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安定を望む人は、エンジニアには向いてないですね。

憶えていますでしょうか。今から30年以上前、パソコンと言えば国産の時代でした。

日本の国際競争力が頂点だった時代と、懐かしむ方もいるかもしれません。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代です。

 

そのころ、国産のパソコンと言えば、NECのPC88シリーズや富士通FMシリーズなどがありました。懐かしいですねえ。私はそういう時代にパソコンが好きになりました。

そんな「パソコン好き」の私は偶然、知人から地元の新潟にコンピューターをガリガリやれる会社があると紹介され、今の会社で働くことになりました。

申し遅れました、ソリマチ株式会社入社25年目、自他ともに認める「新技術好き」の開発責任者、五十嵐です。

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入社できたときは、そりゃー嬉しかったです。これから好きなパソコンがいくらでも触れる、と思っていましたからね。当時はパソコンも高価でしたから。30年前「パソコンの時代が来る」と信じて疑いませんでした。

 

でも、入社してはじめて触れたのは汎用機(メインフレーム)でした。(笑)

メインフレーム?なんじゃそりゃ?という若い方も多いと思います。

 

技術者なら「メインフレーム」という言葉をご存知かもしれませんが、それはパソコンとは程遠い「大型計算機」でした。まあ、一台数千万、一億とか、そう言った価格のでかい箱です。

当時、メインフレームで使われていた言語は、今からするとかなりシンプルな言語ですが、COBOLというプログラミング言語です。いまはもうCOBOLを使える人も少なくなりましたが、銀行の勘定系システムなどではまだ現役ですよね。

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(参考写真:IBM 704  メインフレーム  出典:Wikipedia) 

で、これらが何に使われていたかと言えば、企業の会計や給与計算などに用いられ始めていました。

今は当社が提供しているようなパソコンの会計ソフトで十分ですが、当時は「計算センター」という、会社の数字計算をアウトソーシングされる事業があちこちでありました。

その会計事務所も「計算センター」を所有して、あちらこちらのお客様の請求業務を引き受けていました。

 

 

その汎用機を扱うソリマチ情報センターという部署にいる間Windows95が発売され、当社の「会計王」などパッケージソフトがどんどん出てきました。私はどうしてもその「農業簿記」というパソコンソフトの仕事がやりたくて、ずっとやりたいと言い続けていたんです。

もともとソリマチは新潟の会社、ということもあって、農業簿記の分野は非常に強かったです。そしたら、ついに作らせてもらえるチャンスがやってきたんです。うれしかったですねえ。

 

会社に入って、諦めず粘り強く思い続けると、いつかは希望が叶うことも多いものです。

 

その時には、会計王シリーズの1つ販売管理ソフトの「販売王」というソフトを作ることになりました。ソリマチとしてもこれは挑戦的なプロジェクトでした。

私は当時、それまで汎用機しか扱っていなかったため、上述の通り言語はCOBOLしか知らなくて、この時初めてコンピューター言語のメインストリームであるC言語を使うことになりました。

 

正直、はじめてということで不安もありましたが、自分から志願しているので、楽しくてしょうがなくて、それこそ寝食をわすれて仕事に打ち込むというのでしょうか、もう、仕事なのか趣味なのかわからない状態で、当時は膨大な量のプログラムを読まないといけなかったのですが、全然苦にならなかったです。

本当に1日中コードを学んでいる時もありました。周りの人は気付いてなかったと思いますが(笑)。そもそもプログラミングしてるのか、読んでるのかって、傍目から見たら絶対わからないですからね。

 

そうしてできたのが「販売王」というソフトです。今は18世代まで続いている超ロングセラーモデルです。

でも、今だから話せるのですが最初は品質が安定していなくて、当時ソフトウェアにエラーがあると、修正版(当時はCD-ROM)をお客様に送付し、対応いただければならなくて大変でした。

 

でも、だからこそ「オンラインアップデートの仕組みを作ろう」ということになったんです。

ちょうどパソコンが普及が出た頃でインターネットが話題になり始めた頃です。その取り組みは、業界的にはかなり早い方だったと思います。実は、未だに私が作ったプログラムで動いるものもあるくらいです。

 

さらに、それがきっかけと言っては何ですが、インターネットの凄さにも気づき、その次はそのまま「ソリマチ安心データバンク」という、クラウドストレージサービスまで作っちゃいました。

もちろん、世の中のニーズや会社側からの要請というのはあるのですが、正直に言うと新しいものに挑戦するのはまず自分の興味がはじまりの場合が多いですね。

日常生活の中で「これいいな」と自分が思うものが最初のきっかけであることがほとんどです。

 

ちなみに、今一番気になるのはやはりAIとか機械学習ですね。

AIで会計の仕訳ができたりすることは容易に想像できますし、さらに進化していくと資金繰りのアドバイスとかできるようなれば、面白いなって思います。

会計ソフトが進化すれば、税理士さんや経理担当の仕事がなくなるとか言われることがあるんですが、その時間でよりクリエイティブな仕事、例えば税理士さんならコンサルなどにより時間を割くことができるんじゃないかって思います。

さらに言うと、今は会計データはパーソナルなデータとして扱われていますが、徐々にデータがクラウド化されてきているので、それをビッグデータとして扱うことも可能になるでしょうね。そうなるより精度の高いフィードバックができるんじゃないかって思います。そんなこと考えるだけで、ワクワクします。

 

 

今は、マネージャーになりエンジニアを管理する立場になりましたが、プログラマーって人種は、常に知的好奇心を満たせていないと続かないんですよね。

例えば、今はタブレット向けの新しい「タブレット会計」をリリースし、機能アップしていますが、あえて最新の技術的要素を意図的に組み込んでいます。そうでもしないと、いいプログラマーって会社に残ってくれないんですよね。

これ、エンジニアの方だったら絶対にわかる感覚だと思います。

適性からして極端なことを言えば、仕事半分、趣味半分って思ってやってくれてるくらいがいいエンジニアだと思っています。

 

そのような環境を作ることがマネージャーとしての大事な仕事だと本当に思っていて、いかにエンジニアが楽しく働ける環境を作るかが、開発マネージャーの最も重要な仕事じゃないかなと思います。

 

Googleには20%ルールという、現状の仕事以外で20%は自分のやりたいプロジェクトに取り組むことを義務付けているそうですが、それがどのくらい機能してるかは別として、本当によく理解できます。

会社にとって、一番困るのは優秀なエンジニアに辞められることです。

 

ただ矛盾してるようですが、優秀なエンジニアって「ウチにずっといたいというエンジニア」ではだめで、いつ外部で仕事しても勝負できる人間くらいじゃないと優秀とは言えないですよね。

この「つかずはなれず」感が、エンジニアのキャリアでのキモじゃないかって、そう思うんですよ。

 

 

ソリマチ株式会社

完全無料の会計アプリ「タブレット会計」 


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効果のある教育訓練と、ムダな教育訓練のちがいとは。

前職の頃の話。

入社したのは2001年、新卒としてだった。

上司は社内でも「鬼」と恐れられていた上司で、「新卒にコンサルティングなんぞできるわけがない」と最初に言われた。

「新卒にコンサルティングなんかできるわけがない。上が新卒を採りたいと言ったので、仕方なく引き取っただけだ」と、はっきりと言われた。

 

今考えれば、そのとおりだったのかもしれない。

それでもその上司は悪い人ではなかった。

「コンサルタントとしてここにいる以上、一定のパフォーマンスを出せないやつは客のところには行かせない」と、新卒と中途の差別は一切、しなかった。

全ては実力次第。

お陰で、20名ほどのグループの中で一人、中途採用のコンサルタントたちに混ざって勉強会に出席していた。

 

そして、その上司が企画する勉強会は、本当に素晴らしくよくできていた。

何よりすごいのは、システマチックに人を短期間で鍛え上げる、そのやり方だった。

ポイントは次のとおりだ。

 

1.準備

勉強会は常に「進行中の顧客事例」を用意して行われる。

2.情報共有

まずは情報共有から始まる。

事例となった顧客の経営者やプロジェクトメンバーの地位、属性、発言などが担当コンサルタントから発表される。また、人間関係の良し悪し、能力の高低(たとえばだれがNo.2で、だれが次期部長と目されているか)などもこの時に合わせて発表される。

また、事業概要、会社のマーケティング施策、主要な取引先、営業手法、品質管理手法、各種マニュアルなどもこの際に資料として渡される。

3.課題設定

一通り情報共有が終わると、その場を仕切る上司が複数の課題を設定する。

例えば以下のようなものだ。

・顧客の抱える最も解決の優先度が高い課題は何か?

・顧客の財務状態を推測せよ

・現場でのクレームにどのようなものが考えられるか

・マーケティング施策として何が有効か、経営陣に提案するとしたら何を提案するか?

4.ロールプレイ

暫く考慮時間が与えられ、その後、一人ひとりがロールプレイを行う。

大抵は、事例となった顧客の担当コンサルタントが「顧客の経営者」の役割を担い、上で設定された「課題」をロールプレイで検証する。ロールプレイは皆の前で行うため、非常に緊張する。

5.ディスカッション

対立する意見が出ると、双方にディスカッションを促す。「遠慮なし、恨みっこなし」を合言葉に、経験年数の区別なく、意見を戦わせる。

5.フィードバック

一通りディスカッションが終わると、データが開示され、担当コンサルタントから解答が発表され、上司からフィードバックがある。

 

上の方法で、新卒も約半年で、顧客に対して高度なサービスを提供することができる水準を達成できた。

今思えば、かなりのスピードで人を育成していたと言えるだろう。

 

なぜ上の方法が成果を出せていたか。

調べてみると、実はこのやり方、科学的見地からも、最も有効な教育訓練の方法だったからだ。

 

フロリダ州立大学の心理学教授、アンダース・エリクソンは学生や医師、音楽家やスポーツ選手など様々な人々の技能が「どうすれば超一流に到達できるのか」を徹底的に検証した。

結果、技能の獲得について従来信じられてきた「通説」と「実際」は異なることを突き止めた。

それは例えば以下のようなものである。*1

 

・「知識」と「技能」は全くの別物

テニスの雑誌を読んでもテニスはうまくならない。セミナーに出ても技能はあがらない。「勉強するだけ」では意味がなく、必要なことは「実際に試すこと、やること」である。

 

・経験を積めば上達する、はウソ

20年の経験を積んだ人物でも、経験数年の人物と技能のレベルは変わらないか、むしろ劣る。

 

・だれがトップとなるかを決定する上で何らかの遺伝的要素が影響することを示すエビデンスは一切ない

遺伝的要素よりも「技能の練習方法」のほうが遥かに重要

 

・「楽しく練習」することは、技能の獲得につながらない

練習は注意深く、何を獲得するかはっきりと意識を持って行われなければならない。

 

通説に代わり、彼は「限界的練習」という能力向上の方法を提唱している。その練習方法とは、以下の要件を満たすものだ。

 

1.はっきりと定義された具体的目標が示される

2.集中して行う

3.フィードバックが不可欠

4.コンフォートゾーンから飛び出す(ラクではなく、楽しくもない練習をする)

 

教育訓練においては「知識をつけよう」「努力しよう」というのでは不充分である。それはともすれば精神論や才能論に陥りがちだ。

そうではなく「考えて練習しよう」と考えることこそ、技能獲得の最短ルートだ。

 

上述したアンダース氏は「限界的練習」の目的についてこう述べる。

限界的練習は前途洋々でこれからチェスのグランドマスターやオリンピック選手や世界一流の音楽家を目指して練習を始めようという子どもたちのためだけにあるのではない、(中略)

それはアメリカ海軍のような、苛烈なトレーニング・プログラムを開発する余裕のある大組織に属する人のためだけにあるのでもない。限界的練習は夢を持つすべての人のためにある。

絵の描き方、コンピュータ・コードの書き方、ジャグリングやサクソフォーンの演奏、アメリカ文化を象徴する小説の書き方などを学びたいという人、ポーカーやソフトボールがうまくなりたい、営業成績を伸ばしたい、歌が上手くなりたいという人。人生を主体的に選び、才能を自分で作り出し、今の自分が限界だという考えに与しない全ての人のためにある。

このような思想に基づく、よく練られた素晴らしい教育訓練こそ、皆に成果と自信を与え、世の中の分断を防ぐ最も良い手立てだろう、と個人的には思うのだが、いかがだろうか。

 

 

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(Ulysses Guer)

 

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「自分がやりたいことをやることに寛容すぎる人」って、とても残念だ。

初詣「ベビーカー自粛」要請で大騒ぎ 「差別」批判へ寺側の意外な言い分 (J-CASTニュース)

  

この「ベビーカー問題」、ネットでかなり話題になっていました。

これが「排除」であるかと言われると、大人でも危ないような混雑時の初詣にベビーカーで出かけるのは、親としてはやめておいたほうが無難だと思います。それでも初詣したい、という子連れのファミリーに関しては、なるべく便宜をはかって、安全を確保してあげないといけないのでしょう。

しかし、こういう議論をみていると、日本では「小さな子どもを連れていること」について、一部の親と周囲の人々との考え方のギャップが大きいのだな、と考えさせられます。

 

 フランスはどう少子化を克服したか』(高崎順子著・新潮新書)のなかに、フランスの妊婦と乳幼児に対する社会的な扱いについて、こう書かれています。 

 誤解を恐れずに強い表現をすると、妊婦と乳幼児は、ハンディキャップの扱いなのです。フランス国民の医療費負担をカバーする社会保険制度が法整備されたのは、第二次大戦終了直後の194510月のこと。その時からすでに出産は、疾病・障害・年金・死亡と共に、「補償されるべきリスク」と定められてきました。

 まず、妊婦と乳幼児を社会的弱者、リスクを負った存在と認める。その弱者にさらなる負担をかけない形で、支援をする。その支援も強制ではなく、選択肢として提案する。フランスの妊娠出産・乳幼児医療には、その認識と考え方が通底しています。

 この認識は日常社会でも一般的です。スーパーのレジや交通機関の優先マークには、身体障害者・高齢者と並んで、妊婦・乳幼児連れの親子が描かれています。空港や駅のタクシー乗り場では、案内係が妊婦や乳幼児を見つけたら、声をかけて最前列に回します。列を作る人々は(内心はともかく)、表立って不満を表明しません。妊婦や乳幼児連れの親も、他者を押しのけることなく、申し訳なさげに身を縮めることもなく、静かに列の前方に進みます。そして、そこに高齢者や障害者がいれば、「より身体的に辛い方」を推し量りながら、順番を譲り合っています。

 妊婦や乳幼児の健康保護が、高齢者や障害者の支援と並んで扱われているのだな、と、毎回つくづく実感する場面です。そしてその度に、この国で子供が増えて行く理由を目の当たりにしたような気持ちになるのです。

 フランス人は「初詣」に行かないでしょうけど、もしフランスで初詣のような風習があれば、彼らは「ベビーカーに乗った子どもとその家族」に整然と対応するはずです。

日本人が、障害を持つ人が初詣の行列に並んでいれば、譲るのと同じように。

 

そう考えると、日本では、妊娠・出産は「病気じゃない」「めでたいこと」だというイメージがあるために、「なんで子ども連れが優遇されるんだ?」と感じる人が少なくないのかもしれません。

現実的には「ものすごく大変」なのに、周囲から「なんでわざわざ子どもを連れてくるんだ?」って言われると、かなりつらいですよね。

小さい子どもがいると、ひとりだったら簡単にできることも、なかなかできなくなってしまいますし。

 

車を運転中にトイレに行きたくなった。でも、子どもは後部座席のチャイルドシートでスヤスヤ眠っている。

こういう場合、「ちょっと道路沿いのコンビニに寄ってトイレを借りる」のも、けっこう大変です。

眠っているからといって、子どもを車内に残して車から離れることはできないし、一緒に連れていくとなると、子どもを起こしてしまうし、時間も手間もかかる。

 

その一方で、やっぱり、「そこまでして小さな子どもを連れて、人がひしめきあっている神社に初詣に行きたいと思うのか?」っていうのも、あるんですよね。

子どもとその両親の希望ではなく、周囲の人に付き合わされているのかもしれないけれど。

 

冒頭の記事のなかに、こんな親たちがいた、という話が出てきます。 

 寺の住職によれば、2年前まではベビーカー、車椅子での参拝を優先させていて、専用通路を作り、係員を配置し安全に努めるという布陣を取っていた。ところが思わぬトラブルが起こる。

ベビーカー1台にファミリーが5人、10人と付いてきて専用通路を通り参拝し始めたのだ。混んでいる時にはお参りするまで1時間待たなければならないため、それを見た参拝客が腹を立て「なんだあいつらは!!」と寺の担当者と小競り合いになった。

 また、ベビーカーがあれば優遇される寺ということが知れ渡り、小学5年生くらいの子供をベビーカーに乗せて現れる親が相次ぐことになった。親は優先通路に入るとベビーカーをたたみ、降りた子供は敷地内を駆け回った。

そこで寺は優先通路を通れるのは押している1人だけ、という制限を設けた。ところが、ファミリーは2手に分かれて参拝することになり、先に参拝を終えたベビーカー組の中には境内近くで合流のため待機する、ということが起こった。

この「小学5年生くらいの子どもをベビーカーに乗せて現れる親」って、何のために初詣に来ているのだろう?初詣って、新年の無事と平安を願うために、神様に挨拶にいく行事ですよね、基本的には。にもかかわらず、そんな「ズル」をして参拝することに、後ろめたさは無いのだろうか?

とりあえず、手をあわせて、お賽銭を入れれば良いことがあるはず、とか、そんな感じなのかな……

 

僕はこれを読んで、ファミコンで『ドラゴンクエスト3』が発売されたときに、「ゲームカセットのカツアゲ事件」が報道されていたことを思い出したのです。

そのときに疑問だったのが、「カツアゲした『ドラクエ』で遊んで、面白いのだろうか?」ってことだったんですよ。

カツアゲという行為そのものが「悪いこと」ではありますし、『ドラゴンクエスト』って、「勇者が世界を破滅させようとする悪者を倒す話」じゃないですか。

「カツアゲする人」って、どうみても「悪者側」のはずで、現実にそんなことをしながら、ゲームの中では「正義の勇者」として、「悪者」をやっつける。

それって、プレイしながら、気が滅入らないのかな……

それとも、「ゲームはゲームなんだから、そんな現実での後ろめたさは、関係ない」ということなのだろうか。

 

 「せめて初詣のときくらい、神様の前では行儀よくしておいたほうが良いんじゃないか」というのが僕の感覚なんですよ。

バチがあたるようなことをしながら初詣をしても、プラスマイナスゼロ、あるいはそれ以下じゃないですか。

でも、世の中には、そう考えない人もいる。

とにかくガランガランと鳴らして手を合わせ、お賽銭を入れれば、それで初詣なのだと思い、盗んだゲームソフトのなかで、自分が「勇者」として悪者をやっつけることにも、違和感がない。

 

 初詣なんて形式的なものだし、罪の意識とゲームの面白さは別だろう、と考える人が、けっこう多いのだろうか。

それはある意味「合理的」ではあるのだけれど、そういう考え方の人が「初詣の効果」に期待するというのもおかしいのではないか?

