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「運」を呼び寄せるためにすべきこと

世の中には、「運を呼び寄せるなんてオカルトだ」と主張する人も多いが、私はそうは思わない。

たしかに、世間で「運」とカテゴライズされている事象の半分ぐらいは、人の意志や選択ではどうにもならないものだが、「運」とカテゴライズされているにもかかわらず、生活習慣次第で呼び寄せられる「運」、工夫や努力によってカヴァーできる「運」もある。

そのあたりについて、ちょっと書いてみる。

 

“天運”ばかりはどうしようもない

まず、人の力ではカヴァーしようのない、どうにもならない運について挙げておく。

 

・自分がどういう家庭に生まれて来るか

・明日、大地震が起こるかどうか

・大事な試験当日に、ひどい天気になるか否か

・商店街のクジを一回だけひいて、何等賞を当てるか

 

これらは、人がどう頑張ったところで結果を変えられない、文字どおり「運任せ」の領域である。

祈祷のたぐいでこれらを変えようとするのは、オカルトというほかない。せいぜい、遠足前のテルテル坊主ぐらいにしておくべきだろう。

  

しかし“天運”をカヴァーする方法はある

だが、そういった「運任せ」の領域を人為でカヴァーする方法はたくさんある。

 

たとえば大地震が起こってしまった時、大地震に備えて防災セットを揃え、家具もしっかりと固定し、常日頃から避難経路について家族で話し合っている人と、そういった備えの乏しい人では、大地震という「不運」の内実は全く違ったものになるだろう。

大地震という「不運」そのものはどうにもならなくても、その「不運」によって致命傷を受けてしまう確率は人為によって減らすことができる。

 

試験当日の悪天候のほうは、人為によるダメージコントロールの余地がもっと大きい。

たとえば、遠方から試験会場に向かわなければならない受験生の場合、試験会場近くに前泊する人と当日早朝に移動する人では、大雪などに振り回されるリスクが全然違ってくる。

当日移動を計画している人でも、週間天気予報などをしっかり確認し、直前になってスケジュールを変更できるならリスクをある程度減らせるだろう。

 

また、万全の体調で受験するためには、規則正しい生活リズムや、日頃の体調管理がモノを言う。

悪天候によってスケジュールを変更しなければならない場合などは、特にそうだろう。そういう時に体調を崩し、試験当日に実力を出しきれなくなる確率が高いのは、日頃から生活リズムを整えていない、体調管理のスキルアップを怠っている人だ。

 

試験当日の悪天候という「不運」そのものはどうにもならなくても、試験当日に遅刻したり体調を崩したりする「不運」は相当のところまで減らせるわけだ。

 

もちろん、試験当日にインフルエンザにかかったりする確率は、どれほど体調管理のしっかりした人でもゼロにはできないので、人為がすべてと言い切ってしまうわけにはいかない。

しかし、その「不運」に見舞われる確率を下げるための方法はいろいろあるわけだから、万全の備えをもって試験に挑んだ人はともかく、ロクに備えて来なかった人が「試験当日に落ちたのは体調が崩れたから。運が悪い」とぼやいてみせるのは、あまり利口とは思えない。

 

 “人運”こそ、人為によって呼び寄せる度合いが変わってくる

なにより、人と人とが巡り会う「運」、どんな人と人間関係を深めていくのかを巡る「運」こそ、人の意志や選択に最も左右される領域だと思う。

人と人の巡り会いにも、もちろん人為を超えた「運」がついてまわる。たとえば、学校や就職先を選ぶことはできても、そこにどんな人物が待っているのかまでは予測がつかないし、どうにもならない。

 

だが、初対面のクラスメートの誰と仲良くなるのか・同期の誰とうまくやっていくのかは、振るまいや心がけや態度によってかなり変わってくる。

たとえば、他人の悪口や悪い評価を無思慮に言ってしまう人がいる。

そういう人は、悪口を好まない人と仲良くなれる確率をみずから下げてしまっている。そういう人が仲良くなれるのは、他人の悪口や悪い評価を無思慮に言ってしまう人だけで、抵抗感のある人からは敬遠されるだろう。

 

同じことが、時間や約束事にルーズな人にも当てはまる。そのあたりにルーズな人は、時間を守りたい人・約束事を守りたい人からは敬遠されやすい。仕事においてもプライベートにおいても、仲良くなれる人の範囲は限られてしまう。

 

服装やファッションについても似たようなことが言える。身なりを気にしない人は、身なりを気にする人とは仲良くなりにくい。逆に、尖りすぎたファッションで自己主張している人も、良かれ悪しかれ、その自己主張によって仲良くなりやすい人の方向性が決まってくる。

 

こういったひとつひとつの要素は、誰と友達になるのか、どんな異性と惹かれ合うのかを完全に決めてしまうほど決定的ではない。

だが、人付き合いが長く続く場所では、仲良くなれる確率がほんの少し違うだけでも、それが積もり積もって地味に効いてくる。自分自身の振る舞いによって、数年後に誰とどんな仲になっているのか、自分がどんなグループに所属しているのかが意外なほど左右されてしまう。

 

人と人の繋がりは「類は友を呼ぶ」傾向があるので、良縁を掴みたいなら、それにふさわしい振る舞いを身に付けたほうが良いだろう。

振る舞いが全てだというわけではないが、そのあたりをしっかり身に付けている人と、まったく無頓着な人では、長い目でみれば“人運”に大きな差が生じるのは避けられない。

 

だから、“人運”に恵まれないと感じている人は、人為をこえた「運」を呪う前に、常日頃の自分の振る舞いが望むような“人運”を招き寄せるのに適しているのか否かを点検すべきだ。

 

日頃の振る舞いの積み重ねによって、気づかぬうちに良縁を遠ざけている人は意外とたくさんいる。

こういう世間知は、わかっている人にはわかりきっている反面、分別盛りと言われるような年齢になっても案外わかっていない人も多い。私も昔は全然わかっていなくて、良縁を何度も遠ざけてしまったように思う。ひょっとしたら今でもそうかもしれない。できるだけ気をつけたい。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨 

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

 

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 (Photo:Peaches&Cream)

「承認欲求の強い人」は認められず、逆に「承認欲求のない人」ほど評価されるという皮肉。

当メディアに寄稿をしていただいている熊代亨氏から、本を贈っていただいたので読んでみた。

タイトルは『認められたい』

面白い本だった。

内容で私が特に気になったのは、「手っ取り早い承認を求める人々」について書かれている部分である。

 

熊代氏は、本の中で

「ゲームやキャバクラなど、手っ取り早く承認欲求を満たせることばかりに時間を使っていると、身につくスキルがひどく偏ってしまって、将来を生きていくためのスキルがロクに身につかないまま、歳をとってしまう」

と述べる。

 

******

 

承認欲求と言えば、一昔前のある人物を思い出す。悪い人ではなかったが、1つだけ褒められないクセがあった。それは

「仕事を抱え込んでしまうこと」

だった。

若手で経験も浅かったその人物は、自分が引き受けられる以上の仕事を「褒められれたい」「失望されたくない」という理由で引き受けてしまい、結局後で問題が発覚する、ということもしばしばだった。

 

ええカッコしいのその人物に業を煮やした上司は、一喝した。

「その場しのぎで安易に仕事を引き受けるのはやめろ。できないときはできないと言え。」

「そういうわけでは……」

「言い訳はするな。実力に見合わないことをしても、認められるどころか信頼を失うだけだ。」

「私はわるくありません。頼まれたら引き受けてあげたいんです」

「ちがう、お前は嫌われたくないと思っているだけで、自分の実力を認める勇気もない。」

「しかし……」

「お前が「できる人間と思われたい」と願っていることは理解できる。だが自分の仕事を振り返って見てみろ。焦って自分を大きく見せようとするな。」

 

その人物は後にこう言っている。

「怒られて、いいカッコをしなければ、という思い込みはきえたかな。お前は実力不足、とはっきり言われたので、逆に仕事に集中できるようになったかも。」

 

******

 

「手っ取り早く承認を求める人」は、残念ながら企業内で大きな問題になることも多い。

特にそれをはっきり言ってくれる指導者がいない場合は、なおさらだ。

 

彼らは例えば、以下のような発言をする。

 

・上司が褒めてくれないので、やる気が出ない

・地味な仕事は皆が認めてくれないので、やりたくない

・見てくれている人がいないので、やめてしまおう

・何故あいつよりオレのところに先に話を通さないんだ

・オレのほうが学歴がいいのに、何であいつが先に出世するんだ

 

反対に、承認欲求を自己のコントロール下に置いている人は、次のように発言する。

・上司をうならせるような仕事をしよう。

・地味な仕事こそ、大事にすることが自分のためになる

・見てる人がいないときこそ、自分が自由にできるチャンスだ

・私は彼を信頼しているから、私に相談するかどうかは彼に委ねよう

・彼の実力が上だったということか。頑張ろう。

 

当然、下の考え方の方が実力がつく。実力がつけば、認めてくれる人は自然に増える。

人から羨ましがられたり、褒められたりすることに頓着しないことが、結果的に人の評価を受けるのだ。

 

また、彼らは積み上げてきた自信や「自分の中の評価尺度」があるので、他者の評価、賞賛を「参考意見」と捉える。

それゆえ、周りの人間は彼と適度な距離を保つことができ、彼は「付き合いやすい人間」と感じてもらえる。

 

逆に承認欲求の強すぎる人は、

「何でオレを褒めないんだ!」

「頑張ったのに、認めないのか!」

と常に不満を抱える。

もちろん、彼らをなだめるために大人の対応をする人もいるが、彼らの相手をするのは面倒なため、徐々に周りは彼らを相手にしなくなり、彼らはますます孤立する。

とうぜん、実力もつかない。

 

アドラー心理学では承認欲求について次のように述べる。*1

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれない

逆説的ではあるが、認められたい人ほど認められず、評価を気にしない人ほど認められる結果となる。

「承認欲求」を必要としない人ほど、逆に他者から承認され、それを求める人ほど孤立してしまう。

 

人間関係とは誠に皮肉なものだ。

 

 

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Melly Kay

 

*1

「胸の大きな女性のための通勤服」を、テストマーケティングした時の話。

こんにちは。株式会社Relic代表の北嶋です。

今日はHEART CLOSETの代表、黒澤さんとご一緒させていただいています。

というのも、今日の話題が「市場ニーズの測り方」だからです。

 

新製品・サービスを世に出す時、市場のニーズを掴む目的で様々な調査会社を使うことがあります。

しかし、調査会社を利用して集めたアンケートのデータは、上司を説得することはできるかも知れませんが、「消費者が実際に買ってくれるかどうか」とは別物です。

 

「この商品、ほしいですか?」と聞かれてYesと答えた人も、「では、実際にお金を出して買ってください」と言われると、尻込みするものです。

「欲しい」と「お金を出す」は、別のことなのです。

 

したがって、新製品・サービスの「市場ニーズ」を掴みたければ、必ず実際、試しに売ってみる必要があります。

これがいわゆる「テストマーケティング」です。

・お客さんがどのくらいの価格なら買ってくれるのか。

・買う時にどんなことが障害になるのか。

・買った後の感想はどうか

こう言ったアンケートでは取れない「生きた情報」を取れるのはテストマーケティングを置いて他にはありません。

 

では、実際に「テストマーケティング」をどう進めればよいのでしょう。

HEART CLOSETの事例は、こういったときにかなり勉強になる事例です。

 

HEART CLOSETは、女性向けのアパレルの製造・販売を行う会社で、代表の黒澤さんが立ち上げました。

黒澤さんはもともと「ゲームグラフィック」を制作する会社を自ら立ち上げて経営していましたが、「ある悩み」がもとで、どうしても女性向けのアパレルをやりたくなったと言います。

 

それは何か、といえば意外かもしれませんが、

「胸が大きいこと」でした。

といっても「胸が大きいこと」自体が悩みというわけではありません。そうではなく「胸のサイズに合う服がない」ことが悩みだったのです。

 

黒澤さんは「胸のサイズに合わないので、服を選ぶことが大キライだった」と言います。

私自身、胸が大きく、普通の店舗で販売している服をほとんど着られません。小さめの服を無理して着たら、すごくエッチに見えてしまいます。逆に、胸を隠そうとゆったりした服を選ぶと、今度はとても太っているように見えてしまいます。

それでも友達の結婚式に参加するときなど、着ていく服を新しく用意しないといけません。けれど私の場合、ショッピングセンターで1日かけて探しても、きれいに着られるワンピースはまず見つかりません。仕方なく通販サイトを一晩中ネットサーフィンして、妥協すれば何とか着ていけそうな服を見つけていました。(PR Times

特に、オフィスや葬儀など、「露出が憚られる場」では、ふつうの服を着ているだけで胸が強調されてしまうことは、大きな悩みでした。

「LLサイズを買う」=太ってみえる か、「Mサイズを無理して着る」=セクシーになる の二者択一に悩んだ黒澤さんは、「胸サイズに合う服を作ろう」と、アパレルの立ち上げを決意します。

 

ですが、こう言った悩みは普通、共有されにくいものであり、市場があるかどうかは未知数でした。

ただ、調べてみると、日本人女性の胸はここ三〇年でかなり大きくなっているようです。これによれば、女性の四分の一がEカップ以上なのです。

トリンプのカップサイズ別売上推移をみると、2014年度は「Cカップ」26.3%、「Dカップ」24.1%で拮抗して1位2位。「Eカップ」「Fカップ」も上昇し、74.2%の女性が「Cカップ」以上になっています。1980年では「Aカップ」が全体の6割近くを占めていたことから考えても、女性のカップサイズは30余年の間に驚くほど大きくなっているようです。(トリンプ調べ http://news.livedoor.com/article/detail/10392328/

ですが、なぜ「胸の大きな女性」向けのアパレルが少ないのでしょうか。

これほど胸の大きな人が多ければ、既にアパレルがあっても良いはずです。

 

しかし、黒澤さんが調べたところ、こう言ったアパレルはありませんでした。

彼女は、その原因を「トルソー」(服の型紙をとるためのマネキン)ではないかと推測しています。

トルソーは2つの大きなメーカーによって作られていますが、そのトルソーメーカーが、「大きな胸のトルソー」を作っていないのです。

これにより、そもそもアパレルメーカーは「大きな胸を持つ女性の服の設計」をしていない、と認識した黒澤さんは、そこで特注のトルソーを使い、服の設計に乗り出します。

 

設計は細部に至るまで黒澤さんの手によって行われました。

例えば胸の部分の布には、かなり余裕を持たせました。平置きしてみると、かなり胸の部分の布が余るのがわかります。

また、ボタンホールとボタンの数を見ていただくと、数が違うのがわかります。これはもちろんミスではなく、「隠しボタン」によって、服が浮いた時に隙間から下着が見えてしまうのを防ぐためです。

また「襟」を大きくとり、胸を相対的に小さく見せる効果を出しています。

 

さらに、ハンガーにかけてみると通常のシャツと異なり、後ろではなく「前」の部分が長いのがわかります。

胸の高さだけ、前のほうに余裕を持たせているからです。

こうして「これまでにないアパレル」がデザインされたのですが、1つ懸念があります。

まず店舗では「どの程度の市場があるか」の測定がしづらいこと、また自社でショップを持つには相当の費用もかかり、また「胸が大きい人が集まる店」という評判は女性の安全面にも問題が残ります。

 

このような時に最適なのが「クラウドファンディング」の利用です。

ITに造詣も深い黒澤さんは、「まだ世に出ていない商品のニーズを、実際に販売して確かめるのは、クラウドファンディングが最適である」と考え、出店を決意します。

 

この出店の結果、「webでバズった」クラウドファンディングは2時間で目標を達成し、1ヶ月で250着を完売しました。さらに、これに呼応する形で出したプレスリリースは大きく注目され、様々な媒体に紹介されました。

 

また、SNS上でもかなりの話題を集め、ファンづくりに成功した黒澤さんは、量産体制を作ることができました。

 

このように、時としてクラウドファンディングによるテストマーケティングは「極めて新規性が高く、市場が未知数」という商材にとって、極めて有効な武器となりえるのです。

 

 

HEART CLOSET公式サイト

 

株式会社Relicコーポレートサイト

・クラウドファンディング「ENjiNE」

・日本経済新聞社のクラウドファンディング
未来ショッピング Powered by ENjiNE

・新規事業創出プログラム/オープンイノベーション支援サービス「ignition」

 

 


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わけもなく時々心が苦しくなるあなたに送る、生き辛さからの逸脱方法

ときどきわけもなく心が苦しくなる事はないだろうか?

 

社会には様々な生き苦しさが存在しているが、これに対するマネジメント法についての知識はみんな驚くほど持っていない。

 漫画家の田中先生による様々な人の鬱体験をまとめた本であるうつヌケが大ヒットしているようだけど、この息苦しさからはどうすれば逃れる事ができるかについての知見を多くの人が求めているからだろう。

 

このように様々な人が解決方法を模索している生きにくさへの対処法だけど、実は紀元前500年にその対処法を確立した人がいるという事をご存知だろうか?

 彼の名前はゴータマ・シッダールタ(釈迦やブッダとも呼ばれている)。仏教の開祖である。

生きることはそもそも苦しいことである。

仏教というと、古臭い宗教だと思うかもしれないけども、キリスト教やイスラム教といったものと比較すると非常に現実的な思想である。その知見は現代から見ても非常に勉強になるものが多い。

 

キリスト教やイスラム教には神や天使と行った超現実的な崇拝すべき対象がいるが、原始仏教にはそのような祈るべき対象は存在しない。ただひたすら個人の生きにくさからの超克を目的とする活動が原始仏教である。

仏像のような祈りを捧げる対象物は、原始仏教から派生した別種の宗教から生み出されたものである。原始仏教にはそのような祈る対象物は存在せず、あくまで生きる苦しみからどういう風に逃れるかというリアルな手法のみがポイントとなっている。

 

そもそも仏教という宗教は、生きる事への虚しさにゴータマ・シッダールタが囚われた事により生まれた宗教だ。

ヒマラヤの小王国に生まれた彼は、どんな人ですら究極的には老いたり病んだりして苦しんで死ぬという事に非常に心を悩ませたという。王宮で権力闘争を行い、それにより嫉妬にもがき苦しんでいる人を目にしたことが更にその苦しみに拍車をかけたという。

 

普通に生きるだけでも嫉妬や不安、猜疑心といった負の感情に囚われながら生きなくてはいけないというのに、そうして苦しい気持ちを持ちながら生きながらえても結局は老いや病で苦しんで死んでしまうのだ。

この現実を前にゴータマ・シッダールタはこう思ったという。

「この世でどんな立派な事をしようが結局最後の最後は苦しんで死ぬのなら、人生は辛いことばかりである。こんな苦だけの人生に、いったいなんの意味があるのだろうか?」

 

この考えから、ゴータマ・シッダールタは生きるという事はそれすなわち苦しみであると考え、その愚かな競争から逃れだす方法を真剣に考えた。

そしてある日、その手法を考えつき、仏陀(悟った人という意味)となり、その教えを広い人に説いた。その教えに共感した人により作られたのが原始仏教である。

 

驚くべきことに、この話は現代に生きる私達の苦しみとそっくりそのまま同じである。

上の話を現代風に置き換えてみればこうなる。

「辛くて苦しい受験勉強に耐え抜いて、毎日満員電車に揺られて会社に通勤し、嫌な上司にガミガミ怒られるような苦しい人生を耐え抜いた結果、最終的に年老いて苦しんで死ぬのだとしたら人生にいったいなんの意味があるのだろうか?」

 

このように今風にゴータマ・シッダールタの人生の意味への疑問を書き換えてみると、紀元前500年前の人間の苦しみと、今を生きる私達の苦しみがほぼ同様のものである事が実によく分かる。なんと紀元前500年前から、私達の悩みは全く変わっていないのである。

 

ではゴータマ・シッダールタはどうやってその苦しみから逃れる事に成功したのだろうか?次にそれをみていく事にしよう。

 

苦しみとは本人の心の振る舞い様式から生まれるものである

ゴータマ・シッダールタは長い長い瞑想の末に、ある日菩薩樹の上で「人の苦しみは渇愛から生じる」という事に気がつき、これを克服することで人生の苦しみから脱却できるという風に悟ったという。

 

渇愛というのは「こうなりたい、こうでなくてはならない」という自分に対する飽くなき欲の事である。こう書いてもちょっとわかりにくいと思うので、現代風に具体的な例をもって以下に説明をしてみよう。

 

