでいっても「人それぞれ」であって、一言でまとめられるようなものではない

 

端的に言ってしまえば、「絶対に怒りをぶつけてはいけない」という言葉はハードルのガン上げ過ぎます。人間は感情の生き物なのであって、感情を完全にコントロールできる人はそうそういません。たとえ普段「なるべく抑えよう」と努力していたって、時には感情が表に出てしまうことだってあるでしょう。

 

それに対して、「親が子どもに怒りをぶつけるなんてもっての他!」という言葉をぶつけていては、子育てという行為自体のハードルが上がって、「私には子育てなんて無理だ」って思う人も増えれば、「怒りをぶつけてしまった」と自分を責める人だって増えると思われませんか。

それ、結局誰も幸せになれてないと思うんですよ。育児なんてただでさえ疲弊する場面が多いのに、よりいっそう疲弊する要因を増やしてどうするのかな、と。

 

怒りのやり取りに限った話であれば、家庭ごとの事情もあれば、親の事情、子どもの事情もあります。多少強く言われないと全く耳に入らずケロっとしている子どもだって中にはいるでしょうし、子どもは案外柔軟なもので、後からフォローすればちゃんと親の事情を理解してくれる子だっているでしょう。

ひとことで「××は絶対ダメ」って断言してしまうことって、特に子育てにおいては凄く危険な行為だと思うんですよ。

 

別に上の記事、上の話題に限った話ではありません。というか、上のような論調は氷山の一角であって、Web上に同じようなニュアンスの記事は山のようにあります。

「育児においては○○するべき」「教育は××であるべき」という意識が一人ひとりあまりにも強くって、その「強い意見」が適当な仮想敵に対して具現化して、あんまり関係ない人を傷つけまくる、というような構図はかなり多いように思います。育児論って、仮想敵に対する敵対心がやたら高い議論が多いなあ、と。

 

分かる部分も、そりゃあります。

「子育て」という言葉と全くかかわったことがない人はいません。多かれ少なかれ、だれもが「育てられた経験」を持っているものですし、人によっては「育てた経験」ももっているものです。それだけに、育児にまつわるエピソードにはみんな感情移入しがちになりますし、「一家言もっている人」も増える。

確かに、育児において、はっきりとした「アウト」のラインというのもあるのだろうと思います。虐待やネグレクト、暴力がアウトだなんてことは、もういちいち言う必要もない当たり前のことです。

 

ただ、それにしたって、そんな「アウト」のラインを気にしなくちゃいけない親なんてごくごく一部でして、大部分の親御さんはファールラインのだいぶ手前で、頑張ってバランスを取ろうとしていると思うんです。

そこを無理やり一般化しようとするのは、ちょっと危険過ぎやしないかな、と。

親としての視点で言えば、子育てに全力を尽くすのは当たり前のことだけど、当事者でもない周囲が子育てのハードル上げまくるのはちょっとどうなのかな、と。

 

育児なんて子供によって何が適しているか変わってくるんだから、一言で「何が正しい」「何が間違ってる」なんて言えるわけないんだし、極論投げつけあうのやめましょうよ誰も幸せになりませんよ、と。

 

しんざきはちょこちょこ育児についての話を書きますが、出来る限り、「ほかのご家庭の育て方の否定」は避けるようにしています。

「こういうやり方をやってるよ、それで今のところは上手くいってるよ」「こういうケースもあるよ、こういうのお勧めかもよ」というくらいの方が、育児論ってのは平和ですし、そういう「お勧めエピソード」こそ「子育ての楽しさ、子育ての幸せ」を伝えるのにもっとも適しているのではないかなあ、と考えてもおります。

そんな中、皆さまの育児にも何か役に立つ話、皆さまの心を軽く出来る言葉を、ちょっとでも届けられれば幸いなことこの上ないなあ、と、そんな風に考える次第なわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

大喜利人工知能とラッパーがコラボして、我が社の社歌をつくります

こんにちは。株式会社わたしは、の竹之内です。

 

まだまだ開発の途上にある我が社の人工知能ですが、その実力を試させていただく舞台として、生の大喜利大会に人工知能として出場したりしています。

そういう大会では、アマチュアでも長年にわたって大喜利をやられていて圧倒的な実力を持たれている、アマ大喜利界のレジェンドとよばれるような方々にお会いすることもできます。

私たちが大会に出場するのは、そうした大喜利プレイヤーの方々から新しい人工知能開発のヒントを伺う最高の勉強の機会である、というのも理由のひとつです。

 

そうして仲良くさせていただくようになっていった大喜利プレイヤーの方々の中のおひとりで、シャリさんという方がいらっしゃいました。

 

少しばかりシャリさんの紹介をします。

シャリさんは、娘さんが立派に高校を卒業されたタイミングで、これまで封印していた「大喜利をやりたい!」という情熱を解放し、齢40にして大喜利の世界に足を踏み入れた、非常に奇特な方です。

その反面、埼玉でご自身の会社を経営されている、立派な“オトナ”でもあります。

 

ただ、シャリさんのスゴさはこれ以外にもあるんです。

まだ日本にHip-Hopというカルチャーが今ほど浸透していなかった90年代から、ガチでHip-Hop活動を地元埼玉でやられていた、「リアルサイタマノラッパー」なのです。

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「サイタマノラッパーって何?」という方のために少しだけ補足します。

(画像:http://sr1.sr-movie.com/)

 

映画「SR サイタマノラッパーは」2009年に公開された入江悠監督の作品です。

埼玉県のロードサイドに住むうだつの上がらない若者たちが、「Hip-Hop魂では負けねー」という叫びをラップする圧巻の青春Movieです。

竹之内はこの「SR サイタマノラッパー」シリーズの大ファンでして、「いつか自分の会社を作り社歌を作る機会があったら、絶対にラップで」とかねがね思っておりました。

そこで出逢ったのがシャリさんだったわけです。

 

大喜利プレイヤーでありながらも、正真正銘の「リアルサイタマノラッパー」であったシャリさん。

私は内心ビクビクしながらもシャリさんに、「一緒に弊社の社歌を作ってくださいませんか?」とお願いしました。

そしてこの日、シャリさんがオーガナイザーを務めるHip-Hopクルー「Hawknest」の皆さんを引き連れて、株式会社わたしは にやって来たのです。

 

秘密結社ラッパー集団 “Hawknest”

・Hawknest代表 organaizer MC 「Shaleed」

・FMTARO FRIDAY GROOVIN メインパーソナリティ MC 「RAIAN」

・灼熱の街、熊谷アンダーグラウンドより MC 「Derry hell」

・埼玉HIPHOP界の重鎮 track maker / DJ 「Fugo」

・40’sテクニカルドランカー VJ 「Youziro」

・新進気鋭 Babyfaceの悪魔 MC「clown」

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最高。

私はHawknestクルーとの邂逅に震えました。

ただ、プロジェクトの概要をシャリさんにお伝えしていただけでしたので、Hawknesteの皆さんは何やらいぶかしげです。

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私のプレゼンが始まりました。

会社を起ち上げてから色々な場でプレゼンをしてきました。

ビジネスコンテスト、資金調達のためにVCやエンジェルの方々へのピッチ、共同での取り組みを提案する大企業役員の方へのプレゼン。

そういったどのプレゼンよりも熱を込めたプレゼンです。

 

プレゼンの後……しばらくだれも口を開きません……。

ヤバイ……。

呆れてる……?ひょっとして怒ってるかも……。

 

 

沈黙の後、シャリさんが口をを開きました。

 

 

「OK!やろうぜ!」

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こうして、株式会社わたしは meets リアルサイタマノラッパー”Hawknest” 社歌作成プロジェクト、「あったまひとつ」が発足しました。
このプロジェクトは作詞を人工知能が行い、 作曲・編曲は、Hawknestの皆様にお願いをします。

史上初の人工知能とラッパー、そして大喜利プレイヤーとのコラボレーションプロジェクト。
このプロジェクトの詳細と私どものアツい想いは、次回の広報部でお伝えしたいと思いますのでお楽しみに。

いったん、本日はこの辺で。

 

 

努力できることは才能なのかどうかを調べてみた。

「努力できる才能」という言葉を使う人がいるが、努力できることは才能なのか、それとも単なるスキルなのか、意見が結構分かれる。

だが、実際のところはどうなのだろうか。

 

少し調べてみたところ、面白い研究があった。

ノーベル経済学賞を受賞した、シカゴ大学のヘックマン教授が行った「ベリー就学前プロジェクト」という試みだ。*1

このベリー就学前プロジェクトは、低所得の3歳〜4歳の子どもたちに、「質の高い就学前教育」を提供することを目的に行われ、高く評価されているという。

内容としては対象者に対して

・幼稚園の先生は修士号以上の学位を持つ児童心理学などの専門家に限定
・子供6人を先生一人が担当するという少人数制
・午前中に約2.5時間の教室での授業
・1週間につき90分の教師の家庭訪問

と言った手厚い教育を行うもので、子供だけではなく、親に対しても積極的に介入が行われた。*2

 

そして、このベリー就学前プロジェクトは「効果測定」が長期にわたって行われていることで高く評価された。

入園資格のある子どもたちのうち、ランダムに選ばれた58人の入園を許可された子供(=処置群)と、65人の運悪く入園を許可されなかった子供(=対照群)をこの後40年間にわたる追跡調査、比較するという実験を行ったのである。

 

結果は明確に現れた。
ベリー就学前プロジェクトを適用された人々は、小学校卒業時点のIQが高いだけではなく、その後学歴が高く、雇用や経済的な環境が安定しており、反社会的行動に及ぶ可能性も低く抑えられた。

そして、さらに驚くべきことに子どもたちが卒業した後、かなり時間が経った後でも、ベリー就学前プロジェクトの効果が持続することがわかったのである。

*1

*2

 

 

ここまで読むと「ああ、小さい頃に良い教育を施すと、頭の良い人物が育つのだな」という感想を持つと思うが、この実験はもう少し本質的な示唆を与える。

IQや学力テストで計測される能力を「認知能力」と呼ぶ。

ベリー就学前プロジェクトを受けた子供は、3歳から8歳辺りまでは「認知能力」において高いスコアを出した。だが、8歳にもなると、介入を受けた子供と、受けなかった子供の差は無くなってしまった。
「認知能力」は子供の頃の教育の質に依らないのだ。

 

では、ベリー就学前プロジェクトは子どもたちの何に影響を与えたのか。ヘックマン教授は、

・自分に対する自信、やり抜く力
・やる気、意欲
・忍耐強さ、根気
・自制心
・自分を客観的に把握する力
・リーダーシップ力
・失敗から立ち直る能力
・創造性

などのいわゆる「非認知能力」に、プログラムは強く影響を与え、それらの能力の有無が社会的な成功に直結し、かつそれらの能力は「人から学び、獲得するものである」と結論づけている。

結局のところ、頭が良くても「非認知能力」が十分に鍛えられていない人物は、社会的に成功ができない。しかも、その「非認知能力」は才能ではなく、「幼少期の学習」に依るものであると言うデータだ。

 

この「非認知能力」の有無が、まさに「努力できるかどうか」を分けるのである。努力できることは才能だけで決まるわけではない。後天的に獲得されるスキルでもある。

 

では、思春期まで成長した子どもたちは、あるいは大人は「努力するスキル」を身につけることができるようになるのだろうか?