 

 世の中には「世界の物語から、自分を切り離せる能力」を持っている(というか、「自分がやりたいことをやることに寛容すぎる、そして、自分に都合が良いように世界の物語を改変できてしまう」人がいるのですよね。

他人事のように言っているけれど、僕にだって、状況によっては、そういうふうに自分に言い聞かせてしまう可能性もある。

そして、『ドラゴンクエスト3』発売時を考えると(19882月発売)、そういう人は、少なくとも30年前から日本に存在していることになります。

年齢的には、そういう人たちが、「小学5年生をベビーカーに乗せて、ショートカット参拝する親」になっているのかもしれません。

 

こういうのって、「神様」とか「見えない聖なるもの」を多くの人が信じられなくなった社会の変化のひとつなのかな、とも考えずにはいられないのです。

あるいは、いつの時代にも「そういう人」は一定の割合で存在するのだろうか。

いまは、「みんなの前で変なことをしたら、SNSで拡散される」世の中であり、それは「バチがあたる」という後ろめたさよりも、多くの人にとっては、よっぽど抑止効果が強いのではないか、とも思うのけれど。

 

 

【著者プロフィール】

著者;fujipon 

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ;琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

売上・利益やKPIなどの数字だけを見て、新規事業の撤退を決めてしまうのは愚策。本当に大事なことは……

こんにちは。Relicの北嶋です。 

今回は新規事業の撤退基準について、私の経験から少しお伝えしたいと思います。

 

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(年明けにオフィス移転しました。新住所は、東京都渋谷区恵比寿西2-1-8 Oak6ビル3Fとなります。まだ雑然としています(笑)

 

前回までの記事中にも何回か繰り返しお伝えしていますが、新規事業とはそもそも、成功確率が低いものです。

事実、過去に在籍していた企業において、私が手掛けた新規事業は8つありましたが、そのうちの5つは既に撤退をしています。

しかし、考え方にもよりますが、逆に「失敗する可能性があるからこそ、その新規事業はやる価値がある」と言い切っても良いかもしれません。リスクなきところに、リターンはないからです。

 

ですから「新規事業」は「失敗」すること、すなわち撤退とセットで考えなければなりません。 

特に新規事業を立ち上げた当人たちは事業に対する思い入れが非常に強いため、客観的な判断をしにくい状態になりがちで、結果として判断が遅れたり、冷静な意思決定ができないケースも多々あります。

そのため、ケースバイケースで柔軟な判断は必要ですが、よく言われるように、新規事業を始める前に予め「撤退ライン」を決めて置くことは非常に重要です。

では、具体的に撤退ラインはどのように定めるべきでしょう。

 

これは大別すると2つです。

 

1.定量的な指標 

まず、定量的な指標です。これは非常にわかりやすく、例えば「2年以内に営業利益万円を達成」や、「ユーザー数人」あるいは「設定されたKPI80%以上達成」といった数値的な指標が用いられます。

管理が簡単で、判断がしやすいというメリットがあり、どこでも使われています。

 

しかし一方で、問題もあります。

それは「数値に置き換えることが可能なものしか見えなくなってしまう」というデメリットです。

 

例えば、「WEBメディア立ち上げ」という新規事業において、よくKPIとして使われるのはページビュー(PV)数、ユニークユーザー(UU)数などでしょう。

 しかし、メディアの本質はその「質」にあります。その場合PV数やUU数だけでその質を測定できるのでしょうか?

 恐らく、そこには数値で測ることが難しい膨大なコンテクストがあり、新規事業の存続の判断は「KPIを達成していないからこのサービスは閉じよう」という単純なものではないはずです。

 

もちろん「質」を可能な限り定量化しようと、試行錯誤や推測を重ねることは怠るべきではありませんが、定量的な指標だけで判断するのは、こと新しい取り組みに関する際には今後伸びる可能性を早めに摘み取ってしまうリスクがあります。

 ただ、この「定量的な指標」をしっかりと分析/判断することは、少なくとも「顧客がこれだけ使ってくれている」等の客観的事実を測定し、希望的観測や確証バイアスを排除するには非常に有効です。

 利用してくれているならば、主として顧客ニーズの有無の判定や、対応状況の把握などに用いることできます。

 

2.定性的な指標 

もう一つは、定性的な指標です。

「撤退ラインに定性的な指標なんて必要あるの?」と聞かれることもありますが、私はむしろ1.の定量的な指標よりも、こちらのほうが重要だと思っています。

具体的には「本来の意義・目的が変わってしまった」や、「外部要因で事業のコアの強みが失われた」「事業の重要性が落ちてしまった」などが挙げられます。

 

事例を挙げましょう。

私が過去に所属していた部署では、以下の3つの「ECサイト」を手掛けていました。

3つのサイトのいずれも、大手小売業とのアライアンスよって実現したものです。その3つの事業を下記としましょう。(名前・業態は架空のものです)

・大手小売業A社との協業サイト「フレッシュ食品」

・大手小売業B社との協業サイト「スーパードラッグ」

・大手小売業C社との協業サイト「ハッピーファミリー」

わざわざ協業してまで他社の公式ECサイトの立ち上げを行った真の目的は「自社単体で運営するECサイト(仮に「ワクワクモール」としましょう。)」への誘引を図ることでした。

 

当時「ワクワクモール」は残念ながら圧倒的なシェアを誇る業界トップクラスの競合企業群には大きく水を開けられていました。

このレベルまでサイトが大きくなってしまうと、多少のマーケティング施策を打つくらいでは焼け石に水で、抜本的な解決や競争力の構築には至りません。

新しい顧客を獲得して、より大きな成長を遂げるためには、「今までネットで買物をしたことがない人たち」を新たにモールに誘引する必要がありました。

 

そこで目をつけたのが「まだそれほどEC化率が高くなく、かつ日常的に高頻度で買う製品、いわゆるコモディティ」の領域です。

 このコモディティ領域はいずれも市場が大きく、「この領域で購買してもらえる新しい顧客が増えて定着すれば、非常に大きな成長が望める」と感じました。

 

ですが、自社だけではコモディティの領域に対するノウハウが網羅できません。

そこで、レベニューシェアで新規の公式ECサイトを、大手小売業とのアライアンスで立ち上げようと目論んだのです。

 

協業のスキームとしては

・大手小売業側はブランド力やMD、店頭チャネル活用

・弊社は、ECサイト構築・運営体制/ノウハウ提供、WEBマーケティング

という分担です。

弊社の負担が非常に大きいため、暫くの間、利益が殆ど出ないことも折込み済みでしたが、それでも「市場を広げ、多くの新規顧客を開拓することでモールの成長につながるなら」と思い切って始めた新規事業でした。

 そして嬉しいことに、皆の頑張りの結果、当初の目論見どおりこれまでリーチできていなかった新たな顧客層の開拓が進み、3つのECサイトはいずれも右肩上がりに成長を続けたのです。

めでたしめでたし……

 

と言いたいところですが、当然、3つの中に差が出てきます。

数字だけを見れば、フレッシュ食品>ハッピーファミリー>スーパードラッグという形で、徐々に顧客数や流通規模に優劣がつく結果となりました。

そしてついに、経営陣は判断を下しました。

「規模」という数字に従い、フレッシュ食品は継続、スーパードラッグは撤退、ハッピーファミリーは縮小という決定がなされたのです。

関係者には衝撃が走りましたが、決定には逆らえません。結局提携先にはお詫びをしてまわり、提携は解消されました。有能な社員の中には失望して離職するものもいました。

 

今でも思います。果たしてこれは正しい判断だったのでしょうか、と。

前述の通り、事業単体での定量的な指標だけを見れば、そう見えるかもしれません。

私も、そのままで良いとは思っていませんでした。

 しかし、私は経営陣の決定とは逆に、フレッシュ食品こそ撤退/縮小すべきだったと思っています。それは、「数字」ではなく「本来の目的」に照らし合わせた結果、そうすべきだったからです。

 

実は、上述したフレッシュ食品は単体での規模感が大きい一方で、元々のA社ブランドや店頭での囲い込みが強く、本来の目的であるモールへの誘引は、ほぼゼロに等しかったのです。

一方でスーパードラッグやハッピーファミリーなどは、本来の目的通りモールへの誘引が伸びており、ハッピーファミリーに至っては月間で万単位の新規顧客をプロモーション費用を使わずにワクワクモールへ誘引し、開拓出来ていたのです。

 

もともと「ワクワクモールへの誘引を増やそう」という目論見で始まったのですが、いつの間にか当初の目的ではなく、「流通額」あるいは「単体での黒字化」という目的にすり替わっていたため、当初の目的からすれば失敗のフレッシュ食品が存続され、スーパードラッグやハッピーファミリーが撤退/縮小されたのです。

 

なぜこんなことが起きたのか?

実はこの根本的な原因は、上層部の人事異動/体制変更でした。 

立ち上げ当初の担当上層部は「ワクワクモールへの誘引 > 事業単体の黒字化」という本来の目的を見据えていましたが、後任の上層部は「事業単体での黒字化 > ワクワクモールへの誘引」へと方針を切り替えました。

 そうして目的がすり替われば、チームのマネジメントや、そもそもの事業開発のアプローチに大きな影響が出ます。また、現場のモチベーションもコントロールできなくなります。

 

もちろん、変化の激しい環境に合わせて戦略や方針を変更する柔軟性を持つことは非常に重要です。

しかし、もしその変更により事業立ち上げ当初の本来の目的や意義自体が失われるのであれば、そのコンテクストやストーリーに応じて事業開発のアプローチを変更したり、場合によっては単体での定量的な指標が良かったとしても撤退やピボットを検討すべきケースもあります。

結局のところ、目的とアプローチがズレた状態で中途半端に事業を継続しても、良い結果になることは殆どありません。

ときに「数字」よりも「本来の目的」が重視されなければならない理由はここにあります。

 

 つくづく思いますが、撤退は決して愉快な話ではありません。ですが、撤退の判断を誤るとそれだけ大きな損失をもたらすリスクがあるため、新規事業を立ち上げるのであれば、絶対に避けては通れない話なのです。

そのため、新規事業に携わる方は常にこの観点を意識しながら、事前に定量/定性の双方の撤退基準やそれに伴う指標を予め設計しておくことをおすすめします。

 

 

WEBサイト:株式会社Relic

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頭がいい人は「分かりやすい説明」をする時、何を考えているのか

当たり前の話かも知れないんですが、ちょっと書かせてください。

 

「頭がいい人は、難解なことでも分かりやすい言葉で説明出来る」みたいな信仰というか、都市伝説というか、聖闘士の伝承みたいなテキストが時折観測されるんですが、みなさんご存知でしょうか。

「頭がいい人 説明」とかでぐぐってみると、いろんなページが引っかかりますよね。

 

私、あれちょっと違うというか、色々誤解されてるなあ、と思っていまして。

正確には、「頭がいい人は、相手に説明をする目的と、相手にどこまで理解させる必要があるかを見極めることが上手い」というべきなんじゃないかなあ、と。そんな風に考えているのです。

 

昔、私が今とはまた違う職場にいた頃、一人「すごく説明が上手い人」が同じ部署にいました。彼のことを、仮にTさんと呼びます。

Tさんはエンジニアで、私よりも十年くらい先輩で、当時その職場に参加したばかりだった私がいたチームの、チームリーダーにあたる人でした。

 

私がその頃いた職場はユーザー企業でして、しかも元々が営業系の会社なので、偉い人の中にシステムに詳しい人がいなかったんですね。その為、新プロジェクトの立ち上げであるとか、新しい技術・製品の導入の際、予算を確保する為にかなり気を使って技術説明をしなくてはいけないのが常でした。

やったことがある方はご存知だと思うんですが、「システムを全然知らない人」の為にシステムの説明をすることは極めて困難です

 

システム用語、通じません。前提知識、ありません。工数感、伝わりません。

そんな中、つまり「その技術」自体についての背景の知識は存在しないままに、「なぜその技術が必要なのか」「その技術を導入することによってどんなメリットがあるのか」「その技術にかかる費用は妥当なのか」を判断してもらわなくてはいけません。

 

勿論、システム会社に勤めている人で、お客様に技術説明をする人であれば、だれでも経験した苦労だと思います。私も割と苦労してます(今も)。

で、インメモリDB関連のとある新製品を導入する際、Tさんがえらい人達に対する説明会を担当することになりました。私もチームメンバーとして同席しました。パワポをかちかち操作するだけの簡単なお仕事です。

 

結論から言うと、Tさんの説明でえらい人達はみなさん納得してくれましたし、予算も降りることになりました。

えらい人達もみなさん目は厳しいので、通り一遍の説明では納得してくれません。Tさんの説明は技術的な部分にもきちんと踏み込みつつ、メリットとコストを分かりやすく説明する内容で、大変分かりやすいと私は思いました。なので、終わった後に「分かりやすかったです」とTさんにも言いました。

 
それに対して、いやちょっと待って、とTさんは言いました。

 
あれは「分かった気になってもらう」為の説明。君には分かった気じゃなくてちゃんと分かってもらわないといけないから、あれ聞いて「分かりやすかった」とか言われちゃうと困ります」

え。と思いました。分かった気になってもらう、というのは、つまり誤魔化しなのでしょうか?

 

Tさんがその時私に教えてくれたのは、おおむね以下のような話でした。

 
・難しいテーマには、「構造が複雑なので難しい」ものと、「理解しなくてはいけない情報量が純粋に多いので難しい」ものの、大きく二種類がある

・前者を整理して「分かりやすく」説明することは可能だが、後者を「簡単に」説明することは基本的に出来ない

・ただし、情報を簡略化したり、たとえ話を使ったりで「分かった気になってもらう」ことは出来る

・そして、それで十分目的は達成できることの方が多い。「きちんと」分かってもらう必要がない場合はそれで十分だし、えらい人たちはそれを承知の上で納得している

・重要なのは、相手に「どのレベルまで分かってもらう必要があるのか?」という見極め

・「分かりやすい説明」と「本来必要な情報を省いた説明」は違うものであって、ごっちゃにしてはいけない

・後者で「必要なところまで理解した」気になってしまうと困る

なるほどなあ、と思ったわけです。

 

つまりTさんは、まず「相手にどこまで理解してもらう必要があるのか?」という見極めを行って、その上で必要十分な説明を行う、という手法をとっていたのです。

全く技術の話に立ち入らなければ、そもそもメリットが伝わらないし予算感を納得してもらうことも出来ない。

かといって、技術の正確な説明をしても理解してもらえるわけはないし、そこまで分かってもらう必要もない。そういう場合には、必要な情報を簡略化して「分かった気」になってもらうだけで十分目的は達成できる。

けれど、きちんと技術者として技術に触れる人間であれば、「分かった気」では困るからちゃんと「分かってもらう」為の説明をする。そちらは決して「理解しやすい」説明ではありませんでしたが、精密で、きちんと整理された内容でした。

 
T
さんはこうも言っていました。

「たとえ話は、有効な場合もあるけれど、特に技術的な分野だと基本「わかった気にさせる」意味しかない。というか、たとえ話で正確な理解が得られることはまずない」

これはこれで、ケースバイケースではありますが、一面の真理だなーと思った次第です。

 
その後私は、色々な紆余曲折の末中間管理職になり、自分でTさんのような説明をしなくてはいけない立場になりました。

私はTさん程頭がよくないので、Tさん程上手く出来ているかは正直分かりませんが、まず第一に「どこまで理解してもらえば目的を達成できるのか?」を考える、という点は大事にしているつもりです。

 

一点気を付けないとなーと思うのは、自分自身が「簡略化された説明」を受けた時、ちゃんと理解した気になってはいけない、ということでしょうか。

するする頭に入ってくるだけに、「分かった気」になってしまう。けど実際にはあちこち必要な情報が抜けているのであって、きちんと情報を取り扱うのであればちゃんと自分で情報を補てんしないといけない。

 

そういった場面には気を付けつつ、引き続きその時々で分かりやすい説明を心掛けたいものだなあ、と思っている次第です。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

Photo via Pat Joyce

 

「仕事がない恐怖」に負けて仕事を詰め込むと、間違いなく会社がブラック化する。

仕事がない、というのは怖い事である。

経営者にとって、現場のスタッフに何もさせないで遊ばせているのは、毎月の給与をドブに捨てているような気分になるだろうし、運転資金が入らないのだから、会社の存続も怪しくなってくる。

さらに、その不安は現場のスタッフ達にも伝わって、「この会社は大丈夫だろうか」と中年の社員を中心に重い空気が会社中に広がる。

営業や経営者と違って、彼らは止まった生産ラインを磨くとか、Illustratorの白紙カンバスの上でカーソルをグルグルするしかやることがないので、不安のはけ口もない。

 

こういった「仕事がない」恐怖を知っている経営者はとかく仕事を入れたがるようになる。

ある程度仕事が詰まっている場合でも、その仕事が終わってしまってスタッフが遊んでしまうのではないか、と考えて、とにかく営業の尻を叩き続ける。もはやスケジュールの重複など二の次で、何でもいいから受注しよう、となった挙句、採算のとれない仕事までする羽目になってしまったりする。

これは現場のスタッフでも同じことで、「仕事が無い」恐怖をしっているスタッフは、とにかく仕事を抱えたがる。自分ができる限度以上の仕事を受け持ってしまって、深夜残業の毎日を送り、最後には大量の仕事を残してぱったり倒れてしまったりする。

 

営業がどんな仕事でも受注して、スタッフの前には膨大な仕事が積まれ、毎日忙しいという状態は、見た目上、稼働率が上がって会社にとって良い事のようにも思える。しかし、クリエイティブワーク(に限らないかもしれないが)の場合はそう単純な話ではなく、実際にはちょうど良い忙しさというのがある。

 

とある昔のゲームクリエイターが雑誌に

「だいたいマスターアップ(納品)の一ヶ月前にリリースできる水準には持っていく。残った一ヶ月で本来自分がやりたかったことを実装したり、グラフィックのアラを直したりしてよりおもしろいゲームに仕立てる。こうした時間がゲーム開発には非常に大切だ」

というような意味のようなことを書いていた。

 

クリエイターというのは基本的に凝り性である。なので、リリースできる水準になった所で、時間が余ったりすれば、じゃあ、後は納期まで一日中のんびりWebでも見ていようか、とはあまりならない(そういうクリエイターが存在する事を否定はしないが)

彼らは余った時間をクオリティのアップやチェックに使って、とにかく「作品」の細部を詰める。また余った時間を勉強会やハンズオンでの新人の教育に使ったりする。

そうして育った新人はさらに生産性が上がり、クオリティの高い仕事をするようになるのである。つまり、現場においては、時間の余裕というのがクオリティの向上と人材育成に直結するのである。

 

一方、ある種の経営者や営業にとって、仕事をとって、売上の額面を上げる事が絶対善であり、ちょうど良い仕事量や現場の成長という概念はすっぽり抜けていることが多い。

言うなれば、現場というものを直視せずに、仕事を放り込めば、それだけの売上を稼いでくれる「装置」と見ているのである。

残業代をしっかり払っている会社であれば、残業代というファクターが原価を押し上げることになるので、ある意味定量的に「ちょうど良い忙しさ」を判別でき、受注の歯止めが効くのかもしれないが、残業が慢性化している会社や、何らかの事情で、(違法、合法含めて)残業代を払っていない会社はこのような定量的なアプローチができない。

 

結果、何でもいいから受注しよう、となってしまって、現場はブラック化し、離職率は上がり、それによってさらに納品物のクオリティが下がる。結果、その会社はクライアントから「何でも引き受けてくれるが、品質の悪い会社」と見なされることになる。

一度、こうなってしまうと、どれだけ頑張ろうと、期間や予算が潤沢に確保できる「美味しい」仕事がまわってくることはなくなってしまう。こうした会社は、クライアントにとって体のいい「奴隷」であり、連休前日の17時に「これ、連休明けの朝までにやっといて」みたいな扱いを受けることになるのである。

 

こうした悪循環に陥った制作会社は結構あるように思う。

こうなってしまってからスタッフにクオリティを上げろ、と叱責したり、採用経費をかけてスタッフを増員しても間に合わないことが多い。

採用経費分だけ、余計に仕事を取らなければならないし、彼らが作業に習熟する時間もとれない。「ちょうど良い」仕事量の感覚がつかめていないので、繁忙期になる度に熟練のスタッフが離職してしまったりして、結局は元の黙阿弥になってしまうのである。

長時間労働はスタッフだけでなく会社全体に毒のようにまわっていき、最終的には経営上の悪条件をもたらすのである。

 

では、「ちょうど良い」仕事量を知るには、どうすれば良いだろうか?