例えば、SNSで美男美女カップルの写真をみたとする。この時に、自分の現状を元に相手に対して「羨ましい」と感じてしまったり、自分がその人と比較して「恵まれていない」と感じてしまったとしよう。

このように、そのを感じる事から生まれる様々な感情は僕達の心に様々な生きにくさを生み出す。

 

ゴータマ・シッダールタはこのような人と自分を比較する行為こそが生きにくさの温床であり、そういう事をせずに事実をただ事実として受け入れるようになれる事で、そうした苦しさから逃れる唯一の方法だと説いた。

その状態を涅槃という。涅槃とは、もともと消化という意味であり、渇愛により生ずる様々な感情を鎮火させるという意味に通じている。

 

例えばさっきのSNSの美男美女カップルの写真をみた時に、

あ、美人な男の人と可愛い女の子のカップルがいる

とだけ思えばいいのである。

本来、この写真が生み出す情報はそれ以上でも以下でもない。それを「いいパートナーをみつけてるこの人は私よりも恵まれている」だとか、「私は独り身なのにこの人はこんなに楽しそうな生活を送っている」だとか、写真が出していない情報まで勝手に読み取ったりするからいけないのである。

 

このようにして、情報をただあるがままに受け取れるように心を訓練する事が穏やかな精神状態になり、生の苦しみから逃れる方法だというのが仏陀の教えである。

 

この考えのポイントは自分と他人を比べない事であり、「自分がどういう風になりたいか」というこうでありたい未来について考えるのではなく、「自分はいま何を経験しているのか」という客観的事実にのみ着目する事である。

つまり目の前の情報からあることないことを色々勝手に想像するから苦しくなったりするわけであり、そうした勝手な考えを持たないように、事実をあるがままにうけいれられるようになろうとありなさい、というのが仏陀の教えなのである。

 

これが紀元前500年前に仏陀が出した苦しみから逃れる方法である。ようはあれこれ勝手に想像して他人と自分を比較なんてしないで、目の前の物事をそのまま捉えて生きなさいということである。

 

ここまで書いてもまだよくわからないという人もいるだろうから、もう少し詳しく説明しよう。

例えば、あなたが現在わけもわからず辛くて辛くて仕方がないとする。なんでこんなに辛くて仕方がないのか、その理由を考える日々を過ごし、それが幼少期のイジメだとか、両親から愛されなかったからだとか、大学受験に失敗したからだとかのように理由を見出したとしよう。

それが本当に正しいかどうかはここでは問題ではない。

ただひとつ言えることは、あなたが行きにくさについて考えを巡らせれば巡らせるほど、その苦しみはどんどん迷宮のように深くなっていき、そして自分自身で苦しみの渦中に心を起き続ける事になるのである。

 

ところであなたは一年前、三年前、十年前の今現在、どういう気持で日々を過ごしていたかを覚えているだろうか?偶然なんらかのイベントがあったような人は例外として、基本的には一年前とか三年前とか十年前の今日、自分がどういう気持だったかなんて覚えている人は非常に稀なはずだ。

人はよくも悪くも忘れる事のできる生き物である。どんなにいい事があろうが、どんなに辛い事があろうが、時とともにその感情は徐々に風化していく。

だからあなたが今嬉しいのなら、「あ、いま自分は嬉しい感情を持っているのだな」とその感情を持っている事を客観的に楽しめば良いのであり、あなたが今辛いのなら「あ、いま自分は辛いって思っているのだな」とその感情を抱いている自分を客観的にみて楽しめばいいのである。

 

そのようにして、自分がいまどう感じているのかを客観的にただ眺めていれさえすれば、そのうちその喜びや悲しみはどこかに消え失せて、次にまた新しい感情の波があなたの心を震わせる事だろう。

喜びも悲しみも永遠には続かない。感情は途切れなく続く大河のようなもので、永遠の喜びも悲しみも存在しないのである。

ただ、あるがままに自分が今感じている感情を、あ、自分の心はこんな風に感じ取るんだなと思えばよいのだ。先のみえない未来についてあれこれ頭など悩ませる必要などないのだ。ただ今、自分がどう思うかのみがあなたのリアルであり、そこにはそれ以上も以下もないのである。

 

と、ここまで書いておいてなんだが上に書いたことを初めから完全に実践するのは普通の人にはかなり困難だと思う。未来についての事を全く考えずに生きる事は凡人には難しい。

だからまずは、ありもしない未来について事を考える時間を徐々に徐々に減らしていってみて欲しい。僕自身は様々な情報をみた時、自分の心のなかにモヤッとした感情が生まれたら、

「あ、いま自分はモヤッとした気持ち悪い感情にとらわれているんだな」と思うようにしている。

 

こう考えられるようになると、嫉妬のような負の感情を感じている自分を客観的に眺める事ができて、前と比べてほんの少しだけ冷静になれるようになったと感じている。はじめから完璧なんて目指してもいいことなんて1つもない。まずは実現可能なレベルから徐々に徐々に行動すればいいのである。

 

みなさんも上の話から何かを自分の生活に取り入れて役立てて欲しい。最初から釈迦のような涅槃の境地に至ることはできないかもしれないけども、ちょっとしたコツで生きづらさをほんの少しづつ緩和する事はできる。

釈迦は偉大な先達ではあるが、同時に同じホモ・サピエンスであるもの事実だ。所詮、同じ人である。

釈迦にできて、あなたにこれができないはずなんてないのである。なーに、万に一つもできれば十分じゃないか。ぜひこの見地をあなたの人生に役立てて欲しい。幸運を祈る。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

トップ5%の人材が「やりたい」と思う仕事とは。

あるコンサルティング会社がある。

勢いがよく、たった数年で既に数十人の規模に成長したとのこと。一人あたりの年間売上は大手コンサルティング会社を凌ぎ、クライアントの信頼も厚い。

テクノロジー分野に特化したコンサルティング会社なので、時流に乗って成長中で、コンサルタントたちの意欲も非常に高く、情報系の博士号保持者や、巨大ECサイトをチューニングしていた元エンジニアなどが集結している。

 

人材の獲得競争も激しいと思うが、経営者は

「採用は順調」と、余裕である。

どうやら知り合いの紹介会社を通じて採用を行っているらしいのだが、かなりの応募がきているとのこと。

このくらいの人材だと、他社からのオファーも少なくないはずだ。

「どうやって質の高いコンサルタントを揃えているのですか」と経営者に聴くと、次の答えが返ってきた。

 

「そうですね、まずは給料を他社よりかなり高めに設定することですね。」

「お金が重要なんですか」

「もちろん彼らは他でも良いオファーはもらっています。ですが、給与の額は「我々が人をどれだけ大事に考えているか」のバロメーターとして見られますし、社会的な地位と収入は密接な関わりがあります。だから我々はお金を惜しみません」

「なるほど」

 

とはいえ、なんとなく分かる話ではあるし、他社でも聴く話ではある。

だから、私はもう一度聞いた。

「それだけで、これほどのチームになるのですか?」

「もちろんちがいます。我々が重視しているのは、なによりも「仕事の質」です。」

「仕事の質?」

「そうです。」

「仕事の質とは、具体的に何を指すのか、教えていただいていいですか?」

「単純ですよ、上位5%の人材がやりたい仕事は、究極的には「世の中へのインパクトが大きいこと」と「優秀な人と仕事ができること」の2つを満たすことが重要なのです。ですから、我々は請ける仕事を注意深く選定します。」

「選定というと?」

「文字通り、仕事を選ぶんです。大手企業からの依頼であっても、ものすごくつまらない仕事がたくさんあるんですよ。部署間の調整だけをやらされたり、下請け的な依頼であったり。そんな仕事は社員のモチベーションを下げるので、出来得る限り、引き受けません。」

「ああ、そういうことですか」

「そうです、あと特に重要なのはお客さんの責任者がどれだけ優秀か、って言う視点ですね。」

「なぜですか?」

「先程申し上げたとおり、お客さんが優秀でないと、仕事していてもつまらないからです。干された人材のお守りや、時代遅れの官僚の相手なんて御免です。」

「そんな会社あるんですか。」

「「コンサルタントは社員のかわりになる」と思っている会社が結構あるんです。実際にはそんなうまくいかないですよ。」

 

聴くと、彼らは一度、大量の人材流出を経験しているらしい。

「一度、大量の離職がありまして。」

「なぜですか?」

「私が悪いんですが……要するに「売上のたくさん上がりそうな仕事」ばかりを受けてしまったわけです。」

「それがダメなんですか?」

「売上を中心に考えると、稼働に対して実入りが大きな仕事をどうしても優先します。ただ、それだと退屈な仕事も増える。うちの社員たちには物足りないんです。

それで一度皆で話しまして、志の高いお客さんの仕事だけを引き受けよう、自分たちが「やる価値がある」と思う仕事だけを受けよう、規模を追求するのはやめよう、という結論になったんです。」

 

なかなか茨の道だ。

「業績はどうなりました?」

「直後はけっこう落ちました。でも1年半くらい我慢すると、徐々に「恐ろしく成果の出る案件」が出てきましてね。ああ「案件の質」は重要なんだと、認識したわけです。」

「なるほどー、忍耐ですね。」

「そうです、「世の中へのインパクトが大きい試み」と「優秀な人と働くこと」が満たされれば、優秀な人はメチャメチャ働きます。それこそ寝食を忘れて、ライザップじゃありませんが、成果にコミットするんです。

すると、次の引き合いもそう言った仕事ばかりになる、いつの間にか、会社の売上は回復して、おまけにプロジェクトの内容だけで人材を惹きつけられるっていうことです。」

 

—————-

 

コンサルティング業界は現在、成長分野だ。

コンサルティング業界の世界ランキング:売上トップはマッキンゼーでもBCGでもない

冒頭にも述べたように、世界のコンサルティング産業は、経済の発達した先進国、とりわけ、米国の市場に依存してきた。しかし、ITがグローバルに行き渡るのに伴って、裾野は広がっている。世界各国の政府や大企業が大型の情報システムを導入する機会が増え、大手ファームのビジネスチャンスも拡大しているわけだ。

 今後、コンサルティング産業の成長が期待されている市場の一つが日本。実際、IDC Japanの調査によれば、2014年 国内ビジネスコンサルティング市場は3,090億円で、前年比7.1%の大幅増となった。市場全体は縮小傾向にはあるものの、市場規模が巨大であり、コンサルティングの普及率がきわめて低いのが理由である。欧米の大手ファームも日本市場を依然、重視している。日本の企業では、ビジネススタイルのグローバル化もあいまって、コンサルティング産業は大きく伸びるだろう。(ビジネス+IT)

今後ますます、こういった「知識労働者」の活躍する分野は増えるに違いない。そして、その高度な知的労働をこなす、トップ5%の人材を引きつけるための条件は、

・世の中へのインパクトが大きいこと

・優秀な人と仕事ができること

である。

 

ピーター・ドラッカーは次のように述べた。

仕事がすべてではないが、仕事がまず第一である。たしかに働くことの他の側面が不満足であれば、もっとも働きがいのある仕事さえ台なしになる。ソースがまずければ、最高の肉も台なしになる。だが、そもそも仕事そのものにやりがいがなければ、どうにもならない。*1

件の経営者は最後に言った。

「オフィスがキレイだったり、昼食が出たりなんてことは、まあ、関係ないです。要は、経営者の仕事って、「どれだけ仕事を面白くできるか」じゃないですかね。」

 

確かに、そのとおりなのだろう。

 

 

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Haldane Martin

 

*1

一社一社への訪問を積み上げて、40万社を開拓した営業手法とは。

こんにちは。ソリマチ株式会社、営業の高原です。 

たった20年前、「モノを買う」という行為はその商品がある場所に行って、その場で購入するということが当たり前でした。

書店、家電量販店、百貨店……

「買う」は「お店に行く」と等しい行為でした。

 

今では、インターネットで当たり前のようにありとあらゆるものが買えます。そして、もっとも劇的に変化したものは、ソフトウェアの購入方法かもしれません。

ただ「ソフトウェアの購入」と言っても、若干抽象的です。

ちょっとわかりにくいなあと言う方のために、1つの例をお話します。

 

テレビゲームをやったことのある人は多いと思います。

スマホゲームではなく、専用機のテレビゲームです。40代前後ならばファミコンやゲームボーイ、30代前後はWiiやプレステなどにどハマりした世代だと思われます。

当時、自宅でゲームをするには、例えばファミコンでは、ファミコン本体を持っているだけではダメで、当時カセットと呼ばれるゲームのプログラムの入ったソフトウェアを購入しなければいけませんでした。

 

すこし思い出してみてください。

それらをどこで買いましたか?おもちゃ屋とか家電量販店に買いに行っていたのではないでしょうか。

「ドラゴンクエスト」など、人気のソフトは、おもちゃ屋さんの前に長い行列ができたものです。一種の社会現象ともなりました。

「あー、そんなこともあったねー」

と、多くの人が思うのではないでしょうか。

 

そうです。昔の名残で、発売日に店舗で集うイベントのようなものが残っていますが、ゲームを店舗で購入することはほぼなくなりました。

インターネットが発達したおかげで、ダウンロード販売という形が浸透したからです。その典型的がスマホのアプリです。スマホのアプリを店舗で買った人はいないでしょう。

 

さて、「ソフトウェア」の販売方法が大きく変わってきた中、ソリマチは1972年に設立後、累計40万社以上に「ソフトウェア」を継続して販売し続けています。

なぜ長年、環境が変わり続ける中でソフトウェアを売り続けることができたのか。

 

今回はそんな話です。

 

 

ソリマチのソフトウェア販売の始まりは、1986年に開発された農業簿記です。

もちろんインターネットもなければ、家電量販店もなかった時代です。そんな時代に「ソフトウェア」をどう販売していたのか。

今では考えられないですが、田んぼに車で乗り付け、そこで働いている農家の方々をひとりひとり尋ねて説明をし「手売り」をしていました。

こうした地道な販売からソフトウェアの販売は始まりました。「千里の道も一歩から」と言えるかもしれません。

 

そして徐々に「パソコン」が広く浸透すると、我々の営業先は3つになりました。

・会計事務所

・システム販売会社、営業会社などの販売代理店

・家電量販店

3種類のお客様は、それぞれ異なった特色を持っているので、個別の要望にあった営業が必要です。

 

例えば、会計事務所さんの要望の中で大きいものは素早くデータ入力・仕訳ができるインターフェース」です。

一見、会計事務所なのだから、複雑な、高度な機能が必要とされているのでは?と思うかもしれませんが、そうではありません。

 

なぜなら、会計事務所の大きな収益源は「経理業務のアウトソースを請けること」だからです。

自社で経理計算をすることを「自計化」と読んでいますが、自計化している会社さんは全体の3割であり、残りの7割の会社では、経理の計算は会計事務所さんに代行してもらっています。

要するに、データ入力代行が大きな収益源なので、「データ入力がどれだけ素早くできるか」で製品を選ぶのです。

 

 

販売代理店さんの要望は当たり前ですが「利ざやの大きい商品を売りたい」です。

ただ、利ざやを大きくするためには「お客様への提案」が重要です。

したがって、我々は4〜5万円という売上であっても、よく一緒に付き添って、販売代理店さんのお客様のところへ行って、私たちのソフトウェアのデモを手伝ったりします。

そうすることで販売代理店さんが困っていることを知ることができ、もっと良い提案ができるようになるのです。

 

しかし、こう言った話をするとたまに「4,5万の売上しか立たないのでは?」「同行するのは割に合わないのでは?」と聞かれることがあります。

でも、我々はそういった小さい売上も非常に大事にしています。

売上は短期的なものではなく、長期的な関係の中から生み出されるものだ、と考えているからです。

 

そして、以前と大きく変わってきているのは、家電量販店での販売方法です。

インターネットがこれほどまでに普及する前は、一般のユーザーさんが唯一商品を購入する場所でしたので、実際にソフトウェアを購入頂く場所としてとても重要な場所でした。

現在ではソフトウェアはパソコンからダウンロードすることで直接購入できますので、必ずしも店舗で購入する必要がなくなりました。

 

しかし今でも、我々は家電量販店での売り場スペースを大事にしています。なぜなら、そのスペースは単に商品を購入する場ではなく、ソリマチのソフトウェアを体験する重要なスペースとなっているからです。

会計ソフトは年配の方々も非常に多く使われています。年配の方は、「会計ソフトを使いたいけれどパソコンの使い方がわからないからまずはスタッフに聞きたい」というご要望を持っているのです。

 

さらに、そういった「売り場スペース」を利用して、「会計」というものを知って頂く場とすることもできます。

最近では、税理士をお呼びしての「税務申告の相談会」というイベントを家電量販店の中で行なっています。

税理士の方にとっても、セミナーを行うことには新規顧客開拓という意味でメリットもありし、家電量販店の方にとっても店舗への集客ということで、現在非常に重要なイベントとなっています。

 

時代の流れは「モノ」から「コト」などと言われていますが、家電量販店さんとのコラボレーションは、その流れを最も顕著にあらわしています。

 

上でご紹介したように、我々の営業先、営業手法は日々変化しています。そこでは日々、長期的な視点に基づいた、営業手法の更新と、チャネルの開拓が行われています。

では、こういったアイデアの創出やチャネルの開拓はいかに行われているのでしょう。

 

実は、これらの行為はすべて、「現場の営業パーソンの創意工夫」の中から生まれました。

これらの精神は今でも脈々と受け継がれていて、私は中途入社してすぐに「まずは君の思いのままにやってくれ」と当時の上司に言われたことを憶えています。

 

実は「40万クライアント」を達成した秘訣はこの「思いのままやってくれ」という一言に隠されていると私は思っています。。

我々の営業は短期的なノルマを追いかけることはしません。長期的にどこまで伸びそうなのか、営業各自が判断し、その情報を共有することで、徐々に営業手法の最適化を図っています。

世の中には「過酷なノルマ」を与えて、それを短期的に達成するように仕向ける営業も少なくありません。しかし、それでは新しいアイデアも出ず、また営業も疲弊します。

 

時代に対応し、長期に渡って会社が繁栄するにはこの

「営業が短期的な売上だけを追求しない」

という態度が絶対に必要なのです。

(上記写真クラウドサミットにて 2017.1.20)

 

 

ソリマチ株式会社

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教師がクラスの「いじめ」への対処を誤ってしまう理由。

書くつもりで忘れていたことを書きます。

 

あんまり一般的な話ではないです。そんな例もあるのか、という程度でご認識頂ければ。

小学校の先生をやっている知人が1人います。とあるアナログゲーム界隈でよく遊ぶ人で、たまに飲みに行ったりもします。以前、小学校の図書室でライトノベルが禁止になったという話が出た時、色々話を聞いたりしました。手前味噌ですが、この記事です。

 (小学校図書室でラノベが禁止された件について、小学校教師に聞いてみた

 

で、また別の機会に、といっても何年か前ですが、彼と飲みの席で話したことがありました。

その時聞いた話が、自分としてはとても明快で、納得感も高かったのです。記事にする許可まで取ったのに、今の今まで忘れていました。

 

 テーマは、「教師がクラスの「いじめ」への対処を誤ってしまう理由」。

最初はちょっと、webに上がってくるいじめ体験談やら、訴訟にまでこじれてしまったいじめ問題が話題に上がって、ちょっと主語が大きな話し方をしてしまったんです。

 

 「いじめ問題って色々延焼してるのよく見るけど、ああいうのよくあんの?」

 「いやそれは多分、処理が下手な例だけ見えてるだけでしょ。いじめはよくあるけど、最近は結構いじめ対処のノウハウもちゃんとなってきてるとこ多いと思うよ」

 

そりゃそうかもな、と思いました。質問を変えました。

 

 「じゃあ、延焼させちゃってるところって、なんであんなにいじめの扱いが下手なの?」

彼はうーーーんと暫く首を捻って、「色々ケースはあるんだろうけど」と前置きしてから、こう言いました。

「いじめに関するゴール設定が間違ってるんだと思う」

 

 つまりこういう話です。

 学校のクラス運営には、当然のことながら「理想的な状態」「目指すべき状態」というものがあります。

それは、一言でいえば「みんな仲良く楽しく」という言葉に集約されます。現代学習指導要領にも、「仲良く助け合い学級生活を楽しくする」とか、「望ましい人間関係」みたいな言葉がたくさん出てきます。(参考:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/toku.htm)

 だから、先生は基本的に、「みんなが仲良く楽しく過ごせる」クラスの運営を目指す。これ自体は当たり前のことのように思えます。

 

