タイトルで完結しているんですが。   「結婚式面倒くさい、やりたくない」って言ってる人を身近で観測したことが何度かあります。 つい最近でも一件ありました。まあ、ケース数でいうと5,6例とか、せいぜいそんなもんです。  とはいえ、私の周辺がそこまで特殊な人たちだとは思いませんので、「結婚式、やることはやるけど面倒であんまり関わらない」人というのはそれなりの数がいるのだと思います。   観測範囲内では100%男性で、同じく100%式の段取りやら企画やらを殆どすべて奥様任せにしていて、それ面倒くさがる要素あんまりないんじゃないですかと思ったものですが、中身を考えるのも面倒くさいから奥様任せにしているとか、そういう話なんでしょう。 段取りを整えるのが面倒くさいのか、式当日が面倒くさいのか、まあ多分両方なんだろうと思いますが。   いや、例えば「結婚式は金がかかるからそもそもやらない」とか、「式は不要だから写真だけ撮る」とか、「結婚式やらない」っていう選択肢に夫婦二人でたどり着くなら、それ全然アリだと思うんですよ。 片方の意見だけでそうなっちゃうとしたらあまりよくないかも知れませんが、いずれにしても「式しない」という選択自体はなんの問題もないと思います。「結婚」と「結婚式」はイコールでもなんでもない。好きにしましょうって話です。   ただ、「結婚式はする」けど「面倒だからあんまり関わらない」というのは色々勿体ないなあ、と思ったりするわけです。 なんでかというと、結婚式というのは、 「プロにアドバイスを受けながら、自分主催のイベントを好き勝手デザイン出来る」 「しかも、いろいろ勝手なことをやってもめでたい場だからあんまり怒られない」 という、人生においてもめちゃくちゃ希少なイベントだから。   ついでに、 「あるイベントについて夫婦で意見を出し合って、企画を完成させていく」 というのは、その後夫婦生活で不断に必要になる、夫婦間での相談の絶好のモデルケースになるから。     しんざきが結婚したのは2004年でして、当時25歳だったと思います。同期では割と早めに結婚した方でした。 結婚式というのもまあ滅多にできないイベントではありますし、普通にやってると人生一回しか機会はなかったりします。折角なのでやりましょうかということになりまして、式場探しやら招待客の選定やら、まあ二人で色々考え始めました。   幸い二人とも、働いているのがあんまりしがらみがない職場だったので、身内と親しい友人だけでやろうかという話になりました。 どうせ身内でやるんなら色々楽しい、ないし楽しんでもらえる式にしましょうか、ということになりました。別に定番通りのことにこだわらなくてもいいよね、ということにもなりました。 テーマは、「自己満足?自分を満足させられないヤツが、誰を満足させられるんだ?」です。     で、めぼしい式場を幾つか二人で回ってみたりもしたのです。 この時使った式場って、実はもうないんです。しんざき家には、「節目節目で使った店や場所がなぜか頻繁に潰れる」という謎のジンクスみたいなものがありまして、高輪台にあったホテル東京ってホテルなんですが、確か2008年くらいになくなってしまいました。 ただ、そこのウェディングアドバイザーさんには、やたらめったらお世話になりました。   イベントの段取りってこうやってやるのか!スケジュールってこういうこと考慮して切るのか!とか。 こういうことまではやっていいのか!これ別にやらなくていいのか!これは流石にやり過ぎか!とか。 席配置ってこういう考えで組むのか!とか。料理の順番って結構いじれるのか!とか。   なにせあの人たち、プロです。プロのイベンター。お任せっきりならお任せっきりでも色々やってくれると思うんですが、その時は我々にやる気があるってことで、かなり色んなことに付き合ってくれました。   私と奥様の共通の趣味は南米民族音楽(フォルクローレ)でして、当然共通の友人にもフォルクローレ関係者が多かったので、折角だからBGM代わりにライブ形式にしてしまったらどうか?とか言ってみたら、PAから演出から山ほど案出ししてくれましたしね。 料理やら内装やらについても、「こっちはプロだから黙って任せてください」みたいなことは全然なく、可能な限りこちらの意見に付き合ってくれました。選曲も当然フォルクローレ中心で、どこのペーニャ(民族音楽酒場)だよって感じの雰囲気にしたりとか。サークルの先輩が大笑いしてました。   勿論これは、ホテルによっても、担当者によっても違うことなのだと思います。私の時、たまたま素敵な担当者さんに巡り合えただけ、という可能性は否定しません。 ただ、多くの人にとっては「イベントのプロが、自分のイベントに全面的に協力してくれる」という経験自体が滅多にないわけで。こちらのわがままにも可能な限り付き合ってくれるわけで。知らないノウハウやら、仕切り方やら、段取りやら、連絡の回し方やら、ああいう「実地でプロの技を勉強する機会」というのは、逃がしてしまうともったいないと思ったりするわけですよ。   そして、担当さんとのやり取り以上に、「一つのイベントについて、様々なアイディアを出しながら話し合う」というのを、結婚前に夫婦で出来たというのも、すげー貴重な機会だったと思うんです。 夫婦って、言ってみれば人生プロジェクトのプロジェクトメンバーです。そして、どんなプロジェクトよりも情報共有、相談、歩み寄りを密にしないといけない立場です。   大きなイベントをどうかじ取りするか、というのが重要なプロジェクト成果であることは間違いなく、言ってみれば結婚式は、夫婦間の最初の「プロジェクト成果モデルケース」になり得るわけです。 同じテーマについてどう相談するか、意見が食い違った時どう歩み寄るか、お互いのアイディアをどう評価するか。そういうことを一番最初に練習出来たことは、今の私たち夫婦にとっても一つの財産になっていると思う訳です。   繰り返しになりますが、「結婚式をしない」という結論であるならば、それ全然問題ないと思うんです。ただ、どうせ「結婚式をやる」と決めたなら、積極的にかかわっていった方が色々得るものがあると思いますよー、と、そういう話でした。     今日書きたいことはそれくらいです。       【プロフィール】 著者名:しんざき SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。 レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。 ブログ:不倒城   (Photo:kmichiels)  
ネットに限定される話かもしれないが、最近、企業に体育会系的なノリを持ち込むことが、嫌われているように感じる。 休日に部署対抗のソフトボール大会でもやろうものなら、社員は「休日を潰された」と感じるし、研修でマラソンや、山登りをすることがわかると「こんな会社に入るのではなかった」とまで感じる新入社員もいる。 (とはいえ、この手の研修は自己啓発的な要素を含んでいるので、そっちのほうが問題視されているのだろうが)   さて、フリープログラマという一日中部屋に閉じこもる仕事をしている筆者だが、意外にも学生時代は運動部に所属し、あまつさえ部活の部長すら務めたことがあるという、バリバリの体育会系の出身である。 20年以上前の話だが、体育会系のノリや風習には一通り従ってきたので、大体のところは知識として知っているつもりだ。 ここでは、体育会系組織が持つ、集団統治の「システム」を紹介しながら、そこに現代人が抱く「嫌悪感」の源を考えていきたい。  

先輩後輩の厳格な上下関係

体育会系のイメージとして最も印象が強いのは先輩・後輩の上下関係だろう。 先輩の言うことは絶対であり、練習のメニューや時間も全て先輩が優先される。後輩はその時間、壁当てや筋トレなど、いかにもつまらない練習をしてすごす。 逆に先輩は、ご飯を奢ったりして、後輩の面倒を見ながら、組織の規律を守る役割を負う。   これを現代の組織に当てはめた時、一見、「年功序列」と「能力主義」の対立が見えるかもしれない。 しかし、実は体育会系システムの中で、年功序列と能力主義は矛盾しない。   部活であっても、後輩のほうが、タイムが良かったり、プレイが上手かったりすることはザラにあるからだ。 このような矛盾を体育会系システムがどのように解決しているかというと、それはもう集団による「空気」としか言いようがない。 体育会系組織の中では、どんなに優秀な人間であっても、先輩には一定の敬意を払うことが強制される。それによって、組織全体の「空気」が保たれるのである。 もし、そのような「空気」に従わない場合は「生意気な後輩」ということで、組織からつまはじきにされてしまうだろう。そのような「例外処理機構」を体育会系システムは備えている。   とはいえ、例えば私の知るプログラマの世界にこれを適用してみると、この機構の問題点がよくわかる。   この業界では実際のところ、若い技術者のほうが、現代の技術トレンドに詳しく、優秀なことが多い。 先輩はというと、最新技術のキャッチアップを怠り、一昔前の手法に拘泥していて、手は早いが、書いているコードは5年前のままということもよくある。 ここに年功序列といった「先輩後輩」主義を持ち込むと、若手は安い給料とスマートでない昔の手法を強制され、レガシーコードの保守と無駄な残業にすっかり腐ってしまう。   若手がこのような組織で生きていくためには、先輩の古臭いやり方に一目置いているように振る舞い、組織の「空気」を良好に保つように強制されるのだ。 品質の高いプログラムをスマートに書いて、残業せずにさっさと帰る、というのが昨今のプログラマの価値観であるので、はっきり言ってしまって、このような「空気」は害悪であるし、面倒なことこの上ない。 優秀でキャッチアップに熱心な技術者ほど、このような風習を嫌うのも仕方のないことだろう。  

