「間違った事をやった人をグーで殴ったら犯罪だけどさ、知識でもって他人を詰めたら、それは”正しさ”として処理されるのは何でなんだろう?」
かつてある人がこう言っていたのを聞いて、確かになぁと思った事がある。
知識の力で他人を殴る魅力に取り憑かれた人の話
以前、自分の同僚に非常に勤勉で情熱的な仕事をする人がいた。
その人は連日日夜、早朝から遅くまで働き、他を圧倒するパフォーマンスを出していた。
最初の頃はその人の仕事っぷりに尊敬の念を抱いていた。
だが、ある時、僕を含む様々な人に対して”正しい”知識でもって攻撃的な態度を示していたのをみて、ちょっとした違和感をおぼえるようになった。
その人の言っている事は、確かに科学的な意味において正しい。誤った事をしていたのは、その人の周囲の人だったのは、間違いなく事実ではある。
ただ…その正しさでもって他人を攻撃する様は暴力的であった。その人は僕を含む様々な人を萎縮させ、他人のプライドを様々な形で傷つけていた。
最初の頃はその人がなんであそこまで仕事に打ち込めるのかがサッパリわからなかった。けど、いま振り返るとあの人がなんであんなにも仕事に情熱的になれたのかの理由が少しだけ理解できる。
たぶん、正義という名の大義のもとで、知の暴力をふるうのが楽しかったのだ。
知力で我を押し通そうとする人は、有能かもしれないが一緒に働けない
学生時代に、ある本に「知識でもって有能さをしめしたがりすぎる人は採用しない」といった趣の事が書かれていて驚いた事があった(たしかイーサン・M・ラジエルのマッキンゼー式 世界最強の仕事術だったと思う)
その当時の自分は偏差値至上主義みたいなのに取り憑かれており
「知識があって、優秀そうな人を採用しないだなんておかしい」
「結局、沢山勉強してきた人よりも、コミュ力を磨いてきた人が最終的には勝ってしまうんか」
「くやしいのうwwwくやしいのうwww」
という感想をもったように記憶している。
だが、冒頭に書いたような経験をしてから、それがどういう事なのか少しだけわかるような気がしてきた。
確かに仕事には厳しさや細かさは必要だ。雑に押し通しすぎるのはよくない。
だが、それ以上に清濁併せ呑むような感じも必要である。ちょっとぐらい詰めが甘い部分や、ほんの少しの誤りがあったとしても、現場がしっかりと回り続ける事のほうが大切だというケースは思った以上に多い。
大義を掲げて他人を攻撃する人は、組織のパフォーマンスを著しく落とす
他職種もそうなのかもしれないけど、医療業界はこの手の”正しさ”という正義感に酔って他人を攻撃するタイプの人が結構いる。
患者の為という大義をかかげ、最新の知識でもって他人の不勉強を攻撃する暴力の魅力に取り憑かれてしまったこれらの人と、一緒に気持ちよく働く事はとても難しい。
確かに彼らはある意味では有能かもしれない。患者さんは何らかのメリットを享受できる事もあるだろう。
だが、長い目でみるとこの手の人は組織の生産性を著しく落とす。この手の人を組織に招き入れてしまうと、時に無能な人を雇う以上にやっかいな事態が引き起こされる。
また、そもそもの前提として。知識は皆の幸福を上げる為に使われるべきものであり、個人の我を押し通す為に使われるべきものではない。
自分自身をいくら厳しく詰め上げようが個人の自由だが、それを他人に適応した瞬間、知は暴力となって不幸を生み出す。
その暴力性は”正しさ”という大義で許されるべきものでは断じて無い。人をグーで殴ってはいけないのと同様、他人を言葉で殴ることもまた許されざる行為なのだ。
葬送のフリーレンは近年珍しい悪役に全く同情しない漫画
こちらで既にしんざきさんが紹介されているが、サンデーで連載されている葬送のフリーレンはとても面白い漫画である。
(参考記事:「葬送のフリーレン」が体に染み入るようにじんわりほっこりと面白いので皆読んで欲しい | Books&Apps)
しんざきさんはこの漫画を”じんわりほっこり”とご紹介されているが、僕はこの漫画が背景にある仕組みを興味深く思った。
フリーレンは端的にいうとRPGでいうところのエンディング後の世界の物語だ。勇者様御一行が魔王を打ち楽した後の話が主題であり、主人公であるフリーレンは勇者パーティの魔法使い役であった。
この漫画で僕がとても面白いと思ったのは、敵役である魔族の事が絶対悪として完全に同情の余地なく書かれている事だ。
最近流行りの漫画はどちらかというと正義と悪の単純な二項対立物語は少なく、悪役には悪役なりに同情の余地を持たせて勧善懲悪モノとして書かれる事が多い(例・進撃の巨人。鬼滅の刃)
だが、フリーレンの適役である魔族は完全悪であり、同情する場所が一ミリたりとも用意されていない。
詳しいことは実際に漫画を読んで欲しいのだが、フリーレンが魔法に習熟する動機となったのは悲惨な事件がキッカケであり、フリーレンの魔族に対する憎しみは純度100%である。その異常さは敵側である魔族にすら呆れられてる程だ。
勇者様御一行は、魔族がいたから英雄になれた
さて、ここで考えてみてほしいのだが、実はフリーレン含む勇者様御一行がかの世界で偉人として世界中で尊敬されたのは魔王を含む魔族がいたからである。
彼らは色々な理由はあったとは思うのだが、魔族を憎み、打ち倒すべき敵として修練を積み重ね、結果として憎き敵のボスを倒し、名声を獲得するに至った。
結果的にではあるが、彼らは物凄く成長しただろう。そして結果的にではあるのだが、彼らは世界中で尊敬される存在にもなれた。
では改めてここで問おう。もし仮にだが、フリーレン含む勇者様御一行が、魔族と全く交わらずに平和な世界で生きる権利を選択できたとしたら……。
どちらの方がより幸せな事だったのだろう?
