3年に一度の参院選挙を控えて、党首討論がネットにテレビにとアチコチで行われている。

 

各政党のマニフェストには最低賃金の引き上げが並んでいる。

現在の最低賃金は、日本全体の平均が874円、最も高い地域は東京で985円となっているが、与党の1000円から野党は1300円、1500円と、平均の2倍近い数字まで引き上げることを掲げる政党もある。

 

最低賃金を引き上げるとどうなるのか。

筆者の賛否は一旦横に置くとして、最低賃金を払えない企業は潰れ、最低賃金分の働きが出来ない人は雇ってもらうことは出来ず、失業率が悪化する。

結果として弱肉強食の世界になるだろう。

 

最低賃金引き上げを主張する人の想定とは真逆の世界だ。

 

最低賃金の引き上げは失業率の引き上げをもたらす。

最低賃金の引き上げを主張する人で、現在最も目立つのはデイビッド・アトキンソン氏だ。

外資系金融機関・ゴールドマンサックスのアナリスト出身で、現在は京都にある重要文化財等の修繕を手掛ける企業の社長、そして著述活動も活発と異色の経歴の持ち主だ。

 

アトキンソン氏は日本の最低賃金は低すぎる、もっと引き上げて生産性の向上を政府主導で行うべきと主張する

格差の超簡単な解決策は最低賃金引き上げだ 東洋経済オンライン 2018/05/16

 

オーソドックスな経済学の常識では最低賃金の引き上げは失業率の上昇をもたらすとされているが、最低賃金の引き上げを主張する人も少なくない。

その主張のもとにあるものは「低賃金ではまともな生活が出来ない、企業はまともな生活を出来るだけの賃金を払え」という労働の対価としての賃金ではなく、企業による弱者救済や社会保障を行うべきといった話だ。

 

一方、アトキンソン氏の主張はそのような温情にみちたものではない。

最低賃金を引き上げれば企業は嫌でも生産性の向上に努めるようになり、価格の引き上げが出来ない企業は給料を払えずに潰れる。

 

そして生き残るのは付加価値を生み出せる生産性の高い企業と従業員だけという、弱者に優しいどころか極めて弱肉強食な主張だ。

このあたりを勘違いしたままアトキソン氏を支持している人は少なくないように見える。

 

最低賃金の引き上げで景気が悪化する韓国。

近年、最低賃金を急激に引き上げて失敗しているのは韓国だ。

2010年の4110ウォンから2018年の8350ウォン(執筆時点で約769円)まで、10年もかけず2倍以上になり、日本の水準に迫る勢いだ。

最低賃金を1万ウォンまで引き上げるという公約で当選した現大統領が就任すると、昨年の引き上げ幅は16.4%に及び、経営者の猛反発を呼んだ。

 

平均3%程度の経済成長に合わせて引き上げている面もあるが、それにしても急激すぎる。

無茶な引き上げで失業率は急激に高くなっており、全体の失業率が4.4%、15~29歳の若年層は11.5%(2019年4月)に及ぶ。

日本と比べて全体で2倍、若年層で3倍、そしてこれは2000年以来の高水準だという。

アトキンソン氏ですら韓国の失敗は急激な引き上げにあると指摘している。

 

韓国紙でも以下のように最低賃金の引き上げが明確に景気悪化の原因だと指摘する。

『カン・ソンジン高麗大経済学科教授は「過去のような大きな外部衝撃がなく、多くの国が成長を維持する中でも、韓国の景気だけが急降下するのは、所得主導成長を中心とする政策の失敗を除いて説明できない」とし「政府が現在の政策が持続可能でないことを認めて方向転換することが、危機を克服する最初のボタンになるだろう」と述べた。韓国の経済成長率、また下方修正…日本が報復ならこの数値も難しく 中央日報日本語版 2019/07/03』

筆者は以前、「マクドナルドの時給1500円で日本は滅ぶ」という記事で最低賃金の引き上げは失業率の悪化につながると書いた。これがヤフートップに掲載され、多数のアクセスを集めた。

 

ヤフートップに掲載されると普段は経済系の記事を読まない人の目にも届く。

それ自体は良いことなのだが、結果としてSNSでトンチンカンなコメントが多数ぶつけられる状況になる。

 

特に多かったものは先進各国の名前を挙げて、日本よりもこの国は最低賃金が高い、あの国はもっと高い、なのに滅んでいないじゃないかといった指摘で、訂正しろとか謝罪しろというコメントまであった。

全体として賛同コメントの割合は9割以上だったと思うが、トンチンカンなコメントもそれなりに数は多く、ストレスがMAXまで上昇した。

 

日本はすでに貧乏な国へと転落している。

仕方がないのでストレス解消のために書いた記事が「なぜスイスのマクドナルドは時給2000円を払えるのか?」だ。

なぜスイスのマクドナルドは時給2000円を払えるのか?