ボトムアップより団結

これは体育会系に限った話ではないが、テニスであれ、囲碁であれ、勝敗のある種目というのは、勝った、負けたという絶対的な指標が存在する。 実際、強豪校などと対戦すると、我が校の誇る絶対的エースが子供のようにあしらわれて、その絶対的な差を痛感することになる。   いかに「空気」を重んじる体育会系でさえ、勝敗は別である。 弱い先輩は、強い後輩に空威張りすることは可能でも、実質のところでは頭が上がらないし、他校のような外部組織に敗者として存分に愚弄されても、為す術はない。   体育会系システムはこのような結果を「団結力」で解決しようとする。 負けてしまったものはしょうがない。次はもっと頑張ろう、というわけだが、だからといって、練習のやり方が変わったりはしないのだ。 ただ、朝練が追加されたり、練習時の声出しが大きくなったり、先輩からの指導が暴力的な色彩を帯びたりして、がむしゃらに「頑張る」だけである。   クレバーな視点で見れば、絶対的な指標で負けているのであれば、異なる領域で戦うか、敗北に至ったプロセスそのものを変更すべきだと感じるだろう。 だが、体育会系のシステムにはそのような機能はない。もし、そのような事がしたいのであれば優秀な顧問やコーチによるトップダウンの改善を待つよりないのだ。 つまり、体育会系システムとは、組織の団結を重視するあまり、現場での改善が精神論に帰結してしまい、結果としてボトムアップがなくなってしまう組織形態であると言える。   企業に当てはめれば、ある分野のビジネスに強い弱い、というのは純粋な投下資本の差であることが多い。 そこに体育会系システムの精神論を持ち込むと、人を増やさずに「仕事を取るまで帰ってくるな」的な営業部隊を結成したり、短納期、低単価で、とにかく製品を完成させろという命令が下ったりする。 言うまでもなく、これではただのブラック企業である。  

責任は全員でとる

高校野球を見ていると、最終回、ある野手が信じられないようなエラーをして、点を取られ、あっけなく負けてしまう。 エラーをした選手が泣き崩れる。 試合終了のサイレンが鳴り響く中、しかし、他のナインは彼を責めるどころか、肩を抱きよせ、ポンポンと頭を叩き、最後の整列に向かうように促す。 このようなシーンを見たことがある人は多いだろう。 美しい光景であると、私も本心から思う。   体育会系システムでは、「ミスをしても責めない。みんなで責任をとる」という思想がある。 それ自体は、もちろん悪いことではない。   しかし、ビジネスの場で、何かのミスが起きた時、責任者である上司が 「ミスはしょうがない。後で、クライアントに謝罪のメールをしておくように。次はみんなで気をつけるんだぞ」 と、部下の肩をポンポンと叩いて、すまそうとするのは、このような光景とは似て非なるものだ。   仕事上のミスには必ず予兆と原因があり、大抵の場合、不適切なプロセスと環境がある。 強い属人性によるリスク、複数人による確認の不備、長すぎる労働時間などなど。   少なくともプロセスや環境を改善しなければ同じようなミスはまた起こるし、ミスをしてしまった当人も気の毒である。   仕事には「レフトは一人で守らなければならない」というようなルールは存在しないのだ。必要であれば、二人で守っていいし、機械を置いてもいいのである。 少なくとも、そのような施策を怠ったこの上司は責任を感じるべきだし、非難されても仕方がないだろう。 しかし、「みんなで責任をとる」という思想を、なぜか「みんな」からは除外されている上層部が、現場に責任を押し付ける方便にしていることがある。 こうした時、体育会系の良き面もまた、組織の悪しき面に成りうるのである。  

体育会系組織と時代の変化

特に、それがビジネスに適用された時、体育会系がいかにして組織内部の人間に嫌われうるのか、ということを書いてきた。 しかし、ここにきて不思議なことは、体育会系という部活やスポーツで用いられた統治システムが、なぜ企業というビジネスの場に応用されてしまったのだろうか、という点である。   ここからは推測でしかないが、高度成長期からバブル期のとにかくモノが売れまくった時代、おそらくこれらの問題は顕在化しなかったのだろう、ということだ。  あの時代に思いを馳せれば、 年功序列制度は、社員の人生設計を安定させて、消費を促し、 団結を重視することで、創業者によるトップダウン型の経営判断のスピードアップが図られ、 それによって得た利益は給与や、ボーナスとして、皆に平等に分配される。 という、旧来の日本企業の理想形が、体育会系組織から現れるのである。   しかし、グローバル化、あるいは単純に長い不景気によって、時代は変わってしまった。 試合のルール自体が変わってしまったのだ。   私は「体育会系」のシステムそのものに罪はないと思う。 しかし、ルールの変化に対応できず、むしろ無駄な同調圧力を生み出すだけとなった、このシステムを、良き時代の夢の中にいる経営者が、変わらず企業という自分のチームに導入し続ける時、 必然的に負けを強いられる選手(社員)たちは、その絶望感と怒りの源を、「体育会系」という統治システムそのものに見出してしまうのかもしれない。 それは、元体育会系の私としても残念なことに思えるのである。    

【プロフィール】

著者名:megamouth

文学、音楽活動、大学中退を経て、流れ流れてWeb業界に至った流浪のプログラマ。

ブログ:megamouthの葬列

(Photo:Sangudo)
こんにちは。AscentBusinessConsulting株式会社の代表の北村です。 Ascent Business Consulting株式会社はコンサルティング会社ですが、一方でBasis Point(ベイシスポイント)というコワーキングスペースを運営しております。   コンサルティングとコワーキングスペースとは一見関連性がないと感じる方が多いかもしれませんが、実はひとつの世界観に向かって事業を展開しています。 それは「新しい働き方」をテーマに事業を行っていることです。   あらゆる分野のエキスパートがフリーランスやベンチャー法人として自由な働き方ができるプラットフォームを創ることをミッションとしこの世界観を実現したいと考えています。 その一つの具体的な形が、コワーキングスペースです。 (写真はBasis Point新橋店) そのコワーキングスペースの運営で重要なのは、前回紹介したように、 ・人と人とが繋がること ・自由にストレスなく使える場所であること ・モチベーションが上がる場であること の3つです。   そして、こういった場所をつくるために考慮すべきが 1.誰に来ていただくか? ----集まる人の質でコワーキングスペースの質が決まる 2.場をどう盛り上げるか? ----場のマネジメントで、コワーキングスペースの質が決まる の2つです。   例えば、開設当初からご利用いただいている方のお一人に、ウェディング関係の仕事を独立して起業している佐崎さんという方がいます。 佐崎さんは、「集まる人の質で、コワーキングスペースの質が決まる」と言います。   ********   当初は、千葉の自宅近くにあるコワーキングスペースで仕事をはじめました。 とにかく「静かで空いている場所があれば良いや」と思っていました。

一番居心地がいい場所がどこか?と言われれば、もちろん自宅の書斎です。高価なチェアーも買い、自分の好きなものに囲まれている。

でも、逆に仕事に集中できない。(笑)一人で部屋に篭っているとついダラダラしてしまうのです。

 

これではいけない、と自宅の「近くにある」という理由で、近所のコワーキングスペースに通いはじめました。

そして、暫くそこに通ったのですが、結局、なかなか仕事できる気になれず、その場所は行かなくなりました。

 

なぜなら、自分の求めている雰囲気に合わなかったからです。

例えば、こんなことがありました。

・カードゲームしてる人たちがいて、気が散る

・スペース内で電話できない

・子供も利用する

要するに私がコワーキングスペースに期待していた、「皆が仕事のやる気に満ちている」雰囲気とは違ったんです。

 

これらは、利用する前には気づかなかったことです。

そこで私は「仕事を効率よくできる」「もっと仕事が捗る」ために何が必要なのか考えました。

 

私の場合は以下の条件でした。

・テレアポがし易い

・集まる人が「仕事」をしに来ている

・料金はあまり気にしない

 

そして、見つけたのが表参道にあったコワーキングスペースです。

そこは、ブースがあり、テレアポなどがやり易い環境がありました。

 

ただ、次こそは、と期待していたのですが……そこも程なくして行かなくなりました。

表参道だけあって、クリエイターさんや若手のスタートアップが多く、自分の仕事スタイルとはちょっと違う種類の人たちが集まっていて、私なんかだとちょっと気後れしてしまうんですよね。

活気がありすぎると言うか、若さにあふれていると言うか(笑)

 

その後、その反動もあって静かなところへ行こうと思って、日比谷図書館に行ったりもしました。

でも、図書館は逆に静かすぎました。皆黙々と机に向かって勉強している人たちばかりで、電話なんてもちろんできないです。当然ですよね。  

そこで、新橋にある、某コワーキングスペースに変えました。

「場所」って大事だなと思いました。表参道よりも、新橋。

よくテレビでも新橋駅前で仕事帰りの会社員がインタビューされていますよね。

ビジネスパーソンが多いエリアなんです。

 