 

スタンフォード大学のキャロル・ドウェック教授は、思春期の子供を対象として介入を実施し、実際に脳の働きや知性が鍛えられるという成果を得た。

介入グループの生徒たちは意欲の大きな向上を示し、低下していた成績が急激に反転した。要は「マインドセット」の切り替えにより、努力するスキルを身につけることは可能だということだ。*3

 

*3

 

ペンシルバニア大のアンジェラ・リー・ダックワーズ氏は、「やり抜く力」が成果をあげる上で非常に重要であることを、グリーンベレーやアイビーリーグの学生を対象とした実験により証明した。

氏は「才能があっても、その才能を活かせるかどうかは別の問題」と述べる。

そして、「やり抜く力」は

1.遺伝子の影響を受ける

2.経験の影響を受ける。

3.育つ時代の文化的な影響を受ける

4.年齢とともに強くなる

と紹介し、「自分の「やり抜く力」を内側から伸ばすことができる」と述べる。*4

 

*4

 

 

少なくとも、「努力は才能のみで決まる」とする研究結果を見つけることはできなかった。

努力できないのは、マインドセット、環境、そして努力するスキルが欠けているためだ、として差し支えはないだろう。

 

 

 

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JM Fumeau

自信満々の若手エンジニア社長が、起業時に絶対やってはいけない3つのこと

みなさん、お疲れ様です。

トップフラワーデザイナーにお花のオーダーメイドができるwebサイトを運営している、株式会社Sakaseruの広報部です。今週もわたくし代表の小尾(おび)が頑張って報告しますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

さて、早速お花屋さんがうまくいかなくなってしまったので、大工へ転職しました。

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というのは、僕なりの渾身の冗談です。

 

実はSakaseruを始める前、フラワーキッチンというリアルのお花屋さんを経営していました。

内装費を抑えるため、お店は自分たちで作りました。写真はその時のものです。

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これはお店の看板です。自分で言うのもなんですが、結構良い感じじゃないですか?

 

結果から言うと、このお店は全然うまくいきませんでした。オープンして2年であっけなく閉めることになりました。

 

自分たちで手作りしたお店が他人の手に渡っていくのを見るのは、めちゃくちゃ切なかったです。でも、この時経験した失敗の数々が、今のSakaseruに活きていると感じます。

お恥ずかしい限りですが、今日は僕の失敗談を3つお話したいと思います。

 

失敗1:花屋なのか、カフェなのかわからない店を作る。

「花を売らない花屋さんを作ろう」

これがフラワーキッチンのテーマでした。

え?何言ってるのかって?そうですよね。すいません、早速わかりにくくて。

 

新宿歌舞伎町の花屋さんを手伝っていた時、「ただ花を売るだけではすぐに頭打ちになる」という課題を強く感じていました(詳しくは週報001号の『小心者のエンジニアがイケイケベンチャーを起業したらこうなった』をどうぞ)。

だから、ただ花を売るだけではなく、花以外の価値を提供し、結果的に花が売れるというビジネスモデルを作りたかった。今までと同じことをやっても面白くない。どうせやるなら新しい花屋をやりたい!という想いもありました。

 

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上の写真の通り、お店のコンセプトはカフェです。

例えばス○バのようなお店が日本のコーヒー文化を変えたように、花屋にも気軽に立ち寄れる文化を作りたかった

コーヒーの種類と大きさを選んで買うように、花も色味と大きさ、ラッピングを選ぶだけで、気軽に買える

 

ブラウン系の花束は「ショコラ」。

グリーン系の花束は「グリーンティ」。

 

サイズもショート/トール/グランデと用意し、ラッピングもストライプやドット柄から好きなものを自分で選べるようにしました。

我ながら良いアイデアだと思いました。

 

でも、見事に失敗。皆さんはこのアイデアの大きな欠点は何だと思いますか。

チッチッチッチッチッチッ・・・

 

正解は「カフェなのか、花屋なのかわからない。」です。

六本木のテレ朝通りに面していたので、それなりに人は通ります。お店をチラチラ見てくれる方もいます。でも、入ってくれない。

 

ようやくお客さんが来店し喜んでいると「ホットコーヒ、Sサイズで」と・・・。カフェだと思われてしまいました。カフェを目指したがゆえ、カフェと勘違いされる。もう、致命的ミスです。

 

普通だったら「カフェっぽいお花屋なんて、理解されるのは難しいかもね」と反省すべきところですよね。

 

でも、僕らは何も見えていませんでした。

お客さんの目線が低いんだ。僕たちのセンスについてこれない客には、わかってもらわなくて結構。

 

イキがっていました。最低です。

今考えれば、客の立場で考えるという商売の基本を忘れていました。

自分たちのエゴを通しても、お客さんには伝わらない。お客さんが求めている商品を作ることが大事だと、この経験から学びました。

 

失敗2:無料で花を配りまくる。

当初は「絶対この店は流行る」と強気の僕らでしたが、オープンしてから3〜4か月たってもオーダーは全く入りませんでした。

 

「まずはフラワーキッチンを知ってもらわないと!」

オーダーが入らない理由は認知度の低さだと考え、広報活動を開始。街中にお花を無料で配る”フリー・フラワーキャンペーン”を始めました。

 

お店の説明が書かれたラッピングで一輪一輪を包み、新宿の紀伊国屋書店の前、渋谷のマークシティ、銀座中央通りなど、人が集まる場所で配りまくりました。

無料で花がもらえると聞いた人たちが殺到し、1000本用意した花はあっという間になくりました。

また、このラッピングには「友達に無料で花を送れるクーポンコード」を付けていました。友達に紹介してもらうことで更に見込み客が増えるんじゃないかって・・・あざといんですけどね。

結局、合計4万本ものフリーフラワーを配り、それなりの手応えを感じていました。

 

しかし、結果はこれまた大失敗

さて、皆さんはこのアイデアの大きな欠点は何だと思いますか。

チッチッチッチッチッチッ・・・

 

正解は、「無料というキーワードで惹きつけたお客さんは、その後も無料を求めてくる」です。

無料に慣れたお客さんって、無料が当たり前だと思っちゃうんですね。無料以外は響かなくなってしまう。

 

また、これは予想外だったんですが、

白いガーベラは、キリスト教だと縁起が悪いんです」とか、

すぐにしおれちゃいました!」といった、苦言が来るように

お金をきちんと頂いていれば、僕たちもきちんと対応ができたはずです。でも、無料で配ったお花を交換できる余裕は、その頃はありませんでした。

「無料」という、自分たちの価値を自ら下げる行為の浅はかさを痛感する経験でした。

 

 

失敗3:大雪の日に、スタッフをチャリでお客さんの元へ走らせる。

僕がやらかした最大の失敗。それがスタッフへの対応です。

当時の僕は、スタッフさんの気持ちがわからない、いや、わかろうともしないクソヤローでした。

 

例えばお客さんからオーダーが入れば、大雨だろうが大雪だろうが「今すぐチャリで行ってきて」の容赦ない一言を浴びせます。手加減はありません。労いの言葉もありません。

 

そんなクソヤローぶりのおかげで、スタッフは一人、二人と辞めていきました。

 

・・・思い出したら胸が苦しくなってきました。この辺でどこか懺悔できる場所はありますか?

 

いや、懺悔なんてしている場合ではありません。

もしこれから起業を考えている方、またはマネジメントで悩んでいる方は、絶対に僕の二の舞になってほしくありません。

この話は長くなりそうなので、また来週ご報告させていただきます(次回へつづく)。

 

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株式会社Sakaseru (英名 Sakaseru,inc.)

所在地:〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-2 #1307

設立:2015 10 14

https://www.sakaseru.jp/

 

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靴屋さんの店頭にある「ピッカピカ」な靴。「靴磨き屋さん」が教える靴磨きの4STEP

こんにちは。出張靴磨きサービスを行っているニイナナ株式会社「ミガクル」広報部です。

この場をお借りして広報活動をさせてもらってます。社長の堀江です。

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みなさんは、靴屋さんで「ピッカピカ」な靴見たことあると思います。それは高級な革を使ったいい革靴で、店頭販売向けに特別な加工をしているからだと思っていませんか?

