「よく走れますね。自分、シンドイの嫌なんで絶対に無理っす」

つい先日、フルマラソンを完走したのだが、ランニング話を人に話題にすると、まず間違いなく上のような回答をもらう。

 

自分も以前は毎日10キロ走れとか言われたら「死ぬほうがマシ」と答えていたと思う。

それぐらいには体育の時間でやった長距離走にはシンドい思い出しかない。

 

しかし今では誰に何も言われずとも僕は走る。むしろ今は膝が痛くて故障ギリギリ手前にいるようにも思うのだが、そういう状態であっても走っている位である。

 

「なんで!?休めばいいじゃん」

普通の人はそう思われる人も多いかもしれないが、今の自分は「走るのを出来る限り止めたくない」のである。

実はここに何かを習慣化するヒントがあるのだが、今日はこれについて書いてみようかと思う。

 

アイデンティティの一部になるまで、やれ

近所にガチで筋トレに取り組んでいる理容師の方がいる。

彼に「どうやったら筋トレって習慣化できるようになるんですか?」と聞いたところ、彼は

 

「とりあえず半年は四の五の言わずにやるのがポイントですね。身体に見た目でもわかる変化が出てくれば、アイデンティティの一部になりますから、むしろ止められなくなります」

と答えてくれた。このアイデンティティの一部になるというのが物事を習慣化させる本質だと自分は思う。

 

実際、自分が膝が痛いのに走るのを止めたくないのは、せっかく積み上げてきたランニング能力が落ちるのが勿体ないと感じるものあるが、それ以上に自分にとっての存在命題にランニングがあるからだと思う。

 

走らない人間はランナーではない。

その事を他の分野に応用して考えると、誰かに自分の仕事を奪われるのが辛いのはその奪われる仕事に自分のアイデンティティの一部が入っているからだろう。

 

やめられない習慣ですら、実はアイデンティティである

そういう意味では活動というのはそれ自体がその人そのものだとも言えるだろう。そしてこれは悪癖と言われるモノにも当然のように適応される。

 

最近読んだ”膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました”には、飲酒がアイデンティティとなった人から酒を切り離すには膵臓をぶっ壊す位の事をやらねば無理なんじゃないかと思わされるものがあった。

<参考 膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました>

著者である永田カビさんは女性向け風俗利用等、これまでの著書で様々な活動を通じて自分の居場所を生み出そうと四苦八苦されているように自分は感じられたのだが、そのうちの一つに恐らく飲酒がフィットした。

 

実際、酒飲みというのは割とポジションが得やすい行為である。

お酒が好きだというだけで場が成立する事はよくあるし、飲酒の認知度は高い。

 

また、飲酒というコンテンツ自体に謎の好感度があり、それを描いたフィクションへの誘いも多い。

例えば酒飲み漫画は大抵において評判がいい。どこぞの居酒屋にでかけて一杯ひっかけてクイーっとやってる漫画には説明し難い面白さがあり、あれを真似してやってみたくなるのは日本人なら誰でも経験があるだろう。

 

このアルコールのコンテツ力とアルコールの強い依存力も相まってなのか永田カビさんは2度もの膵炎をやらかすほどにアルコールの沼にはまり込んでいたわけだけど、その結果が「少し生きやすくなった」というのが、また業が深い話だなと自分は思うのである。

 

どういう事か。それは飲酒という習慣はアイデンティティは生み出してくれるのだが、そのアイデンティティの維持は生きにくさとセットだという事である。

 

習慣は生きやすさとは別

習慣というのは本当に不思議なものである。少なくとも効率の良さとか生産性とは別の次元に位置するようなもののように自分は思う。

 

例えば会社なら、それこそ生産性や儲けのルートから外れまくった訳の分からない仕事やら礼儀作法というものはメチャクチャにある。

そういうのを「無駄無駄ぁ!」とカットしようとして、物凄い反発にあった事がある人も多いだろう。その謎の習慣で皆が苦しんでいたりしても、それを止められないだなんて経験は、組織人なら普通の事である。

 

自分は以前、こういうのを見て「バカなんじゃないかな…」としか思わなかったのだが、上記のような体験を経て、今では古くから続く習慣をやめられないのは、それがアイデンティティに組み込まれているからだという風に納得している。

 

実際、アイデンティティの価値は高い。それは金では絶対に買えないものだし、誰かに譲り受け渡されても貰えるような性質のものでもない。

このように”お金で買えない”からこそ、古くから続く習慣というのは強いのだとも言える。

 

そういう意味では苦しみですら、他人には簡単には取得を許さないアイデンティティであるとも言えるかもしれない。中年になって病気の話で盛り上がるのが楽しいもの、これの類似型だろう。

 

走り過ぎで膝を壊しても、飲酒でメチャクチャに人生を失敗していても、下らない仕事でメンタルがやられようとも…それがアイデンティティとなっていると人間は止められないのである。

 

普通の人からすれば「馬鹿なの!?」としか思えないものでも…「止めたらラクになるのに」としか思えないものでも…人はアイデンティティを”止められない”のだ。

 

「働けないのが辛い」

人はアイデンティティを止められない。この切り口から読み解くと、色々なモノの解像度が高まる。

 

かつて働きすぎでぶっ倒れた人を受け持った事があった。

彼は全ての活動を削って仕事に打ち込んでいた。その彼もぶっ倒れた直後にベッドでこう言っていた。

「もう働かなくていいんだって思ったら、急に人生が楽になりました」

 

僕はこれを聞いて「仕事だけが人生じゃないもんな…いい気づきが得られて良かった」と思ったのだが、しばらくして病状が落ち着いてくると、彼はこう言うようになった。

「働けないのが辛い」

 

これを聞いた時は「この人、仕事に洗脳されてんのかな」としか思えなかったのだが、どんなに苦しくても、人はアイデンティティを止められないのだというのを理解した今は、二重三重にも重いセリフのように感じる。

 

アイデンティティからの解脱は困難を極める

多分なのだけど…アイデンティティを保つというのは、そもそもが苦しかったり辛い事なのである。

 

例えば一般的にアイデンティティの源泉とされる仕事や家族を思い浮かべてみて欲しい。苦の無い職場は無いし、ゴダゴダの無い子育てなんかもあり得ない。
普通に考えればだ。厄介事に自分からわざわざ関わりにいって、それで傷ついてメンタルが疲弊したりするのは自業自得の極みだろう。

 

しかしそれでも就労も家庭も人を引き付けてやまない何か、というかアイデンティティがある。アイデンティティの車輪を回すのは全然楽ではないし、むしろ痛い。

それを回さなくてもいいとなると、多くの人は「すんげー人生が楽になった」と感じられると思う。

 

これで終われば話は簡単なのだが、悲しい事にそれでは”楽”にはなれない。

自分からアイデンティティが剥ぎ取られると、人は落ち着いてはいられなくなる。

 

誇りとかプライドとも呼ぶべきモノを持たずに豊かに生きる事は人間には難しい。

それらを持たない事で苦しんでいる自分自身にアイデンティティを感じているタイプの人間もいるはいるが、少なくともそういう冷笑的態度は苦しみそのものからの解脱と呼ぶには程遠いものである。

 

人はアイデンティティを”止められない”…いや、むしろアイデンティティを止めて楽になってしまったら、それはもう人…ではないのかもしれない。

突き詰めれば我々は誰しもがアイデンティティの精神的奴隷なのだろう。奴隷が鎖の長さを自慢するのが滑稽に見るのを、もう馬鹿にはできなさそうだ。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

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