ライフログ
これを「ラフロイグ」と誤読したやつはおれと友達だ。
友達じゃないかもしれないが、同じくスコッチ好きではあるだろう。
しかし、おれは今ここで、スコッチの話をしたいわけじゃない。ライフの話をしたい。
「ライフ」ってなんだ。「Life」だ。で、「Life」ってなんだ。
人生であり、生活だ。
おれは英語をよく知らないので正しいことを言っているつもりはない。
ともかく、英語の「Life」は人生、生活、それに生命を全部含んだ単語だろう?
おれはいまだに、おれの大好きなデヴィッド・ボウイの「Life on Mars?」が「火星の生活」か「火星の生命」かわかっていない。
訳せるものではなく、そのどちらであるかもしれない。
セーラームーンはダンスホールでファイトしますか?
で、おれが言いたいのは、このごろネット上の読み物として、自らのライフを語っているやつが少なくなったんじゃないか、ということだ。
ブログというものがこの世に現れ、流行したとき、「だれがおまえの昼飯に興味がある?」とか揶揄されたものだ。
だが、おまえが食べるそのオムライスの写真と、その感想は、たしかにライフの一部だった。ライフログだった。
それに価値があるのか、ないのか。あるようでない。でも、ないようである、のだ。
人生をぶちまけろ
そして、ブログというものに、自分の人生を書くやつもいた。けっこういた。
どちらかというと、屈託した人生が多かった。おれが好んでそういうものを読んだだけかもしれない。
それでも、自分の半生を、内にあるものを、ブログという新たなるメディアを通してぶちまけるやつらがいた。
あるいは、現在進行中の、ろくでもない人生を書きつづるやつがいた。
冴えない生活、飽いた労働、報われぬ報酬……。そんなやつらがいた。
が、どうも今のおれには、そいつらが見えなくなっている。
かつては、もっといたはずだ。ブログに、まとまった文章で、自分の人生を、生活を、ライフを書き残すやつが。
それがどうも、見えなくなっている。
舞台が変わったのか?
舞台が変わった、という可能性がある。
おなじインターネットというメディアでも、たらたらとお気持ちを書くブログというものから人が去っていった可能性もある。
行き先はどこか?
もっと短く晩飯の写真とメニューをアップできるTwitterか?
写真がメーンのInstagramか?
Facebookに内臓を晒すのは勇気が要りそうだ。
もっと動きを、声を求めてYouTuberになったのか?あるいは、Clubhouseか?
ああ、ブログというものは遠い昔のメディアになってしまったのか。
曰く言い難い生活のなにかを、人生のなにかを、それなりの分量で文章にして、だれかの目に届けたい、一太刀あびせたい、そんなものは、もう過去のものなのか。
たしかに、飯というライフの報告をするのに、140文字もあれば十分だ。
写真を投稿できるなら、それで済ませてしまえる。
個人、有名でもなんでもない個人のライフがブログから離れていった。その方が楽だし、適しているから。
おれはそれを否定しない。
おれはおれの飯をTwitterにあげている。
それこそライフログとして、こちらの方が向いているかもしれない。
「今日は寝不足だ」、「会社を半休してしまった」、「もう眠い」、「今回のすばらしいストライクウィッチーズは泣けた」……そんなのは140文字で事足りる。
それでもなお、やはり、ライフについて、もっと長く、苦悩と絶望を、苦渋と屈辱を、書き記そうとしないのか。
あ、幸せ子育てブログとか興味ないので。
もう書ききってしまったのか?
もう一つの可能性もある。
もう、書ききってしまったのだ、そこの誰かは、あるいはあんたは。自分のライフを、人生を。
そんなに、書くことがあるのか?
分厚い単行本になるほど波乱万丈の人生を送る人間は少ない。おれだってそうだ。
だから、もう、ライフを、ブログにすべて書き終えてしまって、さよならしてしまった。そういう可能性もある。
それがそうなら、それで仕方ない。
そうであるなら、かつてそこの誰か、あるいはあんたが書きのこした、絶筆をネットで探すよ。
見つかればいいな。見つからないかもしれないな。
とはいえ、書ききってしまったといっても、残念ながらこの世には新しい不幸が生まれつづけ、数は減れども完全に尽きるきざしはまだない。
だったら、新しい不幸が、新しい苦痛のライフを血文字で書きつけることがあってもいいだろう。
でも、なんか、見つからんのよ。
おれのアンテナが折れてしまっている、あるいはもう向ける方向が違っているのかもしれない。
今やTikTokにそれはあるのかもしれない。そうなると、インターネット老人には受信不能だ。
しかし、そこにあるという感じもしない
それでも言わせてもらうと、なんか、新しいインターネットの中の新しいメディアって、明るくないか。
陽キャ、陰キャとかあまり使ったことのない言葉だが、前者じゃないか。
ポジティブな場所、そればかりになっていないか。
そんなところで、映えを全面に打ち出して人気者になる人もいれば、音楽やなにかでその才能を天下に響かせる人もいる。
それはそれで結構だ。でも、暗いやつはどこにいった。
人生に不満のあるやつ、不幸にとりつかれたやつ、暗いやつ、あやしいやつ、どこに行った?
いるのかも、しれない。
おれが見ていないところで、Vtuberが人生への呪詛を、生誕の厄災を吐きまくっているのかもしれない。
見ていないのだからわからない。もしそうなら謝ろう。でも……そんなことって、ある?