ただ、その目標を堅持している場合、いじめが発生した時にどうするか。

「いじめた子がいじめられた子に謝って、反省して、仲直りして、またクラス皆が仲良く過ごせる状態を目指す」ことになる訳です。つまり、「いじめを乗り越えて、また仲良く一つになったクラス」を目指す訳です。これが彼の言う「ゴール設定」。

 

「けど無理。教師や学校が介入しなきゃいけないところまでいじめが進行したら、仲直りなんてぜーーーったい出来ない」

というのが彼の言葉です。いじめられた側は、いじめた側を絶対に許せない。いじめた相手との仲直りなんて望んでない。ただただ目の前から消えて欲しいだけ。

 

「いじめっ子にしても、主観的には「無理やり謝らされてるだけ」って思ってるケース多いだろうしね。本当に反省なんてしないでしょ。「みんなが仲良し」なんて実現できないんだよ」

 

けれど、先生がそれをくみ取らずに「みんなが仲良く楽しく過ごせる」というゴールを目指してしまったら。

いじめっ子は表面的に謝らされただけで、いじめられた子の立場もプライドも自意識も回復されず、結局誰も救われないままただ学校の面子だけがなんとか保たれる、という状態になるわけです。

場合によっては、先生の評価基準がこれに絡むこともあるのかも知れません。

 

 あとね、と彼は言いました。

「いじめってクラスの雰囲気が悪くなる、みたいに思ってる人多いでしょ」

「うん」 

「あれウソ。少なくとも教師の側から見ると、むしろいじめがあった方がクラスの雰囲気がよく見えたりする

「え」

「いじめてる側、あるいはいじめを黙認してる側からすると、少なくとも主観的には「共通の敵」に対して結束してるわけでしょ。いじめの声だって、表面的には「笑いが絶えない明るいクラス」に見えたりするんだよ。

だから、教師がちゃんと見てないと、「いじめが発生してるクラス」を「仲良く協調出来ているクラス」に誤認したりする。ヘタをすると、いじめられてる子を先生まで異分子扱いしたりする。それでいじめられてる子はますます絶望する」

 

あーー、と思いました。たまに、「いじめられてる子を助けてあげない先生」とかの話を観測して、何でこんなことが起きるんだ、と思ったんですが、そう思えるのはいじめられてる子の視点だから、なのか。

先生からすると、いじめられてる子の方が「クラスの和を乱す存在」に見えかねないんですね。

 

 「だから、そういうことが起こらない為にも、教師は客観的に、注意深くクラスの人間関係を観ないといけないんだけどね」

 

 けど、じゃあ実際にいじめが起きた時、学校側はどうすればいいのか、という話では、彼が言っていたことをまとめるとこんな感じになります。

 

・一にも二にも、とにかく可能な限り早く共有。教師側にも、当然親にも。共有を先延ばしにすれば先延ばしにする程状況は悪くなる

・最優先課題は、いじめられてる子の自己肯定感の回復。学校に逃げ場を作ってあげないといけないし、可能な限りいじめている側と接触しないで済むようにしてあげないといけない

・いじめている側の安易な「反省」を認めてはいけない。簡単に「許される」雰囲気を作ってはいけない。自分たちがしていたことの責任については淡々と指摘して追及する

・教師はいじめられている側の味方であること、いじめを一切許容しないことを、いじめていた側にも、いじめられていた側にも、その周囲にも明示すること。曖昧にしてはいけない

 

なるほどなあ、と。そこまでちゃんとやってもらえるものなら、いじめの処理を学校に任せてもいいんじゃないかな、と私などは思ったのです。

 

彼の言葉が全て妥当なのか、というところまではちょっと分かりません。恐らくケースバイケースの、その内の一部ではあるのでしょう。

 ただ、子どもが集団で社会生活を送る以上、いじめというものはある程度不可避なものなのかも知れません。ですが、大人がそれを決して見過ごしにしない、というスタンスを明確にするのは大事だよなあ、と。

 

また、自分の子どもがいじめられることも、あるいはいじめる側に参加してしまうことも、決して起きて欲しくないことではありますが、同時に決してあり得ないことではないんだ、と。なんとか子どもと話し合いつつ、そういった事態を切り抜けていきたいなあ、と。

 そんな風に考えた次第なのです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:repio)

白金にあるガチで旨いフレンチの話

筆者はメッチャクチャにメシが好きである。普段はあまり美味しいお店の情報については書かないようにしているのだけど、たまにはレストラン紹介をしてみようかと思う。

 

今回紹介するのは白金にあるラシェット・ブランシュである。

・客単価は昼なら3500円程度。夜なら7000円程度

・クオリティを考えるとメチャクチャ安い。飲食店の鏡。それでいて予約も取りやすい

・ある程度慣れてきたらアラカルトメニューがオススメ

 

白金にあるこのお店は、三田のコート・ドールのスーシェフ(二番手)が独立して経営されているレストランだ。

 

昨今の若い人は知らないかもしれないけど、三田のコート・ドールは日本フランス料理界の偉大な先達である。

1986年に開店されたこの店だが、元々は現在フランスの三ツ星レストランであるランブロワジーの共同経営者である斉須氏によって作られたという経歴を持つ由緒正しき名店である。

 

斉須さんの凄さについてここで語り始めると文字数がとんでもない事になるので、詳細は斉須さんの自伝でもある”調理場という戦場”に譲るが、兎にも角にも日本におけるフランス料理の黎明期における先人の偉大さをこれでもかというほど痛感させてくれる素晴らしき名著である。メシに興味がない人も、是非一読をすすめる次第である。

 

ただ古くからある名店がそうであるように、老舗というのはどうしても伝統を尊重しすぎるが故に、どうしても劣化せざるをえない部分がある。

コート・ドールも現在では値付の割にはそこまででも・・・みたいな皿がやや目立つ。諸行無常である。

 

だがそんな中で古き良きコート・ドールの旨さを現在でも再現しているとメシ狂いにも好評なのがこの店、ラシェット・ブランシュである。

 

僕がラシェット・ブランシュにでかけたのは2年ほど前の話になる。

特段期待せずに冬にこの店を訪れ、前菜にカキのカレーソース。メインに牛頬肉の赤ワイン煮込み。デザートにココナッツのブランマンジェを選び、その料理を食べた時にお世辞でも何でも無く衝撃が走った。

 

なんだこの死ぬほど旨い料理は!

 

まず前菜のカキのカレーソース。カキの表面を粉をつけて、強火でカリッと仕立てながら、その下にカレーソースを添えて、これでもかという完成度の高すぎるその料理には言葉を失う以外の何物でもない素晴らしさがあった。

旨い旨い旨すぎる。これ以上の表現のしようがない、完璧な前菜である。

 

その上で次に来る牛頬肉の赤ワイン煮込みが、前菜のカキのカレーソースよりも旨いのだから驚きだ。

多くの店で、基本的にフレンチやイタリアンは前菜の方がメインよりも旨い。

恐らく、前菜の方が色々と味付けの方向性をいじりやすいからこそだとは思うのだけど、多くのフレンチやイタリアンレストランのメインは本当に美味しくない。だからメインはマズくなかったら僥倖、美味かったら神、というのが御飯好きの共通認識だと思う。

 

その前提でモノを考えると、この店の牛頬肉の赤ワイン煮込みは奇跡の産物である。

旨いなんてもんじゃない。旨すぎるのである。ここまでソースにキッチリ方向性をもたせ、かつ赤ちゃんのほっぺたみたいに柔らかく仕立てているという現実にはどこのどんな貴族であれ、ひれ伏すしか他に選択肢がないだろう。

 

この神の二皿が続いた後にくるのが、天使とも悪魔とも言えるココナッツのブランマンジェである。

この一見、ただ白いだけのプリンが凶悪すぎるとしかいいようのない旨さを誇るのだからメシは飽きない。

「プリン~?へっ、そんな子供だましのデザートなんて不良のおれが食べるかよ・・・ウッ・・・うま~い!!!」と言った虹村億泰(ジョジョの奇妙な冒険 第四部の登場人物)の気持ちが完全にわかるというものである。

 

それぐらいにここのブランマンジェは旨い。いや、旨すぎる。

 

ちなみにこの三品の値段だが、ランチで訪れれば3000円程度で食べることができる(冬季限定)。

メシに3000円出せるかどうかはやや好みが別れるところではあると思うけど、僕からすれば3000円でこんなにうまいものが食えるだなんて奇跡としか思えない。

なおある程度食べ慣れてきたらコースではなく、是非ともアラカルトでの注文もおすすめである。何を注文しても基本的には美味しいので、メニューをみてグッときたものを頼めば問題ないだろう。飲み物の値付けも比較的良心的なので、美味しいワインと共に食事を楽しんで欲しい。

 

昨今流行りの盛り付けがきらびやかでオシャレな内装のお店とはやや方向性が異なるが、真に食事を愛する人なら絶対に気に入ってくれるはずのお店である。だってマジでうまいもん、このお店。

こういうお店があるからメシ趣味はやめられない。ぜひともこの幸せをあなたにも体験して欲しいものである。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

パフォーマンスの低い社員を放置してはいけない。

40前後になると、企業の中で有能な人物と、無能な人とがはっきりと区別して見えるようになってくる。

新卒で働き始めてから約20年、生まれた子供が成人してしまうくらい長い年月であるから、評価に絶望的な差がついてしまうのは、必然的なことであろう。

 

複数社でインタビューをしたところ、もっとも無能が多いと認識されている世代が37〜42であった。

この世代になると、有能な人々はそれなりの役職やポストについており、しかもほとんどの場合その評価は正しい。

その影響で、余計に力の差が目立つので、できない人たちが浮き彫りになる。

 

 

さて、ここからが本題である。

企業内でほとんど常に問題となるのが、こうした無能な人たちの取り扱いである。

異動などで、暫く様子を見るという会社がほとんどであるが、どの部署でも使えないとなると、会社としては彼らを「戦力外」とみなす。

そして、ここには大きく四種類の対処がある。

 

一、退職を勧める

コンサルティング会社や外資系企業においては、無能は退職を勧められる。

たいていの場合、「ここは、あなたには合わない。ここにこれ以上いても、あなたに出世の望みはほとんどない。が、所変われば活躍できるかもしれない。今なら退職金にかなりの上乗せをしよう。」

と、やんわりと退職を勧められる。

 

二、給料を最低限にして閑職へ追いやる

いわゆる、窓際、である。派生版として、子会社や関連会社に出向、転籍というパターンもある。

一昔前、日本企業に余裕があるあった頃は窓際の人にも、「頑張ってきたから」という理由でそれなりの給与を支払うことができた。だが今はそうではない。企業は給与を下げることを厭わない。

基準に照らし合せ、あなたはパフォーマンスを出せていない。故にこれだけの給与になると通告し、複数回に分けて給与を下げていく。このため、40前後でも、二十代の後半とあまり変わらない給与の人も数多くいる。

また、責任が少なく、簡単な仕事が回されることが増えるため、大抵は評価を挽回する機会はほとんどない。こうなってしまうと、ほとんどキャリアとしては「詰み」である。

 

三、きつい仕事をやらせる

退職勧奨よりも回りくどいやり方で社員をやめさせようとする会社は、「飛び込み営業」「テレアポ営業」など、いわゆるきつい新規開拓営業をやらせて退職に追い込むケースが多い。

技術者だった人間を突然営業に回す、なども同様の手法だ。

私が実際に目撃したのは、40くらいのできの悪い社員について「飛び込み」や「テレアポ」について、かなりきつめのノルマを与え、達成できないときは皆の前で叱責する、という手法だった。

この場合、殆どの人は半年以内に退職していく。

が、たまに成果をあげて復帰する人間もいるので、「更生プログラム」と言われて活用されていた。

 

四、放置する

実は最も多いのは「放置する」というケースである。

本人にはっきり「パフォーマンスが低い」とも伝えず、評価は適当にお茶を濁し、はっきりと改善を促すこともしない。ただ給料やボーナスの額は上げず、「生かさず殺さず」の状態で放置するという、対処とも言えない対処である。

「あの人に関わりたくない」というケースも多いため、上司の悩みのタネになっていることも珍しくない。

残念ながら、彼らは期待もされず、育成もされず、多くの場合評価も固定され、「いい人だけどね」という言葉とともに捨て置かれている状態である。

 

 

センシティブなことなので、あまり大きな声で言う人は少ないが、上の対処の中で最もまずいのは四の「放置する」であることは言うまでもない。

無能を放置する、ということは、有能な人を貶める、ということに等しいからである。

実際、無能を放置している会社はほぼ例外なく、有能な人物から会社を辞めていく。管理職や経営者は「皆に良い顔をする」ことは絶対に避けなければならない。

 

そして次にマズイのは、三の「きつい仕事をやらせる」である。

殆どの人は「公正な処遇」を望むが、「人がきつい目にあっている」ことを毎日に見たい悪趣味な人はそれほど多くない。

見せしめ的に評価の低い人を貶めても、会社の雰囲気が悪くなるだけであり、得るものは殆どない。

 

また、二の手法は、余裕のある大企業であれば使えるが、ふつうの中小企業やスタートアップには無理な要求である。

 

結局「無能な人」とは、経営者と管理職は、一、のように、絶対に正面から対峙しなければならない。

また、対峙するのが遅れれば遅れるほど傷口は広がる。

会社は生活保護を提供する場ではないし、無能を放置すれば、皆で共倒れになるばかりなのだ。

 

会社の有能な人を守るためにも、またパフォーマンスの低い本人のためにも、会社は速やかパフォーマンスについて包み隠さず伝え、対処する必要がある。

そしてそれが、組織を牽引する人物の責任でもあるのだ。

 

 

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Adrian Berg

 

世の中には「カネを欲しがれ」と言ってくる人が大勢いる。

「そんなに給料安いの?」と、彼女は友人に驚かれた。

今もらっている給料を正直に話しただけなのだが、どうやらそれは友人にとって衝撃だったらしい。

「ぜったい、A子だったら、もっと良い給料のところ見つかるよ。」

と友人は言う。

 

A子は都内の有名国立大出身で、友人たちは軒並み公務員や大手企業、外資系企業に入社し、それなりの給料をもらっている。

20代で若くして年収1000万円を超えた友人も決して珍しくない。

 

ただ、A子はそう言った「お金」や「企業のブランド」には全く興味がなかった。

むしろ、お金、お金と騒ぐ人たちのことを軽蔑すらしていた。

「人生で大切なことは、お金の多寡で決まるわけではない」

と、彼女は信じていた。

 

その彼女は、自分の信じる通り、外食産業の企業に入社した。

要するに「作って食べてもらう」のがとても好きだったからだ。

 

実は、それは友人たちや両親にも反対されていた。中には親切心からわざわざ、「餃子の王将」が行っていたスパルタ新人研修の動画を見せてくる人もいた。

「趣味として好きだからって、仕事にしたら嫌いになるよ」

とも言われた。

両親は「学歴があるのに、わざわざ低賃金で、きつい仕事に就かなくても……」とA子に言ったそうだ。

 

だが、A子の決心は揺らぐことはなかった。

而して、A子はある外食のチェーン展開をする企業に入社した。

予想通り、というか予想以上にキツイ職場だった。労働時間が長く、給料は安い。

だが、幸いにも上司や同僚に恵まれ「非常に面白い仕事である」と、確信を持つに至り、成績優秀な彼女は、それなりに昇進も果たした。

 

そこで友人からの「そんなに給料安いの?」という一言である。

「かわりもの」と言われることにはなれている。外食産業が不人気の業界であることも、働いてみて実感した。

それでも両親や友人は「給料が安い」と、言ってくる。

 

A子はこんな状況を振り返って、

ジブリの「千と千尋の神隠し」の1シーンを思い出したという。

 

妖怪カオナシが、暴飲暴食によって肥大化、物語の舞台である「油屋」を荒らしている中、油屋の主人である湯婆婆は、主人公の千尋を呼びつけ、カオナシと対決させる。

カオナシは千尋に砂金を出し、「金を出そうか?」と誘惑してくる。千尋がそれを「私に欲しいものはあなたには絶対に出せない」と断ると、カオナシは砂金を「欲しがれ」と突きつけてきた。

 

世の中にはこのカオナシのように「カネを欲しがれ」と言ってくる人が大勢いる。

A子の周りも例外ではなかった。彼女の周りの人たちも皆、お金を「欲しがれ」と言ってくる。

でもそれは彼女にとっては大きなお世話だ。

 

「なぜ「お金は重要ではない」ということがそんなに批判されるのか、私にはさっぱりわからない」と彼女は言う。

「お金が欲しい人が、「私はお金がほしいです」と言って、それを求めるのは勝手だと思います。私だって、お金をもらって嬉しくないわけじゃない。でも、「給料が低いから」といって、人の好きでやっていることを批判したり、バカにしたりするのはやめてほしい」

 

————–

 

彼女は最後に、こう言った。

「なんでわざわざ人に「お金を欲しがれ」って言ってくるんですかね。」

私は

「A子さんの生活を心配しているんじゃないの?」と返した。

「そうですか……でも、心配してくれるのなら、お店に来てくれればいいのに。」

 

何も言えなかった。

 

 

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Michael Stern

「広く社会に貢献する」ということと「身近な人たちとささやかな幸せを共有する」ということを両立するのは不可能なのではないか【読書感想 みかづき】

【読書感想】みかづき ☆☆☆☆☆

昭和36年。小学校用務員の大島吾郎は、勉強を教えていた児童の母親、赤坂千明に誘われ、ともに学習塾を立ち上げる。女手ひとつで娘を育てる千明と結婚し、家族になった吾郎。ベビーブームと経済成長を背景に、塾も順調に成長してゆくが、予期せぬ波瀾がふたりを襲い――。山あり谷あり涙あり。昭和~平成の塾業界を舞台に、三世代にわたって奮闘を続ける家族の感動巨編!