まず、経営者は残業代をキチンと払って原価率や労働分配率を正確に知らなければならない。そして納品して、請求した売上が入った時点で安心するのではなく、現場の空気や納品物をしっかり見ている必要がある。例えばこんな事だ。

  • 新人が楽しそうに仕事をしているか
  • 納品物が想像よりもいい出来になっているか(クライアントの反応が良いか)
  • 納品物(製品)にデザイン上のアラがなくなっているか(隙がないか)
  • 納品後に不具合が露見するなど、品質が低下している予兆がないか

こういう事を見ていれば、ある程度、現場の状態や能力というのは推測できる。

どういう立場であろうが、現場の状態とは会社にとっての成長の源泉であり基本である。また、現場が正常に稼働し、納品物のクオリティが上がれば、長期的には単価を上げていくことさえ可能だろう。

 

もし、会社がこのような悪循環に陥っていると感じているのであれば、現場や納品物に目を配り、売上という単純な指標に捕らわれずに今一度仕事量やその内容を見直してみてはいかがだろうか?

 

 

【プロフィール】

著者名:megamouth

文学、音楽活動、大学中退を経て、流れ流れてWeb業界に至った流浪のプログラマ。

ブログ:megamouthの葬列

「ギークな野郎」が働きやすい組織をどう作るか。

こんにちは。「株式会社わたしは」の竹之内です。

あけましておめでとうございます。2017年も、よろしくお願いいたします。

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さて、年明けの最初の話題は「組織論」です。

 

……と偉そうに言っても、弊社はたった二人の組織です。「二人で組織も何も(笑)」と言われそうですが、弊社は技術主導の企業です。

技術の先端にいなくてはいけない我々は、今後は「単に優秀」ではなく「突き抜けた技術者」の採用を進めたいと考えていますので、「「尖った人が数多くいる」組織をどうマネジメントするのか」は、非常に重要な問題です。

 

では「尖った技術者の組織」に必要なのは何でしょう。

それは月並みですが、わかりやすく言うと「切磋琢磨」ではないかと思っています。技術者同志が競い合う風土、「俺のほうがおもしろいことを考えてるぜ!」と公言してしまうような文化こそ、望ましい要素です。

ただし、言うだけなら簡単ですが、これを「切磋琢磨する仕組み・ルール」として採用するとなると工夫が必要です。

では具体的にどうすればよいのでしょう。

 

例えば、弊社の人工知能のエンジンの根幹部分の開発については常に「社内コンペ形式」が取られます。

通常、開発においては「Aさんはこの部分」「Bさんは別の部分」という形で分業がなされると思います。

 

ですが、弊社においては私ともう一名の開発者である小橋が、科学者としてのプライドを掛けて、開発の案を出し合い、実装し、優れた案が採用されます。

お互いにアツくなることもありますがこれには、

・緊張感を持って仕事ができること

・お互いのノウハウを共有できること

の、二つのメリットがあり、現在のところかなりうまく行っているのではないかと思います。

 

これは新しく入ってくる方にも適用され、弊社に興味を持ってくださり採用面接にお越し頂いた方には、面接の最後には必ず

「弊社にjoinしたとして、あなたがうちの会社にできる提案を持ってきてください」とお願いをしています。その提案は技術的なことでも、マーケティングの提案でも、分野は問いません。

Valueのある人とは、そういった提案ができる人、組織が保有していない価値を提供してくれる人のことだと思います。そこには一種の「破天荒さ」が必要なのではと考えます。

 

 

なお、余談ですが私はTwitterという会社の創業期の文化がGoogleのそれよりも好ましいと思っています。

それは「組織のカルチャーがギーク」だからです。

 

例えば、「ツイッター創業物語」*1の中で、創業メンバーのひとりであるビズ・ストーンによってこんなエピソードが語られています。

Googleは「スタンフォードやMITの学位をいちいち褒めちぎるグーグル社員の世界」とGoogleの文化を評しています。

それとは対照的に、Twitterを「なんでも好きなことをやれよというメンタリティの入れ墨を彫ったハッカー集団や、ホームレスのような技術者が、好き勝手に開発している文化」として表現しています。

 

そこからイメージされるのは

「俺が一番スゲーよ。」

「お前みたいなヘボが何いってんの、俺のほうがスゲーよ。」

こう言った会話です。子供ですね(笑)。

ですが、「一般ウケする価値観」を廃し「俺がこれが最高だと思う」を戦わせているTwitter創業期のような組織のほうが、私にとっては理想の組織に思えます。

 

一橋大学大学院の楠木建さんは、著書の中で次のように言っています。

賢者の盲点を衝くような「一見して非合理」なキラーパスがストーリーのクリティカル・コアとして組み込まれている。このことは古今東西の古典として読み継がれるべき秀逸なストーリに共通して見られる特徴なのですが、戦略「論」としてこれに最初に注目したのは、おそらく吉原英樹さんだと思います。

当時神戸大学にいらした吉原さんは『「バカな」と「なるほど」』という素敵なタイトルの本を今から20年以上も前に書いていらっしゃるのですが、このタイトルがそのまま戦略の本質を言い表しています。

戦略が合理的な要素ばかりで出来上がっていれば、誰もが同じようなことを考えるので、独創することはできない。だとすれば、「バカな」と思わせる非合理の要素がありながらも、成功してみると人々が「なるほど」とうなずく、これが優れた戦略の要諦だ、という話です。*2

我々はこの「バカなる」が重んじられる組織を作りたい、「俺の話を聞け」というギークが働きやすい組織を作りたいと考えています。

 

 


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経営者やマネジャーが「絶対やるべきこと」と「やってはいけないこと」

ある記事を見た。

スタートアップ初期に重要ではない20の項目と最も重要な2つの事

 

上の記事は、ある会社のオウンドメディアの記事だ。

「重要ではない20の項目」は皮肉が効いていて面白いが、それより強く主張したいのは「最も重要な2つの事」のことだろう。

下記の2つだけの事柄に関してはスタートアップを始めた直後から最重要項目である。

  1. ユーザーに求められるプロダクト

立ち上げ時から最も重要な事柄の一つは、ユーザーが求めるプロダクトを作る事。そしてそのクオリティーを追求する事。会社になっていなくても、従業員がいなくても、オフィスが無くても、デザインがしょぼくてもとりあえずユーザーが求めるなにかしらのプロダクトをリリースする事に注力する事。

  1. ユーザーの獲得

ユーザーが欲しくなるプロダクトをリリースしたら、次はユーザーを獲得する事。獲得施策は多々あるが、あらゆる方法を使ってでもどうにかユーザーの獲得をしなければならない。資金調達とか組織作りはその後だ。(flesh trax

至極まっとうな話だ。

そしてここで挙がっている重要な2つである「ユーザーに求められるプロダクト」と「ユーザーの獲得」は、ピーター・ドラッカーの言う「企業がやらなければならないことはたった2つ、マーケティングとイノベーションである。その他は全てコストだ」*1という言葉そのものである。

 

だからこそ、「重要ではないこと」はすべて、会社の活動から排除しなければならない。実際には「やってはいけないこと」は、20どころではなく、「殆どのことは、やってはいけないこと」なのである。

 

元インテルのCEOであるアンドリュー・C・グローブは、著書の中で次のように述べる。

私の仕事は決して終わらない。家庭の主婦と同じように、マネジャーの仕事は決して終わらない。もっとなすべき仕事が、もっと為さねばならない仕事が、そしてなしうる以上の仕事がいつも控えているのだ。

マネジャーは多くのボールを空中に上げておき、自分の部門のアウトプットを最高に上げると思われる活動に自分のエネルギーと注意を注がなければならない。言い換えれば、自分の”テコ作用”が最大となりそうな点に移るべきなのである。*2

彼の言説は的を射ている。

経営者やマネジャーは「自分の力がマーケティング、およびイノベーションに対して最高の成果をあげる」ところにだけ、注力しなければならないのである。そこには無駄な仕事の入り込む余地は一片もない。

 

しかし、この2つを同時に行っていくのは大変である。

例えば、

「凄いプロダクトを作って世の中をあっと言わせたい」

○○することで社会を変革したい!」

と言う、経営者は山ほどいるが、

「凄いプロダクトを作って、それを世の中に伝える努力をしないといけない

○○で社会を変革して、それを世間に伝える努力をしないといけない」

と、はっきり言う経営者はあまりいない。

それはAppleFacebookのプロダクトの素晴らしさは語ることができる人は多くいるが、それらのマーケティング戦略のことを語れる人が少ないことからも理解できる。

 

経験的に、多くの経営者は、端的に言うと「凄いプロダクト」を作ればそれが勝手に浸透していくと思いがちか、もしくは「普通のプロダクトでも営業力と、マーケティング力で売れる」と思いがちである。

もちろん、彼らに聞けば「両方大事」という。

しかし、資金的な問題や人的リソースの問題で「イノベーション」か「マーケティング」かと言う二者択一は常に求めらる。また、経営者の能力もどちらかに偏りがちだ。

その結果、知らず知らずのうちに「イノベーション」か「マーケティング」のどちらかだけにフォーカスしてしまう。

 

そして、特に失敗のパターンとして多いのは「イノベーション」だけに注力してしまうパターンである。

営業やマーケティングが得意な経営者やマネジャーは逆に「とりあえず売上は伸びるので、なんとか生き延びてしまう」事が多い。(これはこれで、後々、もっと大きな別の問題が持ち上がるのだが)

だが、営業やマーケティングは苦手なのはマズイ。下手をするとキャッシュがつきて、すぐに消えてしまう。

これは実に勿体無いことである。

「特に優れてもいないプロダクト」が営業力とマーケティング力で世の中に出て、「優れたプロダクト」が消えていくという状況は、世の中全体のことを考えてみても、大きな損失である。

 

では、多くの企業が不得意としているであろうマーケティングはどのようにしていけば良いのだろうか?

グーグルアドでバナー広告を大々的に行うことであったり、マスメディアにアピールしたり、豊富な資金があるのであれば、テレビCMを打ったりすれば良いのだろうか。

まさか。

多くの場合はその「マーケティング」に予算をつぎ込むほどの資金がなかったり、開発がまだ完璧でないうちにそのような手法は簡単に使えないと考えた方が良いだろう。

そもそも知名度がないままにそのようなマス媒体を利用しても、ほとんど効果はないだろう。

 

例えば、Appleの最初の成功を知っているだろうか。

それは創業前の話になるが、最初の成功はまだパーソナルコンピューターという言葉もない頃、コンピューターオタクの集まりで自分たちの製品をアピールしたことだった。

それは、世界で初めてのパーソナルコンピューターの大量販売のきっかけを掴むことにつながる。*3

 

また、Facebookの最初の成功は、ハーバード大学の名簿をハッキングし「女子学生のランキングサイト」としてweb上に公開したたことだ。

褒められた話ではないが、それは学生に熱狂的に支持され、やがて「Facebook」と名づけられた大学生向けの名簿サイトは、「登録されることが名誉」となり、東海岸のIVYリーグなどの有名大学に広がっていった話は有名な話である。*4

 

アップルやfacebookを例に挙げるまでもなく、最初は多くの人に無理に伝えようとすることではなく、そのプロダクトが必ず響きそうな人たちをごく少数でも探すことであり、そしてそのネットワークに入り込んで、継続的に情報を発信することが重要なのである。

それは量ではなく質である。

シリコンバレーの有名なベンチャーキャピタルYコンビネータが、その卒業生であるAirbnbCEOネイサン・ブレチャージクに語った言葉が的を得ている。 

「まず、100人に愛されるものを作りなさい」(NewsPicks

 

幸いにも、今は有効なネットワークやコミュニティにアクセスする方法は簡単に手に入る。

自分たちでオウンドメディアを持つことであったり、SNSで発信することである。手弁当でイベントを開いても良いだろう。それらを活用すれば、低コストで、それらにアクセスできる。

 

もちろん企業の大好きな「イノベーション」と同様に知恵が必要だし、やり続けるという努力も必要になるだろう。

だからこそ無駄なことをやめて、「ユーザーに求められるプロダクトの開発」と「ユーザーの獲得」この2つのみ集中することが本当に大切なのだ。

 

 

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(Thomas Hawk)

 

 

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『芸能人格付けチェック』を観て、「頭のいい人」がどんな人なのか少しわかった。

1月1日の夜、我が家にとっては毎年恒例の『芸能人格付けチェック』という番組を観ていました。

高級ワインや超高級食材や何十億円もするような楽器での演奏と、コンビニや近所のスーパーマーケットで売っているような「普通の食べ物」、初心者用の楽器での演奏を比較して、どちらが高級なものかを当てる、という番組です。

 

食べ物の味とかはテレビを観ていてもわからないのですが、クラシックやジャズバンドの演奏(プロやアマチュアか)やプロの演出家と映画好きの違い、なんていうのはテレビ画面越しにでも判断できるので、毎年、新年の運試しのようなつもりで僕も挑戦しているのですが、これがもう、全然当たらない。

ABかの二択なので、ランダムに選んでも半分は的中するはずなのですが、どうもみても、半分もあたっていない。

そこで、「自分で思ったものと逆のほう」に張ってみると、やっぱり最初に「こっちだ!」と感じたほうが正解。誰に責められるわけでもないのだけれど、自分の芸術的なセンスの無さにがっかりしてしまうのです。

GACKT様は遠いなあ、と。

 

さて、今年、2017年のこの番組のなかで、「日本を代表する盆栽作家が丹精こめて製作した1億円の盆栽『雲竜』」と、「老舗和菓子店主がつくったお菓子の盆栽」の二択の問題が出ていました。

盆栽って、ハマるとすごく奥深いらしいのですが、僕は、まったく知識がありません。

 

Aは細い枝が頼りなげに伸びていて、その先に葉が少しついているような、僕の最初の印象では良く言えば「繊細」、悪く言えば「貧相」にみえた作品。

Bは幹が太くてどっしりとしていて、葉も立派に繁って整っており、立派なんだけれど、僕には「豪快」あるいは「大味」な作品。

 

うーむ、見た目の印象では、Bのほうが豪華で高そうな感じはするけれど、わざわざ問題にするということは、Aのほうが高いのか……?

そもそも、盆栽を観るポイントがわかっていないので、あてずっぽう、になるしかない。

結局、僕は「これでBが正解なら、当たり前すぎるだろ!」と、「A」を選択したのです。

 

答えは……「B」!

ぐはっ!

 

まあ、実害があったわけではないのですが、今年はことごとくハズレだったので、「逆神!」とみんなに呆れられました。

下手の考え、休みに似たり、とはこのことか……

 

さて、ホリエモンこと堀江貴文さんもこの番組に出演して、盆栽の問題に挑戦していたのです。

堀江さんは、この番組の帝王GACKTさんと同じチームで、外せないプレッシャーは相当のものだったと思います(結局、堀江さんは1問だけ外してしまい、コンビは「普通芸能人」になりましたが、GACKTさん個人の連勝記録は続いています)。

 

盆栽を前にした堀江さん、いままで見たことがないような真剣な表情で考え込んでいました。

いくら堀江さんでも、盆栽は守備範囲外みたいです。

悩みに悩んだ末に出した答えは……

「雲竜って言ってたんで、1億円の作品の方が。まあ、堂々たる雲竜っぽい感じがB

 

 この堀江さんの根拠を聞き、正解をみて、僕は「やっぱり堀江さんって、頭が良いんだなあ」と感心してしまいました。

僕は全くアテにならない自分の「審美眼」みたいなものに頼って、結局、あてずっぽうに答えを出してしまったけれど、堀江さんは「自分は見た目で盆栽の値段を判断することはできない」ということを認めたうえで、「雲竜」という名前と作品の概観を照らし合わせて、正解を導きだしたのです。

製作者がそういう名前を付けたからには、Aの枯れた感じよりも、Bのどっしりとした作品のほうではないか、と。

 

相撲の土俵入りにも「雲竜型」というのがありますから、重量感があるはずなんですよね。

僕は「値段が高いほう」を選ぼうとしたのだけれど、堀江さんは「提供された情報に適合しているほう」を選んだ。

目の前にあるものの価値がわからない、のは同じでも、堀江さんは、そこで思考停止せずに「問題文」をよく読んで、そこに答えが書かれていることを見つけ出したんですよね。

 

あらためて考えてみると、あの問題に関しては、盆栽の値段を決める基準を知らなくても、正解に近づくことはできた。

もちろん、あの番組のコンセプトからすれば「邪道」なのかもしれないけれど、生きていると、こういう「自分ではよくわからないものの価値を判断しなければならないこと」が、ときどきあります。

そういうときに、僕は大概、あきらめて「勘」に頼ってしまう。

でも、本当に賢い人は、そのまわりにある「情報」を分析して、少しでも正解に近づく粘り強さを持っている。

 

 子どもの塾の説明会に行ったとき、こんな話を聞きました。

「勉強ができない子には、うまく問題文を読めていない子が多い」

そんなの、書いてあることを「そのまま」読めばいいと思いますよね。

ところが、実際に出されている問題を読むと、確かに、誤読しそうなものもあるし、誤答例をみると、思い込みで答えてしまっている子も少なくない。

僕も子どもと一緒に算数の宿題をやっていると、子どもは、「わからない」「計算ができない」のではなくて、「問題文の意味を取り違えている(あるいは、読み取れていない)」ために答えを間違っていることが多々あるんですよね。

 

 その講師の先生は言っていました。

「答えは、必ず問題文のなかに書いてあるんです」と。

 

お正月ムードのなかで観ていた番組ではあったのですが、ものすごく印象に残る場面でした。

ホリエモン、すごい。

後付けでみると「当たり前にみえること」をああいうプレッシャーのかかる状況下でちゃんとできる人って、実際は、そんなにいないと思うのです。

「答えは、問いのなかにある」

それを意識すべきなのは、たぶん、子どもたちだけじゃありません。

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ;琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

努力もせずに「運が良くなる」ことなんて、ありえない。

なんやかんやで新年である。おみくじを引いた人もたくさんいると思う。

 おみくじを楽しんでいる人が沢山いる中でこんな話をするのも恐縮なのだけど、今日はゲン担ぎとか運とかに妙にこだわりすぎている人に警告というか忠告をするような話をしようかと思う。

 

運は占うものではなく、結果から良し悪しを判断するぐらいが丁度いい

朝のニュース番組とかでよくやっている運勢占いが楽しみな人もいるかもしれない。

僕もかつてああいった種類のものが結構好きだった。タロット占いとか、星座とか、いろんなものを眺めては自分のこれから行き着く先を夢想していた。

 

「今年の自分は運がいいから、大丈夫」 

「今年は厄年だ」

 

このように”まず運ありき”でものを考えていた。これを読んでいる人にも同じような人がいるかもしれない。

 

この行為がおかしいと思うようになったキッカケは本当にふとした事だった。たまたま身の回りに妙にゲン担ぎというか、不思議なルールで自分を縛って生きている人がおり、その人の事が変だと思うようになった事が”まず運ありき”で物事を考える事をやめられた事に繋がったのである。

 みんなの周りにもたぶんこんな奴1人ぐらいいるんじゃないだろうか?

