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コンサルタントをやっていたころ、「議論」を見る機会がよくあった。

 

「見る」といったのは、私が議論に参加することは殆どなかったからだ。

というのも、コンサルティングには

「お客さんとは絶対に議論するな。お客さん同士で議論してもらえ」

という原則があり、私はそれを忠実に守ったのである。

 

そのため私は、第三者として、様々な会社で、多くの議論を見る機会に恵まれた。

そこで一つ気づいたことがある。

「議論のうまい人」と「議論がへたな人」は、非常にはっきりと分かれるのだ。

 

「議論」とは何か

当然、人によって議論に抱くイメージは異なるだろうから、まずハッキリとさせておかなければならないのが、「議論」の定義だ。

広辞苑にはこのように書かれている。

【議論】

互いに自分の説を述べ合い、論じ合うこと。意見を戦わせること。またその内容。

(広辞苑第六版)

私が見てきた議論の殆どは会議やディスカッションなど、

「複数の人が議題について意見し、他者を説得し合う行為」

だったため、殆どのこの定義に当てはまる。

 

具体的には、議論は「会議」「意見交換会」「勉強会」など、様々な場所で起こり得る。

 

では「議論のうまい人」はどのような特長を備えているのだろうか。

 

1.議論のうまい人は、「勝ち」「負け」を気にしない。

もっとも重要な原則のうちの一つは、議論のうまいひとは「勝ち負け」をほとんど気にしない、という事実である。

彼らは自分の言い分が否定されても、ほとんど意に介さない。

なぜなら、彼らの目的は「議論に勝つ」ことではなく「自分の知力を見せつけること」でもなく、「議論をすることで、良いアイデアを出すこと」だからだ。

 

したがって、彼らの発言には必然的に

「そういう見方もあるんですね」

「気づきませんでした」

「理由を教えて下さい」

「それはもっといいですね」

と、相手の発言を利用して、もっと良いアイデアを探ろう、という意図が見受けられる。

 

また、彼らはどんなにイマイチに見える意見に対しても、「何をバカな」という態度は取らず、「なぜ彼がそのような発言をしたのか」という背景を探ろうとする。

彼らはそれが結果として「卓越したアイデア」に繋がる可能性を高めることを知っているからだ。

 

2.議論のうまい人は、「事実」からスタートする

私の同僚に、めっぽう議論の上手い人がいたが、彼は常に「事実の確認」から議論をスタートさせた。

 

例えば次のような発言である。

「まず、クレームがここ半年で増えている、と言うのは事実ですか?どの程度増えているんですか?」

「若手の営業の力量が低い、というのは何を根拠に言っているのでしょう?」

「最近は競合にコンペで負けることが多い、という報告がありましたが、それはどの程度でしょう?」

 

逆に、議論のヘタな人たちは「事実」を把握しないまま、「何となく自分がそう思うから」から議論をスタートさせるので、

数字や事実確認の方法を突っ込まれると、何も言えなくなってしまう。

 

「議論のうまい人」たちは、思い込みや先入観を出来得る限り排除しようと、常に気を配る。

 

3.議論のうまい人は、「あるべき論」を振りかざさない

議論がヘタな人の特徴のひとつが、「あるべき論」への固執だ。

あるべき論に固執すること、すなわち「俺は意見を変えない」の表明は、議論を停滞させる。

 

例えば、あるサービス業の話だ。

複数の営業マンが「既存客の対応で手がいっぱいであり、新規開拓をする暇がない」というので、上司に相談をした。

そこで上司は、対策会議を開くことにした。

 

会議の場で、若手が

「一部の既存客は、手がかかるだけで売上につながらない。こういった客は切っていく方が良いのでは。」

と提案した。

すると、ベテランの一人が言った。

「どんなお客さんでも、丁寧に扱うべきだろう。」

何人かのベテランが、それに賛同した。

 

若手はそれに対して

「おっしゃることはわかりますが、今のままでは無理です。たとえば私の担当は30社ありますが、3社のお客さんで全体の半分近くの時間を取られています。逆にその3社の売上は、全体の2割程度しかありません。」という。

そのベテランは怒った。

「30社程度で何を甘ったれているんだ。営業の効率が悪いだけだろう。与えられた既存客を死守するのが、営業の役割だ。」

若手は「これ以上議論してもムダだ」と思ったのか、黙り込んでしまった。

 

険悪なムードの中、上司が割って入る。

そして、若手に言った。

「まあまあ、なぜUさん(ベテラン)が「どんなお客さんでも丁寧に」と言うのはわかるね。」

「……はい。」

「お客さんの選別を、というと何かこっちが偉くなったような気持ちになりがちだから、それを戒めただけだよ。」

「それはわかります。」

「でも、新規開拓できないのは困る。Uさん、どうすればいいかね。」

 

ベテランのUさんは話を突然振られて、焦ったようだった。

「……えー、営業の効率をあげるべきだと……」

上司は言った。

「そうそう、それはわかってるんだけど、どうしたら具体的に営業の効率をあげられるかね?私もそれは重要だと思っているんだが。」

 

この上司は非常に柔軟で、「あるべき論」を語る人の感情に配慮しつつ、若手とベテランから具体案を引き出すことに長けていた。

こういう人を「議論の巧者」と呼ぶべきなのだろう。

 

4.議論のうまい人は「議論の目的」を忘れない

議論のうまい人は、「議論の目的」を忘れない。当たり前のように感じるが、結構重要なことである。

特に、盛り上がる議論はあちこちに話が飛ぶので、いつの間にか当初の目的とは異なる話に花が咲く、ということが頻繁に発生する。

 

私の先輩に当たる人はこのコントロールがうまく、話の本筋を外さなかった。

彼が必ずやっていたのが、

1.「この議論のゴール」の確認から始める。

「今日のゴールは◯◯ですよね?」と全員に尋ねる。

2.「この議論のゴール」を皆が見えるところに掲げる

「今日はここまでやります」といって、ホワイトボードに目的を書き出す。

3.「この議論のゴール」を書き出して終了する

今日の議論の結論は、こうなりましたけど、いいですか?といって、終了する

 

こういった「当たり前のこと」をきちんとやることで、彼は議論を実りあるものに変えていた。

 

5.議論のうまい人は「議論する価値のあることだけ」議論する。

以上に挙げたことはテクニックとして重要なことではあるが、真に重要なのは、

「議論する価値のあることだけ議論する」という態度である。

 

冒頭にコンサルティングには

「お客さんとは絶対に議論するな。お客さん同士で議論してもらえ」

という原則があると書いた。

なぜそんな原則を守るのかと言えば、

「コンサルタントは意思決定者でもなく、実行者でもない」という現実があるからだ。

 

お客さんと議論をして、アイデアが生まれたとしても、お客さんの能力に見合ったものでなければ意味がない。

また、「自分たちのアイデアである」という自負がなければ、責任感も生まれない。

 

したがって、我々が成すべきことは

「お客さん同士の議論が、実を結ぶように補助をすること」

であった。そのため、「お客さんとコンサルタントの議論」はほとんど価値がない。せいぜい、コンサルタントの自己顕示欲を満たす程度である。

 

殆どの人は、「この議論、不毛だよなー」と思ったことがあるだろう。

議論には多くのリソースが必要であるし、その結果の実行のためには更に多くのリソースが必要である。

結果として、「議論しないほうがマシ」なことも相当数、あるのだ。

 

例えば、インターネット上には様々な議論が存在するが、その殆どは、多くの人にとって

「どうでもいいこと」だろう。

だから、議論は参加する前に「私の人生の一部を使ってまで、参加する価値があるのか?」を問わなければならない。

そうでなければ、見ざる、聞かざる、言わざるで全く問題はない。

 

 

 

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(Photo:zebra_44

「発達障害」という概念がだいぶ知られるようになってきました。

「コミュ障」という言葉も、よく聞きますよね。

 

僕自身、コミュニケーションというか、他者との世間話や飲み会が苦手だし、発達障害について書かれた本を読むと、思い当たるところがたくさんあるのです。

ただし、血液型による性格判断みたいな、「万人に(あるいは、多くの人に)あてはまるようなことが書かれているだけ」のようなものも少なからずあります。

全体としてみると「人間大好き!」「コミュニケーション万歳!」っていう人は、けっして絶対多数ではない。

 

『忖度バカ』(鎌田實著・小学館新書)のなかで、こんな話が紹介されていました。

自閉症スペクトラムの一つ、アスペルガー症候群の人は共感が苦手です。

こだわりが強く、変化が苦手で、人の感情や空気は読めないため、その場にふさわしい言動をとれず、浮いてしまうことがあります。

社会性やコミュニケーション、想像力の障害ともいわれています。

 

以前、アスペルガー症候群であることをカミングアウトした医師に会ったことがあります。彼は「人と心が通じ合えたという経験はない」とはっきり言います。

友だちもいない。恋愛も、夏目漱石と武者小路実篤などから学んだが、現実社会では撃沈したといいます。

医師になってからは、一日10数人を診察するなかで、患者さんとよくぶつかりました。

嫌な思いをさせたこともたびたびあったといいます。

 

そんな自分に何となく違和感を抱えていた彼は、自らアスペルガー症候群を疑い、専門医を受診しました。そこではじめて、アスペルガー症候群と診断されたのです。

多くの場合、発達障害は5、6歳までに発見されますが、何となく見過ごされて大人になってから診断される例もあります。

 

アスペルガー症候群と診断された彼は、苦手なコミュニケーションを身に付ける努力をします。相手の気持ちに共感することはできないが、共感したように見せるような会話を心がけたのです。ちょっとした言葉の使い方で、人間関係がスムーズになったといいます。

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この人、臨床医をやっていくのは、大変だったろうなあ、と思いながら読みました。

 

アスペルガー症候群や発達障害を抱えている人には、特定のジャンルにはすごい能力を持っていたり、ペーパーテストはすごく良くできたりするのです。

それで、医者や法律家、官僚のような「現場では人とのコミュニケーションが重視される高偏差値の職業」に就いてしまうことがあるんですよね。

そのことは、本人にとっても周囲にとっても、悲劇を生みがちなのです。

 

この話を読むと、そういう人でも、「共感したように見せるふるまい」を練習し、身につけることができる事例があることがわかります。

 

以前読んだ、貴志祐介さんの小説『悪の教典』の主人公・蓮実聖司は、ものすごく頭がよくて、高い運動技術と殺傷能力を持ち、自分の目的を効率的に達成するには、それが殺人であっても、容赦なく行える男です。

大部分の生徒からは慕われ、周囲からも頼りにされている「有能な教師」の蓮実は、さまざまな手を使って邪魔者を排除していきます。

この作品を読んでいて、すごく僕の印象に残った文章があります。

人間の心には、論理、感情、直感、感覚という、四つの機能がある。

そのうち、論理と感情は合理的機能、直感と感覚は非合理的機能と呼ばれている。

 

合理的機能には、刺激と反応の間に明確な因果関係があり、非合理的機能は、次にどういう動きをするか予測がつかない。

つまり、感情の動きには、論理と同様に、法則性があるということだ。

 

人間の感情は、他人から認められたい、とか、求められたい、というような基本的な欲求が、その根底をなしており、軽んじられたり攻撃されたと思えば、防衛反応がはたらいて攻撃的になる。その逆に、相手の好意を感じたときは、こちらも好意的になる……。

要するに、まったく感情というものが欠落している人間がいたとしても、きわめて高い論理的能力を持ち合わせていれば、感情を模倣(エミュレート)することは可能だということだ。

 

まず、人の感情のパターンを収集する必要があった。

そして、それがどういう場面で、どういう反応をするかを予測し、結果を見て、その都度、間違いを修正する。

そうして、それらと同じように反応する疑似的な感情を心の中で育てていけば、最終的に、それは、本物の感情とほとんど見分けがつかないものになる。

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「感情を全く持たない人間」っていうのは、やっぱりいないと思うんですよ。

でも、「共感能力がきわめて低い」人はいるし、「自分の感情さえ、よくわからなくなること」は、誰にでもあるはずです。

 

小説のなかでは、蓮実の「特殊能力」のように描かれていますが、こういう「この場面は笑うべきなんだろうな」とか「泣いておいたほうがいい状況なんだな」というような「感情の補正」を、僕はけっこう日常的に行っています。

 

「感情が全くない人間」は怖いけれど、「感情をやたらと周囲にぶつける人間」も怖い。

そういう人は、感情をぶつけることによって周囲をコントロールしようとしている場合がありますし、逆に「感情的な人間である自分を演じている」のかもしれません。

「感情」にみえるのは、けっして「自然なもの」とは限らない。

 

僕はこれらの文章を読んで、「ああ、そういう『感情への違和感』って、自分だけのものじゃなかったんだな」と少し安心しました。

この小説の場合は、読み進めていくと、「感情を持たないっていうより、単に人殺しが好きなだけなんだろコイツは……」という気がしてくるのですが、ピカレスクロマンとして、あんまり深刻にならずに読んだほうが愉しめるし、作者もそのつもりで書いているのではないかと思いますが。

 

正直なところ、自分以外の人の「感情」がどんなものであるかは、僕にはよくわかりません。

僕が感じている「赤い色」を他の人も「赤」と呼んでいるけれど、それが本当に同じように見えているのかどうか、わからないように。

 

「重度の発達障害やアスペルガー症候群」の場合、「他者とうまくやっていくのは難しい」というのはわかります。

でも、こういう概念があまりにも一般化され、認められたことの弊害もあるような気がするのです。

「自分のそういう傾向を受け入れた上で、感情を模倣(エミュレート)することで、適応できる」くらいの「軽度から中等度のコミュ障」の人まで、世の中や他人に適応し、折り合いをつけて生きていくことを諦めてしまうようになったのではないだろうか。

 

意識的に「感情を模倣(エミュレート)する」というのは、必ずしも悪いことじゃなくて、生きづらい人にとってのサバイバル術にもなりえるのです。

考えようによっては、もともと人間に「感情」なんてものはなくて、後天的にみんなが「感情的なふるまい」を身につけているものなのかもしれませんし。

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:Christian c)

一昨年あたりからGrit(グリット)という単語を時々聞くようになった。

日本語になおすと「やり抜く力」と訳すのが正しいだろうか。

 

この単語はアメリカの心理学者であるアンジェラ・リー・ダックワース氏が提唱された概念だ。

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彼女は成功者に共通する条件がなんなのかを探っているうちに、頭の善し悪しなんかより『時間をかけて物事に取り組む』能力の有無の方が重要であるという事に気がついたのだという。

 

確かに物事の成功において、タフさは重要だ。

マルコム・グラッドウェルがかつて一万時間の法則というものを提唱していたけど、どんな天才であったとしても一瞬で偉業を成し遂げるのは不可能だ。成功には一定量の時間がどうしても必要となる。ローマは1日にしてならずである。

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物事の遂行にはタフさは重要だ。就活でもラグビー部や野球部などは重宝される傾向にあるけど、それは彼等の耐久力の高さを見込んでの事だろう。

やり抜く力は、あるならあるに越したことはない。

 

「嫌なことに耐える力」と「やり抜く力」はちがう

けど僕はこのGritの話を聞いたとき、同時にこう思ったのだ。

「確かにタフさは重要だ。それはまあわかる。けど体育会的な意味でのタフさと、数学の難問をずっと考え続けて答えを出せるような意味での頭脳的な意味でのタフさは、ちょっと違うのではないだろうか?」

 

実は僕はかつて体育会系の部活でしこたましごかれた事がある。確かにあの経験は、精神的な意味でのタフさの修練には一定の役に立ったとは思う。

わけのわからない説教を喰らったりして精神的に追い詰められたりした経験は、どんな苦境であれ時間が過ぎ去ればいつかどうでもよくなるという事を僕に教えてくれた。

 

けどその体験が、こうして文章を作る糧になっているかというと全くそういった事はない。

文章を書くのは数学の難問を考えるがごとく、ずーっと頭のなかで思考を巡らせる必要があるのだけど、そういう思考を回転させる継続力のようなものの習得には、体育会系でのシゴキは全く役にたっていない。

 

つまるところ、体育会系の部活での体験は、嫌なことを耐えきって物事をなんとか成し遂げるという精神的なタフさという意味でのグリットは鍛えてくれたけど、好きなものを徹底的に考えていったり追求していくという意味でのグリットは全く鍛えてくれなかったといえるだろう。

だから僕は、同じタフさでもメンタル的なタフさと活動に対する執着力とでは随分と違うもののような気がするのである。

 

グリットについて言及された記事を読む時、この2つの違いについて言及される事が少ない事が僕はずっと奇異に感じていた。

精神的な意味でのタフさなら、体育会系なり軍隊なりに入りさえすれば鍛えられるかもしれない。

けど、後者の好きなことを徹底的にやり抜くためのグリットは、そういう方法じゃ絶対に習得できない。

 

「未来の記憶を持って産まれてきた」人たち

今後、AIが発展してゆき、嫌なことを機械がどんどんやってくれるようになるかもしれない。

そんな中、僕は前者のようなメンタル的な意味でのタフさでの意味のグリットより、後者の意味での好きな事を徹底的にやり抜くためのグリットの方が需要が高くなっていくと考えている。

 

だけど、いったい後者はどうやって習得すればよいのだろうか?

 

そのことについてずっと考えていたのだけど、つい先日読んだ本にこれについての1つの回答になりそうな事が記述されていてかなり腑に落ちたので紹介しようかと思う。

 

スーパーコンピューター「京」の開発責任者である井上愛一郎氏はコンピューターの”未来”が見えるのだという。

彼は新入社員として富士通に入った時点で、周りにそう吹聴しつづけていたようで、実際、周りからは「大きな事をいってるけど、ホンマかいな?」と言われることもあったようだけど、実際に京を作り上げる事でそれを実証してしまった。

 

井上愛一郎氏には他人には全くみえない、”こうあるべきはず”のコンピューターの姿がなんとなく捉えられているようで、彼からいわせれば今の「京」ですら彼が本当に作りたい美しいコンピューターからは程遠いのだという。

その美しいコンピューター像が自分の中にあるを称し、彼は「自分は未来の記憶を持って産まれてきた」と表現しているようだ

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「自分は未来の記憶を持って産まれてきた」ってそんな馬鹿なと思うだろか?けど実際、井上愛一郎氏のようなエピソードは天才と呼ばれるたぐいの人からよく聞かれる事が多い。

 

例えば世界一の投資家として名高いウォーレン・バフェット氏は、一流のバリュー投資家として名高い。

彼は資料を分析し、割安な株を見つけそれに投資し、長期間保有し成長した株を手にする事で巨額の資金を手に入れる事により、米国でも指折りの資産家となった事で有名となった。

 

こう書くと実に誰にでもできそうな投資法に聞こえてしまうけど、実のところバリュー投資家でバフェットほどの実績をあげられる人はほとんどいない。

僕はこれが何でなのか長年ずっと謎で仕方がなかったのだけど、先のエピソードを聞いてようやく疑問が氷解した。

恐らくだけど、バフェットにはなんとなくだろうが「成長する企業の未来」がみえるのだ。

 

もちろん彼自信がやっている分析の手法自体は正しいし、実際のところファンダメンタル的な市場分析自体は行っているのは事実だろう。

けど、そもそもなんでそこに興味を持ったのか、というようなレベルの話になると、たぶんだけど理論とかそういうものを越えて「なんとなくピンと来た」というレベルの話がたぶんかなりの部分であるはずだ。

 

アインシュタインの相対性理論もそれに似たようなエピソードを随分と見聞きする。

恐らくアインシュタインも、スイスの特許事務所で働いていた時に、何となく光と時間に関連があるであろう未来図がピンときたのだ。

だからそれについて、ひたすらがむしゃらに取り組むことができたのであり、その結果として結実したものが相対性理論なのであろう。

 

誰にでも「ピンとくるもの」がある

これらの具体例についてはさすがに特殊すぎるエピソードではあるとは思う。

だけど、これを読んでいる人達の中にも、スポーツや何らかの活動を始める際に「自分はたぶんこれができる」「自分の本当に好きなものはこれだ」と、まるでひとめぼれのように、なんとなくピンときた事がある経験を持った事のある人はいるんじゃないだろうか?

 

恐らくそれが自分の遺伝子の中に埋まっている才能であり、自分が本当に掘り下げるべきものなのだ。

好きな事を徹底的にやり抜くためのグリットの源泉はまさにそこにあり、それは人それぞれ遺伝子のプログラムにより微細に異なっていると考えるのが妥当だろう。

 

僕は前回の記事を書いた時

「人生は自分の思うようになる。1年後、こうなってるといいなぁと毎日のように思ってたら大体そうなる。馬鹿げていると思うかもしれないけど、本当にそうなのだ」

「多くの人は自分が本当に何がしたいのかや何が欲しいのかが全くわかっておらず、ただふわっと雰囲気に流されて生きている。そういう人の人生は、本当にふわっとしっぱなしで、いつまでたっても何も成し遂げられずに終わっていく」

 

という趣旨の事を書いたのだけど、この話と統合すると凄くスッキリこないだろうか?

あなたの中にも必ず1つぐらい「こうなるに違いない」と他人よりも少し先の未来を見通す事ができるものが1つぐらいあるはずだ。

 

それがあなたの才能であり、天職であり、頭脳的な意味でのグリットの元なのだ。

そこに面白さを見いだし続けられる事が頭脳的な意味でのグリットの習得方法であり、それを丹念に丹念に時間をかけて掘り下げることで、きっとあなたの中で才能という遺伝子が、いつかきっと花開くに違いない。

 

人はそれを成功と呼ぶ。そこにはあなたが産まれてきた意味が、きっとあるはずだ。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Cody Lods)

コミュ障と就活

あまりいい単語だとは思わないが、ネットスラングの一つに「コミュ障」という言葉がある。

身体的、精神的にコミュニケーションが困難、といった医学的に定義される意味での「コミュニケーション障害」とは異なって、この場合は「人付き合いや会話が苦手な(または成立し難い)人」という程度の意味のようだ。

 

「コミュ障」と、その対義語であるところの「コミュニケーション強者(以下コミュ強者)」の違いは、特に就職活動の場で話題にされることが多い。

就活の内定が出る時期になると、ネットは不採用の原因を自分のコミュ障ぶりにあると嘆く愚痴や、要領よく立ちまわって内定を勝ち取っていくコミュ強者への嫉妬の書き込みで満たされる。

 

しかし、長年社会人としてコミュニケーションを行っている身からすると、このようなネットでの「コミュ障」と「コミュ強者」の違いが、彼らが語るほど重要なことだとは、あまり思えない。

というのも私は、ビジネス上で「コミュ障」的な性格が問題になることは防止できるし、現代においては「コミュ強者」が交渉事や営業として有利な素養だ、とも言い切れないと考えているからだ。

 

ビジネスとコミュニケーション

ビジネスには種々の企業間、部署間のコミュニケーションが不可欠である。

依頼元は顧客の要望を理解し、それを他部署や、発注先に正確に説明する必要があるし、それを受けた他部署や下請け企業の担当者は、具体的な業務に落とし込む過程で生じた疑問や、最初の説明から不足している情報を依頼元に求める。

つまりは

顧客↔依頼元↔下請け

のチェーンの中で、何度もコミュニケーションが発生することになる。

 

最終的にビジネスが完結し、成功するかどうかは、顧客の要望がチェーンに関わる全ての担当者に正確に共有され、具体的な業務に還元されているかどうか、ということにかかっている。

つまりは、ビジネスにおけるコミュニケーションの本質は、個々の担当者が他者に対するアカウンタビリティ(説明責任)を完遂できるかどうかにある、と言ってもいいだろう。

 

ビジネスで求められるコミュニケーション「能力」

その観点でビジネスマンに求められる素養を考えると、「コミュ障」であるかどうか、というのは実は大した問題ではない事に気づく。

 

なぜならビジネス・アカウンタビリティにおける、「コミュニケーション能力」とは、相手の言い分を論理的に理解し、不足している情報を洗い出し、最終的に得られたオーダーを手元の資源と照会しながら、具体的な業務に還元し、それを正確に説明することにあるからだ。

「能力」という意味では、それは論理的思考ができるとか、簡潔で正確なメールを書けるか、という事のほうが関連深い。

 

またそのような能力を先天的に備えている必要もない。ビジネス・アカウンタビリティに関する教科書は沢山あるので、それを読んで勉強しても良いし、先輩が訓練してあげてもよい。

初対面の人の前では上手く話せない、とかそんなことはどうでもいいのである。

 

ビジネスにおいて必要とされる「コミュニケーション能力」というのは「教育」によっていくらでも伸ばせるものだ、と私は考えている。

 

コミュニケーション強者を採用する企業とその間違い

少し話を戻してネット上で見聞される就職活動の様子を見ていると、どうも採用の場において、この「コミュニケーション能力」が「教育」可能であるという事実を無視して、候補者の先天的な社交性ばかりを重視している企業があるように思える。

 そのような企業は(もちろん学歴などを考慮に入れた上でだが)単に、人当たりが良く、初対面の人物にも物怖じせず話すことができ、時にはおもしろい話題を展開して相手の気分を良くさせる人物を選別しているような気さえするのだ。

 

おそらくは、そう言った人物なら、営業職にして、仕事をとってこさせることもできるし、それ以外の職分でも顧客の機嫌を損ねる対応をすることがないだろう、と思われているのかもしれない。

あるいはただ単に、仕事仲間として仕事終わりの一杯に付き合ってくれる、コミュニケーションが簡単にとれる人物であるという利点に着目しているのかもしれない。

 

もちろん、異なる採用基準を持って採用活動をしている方もいるだろう。

 

実際、私は(何故か)面接役を何度もしたことがあるのだが、面接中の候補者が、淀みなく会話をつなげることができていたとしても、事前に用意された就活テンプレートのような話をしていたり、内容のない話をしたりしていると感じた場合、その人を「コミュニケーション能力が高い」と評価することはない。

 

そんなものは単にその人の性格や、涙ぐましい面接練習の成果でしかなく、その人の能力や素養とは到底言えないから、という事もあるが、

一見コミュニケーション強者に見えるが、説明能力、理解力がない

という人材を抱え込むリスクを避けたい、という考えがあるからだ。

 

「一見するとコミュ強者」が持つリスク

そういう人物の何が問題なのか。

当たり前の話だが、コミュニケーションは無料ではない。メールの読み書きや、電話での会話、長いミーティングなど、コミュニケーションは、送り手、受け手双方にそれなりのコストを強いる。

 

「一見コミュ強者」な人物は、このコスト意識が非常に薄い。

何故なら彼らは性格的にコミュニケーションを苦にしていないし、このような「軽い」コミュニケーションを繰り返し行うことこそが「仕事」だと思っている。

もっと質の悪いことにそういう人は、社内では仕事熱心で多忙な人と見なされている。(業務時間中、オフィスでずっと受話器を握っているような人物を想像してもらえばいいかもしれない)