 

 

これは素晴らしい小説です。

作者の森絵都さんは、大人の作家だな、とあらためて思います。そして、その「大人であること」が、ところどころで僕を不快にさせるのです。

主人公の「色欲」みたいなものや、仕事を極めようとすればするほど、身近な人との溝が深まっていくこと、人には「そのくらい許してあげればいいのに」と言われても許せないこともあれば、「よくそれを許せたね」と言われるようなことも、案外許せてしまうこともある。

 

太平洋戦争後の「民主化」された学校での公教育で子どもたちが置き去りにされている、という状況に、自分なりのやりかたで小さな抵抗をしていた大島吾郎と、強い反発を抱き、社会を変えようとしていた赤坂千明は、パートナーとして「学習塾」を立ち上げます。

のちにふたりは人生のパートナーにもなるのですが、この小説を読んでいると、「学校」と「学習塾」が、ここまで反目しあっていたのか、と、あらためて思い知らされるんですよね。

僕は大島家のふたりの3人の娘たちと同じ世代なのですが、確かに、昭和50年代くらいの日本では、まだ「塾通い」には、「そこまでして子どもに勉強させたいのか」という周囲の反発がありましたし、学校の先生たちのなかには、あからさまに「塾」への反感を嗅ぎ取っていたのです。

そもそも、教育を与える人間というのは、教育を受ける人間に対して、どこかしら支配的なところがあるような気がする。

教育熱心で有名な秋田にいたころ、学校教員たちの目に支配者のそれを見てとるたびに、一部の中には秘めたる反発心が育っていった。中二で千葉に移って以降、不運にも大の塾嫌いだった担任から目の敵にされ、「おまえの身内の塾ではどう教えているのか知らないが」と何かにつけて引きあいに出された後遺症も大きい。

家へ帰れば帰ったで、今度は祖母の口から際限のない学校批判を聞かされる。学校も、塾も、教育という縄で子どもを自分たちの陣地に都合よく縛りつけようしている。そんな懐疑心が今も根深く埋まっている。

同級生として、学校の先生の子どもや、塾の先生の子どもって、大変だなあ、と思っていたのです。

みんな「親が先生だから、勉強ができてあたりまえ」って思っていた、どころか、大人までそんなふうに口に出していたものなあ。

 

僕も「お父さんがお医者さんだから、そりゃ、勉強できるよねえ」とか言われるのが、ものすごくイヤだった。そんなの、僕が勉強したり、本を読んだりしているからで、親は関係ないだろ、と。

まあ、この年齢になってみると、「知識欲」とか「勉強しやすい環境」なんていうのは、先天的・後天的に親から受け継ぐところがあるのかな、と考えざるをえないのだけれど。

勉強っていうのは、習慣でもあるから。

学校の先生には「勉強さえ教えていればいい」塾の先生たちへの反感もあったのかな、という気もします。

 

その一方で、塾の先生たちには「経営のことなど気にしなくていいし、よほどの問題がなければ定年まで悪くない給料で勤めつづけられる」という学校の先生たちへの嫉妬もあったはずです。

この本のなかにもあるのですが、塾講師にはアルバイトや若者が多く、待遇もあまり良いとは言えなくて、一生塾で教えて食べていけた人というのは、少なかったのです。

いまは子どもが減り、人気講師がネットで講義をする、という時代です。

そのことによって、不要だと言われた塾の先生は、大勢いるはず。

 

これを読みながら、僕は自分が小学校・中学校の頃に通っていた塾のことを思い出しました。

当時、勉強ができないことはなかったのだけれど、先生からは、「この子はもうちょっとできそうな気がするのですが……」と言われ続け、成績も伸び悩んでいた僕は、学習塾に通うことによって、少なくともテストの点数にはブレイクスルーがみられたのです。

「わかる」「テストの点数が上がる」というのはやはり嬉しかったし、塾では他の学校の子どもたちや、学校の先生よりも、もう少し若くて気さくな大人たちと話をすることができたのも、良い思い出です。

 

僕が30年前に通っていた少し大きめの個人学習塾は、その後手を広げ、教室数を増やしたのちに、大手学習塾の前に退潮を余儀無くされていきました。

僕に難しい漢字の読みを出題し、当てたら「お前すごいな」と笑いながらお菓子をくれた塾長は、いま、どうしているだろうか。

こんなことを、思い出さずにはいられなくなるんですよ、読んでいると。

 

この小説は、「ある塾の栄枯盛衰」について、そして、その塾をつくった家族の物語でもあります。

「目の前の子どもを教えることの達人」と「公教育に反発し、子どもを教えるための自らの組織を大きくしたいという野心家」は、塾の経営という点では、お互いの足りないところを補いあう、最高の結びつきだったのです。

しかしながら、私的なパートナーとしては、あまりにも接点が少なすぎた。

 

なんというか、これを読んでいると、「広く社会に貢献する」ということと「身近な人たちとささやかな幸せを共有する」ということを両立するのは不可能なのではないか、と考え込まずにはいられなくなるのです。

だから彼らは不幸だったんだ、というのではなくて、結局のところ、人にはそれぞれ「役割」みたいなものがあって、人間のなかには、身内によりも、自分の野心を実現したり、赤の他人に尽くしたりすることに生きがいを感じる人が少なからずいて、それはもう、その人の「宿命」なのかな、と僕は思ったのです。

 

僕は、千明のような人はすぐ何人か思い浮かべることができるんですよね。

医者には、こういう人がけっこういます。

この小説に出てくる「教育者」たちは、みんな「子どもを教える」ということに情熱を注いでいる一方で、ひとりの人間、家庭人としては穴だらけです。

ああ、でもこれが「人間」なんだよなあ。

千明のひたすらヒリヒリし続けている生き方には、圧倒されつつも反発するのだけれど、こういう「イビツな人」が、僕が通ってきた塾や先生たちをつくってきたのです。

「大島さん。私、学校教育が太陽だとしたら、塾は月のような存在になると思うんです。太陽の光を十分に吸収できない子どもたちを、暗がりの中で静かに照らす月。今はまだ儚げな三日月にすぎないけれど、かならず、満ちていきますわ」

 太陽と月。はたして教育という宇宙に二つの光源が必要なのだろうか。

僕自身「学校のあと、塾や習い事漬けの子ども」の親でもあるのです。

もっと自由に遊ばせてやりたい、とも思うのだけれど、自分が子どもだった頃のことをよく思い出してみると、塾や習い事も、(一部の性に合わなかったものを除けば)自分なりに楽しんでいたし、問題が解けるようになることは喜びでもあったんですよね。

もちろん、それが「正解」なのかはわからないし、「正解」が存在するのかどうかも、わからないのだけれど。

 

公教育と私教育のせめぎ合い、だけではなくて、教育に携わっている人たちの「公人としての立場と私人としての生きざまの葛藤の物語」でもある、大人の小説。

けっこう分厚い(450ページ以上ある)本なのですが、わかりやすい言葉で、「人間がよりよく生きようとすることの輝きと痛み」が誠実に描かれています。

本当にオススメですよ。

 

 

【著者プロフィール】

著者;fujipon 

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ;琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

3種類の「会議に参加させてはいけない」人たち

books&appsキャラデザ修正版

 

MITのアレックス・ペントランドによれば、集団の知性を予測するのに最も役立つ要素は、「会話の参加者が平等に発言しているか」だった。

少数の人物が会話を支配しているグループは、皆が発言しているグループよりも集団的知性が低かった。

その次に重要な要素は、グループの構成員の社会的知性、すなわち相手の声のトーンやゼスチャーで相手の考えを察するなどの「雰囲気を読み取る能力」だった。

 

つまり、会議の生産性を高めたかったら、

1.発言しない人

2.発言しすぎる人

3.空気の読めない人

を会議に参加させてはならない。これは科学的検証に基づいた事実である。

 

漫画:眞蔵修平

website:http://www.matthewroom.com/
Twitter:https://twitter.com/makurashuhei
Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei

 

出典:こんな人は、会議に参加させてはいけない

 

 


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もし、人工知能がアダルトビデオの紹介文を「太宰治」のように書いたら

皆様こんにちは。人工知能開発「株式会社わたしは」の竹之内です。 

弊社も無事、3人目の社員が加わることになりましたのでご報告いたします。

写真中央の人物、杉本直也さんです。

 

元ヤフー、フロントエンドの技術者でしたが、独学で人工知能を学び、我々の「大喜利をする人工知能」の開発に携わりたいと申し出てくれました。

我々が杉本さんを新入社員として迎えることを決意させた最大の理由が、杉本さん自身で開発された人工知能の「作品」です。

 

最近では日経新聞が「AI(人工知能)に記事を書かせる」といったサービスを提供しています。

日経のAI記者が始動、1日30本の決算サマリーを量産

同僚が人工知能という世界が現実のものになろうとしている。1月25日、日本経済新聞社がベータ公開した「決算サマリー」は、企業の決算発表のサマリー記事を書く人工知能だ。昨日から、人工知能が書いた記事を日経電子版(日経会社情報DIGITAL)日経テレコンのウェブサイト上で公開している。(Tech crunch)

ただ、私どもからすると、こういったものを人工知能と呼ぶことそのものに抵抗があります。

「決算」のようにテンプレートがある程度決まっている記事であれば、「AI(人工知能)が記事を書けてもおかしくはない」と思えるくらいに、現在の技術で出来ることの想像力の範囲内にある、非常に退屈な取り組みです。

 

 

杉本さんは人工知能技術を使って、これよりも100倍面白い試みをやらせています。名付けて、

「人工知能ポルノ ~もしも文豪がアダルトビデオの解説文を書いたら~」

です。

 

何を言っているのかよくわからないと思われるでしょう。

でも事実です。

百聞は一見にしかず、ということで、御覧ください。(画像が拡大します)

もともと杉本さんとは面識がありましたが、昨年のインターネットヤミ市でこの作品を売っていたことを知り

「株式会社わたしは、の3人目のレギュラーににならないか?」と攻殻機動隊・公安9課の荒巻課長風に、直にスカウトいたしました。

 

余談ですが「インターネットヤミ市」は、こんなイベントです。

現実世界のすき間からカオスを目撃する。玉石混淆なんでもありの「インターネットヤミ市」

インターネットっぽいものを現実世界で自由に売り買いすることができるフリーマーケット”。それがインターネットヤミ市だ。2012年にはじめて開催され、2014年からは世界展開も行っている、ネットのカオスがリアルに集結する場だ。

 

そのヤミ市で取引されているものは

・「iPhoneのホルマリンづけ」「iPhoneのはく製」「液晶の死体」

・「人工知能ポルノ全巻」「喘ぎ声データセット」「セクハラインターフェース卒業論文」

・「告白(百円/回)」「友達(百円でLINEで友達になれます)」

などです。

 

つまり、杉本さんはこういう方なのです。

間違いなく当社で活躍していただけそうです。

 

 

人工知能にはこのように無限の可能性がありますが、現在ブームになっているということもあり、世の中に「AI」を謳うサービスが数多く登場しています。

この背景として、杉本さんが独学で人工知能を開発できたように、今では「人工知能」を扱うための各種のツール、フレームワークがそろっており、やる気さえあれば誰にでも門戸は開かれている、ということがあります。

 

しかし、このことに自覚的な人が多くないというのが日本の現状です。有難いことに、弊社の技術を使ったお仕事のお問合せ・ご提案を多くいただくのですが、

その度に私が思うのは、「そんなこと、僕らのオリジナルの技術を使うまでもなく、オープンソースのフレームワークやライブラリを使えば2週間で作れるのにな」という感想です。

 

少なくとも、海外の開発者たちは、「機械学習・ディープラーニングの技術がすでにコモディティであること」に自覚的です。そう言う意味で、日本のAI開発は米国の会社から周回遅れを走っています。

 

AI開発競争そのもの、そしてAI技術を使ったサービス開発競争のゲームの中でどう戦うか。そのルールの見極めをいかにできるかで、戦い方は大きく変わってくるのだと思います。

 

 


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年功序列を崩し、「成果しか見ない」というリモートワークを推し進め、労働者の二極化を引き起こす原動力とは何か。

「成果主義」という言葉がある。「成果を中心にして考えますよ」ということだ。 

そして、当たり前だが会社は成果主義である。

・会社は成果をあげなければ倒産する。
・会社は成果をあげなければ、社員を雇うことはできない
・会社は成果をあげなければ、存在する意味はない。

これらは全て、言うまでもないことだ。

 

だがその「成果主義」。今ひとつ評判がよろしくない。どうやら「成果主義」には課題があり、会社に導入するのは嫌だと言う人が多いとのこと。

具体的には、

・成果主義は「成果の定義」が難しい
・成果主義は「短期志向」になる
・成果主義は「社内の雰囲気」を悪くする

とのこと。

 

なるほど、と思う。

しかし、よく聴くと彼らが嫌がっているのは、実はすべて「成果主義」ではない。彼らが忌避しているのは、実は成果主義人事制度」だ。

そうだ、彼らは会社が成果主義であることが嫌なのではなく、成果主義人事制度がイヤだ、ということなのだ。

要は、会社は成果主義で運営されるべき。でも、人事は成果主義ではない方法で運営されるべきである、と多くの人が主張する。

 

 

ということは、問題の根本は、「成果は果たしてだれの手柄なのか?」である。

会社の成果が、誰のおかげかわからないから、「成果主義人事制度」が使いものにならないのである。

 

「いや、営業みたいな職はだれの手柄かわかりやすいよ?」という方もいる。

しかし。営業が成果をあげることができるのは、商品を開発した人のおかげかもしれないし、一生懸命社内で事務をやってくれている方のおかげかもしれない。

一緒に飲みに行って、愚痴を聞いてくれる同僚のおかげかもしれないし、上司の指導の賜物、という可能性もある。

「手柄がだれのものか」は、実はものすごくわかりにくい。(そして手柄を主張すると嫌われる)

 

したがって、よく「人は金では動かないから」という理由で成果主義人事制度を批判する人がいるが、それは全くの的外れである。

成果主義人事制度の真の課題は「だれのお陰で成果があがったのかが極めてわかりにくい」ところにある。

 

つまり、成果主義人事制度は「会社の成果が、だれの手柄なのかはっきりわからない時」には、採用してはならない。

大モメになることうけあいである。

逆に、「会社の成果が、だれの手柄なのかがはっきりわかる」時には、逆に即時採用すべき制度となる。

人事評価が恐ろしく簡単になる。

 

こう考えると、「古き良き日本の会社」で成果主義が嫌われる理由がよく分かる。

なぜなら、二〇世紀までの会社の仕事は一般的に「一人の天才」によって成果があまり大きく変わる世界ではなく、「皆で協力してやる」ことが重要だったからだ。

逆にそう言った世界では、天才=出る杭は、叩かれた。

青色LEDの発明者である中村修二氏が会社と報酬について争ったことは、たまたま「一人の天才」が会社に存在してしまったことの悲劇である。

 

しかし、である。

現代の知識集約的な産業は、「突出した才能」を必要とするようになってきている。

Googleにしろ、マイクロソフトにしろ、Appleにしろ、ITやその他、高度なテクノロジーの世界では、突出した小集団の才能が生み出す成果が、他の大集団が生み出す成果を圧倒することがしばしばある。

つまり、現代は仕事の質が変化したのである。

 

「大多数の平凡」が生み出す成果が、「突出した少数の才能」の生み出す成果に凌駕されてしまう。

例えば、いままでは、評価の分布が

A評価 100人 B評価 200人 C評価 600人 D評価100人

といった、緩やかな分布だったところが、

SS評価 20人 C評価 1000人 D評価 50人

となってしまったのだ。

Googleの人事はこれをよく理解している。

平均的な能力の人々がつくる大集団が強い影響力を振るうわけではない……きわめて優れた能力を持つ一部の小集団が圧倒的な業績を上げることで、影響力を振るうのだ*1

実際、知識労働やクリエイティブな分野の仕事において、人間のパフォーマンスは、正規分布ではない。べき分布に従う。いずれも「時間をかければできる」という性質の仕事ではないからだ。

・研究者の66%は、専門誌に掲載された論文数が平均を下回る。

・エミー賞にノミネートされた俳優の84%は、通算ノミネート回数が平均を下回る。

・米下院議員の68%は、在任期数が平均を下回る。

・NBA選手の71%は、得点数が平均を下回る

超優秀な人のパフォーマンスは大多数の人を遥かに大きく上回るため、平均を中央値から大幅に引き上げるのだ。

 

したがって、知識労働がすべての人に求められる現代においては「圧倒的な成功」を目指さなければ、あとは「普通」があるのみなのだ。

この「成果の偏った世界」が、本質的には年功序列を崩し、「成果しか見ない」というリモートワークを推し進め、労働者の2極化を推進する原動力である。

 

だが、クラシカルな既存の大半の企業はこう言った制度を望まないだろう。

なぜなら「普通の人」が圧倒的多数で構成されているからだ。彼らは社内に「天才的な集団」の存在を望まない。

 

そしてその結果、企業は「普通のこと」しかできないし、先端分野で勝てる可能性は極めて低い。

彼らの仕組みは「突出した才能」を評価できない。偏差値と同じように「人のパフォーマンスは、正規分布」だと仮定しているからだ。

疑うなら、自社の人事評価制度を調べてみるといい。

 

だが、既に世界の潮流は異なる。

日本も「突出したパフォーマンスを重視」という流れに否応なしに巻き込まれるだろう。

いや、既に巻き込まれている。

 

それが、「知識」がビジネスを統べる世界の掟である。

 

 

 

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*1

(.christoph.G.)

「アフリカの呪術師」と全面対決するため、電子マネーを導入した話。

こんにちは。日本植物燃料株式会社、代表の合田です。


今回は、前回に引き続き、モザンビークで「バイオディーゼル事業」に着手したところからの話です。  

バイオディーゼル燃料事業を成立させるためには「生産」と「販売」の2つが課題です。 ですから何よりもまず、私たちは「バイオディーゼル燃料」を安定して生産できなければなりませんでした。  

 

そこで、前回も少し触れましたが、ヤトロファの種を現地の人に提供しました。

今利用している農地にヤトロファを植えてもらうことはできませんが、今ある畑の脇に「柵」としてヤトロファを植えてもらい、収穫したヤトロファは私たちが買い取り、加工して燃料とします。

「組合」と言う形態をとりながら、1万人の農民たちに協力してもらい、なんとか私たちはモザンビークでバイオディーゼル燃料の原料となるヤトロファを栽培し、燃料を作り出すことはできるようになりました。

 

ですが、もちろんそれだけではビジネスとしては成り立ちません。

肝心の「顧客」がいないからです。

しかし、モザンビークで(世界的にも)バイオ燃料を使っている人など、殆どいません。まして、バイオ燃料を使って事業を興そうなんて考えている人もいないわけです。

ですので、バイオディーゼル燃料でビジネスをしようと思うと、事業の根本である「市場」から創る必要がありました。

 

1つは「製粉機の燃料としての利用」です。

(左は原動機、右奥は製粉機、右手前は精米機)

モザンビークではトウモロコシを粉にし、その粉を炊いて主食にしているので、栽培が盛んで、その製粉機を動かす燃料の需要があります。

そこで我々は一軒一軒製粉所を尋ね、ドラム缶に入った燃料をピックアップトラックで宅配すると申し出、顧客となってもらいました。

苦労の甲斐あって、約350件の製粉所を顧客として開拓することができ、バイオディーゼル燃料事業の基盤は出来上がりました。

 

 

そしてもう一つ着目したのが「電源」です。実は、モザンビークのほとんどの農村は「非電化区域」であり、いわゆる電気が通っていない地域です。

 

 

ですが「電気」に対する潜在的な需要はあります。

例えば、漁師たちは魚を冷やすのに-40℃の氷を使いますが、その氷は電化区域まで、1時間以上かけて買いに行っています。

また夜、家にお客様を招く時は電気ランタンなどを使うこともあります。

 

我々はそこに商機を見出しました。

発電機を置き、その発電機をバイオディーゼル燃料で回して発電する。その電気を使い、氷を製造したり、充電したランタンなどを貸し出せば良いのです。

そこで我々はキオスクと呼ばれる、日本でいうところのコンビニエンスストアのような店舗をつくり、そこで充電したランタンの貸出しや、冷えた飲料の販売、氷の製造販売などを行うようになりました。

(上はキヨスク)

(上は発電機と充電中のランタン)

ついに、我々はモザンビークに店舗を持つことができたのです。

 

ところでキオスクの運営は現地の方を雇って行っています。

月商が1店舗あたり約30万-40万ほど、粗利は20%程度なので、日本人を雇うわけにはいきません。また、モザンビークの「大卒」も、雇うには結構なお金がかかるのでパスです。

したがって採用は現地の「できるだけ真面目そうな人」を採用します。

 

また、余談ですがお店なのでお金の計算ができなくては困ります。そこで算数のテストをやってみてわかったのですが、残念ながら大体の人は3ケタの足し算引き算がやっとなのです。

「算数ができるって、実はすごいことだなあ」としみじみ思いました。

 

そのようにして現地の人を雇ってキオスクを経営していたのですが、ここで思わぬトラブル(?)がありました。

 

店舗の運営は現地の人に任せてはいますが、最終的な数字の管理は全て日本人スタッフがやっています、ところが月ごとに棚卸しし、帳簿と現金をつきあわせるると毎回必ず3割くらい、現金が足りないのです。

毎回合わず、しかも絶対に現金が少ない側に合わないのです。もし、計算が不得意だって言うのならば、たまにはプラスになってもいいのですが、とにかく必ずマイナスの方向に合わないのです。

 

人を疑いたくはないですが、もちろんそれは現地でスタッフに確認します。

「なぜ現金が足りないのか?」と。

現地スタッフの話はこうでした。

「私は、電卓を持っているので計算違いなんてしないから、絶対に私のせいではない。私が思うにこれは妖精のせいじゃないかと思う。

あなたのやっている商売は今とてもうまくいっている。「電気」を扱える店がほかにないからだ。でも、アフリカの人というのは妬みの文化なんだ。だから、この店を妬んでいる人たちが、悪い黒呪術師に頼んで呪いをかけている。

呪いがかけられると、豆粒みたいになった妖精が店の中に入ってきて、お金を持って行く。だから、お金が減っている。

 

………。

「お、おう……。そうか……。」

さらに

「対抗できる白呪術師を知っているから、紹介しようか?」と聞かれましたが、丁重にお断りしました。

 

困りました。

ただ、考えてみればどんなルールを定めて管理をしたとしても「現金」を扱う以上は再発します。

結局、考えた末の私の結論は「現金を使わなければいい」となりました。

 

実は当時、電子マネーがアフリカの発展途上国にも普及し始めていました。

アフリカに電子マネー?と思われるかもしれないですが、それほど難しいわけではなく、キオスクに電子マネー用のPOS端末を1台置いておけば、そこでスイカのようなカードを使って、電子マネーをデポジットしてもらえばいいのです。

良い機会です。

NECが偶然にも「途上国向けの電子マネーシステム」を持っていると聞き、私は彼らと共同で、キオスクに電子マネーを導入しました。

 

狙い通り、効果は絶大でした。今まで必ず3割違っていた現金が、誤差1%程度になったのです。

要するに全く豆粒の妖精が出てこなくなったわけです。

 

また、電子マネーを導入したことによって、恩恵を受けたことはそれだけでありませんでした。現地の人の購買データがPOSを通じて入手でき、徐々に現地の人々の生活が見えてくるようになったのです。

