今では壊滅状態に陥ったISISだけど、ちょっと前までは随分と強烈な社会問題となっていた。
その時に、
「ISISのようなものをイスラム教だと思わないでください。善良なムスリムがちゃんといる事を、理解してください」
といった、言説をよくみかけていたのだけど、これに対するある質問が僕の心に強烈に突き刺さったのは今でも忘れられない。
「じゃあ、なんでイスラム教から過激派がそもそも出てくるのですか?善良なムスリムがいる事は理解するけど、宗教が過激な集団を生み出すことも事実だし、イスラム教に問題が全くないと言いたげなその言説は、責任逃れにしかみえない」
この指摘は言われてみれば確かにそうなのである。
何もイスラム教だけが問題なのではない。
私達の国もオウム真理教という痛烈な痛みを経験したが、宗教というのは時に過激化する。
これを持って宗教≒悪と断じるのは言い過ぎだろうが、しかしなぜ宗教から過激派が出てくるのかについてをキチンと学んでおく事は非常に大切な事だろう。
というわけで今回はこのテーマについて語ってみようかと思う。
宗教はマジョリティでは生きにくい人達の大切な行き場
宗教というのは理論上、信者が一人でも産まれれば成立する。
例えば僕がいま自分オリジナルの宗教を立ち上げたとしよう。
あなたが入信すれば僕は教祖になり、一つの宗教がこの世に生まれ出る。
<参考 完全教祖マニュアル>
もちろん、何のメリットもないのなら、あなたはよくわからない新興宗教になんて入信しようとは思わないだろう。
あなたが今から何かの宗教に入るのだとしたら「悩みがあって、ここに入ったらそれが解決できそうだ」等の、何らかの”生き辛さ”のようなものを抱えているケースが考えられよう。
こうして考えてみると、宗教というのは多数派社会でラクラク生きている個人と比較して、ある種の”生きにくさ”を抱えている社会的弱者の逃避先となりやすい傾向がある事つかめるだろう。
かのイエス・キリストも、原典を紐解けばわかるが聖人君子なんかでは決してなく……、もともとは大工の放浪息子が立ち上げた弁が立つだけのヤンキーヘッドみたいなものだ。
彼に入信した人の多くはマジョリティから「キモい」とパージされていた人間や、様々な悩みを抱えていた社会的弱者が大多数である。
そういう人間が集まったら、多数派のアンチである反社会的組織の傾向を一定数持つのは必然ともいえるし、当然マジョリティである体制派がキリスト教を「反社会的であり危険な団体だ」と思って押し潰そうとするのも、国のヘッドとしては当然のことだろう。
ゴルゴダの丘でイエスが処刑されたのは、本質的にはアルカイダのビンラディンをアメリカが処刑したのと何も変わりがない。
いつだって、多数派とそれに抑圧された弱者の争いは、形を変えて繰り返されるのである。
多数派は弱者に居場所も提供できないし、アイデンティティですら提供できない
”アラー世代: イスラム過激派から若者たちを取り戻すために”という本がある。
この本の作者は元イスラム過激派だったそうだが、現在はそこから何とか脱却し、イスラム過激派になってしまった若者たちを救済しているという、過激派思想の加害者かつ被害者であったという稀有の人だ。
自分自身がイスラム過激派の魅力に取り憑かれた彼は、イスラム過激派が生まれる社会的背景を
「移民の二世や三世たちが西欧社会において居場所がなく、アイデンティティクライシスの状態に陥ってしまっているのが根本的な要因だ」と言う。
平和な島国に住む私達には理解しにくいが、様々な国が陸続きとなった欧州では移民がとんでもない問題となっている。