 

「悪い言葉は運気を下げる」

とか

「今日の私のラッキーカラーは黄色だから黄色いものを身に着けてるの」

だとか

「受験の朝だからカツ丼を食べてきた」

だとか。

 

これらが本当なのか嘘なのかはここではどうでもいい。けどちょっと考えて欲しいのだけど、仮にこれらを全て遵守したとして、その後の結果が良かったら結局運がいい事になるし、結果が悪かったら結局運が悪かった事になるのではないだろうか?

 

つまりこうとも言える。運なんてものは所詮、物事の結果からしか判断できないものなのだ。

そしてよい結果というものは、古今東西どこに限らずあらかじめ勤勉に努力し、用意周到にチャンスがくる事を今か今かと待ちわびている挑戦する人にだけ訪れる。例えスティーブジョブスであろうが家で寝ているだけでは成功できない。当然の事だ。

 

言霊とか今日のラッキーカラーとかゲン担ぎのアイテムだとか、そういうものを遵守するだけで巨万の富だとか無限の約束だとか絶世の美女を射止める事なんてあるはずがない。

 

僕はこういったものにこだわりすぎる人達は結局キチンと未来を見据えた努力がしたくないだけなんじゃないかと思っている。そう思うようになってから、全てのこういった自分を勤勉から遠ざけ、約束された未来への見通しを曇らせる情報から身を遠ざける事にしている。

そしてただ忠実に、冷静に着実に結果のみを見据えて努力するようになった。かなり長い間結果が出ずに腐りそうになった事は何度もあったけど、気がつくとある時を堺になんだかんだで結果がちょっとづつ出るようになってきた。

 

そうして結果がちょっとづつ出てきている今現在、自分の人生を振り返ってみると、ああ自分は本当に恵まれて幸運な人生を歩んできているのだな、と心底思えるようになってきた。この状況に至ってみると不思議なもので、今度は自分の今の人生は偶然幸運が積み重なったものでしかなかったのだな、と思うようになるのである。

 

こう書くとお前も運気信仰の人と同じじゃないかと思う人もいるかもしれないけども、僕と彼らとの間には物凄い差がある。それは運をプロスペクティブにみているかレトロスペクティブにみているかである。

 

運気信仰の人達が幸運を引き寄せるためにしている行為は、結果を出すための努力には何の関係もないものばかりだ。

繰り返しになるが言霊もラッキーカラーもゲン担ぎのためのアイテムも、巨万の富だとか無限の約束だとか絶世の美女を射止める事には絶対につながらない。

残念ながら現代はおとぎ話のような魔法は作用しない。ある日遠い親戚が死んで巨額の遺産を手に入れることも、ある日あなたの頭に10000万DLされるアプリの原案が降りてくることも、ある日空から絶世の美女が落ちてくることも絶対にない。 

そういう結果は、幸運だけでは絶対に訪れない。ただひたすら忠実に現実的な活動を続けていき、チャレンジし続けなければ絶対に手にする事はできないのだ。こう考えればわかるけど、幸運なんてものがいくらついてまわってこようが結果がでないようならばあなたの元には何もおとずれないのである。

そして逆説的だが、いくら不幸だろうが結果さえ出してしまえばあなたの元には巨万の富とか絶大なる権力だとか絶世の美女が手に入るのである。生まれた時は幸運だったけども晩年は没落してしまった人生と、生まれた時は不幸だったけど晩年は幸せな家族と仲間に恵まれた人生だったら、あなたはどちらがより幸福な人生だと思うだろうか?

 

結局、運なんて言うものは結果が出る前から色々考えても虚しいものでしかないのだ。おのおのが粛々と自分にできる事をし続けて、訪れた結果から自分の好き勝手に運勢を判断すればよいのである。

そして死ぬ前にこう思えばいいのだ。「ああなんて俺の人生は運に恵まれたものだったんだろう」とね。

 

 

プロフィール

名称未設定1

高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

良い上司と、ダメな上司の大きな差とは。

books&appsキャラデザ修正版2
books&apps第11話 (1)

出典:「良い上司」と「ダメな上司」の6つの大きな差

漫画:眞蔵修平

website:http://www.matthewroom.com/
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1.「良い上司」は、部下の得意なことについての自慢話が多い。「ダメな上司」は、部下の苦手なことについての愚痴が多い。

「良い上司」は部下について話す際に、「アイツはこれができる」「アイツはこれがスゴイ」という自慢話が多い。「ダメな上司」は、「アイツは◯◯ができない」「アイツは◯◯が苦手だ」という話が多い。

 

2.「良い上司」は、機嫌が良さそうに働く。「ダメな上司」は、機嫌が悪そうに働く。

「上司がどのように働いているか」は、部下に大きな影響力がある。そして、「良い上司」は大抵の場合いつも上機嫌だった。心中は分からないが、辛いことや、クレームをもらった時も「機嫌よく、しかしキチンと」対応していた。

逆に「ダメな上司」は、大抵機嫌が悪そうであった。もちろん、あからさまに当たり散らす、ということは無い。しかし、上司の機嫌が悪いことは皆知っていた。そのような上司は大抵の場合、「重要な事を知らされていない」事が多かった。

 

3,「良い上司」は、「ウチの会社の魅力」をきちんと語ることができた。「ダメな上司」は、「ウチの会社の課題」しか語れなかった。

「良い上司」は、もちろん会社の課題を知っていた。が、それについて言及する時は必ず「ウチの会社、仕事の魅力」についても語っていた。

「ダメな上司」は、「課題」しか見えておらず、部下に「うちの会社のいいところ」を伝えていなかった。

 

4.「良い上司」は、謝れた。「ダメな上司」は、謝れなかった。

どんなに能力が高い上司でも、人は必ず間違う。その時の態度は重要だった。

「良い上司」は、自分がまずい指示を出した時には非を認め、謝罪し、次の指示を素早く出した。軌道修正が早かった。

「ダメな上司」は、自分がまずい指示を出した時、それを正当化しようとして多くの時間を使う。軌道修正が遅いのだ。彼らは「謝ると自分の威厳が傷つく」と考えていた。

 

5.「良い上司」は、「自分と違う考え方をする人」を重視した。「ダメな上司」は、「自分と同じ考え方の人」を重視した。

会議などにおいて、「会社のため、顧客のため」という前提を貫いている限り、「良い上司」は、「自分と違う考え方をする人」を重視した。それにより課題に多くのアプローチができた。

逆に「ダメな上司」は、自分と同じ考え方の人ばかりを重視した。時には自分と違う考え方をする人を排除した。部下はそれを察し、「会社のため、顧客のため」ではなく、「上司の考え方を知ろう」と努力した。

 

6.「良い上司」は勉強した。「ダメな上司」は、過去の経験に頼っていた。

「良い上司」は昇進してなお、勉強し続けていた。情報を集め、本を読み、経験から法則を導き、実践から修正する。そして部下からも学ぶ。そういった地道な努力を積み重ねていた。

「ダメな上司」は、昇進すると勉強を止めた。「過去の成功体験」が彼らの判断基準であり、それに違反することは許されなかった。

 


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エライ人が、勉強しない。なんとかしてくれ。

ウチはねえ……上が動かないからなぁ……と、担当者は困っている。

 

あるお菓子メーカーで、旧来のマーケティングに加えてSNSによるマーケティングを担当者が提案したところ、ろくに企画書も見ずに反対をされたと担当者は言う。

「大したコストでもないです、まずやって見てから、効果のほどをご判断いただきたい」

と熱意を込めて言ったが、

・前例がない、自社の文化にそぐわない

・リスクがある、炎上したらどうするんだ

・費用対効果が見えない

など、様々な理由をつけて企画は上に却下される。

担当者は「完全に予測はできないし、難癖つけようとすればいくらでも突っ込めるから……。この分だと、競合がやるまでウチはやらないでしょうね」と諦め気味だ。

 

「伝え方がまずいんじゃないの?」と、知人が指摘するが、担当者は人当たりの良い方なので、上司に嫌われているとも思いにくい。

「前から噂で聞いてはいたんだけどね、うちの役員、新しいものはよくわからない、よくわからないものは怖いし、若手と同じ土俵でやると負けるから、否定する、というのは本当みたい。」

と、担当者は不満を漏らす。

「結局、一番まずいのは、上が新しいことを勉強しないことだよ。なんとかしてくれよ。」

 

上の話の実態がどうなっているのか、詳しいところはよくわからない。

だがこう言った話はあまりにもありふれており、よく耳にするが、どうやらエライ人が新しいことに対して消極的なのは世界共通らしい。

私は「世界のメディア・リ ーダー100人」の1人に選出されたこともある、傑出したジャーナリストのジェフ・ジャービス氏の言説を思い出した。

広告主にも、広告代理店にも保守的な人は多いからだ。染み付いた習慣はそう簡単には変わらない。特に、何に資金を使うか、その決定権を握っている人は多くが保守的である。

そういう「えらい人」を相手に議論を仕掛けようとする人は少ない。必然的に、彼らが新しいことを学ぶのは遅くなる。彼らは相変わらず、テレビに広告を出そうとする。視聴者は急速に減っているのに意に介さない。

もっと驚くのは、「以前よりマスが貴重になったから」などと言って、視聴者が多かったときよりも高い広告料を払う人すらいるという事実だ。*1

「要するにさ、あの役員は昔の手柄だけで食ってるんだよね。」と担当者はこぼした。

「そのくせ、人事評価制度に「知識の取得」みたいな項目をを組み込んでくるんだよ。評価の時に「何を学んだ?」とか聴いてくるわけ。別に言われなくても勉強するし「お前が言うな」だよな。あーあ、もうこの会社もいい加減辞めようかな。」

 

−−−−−−―

 

確かに、このような人物は過去にも数多くいた。

そしておそらく、この役員は「自分が新しいことを勉強していない」とは思っていないだろう。「自分は今勉強していない」と自覚するのは、結構難しいからだ。

むしろ「知識と経験豊富な自分がダメというのだから、ダメなのだ」と考えている可能性が高い。

 

だが、聞きかじっただけ、本を読んだだけ、話を聴いただけで勉強した気になっている「えらい人」は多い。

しかしビジネスにおける「勉強」とは必ず実践を伴うものだ。上の役員は「新しいことを試さない」というだけで勉強を放棄していることがよく分かる。

 

この担当者は、新しことを学ばない人物が上に立つと、仕事が恐ろしく退屈になる、と言った。

たしかにそのとおりだ。

 

 

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(Tanja Cappell)

 

*1

「消去法」で人生の選択をしていくのはいい加減終わりにしたい。

以前、「趣味を答える難しさについて」という記事を書いた。

趣味を答えるという日常の一コマが何やら難しいものになってしまうというような、さらっとできる人にとっては何でもないことを難しく捉えてしまう人間がいる。今回は服を買うという別の切り口から、日常の一コマの難しさについて考えたい。

 

☆★☆★☆

 

「服を買う」というイベントを楽しめる人間がいる。ファッションが好きなのか、おしゃれに興味があるのか、ショッピング自体が好きなのかわからないが、とにかく事実としてそういう人間がいる。

一方で「服を買う」というイベントが、かけっこの苦手な小学生にとっての運動会と同じイベントになっている人間もいる。世界に何人いるのかわからないが、少なくともここに1人いる。

 

嫌いなわけではない。「難しい」のである。難しさゆえの苦手意識である。

何が難しいのか。

 

センスがない、ということではない。いや、センスがないのはその通りなのだが、センスがないから難しい、という因果関係ではない。センスなんてなくても、服はたやすく買える。

「センスがある」とは、多くの人にとってセンスが良いと思われる服の選択ができるということである。逆に言うとセンスがないというのは、多くの人にセンスが悪いと思われる服の選択をしてしまうことであるが、本人はそれが良いと思っているわけであり、つまりはセンスの良し悪しなんてものは他者が判断するもので、本人目線では「自分の選択=センスが良い」という式が成り立っているのである。

本人目線でのセンスの悪さは存在しない。センスの悪さは他者目線なので、本人にとってはあまり関係のないことだ。したがってセンスがないから服の選択が難しくなるという影響の仕方は考えられないと言うことができる。

 

では、センスの有無は関係ないとすると何なのか。

私は服を選ぶ難しさとは「優先順位をつける難しさ」だと思っている。 

「性格の良いブスと性格の悪い美人、どっちを選ぶ?」という若干失礼な質問を耳にすることがある。これは性格と容姿のどちらを選ぶかという優先順位のつけ方が問われている。(二択なので順位といっても2位までだが……。)この究極の選択と似たような難しさに直面するのが服選びだ。

 

好きな服か、似合う服か。

服を選ぶとき、どちらを優先するかという問題が発生する。性格の良い美人がいれば悩むことなく選べるように、好きな服が似合うのであれば悩む必要はないが、好きな服が似合わなかったり、似合う服を好きになれなかったりするから「難しさ」が生じてしまう。 

難しさと闘った結果、どうなったのか。選ぶことを辞めることになった。

 

私は「いつも似たようなワンピースを着ているよね」とよく言われる。 

・つるつるした生地の

・台形の

・単色の

ワンピースをよく着ているらしい。まるで私の好みがそうであるかのような言い方、そのような服を私が好んで選んでいるかのような言い方をされる。

 

「こういうワンピースが好きなんだね」と勘違いされるので、「違います」ときちんと否定する。

「消去法なんです」

「えっ!?」

「好きなワンピースを選んでいるのではなく、選べない服を除いていくと、こういうワンピースしか残らないんです」

 

消去法――――――自分で自分の言葉に悲しくなる。なんて残念な選択の仕方なんだろう。なんて残念な人間なんだろう。でも、事実なのだ。

「この服は嫌い」「この服は似合わない」「この服は体のラインが出るからダメ」と、着ることができない服を選択肢から外していった結果、残ったのが単色・台形・つるつるワンピース、というわけだ。

 

消去法という響きの虚しさを実感し、自分の意志で「コレ!!」というものを選んでいきたいと思う今日この頃。だって、消去法で選ぶ人生なんてつまらないもん。「こんな人生でいいのか」と自分に問いかけると「ダメでしょ」と返ってくる。

 

思えば就職活動も、最初は消去法だった。

やりたいことは特にない。働く姿もイメージできない。そんな人間がどうやって企業を選ぶかというと、なんとなくダメだと思う企業(=ベンチャー企業や中小企業)を選択肢から外していき、残った、なんとなく問題なさそうな大手企業に応募する。

そこで実現したいことが特にあるわけではないけれど、他に選択肢がない(と思っている)から大手企業をいくつか受けてみる。

 

消去法で選んだ企業に選ばれるわけがなく、落ちる。今思えば落ちて当然だが、当時は釈然としなかった。

 服選びと就職活動という全然違う2つのことが、消去法というキーワードでつながった。就職活動を失敗というつもりはないけれど、大手企業をなんとなく受けていた頃は消去法で選んでいたな~と反省する。

 就職活動は今後転職するにしても何百回もするようなものではない。でも服を選ぶというイベントは、今後何度も発生するイベントだ。「消去法で選ぶのは、もうやめようよ」と自分に言い聞かせる。服だけじゃなくて、何をするにも「選択」の毎日だしね……。

 

☆★☆★☆

 

新年1回目の記事ということで、「消去法」ではなく「自分の意志で積極的に選ぶ」ことを決意して終わりたいと思います。「お前の決意なんてどうでもいいよ」と思った人も、これは他山の石、もしかしたら消去法で選んでいることがあるのではないか、「なんとなく無難な方を選べばいいか」と思っていないか、振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

ではまた!

次も読んでね!