例えば、モザンビークでは、パスタやトマト缶、米などは贅沢品になります。

「贅沢品をどれくらい買っているのか?」ということは電子マネー導入前にはあまりわかりませんでしたが、今はデータを見れば一目瞭然です。

また、だいたいキヨスクでの利用金額の30-50%が携帯のプリペイド料金であることもわかりました。

 

さらに驚いたことに電子マネーに4〜50万円ほどをデポジットする人が現われたのです。これはモザンビークの平均年収くらいです。(※モザンビークの賃金・生産性 統計データ Global note  出典:ILO

 

調べてみると、これはとても合理的な行動だとわかりました。

モザンビークの農民は、農作物を売ったお金が主な収入となります、従って現金が季節ごとにまとまって入ってくるわけなのですが、それは年間の生活費になるものなので貯めて置かなければなりません。

通常ではもちろん銀行に預ければと思うかもしれませんが、電気がない地域に銀行を作ることはできません。結局は自宅で保管することになります。

 

結局、多くの人は、自宅に現金を保管することになるのですが、保管する場所が土の中の壺だったりします。

でも、それにはひとつだけ大きな欠点があって、土の中に隠していると「お金が虫に食べられてしまう」ことがあるのです。これ冗談でもなんでもなく、現実にそうやってお金がまさに「目減り」します。

そのため、そのまとまったお金を電子マネーとして預けておいた方が安全だと気づいた人たちがたくさん現われたのです。電子マネーならば、現金のATMは必要ないですし、盗まれることもないですし、虫に食べられてしまうこともありません。

 

モザンビークの農村で暮らす人々の購買行動のデータと、「デポジット」=「貯金」のデータが、今はすべて手元にあるわけです。

ここから私は本格的に「モザンビークで銀行業が始められるのでは……?」と思うようになりました。

 

(⇒to be continued……)

 

 

日本植物燃料株式会社コーポレートサイト

 

関連記事:

モザンビークで“銀行”をつくった初めての日本人 | Forbes JAPAN

「モザンビークにモバイル銀行を作るバイオ燃料会社CEO」合田真さんがやってきたこと、見据えていること | Life hacker

 


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ルールは絶対的なものではなく、変わっていくものである。

人事部で仕事をしている関係上、“ルール”と向き合う機会が非常に多い。

労働基準法という法律レベルのルールから内規という社内限定ルールまで、様々なルールのもとで組織が成り立っている。

普段ルールを意識することはあまりないかもしれないけれど、何かトラブルがあった時に頼りになるのはルールであり、無意識のうちに行動の基準になっているのもルールである。

社会人になり、人事部で仕事をするようになり、私の中でルールの捉え方は大きく変わった。

 

子どもの頃は、「ルールを守りましょう」「ルールを破ってはいけません」と教わる。

ルールを破る人は“問題児”であり、ルールを守ることは“優等生”であるための条件の1つだった。大学に入るまで、私にとってルールは絶対的なものだった。破るなんてありえない。

宿題は必ずやるし、校歌は必ず歌うし、遅刻は絶対にしない。髪を染めたりスカートの長さを変えたりするなんて言語道断。それこそ車も通らなければ周囲に人もいない横断歩道であっても、赤信号では絶対に渡らないような生き方だった。ルールに縛られた生き方とはまさにこのことだ。

優等生でありたかったというより、ルール通りに生きることが自分の中での正義だったため、ルールを破ることが選択肢として存在していなかった。

 

大学生になり、ルールを破るという選択肢があることを知った。

形式的で無意味なルールが存在すること、現状のルールが必ずしもベストなわけではない、疑義を呈する余地があるものだということを知ったのだ。

自分の中の正義感が揺らいでいき、だんだんルールとの付き合い方を覚えていった。

 

そして社会人になり、人事の仕事をするようになり、仕事としてルールに向き合うようになった。

人事部に配属されて最初に言われたのは「就業規則を熟読してください」であり、問い合わせへの対応がわからないときに上司に言われたのは「就業規則に書いてあるから探してみて」であった。

給与の計算でわからないことがあったら「就業規則ではどうなっている?」とにもかくにも「就業規則」が基準である。大学生の頃、「ルールは意外と守られない」「ルールが正しいとは限らない」と、自分の中でルールのパワーが弱くなっていたが、ここにきて再びルールが強い力を発揮してきた。

就業規則は労働基準監督署にも届け出ているちゃんとしたルールらしい、ということも少し経ってから知った。

 

ルールの力を再認識したところでもう1つ、大事なことに気づいたのだが、ルールは結構な頻度で変わっていく。

ベンチャー寄りの企業に勤めているから余計そう感じるのだろうか。

本当に、頻繁に変わる。法改正という大きな変更でさえ、毎年何かしらある。まして社内ルール……現状に合わないと思ったら、あっさりと変わる。

今日ダメだったことが、明日には認められるなんてことも結構ある。

 

「言ってみるもんだなー」と思う。今のルールには当てはまらないから、という理由で主張を伝えないのはもったいない。そのルールは絶対的なものではないのだ。

現状から合理的に考えて変えた方が良いのであれば話し合う余地は充分にある。

 

実は少し前から「就業規則をつくる」という仕事をしていて、「ああ、こうやってルールができていくんだな」ということを実感している最中でもある。

つくると言っても0からつくるわけではなく、「会社を合併したから規則も統合しないとね」という流れで、2つの就業規則をもとに新しい規則をつくっていこうとしているのだが、これがなかなか興味深い。

2つの就業規則を比べてどちらか良い方を選択するケースもあれば、「これはどちらもイマイチだね」と全く新しいルールをつくるケースもある。決して簡単ではないものの、ある意味“簡単に”ルールがつくられていく。

強い力があると感じていた就業規則である。その就業規則を、話し合いをもとにつくっていく。

就業規則に限らず、法律も校則もどんなルールも、少人数の話し合いの結果が、多数の人々の基準となる。これってかなりすごいことじゃないだろうか。頭では「そんなのあたり前」なんだけど、感覚的に、すごい。

 

ちなみに、中には「こんなルール、必要?」と思ってしまうような細かいルールがあったりもする。

そんな時に思い出すのが、「性善説を信じているなら、そもそもルールなんて必要ないんだよ」という誰かの言葉である(誰に言われたのか忘れてしまった)。

この言葉を脳内に浮かべながら不要だと思ったルールをもう一度見ると、大抵の場合、必要に思えてくる。

 

結局のところ、

・ルールは強いパワーがある

・けれど、絶対的なものではなく、変わっていく

ことがわかったというそれだけのことなのだが、「ルールは守るか破るかのどちらか」だと思っていた私にとって、「変えたりつくったりするものでもある」というのはちょっとした発見だった。

ルール至上主義という言葉がある一方で、「ルールは破るためにある」なんて言う人もいる。

私は、ルールは守るものでも破るものでもなく、使うものなんじゃないかな、と最近考えている。

 

☆★☆★☆

 

ではまた!
次も読んでね!

(Photo credit: funkandjazz via Visualhunt / CC BY-NC-ND

 [著者プロフィール]

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

著書「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:Carlo Scherer)

オフィスづくりが「会社の業績を左右する」なんてことが、あるのでしょうか?

株式会社翔栄クリエイトの河口と申します。こんにちは。 

弊社は「オフィスを創る」ことを主幹事業の1つとする会社です。

 

こう話をしますと、多くの方は「オフィスデザインのことですか?確かに最近はかっこいいオフィス多いですよね」と思うかもしれません。

 

しかし、私たちの事業は「オフィスデザイン」だけではありません。

デザインはオフィスづくりの一つの要素に過ぎませんし、意匠という意味での狭義のデザインにありがちな「オフィスがかっこいいかどうか」は言ってしまえば瑣末な話です。

 

本質的にはオフィス改装や引っ越しは一種の「投資」です。単に「かっこいい」だけでは、デザインに投資をしようとは思わないでしょう。

デザインとは、本質的には目的を達するための手段です。そして、会社の目的は業績を上げることです。

したがって、我々の事業の正確な定義は「社員の行動や社風に影響を与えることで、業績に貢献するオフィスを創ること」になります。

 

しかし、「オフィスが業績に貢献する」とは、具体的にどういうことなのでしょう。

オフィスの影響で会社の業績が変化する、などということはあるのでしょうか。

 

 

例えば、こんな話があります。

学校のカフェテリアにおいて、ある試みが行われました。カフェテリアのメニューは一切変えず、陳列の仕方や並べ方が子供のメニューの選択に影響を与えるかどうかを確かめるという実験です。

実験者は、何十校もの学校で、カフェテリアの責任者に食品の陳列方法を具体的に指示をしました。

デザートを最初においた学校もあれば、最後においた学校もあり、別のところに離して置いた学校もありました。ある学校では目線の高さにフライドポテトを置き、別の学校では人参スティックを置きました。

 

そしてこの実験は劇的な結果を示しました。

カフェテリアの配列を変えるだけで、数多くの食品の消費量を最大で25%も増減できたのです。*1

 

シカゴ大とハーバード大の行動経済学の研究者は、この結果を建築になぞらえています。

優秀な設計者なら知っているように、トイレをどこにつくるかという、これといった根拠がなさそうな意思決定が、校舎を使う人々がどのように相互交流するかに微妙な影響を与える。トイレにいくたびに同僚に偶然出会う機会が生まれるからだ。(中略)

利用者の注意をある特定の方向に向かせると細部が力を持つようになるケースは多い。*1

つまり「オフィス空間」は一件、些細な話に見えますが、社員の行動に対して大きな影響を及ぼすのです

 

行動経済学者はよく、「人間の問題に見えても実は環境の問題であることが多い」と言います。

あなたの行動も、誰かが環境を変えることで形作られている。今日一日でそのような場面に何度出くわしたか振り返ってほしい。

例えば、交通技術者はあなたに予測通り秩序よく運転してもらうために、道路に車線マーカーを描き、信号や道路標識を設置している。スーパーの店長はあなたに店内で長く過ごしてもらえるように、牛乳のコーナーを一番奥に設置している。あなたの会社のトップは従業員の連携を高めるために、パーティションや仕切りのない「オープン・フロア」の設計図を承認している。銀行はATM機にカードを忘れていく客に業を煮やして、カードを受け取るまで現金が出ないように機械を設計している。

環境を変えるというのは、適切な行動を取りやすくし、不適切な行動を取りにくくするということだ。*2

組織の風土や意識を変えたい、という活動は大きな時間と手間がかかります。

しかし、多くの方がご存知の通り、意識変革は「かけ声」だけではままなりません。「空間」や「環境」を変えることで、従業員の意識変革に実効性をもたせること。これが「オフィス空間を創ること」の持つ大きな力です。

 

 

事例:アクロスロード株式会社

では、少し事例をご紹介します。

五反田のシステム開発会社であるアクロスロード株式会社は、事業の性格上、顧客先で作業を行う社員が多いという状況にあり、経営者は「社員と会社の関係が希薄になりがちである」という課題意識を持っていました。

 

ちょうど引っ越しのタイミング、ということもあり、経営者から

「「社員同士のフェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションを増やしたい」

とのオーダーがありました。

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(写真は引越し前の社屋)

では、「フェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションを増やす」には、どうすれば良いでしょう。

経営者にヒアリングをかけると「自発的に他者とのコミュニケーションが引き出されるような空間を創ってほしい」と強い要望があります。

 

このような場合、ありがちな解決策として、一般的にはオフィスで勉強会の実施や食事会を開催する事が多いでしょう。

さらに、帰って来て欲しいから「オフィスを心地よいカフェ風にした」なんて話はよく聞きます。

 

しかし、正直に言うとそれは多くの場合「的外れ」です。

実際には、オフィスがカフェ風になったからって、社員は会いたくも無い社長や事務員が居る場所には行きません。

そもそも、会社に気持ちが行っていないので、何を企画されても、帰る気にならず、なかなか、帰って来ないというのが、この業界に多くみられる状況です。

従業員の本音を無視して事を進めても、形骸化するだけなのです。

 

そこで我々は『進んで帰りたくなるオフィス』を創ることを決意しました。

ですが「会社に帰りたくなる」なんてことが起きるのでしょうか。

 

アクロスロード社の場合、『進んで帰りたくなるオフィス』の源をつきつめていくと、本質は

「社員の活気・モチベーションの高い心地よい空気感を作り出すこと」

にあり、そのカギは「自ら選択できること」にあると我々は考えました。

つまり、どこに座るか、だれと話すか、何の仕事をやり、どのようにオフィスを利用するか、「すべて選べる」ようにすることです。

 

また、「それぞれが独立した空間に居る」ことばかりが重視されるのであれば、会社に帰ってくる必要はありません。カフェで十分です。

わざわざオフィスに帰ってくるのであれば「社員同士、連帯している空気感を感じられる」ことも「社員の活気・モチベーションの高い心地よい空気感を作り出すこと」につながります。

 

したがって、オフィスは以下の条件をクリアしなければなりません。

社員が自ら、仕事も他の人との係わり方も選択できる

会社全体が「心地よい空気感」を保つ

結果として、そこに居るのが心地良い、『進んで帰りたくなるオフィス』ができる、となります。

 

この方針に基づき、設計されたのが以下のオフィスです。

スクリーンショット 2017-02-02 16.44.43

奥の濃紺のゾーンを除き、全席フリーアドレスとなっており、社員はオフィスに入ると「どの席に行くか」を都度、決めなければなりません。

 

まず、右側、大きなオレンジのスペースは、「フリースペース」です。

ここでは社員はだれとでも自由に会話をすることができ、アイデアは壁面のホワイトボードに書きつけることができます。フェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションが取りやすいように、机は自由に移動、設置することができます。

スクリーンショット 2017-02-03 13.06.37

 

左奥のスペースは「集中作業ゾーン」です。

技術者は「だれにも話しかけられたくない」という時もあります。その時はここで集中して作業を行うことができます。

スクリーンショット 2017-02-03 13.07.36

 

そして左下の緑色のゾーンは「談笑、くつろぎスペース」です。

ライブラリーも備えており、自由に使うことができます。

スクリーンショット 2017-02-03 13.09.00

 

そして、中央には「会議スペース」があります。

この会議スペースは全ての場所から話を聴くことができ、かつ、席の後ろにあるカラーのガラスボードに自分の意見を書くことができます。議論と合わせて、だれが何を「書いているか」も含め、見える化されています。

スクリーンショット 2017-02-02 16.57.13

これらの結果として、オフィスの移転後、アクロスロード株式会社はいくつかの点で大きな変化を経験しました。

・帰社率の向上

・会議クオリティーの向上

・リクルーティングへのポジティブな影響(応募数アップ、辞退率減少)

全て計画通りとは行きませんが、しっかりとした議論の上でオフィスを創り込むことにより、ほぼ当初の狙いは達成できたと言えそうです。

 

このように、我々は経営者の方針に基づき、既に数百に及ぶ会社の社員の行動を「少しずつ」変えています。

「オフィス創り」は社員の行動を大幅に変え、風土の変化を誘発し、業績に貢献するのです。

 

 

 

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リーダーシップとは、わかりやすく、魅力的な物語を語る力のこと。

あるところに、チームリーダーがいた。Aさんとしよう。

実に頭がよく、誠実な人柄で、部下の話によく耳を傾け、嘘をつかず、困っている部下にはよく手を貸した。そして「間違ったこと」は決して言わなかった。

Aさんの部下からの評価は「いい人」であった。彼と働いていて不快になる人物はまずいないのだ。彼は柔らかな物腰と、人に意見を押し付けないという評判で、どの部下からも嫌われることはなかった。

だが、Aさんは、4,5人を束ねるチームリーダーを勤めたが、その後昇進することはなかった。「Aさんについていきたい」と言われることがなかったからだ。

40を過ぎると、異動で子会社に飛ばされ、そのまま一社員として定年を迎えた。

 

Aさんの同期で同時期にチームリーダーになった人物がいた。Oさんとする。

Oさんは主張が強く、部下から「話を聞かない上司」と思われることも度々あった。

また、彼の言うことを聞かず、仕事でミスをした人間を厳罰にするなど、容赦のない一面を時折見せた。しかもOさんはよく間違えた。彼は間違えるたびに、部下を頼った。部下はよく働かされた。

 

Oさんの部下からの評価は多くは「話は面白いが、怖い人」であった。そして、社内の彼に関する評価は、賛否両論だった。「アイツは血も涙もない男だ」と、批判されることもあったがOさんは意にも介さなかった。

だが、Oさんは、チームリーダーを務めた後、10人、20人を束ねるグループのリーダーに抜擢される。一部の社員から、強力な推薦があったためだ。

なにより「Oさんのもとで働きたい」という社員が少なからずいた。

 

Oさんは40代半ばになると、ついに100名を束ねる部長まで昇進した。強烈な性格をもつOさんには敵も多い。

だが、Oさんを慕ってくる若手も多く、彼は有能な部下に事欠かなかったのである。

 

——————

 

AさんとOさんはこうして、随分と異なった会社員人生を送ることになったのだが、このちがいの本質はどこにあるのだろうか。

 

端的に言えば、Aさんはリーダーではない。彼は人から嫌われないが、リーダーシップを発揮してはいない。

対してOさんはリーダーである。彼は敵を作りつつも、彼はリーダーの名に相応しい行動を取っている。

 

ピーター・ドラッカーは、リーダーについて次のように語る。

リーダーが真の信奉者を持つか、日和見的な取り巻きを持つにすぎないかも、自らの行為によって範を示しつつ、いくつかの基本的な基準を守り抜けるか、捨てるかによってきまる。(中略)

優れたリーダーは、常に厳しい。
ことがうまくいかないとき、そして何ごとも大体においてうまくいかないものだが、その失敗を人のせいにしない。(中略)

真のリーダーは、他のだれでもなく、自らが最終的に責任を負うべきことを知っているがゆえに、部下を恐れない。(中略)そもそもリーダーに関する唯一の定義は、付き従う物がいるということである。

信頼するということは、必ずしもリーダーを好きになることではない。常に同意できるということでもない。リーダーの言うことが真意であると確信を持てることである。(中略)

もう一つ、古くから明らかになっていることとして、リーダーシップは賢さに支えられるものではない。一貫性に支えられるものである。*1

 

———-

 

Oさんは首尾一貫していた。強烈な自信に裏打ちされた信念が彼を支えていたため、部下や他の人物からの多少の攻撃に揺らぐことは決してなかった。

主張があるので、他の人物としばしばぶつかったり、基準に満たない部下に対して厳しい仕打ちをすることもしばしばあった。

だが、Oさんは

「彼ならどう言うか」という質問に対して誰もが「Oさんなら絶対にこう言うだろう。」というわかりやすさを持っていた。この「わかりやすさ」故に、敵も味方も、彼を「一貫している」とみなすことができたのだ。

 

それに引き換え、Aさんは信念よりも部下に配慮し、優先した。

「部下がこう言うから、自分はこう思う」

「部下に嫌われないように、こう言う」

こういった配慮が行き過ぎ、Aさんは部下からもまわりからも、「Aさんは何を考えているのか、本心で言っているのかわからない」
という評価を受けてしまった。

結果的にAさんは、「優しい」という評価を受けることはできたが、「信頼できる」「頼れる」という評価を得ることはできなかった。

 

「魅力的な、わかりやすい物語」を語る人物であることが、リーダーであることの最低要件である。

人は、物語によって結集するからだ。

効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。

歴史の大半は、どうやって膨大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。

とはいえこの試みが成功するとサピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人どうしが力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるからだ。*2

 

実際、いつの世も、支持されるリーダーは、「魅力的なわかりやすい物語」で武装している。

トランプ大統領しかり、小泉純一郎しかり。

もちろん、そのリーダーが良いリーダー足り得るかどうかは別の問題だ。しばしば「物語を語る」リーダーの暴走と、大衆の盲従が、悲惨な結果を招いたのは周知のとおりである。

したがって、「魅力的なリーダー」は、「パワハラ上司」と紙一重であることも多い。

 

だが、人々は常にリーダーを欲する。

彼らがリーダーとして認められるのは、ひとえに彼らの語る物語に魅力があるから、ということに尽きる。

 

 

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(Photo:Donald Clark)

これから新社会人になる「エリート意識を欠いたエリートたち」への餞別の言葉

今日は有名大学を卒業して、これから社会にでて仕事につくような人の為になるような話をしようと思います。

 

みなさんは今まで自分たちの事をエリートだとかそういう風に意識した事はあまりないかと思います。

自分が人を意識的に差別しているだなんて、まず思っていないでしょうし、今後もそういう事をしようだなんて思っていないでしょう。

 

自分の話になりますが、僕はそこら辺の中流家庭に生まれた後、運よく偶然医学部に入学でき、卒後医師として働く事となりました。

医師として、人を救う仕事に従事できる事をとても誇りに思いながら実社会の場に希望を持って出ていったのですが、現実は思ったものとちょっと違いました。

 

僕は大学に入学してから後、この世をよりよくする為に己を研鑽し続けました。

自分の働きによって、この世界がほんの少しでもよりよい社会になっていく事を目指していたのですが、医師の仕事というものは、そのような希望に溢れた仕事だけでは構成されていませんでした。

 

非常に嫌な言い方になってしまうかもしれませんが、医師として現場で働くという事はシリコンバレーのような環境でイノベーションを起こし、世界に革新をもたらすだとかいった事とは基本的には無縁です。

日常診療の八割ぐらいは病院に来なくても治るであろう風邪の診療や、遺伝的・社会的にあまり恵まれなかったが為に身体を患ってしまった人に対する診療で埋められています。

 

世の中には功利主義という考え方があります。これは最大多数の最大幸福を目指す考えであり、わかりやすくいえば全人類において最もコストパフォーマンスのよい政策を採択する事を理想とする考えです。

僕は学生時代から、この考えを強く信望していたので、初めは医療という行為が極めて投資先として効率の悪いものにみえました。このような場所に多額の資金を投入するという事に、強い違和感を感じたのです。

 

こんな家で寝てればなおるような人達や、遺伝的・社会的に恵まれなかった弱者に使うお金を、もっと別の場所に投資すれば、国がもっと栄えるのに。

それでなくとも今現在は日本は財政的に貧しているのだから、なおさらこの残飯処理のような診療行為に強い不信感を懐きながら働いていました。

 

医師にもこのような経済的な観点から、医療行為を税金の無駄だと考える人の数は決して少なくはないと思います。僕も働きはじめの頃は、そういった信念に強くとらわれていました。

ですがある時、自分が強い選民思想にかられているという事に気が付き、考えを改める事にしました。

 

 

みなさんはエリートという単語を聞いたことがあるでしょうか?

