昔、保険会社のCMで、
「よーく考えよー、お金は大事だよー」
というフレーズがあった。覚えていらっしゃる方もいるだろう。
テレビでそれを見た私は、そのコミカルなフレーズをよく記憶したが、当時の私はまだ若く「お金は大事だ」という言葉の意味をよく咀嚼して考えてはいなかった。
私には奨学金として借りた200万円以上の借金があったが、両親も学校も、「お金とは何か」について、詳しく教えてはくれなかったし、「普通に会社勤めをしていれば、まあお金に困ることは無いだろう」その程度の認識だった。
しかし、企業で働くうちに、私は「お金の重要性」を認識せずにはいられなかった。
通常「お金は重要」という文脈では、冒頭のCMのように「お金は大事、なぜならお金がなければ、満足に生活ができないから」という意味で使われる。
だが、私が仕事の中で認識した「お金の重要性」は少し異なる。
私が認識したのは「お金は、誰にとっても影響力をもつ」という事実だ。場合によっては「経営方針」などよりもよほど、強い影響力を発揮する。
例えば、私は以下のようなお金の配分で人の行動や認識が変わる、という話を教わり、そして見た。
「会社内で、給与に大きく差をつけてはいけない。勝ち組と負け組を作らず、少しだけ差をつけて、皆をやる気にさせよ。」
「金で社員を満足させることはできないが、金をケチると社員は不満を抱く」
「殆どの中小企業の経営者は決算書を開示しない。自分の報酬が社員に知られるのが嫌だからだ」
「今は経費を使いたい。ウチが儲けていることがわかると、業界内で反感を買う。」
お金の影響力にまつわる話は、無数にある。
考えてみれば、日本のたかだか年間100兆円ほどの「国家予算」の配分であれほど揉めるのだ。
いずれにせよ、「お金」が人の行動に大きな影響を及ぼす、ということは、疑いようのない事実だ。
しかし、お金より大事なものがある。
しかし知人にそのように伝えると、
「そうだけど、でもお金より大事なものがあるだろ?」という。
たしかにそのとおりだ。
私たちには、お金より大事なものがある。
家族、友情、文化、美、尊厳、規範……
お金では買えない、というよりお金で取引したくないものが、世の中には存在している。
実際、私は特に必要以上にお金をほしいとは思わないし、お金のために上の重要なものを犠牲にしようとは思わない。
そういう人は多いのではないだろうか。
だが、面白いことに、私たちは
「金よりも大切なことがたくさんある」にも関わらず、「お金の影響力」を完全に無視できないのである。
いや、日常生活の中ではむしろ思想信条よりも、お金について考えている時間のほうが、よほど長い。
会社の売上を気にし、利益に注目し、家族との時間を犠牲にしてお金を稼ぎ、友人と旧交を温める時間を仕事に充てる人も珍しくない。
一体なぜなのだろう。
なぜそこまで「いちばん大事、ではない」お金を求めるのだろう。
長いこと私の疑問は解けなかったが、先日読み返した「サピエンス全史」に、その答えを発見した。
哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。
それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。
貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。
貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。
この一言に、私はハンマーで頭を殴られたような気がした。
そうだ、お金はすべての人を飲み込む「寛容」さを持ち合わせているのだ。
お金はすべての所有者に等しく優しい。裏切らず、持ち主を差別しない。男女を問わず、不合理な慣習を押し付けず、文化を強要しない。使うも使わないも自由である。
そして何より重要なのが、「一番大切なもの」ではないから、あらゆる人をその影響下に収めている。
キリスト教徒も、イスラム教徒も、仏教徒も、ヒンズー教徒も、別のものを信じているが、お金だけは、皆がその価値を共通で信じている。
それが真実だった。
つまり、「お金よりも大事なものがある」からこそ、お金は最大の影響力を誇るのだ。
お金は、常に価値において二番手であるから、こだわりも反発も少ない。実際、「神の存在は信じない」という人は珍しくないが、「俺はお金の存在など信じない!」という人を、私は見たことがない。
お金の所有権を巡って争うことはあっても、「お金」の存在そのものは、争いの対象にならない。これこそ、お金が人類史上、最大の影響力を誇る、真の理由だ。
「お金が一番」は怖い。
しかし、最近では「お金の力が強すぎる」と感じる人が多いのも事実だ。
ハーバード大教授のマイケル・サンデルは、「あらゆるものをお金で取引できるようになると、市場が道徳を締め出す」と警告する。
二〇〇一年、『ニューヨークタイムズ』紙に、一風変わったサービスを提供するある中国企業の話題が載った。
誰か――仲たがいしている恋人や仲間割れした共同経営者など――に謝る必要があるのだが、なかなかその気になれない場合、この「天津謝罪社」に料金を払えば代わりに謝ってもらえるというのだ。
「あなたに代わってごめんなさい」というのが、天津謝罪社のモットーだ。
記事によると、謝罪の専門家たちは「地味なスーツを着た大学卒の中年男女だ。『すぐれた言語能力』と豊かな人生経験を兼ね備えた弁護士、ソーシャルワーカー、教師であり、さらにカウンセリングの訓練も受けている」。
天津謝罪社が成功を収めているのかどうか、あるいはまだ存続しているのかどうかすら、私は知らない。
しかし、その記事を読んでこんな疑問が頭に浮かんだ。お金で買われた謝罪に効果はあるのだろうか。誰かがあなたを傷つけたり怒らせたりして、お金で雇った謝罪人を償いのためによこしたら、あなたは満足するだろうか。
金が一番になれば、それは当然「道徳」などとの闘いになる。
「金で買うべきではない」
「金で取引すべきでない」
そういった理念との対立の兆しが、世界中で争いを生む可能性は十分にある。
お金は二番目、三番目、くらいがちょうどいい、ということなのだろう。
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