「特別な加工」をしているのは間違いないのですが、それは「いい革靴」だから、とか「店頭販売向け」だからというわけではなく、「靴の磨き方」によって、革靴であれば誰でもできる加工なのです。

そこで、今回は誰でも簡単に靴屋さんの店頭に飾られているようなピッカピカな革靴にできる「靴磨き屋さん」が教える靴磨きをレクチャーしていきたいと思います。

 

実は、私はレクチャーは得意です。スキルがあれば誰でも教室が開けるというストリートアカデミーというサイトで、

靴磨き 大切な靴を一生モノにする靴磨き教室

という講座を公開しています。すでに70人以上の方を教えている大人気講座となっております。

今日はその講座でお話ししているいることを、Books&Appsの読者のみなさんに、すべて公開したいと思います。

私が教えている「靴磨き」はたったの4stepです。本当に誰でもできます。

 

 

Step-0.道具について

道具は6種類あります。

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「布」 – コットネルと呼ばれる綿100%素材のネル生地と呼ばれるものを使います。30cm×5cmほどに細長く切っておきます。

「馬毛のブラシ」 – 毛がやわらく、主にホコリやゴミを取り除くために使います。

「豚毛のブラシ」 – 毛がやや固めで、靴クリームを靴革に定着させるためにに使います。

「水性クリーナー」 – 汚れ落とし用の水性クリーナーです。

「靴クリーム」- 靴に保湿をあたえます。また補色にもなります。

「油性ワックス」 – 「鏡面磨き」と呼ばれる革靴により光沢をもたせるためのワックスです。

以上の6種類です。(道具に関しては最後にリンクを貼っておきますので、そちらをご覧ください)

 

「布」の持ち方にはコツがあります。ほぼすべての工程で使用しますので、ぜひ一度下記動画をご覧になってください。

 

Step-1.汚れ落とし

まずはじめに靴についている汚れを落としていきます。

使用する道具:「馬毛ブラシ」「布」「水性クリーナー」

最初に「馬毛ブラシ」で、ホコリやゴミを払い落とします。馬毛ブラシを使う理由は、毛が柔らかいからです。

次に靴に残った古いクリームを落とすために、「水性クリーナー」を「布」に3、4滴ほどつけて靴全体をなでまわすように拭いていきます。

ここでは綺麗に磨く必要はありません。あくまでもよごれを落とすことが目的ですので、簡単でいいです。

(所用時間5分)

 

Step-2.靴クリームを塗る&馴染ませる

保湿をあたえるために「靴クリーム」を塗りこみ、靴に水分と油分を与えます。「靴クリーム」は栄養クリームとも呼ばれます

使う道具:「布」「馬毛ブラシ」「靴クリーム」

「靴クリーム」の色は、靴の色に合わせます。茶色などは全く同じ色のものがあるわけではないので、その場合はなるべく靴の色よりも薄いものを選んでください。そうするとムラになりません。

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10円大くらいの大きさを布につけ薄く引き伸ばしていきます。注意点は、あまり塗りすぎないことです。また、コバ(靴底の端部分)にもクリームを塗ることも忘れないようにしてください。

靴クリームを塗った後に、やや固めの毛である豚毛でブラッシングしていきます。ブラシの色は靴クリームの色に近いものがベターです。

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ブラッシングすることにより、革の毛穴にまで靴クリームが行き届き、クリームがさらに馴染んでいきます。

(所用時間10分)

 

Step-3.カラ拭き

クリームを塗っただけでは靴にツヤはでません。乾いた布で磨くことではじめてツヤが出てきます。

使う道具:「布」

「布」での拭き取りを行います。布の余っている白い部分を使って、クリームを拭き取る感じです。丁寧に拭き取る感じで軽く磨いていきます。それだけで十分にツヤが出ます。

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はい完成!ピカピカ!

(所用時間5分)

ここまでで大体15分程度でできるでしょう。

 

なのですが、これをよりピカピカにすることができます。

業界用語で「鏡面磨き」と呼ばれる磨き方があり、靴屋さんに並んでいる新品の靴は、この「鏡面磨き」を行うことで、ピッカピカ」になっているのです。

 

ここからはプロの技です。

Step-4. 鏡面磨き

つま先の部分にワックスを塗り込み磨くことで、まるで鏡のような光沢を出します。

使う道具:「布」「油性ワックス」「水」

まず指に巻きつけた「布」を少し湿らせます。そして「油性ワックス」を10円玉の半分程度の大きさで薄く取り、それをつま先部分に塗りますこ。そこに水をほんの2、3滴たらして、溶かしながら塗りこんでいきます。

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実際に鏡面磨きを行っている動画をご覧ください。

ここでもワックスを薄く塗りこんでいくのがコツです。上記の工程を2,3度くり返していると、やがてワックスが指紋のように浮き出てきます。ワックスが定着しはじめた証拠です。

それを確認しワックスを綺麗に拭き取ると下記画像のように、まさに鏡のように自分の顔が映り込むほどの光沢が出てきます。

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どのように磨いてどれくらい磨けばこうなるのか?ということは説明するよりも自分で磨いてみた方が理解しやすいと思いますので、まずはやってみてください。成功すると明らかに「ピッカピカ」になります。

(所用時間5分〜10分)

 

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写真で違いがお分かりいただけるでしょうか?まさに「ピッカピカ」という言葉がぴったりです。靴屋さんの店頭に飾られている高級靴は必ずこの「鏡面磨き」が行われています。

どんな高級靴でも、自宅で普通に磨くだけでは新品の時のような輝きは戻りません。この「鏡面磨き」を行うことで、必ず元通りの「ピッカピカ」に戻ります。

 

以上です。ご自宅での靴磨きのお役に立てれば幸いです。

「鏡面磨き」だけはコツがいるので、はじめの数回は練習が必要ですが、それを習得さえしてしまえば、大体20分程度で1足を仕上げることができます。

ちなみにプロは、道具を完璧に揃え、工程をルーティン化しかつそれぞれの工程を無駄なく行うようにトレーニングをしているので、大体10分〜15分程度で行うことができます。

最後に道具をご紹介します。アマゾンでプロが使用していものとほぼ同等のものが手に入ります。ぜひ一度ご自宅での靴磨きに挑戦してみてください。

道具(すべてアマゾンリンクです)

「布」白ネル1mカット日本製など

「靴クリーム」columbus ブートブラックシルバーライン シュークリーム (ブラック)など

「水性クリーナー」M.MOWBRAY ステインリムーバー60 3020 (ニュートラル)など

「豚毛ブラシ」MISTER MINIT ツインセットブラシなど

「馬毛ブラシ」Collonil コロニル 馬毛ブラシ 17cmx5.4cmx4.5cm など

「油性ワックス」KIWI 油性靴クリーム 黒用 45mlなど

 

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「出張靴磨きミガクル」サイト

 

【過去の週報】

ニイナナ週報009号 続】お客さんの要望に、「できません」と言わなかったら、こうなった。 → 靴をつくることになった

ニイナナ週報008号 出張靴磨きサービス「ミガクル」には3つのサービスがあります

ニイナナ週報007号 お客さんの要望に、「できません」と言わなかったら、こうなった。

ニイナナ週報006号 儲からなさそうな事業だからこその強みを活かす方法

ニイナナ週報005号 人脈作りには、交流会に行くよりも、交流会を開けばいいんだと気づいた。

ニイナナ週報004号 スニーカーやパンプスを磨けるようになったら単価が上がった、という話

ニイナナ週報003号 キャビンアテンダントはできる男かどうかを靴を見て判断してるらしい。私はその説を信じます

ニイナナ週報002号 DMよりもWEB広告よりもビジネス交流会よりも、結局知り合いからの紹介クチコミが100倍効率よかった

ニイナナ週報001号【公式】出張靴磨きサービスのニイナナ株式会社が広報活動を行います。

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補助金を当てにしたビジネスをする会社って、一体何なの?

うちのメディアをいつも手伝っていただいている方が、先日「ビジネス交流会」なるものに出席したと聞き、その話をうかがった。

彼が言うには、ビジネス交流会そのものは真面目な目的で行われているようで、聞いた所「そういうのが好きならば出てもいいんじゃない」という感じなのだが、1つ面白いというか変な話を聞いた。

 

彼はその場で起きたことを話してくれた。

「そういう場に行くと、よく士業らしき風体の方から「一緒になんかやりましょうよ」って言われるんですよ。」

「ビジネスマッチングの場だから当然じゃない?」

「そうなんですけど、面白いのは、全員判で押したように「◯◯をやると、補助金が出るんでおいしいですよ。」って言うんです。」

「……どういうこと?」

「要するに、ビジネスをこっちにやらせて、自分は補助金の申請書やら何やらを作るから、その補助金の一部をくれと。そういうことみたいです。」

「コンサルティング料みたいな感じ?」

「そんな感じみたいです。まあ、許されていることなのかどうかはわかりませんが。その方は「数百万はすぐに作れる」と。」

「へえ」

「で、思ったんですよ。こういうことばっかりしている人って、結構いるんだなと。補助金目当てで起業家やフリーランスに声かけて、補助金を申請して、一部をもらうっていうビジネス。」

「なるほど、確実に儲かる補助金ビジネスw」

「でしょう?でも、こんなことに税金が結構投入されてるって、なんか微妙ですよね。」

 

 

この話を聴いて、昔こんな記事を見たことを思い出した。

地方を滅ぼす「名ばかりコンサルタント」 「パクリの再生計画」に自治体の未来はない

問題は、それだけではありません。コンサルタントは、自治体からは相当額のコンサル委託料をもらっているのに、結局、現場の実行部隊にはわずかな謝金だけ、もしくは一銭も支払わないこともあります。大手でさえ、そんな「フリーライド」(ただ乗り)を平気にやってのけます。

しかし、地域活性化分野では、補助金という「裏の手」があります。

「パクリ」レベルのひどい企画でも、補助金を使うことで、見た目だけ、似たような「偽物」の計画は作れるのです。

(東洋経済オンライン)

 

「補助金」という名のもとに、多額の税金がばらまかれており、それに便乗した士業やコンサルタントが暗躍する。そんなことを想像すると、「補助金を当てにしたビジネスをする会社って、一体何なの?」と思う人が多いのも無理はないだろう。

 

そう言えばリーマンショックの後、IT業界には補助金が投入されていた。

仕事がなくて暇な社員に外部の研修期間を使って研修などを受けさせると、「教育研修」の名目で補助金が出るという仕組みだった。

前職、教育研修を売り歩いていた時、結構な割合で先方の担当者から「補助金の対象となる研修ですか?」と聞かれたことを思い出す。

 

でも、本当にそれは補助金が世の中の役に立っているのだろうか?