 

 

 [著者プロフィール]

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

著書「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

アルバイトを30種類近くやった、と言う学生が「アルバイトはやめとけ」と言う理由。

早い人はそろそろ就職活動の準備をしているだろう。自分の望む職に就くために、早々と準備をする学生は少なくない。先日会った学生も、そんな学生の一人だった。

彼は情報交換のため、と言っていたが、私も採用活動を行なっているので、現在の学生の方々の状況が気になる。

 

彼は会うとすぐに「質問があるんですが……」と切り出した。

「アルバイト経験って、企業の面接官はどのくらい重視してますか?」

 

なかなか難しい質問だ。「場合に依る」と言いたいところだが、それでは相手の本当に聞きたいことの回答にはならないだろう。

「一般的な回答でない、例えば私の個人的な感想でもいいですか?」

と聞く。同意が得られたので私は正直に答えた。

 

「率直に言うと、面接においてアルバイト経験で面白い話が聞けたことが非常に少なかったので、私はあまり重視していません。」

と答える。

学生は「そうですよね」と頷く。「アルバイト程度で、アピールになるって考えるのは、甘いですよね。」

「甘い、というよりも「コンビニのアルバイトのリーダー」とか「家庭教師」とかの話がありふれているので、差別化できない、というだけです。」

「つまり、皆同じような話をする、ってことでしょうか。」

「そう思います。」

「裏を返せば、皆とちがう話ができれば、自己アピールになるということでよろしいですね?」

「それはそうですが……。」

 

学生は改まって話を始めた。

「私、累計で30個程度アルバイトをしてきました。」

「多いですね。」

「家が裕福ではないので……とにかくお金が欲しかったので、結構色々やったんですが……でも「アルバイトはやらない方が良い」という結論に至りました。」

「30もやったのに?」

「そうです。もっと早く気づけばよかったです(笑)」

「なぜですか?」

「単純に、拘束時間の割りには得られるものが少ないなと。金銭面もありますが、覚えることがあったりするのは最初の1ヶ月くらいだけ、創意工夫も求められない。マニュアル通り、人の言うなりにやるだけと感じました。つまり、アルバイトをするくらいなら、図書館に行って、本を読んだり、勉強しているほうが時間の使い方として絶対にいいと感じました。」

「30もやる前に気づかなかったのですか?(笑)」

「改めて、就職活動を始めるにあたって、アルバイトで何が得られたか?を振り返ってたんですよ。」

「そうなんですね。」

「はい、でも今はカネがなくても遊べる方法を考えるか、本当にお金が必要なら、勉強しながら金を稼げる方法を考えないとダメだと思っています。」

「接客などは勉強になりませんでしたか?」

「接客ですか?そんなの働き出せば1ヵ月で憶えられますし、大抵の人はすぐにそつなくやれるでしょう。「お客様とのふれあいが大事だと思いました」なんてテンプレのセリフは、面接官の方は聞きたくないですよね。」

「……ま、そりゃそうですが。」

「あと、一番の問題として、コンビニとか、居酒屋とか、引っ越しとかをやって、正直言うと「働くのが大嫌い」になりました。いつも同じことをやるのは、本当に退屈でした。振り返ると、自分を歯車の一部と考えて、時間が早く過ぎるように「考えずに、忙しくしている」ことが一番重要だったな、と思います。」

「……なるほど。」

「で、この話を友達にすると言われるんですよ。「つまらない仕事をガマンしてやるから、金がもらえるんだろう」って。大学の就活アドバイザーからは「その話は就活でしないほうがいい」って言われました。「面接官の機嫌を損ねるから」って。そんなもんなんですかね。」

 

私は思案した。どうだろうか……。

「「つらいことをするから、お金がもらえる」と思っている人は、確かに多いと思います。だから、そういう人が面接官の会社では、採用してもらえないでしょうね。「辛くても我慢できないとダメだ」と言われそうです。」

 

学生は笑って言う。

「それなら、むしろ望むところです。というか、アルバイトってほとんどどれも、仕事の一番面白くない部分を切り出して、安く人にやらせているような気がするんです。それって、仕事に対するネガティブなイメージが付くだけなので、「アルバイトはやらない方が良い」という結論に至ったんですが……。これって、自己アピールになりますかね?」

 

ニヤリとさせてくれる、なかなか面白い学生だ、私は聞いてみた。

「で、どんな仕事に就きたいんですか。」

「他人の作った仕事をこなすだけの人は、一生仕事嫌いのワーカーで終わりますよね。逆に、自分が仕事を創意工夫できる余地が大きければ、すごく楽しいと思うんです。あと「嫌な人が多いな」と思った会社には行きたくないです。」

 

私は学生に言った。

「ウチが新卒採用をやっていたら、アピールは成功です。面白い話だった。他ではどうだかわからないけど。」

 

学生と別れた後、思った。

「アルバイトも良い経験になるんだな」と。彼がアルバイトを勧めないのは皮肉なことだが。

 

 

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(Tekniska museet

 

なぜ私達は「いいね」をつけたがるのか

インターネットに「いいね」というシグナルが飛び交うようになって、どれぐらいの時が経っただろうか。 

Facebooktwitterが登場したのは00年代だが、日本で広く普及したのは10年代に入ってからだったように記憶している。以来、Instagramなどを含め、ほとんどの壮青年がこの手のコミュニケーションツールを利用するようになっている。 

 

ところで、なぜ、私達は「いいね」をこんなに喜んで使うのだろう? 

ちょっと心理学用語を知っている人なら、「承認欲求があるからだ!」と答えるかもしれない。 

確かに。「いいね」がたくさん集まった時、私達は承認欲求が充たされる喜びを感じるし、それがコミュニケーションツールに投稿する際のモチベーションになっているのは事実だろう。 

 

しかし、その承認欲求は「いいね」をつけてもらいたくて何かを投稿する時モチベーション源にはなっていても、他人に「いいね」をつける時のモチベーション源としては弱いのではないだろうか。 

 

 

「いいね」をつける時のモチベーション

 では、他人に「いいね」をつける時、私達はどんなモチベーションを衝き動かされているのか。以下に、その主だったものを挙げてみる 

 

1.素直な驚きや知的満足 

一番ストレートな動機はこれだろう。 

すごく驚いた。 

面白いものを見せてもらった。 

知的に得るところがあった。 

これらは、「いいね」をつけたくなる動機としてはわかりやすい。人間は、承認欲求のような人間関係に関する欲求だけを求めているわけではなく、好奇心や審美眼や知的満足を充たしてくれるものも求めている。そういったニーズに見合ったものに出会った時に、「いいね」をつけたくなるのは健全なことでもある。愛くるしい動物の動画や素晴らしいスナップショットに出会った時に「いいね」をつける時の動機とは、このようなものだろう。 

 

2.自分にも「いいね」をつけてもらいたい=承認欲求に基づく「いいね」 

だが、人間は驚いたり面白がっていたりしない時にも「いいね」をつけることもある。 

他人に「いいね」をつけたら自分にも「いいね」をつけてもらえるかもしれない。もしかしたら自分のアカウントをフォローしてくれるかもしれない――そういった見返りを期待して「いいね」をつける人もいる。このような場合は、「いいね」をつける際も承認欲求に動機づけられているわけで、これもわかりやすいといえばわかりやすい。 

  

3.みんなと「いいね」したい=所属欲求に基づく「いいね」 

見落とされがちな、けれども実際に重要なのは、所属欲求に基づいた「いいね」である。 

所属欲求とは、承認欲求と同じぐらい重要な人間関係にまつわる欲求だ。マズローの欲求段階説の、あの有名なピラミッドの図では、承認欲求と並んで真ん中に位置している。 

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みんなと一体感を感じていたい。 

仲間意識を持ちたい。 

何かに所属していたい。 

こういった欲求は、承認欲求の“自分自身が”褒められたい・注目されたい性質とだいぶ異なっている。だが、サッカーチームやアイドルのファンクラブ暗に示しているように、人間は、自分自身が褒められたり注目されたりしなくても、他人との一体感や仲間意識や所属感覚が充たされるだけでも結構充足できるし、案外、社会はそういう充足感で成り立っていたりする。 

 

「いいね」を付ける際にも、この所属欲求に動機づけられている場面は多々ある。  

「友達が「いいね」をつけているから」「尊敬している人が「いいね」をつけているから」――そういった動機にもとづいて「いいね」をつける人は、そんなに珍しくない。 

あるいは、誰かを非難する記事に「いいね」が集まっているのを見て、自分も一緒に非難に参加したい・不正者をみんなで懲らしめたい、といった動機にもとづいて「いいね」をつけたことがある人も多いはずだ。 

  

人間は、自分一人では「いいね」をつける動機が足りない時にも、知人の誰かが「いいね」をつけていたり沢山の人が「いいね」をつけていたりすると、それらが後押しになって「いいね」ボタンに手を伸ばすものだ 

だから、私達が「いいね」をつけたがる背景として承認欲求だけを語るのは片手落ちで、所属欲求もまた「いいね」の循環を支え、今日のインターネットの景色をつくりあげていると考えるのが適当だろう。 

 

承認欲求からではなく、所属欲求からネットを眺めてみよう

こんな具合に、「いいね」の背景にはいろいろな欲求が動機として介在していて、人間関係にまつわる欲求としては、承認欲求と所属欲求の両方が重要な役割を果たしている。 

「いいね」という響きや、一部のブロガーや動画配信者の常軌を逸した行動のせいで、つい私達は「いいね=承認欲求」と思い込んでしまいがちだ。しかし実際には、人間は承認欲求と所属欲求の両方にモチベートされて「いいね」をつけていて、それらが身近な者同士の毛づくろい的コミュニケーションや著名なアカウントの賑わいを成立させていたりする。 

 

ネット発の口コミ大ヒットや大炎上のたぐいも、このふたつの欲求が絡み合って起こっていると考えたほうが色々と辻褄が合うだろう個人主義や独り暮らしがすっかり一般的になったこの21世紀においても、案外、人間は群れたがりなのである。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨 

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

「やりたいことがない人」がなぜ、企業にとって魅力的な人材ではないのかを説明する。

スタートアップの有能な経営者や、大手企業の上級管理職など、大きな仕事を試みる人たちが抱えている最も大きな課題の1つは、「人材の確保」である。

 

自分の事業のために働いてくれる多数の協力者を探すことなく、成功をおさめることはできない。だから、仕事の話には必ず「いい人はいないかね」という話がついて回る。

問題は、有能な人は圧倒的に絶対数が少ないことだ。実際、「よい人材の確保ができないので、事業の成長が遅れている」といったことは日常茶飯事である。

 

だが一方で、疑問も残る。

それは、「いい人とは一体、どのような人なのだろうか」という疑問だ。

「いい人」は非常に抽象的な表現であり、今ひとつ実感を伴わない。私も「いい人」が何を示すのか、永らく疑問だった。

 

だが最近、「いい人」に共通する1つの重要な資質を発見した。

それは「野心」である。

いい人は、「野心」が大きく、その質が高い。

野心を所持していることは、その人物のエネルギーの大きさを示すと、有能な人は考えている。

 

「野心」とは何か。

それは金儲けだけではない、何かを創造したい、貢献したい、描きたい、実験したい、そう言った欲望の現れすべてが「野心」である。

そして、野心の足りない人物は、企業にとって「ぜひとも採用したい、いい人」ではない。

「何をしたいかわかりません」

「普通でいいです」

「特にやりたいことはありません」

という発言は、その人の「野心」がない、あるいは小さいことを示す。

 

さらに、「野心」は質が問われる。

「野心」の具体性と複雑性が、その人の積み上げてきたものそのものを示すからだ。

例えば「金がほしい」というシンプルな野心は、おそらく貧乏であった体験や、欲しいものが買えなかった体験から来るものであるが、何かしらクリエイティブなものを含んでいるわけではない。

「人の役に立ちたい」といった平凡な野心も同様である。

 

そうではなく、企業が求める「野心」は、その中にクリエイティブなものが含まれることが求められる。

「現在存在しているVRを拡張して、◯◯という体験を作りたい」

「アフリカの非電化地域に、◯◯という価値観を持ち込んで、インフラを作りたい」

こう言った、具体的かつ、複雑な問題に取り組みたいという「野心」こそが、企業が強く求める資質である。

 

「そんなこと言っても、やりたいことなんか何も浮かばないよ」

という方もいるかもしれない。

だが、冷たいことを言うようだがそれは単なる勉強不足、経験不足である。なぜなら、野心は、高度な勉強や多様な体験から生まれるからだ。

 

先人の残した研究や知見を学び、実際にそれを現場で見て、触って確かめ、自分自身の試みを適用してフィードバックを得る。そして、その中から、「野心」が生まれる。

 

「やりたいことがなければダメだ」

と言うつもりはない。どういう人生をおくるかは、その人次第だ。

だが、企業が「やりたいことがない人」を重視しないのは、上述した理由から、極めて当然のことなのである。

 

 

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(Tjarko Busink)

 

妻が幼稚園の先生から叱られた、という話。

娘が幼稚園から小鳥を預かってきた。教育の一環ということだが、かごに入っている、2匹のジュウシマツだ。

小鳥を飼った経験はなかったが、実際に見てみるとなかなかかわいい。時折ぴよぴよなくので、娘もお気に入りだ。

 

さて、このジュウシマツだが、一方ではなかなか世話がかかる。

・毎日水を変える。

・餌の小松菜を取り替える。

・カルシウムを取らせるための石灰石(?)のような餌を与える。

・かごと、周りに飛び散ったハネやフンなどの掃除をする。

生き物を飼うのは覚悟がいるな、と痛感させられる。そしてやはり大変そうなのは掃除だ。

 

その掃除用のツールも、幼稚園から預かってきていた。

そのうちの一つに、「ヘラ」がある。何の変哲もない、プラスチックのもので様々なところにこびりついた汚れを落とすために使うものだ。

そしてつい先日、その「ヘラ」がなくなってしまった、という話を妻から聞いた。

 

探し回ったのだが、どうやら、娘と妻が小鳥のかごの周りに敷いている新聞紙を交換するとき、誤って一緒に新聞紙と一緒に捨ててしまったらしい。

娘も妻も、幼稚園から預かったものをなくしてしまったということで困惑したらしいが、ヘラは、100円もしないような品なので、妻が「私たちの責任だから、買い直しましょう」と娘に言ったところ、娘も同意したとのこと。

 

ここまではまあ普通の話である。一件落着、と言っても良いかもしれない。だが、この話には後日談がある。

 

この一件を妻が幼稚園に報告したところ、幼稚園の先生から、意外な反応が返ってきた。

先生はこう言ったそうだ。

「ヘラはストックが幼稚園にたくさんありますし、無くなることもありますので、全く気にしないでいただいて結構です。買い直す必要もありません。そんなことよりも「せっかくの娘さんの教育の機会」を逃してしまったほうが問題ではないでしょうか。」

「教育の機会?」

「そうです。ヘラがなくなってしまった。鳥の世話ができない。お二方は困ったわけですよね。」

「そうです。」

「困ったときに、親が「問題を解決してしまった」ことで、娘さんが試行錯誤する機会を取り上げてしまった、と考えらられませんか?」

「……」

「娘さんはヘラがなくなってしまったことで、掃除ができなくて困っている。親はそういうときこそ、「どうしたらいい?」と問いかけて、娘さんが工夫して問題に対処することを見守らないといけないんです。子供が困っているときは、子供が成長する良いチャンスです。親が勝手に子供の問題や困っていることを解決してしまってはいけません。」

 

******

 

妻は「叱られたよ……、いやー、そんなこと考えたこともなかったな―。」と言っていたが、感じ入るところがあったのだろう。ブツブツと考え込んでいた。

 

そう言えば、有能過ぎる上司は、部下をダメにする」という話を聞いたことがある。

部下がトラブルを起こすたびに上司がうまくそれを解決してしまうので、上司はとても部下から信頼されているのだが、部下は無能なまま、という話だった。

親がなんでも子供のトラブルにしゃしゃり出て解決すると、結局子供が無能になってしまうのだろう。

 

一方ではこのような「親をきちんと叱る」という教育方針を嫌って幼稚園を辞める人もいる、と妻から聞いた。

モンスターペアレント、というのはいろいろな意味で、マズイのだなと思った。

 

 

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(lara warman)

海外ひとり旅の面白さは「困惑すること」にある。

僕が海外ひとり旅を初めたのは大学最終学年からだ。それから結婚するまで毎年継続していた。

 

お金があまり無かった頃は航空券代だけで10万近く払って旅行を楽しむという行為にそこまでの魅力を感じず、そのお金で本を買うなり映画を楽しむ方がいいじゃないかと思っていた。

が、いざやってみると「バックパッカーにハマる人の気持もよくわかるわ!」とすっかりその魅力に取りつかれてしまった。

海外ひとり旅の面白さを一言でいうと、自由に生きるという事の喜びを知れるという事に尽きると思う。今回は自由に生きるという事はどういう事なのかについてを絡めて書いていこうかと思う。

 

海外ひとり旅は困惑することに意味がある

海外ひとり旅は当然だけど、プランは全て自分で組み立てなくてはいけない。航空券の手配から始まり、現地での移動手段もすべて自分で手配する必要がある。

こういう行為を自分でやってみると、普段は気が付かないような面白い物事がみえてくる事がある。

 

例えば日本の長距離電車は駅に到着する直前に駅名を音声ガイドが案内してくれるけど、海外の長距離列車の多くは到着前後でどこにつくのかを全く教えてくれない(だから今どこにいるのかがサッパリわからなくて本当に困惑する)

このように日本では当たり前のように享受していたサービスが、日本独自のものだという事気づかされる時、強烈な文化の違いに僕たちは直面する事になる。

 

僕の高校時代の恩師は『旅は迷えば迷うほどよい。異邦人である事が意識されるとき、初めて自分を相対的に眺める事ができる』と言っていた。高校時代は何をいっているのかさっぱりわからなかったが、海外ひとり旅で様々な苦労をすると自らの立場をあらためて見直すことができたりする。

 

「若いころの苦労は買ってでもしろ」という格言があるが、個人的には「旅の苦労は買ってでもしろ」という提言をしたい。ツアーを申し込むとこの手の苦労は全く経験する事ができない。これらの受難を乗り越えた後に帰国する際、ちょっとだけ成長した自分を誇らしく感じる事に海外ひとり旅の醍醐味がある。

 

日本語という守られた環境から少しだけ離れてみる世界

ツアー旅行は現地でガイドがつく。日本語のツアーを申し込めば、ガイドによる子細な解説を楽しみつつ観光地を巡ることができる。

当然ながらガイドによる解説は非常によくできている。それを聞き学ぶことは知的興奮にまみれた良い時間である。

 

一方、海外ひとり旅はそういうわかりやすさからはほど遠い。事前に予習しないとどこに何があるのかもさっぱりわからないし、そもそも観光施設までたどり着く事すらできない。

おまけに海外では施設入館のチケットを買うのにも長蛇の列ができていたり、時間毎の入場制限があったりと、日本ではまずない受難を味わったりもする。

例えばイタリアにある有名なレオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐は、数ヶ月前にチケットを購入しないと、みる事すらできない。

 

こうして、日本語で保護された世界から一歩はなれてものを見てみると、実にいろんな世界がみえてくる。そして改めて日本の良いところと日本の悪いところが見えてきて、自分が日本人という視点でモノごとの良し悪しをみていたんだな、という事に気付かされる。

 

海外の美術館入場に必要な金額が何円するかだとか(日本基準だとビックリするぐらい高かったり安かったりと色々ある)、なぜここにこれが置いてあるか(宗教的・政治的な理由が結構隠れてる)を自分で読み解いていくと、日本での慣習を相対的に見る事ができる。

 

こういう事は本を通じてでは絶対に学ぶことができない、生きた知恵となって自分の魂に深く刻み込まれる。例えていうと、サッカーを観戦してわかる事と、実際サッカーをやってみてわかる事の違いとでもいえばいいだろうか。

保護された観客席からものを眺める面白さも悪くはないけども、そこから脱してプレイヤーになってみる面白さは筆舌に尽くしがないものがある。

 

自決の妙味

海外ひとり旅の面白さをいろいろ書いてみたけど、個人的に海外ひとり旅の最大の面白さは自分の人生を自分で選んでいるという感覚にあると思う。

 

海外ひとり旅は全て自分に責任がある。現地での電車のチケットを間違って取ってしまっても、誰も助けてはくれない。朝に寝坊してバスを逃してしまっても、誰も助けてはくれない。

 

これを読んでいる皆さんも、色々夢があると思う。第一志望に合格したいとか、希望する企業に就職したいとか、はたまた気になるあの子といい関係になりたいだとか。これらの希望はお布団で惰眠を貪っているだけではかなう事はまずなく、計画を立案してそこにむかって正しい努力をつみ重ねていかなければ実現しない。

 

海外ひとり旅は、この行為を旅行という限られた時間の中で体験できる非常によくできたシステムである。自分で設定した目標を次々とクリアしていくのはものすごく面白い。計画を実行する途中でいろいろなトラブルに巻き込まれたりもするが、そのトラブルをうまく解決して計画を遂行できたりすると、言いようもない充足感を味わうことができる。

 

これらの行為を通じて感じる快感を自分なりに一言でいいあらわすと、『自分の人生の手綱を自分でうまく扱う感覚』というのが一番適切かな、と思う。人生は意外と好き勝手にいきる事はできない。会社で上司からいわれた仕事を粛々としていったり、学校で好きでもなんでもない勉強をさせられたりと、日常生活では人からいわれた事をやらなくてはいけない事の連続である。

 