しかし、行ってみると今度はワインの試食会をしている主婦のグループがいたりして、これがまた賑やかなんです。

「仕事する人だけが居て欲しい」

という願いはここでも叶わずでした。ただ、実はここには長く通うことができました。

  なぜなら、店長さんと仲良くなったからです。 独立して仕事すると、特に最初の頃は仕事を一人で行うことが多く、人脈ゼロからのスタートなので、毎日話かけてくれて、雑談程度でも会話ができる存在がいるのはとてもありがたいことでした。   ……でも、そこは残念ながら潰れてしまいました。 潰れてしまいましたが「誰が集まってくるのか」が結局のところ、コワーキングスペースの質を決めるのだと確信しました。   そして、最後に行き着いたのが新橋のBasis Pointでした。いろいろ渡り歩いてきたので、利用してすぐピンと来ました。居心地がよくて、行くと仕事したくなる空間。 フリーランス、サラリーマンに関係なく人が集まっていて、仕事をしている雰囲気が伝わって来ます。   もちろん店長さんともすぐに仲良くなりました。店長さんを介してコミュニティができていて、その人脈で仕事に繋がったこともあります。 今はここに定着しました。   ********   佐崎さんの話は、「そこに集まる人」が重要であることを示しています。   さらにもう1つ、コワーキングスペースの質を決める存在は、 「場のマネジメント」です。   例えば、コワーキングスペース業界で「伝説の店長」と呼ばれる方がいらっしゃいます。 (私が勝手に呼んでるだけかもしれないですが……) 現在、福岡天神にあるコワーキングスペースを運営している山下陽子さんです。 コワーキングスペースに着任してたった1ヶ月で、利用者を1.5倍にするほどの「デキる店長さん」です。 ご自身も全国にある80以上のコワーキングスペースを訪問したことがあるコワーキングスペースマニアです。   その山下さんと、Basis Pointのオーナーである私とで2時間くらい「コワーキングとは?」という話で盛り上がり、山下さんが理想としているコミュニティと私の考える理想のコミュニティが共通していたので、弊社の研修講師として招聘しました。  

その時に話していたことを簡単にご紹介します。

山下さんは、店を任されるとまず4つのことを実施します。 これは「場の雰囲気を作る」ために、非常に重要なのだそうです。  

1.まずは名前と顔を覚える】

それは、挨拶からはじまります。一人ひとりの目を見て、顔を確認して挨拶することです。 受付で背を向けていたり、仕事したりしては絶対ダメです。学校で挨拶大事って散々言われましたが、挨拶は相手への承認として最も基本的で最も重要なことだとと思います。 そうやって、利用する人の顔を名前を覚えます。 意外とできていないコワーキングスペースって多いです。これをしっかりやるだけでも、雰囲気が大きく変わります。また、挨拶を行うことで利用者のコワーキングスペースへの帰属意識が高まるので、リピーターを生み出すことにも繋がります。  

2来ている人の顔を観察する】

顔と名前を覚えてきたら、次はよく観察することです。 来訪して仕事をされている方々は、もちろん真剣に仕事に取り組んでいるのですが、時より疲れて休憩していたりしています。 そのようなふとした時に、話かけてあげることです。もちろん、事前に利用者登録の時に何をしている人かは調べているので、相手に気遣いながら、どのような仕事をしているかを聞いたりしています。   もちろん、話しかけて欲しくない人だっていますが、邪魔しない程度に話かけてあげることで、相手のプラスになればと思ってやっています。 そうすることで、利用者とのコミュニケーションも取れて、どのような人が利用しているかも知ることができますし、不満とか要望も聞き取ることもできます。  

3.コミュニティをつくる】

利用者のことをある程度把握してきたら、コワーキングスペース内でイベントを行います。 例えば、「IoT勉強会」というものを行いました。 コワーキングスペースの利用者はもともとIT系の人が多いのですが、いろいろな人に話しかけてみて分かったことは、IoTに興味を持っている人がたくさんいたことです。 そこでIoTのプロをゲストに呼びイベントを行うと、10名ほどの参加者が集まり、大好評でした。 イベントを通して横のつながりを作ることで、利用者にとっても人脈を広げるというメリットがありますし、運営側としても利用者の帰属意識が高まるなどメリットがあると思います。  

【4.コワーキングスペースにおいて、重要なことを守る】

最後に、コワーキングスペースにおいて、重要なことはこの2つに集約されます。 ◯個人利用者さんを大切にする事 ◯常に快適な空間を提供すること ビジネスの基本通りやはり「ハコ(ハード)」と「ヒト(ソフト)」なのです。     ********   というわけで、 「誰を集めるか?」 「どう盛り上げるか?」 という2つの観点から、コワーキングスペースを語りました。   実際のところコワーキングスペースを運営してみて、「集まる人」は、とても重要だと感じます。 私がこのBasis Pointを作った理由も、まさに「自由なはたらき方を志向する人々」に集まってもらいたいからです。 フリーランスの方の仕事の拠点、普段企業に勤めるビジネスマンの自分だけの集中場所、起業準備など。   そして、そのようなビジネスパーソンにとって、本当の意味で心地良い空間とは仕事の効率化を最大化してくれる場所ではないかと思います。   だからこそ、コワーキングスペースは単なるスペース貸しでは決してありません。 働く人がより効率よく働くためのスペースを創出することがコワーキングスペースの役割です。   仕事がはかどる雰囲気は、会社もコワーキングスペースも同じ、「集まる人」と「居心地の良い空間」が作るのです。       そんな、我々が運営しているコワーキングスペースBasis Pointですが、現在新橋だけでなく、神保町五反田にもあります。 残業問題などで、「働く」ということに関してネガティブな話題が多い昨今ですが、もっともっと働きたい!という方に来てもらえれば幸いです。  
コワーキングスペース「Basis Point」サービスサイト コンサルポータル Ascent Business Consulting 株式会社コーポレートサイト
最近、「働き方改革」というキーワードが流行っている。 ただ、「働き方改革」の中身は、人によってかなり解釈が異なり、一種のバズワード、と言って良いかもしれない。   もちろんこれは、政府が主導で「働き方」についての議論をしているからだ。 首相官邸ではその議事録を公開している。 首相官邸 働き方改革実現会議   中を見ると女性の活用やテレワーク、障がい者の雇用など、一見、様々なテーマがあるように見えるが、結局のところ、この二つに話題は収斂する。 1.同一労働同一賃金 2.長時間労働の抑制   例えば、同一労働同一賃金をすれば、中流が復活する、女性が活躍する、非正規雇用が減る。 また、長時間労働の抑制をすれば、少子化が解消する、健康になれる。消費が増える。   そんな話をしているのが「働き方改革」の中身である。 だが、これをみて、多くの「できる」ビジネスパーソンは違和感を抱くに違いない。 議事録を見ていると、「この人達、会社で働いたことあるのだろうか?」と思ってしまう。いや、逆に知っていて無視を決め込んでいるとしたら、さらにたちが悪い。   あまり声高に言う人は少ないが、はっきり言えば、企業にとって「働き方」はさほど重要な事柄ではない。 繰り返す。 企業にとって「働き方」は2次的な話であり、優先度の低い話題である。   知人の経営者は 「働き方改革って、話題ばかり先行しているけど、結局企業の足を引っ張っているだけだよね」 という。 ある戦略コンサルティング会社のマネジャーは 「働き方改革をする前に、労働者の意識改革のほうが先じゃないかな。」 という。 総合商社に勤める知人は、 「政府が働き方に口を出すとろくなことにならない。一律にやろうとするからね。」 という。   では何が重要なのか。 もちろん、企業にとって最も重要な話題は「消費者」や「取引先」が、自社のサービスや商品を買ってくれるかどうかである。 どうやったら、Googleに勝てるか。どうやったらAmazonに勝てるか。 Uberに勝てるか、トリップアドバイザーに勝てるか、Appleに勝てるか、 それが、企業の重要な課題である。   グローバル経済に取り込まれていく中で、どうイノベーションとマーケティングを行い、顧客と取引先に喜ばれるか。 それが企業にとってもっとも重要なことである。 でなければ、鎖国して自国の中で経済を回すしか選択肢はない。 だが、日本にとって鎖国を選択する、というのは今の生活水準を大きく落とす、という選択肢に他ならない。現実的にはそんな政策は支持されないだろう。   だから、「働き方改革」に対して、なぜ多くの企業人たちが白けているのか、理由は明白だ。 結局のところ「消費者」「取引先」が買ってくれるサービス、製品を作れるのであれば、どんな働き方であろうと問題はないからだ。   1日に1分だけ働けば成果が出るやり方があれば、企業は喜んでそれを推進するだろう。 ろくに会社に来なくとも、成果を上げてくれさえすれば、喜んで企業は「どこにいてもいいよ」というだろう。   ここを履き違えて、 「同一労働同一賃金」 「長時間労働の抑制」 といっても、「成果を追求する働き手」にとっては、片腹痛いという他はない。   その証拠に、「同一労働同一賃金」「長時間労働の抑制」などと言っている企業は、すでに多くの顧客を抱えて裕福な企業がほとんどである。 余裕があるから、「働き方改革」というバズワードを広報の一環として採用することができるのだ。 逆に、貧しい企業は 「働き方の前に、国が企業活動の邪魔をしないでくれ」 というだろう。   「働き方改革」は現在のところ、「公務員」「裕福な大企業」「収益性の高い金持ち企業」の道楽である。   ********   あるIT業の経営者は 「「働き方改革」って言っている会社と取引している会社は、今厳しいよ。」 と言った。 「何故ですか?」 と聴くと、彼は 「しわ寄せが、下請けや取引先、協力会社に行くからさ。実際、社員の残業を減らすために、取引先に無理な要求をしている会社が最近多いんだよ。」 と言った。   すでにお金と人材を有している、その企業が「長時間労働の抑制をしよう」ということ。 実はそれは、格差を拡大しているのである。   また、「長時間労働の抑制」をすれば、良い人材が集まる、という人もいるが、だが、私の知る実態は逆だ。 良い人材ほど、「メチャメチャ働きたい」と言う。 彼らにとっての問題は、労働時間の長さではない。裁量権である。自由にやらせろ、そしたら好きなだけ働けるし、成果も出してやる。 そう彼らは言う。   したがって、政権の言う「働き方改革」は、的外れである。 大衆に迎合しても、「働き方改革」は実を結ばないし、それを主導すべき人々にはメッセージが届かない。   本当に議論してほしいのは、 「重要なのは、従業員がどのような働き方をしたら、最も成果をあげることができるのか?」 の他にはない。 その観点がほとんどすっぽり抜けているから、茶番に見えるのだ。 だから、「働き方改革」の議論は、「働き方をかえたら、本当に企業の業績が上がるのか?」について、データを元に厳密に検証しなければならない。   最近、長時間労働を罰するために、労基署が盛んに活動しているという。 だが、「働き方改革」の名のもとに、企業を規制するだけの世の中は、どうも居心地が悪い。     【お知らせ】 ・安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます) ・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント ・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ ・ブログが本になりました。 [amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"] ・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました!   (Photo:Jabiz Raisdana
books&appsキャラデザ修正版