 

この記事では批判コメントで挙げられていた先進各国について、その国の豊かさをはかる指標として使われる「一人当たりのGDP」の数字を挙げて高い順に並べた。2015年当時のデータは以下の通りとなる。

 

●一人当たりGDPの倍率

1位  ルクセンブルク   111,716ドル  3.07倍

2位  ノルウェー      97,013ドル  2.67倍

4位  スイス        87,475ドル  2.41倍

5位  オーストラリア    61,219ドル  1.69倍

10位  アメリカ       54,597ドル  1.50倍

18位  ドイツ        47,590ドル  1.31倍

27位  日本         36,332ドル

(世界の一人当たりの名目GDP(USドル)ランキング – 世界経済のネタ帳)

 

批判コメントに挙げられた日本より賃金の高い国はほぼすべてが日本より豊かな国だ。

つまり賃金が高いから豊かなのではなく、豊かだから賃金が高い。

 

賃金は景気の遅行指数である、つまり景気上昇に遅れて賃金が上がるとスタンダードな経済学で言われていることからも、このデータは常識的なロジックそのままであることが分かる。

最近ではこの主張に異議を唱える人も一部にいるが、それが常識に至るまでにはまったくなっていない。

 

そして日本は当時で27位、現在でも26位とすでに貧しい国になりつつある。

これはググれば出てくる程度のデータだが、日本は世界第3位の経済大国と思い込んでいた人には衝撃の事実として記事執筆時はそれなりに話題となった。

 

のちにアトキンソン氏も同様のデータを掲載し、日本はもはや豊かな国ではないと断言している

(当初の記事に異論を書き込んだ人はこのデータにグウの音も出なかったのか一斉に沈黙した)。

 

過去の日本でも10年かからずに賃金が2倍になった時期がある。

最低賃金の引き上げではなく民間企業の自主的な引き上げによるものだ。

それは東京オリンピックが開催された高度経済成長期だ。

 

1960年当時、池田勇人首相が10年以内に所得を二倍にすると「所得倍増計画」をブチ上げると、そんなことは無理に決まっていると嘲笑されたが、結果としてインフレ率を除いた実質賃金でも倍増を実現した。

イメージとして今後10年で日本人の所得が2倍になると考えればどれだけ凄まじい成長だったか分かるだろう。

 

ただし、戦後から間もなく、多くのものが不足する状況で、日本が新興国だった時期と考えれば今と当時で状況は異なるが、賃金の上昇は最低賃金の引き上げではなく経済成長によってもたらされるということだ。

 

生産性の向上は失業につながる。

アトキンソン氏は賃金が低いから無駄な仕事を人間にやらせている、賃金が高ければ生産性を上げざるを得ないと主張する。

最低賃金の引き上げで生産性の向上を無理やり実現すれば良い、という極めて弱肉強食な議論だ。

 

個人的には生産性の向上について異論はないが、ついてこられない企業や従業員は放置して良いのか、ということになるだろう。

最低賃金の引き上げは失業保険の充実、特に影響を受ける非正規雇用者への失業保険の適用、そして生活保護の迅速な適用など、社会保障の充実がセットでなければ貧困化が進むだけだ。

 

生産性が上がると言えば聞こえはいいが、無駄が削ぎ落されるということで、これは「無駄によって生き残っていた企業」が脱落することを意味する。

分かりやすい例で言えば地方で何とか生き残っていた小さな企業が、ユニクロや松屋のような低価格のチェーン、あるいはイオンなど大規模で効率的な企業の進出で潰れる、と言った状況だ。最低賃金の引き上げでこれがさらに加速される。

 

筆者は日本全体でコンパクトシティ化を進めた方が良い、つまり都市部集中を推進すべきとも考えているので都合の良い状況とも言えるが、それで良いと思う人はどれだけいるのか。

 

最低賃金引き上げで景気が良くなるという因果が逆の話。

先日、日本商工会議所の会頭が最低賃金の引き上げは企業にとって厳しいと発言したことが話題となり多数の批判を受けた。

経団連のような大企業の集まりと違い、商工会は日本全国の中小企業の集まりで、最低賃金の引き上げが企業の存続に直結する。

 

最低賃金の引き上げで景気が良くなるという主張については因果関係が逆ですよ、としか言いようがない。

前述の通り「豊かな国は賃金が高い」という、経済学を持ち出すまでもない当たり前の話だ。

賃金引き上げで経済が成長するのなら、貧しい国はどんどん最低賃金を引き上げればすぐにでも先進国になれるだろう。

 

最低賃金の引き上げを主張する人が想定する、賃金が上がって誰もが安心して生活できる状況は本来社会保障で実現するものだ。

これは最低賃金の引き上げという企業の負担で実現するものではなく、すでに書いた通り実現も出来ないだろう。

 