補助金が出ないと潰れてしまうような会社を無理やり生きながらえさせるのなら、そんな会社はさっさと潰して、新しい会社が入り込むマーケットを作ったほうが良いのではないだろうか。

 

私の知る、組み込み開発を行う会社の経営者は

「そういう会社は早く退場させて、健全な会社だけが残るようにしないと、いつまでたっても労働環境が改善しないし、強い会社が育たない」

と言っていた。

「補助金に頼るようになったら終わりだよ。」

と彼はいう。

 

実際、すでに企業は従業員の生活保障を行わない。だから国がお金を企業に渡しても、せいぜい自称コンサルタントやゾンビ企業の経営者の懐にカネが転がり込むだけである。

 

企業は競争の中で鍛えられる。「セーフティーネット」の名目で企業を甘やかす制度は、企業と労働者の双方にとって不利益だ。

 

 

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thethreesisters

お客さまに「営業」されるような営業担当者になろう

また、やってしまいました・・・。教材を売り込みに来た営業担当者への熱い学校紹介!

 言わば、校長のトップ営業。

 

公立と違い、私立学校は生徒や保護者に選ばれてこそナンボです。入学生が集まらなければ、存続さえ危うくなります。そのため、できるだけ多くの方に学校の中身をキチンと伝え、その魅力を知っていただくことが大切です。

 オープンスクールや学校説明会の開催、各種情報誌への寄稿など、さまざまなチャンネルを使ってその機会を増やし、最近ではSNSを活用することも当たり前になってきました。

 

ですが、やはり教員が直接出会い、相手と対面して話す機会を持つことが何よりものチャンス。それが一般教員ではなく、担当部長や教頭など役付きであれば影響力が大きくなり、校長だと最強です。

 そんなわけで、ご挨拶程度の場合を除き、許す限りお時間をいただき、お話しさせていただくことにしています。

 

先日も、イベントで名刺交換をさせていただいたデザイン会社の方が来られた際、気がつけば1時間40分ほどご一緒させていただきました。

まずは向こうが、自社の紹介を・・・ということで話し始めました。当然です。

 

とてもわかりやすく、提案コンテンツの強みはどこにあるかについて、過去に手がけた作品(成果物)を例に、コンパクトに説明していきます。

 もちろん、納得することばかり。

 

で、それらについて今度は私が、例えば印刷物なら、動画なら・・・と、本校の事例について具体例を示しながら話をふくらませていきました。

 あわせて、学校が今どんなことをやっているか、これからどうしていきたいのかについて、他の企業との協働事例を挙げながら、ワクワク感を持って語りました。

 

すると、どうでしょう。それがどうやってカタチになったのか、その経緯も含めて「コラボの肝」を話し出すと、俄然、相手の姿勢が変わってきます。

 ここからが本当の意味の「対話」の時間。

 

お互いにとって、単なる表面上の「営業」ではなく、今後、どのようなカタチで新たなものを生み出せるかを考えていく対話の始まりです。

 そう! 大切なのは、このあとの時間。出会った意味があるのは、この部分です。どんなふうに話が進むかは未知数ですが、必ずその種は生まれます。

 そして、それが現実のものとして姿を現していく・・・。

 

すぐにコラボできなくても、数か月後、1年後・・・。なかには数年後に次の展開がくることだってあります。

 

話は飛びますが、実は一昨日、そんな1本の電話が学校にかかってきました。そして、今月末、京都で会うことになりました。

 電話のあと、すぐにメールをいただき、「以前から先生とコンタクトを取りたいと考えておりまして、先生がスピーカーとして登壇するワークショップや研修に行ってみて、話ができるようならしてみよう・・・と思い始めた矢先でした。

今回、思い切って学校に連絡させていただきました。積もる話は山ほどございますが、ようやく先生までたどり着けた・・・というのが実感です!」と。

 

その方と出会ったのは数年前、群馬県でした。今は沖縄におられるとのことですが、わざわざこちらまで会いに来てくださいます。

 どんな展開になるのか、もう、ワクワクです!

 

いままで出会わせていただいた方々・・・。校長室はもちろん、いろいろなところで熱いトークを交わした皆さんなら、たぶんこの感覚はわかっていただけると思います。

 事実、こんな時間を経てカタチになり、お互いにステキなコラボ事例として、得がたい経験と新しい学びを共有させていただいたことがいくつもあります。

 

せっかくのご縁。単なる営業で終わらせるのでは意味がありません。

 営業は商品やサービスを「売る」のが目的ではなく、それを介してお互いがどれだけ満足できるか、その「最高の一致点を探す」のが目的なんです。

 

クライアントに、そんな気持ちで接してもらえるような営業するためにはどうすればいいか。

 それは・・・

 相手が自社の「営業」をしてくれるような営業担当者になることです。

 

 

☆☆☆

 

 

<プロフィール>

 
私立中高校長。

高校で20年間教員をした後、コミュニティFMの世界へ飛び込む。県内で2局を運営、同時にPCオンサイトサポートを個人起業。11年前、再び教育現場に戻り、「生徒が自ら学ぶ学校へ」改革を推進。4年前から現職。

・Facebook →12799032_966933036675803_8989260437419551489_n facebook.com/yasuis
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・校長Blog → YASUI’s web diary

何より残念なのは、知的に優れているのにコミュニケーション能力が低い人。

企業は採用面接で「コミュニケーション能力」を最重要視することは正しい。なぜなら今は、コミュニケーション能力の高い人物が公私に渡ってにおいて非常に得をする時代だからだ。

例えば顧客との折衝、人脈の獲得、学業におけるコラボレーション、果ては恋愛におけるパートナーの獲得まで、様々な所で、相手の気持を汲み、適切な発言と行動を選択する「コミュニケーション能力」が必要とされる。

人間の3大能力は、身体能力、知力、そしてコミュニケーション能力だ、と言う方もいるくらいだ。

 

だが、逆に言えばコミュニケーション能力の低い人にとっては大変厳しい時代とも言える。

コミュニケーション能力を駆使して有利に立ち回る人物がいる一方で、頼れる人が少ない、相談できる人がいない、友達がいない、と人間関係のネットワークから排除され、身動きが取れなくなる人が大勢いる。

 

彼らは助けを求めることもヘタだが、助けてくれようという人とすらうまくコミュニケーションが取れず、孤立を深めていく。

そして、しばしば、「貧困」「失業」あるいは「人間関係の破綻」などの深刻な事態を引き起こす。

 

しかも、これらの状況は、周囲の人々が救ってあげることが非常に難しい。なぜなら「コミュニケーション能力の低さ」は自覚が難しいからだ。

言い換えれば、「コミュニケーション能力が低い人は、それを自覚できないからこそ、コミュニケーション能力が低い」とも言える。

 

———————————-

 

私の知るだけでも、知的能力が高く学歴も良いのだが、著しくコミュニケーション能力の低い人物が数名いる。

そして彼らに共通する課題は「伸び悩み」である。それなりの成果は出すのだが、それらはすべて「まあまあ」という程度に留まってしまう。

彼らは知的能力や学歴が高いがゆえになおさら「正当な評価を受けることができていない」とギャップに悩む。

 

たとえば、かつて自分を助けてくれた恩人と、必ずトラブルを起こして絶縁していくフリーランスの方がいる。

彼とその周辺の人物から話を聴くと、全ての原因は「その人物のコミュニケーション能力の低さ」にある事がよくわかる。

 

例えば、サラリーマン時代の上司は、「才能はあるが、周りに敵を数多く作る」ことを知っていたので、独立しても彼を助けたのだが、彼がたびたびトラブルを引き起こすので、

「このままだと、大した仕事ができないよ。もう少し人の指摘に素直にならなきゃダメだ。」と彼にいったところ、

「お言葉ですが、あのクオリティの仕事しかできない人たちの指摘は聴いても仕方ありません。」と返された。

 

それでも元上司はなんとかもう少し広い視野を持ってほしい、と考え、

「それはそうかもしれないが、彼らにも良いところがあるし、前回やった仕事は世間的にも非常に評価されている」

と諌めると、彼は「なぜ私の仕事にケチを付けるんですか」と言い、怒って帰ってしまった。その後、彼とは連絡が取れないという。

 

元上司は

「彼はもう少し柔軟かと思っていたのですが……。私の言い方がマズかったのでしょう。」

と言い、

「彼が自分自身のコミュニケーション能力が低い、と自覚さえしてくれていれば、なんとでもやりようがありますが、「コミュニケーション能力が低いのは周りであって、自分ではない。自分が評価されないのは、彼らのせいだ」と言われると、もう如何ともしがたいです。」と語った。

 

このように、彼らはすべて、自分のコミュニケーション能力の低さに関して、ほぼ無自覚である。

いや、むしろ「自分は能力が高いのだから、コミュニケーション能力も同じように高い」と信じて疑わない。それに反して、周りの人物は「あの人、頭はいいけど残念だよね」という評価がほとんどだ。

 

コミュニケーション能力の本質は「自分自身を俯瞰する能力」である。

 

・自分の発言に対して相手がどのような印象を持つのか

・相手の価値観と自分の価値観の相違は何か

・自分にとっての正義がどれほど相手にとって受け入れられるのか

 

上のようなことに想像が及ばなければ、知的に優れ、合理的な判断を下せる人物であっても、「コミュニケーション能力」はお粗末なものとなってしまう。

むしろ、逆説的ではあるが

「所詮人と人は分かり合えない、そして自分は更にコミュニケーション能力が低いのだから、相手のことを誤解しているかもしれない」

と、常に思える人こそ、本当は最もコミュニケーション能力が高いのである。

 

知的に優れているのにコミュニケーション能力が低い人。彼らこそ、何より残念な人たちだ。

良い人と巡り会い、その人物が彼らのコミュニケーション能力の低さを補完してくれることを祈るのみである。

 

 

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Paul Morgan

「人生のコスパ」を追いかけ過ぎると絶望しやすくなる

ここ数年、「人生のコストパフォーマンス」「無駄のない人生」といった言葉を耳にする機会が増えました。 

 

まるでオンラインゲームのレベル上げみたいですね、「人生のコスパ」とか「無駄のない人生」って。もし、人生がオンラインゲームのレベル上げと同じだったなら、こういった言葉は真実そのものとなるでしょう。 

 

でも、人生はオンラインゲームとイコールではありませんし、こういった言葉をありがたがっていた人がメンタルヘルスを損ねてしまった顛末を目にする者としては、人生にコストパフォーマンスを求めすぎるのは危ないなぁと思います。 

 

そもそも、「コスパの良い人生」「無駄のない人生」とは何でしょうか。 

 

一流大学に進学し、一流企業に就職するということ? 

