老朽化していく築十数年のマンションというのは、まさに「日本」そのものだなと思った話。

僕が住んでいるマンションは、築十数年で、昨年、大規模修繕工事を終えたばかりです。

立地は良いほうだと思うし、修繕も終えて、まあ、しばらくは大丈夫だな、人口が減っていき、みんなが街の中心部に集まりつつある日本で郊外の一軒家に住むより、マンションのほうが便利だし、この先も安泰だろう、と思っていたのです。

ところが、マンションの管理組合総会で出された議題は、毎月の修繕費積み立ての増額、だったんですよ。

(参考:Books&Apps https://blog.tinect.jp/?p=67077

これを書いたのは、2020年の10月ですから、まだ3か月ちょっとしか経っていません。

あのときには、このまま少しずつ収束に向かっていくのかな、と思っていた新型コロナウイルスも、また猛威をふるっています。

 

では、あのマンションの修繕費値上げ問題は、その後、どうなったのか……という続報です。

 

結論から言うと、修繕費の月に3000円程度の値上げが、先日、管理組合の総会で議決されました。

それも、賛成対反対が10対1(一部棄権者あり)くらいの圧倒的な大差で。

 

僕は正直、拍子抜けしてしまったんですよ。

まだ新型コロナが猛威をふるい、経済的にも不安があるなかで、こんなにあっさり、値上げが受け入れられた、ということに。

 

前回の総会では、「年金暮らしで、月3000円の値上げはきつい。多少マンションが荒れて見栄えが悪くなっても、終の棲家にするからライフラインが保たれていれば十分だ」と主張する年配の方もいて、これはなかなか決着がつきそうもないな、と思っていたのです。

しかしながら、役員の人たちや管理会社が、さすがにこれでは「忙しくて出席できない」と言い訳できないな、と思うほどの回数の説明会を開いて居住者と話をしたのも効果があったのでしょう。

 

修繕費不足でメンテナンスをしていないマンションに現在起こっている問題や資産価値の下落などを粘り強く説明された居住者の大部分は、「この新型コロナ流行下でも」値上げに同意したのです。

それも、コロナがおさまってから、とかではなくて、なるべくすみやかに、ということになりました。

 

僕は前回、このマンションの修繕費問題を「日本の縮図」だと感じた、と書きました。

僕自身は、値上げが嬉しくはないのですが、ずっと住むにしても、将来住む人がいなくなって売るにしても、廃墟みたいなマンションになるのは困るなあ、と思っていたので、値上げには「賛成せざるをえない」と考えていました。

 

でも、このコロナ禍のなかで、「絶対に嫌、お金に余裕もないし、メンテナンスなんて最低限でいい。なんだったら、お金がある人たちが出せばいい」という人が、もっと多いのではないか、と予想していたんですよ。

 

すみません、僕は自分が住んでいるマンションの「民度」を舐めていました。

ほとんどの人が、月に数千円という修繕費の値上げを歓迎しているわけではないけれど、その必要性を理解し、将来のための投資として受け入れたのです。

 

僕がニュースや新聞でみた、「住む人はまばらで、修繕費も集まらず、ゴーストタウンみたいになったマンション」と、うちのマンションは違っていました。

 

いくつか要因はあるのです。

1.このマンションはいまの日本には珍しい、人口がまだ増えていて、子どもも多い地域にあって、居住者の平均年齢がまだ若く、数十年レベルでの居住や資産価値のことを考えられる人が多い。

2.「超高級マンション」ではないけれど、この地域では比較的価格が高くて立地も良く、もともと経済的に余裕がある居住者の割合が高かった。

3.「とにかく値上げは嫌」と脊髄反射するのではなく、将来的の価値を計算するとここで負担をしておいたほうが得だ、という判断ができる理性があった。

4.管理組合の上層部の粘り強い説明で、それでも反対、とは言えなくなってしまった。

 

このようなさまざまな条件があり、修繕費値上げは、可決されたのです。

まだまだ日本の「マンション民主政」も、捨てたものじゃないな!