企業経由の生活保護が大失敗した家電エコポイント

最低賃金引き上げの原資を企業に税金で補助するといったアイディアもあるようだが、これも「企業経由の社会保障」は市場経済をゆがめるだけだ。

 

かつて2009年の補正予算でリーマンショック後の景気悪化をおさえるためという名目で大規模に行われた家電エコポイントでは、地デジ移行と相まってテレビの年間出荷台数が数倍に膨れ上がった。

液晶テレビ等を買った消費者がポイントと引き換えに商品券等を貰える仕組みだったが、実質的には企業へ補助金だ。

消費者にポイントを配布することで購買を促し、そして企業にお金が流れて雇用をなんとか維持するという、極めて遠回りな雇用維持対策だ。

 

エコポイントは予算6400億円に対して5兆円の経済効果があったと、今でも成功例と考えている人もいる。

しかし、2012年度決算ではその反動で家電大手3社(シャープ・パナソニック・ソニー)の赤字は合計で1兆6000億円を超えた。

赤字の経済効果を考慮すればトータルではマイナスの方がよっぽど大きいだろう。

 

そしてエコポイント特需を景気回復と勘違いしたシャープは過剰な設備投資で大赤字と資金繰りの悪化に陥り、結果的に台湾企業のホンハイに買収されることになる。

これは市場経済に手を突っ込むと酷い結果が待っているという分かりやすい事例だ。

 

最低賃金についても、例えば時給換算で1500円以下の給料ではまともに生活が出来ないというのであれば、差額を企業に補てんするのではなく労働者に直接支給すればいい。

社会保障や再分配は文化的な生活を実現するために絶対必要なものだが、それは市場経済を邪魔する形でなくとも実現は可能だ。

 

エコポイントも補助金による最低賃金の引き上げも、雇用の維持を過剰に評価しているということになる。

維持すべきは雇用ではなく生活だ。

特にエコポイントでは顕著だったが、企業を間に挟むことで補助の必要がない、元から賃金の高い人にまで恩恵がある状況は税金の無駄遣いだ。

 

なおかつ、このような税金の使い方は需要と供給のメカニズムに悪影響を与えて最適なリソース(資源)の配分を阻害する。

エコポイント特需が終わると価格が大幅に下落し、作るほど赤字になると言われていた液晶テレビは、家電量販店の店先でタイムセールにかけられ特売の野菜か魚のように売られていた。

 

本来付加価値を産み出せるはずのヒト・モノ・カネという希少なリソースが多額の赤字を産み出す液晶テレビの生産や販売につぎ込まれていた。

そして大赤字が続いた結果、日本を代表する企業のシャープが外資に買われてしまうとして、今度は政府系ファンドが乗り出して買収を邪魔するというマッチポンプのような行動にまで出た。

このようなおかしな状況を産み出したのが、企業経由の生活保護であるエコポイントだ。

 

企業へ補助金を出して最低賃金を上げるというやり方はエコポイントと全く同じだ。

世紀の愚策は二度と繰り返すべきではない。

 

給料はセーフティネットではない。

世の中には働きたくても働けない人が多数いる。失業して職を失う人もいる。

企業経由の社会保障は雇用がセーフティネットであるかのような勘違いであり、雇用が失われた時のためにあるものが失業保険や生活保護等のセーフティネットだ。これは以前の記事でも書いた通りだ。

解雇規制によって「企業が国民の生活を保障している」状況は、どう考えても異常。 | Books&Apps 

 

とは言え、筆者が何を書いたところでしばらく最低賃金の引き上げは続く。

今年の引き上げで東京は1000円を超え、毎年3%以上の引き上げが続けば日本全体の平均も数年後には1000円を超えるだろう。

 

筆者のスタンスとして最低賃金の引き上げには反対だが、現在のような人手不足ならば多少倒産が増えたところで別の企業が吸収することになるだろう。

 

したがって弱肉強食の状況が訪れても失業率が高くなるまではあまり心配しなくていいのかもしれない。

ただし、人手不足が厳しい業界の多くが低賃金であること、賃金水準の高い大企業は人手が余っていることは明記しておく。

 

最低賃金が大幅に上がった時に実現しているのは、皆が安心して豊かに暮らせる社会なのか、それとも弱肉強食の世界なのか、注目したい。

 

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【プロフィール】

中嶋よしふみ

ファイナンシャルプランナー、シェアーズカフェ・オンライン編集長

保険を売らず、有料相談のみを提供するFPとして対面で相談・アドバイスを提供。得意分野は住宅購入。

東洋経済オンライン、日経DUALなど経済メディアで情報発信を行うほか、マネー・ビジネス・経済の専門家が書き手として参加するシェアーズカフェ・オンラインを運営中。

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(Photo:Carlos Ebert)