 

トラブルを起こしがちな営業やディレクター職の人は

「わからないことがあれば、いつでも聞いて下さい」

とか

「<来たメールを丸ごと転送しながら>ひとまず、これでやっといてください。何かあれば電話で。」

という事を簡単に言ってしまう。そもそもの説明能力の無さを「コミュニケーション機会を増やすことで補える」と誤解しているのである。

 

対照的に、いわゆる「コミュ障」的な傾向のある人、具体的には性格的にコミュニケーションが苦手な人は、コミュニケーション・コストが過剰とも言えるほど高い(何故なら人と話すのが嫌だからである)

このような人は、電話やミーティングを嫌い、二度と同じような連絡が来ないように、想定される事態や、次に来る質問などを想定した時間のかかった丁寧なメールを書く人が多い傾向にある。

 

それを受け取ったのが「一見コミュ強者」で、「理解力もない」場合は悲劇である。

このような丁寧なメールはほぼ無視され、彼が理解できる部分だけが都合よく解釈され、結局、双方の話が咬み合わない。ということが続いてしまう。

 

「一見コミュ強者」は誤解があれば、向こうから電話の一本もしてくるだろう、と思っている。

が、電話をかけている時間も無料ではないし、そもそも丁寧な説明を理解できないということは、往々にして、やろうとしているビジネスに関する前提知識を、その人が持っていないということを意味している。

ビジネスの当事者にも関わらず、自分がしていることも、やらせようとしていることも、理解していない人間に一から説明してあげる義理は本来誰にもない。

そんなものは自分で勉強するか、わからなければ自分で調べるのが筋である。

 

だが、こういった場合に、依頼先の企業や担当者が、基本的なことから元請け(や営業)にレクチャーする光景を見ることが多々ある。そうしないと仕事が前に進まないのである。

結果として、積み上がったコミュニケーション・コストは次回以降の発注金額の増加として、またはコミュニケーションの失敗を繰り返したことによる生産性の悪化として、企業に悪影響を及ぼすことになるだろう。

 

これからのビジネスとコミュニケーション

数多くのコミュニケーション・コストをかけるより、できるだけコミュニケーション機会を少なくできれば、それだけビジネスは効率的に回る。

その為には、それぞれの担当者が、ビジネスを理解する努力を怠たらず、説明能力に磨きをかけなければならない。

そしてそれは、本来その人が持つ社交性(コミュ障であるかコミュ強者であるか)とはあまり関連性がない、と私は考えている。

 

多くの産業がコモディティ化した今、日本のような国では、共通規格や、共通言語のない分野、横断的なビジネスの比重が高まっている。これからも企業間、部署間のコミュニケーションとアカウンタビリティの重要性は増してくるだろう。

 

「コミュ障」を気にせず採用しろ、とまで言う気はないが、そのようなビジネス環境を想定するのであれば、無駄なコミュニケーション・コストを湯水の如く使う人材を積極的に採用したり、コミュニケーション能力に関する「教育」を怠ったりする理由はないのではないだろうか。

 

 

【プロフィール】

著者名:megamouth

文学、音楽活動、大学中退を経て、流れ流れてWeb業界に至った流浪のプログラマ。

ブログ:megamouthの葬列

(Photo:Asbjørn Floden)

人前で子どもを堂々と褒めるようにしています。

 

例えば、長女や次女を「かわいいねー!」と褒めてもらったら、「ありがとうございます!長女ちゃん/次女ちゃん可愛いって、良かったねーー」といいますし、ちょっと砕けた関係なら「ですよね!可愛いですよね!」と言います。

 

例えば、長男が「賢そうだねー」と褒めてもらったら、多少気安い関係であれば「実際賢いですよ!」と億面もなく言います。

 

勿論、これは別に、誰かに褒めてもらったことだけをトリガーにしている訳ではなく、自分でも何かにつけて子どもは褒めますし、それは人前かそうでないかに関わりません。

広告に書いてある難しい漢字が読めたら「よくそんな字知ってるなー」と褒めますし、バスの中で静かに出来ていたら、「静かに出来て偉いなー」と褒めます。

勿論、逆にうるさかったら叱りますけど。

 

 

ただ、最近はだいぶ慣れてきたんですが、これ実際にやってみると、親として案外勇気がいることです。

今これを書く際にも、私は若干内心の抵抗を抑えて書いています。

 

ついつい、「いや、それ程でもないですよー」的なことを言いそうになるところを、私は意識的に押さえつけているんです。

 

それは何故かというと、「親バカ」と思われてしまうのではないかという抵抗感、あるいは「自分や身内についての謙遜」というものが、根っこのところで意識にしみついてしまっているからではないか、と思うのです。

実際、単に人前で子どもを褒めているだけでも、(そこまで悪い意味ではなかったとしても)「この人親バカだなー」と思われることはあるでしょう。

 

「身内への謙遜」は幼い子供を傷つけるのでは

自分の子どもを過度に賞賛したり、過保護になってしまうことを指して「親バカ」と呼ぶ、という向きは割と一般的に見られます。

明確な線引きは難しいですが、私にしても、例えば文脈に何も関係なく子どもの自慢話ばかりする人とか、本来叱るべきところでもダダ甘な人については、ちょっとどうかなーと感じることはあります。

 

ただ、自分に対してだけであればまだしも、「身内に対する謙遜」って、時として子どもの心を傷つけてしまうかも知れない、場合によっては子どもの自尊心や自己評価をスポイルしてしまうかも知れない、とも思うんですよ。

 

 特に小さい子は、謙遜とか謙譲っていうニュアンスを理解しません。

彼ら、彼女らは無邪気に、何の遠慮もなく「こんなこと出来たよ!すごいでしょ!」と自慢しますし、「褒めて!!」と要求してきます。

小さな子は、「他者からの承認」に貪欲です。勿論いつかは「自慢には適当な加減がある」ということを教えなくてはいけませんが、それは少しだけ成長した後の話です。

 

そんな時に、例えば「可愛いねー」とよその人に褒めてもらったとして、親が「いやそんなことないですよー」と言ってしまったら、子どもは真っ正直に「え、パパは可愛いと思ってくれてないんだ…」と受け取ってしまいはしないか、と。

そんなちょっとしたところで、子どもの自己評価に傷がついてしまうんじゃないか、と。

 

私は、生まれて10年くらいは、子どもにとって「自分を好きになる為の助走期間」だと思っています。そういう助走期間に、なるべくブレーキになるようなことをしたくないし、出来ることならどんどんアクセルを踏んであげたいなー、と思っているのです。

 

勿論これは、単なる心配のし過ぎかも知れません。子どもは親の言うこと、そこまで覚えてないよ、気にしてないよ、という人もいます。

実際、親の教育よりも、幼稚園や学校の環境の方が成長に及ぼす影響度合はずっと大きい、という話を聞いたこともあります。たかが親の影響、です。

 

ただ、されど親の影響、だとも私は思っているのです。

私は、子どもの頃、親に言われたことを結構はっきりと覚えています。父親に聞いた話を、母親にかけられた言葉を、端々で覚えています。

そんな風に覚えているということは、私が成長するに当たって結構バカにならない影響を、私は親の言葉から受けているのではないかと。

 

だから私は、子どもを遠慮なく褒めるようにしています。人前であろうが、家庭内であろうが、ちょっとしたことで「凄いな」「よく頑張ったな」というようにしています。

親バカと思われたとしても、それは所詮私一人に対する評価であって、子どもの自己評価に比べれば大した問題ではないな、と思うのです。

 

勿論これは、しんざき家ではそうするようにしています、というだけの話です。こういうやり方がいいよ、という訳ではありませんし、こういうやり方でこんないいことがあったよ、という話ですらありません。

当然、こう出来ないといけないですよ、などという話でもありません。私はまだたった10年しか親をやっていないのであって、子育ての正解など分かりませんし、色々手探りをしている最中です。家庭それぞれ、子どもそれぞれに適したやり方があるでしょう。

ただ、少なくとも「親10年目」になる今現在では、私はそんな方針で、ことあるごとに目いっぱい子どもを褒めていこうと、そんな風に考えているわけです。

 

ちなみに、子育ての話とは特に関係ないんですが、私はしんざき奥様も割と人前で褒めます。しんざき奥様は超かわいいし頭いいし料理が上手いので。

 のろけに聞こえるかも知れませんが、これは実際にのろけなのでご容赦ください。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:ann_jutatip

むかし、一緒に働いた方から「なぜタスク管理をしないのか」と問われた事がある。

だが、その時の私には、多くの人が思うように、なぜタスク管理が必要なのか、それにどのようなメリットがあるのか、正直よくわからなかった。

 

というのも、上から出された指示はそう忘れるものではない。

百歩譲って、忘れそうなときにはメールで貰えばよいし、手帳もある(今ではスマートフォンもある)。

また、いちいちタスクを書き出して管理をするという手間が、むしろ仕事を遅らせるのではないかと思っていたからだ。

 

私は言った。

「タスク管理ですか……。指示はちゃんと覚えてますから大丈夫ですよ。」

 

すると彼は言った。

「もしかして、タスク管理を面倒くさそう、とか思ってる?」

図星だったが、私は平気な顔をした。

「いえ、なんか仕事をやらされている感……というか仕事に追われるのが嫌なんです。」

「ふーん。」

彼はニヤリと笑って言った。

「タスク管理は上司のため、とか仕事のため、と思われてるけど、」

「はあ。」

「本当は100%自分のため。もっと言えば、プライベートの充実、生活のクオリティをあげるためにやるものだよ。」

 

面倒な話か……と思ったが、私は彼の意図を汲もうとした。

「ミスをしたり、指示を忘れたりすると怒られるから、きちんと予防線を張っておけ、ということですよね。」

「いやいやいや、そんな堅苦しい話じゃないって。どうも君は余裕を失ってるようだね。」

「そうでしょうか。」

 

彼は私を見て言った。

「君はそれはタスク管理をすると「仕事に追われる」と言ったね。」

「はい。」

「それ、逆だから。タスク管理をしないから、仕事に追われるんだよ。今みたいに。」

 

私は「ぎく」っとした。

「そんなことないですよ。追われてなんかないです。」

「だって君「どれくらい休んで良いのか」って、わからないでしょ。今日は休日にして良いのか。早く帰っていい日か。」

「休みくらいとれます。」

「そう?休みながらいつも仕事が気になってるんじゃないの?」

 

私は白旗をあげた。

それは事実だったからだ。

「……はい。気になってます。いつも仕事が気になって、休日も休んだ気がしません。」

「真面目だねぇ〜」

「からかわないでください。どうすれば良いんでしょう。」

「だから、タスク管理だって。」

 

タスク管理の目的

彼はホワイトボードに、「タスク管理の目的は?」と書いた。

「はい。どう思う?」

「どう思うって……仕事を忘れないためでしょう。」

「いやいや、そこが間違いのもとだよ。」

「え?」

「タスク管理の目的は、「忘れないため」じゃない。」

「ではなんですか?」

タスク管理の目的は、「忘れていいようにするため」だ。」

「……言ってること、同じじゃないですか? 記録したから、忘れない。記録したから、忘れていい。」

「いや、忘れないように書く、のと忘れて良いように書く、のでは全くちがう。」

「なぜですか?」

「忘れないように、という目的で始めるならば、主は「頭の中」だ。そうすると「覚えているから書かなくて良いや」と思ってしまう。書くのは面倒だからね。でも、結局休日の「仕事が気になる」というストレスからは開放されない。」

「まあ、そうですね。」

「忘れて良いように、という目的で始めるなら、主は「タスクが書かれている紙」だ。そうすると「覚えたくないから、書いておこう」と思うようになる。そうすると休日には頭を空っぽにできる。」

「なるほど……。」

 

タスク管理のメリットは何か。

彼は次に、「タスク管理をすると何が改善されるか」とホワイトボードに書いた。

「はい、次はこれ。」

「さっき言ってた、休日に仕事のことを考えなくて済む」

「はい。まず一つ正解。他には?」

 

私は考え込んだ。

「んー、どうですかね……。仕事を俯瞰できる気がしますが。」

「おお、ほぼ正解。」

「ありがとうございます。」

「書き出すことで、自分のやっていることを客観的に捉えることができる。」

 

だんだんタスク管理に興味が湧いてきた私は、彼に聞いた。

「具体的に教えていただけませんか?」

「例えば、自分が提案書を書くことになったとする。」

「はい。」

「頭の中だけで仕事を管理している人は、「あー、来週までに提案書を書かなきゃ」と思う。」

「そりゃそうです。」

「で、いざ取り掛かると……、アイデアが出ない、アレを確認してない、この資料が足りない、と一種の混乱状態になる。で、ついついネットを見ているうちに時間だけ経っていく。焦る。こんな経験ない?」

「超あります。昨日もそうでした。」

「でしょ?タスク管理ってのは、タスクが書き出されている。だから「提案書を書く」を俯瞰して、整理できるんだ。」

「なるほど。」

 

彼は力説した。

「仕事を整理すれば、「資料を用意する」「お客さんに確認する」「アイデアを上司に相談する」とか、やるべきことがはっきりする。これ、成果がすごく上がると思わない?」

「思います。生産性も上がりますね。」

「でしょ?タスク管理は、必然的に仕事を分解するから、生産性をあげるんだよ。」

「なるほどー。」

「で、他にもメリットがある。」

「まだあるんですか。」

「もちろん。」

 

私はまた考え込んだ。

タスク管理のメリット……。

「ヒントを出そうか?」と彼が言う。

「おねがいします。」

「君は、「仕事の順番」をいつもどうやって決めてる?」

「納期順です。」

「本当に、納期順でいいと思うかい?」

私は戸惑った。それが「当たり前」だと思ってきたからだ。

「逆に聞きますが、納期順ではない選択肢なんて、あるんですか?」

「もちろん。答えは重要度だよ。」

 

私は「またその話か」と思った。

「重要度と緊急度、そんな話私も知ってますよ。」

「じゃ、なんでやらないの?」

「緊急度=重要度だからですよ。納期が迫っている仕事が重要です。」

「じゃ、例え話を出そう。社長から3日後までの宿題を出された。結構タイトな仕事だ。頭も使う。でも今、同時に同僚から頼まれた2日後までの営業リストの整理の仕事もある。仕事自体は簡単だけど、時間がかかる。どちらをやる?」

「そりゃ……社長のほうです。」

「その通り。」

「でも、殆どの仕事は重要度=緊急度と考えてよいのでは?」

「ちがうね、仕事ができる人ほど、重要度と緊急度は異なることを知っている。逆に、仕事ができない人は重要度と緊急度が同じになってしまっている。さて、君は後者なのかな。」

 

彼は言った。

「ここまで説明して、タスク管理をやらない理由があれば、もう自由にすればいいんじゃないかな。たぶんその人がやらない理由は「新しい試みは面倒くさい」という理由だけだと思うから。」

辛辣な一言であった。

 

後日、私はタスク管理ツール(といっても手帳だった)を導入し、本格的にタスク管理を始めた。

 

今、タスク管理を始めて、もう10年以上になる。

今ではすっかり、タスク管理が日常の一部となったが、先の彼にはとても感謝している。

なにせ、私には人生を変えるくらいのインパクトがあったのだから。

 

 

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(Photo:VFS Digital Design

出会い

それは小さな箱で、まるで魔法のようだった。

滅びゆくしかないみたいな言葉がしっくりくる小さな街の中学校、その片隅の少し薄暗い理科準備室にその魔法が存在した。

 (Photo:Patrik Uytterhoeven)

いつ洗ったのだか定かではない理科教師の白衣は、もはや黒衣だとか茶衣と呼ぶ方がふさわしくて、じっとりとした白髪混じりの髪を掻き毟りながら、なんとか反応っていう鮮やかな色が出る反応を見せてくれた。

もうその反応の名称は忘れてしまったのだけど、試験管の中に揺らめく色鮮やかな薬品の色と、そこを通過した太陽の光が汚い実験台の上をキラキラと、カラフルな海、その水面のように照らしていたことを今でも覚えている。

 

「どうだ、魔法みたいだろ」

 

理科教師はそう言った。確かに不思議で綺麗だと思うけど、魔法とまでは思わなかった。

これは科学だ。断じて魔法ではない。薬品を混ぜる前から薄々は、綺麗な色が出るんだろうな、カラフルなんだろうな、と気づいていた部分があったからだ。

驚いて見せたりもしたが、さすがに「これは魔法だ!」と感嘆するまでではなかった。ただ理科教師はそういう反応を期待していそうではあった。

 

彼は熱心な教師だった。後で知ったことだが、公立の中学校レベルではほとんど理科の実験はできないという事情があった。予算がないのだ。そして必要がないのだ。

中学校における最終目標が高校入試とするならば理科実験は必要ない。ほとんど実験の実技試験があるような高校はないだろう。

入試問題になりそうな実験手順を座学で教え込むだけでいい。決められた最低限の実験だけが必要とされる。そこに科学への興味を引き出すようなギミックはほとんどない。ただ淡々と決められたことをこなすだけなのだ。

 

そんな中にあって彼は、興味のある生徒を集めて、形式所は「科学部」という形態でをとり、生徒たちに多くの実験を見せてくれた。

たぶん、彼の趣味もあったのだろうけど、それでも僕らは彼の意図通り、科学というものに興味を持っていった。ただ、彼のいう「魔法」とまでは思わなかった。科学は科学だ。

 

「こういった不思議な魔法のようなことが起こるのが科学です」

 

そう言いながら彼は実験台の上に少しこぼれた液体をサッと拭きとった。

なんてことはないその動作、僕は驚愕した。さっと拭きとった彼の行動、それが僕にとってはその光景が何よりの「魔法」だったのだ。

 

理科教師が台上を拭くのに用いたものは、ティッシュのような小箱に詰まった物体で箱には「キムワイプ」と書いてあった。

(Photo:Kouki Kuriyama

白を主体とし、黄緑と緑のラインが勇ましい紙の箱にそれは収まっていた。外観は少し武骨なティッシュそのものだ。

ただ、ほぼ直方体で細長いティッシュのそれとは異なりキムワイプの箱はほぼ立方体だった。

 

理科教師はまるでティッシュを取り出すかのように軽やかな手つきで、スナップを効かせてキムワイプを取り出した。

あ、そんなもので拭いたらグジュグジュになってしまう。かなり心配した。結構な量の液体がこぼれているのにあんなもので拭けるわけがない。すぐに紙がぐっしょりして拭けないどころか紙から分離したカスが台に残ってしまう。そう思った。

 

でも、拭きとったあとの実験台には何も残っていなかった。液体も紙のカスも綺麗さっぱり存在しない。サッと撫でただけなのに、拭き残しの筋も紙のカスも生まれない。何なら教師の手に握られた紙にはどす黒い何かが付着していたので、台の汚れがとれて実験前より綺麗になっていたくらいだった。

 

「あの不思議なティッシュはなんだろう」

 

考えることはそればかりだった。キムワイプと呼ばれるあれはなんだろう。もう完全に白と緑で構成された小箱の虜で、これこそが魔法だと思ってしまったのだ。

 

ただ、不思議な色の液体を見せつけてやってすごく充実した「やってやった」という顔をしている理科教師に「その液体はいいからそのティッシュみたいなものなんなんだ」と言うことはさすがにできなかった。

こういった場面では彼の意図と自分の思い、その最大公約数的な落としどころに収めることが肝要なのである。

今は決して液体の色からはみ出してはいけない。絶対に関係ないキムワイプのことを話題に出してはいけない。その思いがあった。結果、悶々とした思いだけが残った。

 

それから卒業までなんとなく質問することもできず、しかも理科の実験でもあのキムワイプに出会うことはなった。

あれはあの日だけ特別に登場した極上のティッシュなのかもしれない、そう自分を納得させ、卒業の日を迎えた。

 

再会

それからしばらく経って、理系の進路を取り、工学系の学科で化学実験をしているとき、またあの不思議な子箱と再会することになった。

また会ったな、キムワイプ、という感慨が凄かったのを今でも覚えている。もしかしたら僕はこいつの真相が知りたくて進路を選んだんじゃないだろうか、そう思うほどだった。

 

このキムワイプ、アメリカの製紙大手キンバリー・クラーク社が製造する紙製のウエスで、日本では日本製紙クレシアがキンバリー・クラークと提携して製造している。

水に溶けず、強度も高く、拭きとり性が尋常じゃないレベルで高いので理系、とくに実験系の研究室ではほぼ100%のレベルで使用されている。

 

そこは、あの日の魔法が現実となった世界があった。まるで普通に、さも当たり前のようにキムワイプが用いられているのだ。

実験器具の拭き取りはもちろんのことだが、キッチンペーパーのように実験器具を置いておくシートとしても使われていた。

風邪の時に鼻を咬む用途にする剛の者までいた(基本的に強度が高く硬いので鼻の下が痛くなる)。こんなありとあらゆる場面に使える紙があっただろうか。お札の次に色々な場所で使えるのではないか、そう思った。

 

「魔法は現実となり、また魔法となる」

 

ただ、この文章で「キムワイプ便利だね、何でも拭き取れる」そんなことが言いたかったわけではない。

確かに、あの日見た魔法の紙に再会し、それが当たり前に使われる世界、まるで魔法が現実となった世界に感動した。ただ魔法が現実になったらもう魔法じゃないのか。実はそうではない。キムワイプの魔法はその後もずっと続いているのだ。

 

 友情

社会に出て何年も経った。

 

ある仕事の関係で、車に乗って少し遠い場所に他社の知らない人を引き連れて謝罪に行く、という何とも気が重い仕事があった。

土下座までありうるという危機的状況もそうだったが、なにより良く知らない人と一緒に過ごさなければならないという事実が僕の心の一番柔らかい部分に圧力をかけていた。

 

駅まで迎えに行くと、これまた気難しそうな、絶対に皆で怖い話とかして盛り上がっているとこに加わってこなさそうな人が腕組みして憮然と立っていた。

絶対に友達になれない。そう思った。彼は不本意ながら謝りに行かなければという事実に不快感を持っているようで、ただでさえ気難しそうな人がさらに難しくなっている感じだった。

 

「今日はよろしくおねがいします」

「先方には2時で約束してありますんで」

 

車を走らせながら軽やかに挨拶し、そう話しかけるが、さすがといかなんというか、返事すらしやがらねえ。

重くて沈痛な空気、カーラジオから流れるaikoだけが妙にテンションが高かった。

 

「本当に謝る必要があるのか?」 

信号待ちで停車すると不機嫌な果実はそう言い出した。

「あるんじゃないでしょうかね、僕も良くわからないですけど偉い人が言っているんで」

そう答えると 

「じゃあ君だけがいけばいい。僕は理系出身なんでね、そういう政治的駆け引きは良くわからないんだよ」 

彼はそう言った。

 

理経か文系かは関係ない。そう思ったけど言わないでおいた。

今はなんとか先方につくまでに彼と打ち解け、彼を納得させて謝罪をしなければならない。謝罪する意味とか、必要とかそういうものは関係ない。別に僕だってどうだっていい。ただそれをしなければならないから、そうしてくるだけだ。

彼と打ち解ける必要がある。それだけだ。随分と困ってしまった。

 

沈黙が流れる。まだaikoが凄いテンションで熱唱していた。

「君はどこの出身なんだね?」

彼がそう質問してくる。それに答えるが、話題が膨らむこともなく、またaikoだけがテトラポッドがどうとか言っていた。

 

とにかく会話を弾ませて打ち解けなければならない。今度は僕が話題を振らなければならない。そういえば理系出身って言ってたな、ならば、意を決して切り出した。 

「理系出身ですか、なるほど、僕もなんですよ。じゃあ、キムワイプって知ってますか?」 

特に深い考えがあるわけではなく、なんとなく思い付きキムワイプの話題を出した。どうせこれでも話は膨らまない。とても気が重い。僕は落胆した。

 

「おー! キムワイプ! 懐かしい」

彼は予想以上の食いつきをみせた。まるで懐かしい旧友の話でもするかのごとく満面の笑みをみせた。

「あれめちゃくちゃ万能なんだよな、メガネ拭くのに最高だし」

「そうですね。テーブル拭きに最高ですよ」

「あれで鼻を咬むバカいたよな。すぐに鼻の下真っ赤になるのに」

「慣れてくるとあれでもいけるんですよ」

「家に持って帰るやつとかいるんだよな。みんな持って帰るもんだから消費が早くてバレて怒られるの」

 

車内での会話は大いに盛り上がった。そして彼は遠い昔を懐かしむように望郷の眼差しのような表情を見せ、淡々ととっておきのキムワイプストーリーを語ってくれた。俺が学生の時の話なんだけど、と前置きしたうえで。

 

キムワイプの魔法

彼が所属した大学の研究室に博士課程に在籍するヌシのような人がいたそうだ。

博士課程とは大学を4年まで終えて大学院の修士課程に行き、そこが終わってさらに大学院に行くような課程のことだ。長く研究室に在籍するのでもちろん最年長だし、公園の池に棲み付くヌシみたいな存在になったりすることがある。 

そのヌシの口癖は「上の課程に行けば行くほど就職が難しくなる、この国は狂っている」だったらしい。博士課程に行ったものの将来はどうなるか分からない。

いつも不安に思っていて国の悪口を言っていたそうだ。

 

そんな彼が恋をした。研究室に新たに配属されてきた学部の女の子で、彼曰くナフタリンの構造式に似たかわいさがある女性だったらしい。

すでにこの時点で彼の頭はおかしくなっていたのかもしれない。

 

彼は苦悩した。できることなら彼女と結婚したい。そう思った。ただ、学位が取れるかも分からない、その後も就職できるかどうかも怪しい。

国は博士を増やせとの政策を進めてきたがその後のことは何も考えていないじゃないか、いたずらに博士ばかり増やしてどうするんだ、だから自分が結婚できないんだ、そうのたまったらしい。

 

果たして彼は決心した。彼女にプロポーズしようと。

よくよく聞くと、彼女とは実験器具の使い方を教えただけであまり会話をしたことがなかったなかったらしい。

 

それでも彼は決心した。その重大な決断に手下の修士学生や学部学生が嫌々ながら呼応した。

ヌシには逆らえないからだ。そして一大プロポーズ大作戦が開始したのである。

 

彼らの提案したサプライズプロポーズはいたって単純で、いつも彼女が使っているキムワイプに着目したものだったらしい。

そこに先輩がTA(ティーチングアシスタント:大学の講義の手伝いみたいなもの、時給が出る)で毎月稼ぐ数万円の三か月分をふんだんに投入した指輪を入れておくというものだった。

(Photo:Jeffrey Beall)