  ある学生の方から、質問を受けたことがある。 「すぐに管理職になるわけでもないのに、なぜリーダーシップの話を聴くのか、実際に皆が管理職になるわけでもないのに、なぜリーダーシップの話を聴くのか」と。   おそらく、根底には学生と社会人の「リーダーシップ」に関する意見の相違がある。 学生の側から見れば、「リーダーシップ」を問われる理由は、人を使ったり、人の相談にのったり、何かチームで成果を上げたり、そういった「人の上に立つ」能力を見られていると思うかもしれない。 しかし、「リーダーシップ」に関する質問の意図は、別のところにある。   面接官が知りたいのは、「人の上に立つ能力」ではない。 では、何を知りたがっているのか。 実は、ほとんどの面接官が本当に知りたいのは「進んで誰もやらないことを引き受ける責任感」だ。       漫画:眞蔵修平 website:http://www.matthewroom.com/ Twitter:https://twitter.com/makurashuhei Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei 出典:リーダーシップとは、当事者意識のことだ  
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僕は九州の地方都市(人口数十万人程度)に住んでいるのですが、たまに東京に行くと、人の多さや電車の密度、駅前で本当に詩集を売っている人がいることに圧倒されてしまいます。   ああ、同じ「日本」とは言うけれど、僕が住んでいる町の駅と新宿駅は、あまりにも違い過ぎる……   最近、東京に住んでいる女性が「婚活経由で初めてプライベートで会った男性がいて、その人が運転してきた車に乗せられそうになって怖かった」って話をしていたんですよ。 「だって、初対面で一緒に車に乗るなんて、拉致されるかと思いますよ!」って。   これを聞いて、移動には自家用車が必要不可欠な地方都市組は、みんな驚いていました。 「そう言うけどさ、車に一緒に乗らないと、僕らの町では、どこにも行けないよ?」 地方からみると、東京の人たちって、日本がみんな東京だと思っているようにもみえるのです。まあ、僻み成分多めですけど。   *******   さて、前置きが長くなってしまったのですが、最近、仕事の関係で、東京の会社とメールでやりとりをする機会が多いのです。 で、向こうからはさまざまな問い合わせや状況報告などを矢継ぎ早に送ってきてくれるんですよね。 たぶん、メールはマメにチェックして、すぐに返信!という方針が徹底されているのでしょう。   でも、僕はずっとパソコンの前に座っているわけでもないし、基本的にメールを書くのがあまり得意ではありません。 ちゃんと書こうと思うあまり、たいした用件じゃなくても、考え込んでいるあいだに時間がけっこう経ってしまう、なんてことがよくあります。   もちろん、厳密な締切が徹底されているわけではないのですが、こちらが返信すると、即座にたくさんのメールが送られてくるのは、けっこうプレッシャーになります。ああ、これは、僕の側からも、なるべく早い返信が求められているんだろうな、って。   これは地方都市云々の話じゃなくて(ネットではそれは関係ないですから)、僕が「コミュニケーションの準備に時間が欲しいタイプ」だからなんですよね。 同業者でも、偉くなる人は、ものすごいスピードで、真夜中にメールを返信するタイプが多いようですし。 用件だけ、で良いんだろうけどなあ。   さらに驚いたのは、今の世の中って、ネット上で請求書とか契約書のやりとりができるんですね(たぶん、これを読んで笑っている人も少なからずいるんだろうけれど)。 僕は40代半ばまで、オンラインでそういう書類のやりとりができるサービスがこんなに進化しているということを知りませんでした。   医療の現場で働いてきて、勤務医だと、自分で領収書や請求書のやりとりをすることってほとんどなくて(差し出された紙の領収書にサインするくらいです)、この年齢になって、インターネットがこんなに便利になっていることに(そして、そのことを自分がまったく知らなかったことに)驚いているのです。   そんな状況で、「じゃあ、請求書はオンラインでお願いします」なんて言われて、「えっ?何?どういうこと?」と、あわててGoogleで調べて、一から学んではやってみる、という自転車操業。 うーん、これでも、パソコンがマイコンと呼ばれていた頃、シャープX1からのコンピュータユーザーなのに……って、そういう「過去のマイコンエリート意識」みたいなのが、勉強不足の原因なのかもしれませんね。   1015年前くらいまでは、「インターネット」を使っているかどうか、という「格差」がありました。 10年前くらいに、Amazonで買い物をしているという話を勤務先の若い看護師さんたちにしたら、「アマゾンって……ジャングルの?」と返されたのを思い出します。 もう、彼女たちもAmazonを使っている、少なくとも知ってはいると思うのですが。   いまは、同じインターネットを使っている人のなかでも、使いこなし方の「格差」がかなり大きくなってきている気がします。 「ネットで領収書」が当たり前の仕事をしている人たちは、「ネットでそんなことができるの?」という相手を想像しがたいし、オフィスのパソコンの前にいる時間が長く、多量のメールを毎日さばいている人は、「メールチェックは朝晩2回」という人の「反応の鈍さ」にストレスを感じてしまう。 「電話は相手の時間を奪うから、好きな時間にレスポンスできるメールにしてください」って話はよく聞くのですが、メールでのやりとりにそんなに慣れていないと、次から次にメールがやってくるというのは、けっこうプレッシャーがかかるんですよ、そりゃ、電話よりは、はるかにマシだろうけど。     いくつになっても勉強だよなあ、なんて溜息をつきながら、これからの時代は、物理的な「地域格差」だけではなくて、インターネット上での「知識格差」みたいなものが、どんどん大きくなっていくのではないか、と考えています。 そして、「インターネット知識格差」は、住む場所以上に、その人の「生きかた」を変えていくのかもしれません。   今回の僕と担当者のような「インターネット知識格差による軋轢」みたいなものは、これから、ネットでできることがさらに増えていくにつれて、さらに顕在化していく可能性が高そうです。   「オレは紙の領収書しか書いたことないんだよ!」という人に、どう対応すべきなのか。 「あなたも勉強してください、こっちが便利ですよ」と言うのか、「じゃあ、紙の領収書を送りますね」という対応にするのか。 サービスそのものを、もっと「わかりやすく、初見でも使える」ようにするのは可能なのか。   本音をいえば、メールに関しては「もっとゆっくり返信してくれて良いのに」って感じることも多いし、「そんなに急いでるのなら、電話のほうがマシ」だと思うこともあるんですよね。 メールを書くスピードや感じる負担には、けっこう個人差があるものだから。LINEというのもあるけれど、あれはあれで、「既読スルー」とか言われて、けっこうめんどくさいしなあ。       【著者プロフィール】 著者;fujipon 読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。 ブログ;琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで Twitter:@fujipon2   (Photo:al tuttle)
最近、仕事で感動したことがある。 といっても、仕事に感動したわけではない。 学問に感動したのである。   ☆★☆★☆   仕事をしているとお客様からのクレームを受けることは、まずまず多い。 例えば、 現場に近い部署で働いていたときは社外のお客様から、クレームを受けた。 人事の仕事をしている今は社内の“お客様”(=社員)から、クレームを受けた。   中には「怒るポイントはそこなの?」と不思議な気持ちになるクレームもある。 といっても、よく話題になる“理不尽なクレーム”ではない。  A】ある事象に対し、「これはダメだ!」と怒られる。 これはわかる。同調できるかどうかはともかく、怒るポイントが明確である。    B】一方、ある事象に対し、「●●さんと違うからダメだ!」と怒られる。 これは事象への怒りではなく、他者と比較した結果への怒りである。気持ちはわかるけれど、怒るポイントがずれている気がする。   社内でも社外でも、自身のおかれている状況に対する不満は存在するが、その不満の中身を覗いてみると、「他人のほうが良い思いをしていること」(つまり【B】)への怒りであるケースが結構多い。   社外の例を挙げよう。 賃貸住宅のテナントから「家賃が高すぎる」というクレームを受けることがある。(クレームというよりは交渉?) 「高すぎて払えない。下げてくれ!」というクレームは【A】だ。 「隣の人のほうが安いらしいじゃないか。どういうことだ。下げろ!」という主張が【B】。  B】タイプは、賃料自体への不満というより、他人と比較した際の「不平等感」を訴えてくる。 実際は隣の家とは間取り等諸々の条件が違っていて、ちゃんと相応の賃料になっているから不平等ではないのだが、一見すると不平等なので、噛み付かれる。  この場合、「他人も同じように不満を抱いているが我慢している」というと納得してもらえることもある。 こちらが本当に申し訳ないと同情するようなケースでも、平等であれば許してもらえるのだ。   たとえば、こんなことがあった。 ・部屋の設備がひどい ・客観的に見て確かにひどい ・でもどうにかしてあげることはできない という状態。 当然クレームを受けるのだが、「他の方からも同様のご意見をいただいているのですが、これは本当にどうにもならないので、我慢していただいています」と説明すると、引き下がってもらえる。 その人は、「自分だけじゃないのか……」とつぶやいていた。   社内でも同様。 みんな同じルールであれば1万円のマイナスがあっても納得するのに、同じ条件の人と比べて損な状態だと、たとえ10円であっても噛み付かれる。 金額の問題ではないようだ。   ☆★☆★☆   「人間は不平等を嫌うんだな~」と、ちょっとした発見をした気分になっていたが、ふと思い出した。 「たしか、経済学でこういう話、あったよね!?」   経済学の専門家ではないので、Google先生に頼る。 不平等回避モデルという言葉が出てきた。 名前の通り、人間は不平等を嫌って回避する傾向があるという話だ。 (クレームは自分が不利益を被っているケースしか発生しないが、不平等回避モデルは他人が不利益を被っている場合でも説明できるようだ。)   人間の“不平等”に対する行動について、たくさんの実験・研究がされていることがわかった。 いろんな理論があった。 不覚にも、感動してしまった。   ☆★☆★☆   ・自分が体験したことによるちょっとした発見なんて、とっくに研究され尽くしているんだな~ と思うと同時に、 ・学問ってすごいな~ と改めて思った。  「これが将来何の役に立つのだろうか」と疑問を抱きながら勉強している学生は多いだろう。私もそういうタイプの学生で、役に立たなさそうなのにやたら難しい話をされたときには、腹を立てたりしていた。   でもやっぱり学問ってすごい。   私の好きな本、森博嗣さんの『正直に語る100の講義』の81番目の講義 「三角関数の教育が必要か。たしかに、さほど役には立たない。」 にこう書いてある。
僕は小学校四年生のときに、「勾配」について自分なりに考えて、角度が決まれば、距離と高さの比が一定だと気づき、その比を大きな図を沢山描いて測り、結果を表にして学校の先生に見せた。 この表を使えば、もう同じ手間をかけずに、値を知ることができるから社会の役に立つ、と思ったのだ。すると、先生は三角関数というものを僕に教えてくれた。「中学の教科書に載っているんだよ」と。僕は少し悔しかったけれど、「人間の知性」というものに大いに感動した。 つまり、教育の目的はこの感動にあるのだ。
  ☆★☆★☆   私も、感動しました。 感動した内容(=学問)のほうは勉強不足で詳しく書けず、今回語れたのは自分が体験したことだけというのがちょっと残念ですが……。   ではまた! 次も読んでね!       [著者プロフィール] 名前: きゅうり(矢野 友理) 2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。 著書「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015) Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女」   (Photo:William Andrus
僕は本業で医者をやっているのだけど、こういう立場になってみると、健康というものがいかに人の精神状態にとって大切かという事がよくわかる。   どんなにお金があろうが、どんなにモテようが、その幸せを享受するための土台としての健康が損なわれていたらどうしようもない。 健康は人の基盤だ。くれぐれも自分の身体は大切にいたわってあげるべきである。   とはいえいくら身体が健康そうでも、あまり幸福そうでもない人がいるのも事実だ。幸せというのは手に入れるのが難しい。みんなが欲しがっているものなのに、それを手に入れている人の数は驚くほど少ない。 最近、様々な実例を観察した結果、人間の幸福についての概略図のようなものが頭の中でまとまってきたので、今回は幸福について書いていこうかと思う。  