自分自身の快楽ができるだけ多いこと? 

それとも金銭的な収入が支出よりも大きいこと? 

  

どれも、すごくテンプレートっぽい生観ですね。これらだけで人生に彩りが生まれるようには私には思えません。 

  

なるほど、これらのひとつひとつは人生を構成する“骨格”として、意識しておくに越したことはないでしょう。ですが、これら「だけ」を追及し、これらが自己目的化した人生とは、“骨格”ばかりが立派で肉付きや彩りの少ない、骨太の骸骨のような人生ではないでしょうか。 

  

これがオンラインゲームのレベル上げなら構わないのです。オンラインゲームの場合は、「キャラクターのレベルを上げる」という、数値化されたシンプルな目標が存在しますから、そのために最適効率な方法を選ぶのはわかるし、たとえば『ポケモンGO』でレベル上げを急ぐプレイヤーが挙ってポッポマラソン(→https://pokemongo.gamewith.jp/article/show/35068 )やるのも不思議ではありません。 

 

ですが、人生には数値化されたシンプルな目標なんて存在しないので、「経験値を稼ぐ→レベルが上がる→きっと効率の良い人生に違いない!」って考え方は、現実世界には通用しません。

人生の目標は移ろいやすく、人生の目標だと思えることが、思春期と中年期と老年期では全然違う……なんてことも稀ではありません。今日、「人生のコスパが良い」と思っていたはずの人生が、数年後には「あんなものを人生のコスパが良いと言っていた俺は馬鹿だった……!」と思ってしまいかねないのが人生ですから、何をもってコストパフォーマンスが良い人生かを論じるのは、本来とても難しいことのはずです。 

 

テンプレートのような出世街道を歩み、それなりの財をもうけ、ラグジュアリーな生活をしているけれども、ちっとも幸せではないおじさんやおばさんが巷にゴロゴロしています。

彼らは、ある面では「非常にコスパの良い人生」を歩んでいると言えるでしょう。しかし、「コスパの良い人生」に適応特化しすぎていて、それ以外の要素に気を回せずに生き続けているからこそ、華々しい暮らしぶりでも内面の空虚な、人生の牢獄に捕らわれてしまっていて、お気の毒としか言いようがありません。 

 

私の知る限り、本当に豊かな人生を歩んでいる人は皆「コスパの良い人生」の条件ばかりに目を奪われているようにはみえません。もっと、人生の細やかな要素にも目配りをしていて、もっと幅のある生き甲斐を持って生きているようにみえます。だから、「人生のコスパ」なるものを徹底的に追いかけ、それで成功らしきものを手にしたとしても、ただそれだけでは幸福になんてなれないのではないでしょうか。 

 

 

「人生のコスパ」を追いかけ過ぎることの弊害

もうひとつ、「人生のコスパ」を追及しまくっている人達をみていて危うく思うのは、「人生のコスパ」を追求しているつもりの人が、しばしばそれ以外の生き筋を否定し、捨ててしまっている点です。 

私がtwitterやブログで「人生コスパ論」について書くと、必ずと言って良いほど反論が来ます。反論が来ること自体は良いのですが、  

・「若いうちに生涯年収を稼ぐべき。そうでない人生などあり得ない」 

・「サラリーマンなんて人生のコスパ最悪。起業しよう 

・「無駄のない人生を送るために冠婚葬祭や年賀状は切り捨てよう」 

といった風な、極端な設定をしている文面をしばしば見かけます。 

 

でも、こういうのって「自分がコスパが良いと思っているライフスタイル以外は許容していない」ってことですよね。 

たとえば「若いうちに生涯年収を稼ぐべき」と思い込んでいる人は、若いうちに生涯年収を稼げなかったら一体どうなってしまうのでしょうか。自分自身を「コスパの悪い人生」「失敗した人生」と思い込んで、ただちに人生に絶望してしまうのではないでしょうか。 

 

「若いうちに生涯年収を稼ぐべき」と思い込んでいない、世の中のほとんどの人は、そこまでお金を稼がなくてもとりあえずは生きていけます。しかし、この手の思い込みが強過ぎると、若いうちに生涯年収を稼げないことが絶望や葛藤に直結してしまいます。 

 

同じことが「起業するしかない」「高学歴高収入しかない」と思っている人達にも当てはまります。そういう、単一の生き筋を「コスパが良い」と日頃から吹聴している人達は、そのとおりに生きられなくなったら一体どうするつもりなんでしょうね

思い描く「コスパの良い人生」から逸れてしまったら、もう不幸せになるしかないですよね。あるいは、自分自身はどうにか成功できたとしても、たとえば、自分の子どもがそのとおりになれなかったら、親子共々不幸せになるしかありません 

 

そんな、葛藤しやすい思い込みを抱えておきながら、「俺の人生はコスパが良い」とか、ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ません 

 「冠婚葬祭や年賀状は無駄」みたいな考え方も、これってどこまでコストパフォーマンスが良いんでしょうか? 

  

もちろん、諸般の理由でそれらをやらないこと自体は悪いことではありません。でも、初手から冠婚葬祭や年賀状を無駄だと決めつけてしまえば、冠婚葬祭や年賀状とは縁のない人生を確定させてしまうことになります。

冠婚葬祭や年賀状が、本当にただの浪費に過ぎないならそれでも良いのかもしれませんが、これらは社会的な儀礼やコミュニケーションの意味合いを持っているわけですから、これらを初手から捨ててしまえば、そのぶん人間関係やコミュニケーションが制約されるでしょう。

孤独になってしまった老人ならともかく、若いうちから「俺は一生冠婚葬祭や年賀状はやらない!」などと決めつけてしまうのは、人生の可能性を狭める悪手です。「今はやらないけれども、必要になったらやろう」ぐらいの柔軟性は残しておくべきではないでしょうか。  

  

人間の人生はオンラインゲームのレベル上げよりずっと複雑なので、やたら単純化して「コスパ」を考えてもだいたいうまくいきません。「人生のコスパ」を追及していたつもりが、いつの間にか細いロープの上を綱渡りするような人生になってしまっては本末転倒もいいところです。

 

万事が万事「コスパ」で考えたがる人は、このあたりにご注意を 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨 

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。 
twitter:@twit_shirokuma 
ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

すぐに身を守るクセがついてしまっている人には、安心して仕事を任せられない

仕事で、「すぐに身を守るクセ」がついてしまっている人とよく出会う。

「すぐ身を守るクセ」とは何のことか。

例えば、チーム内で何か問題が起きたり、仕事の質が今ひとつだったりすると、何より先に「私は悪くないですよ」と主張するタイプの人だ。思い当たる人が何人かいるのではないだろうか。

 

例えばこんな人がいた。

その方はデザイナーだった。腕は悪くない、きれいなものを作るのだが、1つこまったことがあった。

 

出してきたデザイン案に、ちょっと意見を加えると、

「ご指示通りにやったのですが、ここは変えたほうが良いということですね。」

と返してくるのだ。

 

あるいは、締め切りの当日になって

「一昨日急な仕事を部長から頼まれたので、間に合いませんでした」

と言ってくる。

 

こんなこともあった。

「一回、デザイン案を見せてくれ。それを基に皆で議論しよう」と上司が言ったところ、

「ちゃんと方針を決めてからにしていただけないですか、あとからいろいろ言われて修正するのは無理なので」

という。

部長が「気持ちはわかるが、それだとデザイナーを雇っている意味がないだろう」と言うと、

「先に決めてくれないから、いつも私が苦労するんです」と反抗した。

 

これらに共通するのは、「指示通りやりました」「仕事を頼まれたので」「先に決めてくれないから」と、私は悪くない。他が悪いという考え方が全面にでてしまっていることだ。

 

 

だが、「すぐに身を守るクセ」がある人の、上のような仕事の仕方はどこで身にについたのだろうか。彼らの身の上に思いを馳せる。

前職「こんなことは指示した覚えはない、お前が間違ったのだから、もう一度やりなおせ」と言われつづけてきたのだろうか。

それとも「絶対自分の非を認めるな」という指導を受け続けてきたのだろうか。

 

場合によっては、この人も被害者なのかもしれない。

が、本人の責任ではないにしても、周りはもはやこの人に安心して仕事を頼めなくなっていることがほとんどだ。

 

上の部長さんは、「どんなやり取りであっても「あなたのせいです」「私は悪くないです」と言い続ける人とは、気持ちよく仕事できない。」と言う。

彼らは、今ではこの人に仕事を頼む時、「あなたのせいではないですが」と、気を遣って必ずつけているそうだ。

 

だが、その方は30すぎで、もうすでに四回ほど転職していると聞く。

部長は「面接ではわからなかったよ」とため息をついている。

 

残念ながらその方は今も職場で孤立しつつある。

部長は「はやく悪いクセを改めてくれることを期待するのみ」と言った。

 

 

 

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Nicola Jones

サイトメンテナンスに伴うサービス休止のお知らせ

2016年9月20日 0時〜午前4時の間、メンテナンスのためサイトがご利用いただけなくなります。

何卒、ご理解の程、宜しくお願いいたします。

自由にやっていいよ、と言われ、怖がる人と喜ぶ人がいる。

「自由にやっていいよ」って言われて、結果を出せる人は本当に仕事ができる人だ。これはガチである。

なぜなら「自由」と言うのは、とても強力だが使いこなすのが難しい、例えればRPGの終盤に出てくる、「うまく使うとすごい強いんだけど、デメリットの大きい上級者向けの武器」だからだ。

実際、この「自由を使いこなすスキル」は、かなり個人差があり、「勉強ができる人」だからといって自由を満喫できるとは限らないし、かといって「オレは縛られるのが嫌だぜ、自由に生きるぜ、ヒャッハー!」って言っている人が必ずしも自由を使いこなせているわけでもない。

そういった人々は「自由」に見えても、実際は誰かの考えた型にとどまっていることも多い。

 

必然的に、「自由」は2極化を生み出す。

 

 