彼女がいつもの調子でキムワイプを使おうとしたらコロンと指輪が飛び出して、

「え、うそ」「将来は不安定だけど一緒に乗り越えていきましょう」「素敵」となる予定だったらしい。

いけそうなら「ナフタリンみたいな家庭を築きましょう」まで言うつもりだったらしい。昇華してなくなるわ。

 

彼女が使う実験台の上に置かれたキムワイプに指輪を仕込み彼女が来るのを待つ。先輩も手下たちも自分の持ち場で実験をしながら彼女の到来を待った。

 

ただ、悪いことにその日、彼女はなかなか実験を始めなかった。

自分のデスクでデータの整理をして、週末の報告会に向けた資料作成に没頭していたらしい。

 

ただ、彼女が使う機器がウォームアップ状態で放置されていたので、いつかは実験を始めるつもりらしく、今か今かとその時を待っていた。

そうしたら悪いことに別の実験室でトラブルが起こったり、急に教授に呼ばれてしまったり、みんなで学食に行ったりと、いつの間にかキムワイプに指輪があると知る人間が実験室からいなくなってしまった。

 

タイミングが悪いことに、そこに指輪のことを知らない別の学生がやってきた。

彼は自分が使っている薬品が切れてしまい、おまけに発注するのを忘れてしまい、自分の実験を進めることができなくて困っていたらしい。

仲良くしていた別の研究室の友達になんとか少し分けてもらえないか交渉したところ、キムワイプ2箱と交換でと物々交換を持ちかけられたようだ。

 

新品のキムワイプを2箱渡すのは少しもったいないと思い、ちょっと使いかけの奴を持っていこうと箱を手に取る。それはまさにあの指輪が仕込まれたキムワイプだった。

 

そこで大騒ぎになった。先輩が戻ってきたら指輪を入れたキムワイプの箱がない。後輩どもを総動員して研究室中のキムワイプの中を探したが見つからない。

「俺が〇○ちゃんにプロポーズするためのキムワイプが!」 

セリフだけ聞くと何が何やらだが、それを聞いたその〇○ちゃんは泣いてしまったようだ。

そりゃそうだ。実験器具の使い方を教えてもらっただけなのにサプライズプロポーズされたらたまったもんじゃない。

 

結局、別の研究室に物々交換で渡ったと知り、急いでその研究室に行ったらその研究室からも誰かが持ちだしていて、さらに別の研究室の手に渡り、そこから共通の大型機械を使う部屋の準備室にまで流通したようだった。マジで貨幣か。円滑に流通しすぎ。

 

そこで比較的偉い定年間近の教授が若手に実験を教えようとキムワイプを取り出したら、コロンとは飛び出さず、何か中に異物があると気づき、取り出したら指輪がでてきた。おまけに針金で括りつけられたタグに「結婚してください」と書いてあったそうだ。むちゃくちゃ困惑したんだろうな、偉い教授の先生、5分くらい固まっていたらしい。

 

精密な、それこそ微量な金属を測定するような機器の洗浄などの場面でも使われることのあるキムワイプ、そこに指輪という金属の塊を忍ばせることはけっこう言語道断で教授の先生は激怒した。

さらに同じ研究室の女子に嫌がらせをしたということで、色々なことを含めて先輩はもちろん、協力した手下まで謝罪の旅だったらしい。

 

「いやあ、あの時は嫌だったなあ。先輩についていって謝罪するの」

あんた手下だったんかい。ただ、不機嫌な人はもう不機嫌じゃなく、遠い目をしていた。

 

「いつの時代も謝罪は嫌なものですよ。特に自分に非のない謝罪は」 

僕はそう言った。

「まあ、それで誰かが助かるなら意味はあるかもしれないな。あの時だって先輩のためを思ってやったわけだし」

「悔しい気持ちもわだかまりも、きっとキムワイプが拭きとってくれますよ。なにせあれは万能ですから」 

「そうだな」

 

こうして、僕たちを乗せた車は謝罪先へと到着した。 

「さあ謝罪してこようか」 

「いきましょう」

キムワイプとは魔法である。それはその不思議な紙が持つ特性や性能の話ではない。それは科学だ。理系、それも特に実験系の出身なら誰もがそれを知っている、そこにキムワイプの持つ魔法の本質がある。

 

 コミュニケーションの本質

人とのコミュニケーションは本質的に恐怖の克服だ。知らない人とは未知の恐怖なのである。

ではそれを克服するのにはどうすればいいのか。そそれはもう両者間の最大公約数を探すことなのである。

 

ジャングルの奥地に行って、森を抜けると言葉の通じない部族がウホウホと言って焚火の周りを周っていたとしよう。きっと恐怖だ。食人族だったらどうしよう。そうでなくても外から来た人間を殺すかもしれない。

恐怖に震えているとそこに部族の長みたいなやつがやってきた。彼は奇妙な杖を振りかざして言った。

 

「サバの味噌煮定食」

 

何で知っているんだ? まさかこの人は日本に留学していたのでは? そうであったとしてもこの場面で出す単語か? そう思うはずだ。

少なくとも完全なる恐怖から少し話が通じる人、となるだろう。きっと部族の長もなぜ日本語をしているのかしらないが、通じたと安心するだろう。

これがコミュニケーションにおける最大公約数なのである。お互いに共通する話題を探し、そこから発展させていくことこそがコミュニケーションの基本であり、互いに安心感を得る行為なのである。

 

逆を言えば、初対面の人が「出身地はどこですか?」と訊ねてきたらかなりの確率で相手は最大公約数を探している。

それはつまり、こいつとっつきにくいやつ、と思われている可能性があるのだ。

 

とかく、理系出身者はコミュニケーションがとりにくい、などとステレオタイプな印象を持たれてしまいがちだが、だいたいキムワイプの話題を出しておけば間違いない。

知らない人から、ちょっと知っている人、くらいに歩み寄ってくれるはずだ。間違いなく言える。

 

「理系出身者にはキムワイプの話題をなげつけろ」

それだけで随分と違うのだ。

 

僕はあの中学の理科実験室、あの日のあの場所からずっとキムワイプという魔法にかかっている。それは多くの理系出身者も同等に同じ魔法にかかっているのである。それはどんな科学よりも不思議で安心する魔法なのである。

 

 

 

 

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

職場でだれかがミスをしたとする。だが、だれがやったかはわからない。

そんなときあなたは、犯人を探すだろうか。それとも、「犯人探しは良くない」と言うだろうか。

 

わたしの感覚では、後者の方が多いんじゃないかと思う。

 

というのも、「犯人探し=悪」だと考えている人が一定数いるからだ。

でもわたしは、この「犯人探し=悪」という図式に、ちょっと違和感を持っている。

 

ミスした人を吊るし上げることに意味はないが、責任の所在をはっきりさせることは大切だと思うのだ。

 

だれがやったかが問題じゃなくてみんなで気をつけよう

以前働いていた家具屋で、だれかがお客さんの個人情報が書かれた紙を、ポンと食器棚の上に置きっぱなしにしていたことがあった。

 

マネージャーに「気をつけてね」と言われたので、「わたしじゃないです」と答えたのだが、

「だれがやったかが問題じゃなくてみんなで気をつけよう」

と言われた。

 

なるほど、今後同じことが起こらないように、みんなが気をつけることは大切だ。

 

でも、「みんなで気をつける」ことと「だれがやったのかをハッキリさせること」は、まったく別の話じゃないだろうか。

 

マネージャーはただ、全員に注意することで「犯人探し」を避けたのだと思う。

個人情報を放置してしまった「だれか」の責任を追求することなく、全員に注意することでその責任を分散したのだ。

(損害を与えるようなミスではなかったから気にしなかった、という側面もあるだろうが)

 

みなさんも、「犯人探しは良くないことだから」と連帯責任にされた経験はないだろうか。

わたしは上記の例以外にも、チラホラと思い浮かぶ場面があるのだが、そのたびにちょっとモヤモヤしてしまった。

 

責任を明確にするorうやむやにするという選択

犯人探しを忌避するのは、「責めてもなににもならない」だとか、「職場の雰囲気が悪くなる」という考えがあるからだ。

たしかに個人を責めても結果は変わらないし、だれかのミスで仕事が増えたら、雰囲気が悪くなるかもしれない。

 

では、「じゃあ責任をうやむやにしてみんなが疑心暗鬼になるのがいいことなのか」というと、答えは「NO」ではないだろうか。

 

わたしは、原因究明の放棄こそ、良くないことだと思うのだ。

 

犯人探し=悪だから、黙っていれば勝手にみんながフォローしてくれる。

わざわざ自分のミスをカミングアウトする必要もない。そう考える人もいるだろう。

 

まったく関係ないにも関わらず、あたかも容疑者のひとりとして扱われたことで、他の人が不満を持つことだってあるかもしれない。

それはそれで、どうなんだろう。

自分がミスしたならちゃんと謝って事情を説明したいし、だれかがミスをしたなら事情を理解したうえで協力したい。

 

なんとなくうやむやなまま自分のミスがなし崩し的に流れていくのも、だれの尻拭いかもわからないままプラスアルファで働くのも、わたしはイヤだ。

(ミスをしたのなら自分で名乗り出ればいいだけだが、「犯人探しをしない」がスタンダードであれば、あえて名乗り出るかはその人の良心に大きく左右されることになる)

 

責任をうやむやにするのがチームワークなのか

たとえばスポーツの試合の後、どこでも反省会を行うだろう。

それが負け試合だったら、「なぜ負けたのか」「君はこうすると良かった」「君の課題は○○だ」と話し合うはずだ。

 

それを「犯人探し」と言う人なんていない。ただ、次は勝てるように、負けた理由を客観的に分析しているだけである。

 

それを怠って「犯人探しは良くない」とうやむやにし、「次もがんばろう!」と言ったところで、チームがいい方向に進むのだろうか。

少なくとも、コーチやキャプテンがそんなことを言い出したら、コーチやキャプテンとしての資質を疑うだろう。

 

チームワークとは、責任をあいまいにすることでも、波風を立てないために仲良しこよしすることでもない。

目的を達成するために、互いが思っていることを伝え合い、補い合って現状を良くしていくことだ。

そのためには、責任の所在をハッキリさせるという過程も必要になる。

 

過剰に個人を叱責する人がいたり、ミスした人を許さない空気があるとしたら、たしかに犯人探しはいいことではない。

でもそれは「犯人探し」が悪いのではなく、単にその人やその環境に問題があるだけだ。

 

「犯人探し」というより「失敗の精査」が必要。

仕事をするなら、責任が発生する。成功を評価するのも当然なら、失敗を精査するのもまた当然だ。

 

ミスを次に活かしたいのであれば、原因を調べるためにも「犯人」の証言は必要になる。

だれがどう失敗したのかがよくわからないまま、ちゃんとした対策なんて取れないからだ。

 

「犯人探しは良くない」と責任をうやむやにしてしまえば、責任感を持つ人やミスを報告する人が減るかもしれない。

 

だからわたしは、トラブルがあったらちゃんと原因究明するべきだし、責任をうやむやにするのはよくないと思っている。

さて、みなさんはいかがだろうか。

 

 

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

(Photo:Keith Avery

「失敗を恐れるな」

と語る成功者は多い。まるで「失敗は成功のために必須」と言っているかのようだ。

 

例えばユニクロの創業者、経営者である柳井正氏は、著書「一勝九敗」の中で次のように語る。

一直線に成功ということはほとんどありえないと思う。成功の陰には必ず失敗がある。

当社のある程度の成功も、一直線に、それも短期間に成功したように思っている人が多いのだが、実態はたぶん一勝九敗程度である。

十回やれば九回失敗している。

この失敗に蓋をするのではなく、財産と捉えて次に生かすのである。

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しかし、別の意見もある。

 

あるコンサル会社のマネジャーは部下からこう言われた。

「失敗ができるのは、元から信頼されている人だけ」

銀行員のOさんは

「サラリーマンならば、大きな成功を目指すよりも「失敗をしない」ほうが遥かに重要」

と課長から言われた。

Oさんはそれを今でも心に留めており、「失敗を許す組織は実は少ない」という。

実務の現場では「失敗なんてとんでもない、失敗はできるならば避けた方が良い」という主張は根強い。

 

実際、極めて重大なリスクのある局面、例えば医療分野などでは、人は失敗を認めるどころか、必死にそれを「なかったこと」にしようとする。

医療研究の専門家ナンシー・バーリンジャーは著書「After Harm(医療事故の後で)」で、自分のミスを病院に報告する際の医師や医学生の言動を調査した。その結果は驚くべきものだった。

「医学生は、指導者であるベテラン医師たちが、ミスの隠蔽は正しいことだと信じ、それを実践している姿を見て学ぶ」とバーリンジャーは言う。

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なぜなら、大きな失敗は、個人のキャリアを台無しにし、大きな不幸をもたらすからだ。

 

例えばヒューマンエラーという「失敗」により、10名の死者を出した「ユナイテッド航空173便燃料切れ墜落事故」の機長にまつわる話は悲劇そのものだ。

マクブルーム機長は事故後まもなく引退した。それから3年も経たずに妻と離婚、彼が亡くなる8年前の2004年、事故関係者の懇親会が開かれたが、生き残った乗客の一人エイミー・コナーは、そこであったマクブルーム機長をこう描写している。

「とても傷心している様子で(中略)見る影もありませんでした。操縦士のライセンスを失くし、家族を失くして、残りの人生がめちゃくちゃになってしまったんです」

この話を聞けば、無邪気に「失敗しても良い」とは言えない。

実は冒頭の柳井氏も、冒頭の引用文にこう続けている。

「致命的な失敗はしていない。つぶれなかったから今があるのだ。」

 

だが「失敗」をゼロにすることは、原理的に不可能だ。

考えうる限りの注意深さを必要とする、人命がかかった病院や航空機ですら、不可能なのだ。ビジネスではなおさらである。

 

したがって「失敗」の存在は、ピーター・ドラッカーの言うように、前提として考えなければならない。

成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。
それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。

成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。
そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。

人は、優れているほど多くのまちがいをおかす。
優れているほど新しいことを試みる。

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そのためには「一人の失敗」を「組織の改善の種」として活かすことが重要だ。

例えば、ユナイテッド航空の悲劇は、後にパイロットの訓練方法、緊急時のチェックリストの導入、航空機の改良などに活かされ、航空事故率は劇的に下がったという。

 

このように「失敗」は不可避と認め、システム全体で「失敗」を活かす。

この仕組みがあって初めて、「失敗してもOK」と言えるのである。

 

*****

 

ソウルドアウト社代表、荻原氏は「失敗のさせ方にも、致命傷にならないような工夫がいる。」と述べる。

荻原氏:

失敗をさせることは確かに重要です。強い会社の経営陣は、おそらく皆、失敗を経験していると思います。

例えばオリックスです。元CEO宮内氏は「オリックスの役員は全員、失敗を経験している」と聞きました。

失敗は3回まで許されるので、挑戦する風土が出来上がっているそうです。

 

しかし、漫然と失敗させてしまってはいけません。社員が燃え尽きてしまったり、キャリアに重大な傷がついてしまっては元も子もないのです。

ですから、我々は「失敗が致命傷にならない」ため、いくつかのチャレンジに関する原則を設けています。

 

1.強みのない場所では勝負させない

数年前に、弊社で一度「個人商店」の「成果報酬でのリード獲得」ビジネスを手掛けたことがあります。

当時、弊社は「中小・ベンチャー企業」の「Webマーケの広告運用」が得意領域でした。

 

結論から言うと、これは手痛い失敗でした。

個人商店は中小企業とは大きく異るマーケットである上、「リード獲得」も「広告運用」とは別のビジネスです。

ノウハウが貯まれば、と思ってチャレンジしましたが、1年半後、約6000万円の赤字を出して、撤退を決めました。

関わっていた社員も大変な苦労をしたと思います。

 

結局、我々が高い授業料を支払って得た教訓は、「すでに持つ強み」で勝負させる、というものでした。

そうすれば、失敗しても「学習」という果実が得られます。

 

2.「市場があるから」というだけで参入はしない。「顧客がいるから」参入する。

企業の中には、「今盛り上がっているから」「市場があるから」というだけで参入を決める所もあります。

例えば現在は、仮想通貨、IoT、AIなどでしょうか。その他様々な流行り廃れがあります。

 

しかし、我々は「市場があるから」という理由だけで参入を決めることはしません。

なぜなら、担当者が長期間に渡って頑張り続けるには、「大義」と「社内のサポート」が必要だからです。

 

逆に我々は「マーケットがあるかどうかは分からないが、目の前に困っている顧客が居る」という状況であれば、真剣に参入を検討します。

 

目の前に顧客がいれば、皆それをサポートすることを厭わないでしょう。

そうすれば担当者が孤立して「失敗を一人で引き受ける」ようなことにはなりにくいと思います。

 

3.本業で大きく業績をあげた人に託す

そしてもっとも重要なのが、「チャレンジを誰に託すか」という問題です。

弊社では「本業の稼ぎ頭だった人」を充てています。理由はふたつです。

 

まず一つ目は「社内の信頼感」です。

ピーター・ドラッカーも指摘していますが、新しいことはどうしても成果が見えにくく、失敗する可能性も高い。

そこに「社内でそれほど信頼されていない人」を充てるのは、リスクがあります。

新しいものは、実績のある人、ベテランによって始めなければならない。

新しい仕事というものは、どこかで誰かがすでに行っていることであってもすべて賭けである。

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「あの人が失敗するくらいなら、誰がやっても同じだった」といえるくらいの人物を当てなければ、チャレンジはうまく行きませんし、失敗のダメージも大きくなります。

 

そしてもう一つは「後進の育成」です。

本業の稼ぎ頭が抜けた穴を埋めるため、周りの人は必死に働きます。そして、それは人を大きく育てることにつながります。

逆に「稼ぎ頭」がいつまでも同じところに滞留していれば、周りは何時までたってもその人物を頼るでしょう。

それは会社全体としての損失です。

 

失敗には「良い失敗」と「悪い失敗」があります。

経営者の役割は、できるだけ社員が「良い失敗」をできるよう、環境を整えることだと考えるのですが、いかがでしょうか。

 

 

 

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(Photo:darkwood67)

優しさについて考えるきっかけとなったのは、ある施設の話題だった。

 

その施設は、トイレットペーパーや布団のシーツといった備品を利用者が補充している。

利用者が補充するといってもやることはとても簡単で、「もうすぐなくなります」と施設側に伝えるだけでいい。

そうすればあとは施設側が手配してくれるので、最初の一声だけ利用者が発信すればいいという仕組みになっている。

 

ただこれがあまりうまく機能していないらしい。

というのも、利用者がもうすぐなくなるアラートを出すのは自分のためではなく、次に利用する別の誰かのためだからだ。

自分が楽しんでいるときに、次の利用者のことを思って備品の数を見る人はほとんどいない。

 

ある利用者は「自分が『さあ寝よう』と布団を敷こうとしたときに初めて『シーツがない』と気づく。その絶望感を一度体験すると、次使う人のために必ず残りのシーツの枚数をチェックしようと思える。

だがその経験がないと、次の利用者のためを思うことはなかなか難しいのではないか」と言っていた。

 

誰も意地悪な気持ちで「残りの枚数を伝えないでおこう」としているわけではない。ただそこまで気が回っていないだけだ。

そして気が回る人とそうでない人の違いは、「気が回らなかった誰かの影響で、自分がつらい思いをしたことがあるかどうか」にある。

優しい気持ちを持っているかどうか、という「気持ち」の問題ではなく、「経験の有無」の問題だ。

 

この話を「優しさ」と表現するのは若干違和感があるが、次の利用者への思いやりが行動に現れたものだと考えると、優しさの一種といって問題ないだろう。

 

「親切心」はルールや仕組みで代替できる。

私は「優しさ」はざっくりと2パターンに分かれると思っている。

1つは困っている人に声をかけて手助けするといった能動的なもので、上述の話もこれに該当する。「気遣い」や「親切心」と呼ばれる類のものだ。「サービス精神」もこれに近いかもしれない。

もう1つは相手の失敗に対して怒らないといった受動的なもので、「許す心」「寛大な心」などと表現される。

 

施設利用の件は、皆が能動的な優しさをもって行動すれば解決する話ではあるのだが、では全員が『シーツがない』状況を経験すればいいのかというと決してそういう問題ではない。

そんなことは経験しない方がいいし、そういう事態が発生する前に気づいてほしいことだ。

全員が悲惨な経験をしなくても、最後に必ずチェック&報告するような運営にすればいい。工夫次第で解決することは可能だ。

 

能動的な優しさはコントロールしやすいという特徴があると思う。

 

たとえば電車の優先席。あの席は能動的な優しさで満ちている。

では席を譲る人が全員「席に座らないとつらい身体」を経験したことがあるかというと、そうではない。

 

若くて健康で、席に座らないとつらい身体の人の気持ちは正直わからないけれど、優先席って「そういうものだから」譲っている。

大半の人はそんな感じではないだろうか。もちろん、そこに思いやりの気持ちもあるにはあるのだけど、思いやりだけに頼っていたら優先席は機能していない。

優先席では席を譲るものだという“常識”が世間に広まり、「思いやり」×「そういうものだから」=「席を譲ろう」という式になっている。

 

つまり能動的な優しさは、経験の有無にかかわらず生まれ得るもので、制度や仕組みといったもので意図的に作り出すことすらできてしまう。

 

「寛大さ」はその人の人生経験次第。

一方、受動的な優しさはどうだろうか。私は「経験の有無」がもっとも影響を与えるのは、能動的な優しさではなく受動的な優しさに対してだと思っている。

もともと何に対してもあまり怒りの感情が湧いてこないタイプの人は確かに存在している。

でも、大抵の人は自分に対してマイナスの影響を与える何かが発生した場合、多少は苛立ちを覚えたりするものだろう。そんなとき、「お互いさまだよね」とか「しかたないよね」って思えるかどうか。

相手の気持ちになってみる、と口で言うのは簡単だが、経験したこともない人の気持ちを考えるのは結構難しい。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺があるように、自分の経験でさえ、つらいことも時間が経てば忘れてしまう。

まして他人である。他人の経験を自分のことように想像するのは至難の業だ。

 

だが自分が経験したことであれば、相手の立場になって考えることは一気に容易になる。

満員電車で靴を踏まれた。相手に悪気はない。バランスを崩して誰かの靴を踏んでしまったことがある人は、踏まれた瞬間足に激痛を感じながらも相手を責めることはしない。

だって、しょうがないことだから。

 

レストランで注文した料理がなかなか来ない。入りたての店員さんが、注文を伝え忘れてしまったようだ。

アルバイト経験者は、店員さんを責めることはしない。自分がアルバイト中、一度もミスしないで働けたわけではなかったから。

うっかり忘れてしまうことは、誰にでもある。

 

もちろん、仕事でのミスは「うっかり」では済まされないこともあるだろうし、許す/許さないではなくフォロー・改善していくことが求められるだろう。

 

ただ、人と人とが関わっていく上で「お互いさま」の精神は欠かせないものだ。

そして、このお互いさまの精神は、多くのことを経験した人ほど持っているものだと思う。

 

かつて「不機嫌さで相手をコントロールしようとするのは子どもであり、いつも機嫌よくいられるのが大人の条件である」という内容のツイートを見て、どういう意図なのかはわからないが、なるほどと思ったことがある。

機嫌よくいられる人は受動的な優しさの持ち主である。多くのことを経験した「優しい」人は、世の中にはいろんな人がいて、何もかも自分の思い通りにいくわけではないことを知っている。だから機嫌を損ねるのではなく、機嫌よく改善を目指す。そういう人を大人と言う。

 

年月とともに経験は増えていくという意味で、年齢を重ねるほど大人になるというのは間違いではない。

だが、何歳になっても優しさが身に付かない人もいる。それは性格の問題ではなく、経験の問題、つまりどんな人生を歩んできたかということなのかもしれない。

 

何もかもを完璧にこなせる超人か、自分のことを全て棚にあげて世の中を捉えることができる(これもある種)超人か。

いずれにも該当しない常人であれば、経験を積むほど人は優しくなれる。そんな気がしている。

些細なことで腹を立てているうちは半人前。自分に厳しく、他人に優しい人でありたい。

 

 

【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

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Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:Kate Ter Haar

みなさんこんにちは。Books&Apps編集部の楢原です。

 

昔いませんでしたか?

「オレ、ケータイ持つ気ないんだよね」って友人。

新しい技術や製品にすぐに飛びつかないまでも、やがてそれを多くの人が使うようになっても、やっぱり頑なにそれを拒否する人。

なんでだろう?変な人だなあと思ったりもしたのですが、私はある理論を知ってから気にならなくなりました。

 

***


「キャズム」と言う言葉を知っていますか?

「キャズムを超えた」などと使われ、言葉自体はマイナーですが、その意味するところは、日常でもよく使われていて、日本では「ブレイクした」と表現されます。

 

「大ブレイク」と言うと、ミュージシャンや芸能人が急に売れ出すイメージがありますが、今では商品やwebサービスにも広く使われていますね。

最近では、個人売買フリマアプリのメルカリがまさに大ブレイクしました。

 

キャズムとは、イノベーター理論という有名なマーケティング研究から来ています。

その理論は、ビジネスにおいて顧客を「イノベーター」「アーリーアダプター」「アーリーマジョリティ」「レイトマジョリティ」「ラガード」の5つに層に分類することで、新しい商品やサービスがどのように人々に浸透していくのかを分析した理論です。

マーケティング業界ではとてもよく知られた理論です。

[amazonjs asin="4798113336" locale="JP" tmpl="Small" title="イノベーションの普及"]

 

新しい商品が世間に浸透していく時、まだ本当に価値があるかどうかわからないものを、「これは絶対にいい!」と信じ「やっちゃえ」と実際に創ってしまう人たちがいます。

さらに、そのような人たちが創ったものを「スゲー」と言って、デメリットにはひとまず目を瞑り、すぐに飛びつく人たち

それらの人々が「イノベーター」と呼ばれる人々です。市場の2.5%ほど存在するとされています。

例えると、初代iPhoneを買うような人たちですね。

 

次に現れるのが、一般的には前のめりすぎてイかれちゃってると思われてるイノベーターが飛びついている新しいモノを自らの目と頭で判断し購入する目利きのような人たちです。

オピニオンリーダーとも言われたりもします。それは「アーリーアダプター」と呼ばれ市場の13.5%存在します。

ちょうど、iPhone 3G,3GSを購入した人たちと言えばいいでしょうか。

(おまけ情報:iPhone 2は存在しません。初代iPhoneの次は、初の3G回線使用とiPhone 3G。次に3GSが発売され、その次にiPhone 4が出た)

その次に現れる層は「アーリーマジョリティ」です。

オピニオンリーダーの言動をチェックしたり、情報感度が高いながらも実際の購入には慎重な人たちです。市場の34%存在します。

 

ここは重要な分岐点になります。

なぜならば、このアーリーマジョリティが行動し始めた時こそが「大ブレイク」の始まりだからです。

まさに、iPhone 4,4sが発売された時期です。特に日本ではiPhone 4sで一気にブレイクしたのでした。

 

はじめてスマホを購入する時って、勇気いりませんでしたか?