人間の幸福モデル

多くの場合、人の幸せは大体以下の図のような形で規定されている事が多い。 これだけだと何のことかわからない人もいるだろうから、少々解説を加える。   先ほども書いたが、幸福を享受する為には心身が健康である必要がある。 肉体を不健全にする要素は病である。風邪で40度の熱が出てたら、何がどうであれ辛いものである。 一方、多くの場合において心を不健全にするのは人間関係だ。イジメにあってたり社風のあわない企業につとめてたりしたら、どんな人でも心穏やかにはいられない。   この2つがしっかりする事が、幸福を享受する為の必要条件である。 若い頃は気をつけなくても、これらが自然と手に入ってたりもするが、30歳以降いろいろな無茶をしていると、これらはビックリするぐらい手元を簡単に離れてしまう。 これらがしっかりと成立している事が、よき人間としての生活を営む上で最も大切なものである。くれぐれも疎かにしてはならない。  

幸福の十分条件

この土台がしっかりとしている前提の上で、大切となるのが上の三要素だ。 モテ、収入、地位。   それぞれ各要素毎に人によって満足する度合いが異なるが、多くの人の幸せは、ほぼ上の三要素により規定されている。 インターネットを見渡せばわかるけど、上の3つの事で人は毎日のように不平不満をいっている。   モテたい。結婚したい。 お金が欲しい。 人から尊敬されたい。   多くの人は、毎日毎日同じような不平不満の述べつつ、毎日毎日同じような日々を繰り返している。   ここで上の要素を掛け算にしたのには理由がある。これらの三要素は、どれか1つがゼロだったりするだけで、不幸になる事があるのだ。 例えば、あなたの近くにも、高収入でそれなりの社会的地位があるのに、ただもてないというだけで毎日毎日呪詛を履き続けている人が一人ぐらいいるんじゃないだろうか? こういう人は、モテがゼロなので、はたから見ればかなり恵まれているにも関わらず、本人の実感としては幸福度合いはゼロにも等しい。   いくら年収があって、社会的に尊敬される立場にあろうが、人はモテないだけで不幸になる生き物なのだ。  

共産主義がグロテスクな本当の理由

最近、人が平等であるためにはどうすればいいのかについてをよく考えているのだけど、その観点からすると共産主義というものの目指した世界の素晴らしさには、正直もの凄く惹きつけられるものがある。
共産主義 共産主義とは、政治経済分野での思想理論運動、体制のひとつ、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざす
けど現実問題、共産主義は壮大に失敗した。なぜだろうか?様々な要因はあるとは思うが、実は上の概略図からも失敗の理由を読み解くことができる。   上に書いた幸せの概略図を再び見てほしいのだけど、モテ・収入・地位の三要素の中で収入は他の2つと圧倒的に違う素因がある。 なんだろうか?それは他の2要素に強く影響力を及ぼす事が可能なのだ。   みんな身に沁みてよくわかっているとは思うのだけど、収入が上がるとモテも地位もそれなりにいい感じに付随してくる。カネの力は偉大である。   資本主義のいいところは、個人の努力次第で収入を上げる事ができるという事だ。年収をうまくあげることができれば、モテも地位もどうにか手に入れられたりする事がある。 これは凄く夢があるシステムだ。頑張ったら収入という形で報われ、そしてそれがモテと地位を相乗効果で上げるというシステムは、考えてみるとゲームとして非常によくできている。   共産主義がグロテスクなのは、この下克上的なシステムが人の手から完全に奪われてしまうという点にある。 昨今スクールカーストの話題が盛んだが、どんなに努力しても年収が変わらないのだとしたら、それはすなわちスクールカーストで形成された序列が永遠に続くという事でもある。   収入が固定してしまった社会には上を目指すための希望が何もないのだ。 共産主義のシステムの絶望はここにあると言っても過言ではないだろう。資本主義というゲームでは、モテたいだとか成り上がりたいという欲求は、収入を上げることでかなりの部分まで達成する事ができる。つまりそこには逆転にかける一縷の望みがあるのである。  