理想としては、困った人を助けるのは当然だ。
しかし移民の場合は、文化の問題がある。
正しさというのは行動の基盤となるものだが、同時にひどく曖昧なものだ。
西洋文化コードが基本となっている場所で、イスラム文化圏の人が暮らすと時に”正しさ”が衝突する。
日本でも中華街を考えてもらえればわかりやすいが、移民は基本的には地元の文化に溶け込むようなものではない。
独自の宗教、文化、そして仲間のつながりを捨てず現地を侵食し、結果としてその国にある種の異質をもたらす。
そしてそれは時にマジョリティと対立する。
多様性は確かに大切だが、それはいくつもの”正しさ”を全て無矛盾なく受け入れられるようなモノではない。
ブルカ1つとっても、欧州では常に様々な形での衝突がみられる。
結果、移民の子供達が社会という多数派の中に居場所を見いだせず、反社会的な場に惹きつけられ、そこで”被害者”という強烈な原動力をモチベーションにアイデンティティを確立させてしまう傾向が一定数あり、それが欧州各地で大問題となっているのである。
このようなマイノリティに生きにくい社会において、過激で力強い指導者は物凄く魅力的だ。
過激な指導者たちは、アイデンティティを喪失した弱き者たちに”居場所”と”ムスリムとしてのあるべき姿”というロールモデルの両方を提供する。
冒頭の質問である「なんでイスラム教から過激派がそもそも出てくるの?」だが、それは、イスラム教徒が欧州という陸続きの大陸の中で、抑圧され、心落ち着く居場所すら無い集団を多く抱えているからであり、マジョリティから差別されているからこそ反骨心で団結し、反社的集団として団結しやすい素因があるからだろう。
多数派は”強さ”と”生きやすさ”を持つのに対し、抑圧される側は”弱さ”に加えて”生きにくさ”すら付与されるのだから、世の中というのは誠に難しいものである。
宗教は絶対的に正しい教義を必然的に抱える。これが問題なのだ
宗教の問題点とは何か?一言でいってしまうと、それは自己批判を許さないことだ。
ガリレオの「それでも地球は回っている」を思い出すまでもなく、宗教にとって教義というのは基本的には疑ってはいけないものであり、教義にモノを申すという事は命がけの行為に他ならない。
「なんでイスラム教徒は豚肉を食べてはいけないのか」という教義が何故できたのかを類推する事はできても、「現代では何も問題がないのだから、豚肉を食べてよい」という風にロジカルに教義を改変する事は宗教においては決してやってはならない。
コーランに書かれている事が”正しい”事なのだとしたら、それは受け入れるべき事実であり、正すような性質のものではない。
絶対的な正しさというのは一貫性がある。
力強いリーダーシップが魅力的なように、私達はそういう”正しさ”に強く惹きつけられる傾向があるのは前項に書いたとおりだ。
しかし・・・である。
私達は実によく間違える。そして社会も間違った行いをした個人に対して罰を与えたりする。
テストで100点は良く、0点が忌むべきものであるという暗黙のルールがあるように、間違い≒悪という考えは強く私達の頭の中に根づいている。
そういう間違った行いを取るのを何よりも恐れる人達にとって、原理主義は福音のようなものだ。
「自分がどう行動したらよいかわからない」
「けど間違った行動はしたくない」
こういう人達に、原理主義はひどく優しい。正しい生き方を、クリアに与える事ができる。
しかしである。繰り返すが、私達は絶対に間違える。
かのアインシュタインですら……しかも専門分野である物理学でである!