当初はスマホでなくて困ることはなかったですし、新しいモノに変えることで不便になるかもしれないなんて想像したりして。

でも、初代iPhoneやiPhone 3Gを購入した人たちが、iPhone 4への機種変更する時って、全く勇気はいりませんでした。

iPhone 4によって、今までの体験が飛躍的にアップすることが、容易に想像できたからです。

むしろ「早く下さい。お金はすぐに払います!」状態になっていました。そう、いわゆる信者です。(僕です)

 

(容易に洗脳されたりしない)一般の人たちは、信者のそのような行動を注意深く観察し、

「この製品はどうやら本当に良いものらしい」と感じ一気に動き始めるのです。

 

それを「キャズム」を超えると言うのです。

キャズムとは、「溝」と言う意味ですが、超簡単に言ってしまうと、熱烈なファン(俗称:信者)と一般の人の溝のことなのです。

iPhoneは、iPhone 4でキャズムを超えiPhone 5でアーリーマジョリティへ一気に浸透して行ったのです。

 

さて、キャズムを超えアーリーマジョリティへと浸透することで顧客となるべき人の50%を掴んだことになります。

その後に登場するのは「レイトマジョリティ」です。

この層は、自分の判断に自信がなかったり、もしくはそれについて考える時間が勿体無かったりして「とりあえず皆が使っているもの」と言う理由で新しいモノを導入する人たちです。

製品の良し悪しについては、ほぼ正解が出ている状態での購入なので、そう言う意味では極めて正しい判断です。市場の34%存在します。

このレイトマジョリティ層まで普及すれば、世の中のほぼ全ての人が知っている状態となります。

iPhone 6以降です。

 


残りの層は「ラガード」と呼ばれます。

残りの16%は、いろいろ判断をした上で敢えて購入をしない人たちです。

例えば、業界通のガジェットマニアにとっては、万人向けに改善され続けたiPhoneよりも、技術的に冒険をしているGoogle Pixel 2の方が魅力的に映り、iPhoneはすでに選択肢に入ってなかったりします。有り体に言うと「アンチ」ですね。(そのような状況の中で、一般人には理解不能なiPhone Xの発売はマーケティング的に大正解だと思います

 

残りの16%のラガードに関して、示唆に富む面白い指摘をしている記事がありましたので最後にご紹介します。

少数の非難や批判を必要以上に大きく捉えちゃって、どんどん状況を悪化させてしまう系案

例えば、記事に対するはてなブックマークの反応が100あったとして。その反応の割合として典型的なものは、経験則としては

・無言:40% 〜 50%

・賛意、ないし好意的な反応:30% 〜 40%

・反対、ないし批判的な反応;5% 〜 10%

・内容を踏まえているように思えない理不尽な罵詈雑言:1% 〜 5%

割とこんなもんです。


Books&Appsに定期的に寄稿して下さるしんざきさんが、ご自身の記事を分析した結果、内容が好意的な記事であっても、その70〜90%はポジティブな意見(SNSコメントなど)が占めるが、必ず5%〜15%ほどはネガティブな意見があると述べているのです。

そう、その「ネガティブな意見」が、まさにラガードの16%の割合とほぼ一致しているのです。

 

さらに注目すべきは、そのネガティブな意見の中に、

「内容を踏まえているように思えない理不尽な罵詈雑言」が全体の1% 〜 5%%いると述べているところです。

 

これはまさにまさに、2.5%のイノベーターと全く反対の行動をする人たちの事で、新しいモノならすぐ飛びつく人がいる一方、「何を言っても必ず反対」の行動をする人たちがいるのです。

今では、スマホそのものが一般的に普及しましたが、そのような状況の中でも、未だ否定的で、中には頑なにスマホを持つことを拒否する人たち、誰でも一人くらいは出会ったことありますよね?

 

最後にしんざきさんはこのように述べています。

で、「あ、これは真剣に相手すると疲れちゃいそうだなー」と思った批判や非難については、「まあこれだけ味方してくれてる人がいるし」ということで、軽やかに流させて頂いていますし、受け止め過ぎて潰れちゃうくらいなら皆さんそうした方がいいんじゃないかなーと思うわけなんです。


まあ、結局そういうことなんですよね。

全ての意見を、受け入れると言うことは本質的に無理ということです。

 

「オレ、ケータイ持つ気ないんだよね」と言ってたアイツ、今なら簡単に受け流せます。

むしろ、未だケータイを持たないままでいることを祈ってます(笑)。

 

無料セミナーやってます

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マンツーマンのプログラミング技術指導サービス「侍エンジニア塾」を主宰する、木内です。

(左:木内 右:花木)

「働き方改革」において、リモートワークを推進する会社が増えています。

リクルート、カルビー、トヨタ、味の素……

有名企業、大手企業が次々に、リモートワークの導入に前向きであることを示しています。

 

また、我々のようなスタートアップ企業ではさらにもう一歩踏み込み、

「オフィスがない(または極めて小さい)企業」

を志向する会社も少なくありません。

 

実際、我々にもオフィスはありますが、規模は極めて小さく、コラボレーションやディープワークのインフラとして供給するだけにとどまっています。

もちろん「オフィスに来なければならない」という義務は一切ありません。

その結果、90%の社員がフルリモートワーク、10%の社員がほぼリモートワーク、という状態になっています。

 

「オフィスなし」はコスト削減のためではない

このように話すと、「コスト削減のためでしょう?」という方がいます。

確かにそういった側面からオフィスレスを実施しているスタートアップもあるかもしれません。

 

しかし、十分に利益を出しながら、敢えてオフィスレスを選択する。

そういう会社も数多くあります。

なぜ敢えて「オフィスレス」を選択するのか。

それは「オフィスのない会社」にしたほうが、生産性が高く、チームワークを良く保てるからです。

 

これは妄言ではありません。

れっきとした、事実です。

 

例えば世界的に有名なwebアプリケーションフレームワーク、Ruby on Railsを開発した37シグナルズという会社があります。

Ruby on Railsは、その開発効率の高さから国内外の有名サイトで数多く用いられており、一種のスタンダードとして定着しています。

 

その開発元である37シグナルズは「会社にいると仕事ができない」と断言しています。

なぜ会社にいると仕事ができないのか

本当に集中して仕事がしたいとき、あなたはどこへ行くだろう?まわりの人間に、そうたずねてみてほしい。

「会社」と答える人は、ほとんどいないはずだ。

仮に「会社」だとしても、何らかの条件つきのことが多い。思いきり早起きして誰もいないうちに出社するとか、みんなが帰ってから夜中に仕事をするとか。あるいは「週末の誰もいない会社に忍び込む」というパターンもある。

要するに、会社にいたら仕事ができないということだ。

本当に仕事がしたい人にとって、昼間の会社ほど最悪な場所はない。なぜかって?会社は邪魔に満ちているからだ。(中略)

 

そこで、リモートワークの登場だ。会社の外にいれば、誰にも邪魔されないで思いきり仕事に集中できる。

会社の雑音から離れるだけで、生産性は格段にアップするはずだ。本当に仕事がしたかったら、会社なんかに行かなければいい。

[amazonjs asin="4152094338" locale="JP" tmpl="Small" title="強いチームはオフィスを捨てる: 37シグナルズが考える「働き方革命」"]

彼らが述べる通り、20世紀に主流だった仕事をする場「オフィス」はもはや、生産性の高い場所ではなくなっています。

 

そもそも、アイデアやクリエイティビティを要求する仕事は、「皆が顔を合わせる」ことの弊害も大きいのです。

例えば、英国国営放送BBCが報じたところによれば、「コミュニケーションを活性化する」目的で、ドアやパーティションを取り払われたオフィスでは、人々の生産性は15%も低下します。

Why open office are bad for us BBC.com)

その主たる理由は、「邪魔が入って集中できない」。

パーティションや個室を設ける従来型のオフィスに戻す企業も増えており「オフィスでは仕事できない」と嘆く人もいるとのこと。

 

だったら、最初からオフィスなどなくしてしまっても良いのではないでしょうか。

 

高度な知的生産を行う企業はすでに、リモートワークを積極的に取り入れています。

AT&T、マッキンゼー・アンド・カンパニー、インテル、シスコ、デロイト、メルセデス・ベンツ、ドリームワークス、米国教育省、ヴァージン・アトランティック航空、Github……

もはや世界中でリモートワークの時代が到来していると行っても、過言ではありません。

 

「オフィスなし」でチームワークを保てるのか?

「そんなこと言っても、会社は人対人だから、チームワークのためにオフィスは必要だろう」という人もいるでしょう。

なるほど。もっともらしく聞こえますが、本当にそうでしょうか?

 

御存知の通り、オフィスを持っていてもチームワークの悪い会社はたくさんあります。論理的に考えれば、オフィスがある=チームワークが良い なんてことはあるはずがありません。

 

そもそもチームワークはどのように生まれるのでしょう。

無駄話ができるから?

顔が見えるから?

一緒にランチをとれるから?

もちろんこれらも要員の一つではあるでしょう。しかし、本当に重要なのはお互いが「きちんと仕事をしている」という信頼関係があるからではないでしょうか。

チームワークは成果と信頼から生まれるのです。

 

会社は仕事をする場であり、喫茶店でや居酒屋ではありません。

仕事をしない人がいると、

「あいつは上司にへつらってばかりで、仕事をしていない」とか

「彼は怠けている」

「タバコ休憩が多すぎる」

といった、どうでもいい噂が立ち、成果に関係のない「イメージ」や「雰囲気」によりチームワークに亀裂が入るのです。

 

逆に、リモートワークにおいては「イメージ」や「雰囲気」は些細な事に過ぎません。肝心なのは「仕事の成果」です。

実際、上で紹介した37シグナルズでは、こんなことが言われています。

リモートワークのメリットの一つは、仕事そのものが評価の基準になることだ。

1日中そばにいて見張っている環境では、些細な勤務態度が成績評価に影響してくることも多い。

「9時ぴったりに席についていたか?」

「休憩が多すぎないか?」

「通りかかるたびにフェイスブックを開いている気がするぞ」

マネジャーはいつも、そんな些細な問題に気を取られてしまう。仕事ではなく、印象でその人の評価が決まってしまうのだ。

でもリモートワークならそんなことは気にならない。

大事なのは「今日何をやりとげたか?」ということだけだ。何時に出社して何時に帰ったかは問題じゃない。どんな仕事をしたかが問題なのだ。

あなたがマネジャーなら、部下に「今日やった仕事を見せてくれ」というだけでいい。給料に見合うだけの仕事をしているかどうか、その目で確かめるのだ。それ以外のささいなことは、会社にとってはどうでもいい。

とてもシンプルで、明快だ。

生産性が高く、お互いに敬意を払えるような環境であれば、チームワークの心配は不要です。

 

リモートワークの鍵は「社員」と「会社」の間で3つの決め事をすること

我々も「リモートワーク」が主体の会社です。

実際、弊社で働いてくれている人たちは総勢で100名以上いますが、冒頭で述べたようにその内の90%は完全にリモートワークとなっています。

 

人からは「極端ですね」と言われることもありますが、私は19歳、学生の時からずっとリモートワークをしており、最も生産性が高く保てる働き方であると確信しています。

むしろ「オフィス恐怖症」といっても良いくらいです(笑)。

 

集中力が落ちてきた時に無理をして働いても決して良いものはできません。

むしろ昼寝してしまったり、散歩してしばらく仕事から離れてみると、むしろ効果的に仕事ができます。

 

そんなわけで、私は一緒に働く仲間をオフィスに縛り付けたくはありません。

「社員」というよりもむしろ、リンクトインの創業者、リード・ホフマンが言う「アライアンス」(共通の目的を持つメンバー)と思っており、働く場所も自由に選べるべきだと思っています。

そのために必要なのは、次の3つを「会社」と「メンバー」との間で共有することです。

・会社が期待する成果

・メンバーが期待する成果

・成果を出すまでの期限

 

例えば弊社のメンバーの一人に花木という人物がいます。

花木は弊社と次の取り決めをしています。

・会社はオウンドメディアの立ち上げを期待する

・花木は「オウンドメディアを立ち上げた」という実績と、オウンドメディア立ち上げのノウハウを弊社から得る

・期限は2年間

このように取り決めておけば、花木がどこで仕事をしていても自由ですし、お互いにWin-Winの関係になることができます。

これこそ「リモートワーク」の次の形ではないでしょうか。

 

実際、花木は弊社の活動とは別に、自分自身で金融リテラシー向上のメディアを立ち上げ、月400万円以上の売り上げをあげています。

その一方で、弊社の長期ビジョンに共感してくれてもおり、弊社の経営層として参画してくれています。

KPIで成果を可視化したり、PDCAの回し方の仕組みが整備されたりしていれば、社員との信頼関係はオフィスに来なくとも損なわれることはありません。

 

ヴァージン・グループの総帥、リチャード・ブロンソンはこんな記事を書いています。

One day offices will be a thing of the past

In 30 years time, as technology moves forward even further, people are going to look back and wonder why offices ever existed.

(30年後、更にテクノロジーが進化した時、人々は過去を振り返り、なぜオフィスなんてものがあったのかを不思議に思うだろう)

我々も全く同感です。

さて、いかがでしょうか、弊社では上のような経験を踏まえて、フルタイム、リモートワーク、パラレルワークと柔軟な働き方を応援しています。

実際、多くの社員が満員電車や、閉鎖的なオフィスワークから解放されたことで生産性と幸福度が上がったという声があがってます。

 

90%の社員がフルリモートワーク、10%の社員がほぼリモートワークである、弊社で我々と一緒に働いてみたい、という方、弊社に遊びに来ませんか。

木内と花木が、お話を伺います!

▼コンタクトフォーム

こちらからご連絡ください(Googleフォーム)。Wantedlyからお声がけいただくこともできます。(https://www.wantedly.com/projects/171789

(募集中の職種:コンサルタント営業、インストラクター、インフラ・開発エンジニア、デザイナー、ライター、webディレクター、マーケター、人事等)

▼コーポレートサイト
http://www.sejuku.net/corp/

 

***木内プロフィール***

株式会社 侍 代表取締役CEO

小学5年生でゲームを創るためにプログラミングをはじめる。19歳でフリーランスエンジニア、22歳で日本初のプログラミングマンツーマン教育サービスで起業。

プログラミングスキルで人生を切り拓くをコンセプトに"侍エンジニア塾"の経営。指導実績数は6000名以上。

 

***花木プロフィール***

株式会社 侍 取締役

静岡県出身 東京都市大学卒業。営業・コンサルティング業を経験した後、2015年侍エンジニア塾に入社。同社オウンドメディア立上げに参画しメディアディレクターとして、ブログ記事の編集・執筆・企画・ディレクション・データ解析業務に従事。

コンテンツマーケティングを軸とした「質の高い情報」を発信することをモットーにメディア運営を行い、1年で157倍、2年で446倍の流入数アップを実現。

2017年、個人で始めたファイナンスメディアを法人化。月間10万PV、月商400万円を達成。


 

(Photo:SoulNibblerChina

今日、科学技術と経済のグローバル化により、「貧困」は激減した。

ウソではない。

世界銀行によれば、二〇〇五年からの3年間で、サハラ以南のアフリカからラテンアメリカ、アジア、東ヨーロッパにかけて貧困者の割合が急激に下がっていることがわかる。

また、貧困諸国の急激な経済成長と、その結果生じる貧困の減少は、「グローバル中間層」の増加も後押ししている。世界銀行によれば、二〇〇六年以降、二八カ国のかつての「低所得国」が、いわゆる「中所得国」の仲間入りを果たした。

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喜ばしいことだ。人類の悲願である「貧困撲滅」が現実になりつつあるのだ。

 

だが、我々の感覚と上の話は一致しない。あいも変わらず「貧困」は話題となっている。

それは、世界銀行の言う「貧困」と、我々が思う「貧困」が異なるからだ。

 

我々が今問題にしている貧困は「相対的貧困」つまり、格差に由来する問題である。「飢餓」や「死」と関連する、絶対的な貧困ではない。

隣の人と自分の比較によって幸福にも不幸にもなる生き物が、人間なのだ。

 

「金を持っていない私」と「金持ちの彼」

「ブラック企業の私」と「一流企業の彼」

「パートナーのいない私」と「配偶者を手にした彼」

 

つまり、実は問題は「貧困」ではない。問題なのは「成功」と「敗北」だ。

 

現代はあらゆる人間が成功者たることを期待される

ドラッカーは「現代は、あらゆる人間が成功者たることを期待される」と述べる。

知識社会は、上方への移動に制限がないという初めての社会である。

知識は、相続も遺贈もできないところが他の生産手段と異なる。あらゆる者が自力で獲得しなければならない。誰もが無知の状態からスタートする。

 

知識は、教えることができなければならない。すなわち、公共のものである。誰でもアクセスできる。あるいはただちにアクセスできるようになる。

この事実が知識社会に高度の流動性をもたらす。

今日では、誰でも学校で知識を身につけられる。徒弟として親方に仕える必要はない。(中略)

 

知識社会では、この上方への移動が、かつてのアメリカよりもさらに前向きに捉えられる。

上方への移動に対する阻害要因はすべて差別としてしりぞけられる。

このことは、あらゆる人間が成功者たることを期待されるということを意味する。

 

かつての世代にとっては信じられない考えである。もちろん、際立った成功をする者はわずかである。

しかしネクスト・ソサエティにおいては、ある程度の成功はあらゆる人間に期待される。

[amazonjs asin="4478190453" locale="JP" tmpl="Small" title="ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる"]

現代は「飢えて死ぬ」という危険は極めて少ない。

だが皮肉なことに、貧困が解決されればされるほど「敗北」はさらに深刻だ。

 

「大学すら入れないの?」といわれ、

「なんで努力できないの?」といわれ、

「全くお前は無能だな」と、世の中から言われ続ける(ように感じる)。

 

そう考えれば「成功できない」ことは、「飢えて死ぬ」のと同程度に人に不幸をもたらす可能性がある。

知識社会に特有の上方への移動は高い代償をともなう。それは競争にともなう心理的な圧力と精神的なストレスである。敗者がいるからこそ勝者がいる。

昔の社会はそうではなかった。無産者の子は、無産者であっても敗者ではなかった。

 

「誰もが成功する世の中」をつくることはできるか

では、「誰もが成功する世の中」を作ることはできるのだろうか。

 

残念ながら、今のところその問いに対する答えは「No」である。

なぜなら、「成功」とは「自分の事を羨ましいと思う誰か」を必要とするからだ。

これについては、内田樹氏の洞察が本質をついている。

成功について

「成功」というのは、上で述べたように「他人の判断」ですので、他者に依存しています。

極端な例を挙げれば、人類が死滅して、世界最後のひとりになった人間が「私は幸福だ」という自己評価を下すことは(蓋然性は低いですが)不可能ではありません。

けれども、その人が「私は成功者である」と自己評価することはありえません。

というのは、ここには「あなたは成功者である」と評価する他者が存在しないからです。

 

成功というのは、「できることなら、あなたと立場を代わりたい」という、「成功していない人間」の欠落感や、羨望を(仮説的にではあれ)勘定に入れない限り成立しない、ということです。

「成功者クラブ」があって、そこでは全員がおたがいを「成功者」として認めあっている場合でも、「クラブ」のそとに「われわれを羨んでいる人々がいる」ということをメンバーたちが前提していなければ、それは「成功者クラブ」とは呼ばれません。

 

ですから「全人類が幸福になる」ということはありえますが、「全人類が成功する」ということは成り立たないと思います。

つまり、原理的に「全員が成功する(勝者となる)」は不可能だ。

それだけではない。

ただでさえ希少な「成功」は、非常に多くのリソースを要求する。

「才能」「環境」「運」だ。

 

例えば知能や行動特性は、遺伝による「才能」により大きく左右される。

「やり抜く力」や「才能」など、人生の成功に関わる心理学的な特徴は、遺伝子と経験の影響を受ける。

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また、環境も成功に大きな影響を与える。

知識を得るためには良い学校、企業に入る必要があるが、良い学校や企業に入るためには「良い家庭環境」に恵まれた人物が圧倒的に有利だ。

低学力層の子どもの保護者は、「ほとんど毎日、子どもに『勉強しなさい』という」「テレビのワイドショーやバラエティ番組を見る」「携帯電話でゲームをする」「カラオケに行く」などの割合が高くなっています。

(ベネッセ教育情報サイト http://benesse.jp/kyouiku/200909/20090907-2.html)

まず、父母ともに「勉強するように言う」のはあまり効果がありません。むしろ、母親が娘に対して「勉強するように言う」のは逆効果になっています。

「勉強するように言う」のは親としても簡単なのですが、この声かけの効果は低く、ときには逆効果になります。

エネルギーの無駄遣いなので、やめたほうがよいでしょう。

逆に、「勉強を見ている」または「勉強する時間を決めて守らせている」という、親が自分の時間を何らかの形で犠牲にせざるを得ないような手間暇のかかるかかわりというのは、かなり効果が高いことも明らかになりました。

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子供に本を読み聞かせ、勉強したか確認をしている親がいる家庭のもとで生まれた子供と、テレビのワイドショーばかり見て「勉強しなさい」とだけ言う親のもとで生まれた子には学力に差がつく。

 

「交友関係」も成功のためには吟味しなければならない。

例えば、「だれと付き合うか」は、子供の人生を決定する上で最も大きな影響を与えることの一つだと、心理学者のジュディ・リッチ・ハリスは述べる。

私なら、子どもが拒絶される危険を冒してでも、自分の知りうる最高の学校、頭のよい、勤勉な生徒のいる学校に子どもを入学させるだろう。

本を読み、A評価をもらってもそれをからかう人など誰もいない学校だ。

現代社会で成功したいなら、無学な親のもとで生まれることは、非常に不利な状況に置かれるとデータが証明している。

 

もちろん、成功のためには「運」も必要だ。

経済学者のロバート・H・フランクは実験を行い、成功のためには「強運」が必須の条件であると示唆した。

巨額の賞金が用意され、大勢の競争者が集まれば、きわめて有能で勤勉な者が勝者になるのはまず間違いない。

しかし次章で見るように、競争者をくらべてみると、勝者がだれよりも有能で勤勉であることはあまりないのだ。

また、運の果たす役割がごくわずかな競争においても、ほぼ必ず、最も幸運な者が勝者となる。

結局、小さな偶然のできごとが経済的報酬に大きな差を生み出すことが、かつてないほど増えているのである。

[amazonjs asin="4532357233" locale="JP" tmpl="Small" title="成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学"]

成功は、「才能」「環境」「運」に恵まれた、ごくわずかの人々のものである。

 

「誰もが成功できるように見える」からこそ、現代社会は苦しい。

今の社会は「だれでも成功できる」という幻想を教育制度を通じで普及させた。

近代社会は、親の職業を継がなくてよい社会、結婚も自由にできる社会である。また、自由主義、資本主義社会は、企業社会でもある。

能力さえ発揮すれば、企業の中で地位を上げ高収入を稼ぐことができるし、自分で企業を興すこともできる。実力(才能プラス努力)によって、生活水準を上昇させ、格差をつけたり、今まで存在した格差を解消することが可能になる。

機会が均等でありさえすれば、誰でも企業家として成功でき、雇用者も実力で出世できるという社会が近代社会だとすると、建前上は、生活水準の格差は、実力の反映であるという解釈ができあがる。

そして、近代社会の格差の正当性は、この点、つまり、生活の格差は、実力の差であるから「納得するべきである」というイデオロギー(これをメリトクラシーという)に依存している。

[amazonjs asin="4480423087" locale="JP" tmpl="Small" title="希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く (ちくま文庫)"]

今の成功者は「成功したのは自分の能力と努力の賜物だ」と言うかもしれない。

 

だが、殆どのデータはそれが単なる「後知恵バイアス」であることを事を示している。

もしかしたら本当に努力と才能の賜物だったのかもしれないが、単に運が良かっただけなのかもしれないのだ。

 

例えばプロスポーツ、受験などは、同年齢の中で「早く生まれた子」が圧倒的に有利である。

早く生まれた子は、最大で12ヶ月、同年齢の子供に比べてアドバンテージがある。その結果、良いチームに所属できたり、良い学校に進むことができたりすれば、その後はあたえられた環境が更に彼らの間の格差を拡大する。

こどもは「いつ生まれるか」を選べない。これを運と言わずして、なんと言えばよいのか。

 

現代社会では「誰もが成功できるように見える」が、実際には成功の可否は実力よりも運に依る部分が遥かに大きい。

これはデータが証明する事実である。

 

*****

 

コンサルタント時代、私が訪れた企業の経営者の中に、このように言う方がいた。

「優秀な人だけを集めれば、会社は楽に運営できます。でも、それは世の中に「タダ乗り」しているだけであって、経営をしているわけではない。」

「なぜですか?」

「優秀な人だけが恩恵を得られる、というのはものすごく不公平なことだからですよ。」

「……どういうことでしょう?」

「若い人にはわからないかもしれませんね。でも私のように年をとると、「私がそれなりに成功できたのは、運が良かっただけだ」と痛感するんです。私にはそれを世の中に還元する義務があるんじゃないのか、って思うようになるんですよ。」

「では、どうすべきでしょう。」

「平凡な人が、大きな成果を出せるようにすること。それが経営者の真髄だと思いますね。」

 

 

最近、彼の言っていたことが40歳を超えて、わずかだがようやく理解できるようになってきた、と感じるのだ。

 

 

 

 

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(Photo:catherinedncr

こんにちは。ソリマチ株式会社AT開発3課の内山です。

現在2年目、新卒で入社したエンジニアです。

働き始めて1年半、働く前と後で何が変わったか?と聞かれるのですが、正直、多くは予想通りというイメージです。

仕事の内容、会社の雰囲気、就職活動で感じたことと大きく差はありません。

 

ただ、大きく認識が変わったことが一つだけあります。

それは「自分の限界を見極めることの重要性」です。

平たく言うと限界を超えたときには「自分にはできません」と、きちんと言うことが、会社の仕事では大事だということです。

 

働く前は「できません」と言ってはいけないと思っていた

でも「できません」なんて、会社でほんとに言っていいのでしょうか?