お金はある意味では平等である

かつて堀江氏が 「お金で買えるものは平等だけど、お金で買えないものには差別とか不平等の温床となるようなものしかない」 といった趣旨の事を述べていたが、実に正鵠を射る発言だと思う。   よくお金を汚いものだという風にいう人がいるが、そういう人はお金がどれだけ人に希望を与えるのかをキチンと認識していないのではないだろうか。 金の力は偉大だ。少なくともある程度の幸福段階までは、人を引き上げてくれる。   ただお金が全てかというと、そうでもないのもまた事実である。お金よりももっと贅沢な資源も人にはある。 それは時間である。これについて話し始めると長くなるので、時間については次回に譲る。       【プロフィール】 名称未設定1 高須賀 都内で勤務医としてまったり生活中。 趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。 twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki   (Photo:Clare H-P)
どうもしんざきです。 皆さん五月病ですか?私くらいの五月病ベテランになると、4月初週くらいにはもう五月病になりますし、一年の三分の二くらいは五月病のままで過ごしています。たゆまぬ五月病を続ける精神力が重要です。 それはそうと。   新入社員の研修にかかわったことは何度かあります。 オリエンテーションに何回か顔を出しただけのこともあれば、研修コースの策定に口を出したことも、割とがっつり研修の講師側に参加したことも一応あります。 新入社員のグループワークに人狼ゲームを導入しようと提案して却下されたこともあります。面白いと思ったんですけどね、新人研修で人狼ゲーム。   そういった中で、意見が分かれることが多かったのが、「新入社員の自主性」問題です。 極端に言っちゃうと、私、新人を育てる時に「自主性」を考慮する必要なんて一切ないんじゃないの、と思ってる派閥なんですよ。いや、自主性を考慮するだけなら別にいいんですけど、少なくともそれをお題目の一つに据えて、自主性を重要項目の一つに位置付ける必要は全くない。 必要ないというか、弊害の方が多いんじゃないですか、と。   何故かというと。   「自主性」とか「自分で考える」というのは、ある程度仕事がわかって、一人前に作業ができるようになってから、初めて身に着けることが出来るようになるものだから。 「自主性」をテーマにしてしまうと、それを理由に新入社員が放置される時間が増えて、結局何もすることが出来ず、「自主的に行動しようとして何も出来ない時間」に慣れてしまうから。 「自主性」は、先輩社員が「自分で考えてみろ」を理由に教育の手を抜いてしまうことの大きな理由になってしまうから。     先日、はてな匿名ダイアリーでこんな記事を読んだんです。 
自分で考えろは新人に使ってはいけないと思う 世の中には、なぜか自分で考えろを使ってしまう人が多い。 作業手順を教えるのでもあえて簡略化して教えたり、 結果が間違っていた場合もどこが悪かったのかをすぐに教えず、考えてみろと放置してしまうパターンが横行している。 しかし、これをやったところで考える力などつかない。 むしろ仕事に対して恐怖感を覚え、萎縮してしまい、緊張感から物覚えが悪くなったり、 怒られる恐怖から聞くべきことを聞くこともできず、結果さらにミスってしまうという悪循環に陥りやすい。 結果として成長を鈍化させているという残念なパターンが大半だ。
これ、正直私、全面的に同感でして。あー先に書けばよかったなーと思ったくらいです。   「守破離」って言葉、ご存じですか?元々は日本武道の言葉だったと思うんですが。茶道だったかな。 「守」が、指示通りの作業を、指示通りに進めることが出来る、という段階。第一ステップですね。 「破」が、作業を分析して、改善したり改良することが出来る、よいう段階。第二ステップです。 「離」が、当初の作業を離れて、自分で新たな技術、新たな仕事を創造出来るという段階。   これ、「自分で創造できるようになりましょう」という意味の言葉じゃないんですよ。守があって初めて破と離がある、つまり「まず型通りに出来るようにならないと、その先に進むことは出来ない」という話なんです。   そして、「型通りに出来るようになる」というのは、分野にもよりますが、決して簡単な話ではありません。 武道程ではないかも知れませんが、仕事だって、最初の段階として「指示通りの作業を出来るようになる」為に、覚えなきゃいけないこと、身に着けないといけないことって山ほどあります。 そして、大抵の場合、その為には入念なサポートが必要になります。   皆さん、新人の時に、「同じことを何度も聞くな」って言われたことありませんか? 私、逆に、「同じことを何度も聞け」って言うようにしてるんです。「忙しくて答えられない時もあるけど、あやふやで進めるくらいなら同じこと何度も聞いて」って。   大体において、新入社員って「何が分からないのかが分からない」状態な訳じゃないですか。 一通り説明して、「分からないことあったら聞いて」って言っても、「あ」「えーと」とか言って何も有効な質問が出来ない状態な訳です。 質問をする為には、それ自体ある程度理解を必要とするものなんです。   ただでさえ質問をすること自体が大変なのに、更に質問のハードルを上げてしまったら、聞けるものも聞けなくなりますよね。 質問のハードルなんて、低すぎるくらいで丁度いいと思うんです。 だから「同じこと何度も聞いて」って言いますし、それで自分の業務に差し支えが出たら、「ごめん今ちょっと無理だから〇分後にもっかい来て」って言えばいい。   ただ、例えば昔、同じように新人に教えている人の中には、「ちゃんとメモとって」「一度で覚えて」「何度も同じこと聞かないで」っていうスタンスの人もいて。 そういう人に、「同じこと聞かないでって酷じゃないですかねー」って言うと、「いや、聞いてばっかりじゃなくて、自分で考える経験も必要だよ」って言われるんです。   うん、一面、そうかも知れません。自分で考える、というのは重要なことです。  けれど、その重要さは、多分「会社に入って、まだ仕事もろくに覚えていない」という状態で必要とされる重要さではない。守破離の守も出来ていない状態で破を求めてはいけない。   「自分で考えろ」って言うの、楽なんですよね。ことこまかに教えなくていい、質問に答えなくていい。そして、ちゃんと「自主性を育てる」っていう建前も出来る。 けど、それって「先輩社員にとっての甘え」に他ならないんじゃないかなあ、と。ちゃんと質問に答える手間をとりたくないから、「自主性を育てる」っていうお題目に甘えてるだけなんじゃないかなあ、と。     悪いことに、「自主性もって仕事して」という言葉のもと右往左往してるだけ、という時間に慣れてしまうと、新入社員の側も「あ、自主性ってこんなもんでいいのかな」って思っちゃう場合があるんですよね。 肝心の、守が出来て破に進む段階で、本当に期待されることが出来なくなってしまう。かつて、破を求められて右往左往していた記憶が、実際の破を行う時の邪魔になってしまう。   これ、先輩社員から見ても新入社員から見ても、「自分で考える」とか「自主性」という言葉が大きな弊害になってしまっているということだと思うんです。   いや、もちろん、「自分で考えて」って言われて本当に自分で色々考えて、しかも成果まで出しちゃう新人、ってのも中にはいますけどね。 そんなのはモンハンで言うと希少個体とか特異個体っていうレベルのオーパーツな人なので、多分会社側がそういうレベルを求めてはいけない。   だから私は、「自主性」「自分で考える」という言葉は、少なくとも一人前に作業が出来るようになるまでは封印するくらいで丁度いいんじゃないかなあ、と考えているわけなんです。     長くなりました。 五月病ルーキーの新入社員の皆様におかれましては、日々大変だとは思いますが、五月病を乗り越えて健やかに企業の中での地歩を築いていっていただければなあ、と思う次第です。 そして、いつか私のように立派な五月病ベテランになってください。   今日書きたいことはそれくらいです。     【プロフィール】 著者名:しんざき SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。 レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。 ブログ:不倒城   (Photo:Efrén)
競争が嫌い、だから資本主義は嫌、という人がいた。 まあ、言わんとしていることはわかる。 「何を望むのか」と聞くと、 「とにかく、競争がイヤ」なのだそうだ。   まあ、そうだ。競争は疲れる。 「社会保障を手厚くして、(その人の言うには、例えばベーシック・インカムのように)競争に参加しなくても、ふつうの生活ができて、人としての尊厳が保たれるようにしてほしい」 それが、あるべき姿なのだそうだ。   社会保障の原資はどうする?と聴くと、 「原資は、富裕層に課税、企業に課税で、調達すればいいじゃない。」 という。 「競争させられるよりはいいし、働く人は言われなくても働くでしょ。だいたい、経済って、人にとってそんなに重要じゃない。」 と、彼は言った。   彼は、自由市場、競争、私有財産を嫌っているようだった。   ************   実は、自由市場も、競争も、私有財産もない世界が、かつて現実に存在したことがある。   それは、戦時の「軍国主義」下の体制である。 かつて、その代表格、ファシズムは資本主義に嫌気が差した大衆に、熱狂的に支持された。   その理由は、ファシズムが本質的に「脱経済化」を目指したからである。 「経済的な優劣により、社会の序列が決まるわけではない」 というのが、彼らの主張は、大衆の耳に心地よく響いた。   もちろん、目の前にある経済的不平等を一朝一夕に解消はできない。徴税や社会保障を通じて、徐々に金の流れを変えなければならない。 また、人は「金」を受け取っても、承認欲求が満たされない限り、世の中に不満を持ち続ける。 だから、公約は簡単だが、それを実際に制度化するのは難しい。   では何によってファシストたちは大衆を満足しようとしたか? それは、「理念」「文化」である。   ファシズムは、いずれも民族意識や伝統などを重んじる。 富者も貧者も、その前では平等であるべき、と論じる。   例えば、ナチスは労働者階級の社会的地位、重要度、平等性を担保するべく、彼らを「英雄」として扱った。 具体的には、小作農をナチスは保護した。 諸々の演説、催事、祝祭によって賞賛されるだけでなく、一定期間、町育ちの少年少女を小作農の下で働かせ、小作農たちの自尊心を高める工夫をした。 さらに、下層労働者も保護された。 下層労働者の社会的地位を高めるため、「労働奉仕」の名のもとに、あらゆる成人男性を身分や収入にかかわらず働かせた。   あるいは、市民軍、親衛隊、青年団、各種婦人団体など、準軍事組織が数多く作られた。 その目的は、「経済的に恵まれない層の人間が命令し、恵まれた層がそれに従う」という構図を作るためである。   もちろん、その組織の中では、経済的な階層とは逆の方向に昇進が行われるよう細心の注意が払われており、「経済的弱者」は、その「脱経済活動」の中で、強者への優越的地位を利用して溜飲を下げることができた。   さらに、ファシストは、社会の恵まれない層に対して、恵まれた層の特権だった非経済的な贅沢を与えた。 例えば「歓喜力行団」がそれである。 彼らは、多くの恵まれない層に、「安易な自己肯定感」を与え続けたのである。
歓喜力行団 歓喜力行団は娯楽の「喜び」を通じて労働の「力」を回復させるための党組織で、1933年より音楽コンサートや日帰り旅行、リゾート地やクルーズ船での保養など、それまで労働者階級には手が届かなかったような中産階級的レジャー活動を広く国民全体に提供した。 バルト海のリューゲン島の砂浜にある巨大な保養施設プローラや、数多くの大型クルーズ船(いわゆるKdF-Schiff)はその好例である。他の主要な渡航先として大西洋にあるポルトガル領マデイラ島などが挙げられる。 歓喜力行団はただのレジャー・娯楽組織ではない。歓喜力行団の究極の目的は、余暇活動を上流階級から下流階級まであらゆる大衆に格差なく提供し、階級ごとに分断されたドイツ人を階級対立のないひとつの「民族共同体」にまとめる橋渡しをすることであった。
知られているとおり、貧しく、無知な人々から大きな支持を取り付けたナチスは、「独裁」に突き進むことになる。   以上から見て分かる通り、ファシズムのような全体主義の究極の強みは、 「自分の生活レベルは低いままだけれど、それ以上に、上流のいけ好かない奴らの方が、激しく没落しているよね」 という、成長をともなわずとも得られる満足感、いわゆる「メシウマ(他人の不幸で飯がうまい)」なのだ。   そう、全体主義とは「メシウマ」が原動力なのである。   ファシストにとって「弱者保護」や「伝統の重視」、「お金より大事なもの」という大義名分は常に大衆の指示を獲得する武器になるが、「メシウマ」が原動力である以上、全員が等しく貧しくなった時点で、制度は破綻する。 それが、全体主義の欠陥であることは、歴史が証明している。   **********   ピーター・ドラッカーは、これから訪れる「知識経済社会」は、我々が知るいかなる社会よりも、競争の厳しい社会であると述べた。*1 ということは、世の中にはこれから、「競争に敗れた人」が益々増える、ということでもある。   したがって、競争に敗れた人の尊厳をどう確保するか、は社会にとって非常に大きな課題である。 カネを与えるだけではダメである。身分社会を強化するだけだ。   我々は彼らを励まし、尊厳を与え、社会に貢献できるように場所を作らなければならない。 でなければ、全体主義の再来は、そう遠くない将来に十分に起こりうる現実だ。     *1[amazonjs asin="4478190453" locale="JP" tmpl="Small" title="ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる"]     【お知らせ】 ・安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます) ・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント ・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ ・ブログが本になりました。 [amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"] ・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました!   (Photo:Raul Lieberwirth
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明晰さは必ずしも輝かしい未来を保証しない。 なぜなら、しばしば人の悪いところばかりが目についてしまうからである。   その力を、「人の良いところ」にばかり目が行くようになってくれることに使えば、本人も周りももっと幸せに仕事ができるのだろう。   漫画:眞蔵修平 website:http://www.matthewroom.com/ Twitter:https://twitter.com/makurashuhei Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei 出典:明晰ではあるが、会社に文句ばかり言っていた人の話。  
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先日、自分のブログに「内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしている人は、何もわかっていない」という記事を書いたら、やたら反響がありました。
人間同士のコミュニケーションのなかで、「コミュニケーションの内容」が本当に問われる場面はそんなに多くない。 もちろん、業務上の指示やディベートの際には、内容こそが重要になる。しかし、日常会話の大半は、コミュニケーションの内容よりも、コミュニケーションをしていることのほうが重要だ。 その典型が、「おはようございます」「お疲れ様でした」「おやすみなさい」といった挨拶のたぐいだ。
  リンク先を要約すると、 「世間話や挨拶といった、内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしちゃいけない。そういうのは、コミュニケーションの内容よりも、コミュニケーションしていること自体が重要」 という話なのですが、この話は、まだ半分しか終わっていません。  ここからは、内容の無いコミュニケーションの難しいところや、攻撃的な意味合いについて、書き記してみようと思います。  