そもそも、「自由」とはなんだろうか。

19世紀の功利主義者、ジョン・スチュワート・ミルは「かつて、自由とは、政治的支配者の専制から身を守る事を意味した」と述べた。*1

したがって、国を愛するひとびとが求めたのが、支配者が社会にたいして行使できる権力に制限を設けることであった。そしてこの制限こそ、彼らの言う自由の中身であった。

 

この解釈によれば、自由とはそもそも権力に対するアンチテーゼとして定義されており、本質的には自由だけが独立して存在するものではないとされている。

だが、時代は移り変わり、自由の意味合いも変わった。

ミルは最終的に、「自由とは本人が望むことをすること」としている。すなわち「自由にやっていいよ」とは、「あなたが望むとおりにやっていいよ」という意味である。

*1

 

 

だが「本人が望むこと」はそれほど自明ではない。

たとえば、あるサービス業の会社で目標管理制度を導入したときのことだ。

この会社は会社から与えられる目標以外に、「自己目標設定」という制度があり、自分で自由に目標設定をして良い、ということになっていた。

そしてそのミーティングに出席していた私は、上司と部下のやり取りを見せてもらっていたが、以下のようなやり取りだったと記憶している。

 

「じゃあ、これで成果と、成長に関する目標設定はおしまいだな。ところで最後に、上半期の自己目標は、どうする?」

「うーん、考えてみたのですが、あまり思いつきません。」

「本当になんにもないのか?」

「逆に、本当に何でもいいのでしょうか?何かやってはいけないことってあるんでしょうか?」

「仕事に関係のあることだったら。」

「あいさつをしっかりする、とかでもいいんですか?」

「お前、そんな小さいことが目標なのか?」

「挨拶が大事っていつも上の人は言うじゃないですか。」

「そりゃそうだが……。」

「考えてもよくわからなかったので……これで良いです。」

 

彼は「自由にやっていいよ」と言われたにも関わらず、「普段上司から言われていること」を勝手に目標にしていた。もちろんそれを選択するのは「自由」だ。

ところが一方、その後に行った「できる社員」への面接は上とは全く異なった様相になった。

 

「最後に、上半期の自己目標は、どうする?何か考えてきたか?」

「もちろんです。」

「ほう。ぜひ聞かせてくれないか。」

「はい、仕事において私がやりたいのは「人脈作り」です。」

「ほう、なぜ?」

「うちは既存顧客とのつながりが非常に強く、八割の売上を既存顧客が占めています。でもそれでは、徐々に利益率が下がりジリ貧です。今後、新規顧客開拓に力を入れるべきですが、いきなりのお取引は難しいでしょう。」

「うむ。」

「そこで今のうちに、新規顧客獲得の見込み客を積極的に拡大しておこうと思います。具体的には……」

 

 

自由にして良い、と言われたとき、前者の「あいさつ」を選択する人は全く自分の頭で考えることができていない。もし「すべてが自由だよ」と言われても、彼に大胆な目標は作れないだろうし、「自由なのは困る」と上司に言いそうである。

逆に後者の「人脈」を選択した人は自ら事業の可能性を考え、行動を導きだし、最適となるように動くことができる。むしろ既存の目標という枠組みを与えず、好きにやらせたほうが、さらなる高みを目指すためには良いのかもしれない。

 

このように「自由を使いこなすスキル」は個人差が大きい。

「自由」とはそれを使いこなす能力の低い人物にとっては迷い、不安定、そして恐怖の対象である。

逆に高い能力を有する人物にとっては、主体性、野心、開放などを意味する。

 

そして、高い能力を有する人物は自由を使いこなしてさらなる自由を手に入れ、能力の低い人物はますます自分で自分をを制限し、規制し、枠の中にとどまろうとするだろう。

結局のところ「自由市場」「自由競争」「自由主義」「自由権」など、すべて自由は、その対価すなわち責任、能力、思索、勇気などを人に要求する。

 

 

周知の通り、現代は自由を使いこなすスキルが高ければ高いほど得をするシステムとなっている。

だから、「自由」は2極化を生み出す。

自由とは誠に取扱いの難しいシロモノである。

 

 

 

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Akash Malhotra

「新しい働き方」を選ばないと、生き残れないのだろうか。

「新しい働き方」がもてはやされているが、果たして「新しい働き方」とは一体どんな働き方を指すのだろうか。

「新しい働き方」と聞いて思い浮かべるのは副業、フリーランス、起業といったところだろう。

これら3つに共通することは、「会社に依存せず、個人の力で勝負せよ」というメッセージである。

「ごもっともだ」

「待ってました」

「やっと実力を発揮出来る時代が来た」

と思う強者もいるだろう。

 

ただ大半の人は

「恵まれた環境だから、そんなことが言えるんだ」

「頭ではわかっているけど、実際行動に移すのは無理だ」

「能力の高い一部の人間にしか、そんなことはできない」

と、不安と焦燥感にかられるのではないだろうか。

 

そもそも、なぜ私たちは新しい働き方を目指さなければいけなくなったのか。今までの働き方では、本当に生き残れないのだろうか。

 

時代の流れには逆らえない

ほんの数十年前、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代があった。高度経済成長を遂げる日本に世界からの関心が集まり、松下幸之助、本田宗一郎、井深大などの経営者が注目された。

多くの研究者が、彼らの経営手法を研究した。それはやがて、終身雇用や年功序列に代表される「日本型経営」と呼ばれるようになった。

日本型経営のもと、社員はまるで家族の一員のごとく受け入れられた。文字通り「仕事に就く」就職観を持つ欧米とは対照的に、日本では「会社に入る」ことが重視される。社員自身も、どこでも通用する職能より、特定のコミュニティにおける”メンバーシップ”を求めていた。

しかし、時代は変わった。

 

○もはや「社員は家族」は死語となりつつある

だが、今は「社員は家族」という経営者はほとんど居ない。いや、「居ない」というよりむしろ「できない」と言ってもよい。

環境変化が激しく、企業は「安定した事業」を創ることが難しくなっている。安定した事業がなければ、安定した雇用は存在しない。会社を生き延びさせることを優先するあまり、社員に多大な負荷を強いる会社もあるが、それは本末転倒というものだろう。

会社あっての個人ではなく、個人あっての会社、という流れはおそらく止めようがない。

かつては絶対的な原理原則として信じられた日本型経営も、現在では実行そのものが難しくなってしまった。

それでも本屋に行けば、未だに偉大な経営者の自叙伝はベストセラーとして平積みされている。この手の本は現実的な手引きというより、もはや古き良き昭和を回想する小説になっている。

 

どこも欲しがらない人になったら致命的

20代なら若さという武器を手に、無駄に不安がることも、焦ることもないのかもしれない。

30代ならどうだろう。若さだけでは通用しない世界がやっと見えてきたところだろうか。それでも、不安や焦りをまだ振り切れるだけの勢いが残っているかもしれない。

40代ならどうだろう。昭和を生きた先輩のやり方も通用しなければ、迫り来る若い世代の勢いにうまく乗ることも出来ない。経験や能力は誰よりもあるはずなのに、実は一番、絶望と希望の間を行き来している世代かもしれない。

 

「自分をマーケティングする技術」を磨かなくてはならない。

つい先日も何名かのリストラに合った方々のお話を聞く機会があった。全員40歳前後、給与も高くなってきており、「これから若い時の会社への奉仕を回収」と思っていた矢先の出来事だった。

だが、話を聞いていると気の毒だとは思いつつ、仕方のない部分もあるのだな、という印象も持つ。例えば、ある会社のリストラの基準は以下のようなものであった。

1.40歳以上

2.成績が下位30%

3.年収が600万円以上

4.不採算部門に在籍

(中略)

リストラの考え方は非常に単純だ。要は

・給料が高過ぎる、稼げない

・どこからも呼ばれない

の2つが、基準になっていることが圧倒的に多い。特に致命的なのが「どこも欲しがらない、呼ばれない」であるように感じる。

 

 

会社に依存しないで働く人は実在する

ここまで読んで、どう思うだろうか。

「随分働きにくい世の中になったな。」

あなたがもし、古き良き昭和の企業戦士をロールモデルとしているならば、その感想はおそらく正解である。

ホワイトカラーはすべてフリーランスのように働く。「フリーランス型社会」の到来

新しい稼ぎ方、仕事の仕方を模索している方々がいる。彼らに共通するのは、以下のような行動である。

1.企業ではたらく目的は、「経験をつける」ことと「人脈を作る」ことの2つとする

2.副業する

3.発信する

4.社外でプロジェクトを組む

(中略)

以上のこと考えると、これはある働き方に似ている。

それは「フリーランス」である。アメリカではすでに4人に1人がフリーランスとして働いているという。

組織内であっても外部であっても「成果」を求められることには変わりない。そして、自分を発信し、売り込み、様々な組織の人とプロジェクトを作る。

これは、サラリーマンがフリーランスのように働く、「フリーランス型社会」の到来である。

私たちが昭和の余韻に浸っているうちに、世界は刻々と変わっていたのだ。

 

新しい時代を、どう生きるのか。

みんながみんな新しい働き方を選ぶ必要はない。それが唯一の正解とも言っていない。

ただ、新しい時代の到来を事実として真摯に受け止め、変化に対応しながら生きている人が実際存在する。

要は「時代は変わった」という事実を、私たちがどう受け止めるのかという話である。新しい働き方がカッコいいとか、偉いとかの問題じゃない。生き方に対するスタンスの問題である。

 

 

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(photo by Fabrizio Lonzini

サッカー日本代表選手の評価がおかしい。そして同じダメさを日本の会社組織にも感じる。

今月1日にW杯アジア最終予選がスタートし日本代表は2戦をして11敗。結果以上にまずい状況になっている。

試合内容に関しても言いたいことはたくさんあるが、今回はそこから感じてしまう日本のダメさについて書こうと思う。

 

まず言いたいことは、「変化することをなぜそんなにも嫌がるのか。」

代表戦に対する意見を見ても、批判されるのは若手ばかり。本当にこの2試合の責任は若手なのか。むしろそのミスをリカバリーできないベテランが叩かれるべきではないのだろうか。

結果的にもうあの若手は使わないほうがいい、あいつのせいで負けたんだとか。ばかばかしすぎて何も言えない。

 