実は、入社前は、正反対のことを思っていました。

 

会社はとても厳しい場所で、任されたことはなんとしても自分で解決しなけりゃいけない。

納期は守って当たり前で、できなければ責任を取らされる。

頑張るのが義務。

「できない」なんて言おうものなら、とても許されない、そういうイメージを社会人に抱いていました。

 

でも、入ってすぐに「全く正反対」なのだ、ということに気づきました。

先輩がこう言ったんです。

「できないなら、絶対に言わないといけない。負担を一人で背負い込む必要はない。」

「仕事はいくらでも代わりはいる。そのための組織であり、チームがある。だから必要以上の無理はしない。」

 

信じられます?

本当にそう言われたんです。

でも、よく考えるとこれ、「社員に優しい会社だから」「社員の為を思って」だけではないと思います。

実は合理的。

 

チームの仕事は「限界を超えてできないものはできない」が原則

なぜかと言えば、大前提として、根底に「個人の能力を超えてできないものはできない」という考え方があるからです。

スポーツと同じです。100メートルを9秒台で走れ、といわれても、普通の人にはできません。

いくら言われても、厳しく管理されても、できないものはできない。

 

だからその場合は、仕事のアウトプットとして

「自分ではできない」というアウトプットをしなければなりません。それが、仕事というものです。

 

そのために2点、重要な事があります。

1点目は、「できること」と「できないこと」の見極め。

これは進捗を細かく可視化することで可能になります。例えばこの時点までにここまで進んでいなければ、「できない」とみなすというルールを設定することで可能になります。

 

2点目は「できない」といえる雰囲気をチームで作ることです。

技術の無さ、知識の無さをバカにしてしまう雰囲気を作ってしまうことは、組織化の敗北だと個人的に思います。

技術者の仕事は他のどの仕事よりも、

「できる」と「できない」がはっきりと分かってしまう世界です。

 

考えようによっては運の要素がない分、営業よりもシビアに成果が見られます。

だからこそ周囲はメンバーが「できないこと」に対して、それが気兼ねなくオープンになる状態を作らなければならないのではないでしょうか。

 

学生時代は「プログラミング」を殆どやったことがなかった

と、偉そうに言ってきましたが、私は学生時代、ほとんどプログラミングに触れたことがありません。

専攻していたのは工学系、それも「通信技術」についてでした。

 

無線通信が一般的になり、電波の周波数帯が貴重な「資源」となっている今、なんとか従来では利用できなかった周波数帯を有効活用できないか、というテーマで研究をしていたのですが、ただ、卒業後の進路は「コンピュータが好き」と「ソフトウェアの仕事は自分が死ぬまでなくならないだろう」という2つの理由から、エンジニアの道を歩むことにしました。

今振り返れば、この選択は正解だったと強く思います。

自分の手の中に、食べていくだけの技術がつくことは、これからの人生に大きなゆとりと安心をもたらすからです。

 

ただ、「新卒の3分の1は、3年以内に会社を辞める」と聞きます。

周りの知人、友人を見ても、全くその通りの傾向です。「若い人がすぐに辞めてしまう」と嘆く会社が多いのも納得です。

 

でも、それは「若い人」が悪いわけではないと思います。

前述したように、多分みんな、仕事は「頑張らないと」と思っているのは事実です。

辞めてしまうのは、今の職場にいても不安だらけ、今のやり方が良いかどうかもわからず、皆「自分の将来」の安心につながるように行動しているだけではないでしょうか。

 

そういう意味で、私は今のような

「新人が「できません」と言えば、必ずサポートがある環境」

を享受できていることは、会社に非常に感謝しています。

 

 

 

現在、弊社では新卒・中途採用ページを開設し、募集しております。

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(Photo:Michael Wacker)

最近読んで大変感服した本の1つに藤原さんという方が書かれたカネ遣いという教養という本があるのだけど、この本の中で大変感心したエピソードの1つに「自分の心は自分以外の何ものにも支配されない自由なものである」という話がある。

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あるとき藤原さんが電車を降りようとした時、乗り込んできた酔ったオッサンに理由もなく怒鳴られ非常に強い怒りを覚えたのだという。

普通なら怒り心頭になりそうなものだけど、なぜかそのとき藤原さんの頭のなかで「この怒りの感情を逆転させると面白そうだな」という天啓が閃いたそうだ。

 

そしてそれを実行し終えた後「怒りも喜びも自分の心のあり様次第でいかにでもコントロール可能である」という事に気がついたのだという。

 

これはぶっちゃけ凄い話である。このエピソードを読むためにもこの本を買う価値がある。

どういう事か具体的に説明していこう。

 

この場面で言えば酔っ払ったオッサンのちょっかいにより筆者は気分を害されたわけだけど、その後に一日中気分が悪くなるかどうかを決めるのは自分だ。

確かに怒りの原因は酔っぱらいオジサンにある。

けど、そういう人間に絡まれたとしても、その後も怒り続けるかすぐ忘れるかを決める事ができるのは、繰り返しになるが自分だけなのである。

 

つまるところ他人には究極的には絶対に自分の心をコントロールする事などできないのである。自分の心のあり様を決める事ができるのは、自分だけなのだ。

 

テレビに怒る人たち

このエピソードを読んでいた時、僕はたまたま会うと不平不満ばかりを口にするタイプの人と交流があった。

 

ある時、この方と一緒に行動する機会があったのだけど、これらの人達の現実の捉え方は実に興味深い。

「よくもまあそんなそんなどうでも良い事を・・・」とこちらが思うような部分をいちいち見つけてきて、勝手に怒り始めるのである。

 

この人はよく「私は運が悪い。世の中はちっとも私に優しくしてくれない」と言うのだけど、そりゃそういう風に現実をみているからそうみえるのである。

 

その人は客観的にみれば正直かなり恵まれているサイドの人間だし、そういう点をいくつもいくつもあげて説明はしてみるのだけど、やっぱりその方の認知が変わることはない。

一体、この方の認知をこうも狂わせた原因は何なんだろうか?やっぱし性格なのだろうか?

 

実はこの人に似た人は世の中にたくさんいる。

たぶん一番多いのは、テレビに向かっていっつも怒っている人達であろう。あれは傍から見ていると実に不思議な人達である。

 

僕は昔からこの手の人達の行動原理が不思議で不思議で仕方がなかったのだけど、よくよく考えてみると実は自分も似たような感じの事をしていた時期があった。というか学生時代の自分は実際のところ不平不満ばかり口にしている人間であった。

学生時代の自分が今の自分をみたら、たぶんあまりにも性格が豹変していて自分とはとても信じられないだろう。

 

一体、不平不満ばかり述べていた学生時代の自分と、全くその手の事を言わなくなった今の自分の間に何の差があるのかを考えてみると、実のところ悪態をついてばかりの人の問題点は認知の問題だけではない事にようやく気がついた。

端的に言ってしまうと、一番問題なのは、人生における自由度と義務の比率の問題なのである。

 

学生時代の自分は本当に苦しかった。

何が苦しかったって、やっぱり親の金で生活しているから、親の言うことを聞かなくちゃいけないというのが何よりも嫌だったのを今でも覚えている。

「誰のお陰でご飯が食べられると思ってるのだ」と言われると、子供は何も反論ができない。

 

これに加えて訳の分からないルールでがんじがらめにされた学校や部活での生活がまた苦しかった。

特に大学時代は武道系の部活に所属していた事から、先輩の言うことは絶対という理不尽極まりない環境下におり、毎日毎日他人の悪口しかいってなかったような記憶がある。

 

多分だけど、世の中にたり不平不満を言っている人というのは、学生時代の僕と同じような苦しみを今も抱えているのではないだろうか。

満員電車に揺られ、会いたくない上司や取引先に向かう事を、給料という生活の担保の獲得の為に強要される生活は、端的にいって地獄だ。

そんな生活をしてたら心が苦しくなるのだから、そりゃ普段目にみえるものが怒りで塗り固められたとしても、全く不思議ではない。

 

だからこれを読んでいるあなたが仮に割と不平不満をいってしまうタイプであり、かつそういう状況から抜け出したいのならば、まずはあなたの人生における自由と義務の度合いをどうにかして増やす事から初めてみてはいかがだろうか?

もちろんそれが簡単ではないから、多くの人は苦しんでいるのであり、正直なところ結構難しいとは思うのだけど、たぶん脱出ルートはそこにしかない。

 

その後、ゆっくりと認知をよいものにだけ向け、くだらない煩わしいものへ向けないように心がけられるようにさえなれば、かなりの確率で良い生き方ができるようになるはずだ。

少なくとも僕はそれに成功した。あなたにも多分きっとそれができる。間違いない。

 

「思ったよう」にしかならない。

最後に、人生を自由に生きる方法についてちょっとだけ書き加えておこう。これは僕のなかでは最強の人生成功哲学であり、正直今の自分があるのはこの超強力な哲学を知っているからでもある。

高校生だか大学生だか忘れたけど、あるときどこかの教師が僕に向かってこういった。

 

「人生は自分の思うようになる。1年後、こうなってるといいなぁと毎日のように思ってたら大体そうなる。馬鹿げていると思うかもしれないけど、本当にそうなのだ」

 

僕はこれを初めて聞いた時、正直この人はなんて馬鹿な事をいうのだろうと思った。

そんなうまい話、あるわけがないじゃないか。

 

けど今になって実によくわかるのだけど、これは本当に真実だ。むしろ人生は、思ったようにしか運んでいかない。

実のところ、多くの人は自分が本当に何がしたいのかや何が欲しいのかが全くわかっていない。人生戦略なんてあったもんじゃなく、ただふわっと雰囲気に流されて生きているだけである。そういう人の人生は、本当にふわっとしっぱなしである。

 

実に多くの人が、自分が本当は何がしたくて何が欲しいのかがわかっていない。

目的地がわかってない人が、目的地に到達する事が論理上ありえないように、実のところ目標がない人間が目標を到達するだなって事はありえない。

 

だからまず、自分が何を本当にしたくて、何を欲しいのかについて真剣に真剣に考えてみて欲しい。

本当に欲しいものがわかれば、後は勝手に脳が逆算してそれを手に入れる方法を考えてくれる。その通りに行動していくと、人生はビックリするぐらい良い方向に好転していく。

 

もちろん全部が全部成功するわけではないけど、失敗したらまたやり方を修正して再度トライすればいいだけである。成功するまで続ければ、いつかは絶対に成功する。本当に当然の話なのだけど、本当に多くの人がこれをわかっていない。実に勿体無い話である。

はたから見てて大成功して幸運がガンガン降り注いでいるようにみえる人がいるけれど、結局のところ彼等のやってる事はこの原則と多くの場合全く同じだ。トライ・アンド・エラー。その繰り返しである。

 

サイコロも100回振ればどんな人間でも6が1回ぐらいは出る。多くの人はこの6が出た瞬間だけを切り取って「あの人は運がよかったのだ」というけれど、実のところその成功の裏には限りなく多くの試行錯誤があったりするのである。

 

やっぱり人生は結局のところ自分次第なのだ。思うようにしかならないのが、人生なのである。

 

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Craig Sunter)

 

こんにちは。株式会社キュービックの渡部です。

私は薬剤師専門の転職サイト「ココファーマ」というメディアの運営を行っています。

(左:古井 右:渡部)

そのサイトを運営する中で、一つ、変わったことに気づきました。

それは薬剤師さんの給与は、東京よりも地方のほうが高いという事実です。

 

意外な結果なのですが、原因を調べると面白いことに、

現代の「格差拡大」の一端が垣間見えるのです。

 

最も給料が良くなる選択は?

仮に自分が「薬剤師資格」を持っていると仮定します。

その他に特に目立つスキルはないけれども、少しでも給与の良い会社に就職したい、と考えていたとします。

 

さて、果たしてその時どのように就職活動をすべきでしょうか?

例えば通常の就活であれば

「とりあえず大手」

「東京で就職する」

といった選択肢が思いつきます。

 

もちろん、いずれも間違いではありません。

しかし、私がデータを見て思う正解は「福岡県に引っ越す」です。

 

理由は簡単、薬剤師の平均給与が最も高いのが福岡県であり、それだけ高収入の職を得られる可能性が高くなるからです。

(出典:ココファーマ 薬剤師の年収で低いのは病院?薬局?7種の平均ランキングで紐解いた

私はこれを見て、とても意外に感じました。

同じ仕事なのに、地域によって給与が200万円以上も違うのです。

 

例えば、1位の福岡県の薬剤師の平均年収はなんと、658万円です。逆に東京の平均年収は522万円と、福岡に比べて150万円近くマイナス。

最下位の宮崎に至っては更に100万円下がって、418万円です。

「そんなはずはない。企業規模が大きいところが福岡には多いのでは?」と疑問を持つ方もいるかもしれません。

しかし、別のデータを見ると薬剤師の業界ではあまり企業規模が給与の高さと相関しません。

 

ではなぜ「大手が高い」「東京が高い」という、一般的な会社員の給与の傾向が異なるのでしょう。

それは、薬剤師の給与が純粋に、人材マーケットの需給関係で決まる傾向にあるからです。

福岡県のように、薬剤師が必要とされる数に比べて応募が少なければ給与は高騰し、逆であれば宮城県のように低く抑えられる。

 

他の職業であれば、多少はニーズと供給がずれていても、「未経験でも社内で教育すれば大丈夫だろう」という補正ができます。

また、「うちのカルチャーに合う人ならスキルは問わない」や「明るい人なら大丈夫」と、募集する人を広く構えることができる。

 

しかし、薬剤師などの資格は他のスキルで代替できません。

「薬剤師」は、その資格を持つ人が辞めてしまうと、会社は必ず補充しなければならないのです。

つまり、

「属人的なスキル」

「ポータブル(持ち運び可能な)スキル」

であるため、供給が簡単に増やせない。

すると、その給与はマーケットの需給関係で決まる、というわけです。

 

ポータブルスキルが重要な世界では、給与はマーケットが決める。

現代社会は、AIエンジニアや各種コンサルタント、検査技師、データサイエンティスト、カウンセラー、webマーケターなど、高度に専門化した人々が活躍する時代です。

彼らは皆「ポータブルスキル」を持つので雇用の流動性が高い。

 

ピーター・ドラッカーもこう指摘しています。

従業員社会において、従業員は組織を必要とする。

組織なくしては、彼らは生産することも仕事をすることもできない。しかし、彼らには移動の自由がある。

しかも、彼らは、彼らの生産手段すなわち知識を身につけたまま移動する。

[amazonjs asin="447800210X" locale="JP" tmpl="Small" title="ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会"]

このような世界では、会社より「マーケット」に給与決定の主導権があります。

したがって、終身雇用と年功序列が無くなった世界では、希少なスキル、知識を持つことが給与をあげる唯一の道となるのです。

 

しかしこの事実は我々に過酷な現実の姿を見せます。

なぜなら、全員がマーケットのニーズにあったポータブルスキルを持てるとは限らないからです。

 

薬剤師を始め、上のように「ポータブルスキル」を所持する能力の高い個人は、ますます給与が高くなる。

逆に、ニーズの少ないスキルしか持たない個人は低く抑えられる、という状況になりやすいでしょう。

 

例えば「マニュアルを暗記している」「顔が利く」とか「根回しがうまい」、あるいは「社内業務に詳しい」といった個社ごとの知識やスキルの価値は低い。

これが、格差を生み出す大きな要因の一つです。

 

つまり、現在はますます全体として「マーケットが給与を決める」という世界になりつつある。

大企業にいれば良い、都市にいれば良い、という時代は過ぎ去りました。

我々は常にマーケットニーズを見て、スキルの更新をしなければならない時代に生きているのです。

 

 

今後は「資格持ち」ですら二極化する

もちろん、強力なスキルである「薬剤師資格」を持っていても、安穏とはしていられないようです。

 

先日、我々はベテランの薬剤師の方にヒアリングを行い、今後の業界の動向と、ニーズのあるスキルを調査しました。

すると、現在薬剤師が行っている業務の中に、付加価値が低い仕事、または「機械」などで代替できる仕事が散見されました。

 

これについては、他メディアなどでも報じられています。

薬局が病院の周りにやたらと溢れかえる事情(東洋経済オンライン)

「門前薬局をビジネスとして考えると、これほど楽な商売はない」。あるチェーン薬局の幹部は実情を語る。病院の前に店さえ出せば、自動的に患者が入ってきてくれるため、「顧客開拓なんて必要ない。その病院に合わせた薬に限ってそろえればいいので、在庫リスクも小さい。保険収入なので、取りはぐれがないのも大きい」。

薬局の経営者に話をお聞きすると、薬剤師の業務である「調剤」は誰がやっても同じ、「服薬指導」は高度な専門知識が必要であるとの見解を頂いています。

東洋経済「調剤は誰がやっても同じ」薬剤師は機械?専門家に聞いた!

極端なことを言えば、調剤は機械に任せてもよいのです。現に、自動調剤機(ロボット)が薬剤師不足の深刻な地方の薬局を中心に導入が進んでいると聞きます。

軟膏や散剤の混合には人間の技術が必要な場合もありますが、これも慣れと熟練によって克服できます。以上の意味から調剤は「誰がやっても同じ作業」であり、逆に誰がやっても同じ結果にならないといけない作業と言えます。

ただ服薬指導は、相互作用(飲み合わせ)のチェックや、アレルギーの有無など、患者さんと相対して確認しなければなりませんので、ロボットに任せるわけにはいきません。

このまま医療費が高騰すれば将来的には「誰でもできる仕事は機械化し、薬剤師にかけるコストを圧縮せよ」という議論も持ち上がるでしょう。

いや、すでにそういった議論はすでに持ち上がりつつあります。

 

先日、我々がお話を聞いた薬剤師の方は、次のような話をされていました。

 

薬剤師:「単純労働しかこなせない薬剤師は、今後厳しいと思います。薬局で図々しく患者さんが来るのをただ待っているなんて、普通の仕事ではありえないでしょう。」

渡部:「では、薬剤師が高収入を目指すにはどうしたら良いですか?」

薬剤師:「まずは薬の勉強をし続けること。薬剤師さんの中には、資格を取った当時の知識があまり更新されていない人も数多くいます。」

渡部:「他には何かありますか?」

薬剤師:「「あの人に薬の相談をしたい」と言われるような、一種のカウンセラー的役割を果たせない薬剤師はダメですね。私はいつも「歌って、踊れて、喋れる薬剤師になれ」と指導しています。」

渡部:「なるほど」

薬剤師:「今、かかりつけ薬剤師という制度が推進されています。困ったときに相談できる薬剤師を育成していこう、というわけです。ただ、今の薬剤師の中で何人こういった仕事をきちんとできる人がいるか。役割を果たせなければ批判は免れません。」

参考:かかりつけ薬剤師の効果に疑問、薬剤費削減額の2.7倍のコスト発生(ダイヤモンド・オンライン)

薬の専門家としての立場から、一人ひとりの患者に合った医師に処方内容を提案したり、問題のある多剤投与を減らして、患者の健康に寄与することが「かかりつけ薬剤師」の役割のはずだ。

「かかりつけ薬剤師」による服薬指導には、健康保険料や税金から、通常よりも高い報酬が支払われている。

残薬調整にとどまらない、本来の意味での「かかりつけ薬剤師」の役割を果たしてもらいたい。

結局のところ「資格持ち」となっても、スキルをつけ、勉強し続けない限りは「格差拡大」の波に飲まれてしまいます。

 

 

どんな職業であっても「一生安泰」は無い、と考える人が増えています。

我々は「転職サイト」を通じて、そのようなキャリアの不安を取り除くべく、活動しています。

 

*今回使用したデータの詳細が掲載されているページです

転職成功する薬剤師は何が違う?大手転職サイト選びの落とし穴3つ

薬剤師の年収で低いのは病院?薬局?7種の平均ランキングで紐解いた

東洋経済「調剤は誰がやっても同じ」薬剤師は機械?専門家に聞いた!

 

 

◯株式会社キュービック コーポレートサイト

 

(Photo:Wouter van Doorn

仕事関係の割とステレオタイプな寓話として、「Excelでマクロを組んで業務効率化したのに何故か怒られた」というものがあります。

皆さん、そういう話読んだことありますか?

 

webでパッと検索してみると、幾つか類型的なものが引っかかります。これなんか結構昔からあるヤツですね。タイムスタンプは2009年になっています。

K谷「ああ、自動で計算するプログラムを組んだんですよ、マクロって言います。

こっちでやった方が作業効率も上がるしミスも減ると思いまして、何か問題だったでしょうか?」

 

・・・・・・・・・・はぁ!?会社舐めるのもいい加減にしろよ、

仕事が早いというのは同じ環境でどれだけ間違いがなく効率よく作業ができるかということ、

そんなの社会人としてというか人として当たり前のことです。

マラソン大会で一人だけ車を使って優勝してもそんなの評価されていいわけがない。

yahoo釣り袋」などと揶揄されることも多い、明石港かってくらいの釣りの名所でもある知恵袋なので、このエピソードが釣りでないという保証は正直どこにもないのですが。

 

ただまあ、

・新人がマクロで業務の効率改善

・何故か旧態依然のやり方に不合理にこだわる先輩、ないし上司

・評価されるどころかマクロを作ったことを怒られる、ないし責められる

といった類型的なパターンは、既にこの時点で出来上がっていることが分かります。実際のところ、マクロで仕事をしたからといって「ズル」とか言われるのは「アホですか」という程度には意味不明な状態ですよね。

 

もう一つ、これは割と最近のtogetterまとめなのですが、

 マクロで効率化してたら「マジ仕事しろや」と言われた話

みたいなものもあるようです。「マクロによる業務効率化が、何故か評価されない」という案件は、もしかすると割と一般的にあるのかも知れません。まあ、都市伝説みたいなエピソードも混じってるのかも知れませんが。

 

ところでしんざきはシステム関係の業務をやっておりまして、上司の立ち位置だったり、時にはシステム管理者の立ち位置だったりします。

で、かなり昔、以前勤めていた会社で一度実際にあったことなのですが、「マクロによる作業自動化の試みによってシステムを一つ落っことされた」ことがありました。

 

どんな業務だったかというと、単純に言うと「顧客に関する情報を、とある管理システムからcsv形式でダウンロードして、それを整形した上で別のシステムに入力する」というような内容でした。

作業自体は、システム部署ではない、営業部署で実施するタスクです。

 

単なる定型作業なので、アプリで自動化しましょうか?と提案したこともあったんですが、それ程の量でもないしその内新システムに置き換えるから、ということで手付かずになっていました。

管理システム自体かなりレガシーなシステムで、インフラ的にも正直相当無理がきていたところ、リプレースが近いこともあって費用が割かれず、だましだまし使っているという感じでした。私がその現場に来る前、また別の業者さんが開発したシステムです。

 

そこに、新しく入ってきた人が、ある程度マクロやらVBAが分かる人で、その手作業を簡略化する為に、自前でマクロを組んだらしいんです。

「らしい」というのは、当時その人、周囲に無断でそれをやってたからなんですが。

 

ある時管理システムが落っこちました。正確に言うと、CPUが全部100%に張り付いて、ロードアベレージが40とかになって、アプリの応答が軒並み戻ってこなくなりました。

レガシーなシステムの常で、基盤がぜい弱な割に様々な業務がそのシステムに乗っかって動いているので、当然業務は大混乱になりました。

仕方ないんで色々プロセスkillしたり、走ってる処理止めてDB再起動したり、まあてんやわんやしつつなんとか回復させたんですが。

 

後から判明したことですが、落ちたこと自体はそのマクロが主因、管理システムの作りの悪さが副因でした。

具体的に説明するのはちょっと色々アレなんですが、たとえて言うと

「検索範囲を広げてCSVを取得しようとする時、データをまとめてとってくるのではなく、何度も処理をループさせてとってくるような作りになっていた」

というような話です。更に、マクロ自体も、短い単位でループを繰り返すような変な作りになってたみたいなんです。

 

画面から手作業で処理をする分には、限定された範囲でしかデータを取らないので問題なかったが、VBAでデータ取る時にがーっと回っちゃってサーバ陥落、という状況でした。いやまあ、その程度で落ちて困るようなシステムを業務で使うなよって話なんですが、そこを後回しにするのは会社の予算的な方針だったのだからしょうがありません。

 

で、まあ、「いやいやマクロ作って自動化するなら事前に相談くらいしてくださいよ」って話じゃないですか。

上記のようなリスクは、システム部門では事前に把握していましたし、話を通してもらえれば事前になにかしら対処も出来ましたし、そもそも自動化をするならするでシステム側でなんとでも対応出来ました。

せめて、きちんとテスト環境を整えてテストくらいしていれば、障害も発生しなかった筈なんです。

 

ただ、ちょっと面倒くさかったのが、そのマクロ組んだ人が「業務改善をマクロでやって、周囲に理解されないで責められる」みたいな話を、凄く正直に真に受けちゃってた人だった、ということなんです。

 

彼からしてみれば、ブラウザの画面でポチポチファイルをダウンロードして手作業をしている人たちはどうしようもなく不効率、不合理で時代遅れな人たちであって、マクロの意味や意義なんて理解も出来ないだろうし、そんな連中に事前調整なんてとんでもない、ズルをするなと止められるかも、みたいな意識だったらしいんですよ。

そういう意味では、多分私も、当初の彼の中では「不合理なやり方にこだわっている守旧派」だったのかも知れません。

 

いや、正直「VBAくらいでそんな「周囲に理解されない出来るヤツ」みたいな自己認識されても」とは思わないでもなかったんですが。

 

他部署の人とはいえこれはほっといたらアカンわと思いまして、

・業務改善は良いことだしマクロを使うなら使うでも良いが、事前に調整はして欲しい

・通常と異なるやり方で業務システムにアクセスする以上、動作検証は必須

・不合理な手作業をやっているように見えても、事情がある場合もある

・マクロに理解がない人ばかりではない、というかマクロの意義くらい理解出来る人の方が多分多い

・事情が分からない内は先入観で考えないでちゃんと上に確認しましょう

 というようなことをツラツラとお話しました。色々認識を改めてもらえたかどうかは、その後私が現場変わっちゃったんで確認出来てないんですが。

 

勿論、業務を効率的に片づける為に作業を自動化することはじゃんじゃんやっていいと思いますし、やるべきだと思います。 

 

ただ、システム全般が把握出来ていない場合には、ちょっと一言上席の了解はとった方がいいと思いますよ、と。 

単に無理解で古いやり方を維持している職場ばかりじゃないと思いますよ、と。

了解をとらないで色々やると、何かあった時に自分の責任になっちゃいますよ、と。

 

これくらいのことは一般的に言えるんじゃないかなあ、と考えた次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらい。

 

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Erik Eckel

私は「生涯現役」という言葉が好きではない。

 