他人とか社会の為に自分の人生を切り売りする事はものすごく疲れる。仕事の為に早起きする事と、行きたい場所に行くために早起きする事の間には、同じ早起きでも無限の開きがある。

 

みなさんも海外ひとり旅を通じて、ぜひとも自分の人生を自分で自決する面白さを味わってほしいと思う。自分の人生を生きていると感じる事ができる最も簡単な方法が海外ひとり旅だと僕は思う。

自分の為に生きる事ができる。そこに人生の充足感がある。

なお海外ひとり旅の難点をひとつだけ付け加えると自分の好きに生きる事の面白さに目覚めてしまった事により、会社を辞めて独立したくなってしまう事があげられる(笑)そこは自己責任でお願いしたい。

 

 

プロフィール

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高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

努力できる人と、そうでない人の考え方のちがいとは。

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出典:「努力する人」と「努力できない人」の6つの大きなちがい

漫画:眞蔵修平

website:http://www.matthewroom.com/
Twitter:https://twitter.com/makurashuhei
Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei

 

 

努力できる人とできない人は、「能力」が異なるのではなく「考え方」が異なる。実際、能力の高低にかかわらず、努力を続ける人達がおり、現場ではそのような人たちが結果を出していた。

では、その「考え方」のちがいはどこにあるのか。それは大別すると6つある。

 

1.努力とは、精神論でなく、方法論である

努力をする人々は、「きついことを何とかしてこなそう」とするのではなく、「どうやって楽に継続するか」を考える。良い意味で、自分を信用していないので、努力を仕組み化する。

例えば、「家に帰らず、会社帰りに勉強する」など、継続できるためのルーチンを作る。

 

2.努力とは、才能でなく、環境に依存する

努力を出来る才能、と言う方がいるが、努力できる人たちは「才能」といった眼に見えないものを当てにしない。代わりに、目に見える「環境」を何とかして努力ができるようにしてしまう。

勉強しやすい環境、継続しやすい環境、心地よい環境を自ら作り出す。

 

3.努力とは、結果でなく、過程である

努力できる人たちは、結果よりも過程を重視する。「どうせ勝てないからやらない」「今から一流になるのは難しいからやらない」とは言わない。

「勝てるようになるかどうかは分からないが、そこに至るまでの過程が大事」あるいは、「一流を目指す姿勢が重要」と言う。

 

4.努力とは、楽しむものではなく、単なる習慣である

努力をし続けている人たちに聞くと、ほぼ例外なく「キツくて嫌になる」と述べる。「では、なぜ続けているのですか?」と彼らに聞くと、彼らは決まって「習慣だから、やらないと気持ちが悪い」という。

努力をし続けている大半の人は楽しんでいるわけではなく、いつものことをしているだけである。

 

5.努力とは、達成感ではなく、学習感である。

達成感を味わうために努力している、という方も中にはいるが、実際にそれよりはるかに多い人が感じているのは、「今日はこれを学んだ」という学習感である。

大抵の場合、努力は成果と直接には結びつかないため達成感は味わいにくい。

むしろ自分の中に何が得られたのかを重視するほうが、努力するにあたっては有益である。

 

6.努力とは、信仰である。

努力をしたほうが良いかどうかは、本質的には誰にもわからない。報われる保証もないし、結果がでるという客観的な証明もできない。

だが、「努力をする人」は、「努力をすることの価値」を信じている。それは一種の信仰であり、証明を必要としないものである。

 

 


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頑張ったら収入が増えるべき、といってるひとが、過労死を生み出してる。

ロバート・ソローはノーベル経済学賞の受賞講演で「人々がより一生懸命働くから成長するのではない、よりスマートに働くから成長するのだ」と述べた。

 

この言葉通り、アメリカにおいては、ITのお陰でスマートに働けるようになり、生産性は上がったとされている。

2010年のように年4%の伸びとなれば、70年間で生活水準はなんと16倍になる。4%は例外としても、過去10年間のアメリカの労働生産性はなかなか悪くない成績を収めている。平均して2.5%と、1960年代以降最高の数字を達成しているのだ。これは1970年代、80年代を大きく上回り、1990年代さえもしのぐ。

そして経済学者の間ではその原因に概ね合意が形成されている。1990年代から始まったこの生産性急伸の原動力は情報技術(IT)だということである。*1 

一生懸命働くことは重要だが、豊かになるために「スマートに働くこと」はもっと重要である。

 

しかし、世の中には別の考え方もある。

連合会長「頑張れば賃金上がるという常識取り戻す」

ことしの春闘について連合の神津会長はNHKのインタビューに「頑張れば賃金が上がるという常識を取り戻すことが極めて大事だ」と話し、基本給を引き上げる「ベースアップ」などを維持することが重要だという考えを示しました。(NHKニュースweb)

もちろん彼の個人的な考え方は知らない。だが、彼に上のことを言わしめた背景、すなわち「頑張れば賃金が上がる」と考える労働者が多いことは事実とされている。

彼らの調査では「頑張ることは、賃金上昇とイコールである」ことは疑いの余地のないこととして捉えられているからだ。

労働者の8割、「一生懸命働けば収入が多くて当然」/連合総研調査

現役労働者の8割が「一生懸命働いた人が収入を多く得るのは当然」との考え方を支持している――連合総研(薦田隆成所長)が1月30日に発表した調査でこんな実態が分かった。現在の社会の平等感については、6割強が不平等だと答えており、収入や社会的権力・地位に不平等を感じる人が多い。(独立行政法人 労働政策研究・研修機構)

これは、冒頭の考え方とは正反対だ。

 

周知の通り、経営の論理は極めて明確だ。ピーター・ドラッカーの言うとおり、一定の成果をあげるのに投入した労力が少ないほど、良い仕事をしたことになる。

つまり、頑張りはより少なく、成果をよりおおくあげることが、良い会社と良い労働者の条件だ。

 

だが一方で「頑張ったら収入が増える世界」はどんな世界だろうか。

「頑張ると賃金増える」のであるから、頑張れば頑張るほど収入は上がる。つまり、ハードワークが高収入につながる、という世界だ。

おそらくは結果として残業が増え、労働時間は伸びる。行き着く先は、過労死か鬱だ。

その上で「頑張って働いたら収入が増える世界」と「スマートに成果をあげたら収入が増える世界」、労働者は果たしてどちらを望むのだろうか。

 

 

個人的には、頼むからもう労働者を頑張らせないでほしいと思う。もう、頑張ってもなにもおきないことは、現場は皆知っている。

実際、どんなに頑張っても商品は売れないし、頑張っても客は評価しない。

必要なのは、知識、アイデア、方法論、実行力という「頑張り」とは別種のものである。

 

だから、せっかく労働者の代表をやっているなら、いっその事「頑張っちゃいけない」とでも言って欲しい。

経営者に要求すべきはむしろ

「もっと人を効率的に使え」

「アイデアのない経営者は退け」

「もっと良いビジネスモデルを生み出せ」

「頑張らずに知識で儲ける方法を考えろ」

だろう。

 

労働者を守っているつもりだろうが、現実的には頑張ったら収入が増えるべき、といってるひとが、過労死を生み出してるのだ。

 

 

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(Justin Lynham)

 

*1

価値を生み出せる人間と指示待ち人間の違いは何か

最近、子育てについての学術書を読み込んでいた。

アメリカではイノベーションと科学が国としての大きな成長産業となっており、どのようにしたら天才児を上手く生み出せるのかについての研究が非常に熱心に行われている。そのいくつかは僕達も翻訳で読むことができる。

それらを読み込んでいったところ、ほぼ全ての本で幼少時教育の重要事項としてあげられていた点が1つだけあった。今日はその事について書いていこうと思う。

 

自由の使い方

「明日から3日の間、自由にしていいよ」と人に言われたとして、あなたは何をするだろうか。好きなだけ寝る?映画を見に行く?漫画を読む?

 

たぶんほとんどの人がこういった消費的な娯楽を選択するんじゃないかと思う。「よーし明日から前からやりたかった研究テーマについて徹底的に取り組むぞ」なんていう人は非常に稀だろう。

改めて自らを省みて欲しいのだけど、僕を含めて多くの人は「本当にやりたくてやりたくて仕方がない事」なんてほとんど持っていないのではないだろうか。 

幼少時教育の大家は、優秀なサラリーマンと起業家や研究者の違いはここにあると指摘している。つまり余暇を消費的な行動で消耗するのではなく、生産的な活動が行える人こそが、極めて優れた成功者へとなれるのだという。

 

義務教育の本質とその代償

私たちの多くは10年以上もの間、学校に通わされる。

義務教育の目標は基礎学力を身につける事だと思っている人も多いだろうが、その本質は「規則正しい生活の習得、ならびに人から与えられた仕事ができるようになる事」にある。 

これは良きサラリーマンの非常に大切な資質である。定時に来れて、与えられた指示をキチンとこなすことができる人は、企業では非常に重宝される。大企業が高学歴を集中的に採用したくなる理由の多くが、結局のところ高学歴≒サラリーマン耐性が高いという事に集約されるだろう。

 

かつてはサラリーマンの需要の方が圧倒的に高かったので、このような詰め込み型の教育は非常に重宝された。ただ現在では、アメリカの成長産業がイノベーションと最先端科学にある事からわかるように、先進国ではこのような「人から言われたことだけができる指示待ち人間」の需要がどんどん下がってきている。

では「人から言われたことだけができる指示待ち人間」から脱却する為にはどうすればいいのだろうか?それが「好きな事を好きなだけ掘り下げる事」を幼少期に学ぶことだというのが最新の見解だ。

 

10代で原子炉を作った子供

”理系の子”という本がある。内容はアメリカにおける高校生科学オリンピック出場者1人1人に焦点を当てて、果たして何故その子が科学に熱中するようになったのかについてをみていくドキュメンタリーなのだけど、その中でもひときわ目立つ出場者の1人が第一章にでてくるテイラー・ウイルスンである。 

この少年、もともと頭脳明晰だという事もあるのだろうけど、ある出来事をきっかけに核融合炉への興味を強く持ち、そしてその強い興味に突き動かされる事で実際に核融合炉を作ってしまうのである。それも10代の若さで。

 

詳しいことは実際に本を読んで欲しいのだけど、この少年の勉強方法は非常に興味深いものがある。自分で抱いた原子炉への憧れを、周囲の適切な手助けを借りつつ実現させるその姿勢は、受験勉強で机に座らされて物理に取り組む学生と無限の開きがある。 

受験勉強で物理を頑張った学生は、受験が終わったら物理なんてやりもしないだろうけど、この本に出てくる核融合炉を作ったテイラー・ウイルスンは誰にいわれなくてもその後も物理学を突き詰めていくだろう。

 

もちろんというか、世の中はこんなに頭がいい子供だけじゃないので、全員が全員この方法で物理を学ぶべきだとは僕は思わないけど、このエピソードには非常に興味深い点がいくつもある。人は、自ら自発的に好きになったものを掘り下げていく事を学ぶことができると、誰から言われずとも生産的な活動を自分で行えるようになるのである。

大切なのは、学び方の姿勢なのだ。自発的に好きなことを好きなだけ徹底的に掘り下げていくその姿勢さえ習得できれば、分野なんて関係なくその後の人生はひときわ輝くものになるだろう。

 

結論

人には適性がある。サラリーマンが合ってる人もいれば、芸術家とか起業家のようなスタイルがあっている人もいる。

 

結局、大切なことはその人の適性にあった教育がキチンとなされる事だろう。だからあなたの子供がほんの少しでも、自分の好きを徹底的に追求するのが合っていそうな性格だったのならば、それを後押ししてあげて欲しいなと思う。きっと将来、それは物凄く価値のあるものになるだろうから。

そしてこれを読んでいる僕を含めたやりたい事がない大人の人々も、まだ諦めるのには早いだろう。カーネル・サンダースは65歳でケンタッキーフライドチキンを立ち上げた。人は、いつだって始めるのに遅すぎるという事はない。

自分の人生をちゃんと生きたいものですね。

プロフィール

名称未設定1

高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

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「人に依頼する」のと「子供に言うことを聞かせる」のは、何らやるべきことに変わりはない。

子供は言うことを聞かない。

いや、聞かない、というと不正確かもしれない。正確に言えば、おそらく耳には聞こえているのだろうが、言ったことをこちらの望むタイミングではやらない、と言うべきか。

 

なぜ子供は言うことを聞かないのか、正月、久々に子供と遊ぶ時間が長かったので、ずっと子供を観察していた。

すると、彼らはいくつかの理由でこちらの要求を後回し、あるいは無視する。

1.今、別のことの優先度が高い。

2.嫌いなこと・面倒なことである。

3.やり方がわからない。

 

詳しく見ていく。

 

1.今、別のことの優先度が高い。

ほかの事に夢中になっていると、ほぼ100%、子供は言うことを聞かない。

レゴで遊んでいる最中に、「本を片付けろ」と言ってもまずレゴを辞めることはないし、人形遊びに夢中の時に「ご飯なので手を洗え」と言っても「わかってる」と言って、そのままである。

 

かと言って、「本の片付け」や「手洗い」を子供が嫌っているのかと言えば、そうでもない。他にやることがなければ、素直にやるときもある。

ここからわかるように「優先度を切り替える」という行為は、子供にとってはそれなりに難しい行為なのだ。

そこで、優先度を切り替えてもらう工夫が必要となる。

 

まず、最も労力がかからないのは「言って、放置する」である。「本を片付けろ」と言って、すぐに片付けなくても放置する。子供がレゴに飽きて次のことを始めようとした時に、「本を片付けてからしなさい」と言うと、存外、すぐにやる。

人形遊びも同じで、「ご飯なので手を洗いなさい」と言って放置する。食卓に皆が着いていると子供も食卓に来るが、「手を洗ってから」と言うと、素直に1回で洗いに行く。

これを見て分かる通り、子供には「優先度の切り替えに適したタイミング」と言うものがあり、多少時間はかかったとしても「子供を待つ」ことで解決できることは多い。

 

次に有効なのは「こちらの希望を伝える」ことだ。

「お父さんは本を片付けて欲しい」と、子供の目を見て頼む。この場合、すぐにやってくれることもあるが、大抵は「何でー?」と聞かれる。この「何で」にきちんと向き合うことで、解決できることも多い。

そこで「きれいな家が好き」や「片付けをきちんとできる子供が好き」とこちらの気持ちを伝える。注意点は「やるのが当然だから」というあるべき論で言わない点である。

「あるべき論」は子供に対して説得力を持たない。常識が大人と子供では異なるからである。だからここで重要なのはむしろ「好き嫌い」の話だ。

そしてここでは親に対する信頼が問われていると言っても良い。「この人のためなら」という気持ちは子供も持っているものだ。普段から一緒に過ごしている時間が多ければ、素直に聞いてくれるときもある。逆に、子供に大して時間を使っていないのに「このときだけ親のために何かせよ」と言っても聞いてくれるわけがない。

 

 

ここまで書いてきたように、基本的に「子供にとって優先度を切り替えること」は非常に時間がかかる。

「待ち」も「説明」も、即効性を期待できるものではない。

 

だから、一番の問題は「緊急性が高い」ものである。「直ぐにやらなければならないこと」については大抵の場合、大きな声を出したり、夢中になっているものを取り上げてしまうことがよくある。

だが、強引に優先度を切り替えさせても、子供は泣きわめくし「お父さん嫌い」となって信頼を失う。したがって、これは「事後の説明」が重要になる。

「なぜ強引に辞めさせたのか」を説明できなければ、子供は親に対して徐々に不信感を持つようになる。

したがって、強引に事を進める場合は「命の危険」や「社会的に絶対に許されないこと」について適用されることが望ましい。

 

以上を見て分かる通り「優先度の切り替え」は常に忍耐を伴う。

強引にやらせることは可能だが、それは「信頼」との引き換えであることを忘れてはならない。

 

 

2.嫌いなこと・面倒なことである。

子供は嫌いなことは絶対にやらない。泣いてもやらないことがほとんどである。この場合「強引にやらせた」としても、習慣が定着せず、形だけの実行になり、時間の無駄になりがちだ。

例えば「ひらがな」の勉強をさせようとして、書き取りなどをやらせたとする。だがこれらは単なる「反復作業」であり、面白くもなんともないものである。

したがって子供はやらない。泣きながらやっても、使った時間の割には身につくものは少ない。

 

ここで必要なのはもちろん「面白くもない作業に対する意欲を作り出すこと」である。

例えば本を読んであげる。すると自分でも本を読みたくなって、「ひらがな」が読めるようになりたくなる。

あるいはサンタに手紙を書くとプレゼントが届くことを伝える。手紙を書くためにはひらがなが書けなくてはならない事を伝える。するとひらがなが書けるようになりたくなる。

こんな具合である。

 

だが、前項と同じくこれもひたすら時間がかかる。

だが人間はロボットではない。プログラムすればすぐに反応する、という存在ではない。

長い目で見れば、必要なのは「勉強する」という行為を強制することではない。それは多くの場合逆効果となる。そうではなく親が「勉強は面白い」という体験を作り出すことが重要なのだ。これは長期的に見て意味がある。

したがって、「嫌いなことに対する意欲」というのは、環境に対する工夫と、親の「知恵を絞る」という忍耐・情熱の複合的な産物であり、こちらも「即効性」を期待できないものである。

 

 

3.やり方がわからない

さて、子供が「優先度も切り替えて」「意欲もある」のに、止まってしまうことがある。

それは「やり方がわからない」ときだ。

 

例えば「おもちゃを片付けなさい」と言っても、子供が戸惑ってしまい、何もできないことが多々見受けられた。

「結果」は見えており、やらなければならないことも知っているのに、体が動かない状態は、大抵の場合「やり方がわからない」ことに原因がある。

 

この場合、最も効果的なのは「一緒にやってあげる」である。

叱りつけるだけでは逆に子供が萎縮してしまい、かえって何もできない子供になってしまう。必要なのは「一緒にやろうか?」という声掛けである。

この「一緒にやろうか?」という声掛けは魔法のように効く言葉で、こどもは一気に行動的になることも多い。

「じゃあ、まずは散らばっている本から一緒に片付けよう」

「つぎは、散らばっているおもちゃを、おもちゃ箱に入れよう」

「次は、ゴミを拾ってゴミ箱に入れよう」

という片付けのプロトコルを共有して、一緒に動くだけでもかなり能率が上がる。

 

いろいろなことがごちゃまぜになって、散らばっている状態ではなく、整理して「ここからやると良い」と親が自らの身を持って示すことで、子供はできることが増えていく。

 

 

強制的に「子供に言うことを聞かせる」のは実際には信頼感という代償を伴う。

子供も人である。

つまり、「人にやってほしいことを依頼する」のと、何らやるべきことに変わりはない。

 

 

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(Teresa Qin)

子どもを叱る時と部下を叱る時の「適した叱り方」は大体共通している気がします

どうも、しんざきでございます。これを皆さんが読むころには、すでに新年でしょうか?あけましておめでとうございます。今年も適当によろしくお願いします。

 