空っぽのコミュニケーションにも、コストやリスクが伴う

 挨拶や世間話のような、それ自体が目的化したコミュニケーションが人間関係を左右するのは間違いありません。ただし、挨拶や世間話をしまくれば良いかというと、そういうわけでもありません。   当たり前のことですが、挨拶や世間話にもコストやリスクが伴います。 ほんの少しとはいえ、時間を取られますし、キチンとやろうと気を遣えば精神力も消耗するでしょう。 一生懸命にデスクワークしている最中に、部屋に入ってきた同僚にちゃんと挨拶をしようとか考えてしまう人は、集中力も犠牲にしていると言えます。  時間や精神力や集中力を失ってしまうということは、挨拶や世間話とてノーコストではない、ということです。   また、何かに集中している時に、空っぽのコミュニケーションを仕掛けられるのは誰だって嫌なものです。 そういう忙しい相手に挨拶や世間話を持ちかけて、時間や精神力や集中力を浪費させてしまえば、信頼や親しみよりも、怒りを買ってしまうでしょう。   それ以外にも、「ここは、挨拶や世間話を持ちかけるより、スルーしたほうがお互いのためだ」という状況は結構あるものです。 わかりやすい例を挙げると、秘境の温泉宿で若い女性と過ごしている取引先の社長を見かけた時、挨拶をしにいくのはきわめてリスクの高い行為です。   本当にコミュニケーションの上手い人は、空っぽのコミュニケーションに伴うこういったコスト・リスクを心得ているものです。 挨拶や世間話をするのにふさわしい場とタイミングを見計らえるようになってはじめて、「空っぽのコミュニケーションが上手な人」と言えるのではないでしょうか。   

空っぽのコミュニケーションがハイレベルになると、みんな苦しくなる

 じゃあ、空っぽのコミュニケーションが上手な人が集まりさえすれば、万事うまくいくかといったら、そうとも限りません。  挨拶や世間話の上手な人ばかりで構成されたグループやコミュニティでは、洗練された挨拶や相槌が交わされて、世間話に花が咲きます。そのさまは、少なくとも表面的には、信頼と親しみが充ち溢れているようにみえます。   しかし、そのようなハイレベルなコミュニケーションがいったん成立してしまうと、誰も、挨拶や世間話に手が抜けなくなってしまいます。 たとえば、AさんもBさんもCさんもハイレベルにコミュニケーションをこなしている最中に、Dさんだけが挨拶や世間話をおざなりにしはじめたら、Dさんだけが不信や不興を買いやすくなってしまうでしょう。 空っぽのコミュニケーションをハイレベルにこなすのが当然になってしまった集団のなかで、一人だけ普通レベルのコミュニケーションで済ませるのは、簡単ではありません。  
電通の人たちとカラオケに行った話 - 雑記 電通の女性の1人は、AKB48の『大声ダイヤモンド』の「大好きだ! 君が 大好きだ!」の「君が」を「仕事」におきかえた替え歌を披露していた。 照れの一切ない、一体こうなるまでに何度こなしてきたんだという洗練されたものだった。普通なら振り付けをこなすだけでじゅうぶん盛り上げ役の責務を果たしたと考えてしまうところなのに。ハードワークなサラリーマンに広く刺さるよう、絶妙なモジリをほどこすなんて。 すげえという眼差しで傍観していたが、ほかの電通の人たちは彼女の完璧な振り付けや替え歌には反応を示さず、当たり前のことのように、オーソドックスに盛り上がるばかり。替え歌の女性も、自分の気の利かせっぷりに誰も言及してないことなどお構いなく、曲中のすべての「君が」を「仕事」におきかえて歌いおおせていた。 すごい。ウケるとかスベるとかそういうものを超越した、ただ行為のみの世界だ。 電通というエンタメの長みたいなところにいる人たちが、ただただ空気の流れに身をゆだねる形のコミュニケーションをとっているのには、単なる体育会系のノリという以上に意識的なものがあると思う。合理的には言い尽くせないものの、恒常的にコンテンツを生み出し続けるのに必要な何か。その一端を目の当たりにして僕は「まちごうたな」と思うばかりだった。
上記リンク先は、電通の社員とカラオケに行った人のお話です。ハイレベルに気を利かせ合いながら、物凄い勢いで空っぽのコミュニケーションをこなしていく電通社員のエピソードは、圧巻としか言いようがありません。   しかし、彼らがこれほど気を利かせ合って、空っぽのコミュニケーションに心血を注いでいるということは、彼らが負担しているコストは肉体的にも精神的にも相当なもののはず。もちろん、時間的なコストもです。 電通で働くほどのエリートなら、バイタリティもコミュニケーション能力も国内最高水準には違いないでしょうけど、このような集団に所属しているうちは、空っぽのコミュニケーションに割くコストを節約するのは難しく、ちょっとでも手を抜けば不信を招くこと必至です。   電通は、労基署の立ち入りを何度も受けているそうですが、空っぽなコミュニケーションを全国最高レベルでやってのける人材が集まり、その空っぽなコミュニケーションが一種の伝統芸能になっているとしたら、これは、そう簡単には変更できそうにありません。   電通に限らず、たとえばスクールカースト上位のグループなどもそうですが、「コミュニケーションに費やすコストを下げましょう」とみんなで約束したとしても、この約束が守られるとは期待できません。 なぜなら、こうしたコミュニケーションの営みには、自分自身の社内での影響力や、スクールカーストが賭けられているので、コストを引き下げることなく、今までどおりに振る舞ったほうが有利に立ち回れるからです。    