巷では、「生涯現役」が良いことのように語られている。さしあたり、いつまでも健康でいられるのは良いことに思える。

だが、いつまでも働き続けることは、良いことばかりだろうか。

 

数十年前の日本には、60歳になったら定年を迎えてリタイアするという慣習があった。

平均寿命が短く、健康管理の意識も乏しかった昭和時代には、60歳でリタイアというのは妥当な目安だったかもしれない。

60歳は「還暦」と呼ばれ、これをもって人生の一巡りとする見方が強かった。そこから先は「余生」とみなされていた。

 

ところが平均寿命が伸びて、健康管理の意識が行き届いた現在では、「還暦」をもって「余生」とみなす人はほとんどいない。

60歳より早く退職せざるを得ない人が増え、そこから新しい仕事を始める人も増えた結果、人生の節目としての「還暦」は失われた。

それに伴って、「現役」と「余生」の境目もあいまいになった。

 

働くという行為には、お金を稼ぐという意味に加えて社会に参加するという意味もある。

働かなければどうにもシャキっとしない人も多いだろう。定年を迎えてから急激に老け込む高齢者も珍しくないように、仕事があったほうが良い人、いつまでも働き続けられることを喜んでいる人がいるのは間違いない。

 

そのかわり、働ける限りは働き続けなければならなくなった、ともいえる。

 

60歳前後では人があまり死ななくなった現代社会では、80代~90代まで生きてしまうこともザラにある。年金制度が尻すぼみであることを皆が知っている以上、長く生き続けるためには食い扶持を稼がなければならない。

60代や70代でも働けるとはいっても、30代や40代に比べれば身体的に辛いところもあるだろう。しかし、辛いからといって働くのをやめるわけにはいかない。

 

「現役」か「余生」かは、年齢によって区切られるのでなく、働けるか働けないかによって区切られるようになった。

働ける限りは「余生」は来ない。「生涯現役」とは、つまりそういうことでもある。

 

私は死ぬまで働きたいとは思っていなかった。できるだけ早くリタイアし、できるだけ「余生」に相当する時間をもてたらいいなと、都合の良いことを夢見ていた。

 

けれども「生涯現役」が当たり前になった社会、つまり、働けなくなるまで働き続けなければならない社会では、その夢は実現できそうにない。

高齢化がますます進む日本社会では、高齢者が若年者に寄りかかれる経済的余地はどんどん小さくなっていくだろう。

働けるうちは働き続き、いつかは動けなくなって、それから死ぬ‥という気持ちで年を取っていかなければならない。

 

「いつまでも世帯主」であることの困難 

だが、仕事よりもずっと厄介に思えるのは、「いつまでも世帯主/契約主体者でなければならない」ということのほうだ。

現在の高齢者をみてもわかるように、仕事ができなくなっても預貯金や年金でやりくりして暮らしている人はいる。働くという点に関しては、彼らは「余生」を過ごしていると言えるだろう。

 

しかし、そんな彼らも、世帯主としての責任や判断から降りられたわけではない。

個人主義社会の契約主体者として、自分で考えて、自分で決めながら生きていかなければならない。

 

つまり、現代人には「隠居」というものがないのである。

隠居(いんきょ)

官職・家業などから離れて、静かに暮らすこと。また、その人。民法旧規定では、戸主が生前に家督を相続人に譲ることをいう。「社長のポストを譲って隠居する」「御隠居さん」

俗世を離れて、山野に隠れ住むこと。また、その人。

江戸時代の刑罰の一。公家・武家で、不行跡などを理由に当主の地位を退かせ、俸禄をその子孫に譲渡させた。

(デジタル大辞林より)

 明治民法では、60歳以上で家督を相続する「隠居」の定義があり、また、従来からの慣習としての隠居制が広く残っていた。

しかし1947年に民法が改正された際、「隠居」についての法的な取り決めはなくなり、生前に家督を相続して「隠居」をしようと考える人も少なくなった。

 

20世紀からこのかた、日本では核家族化が進行して、さらに単身世帯が増え続けてきた。そうした単身世帯のなかには高齢者の一人暮らしも多く、その数は今も増え続けている。

子どもがいようがいまいが、現代社会の高齢者はいつまでも「隠居」することなく、世帯主や契約主体者としての判断を果たさなければならない。これは、恐ろしいことではないだろうか。

 

内閣府のホームページによれば、高齢者の犯罪被害件数は増えており、なかでも詐欺被害が目立っているという。

また、全国の消費生活センターに寄せられる消費トラブルでも、契約当事者が70歳以上の案件が増えてきている。

 

こうした、高齢者がターゲットとなった詐欺や消費トラブルが増えている一因は、もちろん「高齢者が増えたから」ではあるのだけれど、高齢者がいつまでも「隠居」せず、契約当事者として「生涯現役」だからという前提も見逃すわけにはいかない。

高齢者がこぞって「隠居」する社会では、高齢者が契約当事者を降りて、もっと若い親族が契約当事者としての判断を下すだろうから、高齢者をターゲットとした詐欺や消費トラブルがこれほど増えることはない。

 

今日の高齢者は「隠居」しないというより、「隠居」のしようがないため、判断力が鈍ってきたり認知症が近づいてきたりしても世帯主や契約当事者をやめられない。そこに、詐欺師や悪徳業者が付け込む隙が生じている。

 

ちなみに、たとえば認知症とはっきり認定され、成年後見という制度を利用する立場になれば「隠居」に限りなく近い状態となり、詐欺や消費トラブルからは守られるようになる。

だが、成年後見制度にまつわる診断書を書いている立場から見えるのは、制度利用にこぎつけるまでにボロボロにむしられてしまう高齢者が多い、ということだ。

 

大きな被害が生じて、世帯主や契約主体者としての限界が露呈したことをきっかけとして成年後見制度を導入するケースを目の当たりにしていると、被害が生じてから成年後見制度を利用するのでなく、事前に「隠居」できるシステムと習慣があったら良いのに、と思いたくなる。

子どもに全てを委ねられる高齢者はもちろん、子どものいない高齢者でも、世帯主という立場や契約当事者といった立場を降りられる仕組みの需要はあるだろう。

 

現代人は、「生涯現役」であることを、「○○できる」という視点で捉えたがるが、私は、「○○しなければならない」という視点で捉える視点も必要だと思っている。

世帯主であり続けること・契約主体者であり続けることは「権利」という視点で語られがちだが、「権利」は「義務」や「責任」と表裏一体でもある。

 

身体だけでなく、判断力や認知機能もいつかは衰えていく以上、もっと意識的に「隠居」して「余生」を過ごせるような社会になって欲しい。

なぜなら私は、自分が「生涯現役」でいられるとは、どうしても思えないからだ。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

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twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

 (Photo:Jeremy Brooks

『成功者が実践する「小さなコンセプト」』(野地秩嘉著・光文社新書)という本のなかで、農業組合法人『和郷園』の代表・木内博一さんのこんな話が紹介されていました。

 

木内さんは、高校卒業後に千葉県の実家で農業をしていた際に、野菜の値段が農家ではなく市場の仲買人によって、その日その日に恣意的に決まることに疑問を持ったそうです。

そこで、直接、東京・大田区の青果市場に野菜を持っていったところ、それまで、地元の仲買人に170円、100円と言われていた大根に1本180円の値段がつき、しかも年間契約にまでこぎつけたのです。

 

木内さんは、続いて、カット野菜の販売に進出します。木内さんは洗いごぼうで、カット野菜に先鞭をつけました。

 「ある日、大根を卸しているスーパーに挨拶にいったら、従業員のおばちゃんがバックヤードで忙しそうに働いていたんです。狭い空間のなかで、泥付きごぼうを洗い、適当な大きさにカットしてから袋詰めしていた。思わず、声をかけたんです。

『おばちゃん、そんなこと、オレがうちの畑でカットして、袋詰めして持ってきてやるよ』おばちゃんたちは嬉しそうでしたね」

彼が持っていったカット野菜は大ヒットした。掘りたてで新鮮、シャキシャキしていた。消費者にしてみればたわしで泥を落とすのは面倒な手間だったのである。

また、生産者にとってもカット野菜はありがたいものだった。ごぼうでも先が細いものは商品にならず、泣く泣く廃棄していたのである。

ところが、カット野菜にすれば先の方の細い部分も商品になる。生産者にしてみればロスが減るのがカット野菜だった。

また、流通網にとっても長いままのごぼうよりも、パック詰めになったものの方が運びやすい。カット野菜は手抜き商品と思われているけれど、消費者、生産者、流通業者にとって「三方よし」の商品なのである。

木内は言う。「カット野菜は菌数管理もされていて、汚染した水で洗うこともない。日付を選んで買えば、家庭の冷蔵庫に長く置いてあった野菜よりも、はるかに新鮮ですよ」

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 僕はカット野菜って、買う側にとっては手間が省けて良いけれど、これを作る側にとっては負担が増えて大変だろうなあ、って思っていたんですよ。

まあ、その分値段に繁栄されているのだとしても。

 

ところが、この木内さんの話を読んで、生産者側にとっても、けっこうプラスの面がある、ということがわかりました。

そうか、日本では形が悪い野菜はスーパーに並べられないけれど、カット野菜であれば、そういう野菜でも十分「商品」になるから、ロスが少なくなるんですね。

あの農家はカットして持ってきてくれる、ということになれば、取引先でも、選ばれるためのアドバンテージになるでしょうし。

 

また、『健康格差』(NHKスペシャル取材班・講談社現代新書)では、健康診断に関するこんな話が出てきます。

「ケアプロ」創業者で、社長の川添高志さんは、視察で訪れたアメリカのスーパーマーケットで「ミニッツ・クリニック」という簡易健康診断サービスと治療をセットにした店を目にしたのがきっかけだったそうです。

川添さんの事業への思いを一層強くさせたのが、帰国後、東京大学病院に勤務した時だった。病院で直面したのは、早く病気が見つかっていれば重症化を防ぐことができた糖尿病患者だった。

「どうして健康診断を受けなかったのですか」と尋ねると、患者たちは口々に「機会がなかった」「仕事が休めなかった」「お金がかかる」「いきなり病院の健康診断だと怖い」と答えたという。

川添さんは、病院の患者たちに、ワンコインで健診できるサービスを必ず立ち上げると約束し、病院を退職。2007年冬に、大学時代から貯めていた1000万円を起業資金に「ケアプロ」を立ち上げた。

「セルフ健康チェック」の立ち上げから9年。サービスは、累計42万人もの人が利用するまでに成長した。

最近では、パチンコ店や競艇・競輪場、住宅展示場、ショッピングセンターなどに出張店を出すことも増えている。これは「健康弱者」が普段どこにいるか、健康診断を受けていなさそうな人たちはどこにいるか、知恵を絞った結果だ。

特にパチンコ店の駐車場で行ったケースでは、多くの人に「セルフ健康チェック」に参加してもらおうと、看護師のコスチュームを着た若い女性を配置し、呼びかけを行ったところ、無職の人の受診率が男女ともに上昇したという興味深い結果も得られた。

「健康診断には、アクセシビリティという考えがもっと必要だと考えています。参加者に来てもらうのではなく、参加者のいるところに出向くという発想が行政側にもっとあってもいいのではないかと考えています。健康を届けに行っているんだという姿勢です。

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僕は病院で健診に来る人を待つことがほとんどです。

以前は健康診断のアルバイトに行っていたこともありますが、大概、企業健診やショッピングモールの献血の診察がほとんどでした。

 

この「セルフ健康チェック」、ショッピングモールは思いつくとしても、パチンコ店や競艇・競輪場か……こういうギャンブルが行われている施設というのは、たしかに「穴場」ではあるよなあ。

企業の正社員で、定時に働いている人たちは、企業健診の対象になることが多いのですが、非正規雇用者や年金暮らしの高齢者、無職の人などは、健康診断を「受けなければならない機会」って、ほとんどありません。

自発的に人間ドックに入るような人は、かなり「健康意識が高い人」なんですよね。

もしくは、芸能人のように、その人の存在がお金になり、多くの人の生活を支える責任がある場合。

 

パチンコ店や競輪・競艇場って、たしかに、そんなにガラの良い場所ではありませんが、行かない人がイメージしがちなほどの修羅場でもありません。

(ギャンブル依存症患者がいるというのは、大きな問題なのですが)

時間をもてあましてしまった高齢者が、安いレートで過ごしていることも多々あります。

「孤立しがちな人」が集まってくる場所なんですよね。

 

自分の身体が気になっているのだけれど、病院は敷居が高い。

病院に行くことをすすめてくれる人も周りにいない。お金もない。

そういう人も、自分のテリトリーに、「簡単な健康診断」のほうからやってきてくれれば、興味を示すこともあるはずです。それこそ、パチンコで勝った勢いで健康診断を受けてくれるかもしれない。

 

健診業者としても、もともとあまり受診しない集団であれば、かえって、新規開拓のきっかけになるはずです。

病院で待っている側からすると「なかなか健診を受けにきてくれない」あるいは、「健診を受けて異常がみつかっても、精密検査に来てくれない」というの悩みの種なのですが、これからは、「来てくれないのなら、こちらから行く」というアプローチが必要なのかもしれません。

むしろ、「なかなか来てくれない人」のほうが、重症化してから発見され、本人は苦しむし、医療費もかかります。

 

「新しいことをやる」ためには、斬新なアイディアが無ければダメだ、と考えてしまいがちだけれど、実際は、「ちょっとめんどくさそうなことに、自分から踏み込んでみる」だけで、けっこう他と「差別化」できるものみたいです。

少なくとも、いまのところは。

 

試してみたり、効率的な方法を考えてみる前に「そんなことやってもコストがかかるだけ」とか、「どうせその人たちは興味を持ってくれないよ」と決めつけてしまいがちなのですが、ほんのすこし「ずらしてみる」だけで、違う景色がみえてくることは、少なからずありそうな気がします。

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:Kumi Kush)

Books&Apps編集部の楢原です。

 

ちょうど1年ほど前、web業界を賑わせたDeNAのWELQ問題というものがありました。

WELQの問題で改めて考える、信頼できるネットの医療情報とは? 朽木誠一郎さんに聞く(ハフィントンポスト 2016/12/6)

 

私が特にそれを覚えているのは、その物語がいかにも勧善懲悪的に見えたからです。

 

 

こんな話でした。

一般企業に入ればおそらくチャキチャキ仕事ができるであろう若者たちが、すでに米国で流行り成功したビジネスモデルをいち早く学習し、それを日本のwebメディアにもたらすことで、成功を収めつつありました。

彼らが運営していたのは、女性ファッションに特化したMERYと住まいに特化したiemoという2つのwebメディアです。

 

やがて、その有能な若者たちは、優秀な才能には目がないDeNAの目にとまり、DeNAはそれら2つのメディアを合わせて会社まるごと50億円で買いました。

 

目論見通り、その会社は順調に成長しました。

特に、女性向けファッションに特化した「MERY」と医療情報に特化した「WELQ」が「めちゃくちゃスゲー」と業界内で囁かれていて、ある種の尊敬も集めていました。

 

ビジネスでは、数値化できるものを伸ばした人は尊敬されやすいです。優劣を語ることが容易いからです。

webメディアの場合、デイリーアクティブユーザー(DAU)数だったり、月間ページビュー(PV)数だったりします。当時、MERYは月間2億PVを優に超えるメディアにまで成長していました。

 

その成功モデルの話は、まだweb業界にいるかどうか意識の希薄な私の耳にも入ってくるほどでした。

 

***

 

でも、皆がふと気づいた時に、google検索がおかしなことになっていました。

 

当時、この事件の発端となった有名な事例は、「肩こり」と検索すると「幽霊のせいかも」と書いている記事がgoogle検索で上位表示されていたことです。

医療サイト「WELQ」閉鎖前のトンデモ記事 「肩こりは霊的トラブル」( J-CAST 2017/11/30)

 

一般の人が個人の感想として言うのであれば深刻な問題にはならないですが、問題だったのは上場企業であるDeNAが運営している、しかも人命にも関わる医療情報のメディアでした。

流石にそれはマズイんじゃないの?ってなったのです。

さらに、そのメディアでは探せば探すほどにとんでもない記事が大量にあることが明らかになったのです。

 

優秀な若者たちが運営しているwebメディアが、DeNAの運営によってさらにブーストをかけられさらにイケイケのwebメディアとして大飛躍をとげようとしている!

と思っていたら、実態は「とんでもない記事」が大量生産されている巨大webメディアだった…というわけです。

 

***

 

「とんでもない記事の量産」

それが、彼らが行なっていたビジネスモデルの負の産物でした。

 

実は、彼らが運営しているメディアの中でも、MERYのように良質な記事で純粋に「ファン」を獲得しているメディアもありました。

私も好きでしたMERY。

デザインがスマホ時代を先取りしていて綺麗で秀逸でしたし、信頼できるスポンサーもついていて、それらの記事の情報発信の方法は学ぶべきものがありました。

(※現在、MERYだけは小学館監修のもと再スタートしている)

 

でも彼らは一方で、「googleに検索上位されることを目的とした記事」を大量に配信することを徹底的に行なっていました。

例えば、たった1つのサイトに1日100記事以上の記事を配信していたのです。

 

誰が1日でそんなに大量の記事を読むのでしょうか?もしくは、100通りの記事を100人に読ませたかったのでしょうか?

 

もちろん、記事の中身がしっかりしていればそれでも良かったでしょう。

しかし、それらの記事のほとんどは根拠があやふやで、文章の質も極めて低く、しかも誰が書いたのかもわからない記事でした。

なぜならば、その多くは素人に匿名で安価に記事を制作してもらっていたからです。

 

マニュアルまで作って徹底して実行しているので、その点はやはり優秀な人たちなのですが、そもそも書き手が人に読ませたいと思って書いている記事ではないものを、PV数を稼ぐという目的のためだけにweb上に掲載することは、web運営者たちのビジネスに役に立つ以外に役に立つことはないのです。

 

上記の「肩こりは幽霊のせいかも」という記事発覚後、たった数ヶ月ほどで、DeNAが運営していた関連のwebメディアは全て閉鎖されたのでした。

 

***

 

ところで、そのあいだ、我々Books&Appsは何してたかって?

私たちだって、google検索で上位表示されたいと思っていました。webメディアの端くれとして。

正直、WELQとかMERYがスゲーって言われている時に、それらと同様の手法で、Books&Appsでもgoogleで検索されそうな記事をたくさん作ろう!って思って、それをやろうとしたことがありました。

 

でも、できませんでした。

 

「自分たちが読者に読んでもらいたい記事」を1日に大量に作ることは、自分たちの実力ではできなかったからです。

で、すぐにやめちゃいました。

そして、今のBooks&Appsがあります。

 

でも、やっぱり読者のために「おもしろい文章」をBooks&Appsで配信することにこだわって良かったと思っています。

そのような中でも、多くの方に読んでもらえる現在があるからです。

いつも、ありがとうございます。

 

 

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自称「先送り体質」の隣の人が困っていたので、話を聞いた。

仮にMさんとしよう。

 

「締め切り寸前の集中力」をいつでも出せる方法って、ないですかね?いつもギリギリになってからしか手がつかなくて。」

「具体的には?」

「前に引き受けた宿題が、2週間の時間があったんですけど、最後の3日になってからようやく取り掛かりました。おかげでその期間は寝不足でしたけど……。」

「なるほど。」

「今まで、締切に遅れたことは殆どないんですが、締め切り寸前になるとメチャメチャ集中できるんです。」

「でも、間に合うなら良いじゃないですか。」

 

Mさんは頭を振った。

「いえ、それじゃダメなんです。」

「なぜ?」

「たぶん、アウトプットの質は、そんなに高くないんです。これをなんとかしないと。」

「そんなに悩んでいるなら、早くから手を付ければいいじゃないですか。」

「それができるなら、苦労しませんよ。」

 

Mさんは真剣に悩んでいるようだ。

「結局、「なんとか間に合わせてしまったと」いう成功体験が「まだ先送りできる」っていう油断になっている気がします。悪循環ですよ。」

「確かに。」

「どうすればいいでしょう?」

 

「締め切りのプレッシャー」は知的パフォーマンスを下げる

ソフトウェアエンジニアリングの世界においては、「締め切りのプレッシャー」は、百害あって一利なし、ということがわかっている。

プロジェクトを成功させようと思ったら「適切な作業見積り」を行った上で、余裕をもたせることが必須だ。

ソフトウェアのエラーの約40%はストレスによって引き起こされることがわかっている。

これらのエラーは、適切にスケジューリングをして、開発者にあまりストレスを及ぼさないようにすれば、回避できるものだ(Glass1994)。

スケジュールが極端に切迫している場合、そこでリリースされたソフトウェアは、切迫していない状況で開発されたソフトウェアに比べて、約4倍もの欠陥が報告されている(Jones1994)。

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本質的に、締め切りは一種の「恐怖」だ。

恐怖によるプレッシャーは、ソフト開発を始めとする複雑な問題解決が必要とされる仕事には向かない。

解決を早めるどころか、逆に生産性を低下させる恐れさえある。

 

実際、インテルの元CEOである、アンドリュー・S・グローブは、次のように述べる。

「産業革命」の初期以来の西洋史を振り返ると、ほとんどの時代において、モチベーションは処罰への恐怖が一番の基になっていた。

ディケンズの時代に人々を働かせたのは、生命を失うという脅威である。というのは、人は働かなければ給料をもらえず、食物が買えない。しかも食物を盗んで捕まれば吊るされたのだ。間接的ではあったが、処罰の恐怖がそれ以外の場合よりも、人を生産することに駆り立てたのである。

この30年ほどの間に、いろいろな新しいアプローチが現われて、恐怖に的を絞った古いやり方に取って代わり始めた。

おそらく、そのようなモチベーションへの新しい人間主義的アプローチはその由来をたどって行くと、筋肉労働の相対的重要性の低下と、これに対応する形でのいわゆる知識労働者の重要性の増大ということになろう。

筋肉労働者のアウトプットは簡単に測定ができ、期待値からはずれればただちに見つけて、手を打つことができる。

ところが、知識労働者の場合には、期待値自体を正確に述べるのが非常にむずかしいので、そういった期待値からはずれたかどうかの判断に時間がかかる。

いいかえれば、コンピュータ設計技術者に対しては、ガレー船の奴隷と同じようには恐怖が役に立たないのである。

このアンドリュー・S・グローブの洞察は優れたものであり「締め切り効果」を使うかどうかの判断基準を与えてくれる。

 

「単純作業」は締め切りを活用し、「知的作業」は締め切りに頼るな。

具体的には、「単純作業」は、プレッシャーをかけることである程度のパフォーマンス向上が期待できるから、締め切り効果を活用できる。

「資料の封入」や「データ入力」、あるいは「テレアポ」もそれに含まれるかもしれない。

 

この場合、「自分をどうやって追い込むか」が重要だ。

細かくタスク管理をしたり、スケジューリングをするのも良いが「プレッシャー」を作り出すため、周りに宣言したり、敢えて短い締切を自らセットすることも悪くないだろう。

 

しかし、「知的作業」は、締め切り効果を使うと、仕事の質が下がる。

知的作業は「こなした量」ではなく「アウトプットの質」が問われるのだから、プレッシャーをかけてしまうと良い仕事ができない。

例えば、

「提案書の作成」

「セミナーの企画」

などは「締切効果」を頼りに仕事をすすめることは避けた方が良い。

冒頭のMさんが言うように「アウトプットの質が低い」という結末になることが予想される。

 

この場合はむしろ「タスク分解」を行い、必要な時間を逆算した上で、いかに余裕を持って仕事に取り組むかが重要となる。

むしろ問題となるのは「まとまった時間の確保」をするためのスケジューリングだ。

 

*****

 

「……というわけで、仕事の種類によって、つかいわけたら良いんじゃないですかね。」

「ふーん。」

 

すると、Mさんはちょっと首を傾げていった。

「インターネットショッピングで、服を買ったんですけど。イメージと違っていたんですよね。この返品作業はどっちですかね?」

「締め切り活用じゃないかな?ギリギリでいいのでは。」

「営業日報は?」

「テンプレ通りに書くだけなら、ギリギリにやれば良いのでは?」

「部長が中身にうるさくて。」

「じゃ、どこかでまとめて時間をとったほうが良いね。」

「なーるほど。質が重視される仕事から取り掛かる、という原則ですね。私、手を付けやすいものからやってました。」

 

「正解」があるわけではないのだろうが、役には立つ考え方だとは思う。

 

 

 

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(Photo:Ville Miettinen

こんにちは。コワーキングスペースBasispointを運営する、AscentBusinessConsultingの北村です。

最近コワーキングスペースを運営しているためか、リモートワークに関するご相談をいただくことが増えました。

聞くと、多くの日本企業にとって「リモートワーク」は意外とハードルの高いもののようです。

例えば、

「ちゃんと仕事をするのか」

「指示が伝わらないのではないか」

「顔をあわせないと不安だ」

など、様々なリモートワークにまつわる悩みをお聞きします。

 

そこで今回はリモートワークのポイントについてお話をいたします。

 

リモートワークは「できる人」の特権?