さて。新年っぽい話では全然ないんですが。「叱り方」についての話です。

 
昔から私、誰かを叱るのってあんまり好きじゃないんですよ。好きな人の方が少ないかも知れないですけれど。

仕事でチームリーダーをやり始めた時、上司からは「叱り方を覚えろ」ってよく怒られましたし、本来部下を叱らなくてはいけないところで叱れず、チームの士気を下げてしまうことも結構ありました。すいません。

 
ただ、子育てを始めると、否応なく子どもを叱らなくてはいけなくなります。子どもは、まだ行動の規範を持っていません。だからいわゆる「やってはいけないこと」「やって欲しくないこと」を片っ端からやってしまいます。それを「叱る」という行為で指摘してあげないと、子どもの社会規範は永遠に形成されません。

 
で、叱るにも、どういうスタンスで、どういう叱り方で叱ればいいかなーってことは考えます。これは子どもが生まれて以来、ずーっと考え続けています。

子育てで「何が正解」っていうのって、基本的にないと思うんですよね。家庭ごと、子どもごとに適した育児が全く違うのは当然ですが、同じ子どもでも成長段階や時期によって適したやり方が全然変わったりする。だから、親は「育児のやり方」についてあんまり固定せずに、ずっと考え続けた方がいい、と思うんです。

 
ただ、そんな中でも、「これはまあ多分、時期がいつだろうと大体間違いないだろう」と思っているやり方、みたいなものはあります。みんなに当てはまるのかどうかはともかく、少なくともしんざき家ではこういう風にやろう、と思っているやり方。

私が今実施している、「子どもを叱る時のスタンス」は大きく下記三点です。

 
・声は大きくしない、声を荒げない。聞いてくれない場合、辛抱強く繰り返す

・言い訳、ないし意図の説明をしてくれたら最後までしっかり聞く

・叱る理由と背景、叱ることによって何を期待しているのかをきちんと説明する

 

まず一点目、「声は大きくしない」ですけれど。大きい声を出すことによるメリットって、よく考えると殆どないんですよね。強いていうと「相手の言い訳や反論を封じ込めること」と「自分が怒っている、ということを相手に伝えること」くらいですけれど、私にとってはそれってメリットじゃないんですよ。

 

まず第一に、私は「言い訳や反論」は聞きたい。むしろ聞きたい。「叱られるようなこと」をした相手に何かしらの意図があったとして、その意図が褒めるようなことだったら、そこについてはやっぱ褒めてあげないといけないじゃないですか。

牛乳こぼして机の料理をめちゃくちゃにしたとしても、そもそもの意図が「テーブルのお皿を片づけようとしたから」だとしたら、そこについては今後も繰り返して欲しいですよね。そこを封じ込めてしまったら、褒めようにも褒められない。

子どもはまだ論理だった説明が苦手ということもあり、「子どものそもそもの意図」というものは案外見逃しがちなので、そこを拾い上げる機会はなくさないようにしたいと思うわけです。

二点目の「言い訳は最後までしっかりと聞く」はこの為。

「自分が怒ってることを伝える」にしても、それで何かいいことがあるのか、今一つわからないんですよね。怒ってようが怒ってなかろうが叱るもんは叱るし、自分の意図は全て相手に伝えたいわけじゃないですか。「俺は怒ってるんだぞー」と伝えたとして、得られる効果と言えば相手を委縮させることくらいですし、こちらは別に相手を委縮させたいわけではないので。

 
三点目、「叱る理由と背景を説明する」についてですが。これ、結構怠りがちなんじゃないかなあと思うんですよね。「いいからやめなさい」「黙っていうこと聞きなさい」みたいな。きちんとした理由説明をしないで、ただ自分の言いたいことだけを押し付けちゃうの、ありがちですよね。

子育てをしていてつくづく思うんですが、まだまだ全然小さいと思っていても、子どもにはきちんと理解力があるし、まさかと思うくらい判断力もあるんですよ。

言う通りにするかどうかはともかく、彼ら、大人が「こういう風にしたい」「こういう風にして欲しい」「その理由はこれこれ」ということを説明すれば、それ自体はすげーちゃんと理解してくれます。逆に、「理由がよくわからんが、とにかく何か押し付けられようとしている」って状況にはすごい敏感なんです。

 
だから、一時的には感情に流されてしまって叱られるようなことをしてしまっても、ちゃんと「何故それをしてはいけないのか」「親としては何を望んでいるのか」を順序だって説明すれば、理解はしてくれる。聞いてんのか聞いてないのかよくわからないような状況でも、少なくともしんざき家では、ちゃんと説明した方が最終的に聞いてくれる確率は明らかに高いです。

なにより、「ちゃんと議論や話し合いができる子どもに育って欲しい」のに、親が議論や話し合いをしないのって本末転倒じゃないですか。そして、議論や話し合いをする際には、「ゴールの共有」って絶対必要だと思うんですよね。

 
まあ、もちろんこれらのことをちゃんとやるには「時間の余裕」が必ず必要であって、毎回毎回ちゃんと説明ができる、ってわけでもないんですが…。大変ですよね、子育ての時間管理。

 
で。

 
以前も書いた通りしんざきは中間管理職なので、やっぱり部下の人も叱らなくてはいけないときがあるのですが、育児で「叱り方」を考えるようになってから、そちらでも多少は「ちゃんとした叱り方」ができるようになった、気がしています。

 

叱ることって、要はコミュニケーションであって、認識のずれの確認、ビジョンの共有のやり直しでもあるんですよね。だから、「声を荒げずに冷静に話す」「相手の意図をちゃんと聞く」「こちらの希望を説明してビジョンを共有する」</という三段階のやり方がぴたっと当てはまる。

そこに気づいてから、随分「叱る」のが楽になったなあと思います。

 
その点、子どもを育てることと、部下の人たちと付き合うことってほとんど同じなんじゃないかなあ、と最近は思います。育児って育てることだけど、親として育てられることでもあるんだなあ、と。

 
全くもって当たり前のことかもしれないんですが、確認がてら改めて書いてみました。今後も、公私ともにきちんとした「叱り方」ができるようにやっていきたいなあと思う次第です。

 
今日書きたいことはそれくらい。

 

 

  

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

映画「この世界の片隅に」を読み解く3つのポイント

今年は日本映画の出来が凄くいい。今回考察する「この世界の片隅に」も、そんな作品の一つである。

 多くの名作と呼ばれている映画がそうであるように、この映画も何も考えずにそのまま見ても面白いのだが、いろいろと分析しながらみるとまた違った面白さがある。

 

今回は3つのポイントに沿ってこの映画を解釈していくことにする。こういうものの見方もあるんだな、という風に読んでいただければさいわいだ。

 個人的にはこの映画は、現在の日本人の性質について実に見事に描いた作品だというのが第一印象である。

 

1.自由が制限された世界で豊かに生きるという事

「この世界の片隅に」は第二次世界大戦の末期頃を題材とした映画だ。背景に戦争があるという事もあり、作中での生活常識は現代とは相当異なっている。

 現代のような豊かな時代とは異なり、この頃は物資がかなり限られていた。そのため、個人としての自由よりも共同体として生き抜くことが優先とされていた。

 

村のためにだとかお国のためにだなんて言葉は現代で死語のようなものだけど、この時代ではそれが普通の事とされている。なんとなくみていると一見何も意識しないで通り過ぎてしまうこの事が、実は映画の面白さに一役買っている。

 この物語の主人公であるすずさんは、今の私達からみれば随分と大変で不自由な生活をおくる事を余儀なくされている。鉛筆は最後のひとかけらまで無駄にできないし、我々からすれば人生の一大イベントの一つである結婚も、本人の意思とは関係なしに他の人が決めた人と村の都合で勝手に結び付けられている。

 

そういう制限された社会の中で、主人公であるすずさんは実に巧みに日々を楽しく生きている。旦那の姉にいびられようがニコニコと生活する健気な姿は、観るものの心を柔らかくしてくれる。ちょっとこの人ニブすぎなんじゃないかって思うぐらい、受難を笑顔で楽しき事に変換するその姿は、僕たちも学びたいものである。

 

なんですずさんはそんなに楽しそうに生きれるのだろうか?注目すべきポイントとして、不自由の中にあっても自分でコントロールできる部分に人生の喜びを見出しているところにあるろう。

 全体的に物資が制限された戦時中の世の中で、すずさんがどこを楽しみに生きていたかというと食事と絵画である(少なくとも前半はほとんどこれ関連の話ばかりである)与えられた材料をもとに、自分の好きなものを作りだすという創作活動を通じて自分の自由を謳歌しているのである。

 

そうした行為を通じて不自由な生活の中で精神の自由を謳歌しているというすずさんの姿は、自由な社会でいきているはずの私達よりもともすれば自由に生きているのではないかと思わさせられる一面を有している。

 

これを読んでいる人の中にも、自分の人生が自由でないと感じる人がいるかもしれない。そういう人は、すずさんの生活する姿から自由というものの一面を学び取って欲しい。人は不自由な中でも自由に生きる事ができるのだ。戦時中ですらそうなのだから、平穏な時代にいきる私たちが文句をいうのはあまりにも筋違いだといえるだろう。

 

2.暗転

 映画を見た人はわかると思うけど、この物語はある人物の死を境に突然物語のトーンがガラッと変わる。

どんな苦難の中でも創意工夫を通じて楽しく生きていたすずさんだけど、唯一それを楽しいものに変換できなかったのが『喪失』だ。大切なものの死と、自分の腕を爆弾により奪われてから後、すずさんの心に笑って済ますことのできない負の感情が宿る事となる。

 

不自由の中にも自由がある事を物語の前半でこれでもかと描いた後に、『喪失』を通じて心が負の感情にとわわれ心の自由が奪われる事が描かれているのは実に興味深い。

こうして物語として提示されると実によくわかるけど、失ってしまったものは二度と取りかえしがつかない。そしてそれはすずさんのような創意工夫の天才でもどうにもならないものでもある。

 失うという事は、それほどまでに大きなものなのである。

 

3.けじめ

 こうして心がダークサイドにとらわれたすずさんだけど、その後戦争が佳境を迎えて玉音放送が流れると再度精神が明転を迎える。

 天皇によるラジオ放送の後にすずさんが吐露する言葉はかなり印象的だ。それまで特段恨みつらみを述べなかった呑気な一女性が、『なんのために今まで頑張ってきたのか・・・』と涙とともに敗戦がわかった後に述べているのは、つまるところ『失ってしまった大切な人と自分の一部』は『勝利』の為に必要だったのだと、ある面で認識していたという事を言葉少ない中で伝える名シーンである。

 

個人的にこの物語の面白いところはその後のシーンの描写にあると思っている。諸外国をみてみると、ナチスによるユダヤ人虐殺や韓国の慰安婦問題など、基本的には争いにより虐げられた側は恨みつらみをもって死ぬまで他者を呪い続ける傾向がある。

 歴史をみわたしても、この負の輪廻から逸脱できた存在は非常に稀である。ネイティブアメリカンやオーストラリアの先住民族のように、圧倒的に少数派にまで追い込まれるもしくは根絶されるまで追いやられない限り、恨みの輪の中から逸脱できる事はほとんどない。

 それがこの物語でも描かれているように、日本人はこの負の感情をほとんど引き継がずに現在にいたるまでうまく生きれている。極めてまれな存在であるともいえる。

 

ちょっと考えてほしいのだけど、原爆を落とされるという残虐な行為を最後にぶちかまされたにもかかわらず、こうして負の感情にとらわれ続けないというのはちょっと普通ではない(この間、オバマ大統領が広島を訪問したけども、その時も被爆者は声を荒げてブーイングをするのではなく、基本的には謝罪を歓迎にも近い姿で受け取っていた。僕はこのような態度がとられた行為を他には知らない)

 私たちも生きている中で、呪いにとらわれそうになってしまうことは多々ある。呪いはその人を、ある地点に縛り付ける楔のようなものだ。呪いにとらわれた人は、その場所から一歩も先に進めなくなる。

 そのようにして個人をむしばむ呪いからどうやって人は逃れる事ができるのだろうか。そのヒントがこの映画にはあると思う。

 

////////////////////////////////////////////////////////////// 

まとめになるが、この物語は上記の3点を意識しながらみていくと非常に面白い。1つ目が不自由の中でも自由。2つ目が喪失による痛み。そして3つ目がけじめと許しである。

 これらを戦争という大きな物語の一側面として、エンタメ要素も織り交ぜつつ描いた事にこの映画の業績があるな、と僕は思う。実によい映画だ。いろいろと考えながらみて欲しい。

 

 

プロフィール

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高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Kevin Dooley)

考えるな、マネをせよ。

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出典:自分の頭で考えるな。マネをせよ。

漫画:眞蔵修平

website:http://www.matthewroom.com/
Twitter:https://twitter.com/makurashuhei
Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei

 

 

我々にとっては「知っていること」よりも、「知らないこと」のほうがはるかに重要だ。

例えば、「科学革命」は人間が自分たちの無知を自覚した時に始まった。

私はまだこれについて知らない、私はこれについて意見を持てない、そういう認識が、我々を高める。多様な見方を取り込もうと努力することにつながる。

 

それなのに、「自分の頭で考えよう」なんて、バカのやることだ。でなきゃ、「自分を賢く見せようとしてるだけの安っぽい人間」である。

マネがきちんと出来るようになって、一人前になる。さらにそれから上を目指すときに、今までの知識を整理して「これはできるか」、「あれは可能か」を検証する。それには意味がある。自分の頭で考えるのは、そこからである。

 

 


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高齢者が70歳以上?いやいや、高齢者は80歳以上でしょ。

内閣府が、高齢者の定義を70才以上に、と提言している。

高齢者「70歳以上に」 内閣府、定義引き上げ提言

内閣府は技術革新などがなされない場合、2030年には生産年齢人口が1%減少し、日本で低成長が定常化するとした分析をまとめた。高齢者の定義を70歳以上に引き上げることも提案。定年延長や、医療や介護サービスで、高所得の高齢者の負担を増やすといった施策を想定する。構造改革の基本的考え方として、政府の経済政策に反映させる。

自立した生活を続けられる健康寿命に注目し、高齢者を「70歳以上」として経済的・社会的な定義を見直すことを提案する。定年延長により高齢者の社会参加を促し、所得に応じた年金負担の仕組みなどを検討する。

これは全くその通りで、「60才」は現代ではすでに高齢者とはとても呼べない。むしろ70才ですら「高齢者」と呼んで良いのか疑問だ。

 

これは決して、根拠のない話ではない。なぜなら、60才を超えた人達自身が、「自分たちは高齢者ではない」と思っているからだ。

内閣府の統計を見ればこれは明らかである。

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(出典:内閣府 平成26年度 高齢者の日常生活に関する意識調査結果 http://www8.cao.go.jp/kourei/ishiki/h26/sougou/zentai/)

 

この統計を見ると驚くべきことに、平成26年現在、「自分が高齢者だと感じるか?」という質問に対して「いいえ」と回答したひと、つまり「自分は高齢者ではない」と思っている人の割合は以下のとおりである。

64歳 86.4%
69歳 71.8%
74歳 48.2% ※「はい」が47.3%
79歳 26.4% ※「いいえ」が66.2%

驚くべきことに、65才であっても、9割近くの人が「自分は高齢者ではない」と考えている事がわかる。69歳でも7割を超えている。

ようやく「自分が高齢者だ」という人の割合が多くなるのは74才だ。そして79歳になっても「自分は高齢者ではない」と考えている人は全体の4分の1もいる。

 

ところで、国民年金の支給開始年齢は65才、厚生年金も近々65才となるが、実は彼らは意識の上では「高齢者ではない」のである。

実際「支えられるべき高齢者は何歳以上か?」の問いに対しては、80才以上、と答える方が一番多いのである。

 

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だったら、働ける限りは、65歳だろうと、70歳だろうと、ちゃんと働いてもらうべきだ。事実「そして、働けるうちはいつまでも働きたい」という方が全体の28.9%もいるのだ。

逆に、65才で働くのをやめたい人は、16%程度で、働きたくないという10%程度の人と合わせても、26%程度しかいない。70才で働くのをやめたい人を含めても、42%程度だ。

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正直、これをみると「今の定義で言う高齢者」は、かなり恵まれていると言わざるをえない。

労働力不足だ、何だと言う前に、働ける人は、ちゃんと働いて社会に貢献して、税金も払ってもらう。それでこそ、真の助け合いの社会ではないか。

もちろん、病などで衰えて働けない人は、ちゃんと助ける必要がある。だが、今の健康な「高齢者」に年金を払う必然性は感じない。

 

 

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(gato-gato-gato)

「正社員を雇うメリットが小さくなっている」という経営者の話

先日お会いした経営者の方が、「正社員を雇うメリットが小さくなっている」と言っていた。

 

詳しく話を聞く。

「少し前までは、積極的に正社員を雇ってたんだけどね、もう正社員って要らないね」

「なぜですか?」

「友達から「社員あんまり要らないよ、正社員じゃなくても、優秀な人が増えたって」って聞いて、試してみたんだよ。」

「どんな具合ですか?」

「具体的には、フリーランス、パートタイマー、リモートワーカー、アルバイト、副業なんかをやる人で、結構優秀な人がすごい増えてるから直接契約すればいいってさ。たしかにそうだった。」

「そうなんですね」

「うん、数年前まではパートタイマーっていうと、単純労働しかできない、ってイメージがあったんだけど、全然そんなことないね。今はデザインや執筆、マーケティングもパートタイマーに任せられるし、開発や営業もフリーランスの人がやってくれるし、バックオフィスはアルバイトで十分だね。だから本当に中核のメンバーはみんな役員クラスだね。」

「なるほど……」

経営者は、今は昔雇った正社員が辞めると、フリーランスやパートタイマーで補充し、正社員を雇わないと言っている。

 

「特に、昔大手に勤めていた主婦の人とかが優秀でね、保育園が見つかんなかったりして、家にいないといけない人たち。リモートワーカーで何人かお願いしてるんだけど、社員を雇うよりずっといいね、社会保険やなんやを入れると、結局社員は高くつくし、主婦の方々は仕事の量に応じて業務量を自由に調整できるからね。打ち合わせはSkypeでいいのでウチのオフィスも小さくできる。」

「でも社員と違って「会社の業績へのコミット」は小さいのでは?」

「それはないなあ、みんな頑張ってくれてるよ。うちは普通にアルバイトするよりもはるかに報酬もいいからね。時給換算すると、普通に五千円以上の人もいるんじゃないかな。まあ、うちはリモートワーカーが多いんで、ほとんどは業務委託契約だけど。だからスキルが高い人はすごくワリがいいんじゃないかな。」

「時給5千円はすごいですね。日給4万ということは…」

「もちろんフルタイムじゃないから、そんな多くは払ってないよ。でも、この「調節できる」ってのが、会社にとってはめちゃめちゃいいんだよ。」

「なるほど、効率的な経営ですね。」

「でもね、この話をすると怒る人もいるんだよね。」

「どうしてですか?」

「正社員を雇わないなんて、けしからん、社会的責任を果たせって人、結構いるんだよ。内情も知らないのにね。うちの仕事をしてくれてる人、他に仕事持ってる人もたくさんいて、結構稼いでるんじゃないかな。大体「正社員が嫌で、フリーランスやってます」「フルタイムじゃないと雇ってくれない会社が多すぎる」ってひと、結構多いんだよ。うちは経歴に傷があろうがなかろうが、フルタイムだろうがパートタイムだろうが、アウトプットで見るからね。」