インターネットは明るくなってしまった
インターネットは明るくなってしまった。
これはもう、何年も、下手すれば十年以上前から言われていることかもしれない。
それでも、やっぱりそれはそうだし、加速しているような気もする。
インターネット黎明期、とくに面白いわけでもない企業の公式サイト、治外法権のアングラサイト、そんな両極端があった。
面白いのは後者だった。やがて、後者は2chに集約されてやや明るくなってしまった。
テキストサイトというものの流行もあったようだが、おれは半地下にいたのでよく知らない。
そして、個人ブログの時代が来て、プロのライターが面白い記事を上げるような仕組みもできた。
で、上に書いてきたような、新しいメディア、新しいツールに、若い人たちが参加してきた。
それはもう、インターネットに居場所を求めるといった意味合いはなくなってしまった。
普通の日常、普通のコミュニケーション、普通の生活、ライフの一部になってしまった。
インターネットは、もう普通なのだ。
これももう十数年前から言われていることかもしれない。
それでも、Twitterなどで内輪ノリが晒され、炎上するやつは後をたたない。
でも、内輪ノリのやつは、古いネットの暗い部分、悪い部分のノリではないのだろうな、とも思う。
彼や彼女にとっての日常、普通のライフが、世間一般の良識とずれていたのが原因という感じもする。
有名人の炎上なんかは、あまり興味がない。
ひどい発言を目にして「ああ、そんな人だったんだ」と思うことはあるかもしれない。
その人のファンだったりしたら、ちょっとショックはあるかもしれない。
でも、なんか違うな。
それはおれの見たいものでもないし、見たくないものでもない。
どうでもいいもののように思える。
やはりおれが見たいのは血の叫びだ
やはりおれが見たいのは、ある無名人の叫びだ。
本音だ、本性だ。恨み、妬み、嫉みだ。
日常生活であまり目にすることのない、暴力的ななにかだ。
おれは悪趣味だろうか。そう言われたらそうかもしれない。
だが、ひとつ言えるのは、おれも自分の内面をぶちまけてきたということだ。
名もない、泡沫の一ブロガーとして、ライフへの呪詛を書き連ねてきた。
生活も晒してきた。じつにつまらない、日常も書いてきた。
スーパーマーケットで見たこと、競馬に負けたこと、通勤時に見たこと。そんなことも書き残してきた。
読んだ本、観た映画、アニメ、鑑賞した展覧会、できるだけ書いてきた。
とてもくだらないが、その自負はいくらかある。
だから、あんたも書け、と言うのは少し酷だ。それもわかっている。
おれのように文章を書くのが好きな人間ばかりではない。
でも、おれは読みたいのだ。
べつに匿名ダイアリーでもいい。
ネット上にアイデンティティを持たなくてもいい。
むしろ、名無しでこそ書ける一撃があるかもしれない。どうぞ、やってくれ。
日記とも文学とも違うなにかを残そうぜ
そんな言葉は、時代とともに消えていく。
ネットのサービス終了とともに消えてなくなる。
でも、無くならずに生き残るものがあるかもしれない。十年、あるいは百年。
それはおもしろい想像じゃないか。
おまえのライフが、人生が、日常が、千年残るかもしれない。
ネットのデータはサービス終了などとともに簡単に失われる。
一方で、デジタルデータというものは、残る限りはほとんど原型を留める。劣化することはない。
とすれば、たとえば文章のデータだってそのまま残る。かすれて読めなくなる、ということはない。
もっとも、言語というものは変化するので、古語になってしまうかもしれない。
それでも、ネットには膨大な量の同時代資料も残っていることだろう。
死語になってしまった言葉が、現役で使われていたときの文章、それが死語になったと書かれた文章、全部残る。
全部じゃないかもしれないけど、たぶん後世に残る。
それは、おれが平安時代に書かれた肉筆の文章が読めないのとは異なると信じる。
今は、未来に残せる今だ。
たくさんのものが消えるが、たくさんのものが残る。未来の、少数の物好きがそれそのままに発掘して、読む。おれのライフ、おまえのライフ。
千年前の、それ以上前の人間が書き残したこと、考えたことが現代に残る。
人間がえらそうな顔をして地球上を闊歩している、その理由だろう。
だから、書き残そうじゃないか。消えるかもしれない。
あるいは、自身の手で消してしまうかもしれない。それも自由だ。
でも、ひょっとしたら生き残る。その文章は生き残る。
あるいは、動画かもしれないし、声だけかもしれない。
なかには本当に貴重なものがあるかもしれないし、取るに足らないある時代の一市民の凡庸な日常かもしれない。
だからなんだっていうんだ。
ライフを残せ、足跡を残せ、時代に傷をつけろ。
それは、インターネットがない時代にはできなかったことだ。ある時代の庶民の生活を探るのには、限られた資料しか残されていないのは普通のことだ。
傑出した書き手というものが大切に残されるという場合もあるが、それも少数だ。
だが、今を見ろ、ネットを見ろ、おまえの言葉が、短いコメントが、あるいは動画や声がアップロードされているではないか。
いや、声のサービスは消えちゃうの?
まあいい、十年でもいい、いや、百年を夢見ろ。
百年後のだれかにおまえの刻んだライフを見せつけてやれ。
おまえの人生。おまえの生活。
おれはおれの人生を書けるだけ書く。おれの生活をできるだけ書く。
同時代のやつが見てくれて、共感してくれてもいいし、反発してくれてもいい。でも、それよりも先のやつだ。
おれは百年先を夢見ている。
おれがこの世からいなくなっても、おれがネットの世界を漂っているとしたら、それはなんとも愉快な想像ではないだろうか。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by Eaters Collective on Unsplash