私が以前在籍していた外資系企業ではリモートワークは当然のように行われていました。

そして基本的には

・勤怠は問わないが、そのかわり成果は出す

・成果が出せなければ職場を去る

という2つの条件が支配的な価値観でした。

 

つまり、「任された仕事はきっちりこなして、目標達成する」ことがリモートワークの前提条件であり、そうでなければリモートワークはできなかったのです。

(当然、成果を出せなければリモートワークだけではなく職も失いました)

だから、リモートワークは、「仕事ができる」ということが前提だったのです。

 

しかし、このような文化は日本企業においては一般的ではないでしょう。

「目標達成できなければ、職場を去る」という考え方は外資系のコンサルティング会社特有のものです。

日本においてはそのような会社は少数ですし、普通、簡単に解雇はできません。

 

したがって成果にあまり厳しくなく、社員が

「目標達成しなくてもいいじゃないか」

「そもそも仕事の成果が明確ではない」

「別に給料が下がってもいい」

と思う人が多かったり、終身雇用が完全に保証されていたりすれば、リモートワークは機能しません。

あるいは

「最悪、クビになっても次の職場を探せばいいじゃないか」

と思うような人が多い場合も同様です。

 

「いかに社員を監視するか」という発想のリモートワークから脱却するには

ところで、今年の頭に、日経新聞でこんな記事を見ました。

リモートワークをしている社員を、「監視カメラ」で監視できるというサービスに、多くのニーズがあるというのです。

キヤノンITS、在宅勤務者をカメラで監視

在宅勤務の広がりで専用の情報システムが増えている。キヤノンITソリューションズ(ITS)は2月、社員がパソコンの前にいることをカメラで確認し、勤務時間に反映するシステムを発売する。「そこまでする必要があるのか」との声も上がりそうだが、社内外で浮上した問題が発端だった。

「きちんと仕事をしているか確認ができない」。システムの開発を担当したキヤノンITSの石原保志さん(52)は営業を通じて多くの企業の相談を受けていた。新システムはパソコンに備えたカメラで顔を撮り、顔認証機能で登録した本人の在席と離席を判別する。

つまり、「成果でなければクビ」にできない会社は、「どうやって社員を監視するか」に行き着くことも多い、というのがこの記事の意味するところでしょう。

成果が関係なければ、リモートワークでも「在席」しなければならないと決めることは、ある種合理的とも言えます。

 

しかし、私も含めて「知識労働者」を主とするリモートワークをする人々にとって、この「監視」に違和感を感じる人も多いでしょう。

「仕事は時間ではなく、成果だろう」

という声も聞こえます。

 

リモートワークは「サボるやつ」にルールを合わせてはいけない

これらのことからわかることが

リモートワークは「サボるやつ」にルールを合わせてはいけない。」という事実です。

つまり、ルールやシステムだけを適用することでリモートワークを推進すれば、必ずその抜け穴を悪用したり、本来の意図を無視した運用をする社員が出てきてしまいます。

 

また、私の古巣でも最近は「リモートワーク」が禁止されました。

詳細はわかりませんが、最近ではGoogleやFacebookなど、新興のIT業に押され、入社する人のレベルが下がっているのかもしれません。

そうすれば、「成果にこだわる」という文化が失われ、リモートワークを禁止する、という方向に行くこともありえるでしょう。

 

ではどうするか。

リモートワークの運用を、ルールやシステムで「縛る」ことで厳密にしようという発想から抜け出す必要があります。

必要なのはソフト面、つまり「結束」「信頼」「責任感」といった、メンタル面のサポートを強化することです。

 

例えば社員が

「会社からの信頼を裏切りたくない」

とより強く思えば、リモートワークを監視する必要などないでしょう。

「皆の期待を超える仕事をしたい」

と願う人が増えれば、リモートワークだろうとオフィスだろうと、生産性に変わりはないはずです。

 

結局のところ、社員の一人ひとりが責任感を共有できている状態、一種の「コミュニティ」とならなければ、効果的なリモートワークは夢のまた夢です。

 

そう考えれば、「リモートワーク」は「できる人」の特権ではありません。

「社員からの信頼が厚い会社」の特権なのです。

 

 

*鍛えられた経験を持つ人はコンサルポータル


コワーキングスペース「Basis Point」サービスサイト

コンサルポータル

Ascent Business Consulting 株式会社コーポレートサイト

 

(Photo:Ryan Morse)

資本主義ゲームにおいてゴールとは億万長者になる事だ。

毎日、遊んで暮らせるぐらいのお金を手に入れられた時、人は仕事などのしがらみから逃れて、真の意味で自由を選択する事ができるようになる。

 

これはファイナンシャル・インデペンデンスと呼ばれている概念で、つまるところあなたの預金口座に30億円ぐらいが入ってれば、あなたは嫌々会社に行く必要はなくなるし、明日から何をしても誰にも文句なんていわれず、心の赴くままに好きな事だけができるようになる。

つまるところ資本主義社会において、人が真に自由になるためには一生遊んで暮らせるお金が必要なのである。

 

とまあここまではいい。

今回僕が議題提起するのは、そのゴールに到達してしまった後の話だ。

 

果たして人は財布に使い切れないぐらいのお金を手にした後、どうなってしまうのだろう?

億万長者になった後、人は何をモチベーションにして生きていくのだろうか?

 

これ、凄く疑問に思わないだろうか?すごろくでいえば、ゴールにたどり着いた後の話がどうなってるのかの世界だ。

すごろくならば順位がついて、ゲームが終わるだけだけど、現実は億万長者になった後も続いていく。

あがりの後の世界がどうなってるのか、その風景に僕は昔から興味津々だった。

 

ありがたい事に、世の中にはそれこそ一生遊んで暮らせるだけのお金を持っている人がそこそこいる。

僕は社会人になった後にその手の人達に何人か会う機会に恵まれたのだけど、意外なことに彼等はほぼ例外なく、普通に仕事をして働き続けていた。

 

数多のお金を手に入れて資本主義ゲームからせっかく上がりを決め込んだくせに、ただの一人の例外もなく仕事を続行していたのである。

 

僕は心底びっくりした。

「いやあなた、会社なんか行ってる場合じゃないでしょ。世界一周の旅にでもさっさと出かけて、美食の限りをつくすとか、最高の愛をみつけに出かけるとか、そういう事、やらないんですか?」

こう思わないだろうか?

けど誰ひとりとしてそういう事はやってなかった。

 

どうも人間にとって仕事というものは、お金を稼ぐためにやるようなもの、というものを越えた所にあるようなのである。 

 

仕事は人生の暇つぶし

自分の手で億万長者に至った人を何人かみてて気がついたのだけど、彼等に一つだけ共通している事があった。

ほぼ例外なく、自分がやってて楽しいことだけをやっていた。ただの一人の例外もなく、である。

 

例えばとある人は、傍からみると仕事中毒なんじゃないかっていうぐらいの働きっぷりをしていた。

けど本人に言わせれば、それは高校生がプレイステーションに熱中しているようなもので、つまるところ楽しいことをひたすらやり続けてた結果、彼等はいつの間にか億万長者にたまたまなってしまったと言うのである。

 

そうなると、億万長者になった後に仕事というゲームをやり続けている理由がようやくわかる。

彼等にとって億万長者とは、目指すべきゴールじゃなく、たまたま通過してしまった地点でしか無かったのだ。というか、彼等が今でも億万長者なのは、ある意味では彼が使う以上に彼がお金を稼ぐからだとも言える。

 

ある時、僕はそのうちの1人に

「もう十分お金なんて稼ぎきっただろうに、何で今でもそこまでがむしゃらに働き続けるのか」

を聞く機会に恵まれた。彼は少し考えた後にこう答えた

 

「働かないと人生は暇すぎる。仕事は人生の暇つぶしであり、人生最高のゲームのうちの1つだ」

 

どうやら人は億万長者になったところで暇からは逃れられないらしい。まあ一応その意見は理解出来なくもない。

これを聞いた後、僕が次に疑問に思ったのは彼の暇つぶしにおけるモチベーションである。

 

目標があると、人は大変な事でも頑張れる。逆にいえば、目標もなしに人は頑張り続ける事はできない。

彼にとって仕事がいくら暇つぶしだとはいえ、それにしたって何の目標もなしに継続しつづけられるようなものではないだろう。

 

一応いっておくと、彼はその業界においては既にかなりの地位に登りつめてて、承認欲求みたいなものは既に完全に充足されていた。

金銭欲求と、承認欲求を超えも、それでもなお働くのをやめられないのが人間なのである。

 

その暇つぶしのモチベーションは一体なんなのか?彼はしばらく考えた後にこう答えた。

 

 

「例えばさ、銀座にすきやばし次郎って鮨屋があるじゃん。あの店の大将・小野次郎さんって94歳になってもまだ現役で鮨を握り続けてるんだけど、なんでそんな事やってるんだと思う?」

 

「たぶんだけどさ、あれは鮨を握る事自体が楽しいんだよ。じゃあその楽しいって感情自体は何からきてると思う?僕が思うにそれは多分、全てをコントロール出来た時に感じる万能感みたいなものが源泉だと思うんだよね」

 

「小野さんほどの達人でも、ある日は最高の鮨が握れるときもあれば、またある時は全然思い通りに鮨が握れないときもある。その細かい差がなんなのかを考えながら、全てがうまくいった時に最高の鮨が握れる事が楽しいからこそ、家で静かに余生なんておくらないで鮨を握り続けてるんだと思うんだよね」

 

「うまくいえないんだけど、自分の仕事に対するモチベーションって結局のところそれなんだよね。いろいろ考えてやってみた事が全部うまくいくと気持ちいいし、うまくいかないならいかないで、原因を考えてまた仕事の方法を変えてみる。それでうまくいったりすると、やっぱし気持ちがいい。この全てがコントロールできたような万能感にひたれるのが、しいて言えばモチベーションかなぁ」

 

 

確かに人生は思い通りにいかない。

大好きなあの人は私達に振り向いてはくれないし、宝くじも馬券も思うようには当たらない

 

世の中は私達が思うようには全然動いてくれない。

けど一つだけ自分の思うように動いてくれるものがある。それは自分だ。自分だけは意のままにコントロールする事ができる。

 

イチローしかり羽生善治さん、よのプロフェッショナルがストイックに自分を絞り上げられるのは、自分という器を完璧にコントロールさせた後、最高の仕事が自分の手から産まれるという事の快感を知ってしまったからなのかもしれない。

 

きっとその快感を知ることができた人は億万長者への扉をニコニコと楽しみながら突破する事ができるのだろう。

 

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:vgallova)

議場に赤ちゃん「子育て女性も活躍できる場に」

22日に開会した熊本市議会の定例会で、緒方夕佳(ゆうか)市議(42)が生後7カ月の長男を抱いて議場に入場したため開会が40分遅れる混乱があった。

議員や職員以外が議場に入ることは規則で禁じられているが、緒方市議は「子育て中の女性も活躍できる市議会であってほしかった」と説明した。

「なにがいけないんだ」という賛成派と「議会の規則に抵触しているならダメだ」という否定派をはじめとして、議会に子連れが認められた欧州の例なども引き合いに出され、さまざまな意見が飛び交っている。

 

緒方市議が言っているとおり、欧州の子連れ議員の方たちは、「子持ちでも仕事を」から「子連れでも仕事を」というメッセージを伝えたいのだと思う。

 

議会の規則などはひとまず脇に置いておいて、「仕事に赤ん坊を連れてくることは仕事と子育ての両立になるのか」という点から、思うところを書きたい。

 

赤ん坊を連れてくれば仕事と育児の両立?

まずはじめにお伝えしたいのは、わたしは仕事と子育てが両立しやすい社会になってほしい、と思っていることだ。

女性の負担が減ってほしいし、男性が積極的に育児に参加できる環境にもなってほしい。

 

とはいえ、「赤ん坊を仕事場に連れてくる」というのは、「仕事と子育ての両立」の手段になるんだろうか?

これには、3つの問題があると思う。

 

勤務時間なのに「働けない」

ひとつめは、勤務時間内なのに働けない時間があるということだ。

たとえば同僚Aさんが、赤ん坊を連れて仕事に来たとしよう。そして赤ん坊が泣くたびに、Aさんは仕事から離れる。

 

それを好意的に受け止めるかどうかは個人の自由だが、Aさんが勤務時間内にも関わらず仕事ができない状態である、というのは事実だ。

Aさんは頭数にも入っていて、仕事場にもいて、給料も発生しているのに、その人が働けない「かもしれない」。これはとても厄介な状況だ。

 

その状況なのが1人ならなんとかなるだろう。

でも子連れ出勤者が10人、20人になっても、「微笑ましい」「みんなでフォロー」と言えるのだろうか。

 

結局負担が増えるのは女性

さらに危惧しているのが、子連れ出勤が認められたことにより、「じゃあ子どもを連れて仕事をすればいいだろう」と言い出す人の存在だ。

子連れ出勤を認めれば、その役目は十中八九女性にまわってくるだろう。

(欧州でも、子連れで議会に参加したのは基本女性である)

 

「女性が働きやすいように」と子連れ出勤を認めた結果、逆に女性が仕事に集中できなくなっては意味がないのでは……と思う。

仕事と子育てを「女性」が「同時に」行わざるを得ない状況というのは、女性が目指す「活躍できる社会」なのだろうか?

 

効率を求める仕事vs.理解を求める子育て

そしてわたしが一番の問題だと思うのが、「反対派が『子育てに非協力的』というレッテルを貼られること」だ。

 

わたしは子どもが好きだし、子育てしやすい社会になってほしいと思ってる。

それでも、もし自分が働くオフィスに赤ん坊がいたら?と考えると、やはり慎重な意見になってしまう。

 

クライアントとの電話中に赤ん坊が泣き出したら、謝った上で席を外すだろう。

となりで赤ん坊が寝ていたら、起こさないように気を遣うだろう。

ちょっとした風邪でも、赤ん坊には近づかないようにすべきだろう。

 

それは赤ん坊が悪いのではなく、仕事以外に気を遣う対象があることへのストレス、そしてそれによる効率低下が心配なのだ。

(子育てしながら在宅ワークしている方には、尊敬の念を禁じえない)

 

でもそれを大声で言ってしまうと、「子育てに非協力的」になってしまう。

「あなたみたいな考えの人がいるから子育てしづらいんですよ」と言われてしまえば、それで終わりだ。

 

それだと建設的な議論ができなくて、結果的に職場に軋轢を生むだけなんじゃないかな、と思う。

 

問題は「議会」限定ではない

今回の緒方市議を含め、欧州でも強行突破で議会に赤ん坊を連れて来た議員がいるが、実際に企業でそれをやったら職を失うかもしれない。

企業勤めの人ができない方法で、政治家が「仕事と子育ての両立」を訴えても、「議会に赤ん坊同伴はOKか」という限定的な話になってしまう。

 

でも必要なのは、「赤ん坊がいる両親が仕事に集中するためにはなにが必要か」を考えることではないだろうか。

 

子どもがどうしても預けられないときだけ特例で子連れ出勤、もしくはリモートワークはできないか?

会社に託児所を設けられないか?

子持ち社員が共同でベビーシッターを雇って会社の一室を託児室として利用できないか?

週20時間の時短勤務で時間配分は当人に任す……といった働き方はどうか?

 

「議会で赤ん坊はアリかナシか」ではなく、こういった再現性がある議論が大切だ。

 

仕事に子育てを持ち込んで両方中途半端になったうえ他人にも迷惑をかけてしまう……というのは、赤ん坊を持つ働く親だって望んでいないはずだ。

 

社会に一石を投じるという意味で子連れで議会に参加する意義はあるだろうが、さらに発展させて、もっと多くの人が働きやすくなるような話し合いをしていってほしい。

そして、こういったことがきっかけで、少しずつ仕事と子育ての両立がしやすい社会になっていけばいいな、と思っている。

 

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

(Photo:-JosephB-

缶切り使うスキル別にいらねーかもな、と思ったんですよ。

 

いや、別に全然大した話ではないんです。ちょっとした話です。

 町内会のお知り合いとお話をしていると、38歳の私が最年少という状況は別に全然珍しいものではなく、むしろすごく当たり前の風景です。38歳、62歳、68歳、74歳で平均年齢60.5歳カルテット、とかごく普通にあるわけです。偏差いくつだよっていう。

 

ただ私、お年寄りの話を聞くのはあんまり苦ではないというか、小学校の頃朝礼で校長先生の話聞くのとか割と好きだったっていうと変態扱いされたりすることもあるんですが、まあ2,30分くらいなら割と平気で世間話に付き合っちゃうわけです。

なので、お年寄りとの話題の引き出しは多い方だと自負しています。見てない大河ドラマの話についていくスキルもだいぶ高くなりました。

 

ただ、全体としては苦にならないといっても、やはり若干居心地が悪い瞬間というものはありまして。

 

やはりお年寄りはお年寄りなので、割と定番の話題の一つに「最近の若い者トーク」ってものがあるんですよ。

これが定番になっちゃう時点でちょっと色々アレなんですけど、私もお年寄りにとっては割と「若い者」寄りの部類な訳で、結構遠慮して話される感じがあるんで私がいない時とかもっと定番なんだろうなーと思うんです。遠慮されつつということもあって、正直「最近の若い者トーク」が盛り上がる場面では居心地は悪いです。

 

「最近の若い者トーク」を実際に目の前で聴いていて、やっぱりなんで居心地が悪いかというと、なんだかんだでそれが「嘆き4割、優越感6割」って感じの会話だからなんですよね。

表面上、若い者の行状について嘆くという形式をとりながら、メインはどちらかというと上から目線を楽しむ方なんですよ。

 

で、これもまあ多分定番の話だと思うんですが、最近の子はアレが出来ないソレが出来ない、みたいな話もあるんです。

やれ最近の子はマッチで火がつけられない、とか。靴紐が結べないらしい、とか。

 

先日話題になったのが、缶切りでした。缶詰を開ける缶切り。皆さん最近缶切り使いました?私はもう3年くらい使ってません。

で、その時の会話では、なんか「缶切りが使えない」というのが結構、あり得ないことというか、大事件というか、重大な生存スキルの欠損みたいな感じで語られてまして。

「うちの嫁に聞いてみたら、孫がなんと缶切り使えなかった」

 みたいな話から始まって、自分たちの頃は6,7歳の頃から使えたとか、緊急時にどうするんだとかしんざきさんのところは大丈夫かとか教えておいた方がいいとか。

 

いや、まあねえ、と思ったんですよ。

 

しんざき家の子どもは、多分缶切りが使えません。少なくとも、実際に実地で缶切りを使って缶を開けたことは一度もないと思います。というか、缶切り自体どこにしまったか忘れました。

 

確かに、缶切り使えるのってスキルの一つではありますよ。

最近は、日常生活で見る缶ってのは殆どがイージーオープン式になっていて、そもそも缶切りを使う必要がある缶自体滅多に見かけないとはいえ、缶切り使わないと開けられない缶が存在しなくなった訳ではありません。

保存食やら海外缶詰やら自衛隊の戦闘糧食やら、使う機会ってのはもしかするとあるかも知れないですし、ひょっとしたら「缶切り使えなくて困る」という場面も出てくるかも知れません。

 

ただまあ、缶切り使用スキルが必須スキルかというと、「正直普段はなくても全然困らない」程度の重要度だとは思うんですよ。

うっかりするとこの先の人生一度も使わないかもしれない、という程度の。

 

こういうのって、多分他にも色々あると思います。「今の子って〇〇も出来ないらしいぜ」って話題になる程度の、けどよく考えるとそのスキルこの先いるかな?っていう程度の重要さのスキル。

黒電話のかけ方が分からなくても最早一生困ることはないでしょうし、洗濯板が何なのか知らなくても通常生活に支障はないでしょう。

もしかすると、マッチのつけ方が分からなくても何も困らない時代になりつつあるかも知れませんし、いずれは靴紐の結び方さえレガシーになるかも知れません。

 

勿論出来れば出来るに越したことはないけれど、正直必要かなー?っていうスキル。

あるいは、「必要かなー?」と悩む時代になりつつある、なくても困らない時代が見えつつあるスキル。

そういうスキルが「使えない」ことを嗤うのって、正直あまり賢明ではないと思うんですよ。

 

何故かというと、レガシーなスキルが増えるのと同じくらいのペースで、新しい「日常に必須のスキル」は増えつつあるから。

日常必須のスキルというのは、新陳代謝するものであり、世代交代するものだから。

 

うちの子どもは、タブレットの基本的な操作は既に殆ど身に着けていますし、タブレットでレゴの設計書書いちゃう程度には使いこなしています。

Googleの使い方が分かりますし、「Googleで検索したものをそのまんま信じるのはちょっと危ない時もある」という知識も既にもっています。

電子マネーを平然と使いこなしますし、友達とフレンドコード交換してswitchで通信対戦出来ちゃったりもするわけです。

 

つまり、出来ることが減ってるかというと、多分そういうことではないんですよね。出来ないことも増えているけど、その分昔は想像もしなかったようなことが新たに出来るようになっている。

 

勿論、そういうことをお年寄りは出来るのか、という話ではないんです。出来ない人は出来ないでしょうし、出来る人は出来るでしょう。

 

ただ、「日常で身に着くスキル」「当然のように身に着けておいた方がいいスキル」というものは時代によって移り変わりますし、自分たちにとっての必須スキルが下の世代にとってもそうだとは限らないし、下の世代が必須スキルを身に着けていなかったとしても、それに代わる必須スキルをどんどん学んでいっているから別に心配するこたないんじゃないかな、と考えるのです。

 

私自身、多分いつかは、「スキル世代交代」の波を感じる時が来るのでしょう。

私にとっての「当然必須のスキル」が全然必要のないもの、日常で一切触らないスキルになる日はいずれ来るのだと思います。

 

例えばキータッチのスキルがそうかも知れない。車の運転のスキルが、電子機器の配線のスキルがそうかも知れない。

何が「世代交代候補スキル」かなんてわかったもんじゃないわけです。他人事じゃないです。

 

一つ自戒としては、上の世代にせよ下の世代にせよ、「自分にとっての必須スキル」を使えないからといって、それが時代の変化に伴う変化であるかどうかを考えもせずに、無自覚に嘲笑ったりバカにしたり、といったことは避けたいものだなあ、と、そんな風に思ったのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Steve

映画監督の押井守さんが、著書の『ひとまず、信じない情報氾濫時代の生き方』(中公新書ラクレ)のなかで、こんな話をされていました。

僕の父は明治生まれのデタラメな男で、村始まって以来の秀才だと周囲の期待を一身に背負い、青雲の志を抱いて東京に出てきた。

そこまでは良かったが、結局は望んでいた法律家になる夢が破れ、最終的には私立探偵や髪結いの亭主をやって、まともに働くこともしなかった。ふだんは酒に酔って大暴れをしているだけで、家庭内では暴君だった。末っ子の僕は被害に遭わなかったが、一番上の兄が何度も理不尽に父親に殴られているのを見た。

結局、父は何一つ自分にとっての優先順位を決めることができないまま、「立身出世できなければ、男としてはクズだ」という価値観だけに縛られて、不満を抱えただけの人生を終えた。父が亡くなったとき、最期を見届けた姉が「自分が死ぬことも信じられない、というような顔をしていた」と話していたのを思い出す。

おそらく本当に、自分がそんな人生を送り、何一つ実現することもないまま、幕が下りようとしているのを信じられなかったのだと思う。これは本当の不幸だ。

 

一方、こういう人を父に持ったことは兄の価値観に大きく影響した。僕が幼いころから兄が「自分はあんな父親にはならない。家庭人になる。食ってさえいければ、仕事は何でもよい」と言っていたのを覚えている。

事実、兄はそういう人生を送った。家族を優先順位の一位に据え、おそらく幸福な一生を終えた。最期はガンで亡くなったが、残された妻や子どもたちから、いまだに兄は愛されているようで、彼らの口から今でもよく父親の話を聞かされる。

「立身出世できなければクズ」という価値観を持つこと自体が悪いわけではない。だが、そんな夢を果たせるのは男の中の5%くらいのものである。成人後は幸福な一生を送った兄も、父の価値観ではクズの部類になるのだろう。では、出世できなかった95%は本当にクズなのかというと、そんなことはない。

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これを読んで、僕は身につまされました。

この父親って、僕のことではないか、と。

いちおう、今はそれなりに働いていますし、酒に酔って大暴れをすることもありませんが、僕は40代半ばにあっても「自分のなかでの優先順位」を決めることができずに、何かを諦めることもできず、「すべてがいつのまにかうまくいったらいいのにな」みたいな夢を見続けている、という現実を突きつけられた気がしたのです。

 

もちろん、すべてがうまくいく、という可能性も、まったくゼロではないのでしょう。

でも、そんなことは、まず現実的ではない。

立身出世しようと思えば、家庭生活にかける時間よりも、仕事や研究にかける時間を優先しなければなりません。

時間というものが限られている以上、人生の時間配分を決めなくてはならない。

 

押井監督は、これを「良い映画を作るための条件」にあてはめています。

映画の世界で考えてみよう。「良い映画を作るための条件とは?」と聞かれて、あなたは何と答えるだろう。

「良い原作があって、良い脚本があって、良い監督がいて、良いキャスティングができて、良いスタッフがいて、良い宣伝ができたら、良い映画ができます」

もしもあなたが映画監督で、スタッフに「良い映画を撮るための条件は?」と聞いて、そんな答えが返ってきたら、ためらわずにスタッフをクビにした方がよい。そんなことは、どんな馬鹿でも言える。なぜならそれは、当たり前のことだからだ。

大事なのは、そのいくつかの要素のうち、自分は何が重要だと思うのか。どれを優先すべきと思っているのか、ということにほかならない。

そして、そこには優先順位をつけるための根拠が必要となる。その根拠に、その人ならではの価値観が現れるのである。

何かを選ぶということは、何かを諦める、ということでもあります。

どちらが正しい、ということではなくて、その優先順位を自分自身で決めて、それを全うできれば、結果がどうあれ、「幸せ」なのだと押井さんは仰っているのです。

 

今の世の中って、「仕事はほどほどにやって、定時に帰宅しましょう」とか「仕事よりも家族を優先しましょう」なんていう考え方が、かなり広まってきています。

大部分の人は、「すべてを犠牲にして、仕事に打ち込んで成果をあげる」よりも、「家庭生活に重きを置いて、身近な人たちを愛し、愛されて寿命を全うする」ほうが、成功率が高いはず。

 

冒頭の押井監督のお兄さんは、父親を反面教師として自分の優先順位を決め、それを貫いたのです。

こういう生き方をすると、それはそれで「単なるマイホーム主義者で、社会的な業績を残していない」と批判されることもありそうです。

 

でも、外野がそんなふうに値踏みしたとしても、本人にとっては「ちゃんと目標を達成した」ということなんですよね。

そして、「仕事人間」も、それが本人の望んだ道であり、それに伴う犠牲も受け入れる覚悟があるのなら、けっして、「悪」でも、「間違い」でもないのです。

 

実際は、バランスをとっているつもりで、結果的に、仕事も家庭も中途半端になってしまう、ということばかりなのだけれど。

仕事がイヤになると、家庭を大事にしようと思い立ち、家庭がうまくいかないと、仕事があるから、と考えようとする。

結局、どっちつかずになってしまう。

そうやって、中途半端に終わるほうが、「人間らしい」とも言えるのでしょうけど、それで、自分の人生に満足できるのだろうか。

 

世の中には、大きな仕事をした(している)人に対しても、その人生において欠けているもの(優先順位が低かったもの)をあげつらって、「でも、あいつの人生には、○○が足りない」と嘲る人がいます。

たとえば、村上春樹さんや武豊騎手、イチロー選手に「でも、この人たちは、子どもがいないよね」って、言う人たち。

押井さんは、こう仰っています。 

定年まで仕事一筋ということで生きてきたのであれば、定年時に妻から「あなたとはこの先、一緒に暮らしたくありません」と通告されても、「それは仕方ない」とあきらめるしかない。そこに優先順位を置かなかったのだし、そこまで覚悟を決めていたのであれば、寂しい老後が待っていたとしても何の問題もない。