結果として成長できたからといって、傷つけてきた奴に感謝する道理など無い
もちろん、この問い自体がとてもナンセンスな問いかけだというのはわかる。わかるのだが…僕は憎しみが生み出すものの正と負の産物について、いろいろと考えてしまうのである。
冒頭に書いた非常に勤勉で情熱的な仕事をする僕のかつての同僚は、この物語の魔族ほどではないが、僕をある意味とても傷つけた。
正直、僕はその人のおかげでとても成長できたとは思う。仕事はより丁寧になり、他人からみてツッコミどころがより少ない、質の高い医療を提供できるような存在へと導いてはくれた。
じゃあ僕がその人に感謝をしているかというと、そんな事はまったくない。正直な事をいうと恨んでいる。
確かに、仕事上でミスの少ない、質の高い医療を提供する技術の習得にはその人の存在は必要不可欠だったとは思う。けど、それでもその人と出会わなかった世界線が選べたら、たぶん僕はそちらを選ぶだろう。
二度の大戦があったから、人類は進歩した今を楽しめてるのかもしれない
かつて人類もお互いをとてもよく憎んだ。二度の世界大戦を通じて、人類の科学技術は物凄く進歩した。
結果として、私達後世に生まれた人たちは非常に豊かな社会を享受できている。別の世界線の話をしても詮無き事ではあるのだが、たぶん世界大戦がなかったら人類の科学技術は今ほどには成長していなかったのではないかとは思う。
憎しみは、時に人を強く成長させる。それはキャッキャウフフした、優しいだけの世界の成長ではたどり着けない境地へを人を運んでくれる。
戦争の技術は人にクリーンで莫大なエネルギーを利用可能とし、人を大気圏の外へとたどり着かせた。
それはとてもとても素晴らしい事だ。だが、その素晴らしい事の裏側には、多くの人の血と涙、恨み辛み、非業の死が隠されている。
それを全く見ずに、いいものばかりに視線を注ぐのは、まあなんていうか本当に良いことなのでしょうかね。
正しさに加速しない為にも、くだらなさや怠惰が必要なのかもしれない
先程紹介した葬送のフリーレンなのだが、フリーレンは趣味の一環として非常にくだらない魔法やニセモノの魔術書の収集をライフワークとして持っている。それに関係してなのか、フリーレンは物凄く怠惰な性格をしている(やるときはちゃんとやるのだが)
僕は最初、この設定がなんであるのかがサッパリわからなかった。だが、何度も何度も頭でエピソードを反芻し、あれは”正しさ”という正義に堕ちない為の行為なのかな、と自分なりに納得した。
人は力を持つと、それを己の我を通す事に使用したいという欲に上がらう事がとても難しくなる。
正しさはとても強く、また暴力的だ。誰しも人は我があり、それを貫き通したいという欲がある。力をもってしまった人が、その欲にあがらうのはとても難しい。
しんざきさんがフリーレンを読んで感じた”じんわりほっこり”さは、フリーレンが正しさや憎しみだけで加速しきっていない事にもきっと鍵があるのではないだろうか。
よーし、僕も散々くだらない知識を収集して、”じんわりほっこり”さを己の文章に内在させられるように沢山遊ぼう、と改めて思うのだった。
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都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます