世の中、見ないほうがいいことが、たくさんある。(Books&Apps)

 

リンク先の記事は本当にそのとおりで、世の中には、見ないほうが良いもの・知ってしまうとモチベーションを削がれるものがたくさんあると思う。

 

最近はインターネットが普及し、知の高速道路化が進み、将棋であれ小説であれイラストであれ、あるていどまでの上達ノウハウにはアクセスしやすくなった。そのかわり、セミプロ級の腕前の人がゴロゴロしている現実も見えてしまう。多くの人が指摘しているように、それがメリットになっている人もいる反面、それがデメリットになっている人もいるのだろう。難しい。

 

子どもには「見えているもの」が選べない

ここまでは成人~思春期の人に該当する話で、ここからは子どもの「見えているもの」について考えていく。

子どもの世界には、上記リンク先の話はあまり当てはまらない。子どもは目にうつったものを、とにかく、見てしまう。そこに選択の余地は無い。見たもの聞いたものがそのまま子どもの思考や行動選択の枠組みを規定し、人生の鋳型になっていく。

 

リンク先で述べられているとおり、インターネットには「見ない」という選択肢がある。

高層マンションのお金持ちの生活に嫉妬するぐらいなら郊外に住めばいい。ただ、これらは現代の成人~思春期に特有の行動選択の自由があればこそできることで、子どもには行動選択の自由も、その自由を支える知識や経験も備わっていないため、子どもには「見る/見ない」を選ぶ余地が無い。

親によって与えられた環境が、そのまま「見えているもの」になってしまい、それがモチベーションも含めた色々なことを決めてしまう。

 

くわえて、(特に幼い)子どもは自分に見えているものと他人に見えているものの違いを比較できず、みずからの置かれた環境を相対化することも、疑問を抱くこともできない。今、「見えているもの」がなんらフィルターを経ることなく内面へと反映されていく。

自宅のテレビやディスプレイに映っている番組も、

スマホで眺める動画やアプリも、

親子で何をどんなマナーで食べているのかも、

父母の間でどんな情緒的やりとりが行われているのかも、

子ども達はしっかりと見つめ、学び、逆に言うとそういったものしか子どもの目には「見えない」。

 

かろうじて、保育園や幼稚園や小学校を介して「家の外の景色」を垣間見る機会は残されているが、昭和時代後半に比べると、子ども同士がお互いの家で遊ぶ機会、いろいろな子どもが一緒に外遊びする機会は減ってしまった。

かわりに、私立の学校や通塾といった、同質性の高い、自宅で子どもが見ているものと大して代わり映えのしない「家の外の景色」のなかで過ごす機会が増えている。

ホワイトカラーの家の子どもが専業農家やブルーカラーの家の子どもと一緒に遊び、お互いの世界を垣間見あう機会は、現代社会に一体どれぐらい残されているだろうか。

 

個人のライフスタイルや価値観は多様化しているといわれている。成人~思春期の世界ではその通りだろう。だが反対に、子ども時代に目にうつるもの、子ども心に内面化されて人生の鋳型になっていく景色は、同質化しやすく、狭まっているのではなかろうか。

「エリートやアッパーミドルは、子どもにとって好ましいものばかり見えて良いじゃないか」と反論する人もいるかもしれない。

そうだろうか? 私はそうとも限らないと思う。エリート的な身振りや仕草、文化資本のたぐいは、子どもが順当に育っていくなら“武器”となるだろう。そうした“武器”を、自然な仕草でやってのけるのを見て“育ちの良さ”を想像する人もいるに違いない。

そのかわり、純粋培養なエリートの子は、エリートの世界しか見えないし、エリート以外の生き方や価値観を知らない人間として育ってしまう。もし彼がエリートになり損ねたら、一体どうなってしまうのだろう?

 

「見えているもの」のバリエーションが狭いまま育ち、内面化した子どもは、そのぶん純度が高く、はみ出しようがないかたちで「見えているもの」を内面化せざるを得ない。そしてそれに見合ったスキルセットを身に付けていく。真っ直ぐにエリート街道を突き進んでいく子どもは、それで構わないのかもしれない。だがもし、そのような純粋培養な子どもが今まで「見てきたもの」の外側にはみ出そうと思ったら?

家庭でも幼稚園でも学校でもエリート寄りの人々しか見てこなかった子どもが“脱線”しようとしても、内面化された価値観はそれを許してはくれない。エリート側からしか世界を見てこなかった子どもが、いざブルーカラーの世界に適応しようとしても、身振りや仕草にエリート臭さが染み込んでいるから不自然になってしまうし、なにより、タイトに内面化された「これまで見てきたもの」と異質な価値観や風習や仕草に直面し、心理的なコンフリクトを起こさずにいられない。

純粋なエリートになるための“武器”が、ここでは“ハンディ”になってしまうわけだ。エリート以外に生き筋を知らない以上、“脱線”の行き着く先は、「エリート崩れのドラ息子」か「引きこもり」ぐらいしかない。

 

「見えているもの」の狭い子ども世界と階層移動の困難

このように、「見えているもの」のバリエーションが乏しい子ども時代は、自分が生まれ育った階層だけが際立って見えてしまい、内面化されやすいため、職業移動や階層移動の足を引っ張るものと思われる。

 

階層移動といえば、多くの人はブルーカラーからホワイトカラーへといった、“上昇的な”意味合いを想像するかもしれないが、前述したように、ホワイトカラーの子どもがブルーカラーな職業に就くことも困難になる。

すべての人がホワイトカラー的な職業適性を持っているわけではない以上、ブルーカラー的な職業への鞍替えはあって良いはずなのだが、子ども時代にホワイトカラー的な世界しか見えていない子どもには、それは技術的にも心理的にも困難だ。たぶん、ホワイトカラー的な世界しか知らない親にも困難だろう。

 

昨今、格差社会が世襲化するのではないかという懸念をよく耳にする。そうした格差の固定化を促す要因はたくさんあるだろうが、この、子ども時代に「見えているもの」がホワイトカラーはホワイトカラーなりに、ブルーカラーはブルーカラーなりに同質化しやすく、バリエーションに富んだ「見えているもの」を子ども時代のうちに経験しづらい社会が立ち上がってきた点も、その一因に数え上げて良いのではないかと思う。

見てもいない、なんにも内面化されてもいない生き方をヒョイと選んで適応しきってみせられる人間は、けして多くはないのだから。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)など。

 
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

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