そういう人間は映画業界にはいくらでもいる。僕がよく知る宮崎駿監督だろうと、高畑勲監督だろうと、あるいは鈴木敏夫プロデューサーも、みな家庭難民みたいなものだ。

仕事ばかりして、家庭に下宿しているようなものだ。奥さんや子どもたちともコミュニケーションが取れているとはとても思えない。

ただ、その3人は家族とのコミュニケーションなど、もともと求めてもこなかった。このオヤジたちに「あんた、人生を後悔していないの?」と聞いたら、必ず「後悔なんか、するわけないじゃないか」と答えるに決まっている。

つまりは3人とも、幸福な人生を送ってきたということだ。それは、3人が映画の監督やプロデューサーとして成功したからという話でもない。今のような成功を収めていなかったとしても、彼らは後悔などしなかっただろう。そこで後悔するような人間だったら、そもそも今のポジションにはいなかっただろう。

正直なところ、いまの僕のように、40歳をすぎてから、「優先順位」を決めようとしても、これから仕事で大きな成果をあげたり、家族との関係が劇的に変化したり、というのは難しいと思います。

この「人生の優先順位を決める」というのは、20代、あるいは、社会人になって数年くらいの時期に、やっておいたほうが良いのでしょう。

ただ、宮崎駿監督とか、ノーベル賞を受賞した研究者の場合は、「優先順位を決めたというより、自分が好きなこと、やりたいことをやる、やらずにはいられない、そういうふうにしか生きられなかった」ような気もします。

 

「優先順位を決めなくては」と迷って、それを意識せざるをえないような時点で、仕事で飛び抜けた成功を収めるのは難しいのかもしれませんね。

 

僕も「自分が死ぬことも信じられない、というような顔をしていた」と言われることになるのだろうか、それは、すごく怖くてむなしい。

その一方で、大部分の「ふつうの人生」って、そういうものなのかな、とも思うのですが。

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:tanjila ahmed)

最近「副業」の盛り上がりが著しい。

 

ついに厚生労働省も「モデル就業規則」に、副業を認める文言を入れるように変えるという。

副業容認、就業規則例を見直しへ 厚労省

厚生労働省は、会社員が副業や兼業をしやすくするため、企業が就業規則をつくる際の参考として示している「モデル就業規則」を見直す方針を固めた。副業や兼業を禁止する項目を削除し、原則として容認する内容に変更する方針だが、労使の代表から長時間労働の是正の動きに逆行しかねないとの懸念も出ている。

遅きに失した感が否めない対応だが、実は現場はもっと進んでいる。

なにせ、副業で「超」稼げる時代が、すでに来ていたのだ。

 

*****

 

例えば、コンサルタントのKさんは、本業で某有名ファームに勤めつつ、副業でも知人の会社を手伝っており、そこから年間数百万円の報酬を得ている。

Kさんは「会社が長時間労働を禁止する方向にある。Up or OUTではないが、逆に「もっと稼ぎたい」という人には物足りない」と言う。

「今の会社で役員を目指すのはけっこうキツイ。政治もあるし、運もある。なによりせっせと上司の機嫌を取らなきゃならない。なら、気の合う知人の手伝いをして稼いだほうが良い。多分ウチの上司よりも、私のほうが稼いでいるし、人脈もある。」

 

また、webエンジニアのOさん。

本業の会社でもトップエンジニアであり、更に副業でも稼ぐ。

 

会社は最近の潮流で「副業OK」としているので、堂々と他の会社の技術顧問や制作の依頼を受け、自身も外注を使いながら、月間100万円以上を副業から得ている。

「今の会社は自由でいい会社。でも出世は望まない。それよりも副業で稼いだほうが遥かに効率的」という。

彼もまた、「上司よりも稼いでいる」人の典型だ。

 

以前、「副業」と言えば、ブログのアフィリエイトやアルバイト、物品の転売程度だった。

だが、現在の副業はむしろ、企業側が「フリーランス的な動きが可能な人」を求めているので、「業務委託」の形になり、能力の高い人はかなりの金額を稼ぎ出すことができる。

それこそ、本業の給与に匹敵するくらいに。

 

*****

 

このような話をすると「特殊な事例では?」という方が居る。

3年前であれば、私も「特殊ですね」と言っただろう。

 

しかし、現在は特殊な事例、というには数が多すぎる。

現に、「新しい働き方」を求める人が副業に着手し、企業も「フリーランス、副業者」の利用を積極的に始めている。

 

これは、「正社員が採れない」が転じて「正社員にはこだわらない」となっており、企業がますます、正社員にこだわらず「優秀な人」を求めるようになっていることの現れともいえる。

実際、「フリーランス、副業」だけではなく、多くのコンサルティングファームも軒並み最高の業績を記録している。

 

また、最近はリモートワークツールがかなり実用的になったこともあり、「フルリモート」でも十分なパフォーマンスを発揮できることも一つの要因だろう。

 

ある、コンサル出身者はこう言った。

「サラリーマンの平均給与が下がっている理由の一つが、正社員の給料をあげるよりも、外部の優秀な人物に、必要なときだけ払ったほうが良い、と考えている企業が増えているから、というのはあると思います。」

さらに彼はこう続けた。

「正社員も、若手は優秀な人ほど定着率が悪い。だったら、最初から外部に、と言うのは自然だと思います。」

 

つまり、このような仮説が成り立つ。

昔はコア業務は社内で仕事を回していたため、「社内のできる人」に仕事が集中していた。

だが時代は代わり、「外部」を使うことに徐々に抵抗がなくなってきた企業が増え、かつ社員の「終身雇用」へのこだわりが消えた今、今は社会全体で「できる人」に仕事が集中する……。

 

ある転職エージェントは言った。

「そうですね……今は能力の高い人とっては本当に良い時代だと思います。仕事は選び放題で、副業も認めてもらえる。だから、稼げる人はサラリーマンでいながら、青天井。稼ぎたいからと言って無理して起業する必要もない。」

 

*****

 

現在、活況を呈している転職市場を制しているのは、「転職サイト」だ。

だが今の状況が続けば、「副業サイト」が出てきてもおかしくない。

「副業」のマーケットが確立すれば、高い能力を有する人は、かなりのお金を手にしてもおかしくない。

 

逆に、「社内」に使われる人件費はますます下がる可能性もある。

平均給与の低下はまだまだ続くのかもしれない。

平均給与が下がり続ける理由とは?【争点:アベノミクス】(ハフィントンポスト)

平均給与が下がり続けている。国税庁が9月に発表した調査によると、国内における民間給与は2年連続で減少したことがわかった。これは、24年前の給与水準と、ほぼ同じだ。従業員の数は増えているのに給与総額の減少が止まらないという。なぜこのような状況が起こっているのか。

 

 

 

 

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新卒のとき、「嫌な仕事でも我慢して引き受けたほうが良い」というアドバイスを貰ったことがある。

「なぜですか?」と聞くと、その方は「社内の信用とスキルを得るため、嫌な仕事でも我慢して引き受けるべき。」といった。

 

その3年後。

私は別の方から、「私は嫌な仕事は絶対に引き受けない。」という、真逆の話をいただいた。

同じように「なぜですか?」と聞くと、「やりたくないことを無理やりやっても、パフォーマンスは出ない」といった。

 

さて、一体どちらの言い分が正しいのだろうか。

当時の私に結論を出すことはできなかった。

 

*****

 

まず事実として、パフォーマンスと内発的動機(外部からの強制や報酬ではなく、自らやりたいと思うかどうか)には関係がある。

これは実験によって確かめられた、科学的事実だ。

 

例えば内発的動機づけを研究している、カーネギーメロン大のエドワード・L・デシは、著書の中で次のように述べる。

他の研究でも、内発的に動機づけられているときに比べて、外的な報酬のために活動しているときのほうが、問題をうまく解決することができないという結果が得られている。

統制することを動機づけ方略として用いると、思考力や集中力、直感力や創造性などが妨げられるという多くの治験が見出されているのである。

もちろんこれまで述べてきたように、外的な統制を理由として活動に従事している場合には、人はその活動を楽しむことができない。

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「やりたい」と思うことはパフォーマンスが高くなり、「嫌だ」と思うことについてはパフォーマンスが低くなる。

 

また、ピーター・ドラッカーは次のように述べている。

自らの強みは自らの成果でわかる。もちろん、好きなこととうまくやれることとの間には、ある程度の相関関係がある。また、人は嫌いなことには手間をかけないことから、嫌いなこととうまくやれないこととの間には、さらに強い相関関係がある。

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逆に言えば、パフォーマンスが重視される仕事ほど

「嫌なことはしない」は重要な意味を持つ。

 

実際、そのような職業、例えば経営者、研究者、作家、芸術家、起業家、スポーツ選手たちは「嫌なこと」は徹底的に断っていると明言する人も多い。

個人的な高い能力が必要とされ、コラボレーションよりもクリエイティビティを求められる仕事においては「嫌いなことをしなければならない」はパフォーマンスに深刻な影響を与える。

 

しかし「集団の中で働く人」にとっては、別の話もある。

大変残念ながら「個人のパフォーマンス」と、「組織のパフォーマンス」は必ずしも一致しない。

個人がいかに高いパフォーマンスを発揮していたとしても、組織、会社レベルで見れば「嫌いな仕事をすべき」というシーンは数多くある。

 

例えば、社員の一人が「嫌な仕事はやりたくない」といって、自らの仕事の一部を放棄したらどうなるか。

工場のラインのように、もしその仕事が全体のパフォーマンスが向上するように最適化されていたとしたらどうなるか。

 

その人が嫌がろうがなんだろうが、その仕事は成されなくてはならず

「つべこべ言うな。やれば良いのだ」という話になるだろう。

それゆえに、組織の中で生きる人達、例えば事務員などのサラリーマン、作業員、店員などのブルーカラーたちは、「嫌な仕事はしない」という訳にはいかない。

 

ここからわかることは、

「個人のパフォーマンス」が重要な意味を持つ仕事や、スタープレーヤーは「嫌いなこと」をしてはならないこと。

そして、「組織のパフォーマンス」が重要な意味を持つ仕事や、チームプレーヤーは「嫌いなことを」もやらざるを得ないこと。

の2つである。

 

*****

 

それでは、上を踏まえ、個人的なキャリアの戦略として

「嫌いなことはしない」と

「嫌いなことも敢えて引き受ける」の

どちらを選択すべきかを検討してみる。

 

まず、サラリーマンとして定年まで勤め上げ、一つの組織にずっととどまりたいなら、とにかく「嫌な仕事」でも確実に引き受けることだ。

組織はあなたの貢献を認め、「嫌な仕事であっても引き受けてくれる」という評判を作るだろう。

それは出世にはプラスとなる。

 

また、自分はチームプレーヤーであり、スタープレーヤーの補佐であると自認しているならば。

「スタープレーヤーが嫌がること(大抵皆が嫌がることだが)」を引き受け、彼の寵愛を受けるという選択肢もある。

 

だが、そのような選択肢を選ばない(選びたくない)場合。

「嫌な仕事」は徹底的に断ったほうが、長期的には良い結果を生むだろう。

 

なぜなら、ドラッカーが言うように、仕事の成果は「苦手なこと、短所」ではなく「得意なこと、長所」からしか生まれないからだ。

しかし何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。できないことによって何かを行うことなど、とうていできない。

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「上司に嫌われてしまう?」

別にいいではないか。

そもそも、上司もいつまでこの会社にいるかわからない。

転職するかもしれない。今の時代、有能な上司であれば、必ず転職するだろう。

逆に、人に嫌な仕事、汚れ仕事を押し付ける上司は、だいたい成果をあげることができずに更迭されるし、そのような人物のもとで仕事をする価値は全くない。

 

さらに。考えてみて欲しい。

自分が1年後、本当にここにいるだろうか?

「社内で嫌われる」は、すでに脅し文句としては弱い。

「あっそう。」でおしまいにすれば良い。

我慢をしてやる不愉快さをコストとして捉えると、「嫌な仕事をする」はコスト>>メリットであるケースが圧倒的に多いのである。

 

結局、終身雇用ではなく、仕事にクリエイティビティが求められる現代においては「嫌な仕事はしない」は圧倒的に正しいという結論に至る。

 

*****

 

このような話をすると、「近視眼的だ」とか「嫌いかどうかはやってみないとわからない」という反論もあろう。

確かに仕事によっては「嫌いだ」という思い込みによって、仕事をハナから断ってしまう、というのがもったいないケースもあるのは事実だ。

例えば、以下の様な場合は、一考の余地がある。

 

・分解してみると、「嫌」なのではなく、「怖い」だけだったと言う仕事。「怖い」は「嫌い」とは違う。勇気が欠けているとろくなことにならない。

・「好きではない」という程度で断るのは思いとどまるべきだ。「好きではない」というのと「嫌いなこと」というのはかなり違う。

・やってもいないのに「嫌い」と言い続けると、「自分の隠し能力」に気づかないときがある。

 

しかし、大概は「嫌い」はやらなくていい、というサインと受け取ってOKだ。

どんなことでも発見がある、というのはもっともらしいけど、時間が限られている以上は、「石の上にも三年」は多くの場合、あなたを操ろうとする上司の詭弁であることが多い、と言わざるをえない。

 

 

 

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(Photo:gato-gato-gato

もう1ヶ月以上前のこと、私はとある就活イベントに参加していた。

就活イベントといっても採用するためのイベントではなく、大学の卒業生がどのように就職活動をしてきたか、今どのような仕事をしているかについて話し、在学生の参考にしてもらうためのイベントだ。

 

興味深い話はいくつかあったが、中でも特に印象に残っていることがある。

それは社会人の1人が学生と社会人の違いについて言及した話だ。私がこれまでに聞いたことがあるのは、「評価のされ方が違う」「責任の重さが違う」「時間の使い方が違う」「教えてもらうか、自分で覚えるか」「お金を払うか、受け取るか」「人間関係を選べるか、選べないか」「正解があるか、ないか」といったものだった。

 

その人は、学生と社会人は「恋愛か、結婚か」という違いがある、と言っていた。

 

確かに、学生の頃は結婚の話をしている人はほとんどいなかった。飲み会で盛り上がる話題は常に恋愛であり、誰もが恋愛をしたがっているように見えた。

大学の人間関係は恋愛至上主義で成り立っていると思えるほどだった。

高校までは偏差値至上主義であり、大学は恋愛至上主義になる。会社は成果至上主義だ。

現実はもっと複雑にできているけれど、メインの評価軸は決まっているように見える。

 

と、少し話が逸れてしまったが、とにかく大学生の頃はプライベートの話と言えば恋愛だった。そこに結婚の話はなかった。

それが社会人になると急に結婚の話になる。この変化に驚き、戸惑った、という話だ。

 

社会人になると、「誰かと付き合っているか」ではなく、「既婚者か独身者か」という点を見られるようになる。

恋人の有無ではなく、配偶者の有無が問われる。“恋愛”という感情から“結婚”という制度の話に変わっているのである。

 

これが良いとか悪いとか、そういう話をしたいわけではない。ただ「結婚」というものが社会において大事だと思われていて、しかも結婚しているかどうかがその人を表す重要な指標になっているということだ。

 

実は同じイベントでもう1つ興味深い、そして残念な話を聞いている。

それは結婚と評価の関係についてだった。

なんと、結婚していないと会社で評価してもらえないということがあるというのだ。衝撃を受けた。このご時勢でまだそんなことをしている会社があるなんて。

 

露骨に評価を下げるということはさすがにしないらしい。それでも結婚していないことが評価と結び付けられていることをひしひしと感じる、感じざるを得ないようなことが重なり、確信してしまう。

こうして優秀な人材が転職を決意する。

未婚者が評価で不利になるのは、結婚してこそ一人前という価値観があるからだろう。

 

ただ、この価値観、今でも本当に残っているのだろうか。

ふと過去のちょっとした会話を思い出した。

 

30歳前後、いわゆるアラサーの容姿端麗な女性がいる。彼女にはお付き合いしている男性がいるようだが、結婚はしていなかった。

彼女と仲が良い人たちは、「あれだけ美人なのに結婚していないと、何か欠点が隠れているのではないかと思われてしまいそう。美人で損なこともあるのねー」と言っていた。(文字だと伝わりにくいが、嫌味ではなく、フレンドリーな会話の一部である。)

 

「欠点が隠れているのではないか」ではなく、「欠点が隠れているのではないかと思われてしまいそう」というのがポイントで、周囲の人たちは皆彼女が素晴らしい人だと知っていて、貶す意図など全くない。

ただ、彼女のことをよく知らない人が独身であるという点だけで彼女を欠点のある人だと決めつけてしまわないか心配しているのである。

 

似たような話がある。

 

淡々と要領良く仕事をする彼は、周りの先輩に「自分は君が仕事をしっかりやっていることを知っている。だが他の社員には伝わらないだろうから、アピールすることも大事だ。もっと他人からどう見られているかを意識したほうがいい」とアドバイスされたという。しかも1人ではなく、複数人に。

 

皆、「自分にはわかる。でも他の社員にはわからないだろう」と想像してアドバイスをくれる。

だが「仕事をもっとしっかりやったほうがいい」と言う人は1人もいないらしい。つまり、「他の社員」にも彼が仕事をしっかりやっていることは伝わっていて、アピールする必要などなかったのだ。

 

もちろん、ただ仕事をしているだけは評価してもらえないこともあるため、アピールも大事だというアドバイス自体は間違っていない。

ただ、彼の場合はアピールするまでもなく周囲に仕事ぶりが伝わっているにもかかわらず、周囲の人が勝手に「彼が良い仕事をしていることは自分にしかわからないはずだ。だからアピールすることの大切さを伝えてあげなければ」と思っていたのだ。

 

この「自分は理解しているが、他の人は違うだろうから、気をつけたほうがいい」というアドバイス。

私も聞いたことがある。

 

「僕は賛成だけど、周りの人は反対するだろうから、やめておけば?」

「私は偏見ないけど、周りの人はあるだろうから、言わないほうがいいよ」

その「周りの人」は本当に存在するのだろうか。少なくとも私は、彼らがいう「周りの人」に出会ったことがない。

 

結婚している人はまとも、結婚しない人はまともじゃない。この価値観についてどう思うか。

「自分はそうは思わないけど、世間はそう思うんじゃない?」

 

そう思っている「世間」は本当に存在するのだろうか。もしかしたら、皆の頭の中でだけ存在している「世間」かもしれない。

いや、それは都合良く考えすぎだろうか。いずれにしても、時代遅れの価値観を反映した評価制度がなくなることを願わずにはいられなかった。

 

 

【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

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Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:World of Payne

さる週末、僕はたまたま予定が何もなかった。

 

何をしようか考えた時、止せばいいのに脳裏に

「たまには激辛料理を食べて、人生の辛酸を舐めてみるのも悪くはないな」

と思ってしまったのが運の尽きであった。

 

激辛麻婆豆腐・・・食べたのかって?食べたさω;`)ツラカッタヨ

 

というわけで今回は超ウルトラハイパー激辛麻婆豆腐を食べて、散々苦しんだしょうもない話をお伝えさせて頂く。

 

第一部・舌の上を駆け抜ける刺激

その超激辛料理を出すお店は新橋にある。昔、何かの媒体で「今まで12人しか完食したことがない麻婆豆腐があるらしい」というのを読んで、いつか行ってみたいと思っていた店であった。

椅子に座るなり、僕は店員にメニューも見ずにこう伝えた。

 

「麻婆豆腐。辛さは激辛で」

 

すると物凄く嫌そうな顔をした店員がこう伝えてきた。

「激辛、スゴクスゴク辛い。ダイジョウブ?」

 

僕はその心配を振り切って、満面の笑みで大丈夫ですと伝えた。店員はまた馬鹿があらわれたな、という顔を浮かべ、厨房にこう告げた。

「麻婆豆腐、激辛イッチョウ!」 

 

待っている間、ドキドキと心臓が高鳴る。この料理が出てくるまでの緊張感がたまらない。

果たしてこの麻婆豆腐は僕の歴代激辛レコードをどれだけ更新してくれるのだろうか。というか僕は生きて帰れるのだろうか。この張り詰めた緊張感、この非日常的なスリルを味わえるのが、激辛フードファイトのいいところだ。

 

「おまたせしました~」

 

そうして激辛麻婆豆腐が運ばれてきた。それは厚く熱された石鍋に入っており、見るからに溶岩の如くボコボコという不吉な音を立てて鎮座していた。

「やべえ。予想の斜め上でキツそうだω;`)こりゃ無傷じゃ済みそうにないな」

 

覚悟を決めた僕はレンゲを燃えさかる溶岩に突き入れ、それを一口頬張った。

「ガリッ」

「!?」

予想外の食感が僕の口の中を駆け巡った。その正体は中華山椒の実である。途端、僕の口を刺すような刺激が駆け抜けた。

 

「なるほど。ここは単純な辛味だけでなく、山椒による刺激もかなりぶち込んできてるのか。やれやれ、今回の相手はちょっとは手こずりそうだな・・・」

正直言って、この時点ではまだ余裕があった。むしろ全然大したことないなと思っていた。

 

しかしその思惑は中盤戦を越えてから徐々に崩壊していくこととなる。

 

第二部・限界への挑戦

こうして何度か食べ進めるうちに、だんだんと腹を満腹感が襲うようになってきた。

実は激辛フードファイトのつらさは辛さ以外にももう1つある。それはだ。辛いものを一口食べても誰も賞賛してくれない。やるからには完食あるのみである。

 

辛いものを食べきるにあたって、意外と量は馬鹿にできない。良きサポーターであるが意外とこの満腹感を加速させるのがまた問題を二重にややこしくしている。

当然だけど、辛い料理を食べるにあたって水は不可欠だ。水の冷たさは激辛で燃えさかる口の中をクールダウンさせてくれるという大切なメリットがある。

 

しかしそんな癒やしの女神である水にも1つの弱点がある。腹にたまるのだ。

飲みすぎると腹が水でたぷんたぷんになり、強烈な満腹感によりファイトが途中で継続不能になってしまう。

 

激辛フードファイトはある意味マラソンとよく似ている。マラソンは、残り何キロメートルあるかを常に頭の中で計算しつつ、体力ゲージを頭の中で想像しつつ、走るペースを決めていく。

 

激辛料理における体力ゲージは満腹感に相当する。残された皿の料理の量から、自分の満腹感を逆算し、そしてあと何回水を飲んでも大丈夫かを逆算する。

この計算ができないと、激辛料理を完食する事はできない。

 

こうして満腹感と口の中の辛さに耐えられる限界度合いを常に意識し、最後まで食べきることができるのかを逆算ながら激辛マラソンの完走を目指すのは、意外と競技性に富んでおり非常に面白い。

傍から見るとただの馬鹿げた行為にしかみえないかもしれないけど、はっきりいってこんなにもリアルにマジになれるイベントはそうそうない。まさに命がけのフルマラソンである。

 

そうして満腹感と口の中の限界度合いがある一定以上を超え始めると、驚くべきことに脳内で走馬灯が流れ出すようになるからまた現実は興味深い。

よく事故で死にそうになる前に走馬灯が流れ出すという話を聞くけど、おそらくあれは一種の現実逃避なのだ。激辛フルマラソンを走るとそれが実によくわかる。

 

「あー、なんで俺わざわざこんな辛いことやってるんだろ」

「考えてみると、小さかった頃はそこいらを走ってただけで楽しかったな・・・あの喜びも、大人になるにつれてどんどん薄くなっちゃって・・・」

( д)ハッ!。いかんいかん。意識が飛んでた。現実に立ち返られば」

 

激辛フルマラソンの中盤~終盤はこれの連続だ。そしてギリギリ完走できそうな最後の2~3口がまた苦しい。

 

よくテレビの大食い選手権とかで、途中でスプーンを口に運ぶ手が止まっているのを目にすることがあるけど、あの心境が実によくわかる。なんていうかもう、胃も口もギリのギリなのだ。

「あと3口・・・」

けどこの3口が実にしんどい。こればかりはもう、一度体験しないとわからないと思う。

 

「もう逃げたい。こんなバカげた事を達成しても誰も褒めてくれない」

「でもあと3口で目標達成だ。頑張れ」

こうして頭の中で天使と悪魔がバトルを始めたら、いよいよ競技も終盤戦だ。

 

ヒッヒッフー。ヒッヒッフー。辛い時はラマーズ法の呼吸と相場が決まっている。

古来より数多くの妊婦を痛みから救ったこの呼吸法は、我々を苦しみからほんの少しだけ開放してくれる。

 

そうして胃と口と脳の限界が来るかこないかのギリギリで、僕はようやく激辛麻婆豆腐を食べきる事に成功した。

 

目の前にはもう僕を苦しめるものは何もない。ついに激辛麻婆豆腐を完食したのだ!

身体の中から妙な達成感がほとばしり、自分は偉業を成し遂げたのだという充足感で身も心もいっぱいになった。完全勝利である。

 

「辛いのに、オニイサンよく食べたねー」

僕は満面の笑みで

「辛かったけど美味しかったです」

と受け答えし、そしてお会計を済ませ店をでた。

 

そこには清々しい達成感に包まれた、一人の男の顔があった。

 

この世は広大な遊び場。楽しまないと損じゃないか

この体験記を読んで、ある人は「ばっかじゃなーい」と思うだろう。またある人は「何が一体楽しいの?」と思うかもしれない。

そう言いたくなる気持ちもわかる。けど冷静に考えてほしいのだけど、人生における無駄とか無意味って一体なんなのだろう?

 

子供の頃を思い出して欲しい。小学校の昼休みに友達と校庭を駆け回るだけで妙に楽しかったりしなかっただろうか?

「はやく授業が終わらないかなー」

そうソワソワとしながらチャイムがなった瞬間、教室を飛び出した時に感じたような喜びを、なぜ私達大人は忘れてしまったのだろう?

 

子供の頃、私達は「意味がある」とか「役に立つ」とかそんなことは全く考えずに素のままに世界を楽しんでいたはずだ。

それが大人になったらどうか。朝起きて会社に向かうのが辛いだとか、お金が無いだとか、将来が不安だとか、そういう苦しい要素ばかりを気にするようになったりしてしまってはいないだろうか?

 

本来、人生というのは広大な遊び場のようなものなのだ。

目の前には遊びきれないほどに素晴らしいコンテンツが沢山転がっている。

 

私達はいつからそれらを無視して辛いこととか意味とか役に立つみたいな事ばかり考えてしまうようになったのだろう?

最後にあなたが子供の頃のように腹の底から笑ったのはどれぐらい前の話になるだろうか?何で今は昔のように笑えなくなってしまったのだろうか?そこにあなたが人生を辛いと思ってしまう原因がきっとある。

 

とりあえず手始めに、もの凄く馬鹿馬鹿しい事を全力で真剣にやってみませんか?

 

<参考>

味覚(中国料理)http://mikaku-shinbashi.com/

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Hideya HAMANO)