西洋諸国ではノブレス・オブリージュといった概念があり、社会的に恵まれた人々(エリート)は恵まれなかった人々(庶民)に対して無償で奉仕すべきであるといった考えがあります。

西洋諸国では、日本のように一億総中流といった考えよりも、どちらかというとエリートと庶民はわかりやすい形でわかれており、社会もある程度そういうものだとして受け入れている下地があります。

 

これはある面ではうまく機能することもあるのですが、人々の間に歴然とした身分差が生じ、結果として同じ人間なのにまるで違う存在であるかのような扱いを受ける事に通じてしまうことがあります。

 

例えば以前のイギリスでは、パブに入るのにも入り口が二種類あり、人々は身分で別れて席を住み分けていたようです。

話し言葉も、エリート層とそれ以外で異なる要素が多く、結果として人として平等だとは決して言いにくい状況がそこにあったようです。だからこそ、エリートには社会的責務が背負わされるのです。

 

さてみなさん自身の心に聞いてほしいのですが、あなたは人を身分で差別するでしょうか?

たぶん、そんなに自分が差別主義者だと自認するような人は多くないでしょう。

 

では質問を変えます。あなた自身は今後、この世の中をよりよいものにしていくために働くとします。

その時、あなたが考える”より良い世の中”にいる人間は、どんな人達でしょうか?

 

そのあなたが考える”より良い世の中”にいる人達の中に、あなたの親族、友人、その他いままでの学校や会社で関わった事がある人は恐らく含まれているでしょう。

ではそれ以外の人達の顔が具体的に思い浮かぶでしょうか?

もっといえば、身体的・社会的に恵まれていない人達の事を指します。

なにも日本人にも限った話ではありません。外国人でもいいですし、人種も関係ありません。

 

あなたは彼らがどんな姿をして、どんな考えを持って、どんな生き方をしているのか、具体的に考えることができるでしょうか?

たぶん具体的に、そういう人達がどういう人なのか、あまり思い浮かべる事はできないかと思います。

 

これ自体は正直、仕方がない事だと思います。会ったり話したり機会もあまりなかったでしょうし。

 

ただここで1つ念を押しておきたいのですが、実はあなたがこうして生きてきた20年近い歳月において、あなたが自然と生きてきた環境は、実は物凄く狭いのです。

あなたが考える”より良い世の中”とは、あなたが具体的に想像できる人達の生きる世の中だけなのです。

 

とくに高い偏差値の大学を卒業したような人達は、自然と普段付き合う人も洗練された人が非常に多い。

実はあなた達は意識するしないに関わらず、非常にエリート選民思想に近いものを持ってしまっているのです。

 

「そんな馬鹿な、自分は差別なんてしていない」と思うかもしれませんが、事実としてあなたの生息する社会圏内には経済的・社会的な弱者が存在していることはほぼないのもまた事実なのです。

 

あなたは今後、社会にでる事になります。今までのような”毛並みの良い”人達だけで構成された”生きやすい”世の中からはとても考えられない、ビックリするようなことが沢山待ち受けています。

そこにはあなたが考える”よりよい社会”から考えると恐ろしく無駄に満ちた世界が常闇のように暗く深く存在しています。恐らく強い不快感を抱くことでしょう。

 

それらに不快感を抱くことは、決して間違いではありません。人は異質なるものを恐れる生き物ですから。

けれどゆっくりでいいから、今までの自分の社会には存在していなかった他者の存在を、受け入れていってください。あなたのような強い存在が、弱き多様性を受け入れる事を拒否せず、優しい態度を取る事を選ぶ事にはちゃんと意味があります。

 

今の日本の世の中は非常に平和です。ISISのような勢力が跋扈して、殺戮を繰り広げているといった話はまったく聞くことはありません。

これは現状においては、日本人の中で不和が生まれず、現政権にある程度みんなが納得しているからこそ生じている現象です。

 

当たり前ですが社会には格差があります。年収が高い人、低い人。健康に恵まれた人、恵まれなかった人。あなたたちのような偏差値の高い大学を卒業した人たちは、どちらかというと恵まれた人が多いでしょう。

 

あなた達は自分が今あるのは、自分が沢山努力したからだと思っているかと思います。それは決して間違いではありません。

今まで、並々ならぬ努力があったからこそ、今の貴方があるのです。こんなに頑張ったんだから、ちょっとぐらい報われてもいいはずだと思うかもしれません。そしてそれは、ある程度は正しい考えだと思います。

 

しかし逆は必ずしも真ではないのです。努力しなかった人間が、恵まれずに貧困に喘いでいいかというと、それは全然YESではない。

そのようにして、完全に競争原理を組み込み、弱気を切り捨てるかのような政策を採択した後に待ち受けているのは、弱者による反乱です。

 

あなた達のような偏差値の高い大学を卒業した人達は、ひょっとしたら努力をしてこなかった人間と比較すれば、GDPの貢献率は10倍以上違うかもしれません。

この観点でいえば、あなたは努力をしてこなかった人間と比較して、10倍ぐらいの価値があるといえるかもしれません。

 

では別の観点から考えてみましょう。あなたとその人が、拳で殴り合ったとしましょう。あなたは彼の10倍強いでしょうか?さらに設定場面を変えてみましょう。

今度はあなたが素手なのに対して、相手が包丁をもっていたとしましょう。はたして勝てるでしょうか?たぶんちょっと難しいんじゃないでしょうか。

 

この事からわかるとおり、人は暴力の前ではみな等しく平等なのです。

あなたがコストパフォーマンスが悪いといって弱者を切り捨てる事を正当化した後に待ち受けているのは、暴力によって平等を目指す社会的な革命です。

暴力による報復をあなたが好むというのならば話は別ですが、普通の人なら現在の中東情勢やポルポトがいた頃のカンボジアのような社会は望まないでしょう。僕も、そういう社会は望みません。

 

これから社会にでるあなた。たぶん考えている以上に世の中に憤りを感じる事が多いかと思います。世の中の無駄としか思えないものも多数目にする機会があるでしょう。

 

その時にこそ、人に優しくなってあげてください。他人の存在に寛容になってあげてください。

人は誰しも、自分の事を良く評価してもらいたい生き物です。自分の努力する苦しみがわかるのは自分だけですし、あなたの生き辛さを理解できるのもあなただけです。

 

他者の痛みを真の意味で理解することは私達にはこの通り不可能です。

ですが、あなたと同じ苦しみを持つ人がこの世界にいるという事は類推可能でしょう。この世界には自分と同じだけ苦しかったり、辛い思いをしている他人がいるのです。

 

そういう人の生きにくさの存在を認めてあげてください。許容できざるものも、元はあなたと同じ心を持つ人間なのです。

真の意味で、より良き社会を皆で形成できるよう、生きようではありませんか。

 

 

 

【プロフィール】

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高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

「平等に貧しくがいい」という国には、僕は住みたくはない。

社会学者で東京大名誉教授の、上野千鶴子氏の発言が、物議をかもしている。

この国のかたち 3人の論者に聞く

日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。

一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。

日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。(中日新聞+)

全員で「豊かに」ではなく、「貧しく」という発言が引っかかる人が多いのだろう。賛否両論でなかなか面白い。

 

この話題をある会社経営者にぶつけたところ、面白いコメントをいただいたので匿名を条件にここに再構成して記す。

なお余談ではあるが、この方は会社を複数所有しており、大変裕福な方だ。

 

—————-

 

この報道を見て、僕は大変驚きました。インテリ中のインテリ、国の指導者層たるべき東大の先生が貧しくなろう、と「啓蒙している」のは、日本も末期、致命的だと思いました。

断っておきますが、私は「平等が悪い」とはいいません。貧しい人たちへの再配分のために所得税率も法人税率も多少上げたところで、別に問題はないのです。

また、「移民が嫌い」というのも、人それぞれですから特にここで取り上げようとは思いません。

 

ただし、「平等に貧しくなりたい」という願望(?)には私は強く反対します。

有り体に言えば、日本において「平等に貧しくなりたい」という人が大半を占めた場合、日本には、僕はもう住みたくはないです。

 

なぜかと言えば、もし、そのような人が国民の大半を占めることになれば、日本は治安もサービスも悪く、行政も機能不全、重税で、結果平等ばかりが重視される、最低の国になることが見えていますから。

そんな国に誰がすみたいとおもうでしょうか。

 

「皆で等しく貧乏」なんていう思考をもつ国民ばかりであれば、そんな人達は私は同胞とは思えないし、未来はありません。

私のような人物も「出て行け」と言われるでしょうから、喜んで国外に住むことを選択します。

幸い今は国境を意識せずとも十分に商売ができるし、外国人の知り合いもかなり増えました。周りには同じように考える経営者も数多くいます。

私は「日本という国」を捨てるための準備をすぐに始めます。

 

思い出があるだろう、とか、恩知らず、というご批判をいただくかもしれません。

それでも、私の決意は変わらないでしょう。

 

そもそも、私は「豊かになりたい」「みんなでがんばりたい」という人を応援するのはやぶさかではありません。勉強をしたい人がいて、勉強ができなくて困っている人がいれば、喜んで寄付をしますし、実際に寄付をしています。

ですが、この東大の先生の論理である「オレが貧しいから、お前も貧しくなれ」というのは、全体主義に通じる、危険な思想です。

ナチス・ドイツを振り返ってご覧なさい。あの頃のドイツ国民は「等しく貧しい」状態を皆で目指しました。資本家は迫害され、「ナチス・ドイツへの忠誠度」で人に序列がつく社会でした。

その結果、どうなったかはもう皆さんがご存知でしょう。

 

どうせ、人間は人に序列をつけることをやめはしません。理想主義者の言う「差別のない世界」は正しいですが世迷言です。

人は格付けが大好きなのですよ。現実をしっかり見てください。全員が等しく貧しくなれば、カネ以外の序列ができるだけです。

 

さらに、一番許せないのは、子どもたちのことを考えていないことです。

東大の年寄りの先生はいいですよ、残された人生、そんなに長くないのですから。

でもわたしの子供達は違います。

これから1世紀に渡って、この国に住んで、生きていかなければいけないのです。私は子供に貧しくなってほしくありません。

 

「平等に貧しくなりたい」なんて、アホですか。

もっと豊かになろう、素晴らしい国になろう、と国民が思わない限り、国は間違いなく貧しくなるでしょう。

 

私は会社をやっていますから、努力できない人もいることを知っていますし、頑張れない人も数多くいます。そういった人たちに努力を強要するのは間違ったことかもしれません。

ですが、東大の先生が「貧しくてもいい」、いや「貧しくなろう」と言っているのは、どう考えても努力の放棄です。

 

日本の治安の良さ、食べ物の美味しさ、国土の素晴らしさ、そういったものはすべて、「豊かになりたい」という努力の結果です。

それを放棄するならば、私はそんな国、御免です。

 

 

 

 

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(Photo:ioana)

 

「マガーク少年探偵団」に見る、子どもの「役割」の大事さという話

「マガーク少年探偵団」という児童小説シリーズって、みなさんご存知ですか?

作者はイギリスの児童小説作家、E.W.ヒルディック。

 

親分肌の赤毛の少年「ジャック・マガーク」を団長として、4人組(途中から5人に増える)の少年・少女が街のいろんな事件を解決する、っていう筋書きの児童小説でして、私が昔からすごーーく好きな児童小説シリーズの一つなんですけれど、残念ながらヒルディックが2001年に亡くなってしまった為、24巻まででシリーズは終わっています。

 

その内18冊が日本語訳されていて、一時は絶版になってしまったんですが、2003年になって8巻までが新装版になって復刊されているようです。続きも復刊して欲しいので皆さん買って読んでください(ダイレクトマーケティング)。

で、この「マガーク少年探偵団」の何が面白いのか、という話なんですが。

子どもの頃の私は、この探偵団のメンバーが、それぞれ特化した「役割」を持っている、ということに何より憧れたんじゃないかなあ、と思うんです。

 

上で書いた通り、マガーク少年探偵団には、5人のメインキャラクターが出てきます。彼らにはそれぞれ「二つ名」があります。

少年探偵団の団長、ジャック・マガーク。

「記録のジョーイ」こと、ジョーイ・ロカウェイ。物語の語り手でもあります。

「鼻のウィリー」こと、ウィリー・サンドフスキー。

「木登りワンダ」こと、ワンダ・グリーグ。

「頭脳のブレインズ」こと、ブレインズ・ベリンガム。探偵団には後から参加するキャラクターで、彼だけ9歳です。(他メンバーは全員10歳)

で、彼らにはそれぞれ得意分野があって、マガークは彼らの得意分野を使いこなして事件を解決しようとするんですね。

 

ジョーイは、どんなことでもこまめに記録していて、重要な手がかりが彼の記録から判明したりすることも多いです。

ウィリーは非常に鼻が鋭敏で、ちょっとした匂いをかぎ分けて犯人に繋がる事実が判明したりします。香水で気分悪くなったりもするんですが。

ワンダは「高さ」に関する感覚が鋭敏で、背丈を覚えて覆面をしていた犯人を見抜いたり、高いところに登って手がかりを見つけたりします。

ブレインズには化学の知識があり、いわゆる科学捜査のようなことをやって調査に貢献します。

 

で、彼らをまとめて、色んな手がかりを集めて、時には突拍子もない思いつきで捜査を進めて、時には物凄いひらめきで事件を解決に持っていくのがマガークの仕事、という訳です。

 

マガークは結構性格のアクが強く、自分勝手なところも多いんですが、作中見ていても「人をやる気にさせる」スキルはかなりのものです。

「この場面ではお前だ」的な取り上げ方があちらこちらで見え、個々人の能力に対する信頼ってのは物凄いんですね。普段はぎゃーぎゃー口をさしはさむのに、各メンバーが自分の得意分野で導き出した手がかりには殆ど文句を言わず、さくっと受け入れる。

これ、マネジメントの話にも通じるところがあると思います。

 

で、各メンバーも自分の得意分野については絶対の自信をもっていて、いってみれば「プロ」としてそれぞれのスキルを活かしているんですね。

勿論言うまでもなく、子どもは「謎解き」が大好きであって、事件が解決されていく過程、隠された秘密が明かされていく過程にわくわくします。

 

事件自体が日常に密着したものであることもあり、感情移入しつつの謎解きを追っていくのが「マガーク少年探偵団」の最大の面白さだ、ということは論を俟たないと思います。

けれど、それと同等、いやもしかするとそれ以上に、「登場キャラクターがそれぞれ明確な「役割」を持っている」ということに、子ども時代の私は物凄い感銘を受けたんです。

 

子どもが成長する上での「役割」の重要性

ここからちょっと話が変わります。

これはある程度一般化しちゃっていいと思うんですが、少なくとも小学校低学年くらいまでの子どもは、ほぼ一様に「役割」が好きです。「自分は〇〇係」「××は自分の仕事」というものをすごく欲しがるし、そういう役割があるとすごーく喜ぶんです。

 

例えば、子どもの頃の私は、親が飲むビールを冷蔵庫から運んでくる「ビール係」というものに任命されたことで物凄く張り切っていましたし。

しんざき家の長男(9歳)は「こどもリーダー」という役割を与えられていて、まあ平たくいっちゃうと長女次女のお世話係だったんですが、「ぼくはこどもリーダーだから!」と今でも凄い責任感を持ってくれていますし。

長女はお箸の用意係、次女はお風呂を沸かすボタンを押す係と、本当にちょっとしたことなんですが、単にお手伝いを頼むのではなくちゃんと「役割」を作ってそれを任命すると、子どもはやたら喜びますし、張り切ります。

 

恐らくこれって、成長の上でも大事だと思うんですよ。「役割」への憧れ。「役割」を与えられることによる責任感と、仕事をこなすということの達成感。どんなに小さなことでも、「役割」が成長に及ぼす影響って結構大きいんじゃないかなあ、と。

そういった、「役割」へのあこがれみたいなものも、マガーク探偵団シリーズの面白さの重要なエッセンスだったなあ、と、今の私はそんな風に考えるわけです。

 

ちなみにマガーク探偵団の話に戻るんですが

私が一番好きなのは12巻の「銀行強盗を捕まえろ」で、二番目が13巻の「ぬすまれた宝石の謎」だったんですが、これらまだ新装版が出てないみたいなんです…。

残りのタイトルも在庫少ないみたいですし、あかね書房さん是非是非続刊もよろしくお願いします。取りあえず今出てる分は全部買います。(旧版も持ってるんだけど)

「ぬすまれた宝石の謎」は、「中古のバイオリンケースに隠されていた宝の地図」という謎を端緒にした宝探し系のお話でして、なんともワクワクしながら読み進めたことを覚えています。

 

あと、ヒルディックは日本好きだったのか、それともシリーズに日本ファンが多かったからという理由なのか、17巻にあたる「ゆうかい犯 VS 空手少女」では「日本の空手少女」という謎の属性を持った日本人の少女、マリ・ヨシムラが登場したりもします。この巻もかなりぶっ飛んだ話が展開しますので、図書館ででも見かけたら是非手にとってみてください。

 

ということで、今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

世の中は「裏側の仕組み」を知っていることが重要。

「仕組みを知っている人」と「仕組みを知らない人」の間で、圧倒的な差がつくのが世の中である。

仕組みを知っている人は、常に有利に事を運び、仕組みを知らない人は表に見えるルールだけを愚直に守って損をする。

 

例えば、会社の「人事評価」である。

 

「どうすればもっと評価されますか?」と多くの新人は上司に聞く。

すると、上司からは次のように説明される。

 

ウチの評価は、成果と能力、そして意欲の3つが柱となっていて、それぞれに詳細の評価項目がある。新人のときは能力と意欲のウェイトが大きく、ベテランになるに従って、成果のウェイトが大きくなるんだよ。

 

こう言う「ルール」の説明を受けて、「ウチの評価の本質」と知った気になる。

では、ということでその新人は能力を磨き、意欲を出して、評価を高めようと、よく本を読み、セミナーに出かけたりする。また、意欲がある(ように見せる)ことも大事で、あいさつがしっかりしていたり、言われたことを確実にこなしたりする。

はたして、期待した評価が得られるのか、というと、結果的には同期と比べても極めて平凡な昇給しかなく、

「こんなに努力したので何で?」

という感想を持ち、

「頑張っても同じじゃないか」

と、やる気を徐々に失い、「なんとなく働く平凡なサラリーマン」が出来上がる。

 

これが「「表のルール」は知っているが「裏の仕組み」を知らない人」の典型だ。

 

 