これは日本人特有なのだろうか。例えばアルゼンチンが負ければメッシがダメだ。ブラジルが負ければネイマールのせいだ。など、海外ではエースが叩かれるのは当たり前だ。それが一流としての宿命でもある。

なのにこれから日本サッカー界を引っ張っていくであろう若手のミスばかり文句を言うのは、本当にどうかしてるとしか思えない。

 

これは日本企業におきかえて話をしても、同じことがおきているのではないだろうか。

若手が結果を出す事で自分の立場が脅かされると考える上司、自分のルールで部下をコントロールする上司、部下に好かれるため優しくする上司。

その一方で、

言われたことしかやらない部下。自分の意見を言わない部下。飲み会で上司の愚痴ばかりいう部下。働いている企業がダメとわかっているのに転職しない部下。

普通に考えて、やばい状況である。人は何かに縛られるものだ。

でも誰が今の会社で働けと言ってるのだろう。それは自分自身が勝手に思っていることではないのか。

 

でもそういう人達が代表戦の批判をしている。しかも若手に対して。もちろん、若手であろうと代表の試合にでるってことは結果が必要だし、結果を出さないことにはスタメン起用はない。

でもよく考えてほしい。なぜ本田や香川、長谷部はミスをしているのにスタメンで起用されるているのだろうか。もちろん彼らにはこれまでの結果があるからだろう。

でも若手を批判するように、この試合だけを見るなら批判する相手はむしろ海外組であるべきだ。

今回のW杯アジア最終予選突破だけを考えれば海外組を起用したほうがいい。でもそれを続けることに日本サッカー界の未来はあるのだろうか。

 

企業においてもそうだ。目先の売上だけ考えてはいないだろうか。10年後の未来を本気で描けてるのだろうか。

改めになるが、変化にすることを嫌がってはいけない。日本サッカー界も15歳でJ契約をした久保をはじめ、明るいニュースがある。

この2試合で起用された若手もそうだ。浅野はゴールという結果をだしている。彼らが今の海外組からスタメンを獲得することが本当の意味での日本の成長に繋がっていくはずだ。

仕事においても、若手が活躍するのはいいことだし、これから日本を作るのは若手だ。だからこそ上司はしっかりと部下と向き合いときには厳しくする必要はある。それが上司としての役目であるからだ。ただ、それが感情的な物では意味がない。

 

最後になるが、著者は小学生からずっとサッカーをしている。そして今でもサッカーに対する想いは強い。だからこそ、代表の若手選手のミスに文句を言う人の理解ができない。

 

上司がそんな人だったら私はすぐにその会社を辞めるだろう。はっきり言って無駄でしかないからだ。若手のミスを笑うような組織には、価値がない。

 

(書き手:いのうえまさる)

悪の秘密結社はどうして失敗した部下を粛正してしまうのか。

先に断っておきますが、くだらない話です。

 

特撮ヒーローものの話から始まります。

長男、9歳。幼少時から「特撮ヒーローよりはドラえもんやポケモン、妖怪ウォッチ」といった嗜好で育った長男は、最近はあまり戦隊ものや仮面ライダーを見ませんが、以前は時折ゴーバスターやゴーカイジャー、仮面ライダー凱武などをみることがありました。仮面ライダーウィザードのおもちゃも自宅にあります。

 

私も子どもの頃、「宇宙刑事シャイダー」や「宇宙刑事シャリバン」を見ていた記憶があります。

いや、正確に言うと記憶自体は全くないんですが、親の話によると「大きくなったらうちゅうけいじになりたい!」と主張していたらしい(幼稚園の文集にもその記載が見られる)ので、恐らくシャリバン辺りは視聴していたものだと推測されます。

残念ながら宇宙刑事にはなれませんでしたが。どこで募集してるんでしょう、宇宙刑事。中途採用とかはしてるんでしょうか。

 

直近の戦隊ものがどうなっているのかは観測出来ていないんですが、少なくともゼロ年代以前の特撮ヒーローものについて言えば、シリーズにつきもの、欠くべからざる存在が「悪の秘密結社」や「闇の宇宙帝国」でした。

敵方が群雄割拠しているケースは多数派ではなく、多くの場合一つの統一組織があり、それが確固たる悪役になってくれていたわけです。

 

フラッシュマンであれば改造実験帝国メス。ギャバンであれば宇宙犯罪組織マクー。シャリバンであれば宇宙犯罪組織マドー。平成ライダーはまた色々複雑になってますが、以前のライダーなら勿論ショッカーやゲルショッカー、デストロンなんかがその代表格でしょう。

 

彼らは、恐るべき策謀をめぐらしては主人公たちに粉砕されたり、変身怪人が現れては主人公たちに粉砕されたり、幹部が現れては主人公たちに粉砕されたりします。途中までは企みが上手くいったり、大きな被害を出したりすることもありますが、まあ最終的には律儀に粉砕されるものと考えて大筋問題はないでしょう。粉砕・オン・ザ・スイング。粉砕のバーゲンセールです。

 

で。

別に特撮ヒーローものに限らないんですが、多くの場合、悪の秘密結社の首領や幹部は非常に冷酷なものとして描写されておりまして、その冷酷さは主人公サイドだけではなく、しばしば身内にも向けられます。彼らは「失敗した部下」に対して厳しく、「お、お許しを…」とか命乞いしている部下を、「無能ものめ!!」とかいいながら処断してしまう場面はしばしば描写されます。

例えば、部下の獣人を情け容赦なく処刑する十面鬼ゴルゴス。同じく、「クライムに失敗は許されない」を忠実に実行するアイアンクロー。歯車大王や電気大王をあっさり切り捨ててしまう機械神。

 

彼らは非常にカジュアルに部下を処刑します。処刑オンザロック。時には、謁見室に手元のボタンだけで開ける処刑用の落とし穴まで用意しているという、充実した処刑インフラっぷりです。

部下のマネジメントまできちんと考えるバビル二世のヨミ様とか、失敗も三度までは許すダイの大冒険のバーン様、定期的に裏切るスタースクリームを毎回見逃してやるメガトロンなど、一部には例外もありますが、彼らのような寛大な上司は全体としては少数派であるように思います。「身内に対しても冷酷」というのは、分かりやすい悪役を描く際にも便利な属性の一つなのでしょう。

 

が。もしも私が悪のコンサルとして悪の組織に招聘されたら、是非提言したいことなのですが、「失敗した部下をすぐ処刑」というのは決して上手い手とはいえません。というか、むしろ組織運営の観点からは非常にまずい手です。

その最大のデメリットは、「失敗によるナレッジが共有されないこと」です。

 

基本的に、人材は「成功体験よりもむしろ失敗体験から育つ」ものです。失敗から学べることは山ほどあります。

 

・「何故失敗したか」ということによって、今後そのリスクをどう避けるかを学ぶことが出来る。
・失敗を最小限にとどめる方法を考えることによって、リスク管理の能力を高めることが出来る。
・失敗から状態を立て直すことによって精神的タフネスが向上する。
・失敗後、撤退戦を指揮することによって「状況の収束のさせ方」を学ぶことが出来る。

 

その他諸々、盛りだくさん。成功体験から学べることなんて、せいぜい「そういうやり方で上手くいくこともあった」くらいのものであって、時として成長を停滞させてしまうことすらあります。失敗体験こそが人を育てる。失敗体験は貴重なナレッジなのです。

 

勿論、「ただ失敗しただけ」で、そこから学ぶことが出来なければなんの意味もありません。だからこそ、失敗した部下こそ、それ以上の成功をおさめる様マネジメントしなくてはいけない。

百歩譲って粛正するのはやむを得ないとしても、最低限「失敗した体験によるナレッジ」をレポートとして残す手段は講じなくてはいけないわけです。であれば、にっこり笑って「さ、失敗した体験のレポート書こうか!」とでも言って、レポート共有の一つもさせないといけない。

悪の組織の怪人連中なんて、ただでさえヒーローにその場でさくっと粉砕されてしまうことが多いわけで、生きて帰るケースなんてそんなに多くはありません。「戦って、生きて帰ってくる」というだけでも物凄い貴重な人材なわけです。

「ちみ処刑ね」と言って脊髄反射ボッシュートなど、対応としては下の下の下。そんなことしてるから勝てないんだよこの馬鹿、と言いたくなる、犯罪的なマネジメント錯誤だと言ってしまってもいいでしょう。

 

この記事を読んでいる悪の組織の首領各位には、是非「失敗ナレッジを活かす方法」を考えて頂きたい次第であります。まずは組織内ワークショップを開いて、失敗した部下を講師として招聘することをお勧めしたいところです。処刑はその後で。

一応まとめておくと、

 

・失敗した部下は貴重な人材であり、スナック感覚で処刑するのは良策とはいえない
・処刑するにしても最低限失敗レポートくらいは書かせて失敗ナレッジの共有を行うべき
・バーン様の魔王っぷりは偉大
・ただ、流石にスタースクリームくらいは処刑しておいてもバチは当たらないような気はします
・まったくこのスタースクリームめ!じゃねえよツンデレかよ

 

という、どうでもいい結論が導き出せるわけです。よかったですね。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて
書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

医学部の入試面接における志望理由と、現場の現実の乖離について。

医学部入試では面接がある。その時に間違いなく聞かれるのが

「あなたの医学部志望理由をきかせてください」だ。

 

はじめに言っておくと、基本的には面接で合否が動くことはまずない。

さすがに自己紹介をしてくださいと言われて、ジブリ作品について熱心に語り始めたりしたり、いきなり泣き始めたりしたら落ちるかもしれないが、多少どもって「ぼぼぼ僕は・・・」と言ってしまってもまあ落ちないと思う。基本的には日本の大学入試はかなり公平に選別されている。

ただこの面接、傾向と対策がイマイチとれておらず、また試験官の本音が見えにくいので、受験生としては結構困るのも事実である。

どう答えればよいのか、医療現場の現実を踏まえたうえで、お伝えしたい。

 

医療現場の現実

医者の仕事というと、診察して人を治療する事だと普通は思うだろう。まあ大筋としては間違っていない。となると、いわゆる「患者さんの為に命を燃やしたい」みたいなキャラが好かれそうだなーと思う人が多いと思う。

 