しかし、間違いを受け入れられるのも、また人間である。
一時期、量子力学を「神はサイコロを振らない」と否定していたアインシュタインは、後に己の間違いを撤回し、キチンと量子力学を受け入れた。
こう考えると・・・間違いはそもそも”悪い”事ではないし、それを認める事を”ごめんなさい”という「私が悪かったから、許してくれ」という非常に言いにくいモノに押し上げている事にも、僕は何らかの悪因があるように思わないでもない。
間違ってるという指摘があったらキチンと検討し、批判を加える。
そういう度量の深さを持ちやすくするためにも「ごめんなさい。私が間違っておりました」という事を言えることが称賛されるような、懐の深い社会性が私達には必要とされているし、西洋文化の集大成の1つである科学技術は常にそうやってロジックを元に構築されてきた。
そしてそれは、宗教とはある意味では非常に相性が悪いものでもある。
理念や理想といったものがベースにあるイデア原理主義である宗教は、”絶対的な正義”を持つが故に”必ず間違えない”。
そしてその絶対に間違えないという甘美な響きは、いつだって”間違いたくない”人には魅力的に響いてしまうのである。
<参考 なにかもちがってますか 5巻>
正しさを”加速”させてはいけない
正しさは”加速”する。
インターネットで狂っていく人を多数観測することで、最近これを改めて感じている。
例えば、インターネットには恐ろしく過激なフェミニストがいる。
最近、彼女たちの”キモい男性”へのあまりに過激な叩きっぷりをみて
「これって彼女らが忌み嫌ってた昭和のセクハラオヤジと全く同じで、もはや弱者男性へのハラスメント以外の何物でもないのでは?」
と思わされてしまった。
初めは女性の地位向上の為の活動だったフェミニズムが、女性の人権が向上した結果、単なる弱者男性へのハラスメントとしての活動へと変遷していったのだから、改めて”批判を許さない正しさ”を持つ思想の恐ろしさを痛感させられる。
正義にはある種の快楽がある。
芸能人の不倫に人が沸き起こるのは、不倫が”悪”で叩いてもいい事だという暗黙のルールがベースにあるからだ。
<参考 正義の本質は娯楽である>
そして弱きものほど、正義を盾に戦いやすい。
これは指摘されて初めて知ったのだが、初めはカトリックの腐敗への批判から始まったプロテスタントだが、プロテスタント教徒はカトリックへの批判が一通りすんだ後に、熱心な魔女狩りを始めたのだという。
腐敗という悪を正す為の抗議活動が、正しさが加速した結果、その当時弱いものであった女性を依り代に正義執行活動へと変遷していくのだから、改めて批判を許さない”正しさ”というモノの恐ろしさを痛感させられる。
正義は容易に狂気へと加速する。
初めは巨悪を打ち倒すために始まった攻撃は、いつしか強きものを超え、さらなる弱いものへの刃と変わるのである。
頭がいいとテロリストになりやすい?
現アルカイダの指導者は医学部出身の元外科医だという。
「なんで医者がテロリストに?」と思って調べてみたのだが、実はテロリストには高学歴出身が結構多いのだという。
言われてみれば、オウム真理教も幹部は高学歴ばかりであった。
<参考 テロール教授の怪しい授業>
高学歴出身者がテロリストになりやすい素地は様々だろう。
”正しさ”を教義に則って、普通の人と比較して高速で主張できるだけの頭脳があるから、そのぶん加速度合いが速くて狂いやすいのかもしれない。
しかし、高学歴出身がみな狂うわけでもない。
何が原因かといえば、やはり冒頭に書いた”生きにくさ”もっといえば”居場所のなさ”が1番の原因だろう。
先程参考文献としてあげた”テロール教授の怪しい授業”に、「なぜ新興宗教は街中で布教活動を行うのか?」という質問があった。
僕は信者を増やすためにあれをやっているのだと思ったのだけど、正解は「徹底して社会から拒絶される体験を通じて、信者に自分が社会で居場所が他にない事を心の底から痛感させる」為なのだという。
この指摘には改めて考えさせられてしまった。
先程、過激なフェミニストの事をややネガティブなニュアンスで僕は書いてしまったけど、このような批判的な指摘ですら、過激派からすれば団結する為のエネルギーとなりうるのである。
僕の先程の指摘を読んで「フェミって怖いな」とでもSNSで誰かが”つぶやいた”ら……それは”街角でビラを配って、嫌そうな目を向けられる”という体験と、まるで瓜二つの事なのではないか……。
オウム真理教を狂気へと加速させてしまったのも、”あなたには居場所はない、ここから出ていけ”という社会からの負のメッセージが最後のひと押しをしてしまったのではないか?
このような事を考えれば考えるほど、僕は改めて弱者と正しさ、そして狂気の難しさを痛感させられてしまう。
世の中は難しい。とてもとても難しい。
人はいつだって間違えるし、共感できない対象を軽々しい気持ちで「キモい」とパージしてしまう。
そういう難しい世の中で、しなやかさを失わずに狂うこと無く生き抜けたらいいな、と心の底から思う。
とても難しいことなのだけど。
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(Photo:Sean MacEntee)