さて、仕組みを知っていると、上の人とは別の発想になる。

例えば、あるサービス業の会社で、営業の一人はこう言った。

 

会社の説明としては、人事評価は「成果、能力、意欲」に基づいて行われると発表されている。

だが彼は「とはいえ、説明されたルールはあくまでも建前。実質はそうではない」と考えた。

「実際には、以下のように異なる基準が適用されている」と。

 

成果 ⇒ 自分の力だけでは大きな成果は出せない。例えば、強い商品を持っている部署は成果を出しやすい。

能力 ⇒ たくさんの人の中で「能力が高い」とみなされる人は、結局「評価者である上司と長い間一緒に働いている人」になりやすい。

意欲 ⇒ 意欲は「会社にいる時間の長さ」で測られる。

さらに彼は最終的には、「部長同士での評価の調整」が入るので、上司に力がないと、良い評価にならない。ということを見抜いていた。(実際、そうだった)

だから、彼は「自分の評価を上げるため」にこう考えた。

 

・強い商品を持つ部署に異動することが先決。

・上司と出来る限り一緒に働けるような仕事を選択する

・会社に長時間いるように見せる(上司たちが休みがちなところでまとめて休みを取る)

そして、

・声が大きく、会社の中心となっている上司の下で働く

かくして彼は、同期の中で頭一つ出た出世を果たし、「転職の時に使える肩書」を得ることができた。

 

いつの時代のどんな組織にも「表のルール」には最低限知っておくべきことしか書かれていない。

それだけを知ってもうまく立ち回るのは無理である。

重要なのは、

「だれがルールを決めたのか」

「なぜこのルールが存在するのか」

「まだルールの存在しない領域はあるか」

という、「裏側の仕組み」を考え、うまく立ち回ることである。

 

—————————–

 

世の中には様々な「ルール」が存在しているが、殆どの人は「裏側の仕組み」には興味を持たない。

例えば、

なぜサラリーマンは成果ではなく労働時間に対して賃金を支払われているのか。

なぜ結婚という契約形態が法的に採用されているのか。

なぜ年金という制度があるのか。

 

まして常に人の争いのタネとなる、法も、人権も、国民も、人間が勝手に定めたルールに基づく虚構である。

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根ざしている。(中略)

司法制度は共通の法律神話に根ざしている。互いに面識がなくても弁護士同士が力を合わせて、赤の他人を弁護できるのは、法と正義と人権—そして弁護料として支払われるお金—の存在を信じているからだ。

とはいえこれらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない。宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。*1

争いをうまく収め、また権力者に搾取されないためにも、我々はルールの背後にある仕組み、すなわちその成立の過程を理解しなければならない。

 

逆に言えば、権力者は常に「無知な人」を狙い、操ろうとする。

正確な知識を得るための勉強が必要なのは、そのためだ。

 

 

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(Photo:Alan)

 

*1

重要なのは「苦しくても頑張る」ではなく「無理なく継続する」こと。

books&appsキャラデザ修正版

頑張るのがつらい、と言うのは、明らかに現在の努力が、方向を間違っているということだ。

それは、頑張らなくていい、ということではない。

もっと大事な「継続すること」を目指すべきということだ。

 

漫画:眞蔵修平

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出典:「頑張るのがつらい」と感じたら、何かが間違っている。

 

 


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IT業界の「デスマーチ」がもたらすものは、長時間労働や人材の疲弊だけではない。もっと深刻だ。

IT業界が外部の人間から敬遠される理由の一つに「デスマーチ」がある。

ほとんど実現不可能に思える無理なスケジュールで、深夜におよぶ残業、休日出勤の連続、人海戦術でほとんど役に立たない新人までが駆り出され、終わりの見えないプロジェクトの完成にひた走る、これがデスマーチである。

 

そこではプログラマは一人また一人と過労に倒れ、うつろな目でキーボードを叩き続けるプログラマの連続勤務時間は20時間を優に超える、といった光景が見られる。

このようなデスマーチについて、人材の疲弊やそれに伴う退職など、ITベンダー側の不利益が語られることは多いが、クライアント側の不利益、もっといえばプロジェクトの成果物自体がデスマーチで台無しになってしまうことはあまり知られていない。

 

デスマーチのきっかけ

営業の無謀な受注、仕様の調整不足などで、システムの実装行程が確保できず、どうやっても通常の開発体制ではシステムの完成がおぼつかなくなった時、ベンダーとクライアントで納期を延長するかそのまま強行するか、という話し合いがもたれる。

設定された納期にはキャンペーンの開始や、製品の出荷など、システムの開発そのものとは直接関係のない事情が関係している場合が多い。

もし納期を遅らせる、という判断をすれば、クライアント自身が各方面との調整することを余儀なくされるだろう。

 

一方、納期をそのままに、デスマーチを敢行するという決断をベンダーが下した場合、それが失敗した時のリスク、成功する確率や成功したとしてもどれほど人材が疲弊するかといった、ベンダー側にかかるコストはその時点では未知数である。

ベンダー側の営業やディレクターは一般的に、不明確なコストに直面した時、「今回は(あるいは今回も)なんとかなるだろう」と楽観的になる傾向があるし、彼らにとっての誠実さの結果として「なんとかしなくてはならない」という意識が強くなる。

 

またクライアントは納期を延ばした時に発生する調整の難しさは容易に想像できるが、デスマーチによって納品を強行することが、どのような結果をもたらすかについては知らない。

このような楽観的なベンダーと無知なクライアントが話し合うと、

「なんとか間に合わせてもらわないと困りますよ」

「そうですね。なんとかしましょう!」

といった調子で、デスマーチが強行されることになる。

 

デスマーチの実際

デスマーチとは、作業時間を増やして通常の開発スケジュールを暦上で短縮させるという行為であると、ディレクターやクライアントは信じようとしている。

だが実際は、通常のスケジュールで予定された開発作業と、デスマーチで行われる開発作業は質的に同じではない。むしろその目的も、工程も全く異なると言っていい。

 

強いプレッシャーの中で、かき集められたプログラマ達は要求仕様を見直して優先順位を決める。そして特に明確に仕様が定められた正常系のフローに注目する

例えばECサイトなら「商品をカートにいれて決済ボタンを押し、クレジットカード決済を行い、注文データをデータベースに書き込む」といったような、正常なユーザー操作の流れだけに注目して、その実装に注力するのである。

なぜならクライアントやディレクターがまずチェックするのは、「そのシステムが正常に動作しているか」だからだ。

 

肝心なのは、結果として、正常でない「異常な操作=異常系」、中でも仕様が不明確なフローが後回しにされることである

例えば、クレジットカード番号が間違えていて、与信トランザクションが失敗したとか、決済のタイミングで商品の在庫が切れていたとか、そういった例外処理は、その取り扱いについて明確な仕様が定まっていない時(そして大抵定まっていない)ひとまず、プログラマの視界から意図的に外される。

これは異常系の処理が重要でない、という意味ではない。

データベースの不整合など、運用上の(時には回復困難な)大きなトラブルの原因が異常系の取り扱いを誤ったことにあることも多い。

 

しかし、デスマーチという特殊な状況下では、これらを重視することができない。

なぜなら悠長にそれらを実装していては、他の正常系フローの実装が全て完了するかわからないし、不明確な仕様をクライアントに確認する時間がないからだ。

期限のプレッシャーに追い回される恐怖を前にして、仕様が定かではない異常系の処理は提出前日の早朝に意識があれば対応しよう、というところまで、後回しにされる。

 

正常系の実装、またはテスト工程をある程度通過できる実装がほとんど終わりかけた早朝、プログラマはキーボードに突っ伏したまま、意識を失う。

薄れいく意識の中で、クライアントの検収時や、テスト工程、または運用開始後(!)に不具合が見つかり、無骨なエラーメッセージが画面に表示された時のことをプログラマは想像する。

だが、疲労の極地で、自暴自棄になったプログラマは、「それは想定外でした。すぐに修正します」と言い訳すれば良いのだ、と考えて、眠りに落ちる。

そして彼が長い眠りから目覚めた頃、ソースコードはクライアントに提出されるのである。

 

意図的にしろ、偶然にしろ、彼らがデスマーチで作っているものは、クライアントやディレクターが軽くチェックした時に「ちゃんと出来ているじゃないか」と言われるようなハリボテである。

彼らは本来無能ではないが、結果的に、デスマーチは彼らを思慮のない、ただ手が早いだけの無能な働き者のように振る舞わせてしまう。

ジェリー・ワインバーグは、プログラマにとってのデスマーチがどのようなものかを端的に説明している。

人は、期限通りに仕事をするために多くの残業をするのではなく、仕事が期限通りにできそうもないことがわかったときに、非難から身を守るために残業するのだ。 *1

 

デスマーチの本当の問題

これまでデスマーチの語る上で、最も多く喧伝されているのは劣悪な労働環境がもたらす、人材の疲弊というテーマだ。

しかし、デスマーチの問題はそれだけではない。

 

一つは、本来有能で、仕様の調整もでき、完全なシステムを構築できたプログラマの能力を意図的に落として、システムとは到底呼べないような不完全な「何か」を作らせることだ。

これは、プログラマのプロフェッショナリズムと誇りを失わせるし、何よりも制作部門全体に日常的なモラルハザードを引き起こさせるきっかけになる。

 

もう一つは、デスマーチの「奇跡的」な成果を成し遂げた結果、システムに未対応の例外や、隠された仕様の不備といった、「技術的負債」が大量に残ることである。

この技術的負債の代償はベンダーもクライアントも、運用開始後のクレーム対応、臨時改修などで、相応に払わされることになるし、某銀行のATMトラブルのようにエンドユーザーにまで被害が及ぶこともある。

 

総じて、デスマーチにベンダーの体を張った「言い訳」以上の価値はない。

 

もしこのようなデスマーチの実態が広く社会に知られれば、デスマーチを宣言した営業やディレクターは本当の意味での誠実さを疑われても仕方ないし、それを許可したクライアントも自ら騙されに行ったようなものだと社内で非難されるだろう。

 

だが、彼らはデスマーチの結果とその意味について理解していない。

むしろ、積極的に興味を持たないようにしているのではないか、とさえ思える。

自らのマネジメントの失敗を認めることなしに、また重大な決断をする勇気を持つことなしに、プロジェクト進行の体裁を保つのに、デスマーチほど便利な手段はそうないからだ

 

こうして、今日もデスマーチは繰り返される。そしてそのコストは社会全体に、静かに、確実に積もっていくのである。

 

 

【プロフィール】

著者名:megamouth

文学、音楽活動、大学中退を経て、流れ流れてWeb業界に至った流浪のプログラマ。

ブログ:megamouthの葬列

 

*1 

Andrea Kirkby

営業に行ったら、相手が7人も出てきた。でも、そんなに人要らないよね。

最近「法人営業」の方々と、お話する機会が数多くあった。

その時、1つ面白い話がでた。

 

「アポ取って、結構大きい会社に営業に行ったんですけど。」

「行ったけど?」

「相手側が、7人も出てきたんですよ。さすが大手。人が多い。でも、そんなに人要らないよね。」

「どんな人達だったのですか?」

「責任者が1名、サブリーダーっぽい人が1名、他部署の人が2名くらい。あとはよくわからない。「専任〜」とか「顧問〜」とか名刺に書いてあった。」

「アドバイザーっぽい感じ?」

「その人たちはずっと黙っていたので、なんとも言えないですけど。」

「ずっと?」

「そう、1時間半くらいずっと。一人はウデ組んで目をつぶってた。寝てたみたい。来なくていいじゃん、絶対お前仕事してないだろうって思うw」

 

こういった営業シーンは私も覚えがある。

お客さんに呼ばれていくと、ずらりと先方が出てきて、喋りもせずその場にいる、という状況だ。

 

「大手は人が余ってるんじゃないか、っていう感じするよね。」

と、彼は言う。

「後で、「オレは聞いてない」って言われないようにするためなんですかね。どっちにしろ寝てりゃダメだろってw」

 

————————–

 

会議に人がたくさん出てくることは、欧米にとって「驚くべきこと」であった。

例えばピーター・ドラッカーはそのシーンについて、こう述べている。

アメリカでは、ライセンス契約の日本側の交渉相手が数ヶ月ごとにチームを送り込み、交渉のごときものを初めからやり直す理由を理解できない。

1つのチームが克明にノートしていく。ひと月半後には、同じ会社の別のセクションが、初めて話を聞くという態度で克明にノートしていく。

信じられないであろうが、これこそ日本側が真剣に検討している証拠である。*1

面白いことに、人がぞろぞろやってくるのは「日本人が真剣に検討している証拠」だと言われている。

 

ドラッカーの考え過ぎでは、と思う部分もあるのだが、彼は次のように解釈している。

日本では、契約の必要を検討する段階で、契約締結後に関わりを持つことになる人たちを巻き込んでおく。

関係者全員が意思決定の必要を認めたとき、初めて決定が行われる。このとき、ようやく交渉が始まる。その後の日本側の行動は迅速である。

 

かつて、日本は集団で考えていた。「決定」をする前に、できるだけ多くの関係者を巻き込むことで

・問題の共有

・反対意見の抽出

・代替案の整理

・決定権の所在の明確化

・決定後の行動の迅速化

を行えることは、日本企業の大きな強みであった。

 

おそらく「ものづくり」には、この意思決定の方式が圧倒的に機能していたのだろう。製造業には大勢の人が必要だったからだ。

 

だが、今ではどうだろう。多くの人を巻き込むことで逆に

・決定の遅延

・見解が多すぎることによる混乱

・付和雷同

などのデメリットが目立ってきている。

ピーター・ドラッカーが見た日本の意思決定のメリットは、すでに現代の企業を牽引する「一部の圧倒的なパフォーマンスを見せる人物」にとってはデメリットが大きい。

 

現在の産業の主役である、知識集約産業においては、一部のハイパフォーマーが圧倒的な成果を稼ぎ出す。

グーグルのアラン・ユースタス上級副社長に言わせれば、一流のエンジニアは平均的なエンジニアの300倍の価値がある。

ビル・ゲイツは更に過激で、「優秀な旋盤工の賃金は平均的な旋盤工の数倍だが、優秀なソフトウェア・プログラマーは平均的なプログラマーの1万倍の価値がある」と言っている。*2

知識集約的産業において「集団」がハイパフォーマーの足を引っ張る、ということは、企業にとって致命的である。

そう考えれば、日本の不調の原因は「会議に人がぞろぞろ来る」という事実に垣間見える。「出る杭を伸ばす」ことが日本企業は苦手なのだ。

 

我々は「古き良き日本の意思決定の方法」について、見直しが求められている。

 

 

 

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(Rikard Wallin)

 

 

*1

*2

医学部入学者から読み解く、現代の閉塞感について

筆者は一応医者である。当たり前の事だけど、医者になるためには医学部に入学しなくてはいけない。

ご存知の通り、医学部はなかなかの難関である。国公立の医学部だと、センター試験で九割近い点数を取らないと二次試験を受験する機会すら与えてもらえない。

 

さて、こんな感じで受験における難関の1つである医学部だけど、じゃあ入学している連中はいったいどういう人間で構成されているのかご存知だろうか?

試験で高得点を叩き出す必要があるのだから、子供の頃から勉強ばかりしていたような人間ばかりが集まってると思っている人も多いかもしれない。が、事実は全くの逆で、実はムチャクチャな努力で医学部に入学するような人間はどちらかというと稀だ。

雑感だけど、9割ぐらいの人間はそこそこの努力で受験をサクッと通過している。

 

これを読んで「やっぱり頭がいい人は違うなぁ」と思う人もいるかもしれないけど、筆者が医学部に入学して感じた事はそれとはほんの少し異なる。これは日本の社会に存在する見えない階層の差が深く関わっている。

 

頭のよさは遺伝する

背が高い両親からは、背が高い子供が生まれやすいという事はなんとなくわかるかと思う。

実はこれと同様、知能の高さも子供に遺伝する事がわかっている(更に言うと、人種でも知能の高さは異なる。ユダヤ人やアジア人は概して知的能力が高い民族だといわれている)

シンガポールを大国にのしあげたリー・クアンユー氏はかつて「医者は看護師と結婚するな。医者同士で結婚しろ」という過激な事をいっていたが、輸出する資源を持たない小国であるシンガポールが、生き残る為に高知能な子供を必要とする危機感から生まれた故の発言だろう。

 

高知能同士の親から生まれた子供は高知能である事が多い。そしてこの生まれ持った高い知性は、高い知性を持つ親により、更に高められていく。あるデータによると、子供が読む本の冊数は親の読む本の冊数に優位に影響を受けるという。

こうして高知能夫婦の家庭に生まれた子供は、既に知の高速道路を走り抜け終わった親による適切なマネジメントにより、割とすんなりと高学歴社会へと入っていく。そして高知能同士で社会を形成し、周りの影響も相まってグングン知能を伸ばしていく。

つまり高知能同士から生まれた子供は、生まれたときから頭の下地はいいし、その後も知能がガンガン向上する素地におかれるのである。

 

東京の一流進学校の実情

よく「東京の進学校は小さい頃から勉強漬けでかわいそう」というようなことを聞くけども、そういう雰囲気は実際は希薄だ。どちらかというと、みんなで楽しくワイワイやりながらお互いがお互いに勝手に成長していってるという事例が多い。

上記のような、知のスパイラルにのった人間は、普段の生活基盤がかなり知識向上に貢献している。だから普通に息を吸って生活しているだけで頭がどんどんよくなっていく。

 

これらの東京の進学校に通う学生がいつごろから受験勉強を始めるかというと、大体は高校3年生の夏からと比較的遅い。けどそれで全然間に合ってしまう。それまでに築き上げてきた知性が普通の人間と比較してメチャクチャ高いので、受験勉強なんてものはサラッと終わってしまうのである。

これが医学部に入学する生徒の9割がそこそこの努力でなんとかなってしまう秘密である。文字通り、生まれも育ちも違うのである。

 

一方、知の高速道路に乗れなかった人間は・・・

実は僕の生まれた家庭は高知能の素地はまったくない。

実家は医者家庭や上場企業の勤務のエリートサラリーマンといった知的階層と全く無縁であり、両親はほとんど勉強なんてしないタイプだ。学校も、上のような知のスパイラルがおきるような場所では全くなく、文字通りほとんど何の勉強もしないで高校3年生になる有様だった。

このように全く素地がない学生が医学部に入ろうとすると、文字通り激烈なまでの努力が必要とされる。両親も友達もまったく参考にならない中で、よくわかないけどひたすら努力し続けるのは、それこそ死ぬほどキツイものがある。

他のライバルの脳スペックが最新のF1カー程度だとすると、あの当時の僕の脳スペックはボロボロの自転車みたいなもんだったと思う。

 

入学して気がついたけど、医学部には僕のような経歴の人間はほぼ皆無であった。口ではみんな頑張ったと一応いってはいたけども、そこには苦労は全くにじみ出ておらず、僕は入学早々から物凄い疎外感に囚われたものである。

同じ人の形をしていても、自分と他の人間との間にはいいようのない生まれの差を感じ暗鬱な気持ちになった(由緒正しいサラブレッドの中に混じった雑種犬のような気持ちとでも言えばいいだろうか)

 

 

現代社会に漂う閉塞感

あまり勉強をしない環境に身をおいている人間が、高知能社会に入り込むのは物凄く大変だ。知識の差は、生まれと育ちという2つの強い要素があり、これらは一念発起して覆そうにも一朝一夕でどうにかなるようなものではない。

現代では知的能力が収入にそのまま結びつくケースが多く、これが格差の固定にも強固に関係している。

 

かつてのように医者の家庭に生まれないと医者になれないような社会と違って、いちおう医者への道は幅広く開かれている。が、実際その辺の普通の家庭の子供が医者になるのは上記理由につき非常に難しい。

頑張ればギリギリなんとかできなくもないけども、かなり狭い入り口である事もまた事実である。

 

かつて赤木智弘氏が「希望は戦争」という文を書かれたが、高知能である事が高収入に結びついている今の現状に強い閉塞感を感じる人は非常に多いと思う。

僕は偶然なんとかなったけど、なんとかならなかったら同様の閉塞感を抱えて生きていたであろう事は想像に難くない。閉塞感に囚われた人間が、戦争のような行為がおきる事により格差がリセットされるような事に希望を見出す気持ちは痛いほどよくわかる。

 

トランプ大統領が生まれたアメリカも、恐らく多くの人が同じような閉塞感を抱えているのだろう。

かの国は、今ではトップ1%の人間が全体の99%の所得を稼ぐような超格差社会に突入してしまっているが、そういう国に住む人間が感じている閉塞感は日本のそれとは比較にならないぐらい大きいであろうことは容易に想像が可能だ。