ただまあ実際問題、そういう使命感で仕事を全うできている人は少ない。2016年現在、人はそもそもあまり重い病気にならないからだ。

重い病気になって病院にかかるのは、不幸にもよくない遺伝子を引き継いでしまった人か、不幸にも事故にあってしまった人。それか三食ファーストフードみたいな劣悪な生活習慣を長年続けた人か、あるいは長年生き続けて脳も肉体もボロボロになった後期高齢者ぐらいである。

 

そして、テレビでは患者と医者のアツいドラマが流されるが、そういう心温まるようなハートフルストーリーは現場では極めて稀だ。

更に言えば、基本的には、医療現場の8割はどちらかというと、社会的に、収入的にあまり恵まれなかった人達への社会的保障という側面が非常に強い。

 

こういう事をいうと怒り出す人もいるかもしれないが、健康なあなた、そもそも病院に入院したことがあるだろうか。健康で恵まれた人は、病院とは基本的には無縁の生活をおくることがそのことからも十分わかるだろう。

 

つまり普通の人が想定する人をみる医者(業界用語では臨床医という)は、基本的には上に書いたような人をケアするのが仕事だ。

そして残念ながらというかそういう人の事を、基本的には心の底から愛してケアを行うような人は物凄く少ない。

もちろんそんな人もいない事はない。だけどそういう人にキチンと心の底から対面して向き合うとこの世の虚しさから、殆どの人は心を病んでしまう。

 

”残念なことに恵まれなかった人達”を相手に仕事をしたくないのであれば、別の道がある。

ドクターズ・ドクターと言われている麻酔科医・放射線科医・病理医、といわれている人達は、医者から相談をうける立場の存在であり、この3つのどれかになれば、仕事相手が患者じゃなく医者になる。

そしてドクターズ・ドクター志願者は基本的にはあまり多くないので、志願すれば簡単になれる。

 

 

志望動機は何でもよい

つまり医者に仕事にも色いろある。だからあなたにコミュ力があろうがなかろうが、医者になるのに何にも困らない。

だから医学部志望理由を聞かれた時に困ったら

「人の体の神秘に惹かれ、また自分で実際に人を治療できる事に憧れを感じた」

とでも答えればいいし、もし仮に面接官に「じゃあなんで実験にいかなかったの?」と言われたら「実験は実臨床ではなく、あくまで理論でしか無い。

「自分は理論よりも、実地で人を治す現場で仕事を行う事に強くやりがいを感じた」とでもいえばいい。それで納得しない面接官はいないはずだ。

 

また言語聴覚士、看護師、薬剤師など、現場で人の治療にかかわれるのは医者だけではない。

だからもし仮にあなたが面接官から「なんで医者なの?現場で働ける職種は他にも沢山あるよ?」という意地悪な質問をうけるかもしれない。

ただこれを問う試験管も、受験生時代はこの違いがわかってなかったと思うのに、これを問う時点でやや性格が悪いといえば悪いのだが、まあ試験官が問いたくなる気持ちはわからないでもない。

 

一応簡単に医療の流れを説明すると、実臨床の場では医療は3つの役割にわけられる。

 

1つ目は診断。これは病名を明らかにする立場だ。これは基本的には医者の判断により行われる(他職種もやれないことはないが、最終的に責任を負うのは医者の仕事だ)

2つ目は治療。薬を処方したり、手術を行ったり。これも基本的には医者の仕事だ。これは場合によっては人体を著しく損ねる危険性があるので、医者の責任において行われるのが適切だろう。

3つ目が維持。当たり前だけど診断・治療が適切に行われたからといって、病気はすぐには治らない。手術を行った後は、傷口がふさがるまできちんとした管理を行う必要があるし、交通事故とかで骨を折ってしまったら、その後適切にリハビリを行わなくてはいけない。後期高齢者になってボケてしまったら、介護の世話をうけなくてはいけない。

 

医療というのは上記3つで行われる。上の2つは医者の裁量が非常に大きいのに対して、最後の維持はコメディカルによる側面が非常に大きい。

そして適切な維持の為の指示を出すのは医者であり、何が必要かを判断するのはコメディカルの仕事ではない。もちろんコメディカルだって医者に意見は言えるけど。

だから冒頭の質問にはこう答えればいい。

「自分は、患者の病気を診断し、治療の判断をするという重大な責任を負う仕事に興味があるから医者を志願しました。その他の職種でも医療に携わる事はできると思いますが、診断・治療といった責任ある仕事をするのは、医者しかできない事なので」

 

 

色々書いたけど、繰り返すけど面接はあんまし重要ではない

まあ一応中の人として誠実に回答したけど、面接はそこまで重要な事ではない。

例えばとある医学部の試験会場で、筆者の隣にいた受験生は「なぜ医学部を目指したのか?」という質問に対して

「父親が医者で、その仕事っぷりに憧れたから」

と回答していた。それで試験管は全然納得していた(なおこの受験生はその後に筆者と同級生となった)医学部入学後にも複数人の教員に話を聞いたが「身内に医療関係者がいる人は医者の仕事がどういうものかわかっているから、就労後もやりやすい」というような事をいっていた。まあつまり、志望理由なんてどうとでもなるのだ。

 

ただまあ実際問題、医者の仕事にも色々ある。

患者と向き合う職業もあれば、向き合わなくてもいい職業もある。一番大切なのは、医学に興味があるというただ1点だろう。医学が面白そうだと思ったら、そこまで難しいことを考えずに医学部をぜひ志願して欲しい。

仕事としてやりがいがあるのは間違いない。それだけは断言しよう。

 

 

【プロフィール】

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著者名:高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

なぜ「それ聞いてどーすんの?」と学生が思ってしまうような質問が、面接でされてしまうのだろうか?

先日、何名かの学生と話をした時に、就職活動の話となった。

「いい経験だった」と話す学生がいる一方で、「理不尽なことが多く、虚しくなった」と語る学生も多かった。

 

そんな中、1つ盛り上がった話題が「面接でされた質問」だ。学生からすると「そんなこと聞いてどーすんの?」という疑問しか起きない質問も多数あったという。

聞くと、たしかにそういった部分もあるので、いくつかご紹介する。

 

ウチの仕事はけっこう残業もありますけど……大丈夫ですか?

・大丈夫、以外の回答ってあるのか?
・覚悟を決めてきなさい、っていう警告なのかと思った。質問じゃないよね。
・残業が嫌な人は来るな、っていう意味ととったけど、面接で聞く必要はないよね。説明会の資料にいれてくれれば。

 

内定を出したら、ウチに来ていただけますか?

・行きます、って答えるしかないw
・この面接官が何を考えているのか知りたい。行かないっていう回答を聞いたことがあるのだろうか。
・内定出してもらったら考えます、って言いたい。

 

あなたの短所は?

・短所をそのまま答えて欲しいのか、美辞麗句を並べる能力を知りたいのか、全く意味のわからない質問。
・短所を聞かれて一度「怠け者で、めちゃくちゃ時間にルーズで、集団で動けないところです」って答えたw

 

ウチの会社について、どう思いますか?

・この質問、曖昧で何を答えたら良いのかわからないんだよね。もっと具体的に質問しなさい、って教わらなかったのかね。
・基本、この質問をされたら、「ああ、褒められたいんですね」って理解してる。

 

なぜウチなんですか?

・その通り。内定くれるなら他でも全く問題なし
・この建前を聞く質問、どうにかして欲しい。「御社は私が受けている数ある起業のウチの一社であり、特に御社に絞って就活しているわけではございません」と言いたい。

 

5年後(将来)どうなっていたいですか?

・これも結構意味不明。「起業したい」とか「自分でアプリ作って出したい」とか言っちゃいけないんだろうし。
・逆質問したら、面接官も答えられなかった。自分で答えられない質問を学生にするなよw

 

嫌な仕事でも黙って続けられますか?

・嫌な仕事を振ります、って予告を面接でしてもしかたがないと思うんだけど。
・これも「続けられない」っていう返事を返す人いないと思うんだけど
・嫌な会社のない仕事って、無いでしょう。Yes一択の質問をして、何を見ているのか。

 

当社のビジョンについて、共感したポイントをおしえてください。

・この質問、複数の会社で聞かれたんだけど「世のため人のために」みたいな普通のビジョンなので、「はあ。当然ですよね」くらいにしか感じないんだけど。
・「そんな良いビジョンとは思えないのであまり共感しませんでした」って言っちゃいけないし、仮にうまく答えられたとしても入っちゃいけないよね。

 

 

話を聞いていくと、面接官の質問の力量に結構ばらつきがあり、スキルの低い面接官も多いのだな、と感じた。学生は、ちゃんとそれを見抜いている。

基本的に面接官は現場の人間であり、面接に関しては「素人」だ。その弊害が出ているとみられる。

 

さて、それでは面接官はどういった質問をすべきなのだろうか?上のような質問はほんとうに意味が無いのだろうか?

 

結論としては、上のような質問はおそらく意味がない。

例えばGoogleの統計的な研究で*1、次のことがわかっている。

 

1.面接の上手い人はほとんどいない。複数名で面接し多面的に評価しなければダメ。

2.面接官は確証バイアス(思い込み)の影響で、最初の10秒に受けた印象を証明するために面接の殆どの時間を使っている。つまり、最初の10秒の印象が「不採用」ならば、残りの時間を「不採用の理由」を探すために使っている。

3.職務能力を測るのに良いのは構造的面接である。

 

「構造的面接」とは

・行動面接

〜した時のことを話してください。(実績に基づく質問)

・状況面接

もし〜のような状況となったら、どのような行動を取りますか?(ケーススタディ)

の2種類の質問からなる面接だ。

 

これの特徴は、「思います」や「感じました」ではなく、「どう行動した(する)」という基準に基づいて成される面接だということだ。

 

上に挙げた学生が「それ聞いてどうすんの?」と思っている質問は、「学生がどういう人物なのか」を見る質問ではなく、「うちの会社はこういう会社だけど、大丈夫?」と聞かれているものが多い。

だから、殆どの面接の現場では「面接」というよりも「印象にもとづく、意思確認」のようなものが行われていると見て良いだろう。

 

採用は大きなお金が動いているにも関わらず、まだまだ「生産性が低い仕事の1つ」といえる。

 

 

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