 

……と思う一方で、僕はこの一件で、アメリカのある街の話を思い出したんですよ。

 

2005年、アメリカに「完全民間経営自治体サンディ・スプリングス」が誕生しました。

人口10万人のこの町は、富裕層で占められ、大手建設会社によって「運営」されています。

 

2013年に上梓された『(株)貧困大国アメリカ』(堤未果著・岩波新書)に、この町のことが書かれています。

2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、水没した地域住民のほとんどがアフリカ系アメリカ人の低所得層だったことから、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。

共和党の彼らは、「小さな政府」を信奉している層だ。

なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければいけないのか? ハリケーンで壊滅状態の被災地を、わざわざ莫大な予算をかけて復興させても、住民の多くは結局公共施設なしでは自活できないではないか。

 

政府の介入の仕方はまるで社会主義だ。私たちはいったい、今後も延々と行政支援を必要とする人々のために、どれだけ貴重な税金を投じなければならないのか?

どうしても納得いかない彼らはこの件について住民投票を行い、やっとベストな解決策を打ち出した。

郡を離れ、自分たちだけの自治体を好きなように作って独立すればいいのだ。

こうして誕生したのが、「サンディ・スプリングス」なのです。

僕の感覚では、「こういう『貧困層を排除した自治体』」なんて、頭の中で考えることはあっても、堂々と主張するべきではない」ような気がするんですよ。

助け合うのが「公共のルール」だろう、って。貧しい人ばかりが取り残されたら、さらに公共サービスは低下していくでしょうし。

 

そんな街のことを、僕は思い出してしまったのです。

僕が住んでいるマンションでは、このコロナ禍のなかで、「目先の出費があっても、将来的にプラスになる施策」に、多少の紆余曲折があったにせよ、多くの居住者が理性的な判断をしました。

それができたのは、個人差はあっても、それなりに経済的な余裕があり、将来のことを考えられる人が大多数を占める集団だからこそ、ではなかったのか。

 

すべての人が参加する権利を持つのが「民主主義」の大原則だと思っていたけれど、現実的には、民主主義的な議論・判断が理性的に機能するのは「経済的、精神的に余裕がある人たちの集団」だけなのかもしれません。

思えば、歴史上、民主政のひとつの到達点とされている、ギリシャのアテネの民会は「全成人男子」が参加していたのですが、実際に彼らの生活を支えていたのは奴隷たちだったのです。

もちろん、奴隷には(そして女性にも)政治に参加する権利はありませんでした。

 

「すべての人が、平等な権利を有する民主政」というのが理想なのだろうけれど、現実は、「参加者を制限したほうが、うまくいきやすい」というか、「本当にみんなの意見を聞いていたら、何も決まらなくなってしまう」のです。

「完全民間経営自治体サンディ・スプリングス」の話を最初に聞いたときには、なんだかSF小説に出てきそうな話だな、と思ったのです。
自分たちさえよければいいのか、とも。

 

しかしながら、サンディ・スプリングスの住人たちは「自分たちが収めた税金が、自分たちの生活や環境の改善に使われる機会があまりにも少ないのは「不公正」だと考えていたのです。

彼らの立場になってみると、その不満もわかるんですよ。

 

「自分さえよければいいのか!」対「なぜ、自分たちばかりがみんなの分を負担しなければならないのか?」

「格差」を是正するのは「公」の役割ではあるけれど、「富める側」にも、「自分たちが頑張って稼いでいるのに」という思いがある。

そして、「みんなの意見」は、なかなかまとまらない。

「富める側」だって、大部分は、そんなに経済的な余裕があるわけじゃない。

 

「築十数年マンション民主政」に、僕は感心し、居住者の理性を不安視していて申し訳ない気持ちになったのです。

 

まあでもこれ、「住むところは、自分でちゃんと考えて選んだほうがいいですよ」っていう話でもありますよね。

自分の手の届く範囲での幸せ、を重視するのであれば。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

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