知能レベルにより生じる格差の拡大はしばらくは収まることはないだろう。こうして私たちは、好む好まずに関わらず、これまで以上に知能超格差社会を経験する事になる。それがいいか悪いかはわからないけども。

 

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀 

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

photo:Cristian C

なぜ「システムが無事に動いている」ことの価値は理解されないのか

最近はあまり技術的な仕事をしていないんですが、実は私は元々DBエンジニアです。

 

OがつくDBとか、PがつくDBとか、mがつくDBとかをいじくって、クエリを書いたり、テーブルの設計をしたり、パフォーマンスのボトルネックをあれこれ調べて解消したり、INDEXヒントを総とっかえして頑迷なオプティマイザをぶん殴ったりすることが主なお仕事でした。今でもたまーにそういうことをします。

同業の方であればお分かりかと思うんですが、DBのパフォーマンスは凄く唐突に、かつ多くの場合極端に落ちます。そして、DBのパフォーマンスが落ちると物凄く広範囲に影響が及びます。

 

アプリケーションサーバ、重くなります。クライアント、ろくに動かなくなります。お客様、切れます。カスタマーサポートにはわんさか電話がかかってきます。

 

ただ「遅くなる」だけでも十分に影響は甚大なのですが、それ以上のトラブルが発生するとまあエラいこっちゃです。

 

特にBtoCのシステムにおいて、「システムの異常」は決して、決して見過ごされません。何でそんなにレスポンスが早いんだ監視センターか、と思うくらい、瞬間的にお客様からのレスポンスは戻ってくるものです。

 

別にDBに限らないのですが、サーバーというものは生き物です。データを食っては吐き食っては吐き、時にはおなかを壊し、時には錯乱してよくわからない呪文を吐き出し始めます。

手がかかる子どものようなものでして、保守担当は彼らのお世話に並々ならない工数をつぎ込むことになります。

 

なにせパフォーマンスが落ちた時の影響が甚大なので、保守担当は可能な限り、異常が発生する前兆を捉えて、常に先手、先手で対応を検討し、メンテナンスの判断をしなくてはなりません。

DBの場合であれば、DBAは常にパフォーマンスレポートなり、AWRレポートなり、チューニングアドバイザなりとにらめっこをして、おかしな負荷の増大はないか、パフォーマンスが下がったクエリはないか、IOの妙なスパイクはないかと探し回ります。そして、何か前兆を見かけたら、慎重にテストした上でそれを叩き潰します。

これ、結構大変な作業です。やり始めると10時間20時間平気で飛びます。それをやった上でも、パフォーマンスの低下を完全に防ぐということは至難の業なのです。

 

ところが、それだけ大変な作業をやったとして、その作業が目に見える形でユーザーに評価されることは極めて稀です。

 

ある時、土日にDBのメンテナンス作業をテッテー的にやりまして、かなりのパフォーマンス改善を実現したことがありました。

ある処理においては応答速度が200倍くらいになった筈で、フフーン流石にここまで頑張れば文句もないだろう、とドヤ顔もあらわにユーザー部門の人に感想を聞いてみました。

「ああ、なんか普通に動いてますね」

これが回答でした。ウソやーん。ドヤ顔していた私涙目です。

 

これ割と一般的に言えると思うんですが、ユーザーには「応答時間が3倍になれば大騒ぎをするが、それが0.01秒になっても気づきもしない」という傾向があります。

後者を達成するためにはエラいコストがかかるのですが、そのコストが適切に理解されるケースは滅多にありません。「スムーズに動いている」ことの価値は、基本的に理解されないのです。

元来、我々のインフラに対する期待度は聊か高過ぎ、それに比してインフラに対する評価は低過ぎるのではないでしょうか。

 

電気は流れているのが当たり前、水道は蛇口を捻れば流れ出すのが当たり前、電車は定刻通りに動いているのが当たり前であって、止まればそれは「異常事態」なのが日本社会なわけですが、実際の所インフラをインフラとして運用するだけでも、コストはかかるし腕も要るものです。

健康のありがたみは体を壊すまで分からないけれど、健康を保つには実際それなりのコストがかかる、という話です。

 

システムなんぞ何をかいわんやで、元来「不安定な状態」がデフォルトかと思いたくなるくらいインフラとしては未成熟なのに、向けられる期待値は社会基盤のインフラに向けられるそれとあんまり変わらない様な気が、時折します。

サーバがダウンすれば批判が殺到しまくるけれど、サーバが安定して動いていても誰も「保守の人たちいい腕だなー!」とは言わない。

 

ただ、「システムがトラブルなく動いている」というそれだけで、案外裏では頑張っている人達がいるんだ、という。社会の様々なインフラと同じように、システムにおいても、もうちょっとそういう認識が一般的になってもいいんじゃないかなあと、私はそんな風に思うのです。

 

皆さんが使ってるシステム、ちゃんと動いてますか?トラブル起きてないですか?

もしトラブルなくちゃんと動き続けているのであれば、時には保守担当に優しい言葉をかけてあげてください。結構頑張ってると思いますよ、彼ら。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

「論理的に考える/書く」は、人間の本能とは異なるので、身につけるには辛抱強い訓練が必要。

まず前提として、人間は元来「論理的に考える」のは苦手である。

 

ノーベル経済学賞を受賞した経済学者、ダニエル・カーネマンは次のような問題を引き合いに出す。*1

できるだけすばやく、論理的に成り立つかどうか答えてほしい。二つの前提から最後の結論は導き出せるだろうか。

すべてのバラは花である。
一部の花はすぐにしおれる。
したがって、一部のバラはすぐにしおれる。

無論、回答はNOである。

だが殆どの人は「YES」と思ってしまう。

 

カーネマンは、「ほとんどの人の頭にはもっともらしい答えがすぐに思い浮かぶ。だが、それは多くの場合間違っている。」という。

これを打ち消すのは至難の業だ。
というのも、「だってバラはすぐにしおれるじゃないか」という内なる声がしつこくまとわりついて、論理をチェックするのが難しくなるからだ。(中略)

たいていの人は、結論が正しいと感じると、それを導くに至ったと思われる論理も正しいと思い込む。
たとえ実際には成り立たない論理であっても、である。

ここで重要なのは「人ならだれでも論理が苦手」であるという事実だ。

もちろん中には「用心深い人」もいる。

しかしそれは彼が、意図的に努力して注意深くなるように努力しているから、そうなのであって、人は「論理が苦手」という脳の構造そのものから逃れることはできない。

 

なので、それなりの頻度で「仕事はできるのに、ロジックは破綻している人」に出会う。

例えば、勘がよく、極めて有能な経営者であっても、しばしばその結論に至った筋道を説明できない。傍から見ると「どう考えても、不条理なこと」を言っているので、周りは困る。

 

 

だが、逆に「論理的に考えること」は、訓練次第で身につく、と考えることもできる。

「論理的思考などいらぬ」という潔い方もいるだろうが、仕事には論理性が必要なシーンも多い。

では「論理的思考」がどのような訓練で身につくのか。

 

例えば国語の勉強である。

テストで「主人公が次のような行動をしたのはなぜか?理由を説明せよ」といった理由を尋ねる設問がある。

こう言った設問は一種の「訓練」だ。

何回も何回も、

「◯◯だから。」

と語尾につけて解答し、それにマルバツをつけられていくうちに、「スジが通っている」「通っていない」を徐々に判断できるようになっていく。

こんなところから、訓練は始まる。

 

他にも「著者のいいたいことは何か?要約せよ」という設問に、多くの人は 文中に書かれていることではなく「自分が思ったこと」を答えてしまう。

「絶対に勝手に著者の意見を推測するな。文中に書かれていないことは、単なるお前の意見だ。文中から探せ」

と国語の先生は言うが、そういった場で都度指摘され「ああ、私は独りよがりなんだな」と気づくうちに「人の意見」と「自分の意見」の差に気づくようになる。

「国語」は非常に重要な訓練の場なのだ。

 

また、大学でも訓練を受ける。

 

昔、論文を書く時に教授に「あなたの意見を書く部分、先行研究の部分、客観的なデータの部分がごっちゃになっていて、論文の体をなしていない」と怒られたことがある。

こういうものは、勝手な形式で書いてはいけない。論理的に説明が必要な「論文」は、わかりやすくするために、ある程度形式が決まっているのである。

例えば、

先行研究(確かとしていい事実)

課題提起と仮説(自分の推測)

実験手法と結果のデータ(事実)

自分の結論(意見)

を、論文では順序立てて書かないといけない。

これを身につけるため、他者の論文を読み漁り、説得力のある書き方を真似し、先生から訂正をもらって書き直す、その訓練が、文章力を高め、ひいては論理的に考える力を高める。

 

「論理」は、こう言った地味な訓練の中で磨かれる。

「学校教育は役に立たない」と言われがちだが、社会に出てから必要な技能の訓練方法についての知恵が、学校教育には数多く含まれている。

 

「論理的に考える/書く」は、人間の本能とは異なるので、ある程度の期間に渡る訓練が絶対に必要である。だから、社会人になってから急に「論理的であれ」と言われても、これは短期間で身につくものではない。

ちょっとした「研修」や「読書」で身につくタイプの技能ではないのだ。

したがって、もし部下/新人が「論理に弱い」のであれば、それは学校教育と同じような、辛抱強い訓練が必要であることを意味する。

 

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(Daniel Gasienica)

 

*1

 

 

今はもう、高齢者に「古くて安い薬」を使わなければならなくなった。

「この薬とこの薬は高すぎます。退院は、安い薬に切り替えてからにしてください。それが先方の受け入れ条件です。」 

ソーシャルワーカーから渡されたカルテには、「この薬とこの薬が切り替え対象です」とわざわざ付箋が添えられていた。どちらも効果と安全性に定評のある、非常に良い、しかし薬価の高い薬だ。 

 

それらをやめてしまったら、患者さんの認知機能も、情緒の安定も、悪化してしまうかもしれない。

だが、その介護施設をご本人もご家族も切望していた以上、薬を切り替えないわけにはいかない。似たような効果の、もっと古くて安い薬を選んでみて、もし症状が悪化するようなら、施設入所はご破算になってしまうかもしれないが、やらないわけにはいかないのだ。 

 

【介護保険制度では、老健施設で高い薬が使えない】 

これまでにも、薬を処方する際にいろいろな制約を意識することはあった。 

 

MRSAを防ぐために、みだりに抗生物質を出さないこと。 

療養型病棟で検査や処置を乱発しないこと。 

厚労省が定めた用法・用量どおりに処方すること。 

 

これらは今までの医師の課題だったし、これからもそうだろう。 

そして近年、そこにもうひとつ課題が加わるようになった。 それは、冒頭に記した「高齢者が老健施設に入所する際には、安い薬で済ませなければならない」だ。 

 

たいていの場合、似たような効果の古くて安い薬に切り替えても患者さんの病状は大きくは変わらない。だが、すべての患者さんの処方切り替えが無事に済むわけではない。 

とりわけ認知症になるようなご高齢の患者さんは、薬の効果や副作用には敏感なことも多い。新しくて高価な薬でおおむね安定していた患者さんが、古くて安い薬に切り替えた結果、身体の動きが少し悪くなったり、情緒は安定しているけれども表情が乏しくなってしまったり……といった問題がしばしば起こってしまう。 

 

こういう事を書くと、「患者さんの命と身体機能を最優先にすべきだ、けしからん!」 と憤る人も出てくるだろう。「医師に安い処方を期待する施設なんて、とんでもない!」と言う人もいるかもしれない。 

 

だが、施設側に相応の事情があるのもわかる。 

一般に、そういった施設は医療保険制度にもとづいて薬を出しているのではなく、介護保険制度にもとづいて薬を出している。その関係で、施設に入所している患者さんに用いる薬のコストは患者さん自身の負担になるのではなく、そっくりそのまま施設の負担になってしまうのである。 

 

老健施設に限らず、一般に、福祉に携わる施設はお金が全然足りていない。ぎりぎりの経営状況のなかで、職員が精一杯がんばってどうにかやりくりしているのが通例だ。 

そういった事情を無視して「あなたのところでも、この、最新の薬をかならず処方してくださいね」と頼んでみたところで、「じゃあ、うちには入所できません。他を探してください」と断られるのが関の山である。

病院の医師にできることは、せいぜい、できるだけ安い薬でできるだけ病状を安定させて入所までもっていくことだけである。言うのは簡単だが、実行するのはすこぶる難しい。 

 

【「ジェネリック医薬品」では済まないことも多い】 

精神科領域でも、新しくて使い勝手の良い薬は薬価が高い。 

高齢者の精神症状に好んで選ばれる新世代の抗精神病薬の薬価は、たとえばリスパダール(2mg錠)は薬価が50.3円、同じくセロクエル(25mg錠)は38.3円だ。

それに似た効果の旧世代薬の場合は、それぞれセレネース(3mg錠)が11円、コントミン(25mg錠)が9.2円だから、薬価は3倍以上違う。旧世代の薬は薬価が安いかわりに、副作用や安全性などの点で新世代の薬に劣るといわれている。 

 

「それならジェネリック医薬品を選べばいいじゃないか」という人もいるかもしれない。 

だが、ジェネリック医薬品といえども新世代の薬は薬価が高めに設定されていて、たとえばリスパダールのジェネリックはセレネースよりも高い。なにより、新薬の幾つかはジェネリック医薬品が発売されていない。 

 

たとえば抗認知症薬メマリー(20mg錠)は、精神科周辺で出会う認知症の患者さんに対してとても使い勝手が良い。ところが、この薬の薬価は一錠あたり427円もしてしまう。 

 

たった一種類の薬で約13000円/月のコストを「持ち出し」として負担し続けるのは、今の老健施設の事情を考えると困難だろう。そして認知症の高齢者はたいてい内科の病気も患っているので、そちらの薬代も負担しなければならないのである。 

結局、メマリーがすごく効いた患者さんでも、老健施設に入所する前にはメマリーを中止して、もっと安価な薬に変更せざるを得ない。それでも大丈夫なケースもあるが、メマリーが独特の作用メカニズムを持っているせいか、なかなかうまくいかないケースも多い。 

 

なので私は、これから老健施設に入所しそうな患者さんに高価な薬を処方する際には、こういった事情をかならず説明するようになった。だが、「老健施設では高価な薬は使えません」という話をすると、不満や不信感を表明するご家族も多い。 

 

なにせ、ここは日本なのである。アメリカや発展途上国ならいざ知らず、この日本で「高い薬は使えません」などと医療関係者から言われれば、患者さんやご家族が驚き、不満を抱くのは無理ならぬことだろう。 

だが、介護保険制度の領域については、「高い薬は使えません」は現実のものになっているのだ。少なくとも現場に携わる者は、そのような前提で薬を取り扱わざるを得ない。 

 

 

【早かった「古くて安い薬」のニーズ】 

私が研修医だった2000年頃は、抗うつ薬や抗精神病薬の新製品が次々に発売され、新しくて高価な薬剤を用いた治療法がゴールドスタンダードとして持て囃されていた。

しかし、すべての患者さんが新しくて高価な薬を使える時代がいつまでも続くとは、私にはどうしても思えなかった。 

 

いつか、日本の保険医療制度が崩壊しても困らないようにと思い、私は研修医時代から古くて安い薬の解説書を探したり、老齢なドクターの“古い処方箋”を読み漁ったりした。安くて古い薬でも、ひととおりの治療がこなせるようになりたいとも思った。 

そして今、私は高齢者の治療に際して「古くて安い薬」のニーズに直面している。 

 

もちろんこれは、医療保険ではなく介護保険が適用される状況だから起こっているニーズではある。しかし、介護保険制度が続く限り、このニーズはなくなりそうにない。 

 

むしろ逆に、今は老健施設の高齢者だけがこうした問題に直面しているが、いずれは在宅の高齢者にも、同じような“縛り”が適用されるようになるかもしれない。 

医療費削減がますます課題となるこれからの時代において、高い薬を高齢者にフリーハンドで使わせてもらえるように制度が変わるとは、私にはどうしても想像できない。医療をおこなう側も、医療を受ける側も、そのことを覚悟しなければならないのかもしれない。 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨 

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

会社が生活を守ってくれないなら「満員電車通勤、転勤、長時間残業」などは馬鹿らしいに決まってる。

つい20年前までは、真の意味で「サラリーマンは我慢」の時代だった。すし詰めの通勤電車にガマン。1週間前に突然言い渡される転勤にもガマン。毎日の残業にもガマン。

ガマンガマン、そう皆が思っていた時代だった。

 

なぜ酷い環境に皆が我慢できたのか。簡単だ。我慢することにそれなりの見返りがあったからだ。

 

普通の企業に入っただけで、定年までそれなりの生活を約束され、「サラリーマンは気楽な家業」と、生活の心配をせずに生きていける。

さらに、それなりの大手に入れば社会的な地位と信用まで手に入り、配偶者、家、クルマなどが一通りに手に入った。

 

たとえ「通勤、転勤、残業」などにおいて、非人間的な扱いを受けたとしても、「我慢すること」は勝ち確定の目に自分の人生をかけることができた。

それゆえ団塊の世代は「転職や副業など、考えたこともなかった」という人は多いだろう。「石の上にも三年」という言葉は彼らの時代には合理的だった。

 

だが、結果として出来上がった社会は、

「成果を厳しくは問われず」

「長時間労働を普通と思い」

「会社/仕事が大嫌いなのに、身内をかばい合う」

という、サラリーマンたちの世界であった。

結果、かつて「ものづくり」日本を代表した企業群は軒並み、平凡な会社となってしまった。シャープは青息吐息、東芝は破綻寸前、世界を制したソニーの復活は遠く、パナソニック、NEC、富士通もパッとしない。

よく言って、「過去の栄光」で食っている状態である。

 

畢竟、今の若手サラリーマンを見れば、おそらく「大手に就職すれば安定」など、本気で信じている人はわずかだろう。

それでも大手に人が集まるのは、他に選択肢がないからである。

しかし彼らも本音は、

「業績が悪くなれば会社に切られる」

「成果を出せ、と言う割には、会社は何もしてくれない」

「えらい人が働かない」

そういうのが「普通」の声である。

 

それであれば、上に挙げた「ガマン」など、本当にアホくさい。

なぜ、大した見返りもなく、「通勤、転勤、残業」などに貴重な人生の時間を使わなければならないのか。皆、そう思い始めた。

だから、webには連日「会社が嫌い」「残業したくない」「ラクに稼ぐ」「副業」という文字が踊るのだ。

 

そう言う人に向かって「嫌なら会社なんてやめればいいじゃん」という方もいる。

それは正しい。

が、残念ながらそこに代案はない。勝ち目のありそうな選択肢が見えない中、サラリーマンは不安に苛まれている。

「自分の能力に賭けることができる人」は、それだけで勝ち組だが、そう言う人は極めて少数だ。

 

一方で、シリコンバレー企業が世界を制し、中国の経済力は日本を抜いた。

他国だけではなく、日本においても「新興」のITを駆使した会社の経営者が一山当てて大金持ちになっている。そこでは学歴や会社の肩書などは意味をなさず、「才覚と勇気」でのし上がった連中が大きな顔をしている。

 

一昔前、そうして成り上がったホリエモンは妬まれ、故に刑務所にブチこまれた。溜飲を下げたサラリーマンも多かっただろう。

だが、すでにサラリーマンは、自分の身すら危うい。それゆえ、成功者に嫉妬するのではなく、見習って、自分も成功者となりたい、と考える若手が増えているのは間違いない。

だから「意識高い系」などと嘲笑されている、若干イタい学生を嗤うことはとてもできない。彼らは、彼らなりに真剣に人生を考えた結果、「勝ち目がありそうな選択肢」に乗っているだけだ。

 

だが、彼らの試みはほとんどうまく行かず、多くの人物は貧困へ転落するだろう。

そしてしばらくすると、日本もトランプのような

「インテリへの嫌悪感」

「実力社会への疲れ」

「無能の保護」

などを訴える政治家が力を持ってくるだろう。「金持ちばかりがトクをしているが、皆で貧乏になる方がまだマシだ」という発想のもとに。

アメリカはそれでもまだいいだろう。資源もカネも暫くは枯渇しない。

 

だが日本はマズい。資源もなく、カネも尽きようとしている今、ほんとうの意味での日本の没落が、現実になろうとしている。

私のかつての上司は「知恵で石油を買っている国が日本」と言った。今こそ、我々は「知恵」を必要としている。しかも早急に。

 

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