「そうなんですね」

「そうだよ、「スキルが役に立って、本当にうれしいです」って言われるよ。」

「……なるほど。」

「正社員を雇わなくなって、人間関係も良くなったし、なによりうちのような業態だと「時間に対して報酬を支払う」という考え方が馴染まないんだよ。本来、仕事ってのはアウトプットに対して払うもので、働いた時間に対してじゃない。」

「ノウハウがたまらない、ってことはないですか?」

「どうだろね、ノウハウを内製化しないといけない理由は?」

「……会社の競争力……などですかね……」

「会社の競争力は、一人一人に溜まるものじゃない。会社全体に「ブランド」という形でたまったり、「ソフトウェア」という形でたまったりするからね。一概に正社員じゃなければ、とはいえないんじゃないかな。あと、正社員がいても、結局転職されたら同じだし、第一、社員が転職しても回る仕組みにする、って会社多いじゃない。」

「……まあ、そうですね。」

「結局、これからの会社はどんどん「プロジェクト」のようなものになっていくと思うよ。だから今、正規雇用だ非正規雇用だって騒いでいるけど、まったく見当違いだと思うね。問題は正規かそうでないかじゃなくて、仕事ができるかできないか、だけじゃないかな。同一労働同一賃金、素晴らしいと思うけどね。」

 

 

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(Jacob Haas)

「出張靴磨き」で千葉テレビの現代版「マネーの虎」に挑戦した結果…

こんにちは。出張靴磨きサービスを行っているニイナナ株式会社「ミガクル」広報部です。

この場をお借りして広報活動をさせてもらってます。社長の堀江です。

 

「こちら広報部」をやらせて頂いてから、「出張靴磨き」の依頼だけでなく、いろいろな問い合わせをもらうようになりました。

その一つが、インターンの問い合わせです。最近大学生の間では、インターンが流行っているのか、私が募集しているわけでもないのに、インターン希望の問い合わせが来たりします。

こんな小さな会社に、大学生の方から「インターンがしたい」というのは、とんでもなく嬉しい話です。

今では3名のインターンを採用しています。

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(写真は今年の忘年会の様子です)

自分は、やはり男ですので女子大生からインターンの問い合わせがあった時はテンション上がりましたね。

彼女には、現在50社ほどある「出張靴磨き」のシフト管理を任せています。今までは私がやっていたのですが、苦労していたのは、急に入った依頼をスタッフにお願いする時なのです。

しかし、彼女が依頼するとかなりの確率でシフトが埋まっていくんですよね。

オイオイちょっと待て「女性のインターン来るよ」って言ってた時、みなポーカーフェイス装ってたのに、喜んでるのバレバレじゃないか。女性の力にはどうやっても勝てない力があると思った次第です。

 

もう一つとても刺激的な問い合わせがありました。実は先日、千葉テレビに依頼を受けて。KissBeeベンチャーズという番組に出演しました。

 

いわゆる現代版「マネーの虎」のような番組です。

¥マネーの虎』(マネーのとら)は、2001年(平成13年)10月から2004年(平成16年)3月まで、日本テレビで放送されたリアリティ番組である。

一般人である起業家が事業計画をプレゼンテーションし、投資家たる審査員らが出資の可否を決定するという内容だった。

(Wikipedia ¥マネーの虎より)

子供の頃よく見てましたが、まさかこういう番組に自分が出演するなんて思ってなかったです。元祖マネーの虎と違うのは、KissBeeというアイドルグループが裏でモニタリングしていて、好き放題しゃべってることです。

 

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司会進行は、徳光正行さんです。以前テレビの中でしかなかったあの「マネーの虎」の光景が、本当に目の前にありました。今自分は完全に中の人になっています。

 

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今回の「虎」の方々です。番組内ではインベスター(投資家)と呼ばれています。

左から、廃墟不動産投資家の村上祐章さん、事業家の貞方邦介さん、不動産コンサルタントの新倉健太郎さん、個人投資家 GOさんという面々です。

 

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私は「靴磨きで年商3億円を目指す」ということで、今後関西や九州に事業拡大するために500万の出資をお願いしました。

3億は言い過ぎかなと思いつつ、番組タイトルが『出張靴磨きサービスで<3億円>を目指す!編』になっているように、後に引けなくなってしまってました。

しかも「ざっくり500万円」って、ちゃっかり字幕にされて本音バレてる…

 

 

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数々の事業で成功している貞方さんには、いとも簡単に弱点をつかれました。

「月商100万くらいで、社員も委託だけで3億で会社売れるかなあ」

「3億円になる事業には見えないなあ」

他の方にも

「出張で靴磨きって、そもそも効率悪くないかな」

「堀江さんの人柄はいいんで仕事は頼みたいんだけど、特別なものがない」

「誰でもちょっと勉強すればできるくらいのことなんで」

「今のままではスケールしない」

と、さすがマネーの虎(みたいな番組)、厳しい言葉が並びます。

 

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でも無邪気に別室でモニタリングしているKissBeeは、「ウチらもライブで使ってるローファー磨いてもらおうよ」なんて言っていて癒されます。その言葉だけで嬉しいです。

 

 

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投資家の方々からは厳しい意見ばかり出るかと思いきや、個人投資家 Goさんには、

「バイアウト3億って結構楽なんですよ」って言われて、

私「え、え、え?」と、逆に動揺しました。

 

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さて、出資額はいくらだったでしょう。それだけはYouTube動画でご確認ください。一応千葉テレビにも恩義があるんで。

 

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「史上最強だったんですよ」反省会で、アイドルに囲まれて褒めまくられている自分。この感じ悪くないです。出られるならまた出たい。

 

ソフトバンクを辞めてからというもの、あらゆる人に「なんで出張靴磨きで起業したの?」と言われ続けてるわけですが、とりあえず千葉テレビの現代版「マネーの虎」に呼ばれるくらいにはなりました。

「どうせ失うものないし」と思いつつ、ボロカス言われるつもりで挑戦したら、自分の想定外のところで今後大きく発展できそうな提案をもらいました。

 

個人投資家GOさんから

「僕が持っている営業の販路として組めるとウチはメリットあるよね。投資したい」

という話を最終的に頂いたのです。

で、実際にこの番組の後、業務提携の契約をしました。

 

ひとまず成功だったのではないかと思います。詳しくは、今後「こちら広報部」でもご報告します。

 

最後に貞方さんが「3年後は3億になるんですよね?」と、再び厳しいツッコミが。

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頑張ります。

 

(続く)

今までの、ニイナナ株式会社の広報記事一覧

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「出張靴磨きミガクル」サイト

代表取締役 / CEO:堀江 淳太

【過去の週報】

「データ復旧の会社=作業服の職人」と思って訪問してみたら想像と全然違っていた

大企業の社長の要望に「できません」と言わず素直に従ったら、本当にうまくいった

靴屋さんの店頭にある「ピッカピカ」な靴。「靴磨き屋さん」が教える靴磨きの4STEP

続】お客さんの要望に、「できません」と言わなかったら、こうなった。 → 靴をつくることになった

出張靴磨きサービス「ミガクル」には3つのサービスがあります

お客さんの要望に、「できません」と言わなかったら、こうなった。

儲からなさそうな事業だからこその強みを活かす方法

人脈作りには、交流会に行くよりも、交流会を開けばいいんだと気づいた。

スニーカーやパンプスを磨けるようになったら単価が上がった、という話

キャビンアテンダントはできる男かどうかを靴を見て判断してるらしい。私はその説を信じます

DMよりもWEB広告よりもビジネス交流会よりも、結局知り合いからの紹介クチコミが100倍効率よかった

【公式】出張靴磨きサービスのニイナナ株式会社が広報活動を行います。

コンサルタントをやっていた頃に実施していた「メールの下手な人」への対処法について。

ここ数週間、立て続けに「メールのヘタな人」に遭遇した。

中身としては、以下のような具合だ。(実際のものとは異なります)

件名:Googleアナリティクスの件で、とても困っています。

見方がわかりません。左のメニューのどこをクリックすればいいのでしょうか。

読者のことを知りたいので「ユーザー」というところをクリックしたのですが、数字がたくさんありすぎて、どの数字を見たら良いのか、これもわかりません。

どうすればいいのでしょう?

差出人が困っていることはとてもよくわかるのだが、このメールには非常に返信しづらい。

なぜならば、以下の3つが不明、もしくは曖昧だからだ。

・何に困っているのか

・現在の状況

・こちらにしてほしいこと

 

とはいえ、こう言ったケースは少なくはないのだろう。

コンサルティングをしているときは、このようなメールが1日にいくつも届いた。まさに、「何がわからないのかわからない人」からの質問とは、このようなものなのだと思う。

 

とはいえ、何とかしてあげたい。このようなメールにどのように対処するか。

「さっさと電話してしまえ」や「とりあえず回答する」という方もいるが、私はまず問題の切り分けを多少時間をかけてでも行ったほうが、結果として問題が早く解決することが多かったため、以下の方法を使うことが多い。

 

まず、このような「何がわからないのかわからない」人に最初に尋ねなければならないのは、「何がしたいか?」である。何がしたいかを丁寧に聞き出さなければ、有効なアドバイスもできない。

そして次に尋ねなければならないのは、「相手の知識レベル」である。特にGoogleアナリティクスのような、取っ付きづらいものは、「セッション」や「ページビュー」といった普段使わない言葉を知っているかどうかで相手への対処法が大きく異なる。まずは「共通の言葉」を足がかりとして作らなければならない。

そして最後に尋ねるべきは「私ができることの選択肢のなかで、質問者が望むこと」である。ここで大事なのは「こちらができること」の選択肢をきちんと示すことである。こちらができることの選択肢を、相手は知らない。質問者が「選ぶだけ」にしてあげれば、向こうも次の行動を起こしやすい。

 

 

これらを踏まえ、具体的には次のようにする。

 

何に困っているのか?をきく

これを踏まえて、まずは1通目、次のようなメールを返す。

件名:ご質問いただいたGoogleアナリティクスの件につきまして

お世話になっております。

ご質問ありがとうございます。質問内容を確認させてください。Googleアナリティクスの操作方法についてのご質問ということですが、「見たいデータ」がどのようなものなのか、具体的に、箇条書きなどで教えていただけると助かります。

ここでは相手に「箇条書き」で書いてもらうのがポイントだ。文章に比べて箇条書きはかなり難易度が低い。わかりにくいメールを送ってくる相手には、極力箇条書してもらうのは重要だ。

 

知識レベルをきく

「ユーザーがどのような人なのか知りたい」

「特定のページへのアクセス数が知りたい」などの返事を返してもらったら、それを見て、「知識レベル」を確認するメールを送る。

件名:もう一点、ご質問です

お世話になっております。

ご返信ありがとうございます。恐れ入りますが、もう一点確認させてください。Googleアナリティクスのご利用は初めてでしょうか。すでに利用したことがあれば、どのようなデータを見ることに利用したことがあるのか、具体的に教えて下さい。

すでに使ったことがあるのであれば、相手の「知っている言葉」を把握できる。繰り返すが、重要なのは「共通で使える言葉」を探すことである。

 

サポートの選択肢を知らせる

最後に、こちらのできることを明示し、選択してもらう。

件名:ご質問、承りました。

お世話になっております。いただきました質問の内容を把握いたしました。

(相手の要望を箇条書きにする)

以上のご要望に対して、私がサポート可能なのは、以下のことです。

1.次回ご訪問時にアドバイス(有償)

2.電話もしくはSkype(本日の17時以降)

3.メールでのアドバイス

ご要望の◯番と◯番はメールで回答可能です。◯番は電話で、◯番は一緒に操作しないと難しいと思います。

どの問題について、どのサポートをご要望か、お知らせ頂けますとありがたく存じます。

よろしくお願いいたします。

ここでのポイントは「全部をメールでやろうとしない」ということだ。また、費用が発生するのであれば、それも合わせてここで伝えると良い。

 

以上が、私がコンサルタントをやっていた頃に実際に使っていた「わかりにくいメール」への対処法である。

 

 

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(Jen)

 

「小さくて良い会社」をどうやって探すか。

年末となり、そろそろ真剣に就職活動について考えている学生の方が増えているようである。

そして、学生たちに話を聴くと、特に見栄えのする学歴を持っている学生ほど「大手に行きたい」という志向が強いと感じる。

たしかに、マイナビの調査によれば、近年では「大手」で、かつ「安定している会社」を志望する学生が増えているという

(2017年卒マイナビ大学生就職意識調査:http://www.mynavi.jp/news/2016/04/post_11203.html)

 

何が正解かわからない今、少しでも安定を求める気持ちは分からないでもない。

だが、よくよく学生たちに突っ込んで話を聴くと、本当に「大きな会社」に行ってしまってよいのかどうか彼らも迷っていることがよくわかる。

彼らとて「単に大きい会社にいければ良い」とは思っておらず、彼らなりに真剣に考えている。

 

それでも「大手」という人が多いのは、結局のところ、小さいけど良い会社というのが、どういう会社なのかわかりづらい上、大きい会社に比べて質のばらつきが大きいからではないだろうか。

「良い会社」と思って入ったら、とんでもないダメ企業だったということも決して少なくないのである。

 

では「小さいけど良い会社」かどうかは何を見ればよいのだろう。

オススメは、ビジネスの良し悪しよりも、マネジメントの良し悪しを見ることだ。ビジネスの業績は移ろいやすく、良い会社であっても浮き沈みはある。

逆にマネジメントの良し悪しは経営陣の能力に大きく影響されるため、マネジメントの優れた会社は、良い会社である可能性が高い。

そして、マネジメントの良し悪しは以下のような部分に現れる。

 

1.人を増やすことに慎重である。

一気に人を増やしている会社は、一見調子が良さそうに見えるのだが、じつは微妙だ。理由は2つある。

 

まず、人をきちんと育てるには非常に時間とお金がかかること。

「小さい会社」ほど人を吟味して採用しなければならないにも関わらず、それに反して大量採用をしている会社は、「とりあえず仕事をやらせてみて、生き残ったやつだけ残れば良い」という考え方になりがちである。

 

そして、2つめはそもそも、成長性の高い知識集約型産業は、それほど人を多く必要としない。むしろ人が多ければ多いほど、「規模の不経済」が働きやすく、その会社は非効率になるからだ。

したがって、会社を1つの「プロジェクト」と見れば、規模はできるだけ小さく抑えたほうが効率的である。

ソフトウェアにおいて、プロジェクトが大きくなるほど、より大きなグループ間のコーディネーションが必要になる。大きなグループになるほど、より多くのコミュニケーションが必要になる。(Brooks 1995)。その結果、プロジェクトの規模が増えるにつれて、さまざまな人々のコミュニケーションパス(経路)は、プロジェクトの人数の2乗の関数で増えることになる。(中略)

コミュニケーションパスが(他の幾つかの要因とともに)急激に増加する場合、プロジェクトの工数もプロジェクトの規模がふえるにつれて急激に増加する。これは「規模の不経済」として知られている。*1

昔ながらのピラミッド型の上意下達組織であれば、「規模の不経済」は起きづらい。

だがソフトウェアサービスなどの「知識労働」が用いるチーム型組織であれば、規模の不経済は大きな問題となる。

 

「良い会社」は、常に「いかに最小限の人数で、最大のアウトプットを得るか」を考えている。真に有能な人はそれほど多くない。急に人を増やしている会社はほとんどの場合「水ぶくれ」である。

 

2.「売上を依存している取引先」を持たない。

多くの企業は「上位2割の取引先が、8割の売上を占める」というパレートの法則が成り立っている。こう言った世界では利益の殆どは上位2割の企業から得られる。

だが、その代償として「売上を依存している取引先」の存在を許してしまう。そして、そういった会社から無理を言われれば「下請けの悲哀」を味わうことになる。

これは残念ながら「良い会社」ではない。

 

真に「良い会社」は、規模が小さくても、僅かな取引先に売上を依存したりはしない。どの会社にも「別にいつ切ってくれてもいいですよ」と言えることで、結果として付き合いは健全になる。

むしろ良い会社は常に、「ウチと付き合いたいなら、うちの条件を飲んでください」と強い態度に出ている。したがって「お客様は神様」ではなく「お客様はパートナー」である。

 

入社前に説明会などで聴くことができるなら「売上高」と「取引社数」と「上位10社の売上高」などを聞いておこう。偏りが大きければよくない会社、逆に平均化されていればいるほど、良い会社である。

 

3.営業を担う人が最小限である

ピーター・ドラッカーはかつて「会社がやらなくてはいけないことはマーケティングとイノベーションのみ」*2と言い、さらに「マーケティングの目的は、販売を最小限にすることである」と述べた。

つまり「販売」を主たる担当とする営業は「最小限」とすべきである。

 

実際、営業はプロフィットセンターなどではない。究極を言ってしまえば「コスト」であり、省くべきものである。

理想的には、企業活動は「企業に問い合わせが来る」⇒「問い合わせに答えてサービスを提供する」で済んでしまうのだ。そこに「販売」の入る余地はない。

また、営業を減らせばその分、「サービス・プロダクトの質を上げる」ことにリソースを投入でき、ますます競争力が上がる。

 

そう言う意味では、「マーケティング」がうまく、かつ販売活動を最小限にできる「ストックビジネス」を行っている企業は理想的だ。

企業規模が小さくともPRがうまく名前が知られており、営業をほとんどせずともストックビジネスを行えている会社は、企業規模が大きくても強い営業でなんとか会社を回してる会社よりもはるかに健全である。

説明会では「営業の人数」を必ず聞いておこう。

 

4.「成果をあげること」と同じくらい「学習すること」に重きをおいている。

多くの人が「成果をあげること」のほうが「学習すること」よりも遥かに難しいと思っている。

だが現実は逆だ。実は会社において「学習すること」のほうが、遥かに難しい。

 

なぜなら、それは差し迫った要求ではないからだ。

「本を読んで、考えたことをアウトプットすること」

「プロジェクトのレビューをし、体系的にノウハウをまとめること」

「社内で知識の共有を行うこと」

「新しい試みをし、レポートをまとめて発表すること」

「敢えて非効率な方法で実験し、より良い方法を探ること」

こう言った活動は、つねに「会社は学校ではない」「早く成果をあげろ」という脅迫により劣後順位をつけがちである。その圧力に耐えて、「組織的に学習を続けていること」こそ、良い会社の証である。

 

こう言うと大抵「仕事を経験することが学習だ」という反論をする人がいるが、それは間違っている。

経験はそのままでは学習にならない。経験したことを振り返り、体系的にまとめて再現できるようにしなければ、学習したとは言えないのである。

 

長期的に見れば、上に述べたような学習活動が無ければ企業の知識は古いままとなり、競争力を保つことはできない。

以前「知的好奇心は会社にとって邪魔である」と述べた経営者がいたが、邪魔どころか、知的好奇心を充足させることすらできない会社においては、新しい試みは行われないし、有能な人物を引きつけることもできないのである。

 

「会社として、「組織的な学習」をどのように行っていますか。」と聞いてみよう。良い会社であれば、必ず気の利いた返事が返ってくる。

 

 

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(Peter Guthrie)

 

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