空っぽのコミュニケーションは、他人をふるい落とす武器になり得る

この事実を、視点を変えて考え直すと、「挨拶や世間話のような空っぽのコミュニケーションには、人をなぎ倒す武器になり得る」とも言えます。   あるグループ、あるコミュニティのなかで挨拶や世間話を励行し、お互いに気を使い合うよう意識しあって生まれるのは、コミュニケーションのユートピアとは限りません。 むしろ、コミュニケーションにコストをかけても耐えられる人間だけが生き残り、そうでない者がドロップアウトしたり影響力を制限されたりする、コミュニケーションの厳しいヒエラルキーではないでしょうか。   だから、自分のコミュニティからコミュニケーション弱者をふるい落とそうと企む人間が採り得るストラテジーのひとつは、挨拶や世間話を励行して、お互いに気を利かせ合って、打てば響くようなコミュニケーション環境をつくりあげてしまうことです。 どんどん挨拶や世間話をして、空っぽのコミュニケーションに要するコストを釣り上げてしまえば、ついていけない人間をふるい落としたり、影響力を弱めたりすることができます。   もちろん、このようなストラテジーがいつでも・どこでも通用するわけではありません。ですが、  ・そのコミュニティに属していなければ絶対に手に入らないメリットがある状況 ・そのコミュニティから脱落した時のコストが大きすぎる状況 ・学校のように、メンバーの地位が原則として平等とされている状況 には、猛威を振るうと思われます。   誰もがコミュニティに残っていたい・残らざるを得ないような状況下で、挨拶や世間話や気遣いをどんどん励行すれば、空っぽのコミュニケーションについていけない人間はじきに淘汰され、ぎりぎりついていけるぐらいの人間は、低い影響力とカーストに甘んじることでしょう。 そして、高い影響力を獲得し、高いカーストを手に入れるのは、空っぽのコミュニケーションを最も低コストに上手くやってのけられるメンバーです。こうした現象の典型として、ある種の社内政治や、ある種の校内政治を想像するのは難しくありません。  この視点で考え直すと、信頼や親しみを獲得するための挨拶や世間話が、影響力やスクールカーストを賭けて戦う人間の、武器でもあることがおわかりいただけるでしょう。   世間一般のコミュニケーション論は、親しみとか共感とか、そういったソフトな言葉で語られることが多いですが、そのソフトな言葉の裏側では、影響力やカーストを賭けた、血みどろの戦いが繰り広げられています。 実のところ、一番上手に、一番気を利かせてコミュニケーションをこなしている人間が、一番アグレッシブで、一番たくさんの人にコミュニケーションのコストを強いていることだって、あり得るのです。     【プロフィール】 著者:熊代亨 精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。 通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。 [amazonjs asin="4864913250" locale="JP" tmpl="Small" title="認められたい"] twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』 熊代亨のアイコン 3   (Photo:Mario AV)
こんにちは、ビルマテル株式会社、取締役の白井 龍史郎です。   前回、「熱中症を予防するスポーツ用の帽子」が5年の歳月をかけて製品になるまでのお話をさせて頂きました。 しかし、製品化の後には「売る」という、最も難しい仕事が待っています。 そして、それはAirpeakと名付け、アメリカのオーランドで行われていたPGA(全米ゴルフ協会主催)の展示会に出展した時に、露わになりました。   「いい製品だね」   と多くの人に言われるものの、受注には全く結びつかないのです。 「いい製品」であることは前提です。 しかし、買う側にとっては何かが足りないというでもあります。このギャップを埋めなければ、拡販は望めません。   穴の空いたヘルメット「ヘルメッシュ」(詳しくは1ご覧ください)を製品化した時も全く同様でした。 結局のところ、「ヘルメッシュ」が爆発的に売れたのは「製品を開発すること」と、「売れるように改良すること」を辛抱強く行ったからです。   今回、Airpeakを展示会に出品し、顧客の声を聞いて強く感じたのは 「スポーツの世界は、どの程度の効果があるのか、数字を求められる」という点でした。   ですので、この時点でまず解消すべきは、 「他の帽子より定量的にどの程度熱中症に効果があるのか?その根拠は何なのか?」 という疑問を解消することでした。   それに真正面から答えない限り、新しいコンセプトの製品を購入するユーザーはもちろん、将来的にライセンスを販売したいメーカーとの交渉もうまく行くはずはありません。   したがって、この時点でAirpeakが本当に効果があることをデータで示し、その理論的な裏付けを行うことが必要でした。   では、それをどのように行うか。 最も効率的な方法の一つは、その効果を科学的に証明しているデータを探すことです。 そのため、我々はスポーツ科学の世界で論文を広く探しました。 すると、下記のような論文が寄本明氏という大学教授により発表されていることがわかりました。 それは、輻射環境下、運動時の頭部保護に関する実験的研究」という論文でした。
太陽からの輻射熱は、運動に置ける行動限界を決定する要因となると考えられ、体温調整上、放熱に大きな影響を及ぼすことが示唆されている。 そのため、輻射環境下での長時間暴露や身体活動時には、輻射熱から身体を保護する必要があり、体温調節中枢のある頭部の保護は最も重要であると考えられている (出典:寄本明・岡本進・佐藤尚武 滋賀県立短期大学学術雑誌,1983年).25 123-126
  その論文は、わかりやすく言うと、直射日光の当たる炎天下の中で頭部を守ることがいかに大事なのか、と言う研究でした。   しかし、読者の皆様はこう思うでしょう。   「炎天下のもと、帽子を被った方が良いことは当たり前じゃないか」と。   その通りです。 しかし、この研究には続きがあり、白眉だったのは、これに続いて「どのような帽子の形状であれば、より熱中症が防ぎやすいのか」という考察をしている点です。   「運動時の着帽効果に関する実験的研究(続)-改良型防暑帽の効果について-
従来の運動帽は、太陽光の遮断に役立ったとしても、頭頂部皮膚面からの発汗による蒸れを調節する働きにかけている。 しかしながら、ヘルメットのような二重構造の帽子では、蒸れや蓄熱を抑制し、高い防熱効果を示す報告がある。 (出典:寄本明・岡本進・玄田公子・佐藤尚武 デサントスポーツ科学 .4 280-287
  そこには非常に価値ある考察が示されていました。 我々がAirpeakとして製品化した風通しをよくするために二重構造にしたスポーツ帽子ですが、寄本教授も全く同じ発想でなんと30年前に開発しようとしていたのです。   我々は早速、寄本氏にアポイントを取り、話をうかがいに行きました。 そして、寄本教授のお陰で、我々のAirpeakは非常に大きな進化を遂げることになります。   ************   今回は、その寄本教授にインタビューをして、研究当時のお話を聞いてみました。   白井:この論文を見つけた時は衝撃でした。 寄本教授「これはもう30年前の論文なんですよね」。   なぜ帽子の研究をやろうと思っていたのですか? 子供の時から帽子って本当に意味があるんだろうか?と思っていました。小学生は赤白帽をかぶることが決まっていますが、頭の中で蒸れて暑くなって帽子脱いじゃうんですよね」。   帽子を被ることに意味はないのですか? 「いいえ、帽子を被ること自体には重要な意味があります。直射日光を防ぐことができるからです。特に頭皮は熱に鈍感で、暑さに気づきにくい傾向があります。 頭の温度が上がると、発汗作用を促すことがわかってます。結果的に、目眩や脱水症状を起こしたりとか、熱中症にかかりやくなるのです」。   では帽子を被ることの何が問題なのですか? 「帽子を被って太陽光を遮ることは効果的なのですが、問題は帽子を被ることで頭の中で蒸れてしまうということが問題なのです。 ですので、帽子を被れば直射日光を遮ることができるが、帽子を被ると頭の中が蒸れてしまうという相反する課題が帽子にはあったのです」。   相反する課題をどのように克服したのですか? 「実はそれを解決するヒントは、日本の伝統的な帽子にあったのです。それがすげ笠です。 その当時、労働科学研究所の肝付先生という方が農作業用の帽子を研究していて、最も涼しい帽子は『すげ笠』と結論づけられていたのです。 (写真:photolibraryより引用) すげ笠は、広めのつばの部分で日光を遮ることはもちろんですが、笠を被った際に頭部と帽子の間に空間ができる作りになっているため、被っていても蒸れたりしないのです。   そして、それをヒントに大手スポーツメーカーと協力して、熱中症を予防する帽子を開発し、それを論文で発表したのがこの帽子なのです。しかし、この製品は、結局販売されませんでした」。     なぜ、発売されなかったのですか? 「カッコよくなかったからです(笑)。帽子の縫製も当時の技術では難しかったです。でも、やはり企業と研究している以上、製品が売れなければいけない開発する意味がないわけで、量産して販売するほどのものではなかったということです」。   30年ぶりに論文が、利用された気分はどうですか? 「いやー、こちらこそ30年前の論文を蘇らせてくれて、研究者冥利に尽きますね。しかも、この形なら売れそうですし、いや売れて欲しいですね。応援してます」。   白井:ありがとうございます。   ************   現在は、寄本教授にAirpeakの実証実験をお願いしており、論文で示されていた通り、とても良好な結果が得られています。 Airpeakは、一般的な帽子に比べて帽子の中の温度を低く保ち、体感的にも涼しく感じることがが実証されています。   昔、サイゼリヤの経営者が「おいしいから売れるのではない。売れているのがおいしい料理だ」といった趣旨の発言をしていたことを憶えています。 おそらくそれが「販売の壁」です。ユーザーがどのように感じるかを、きちんと検証しなければいかに自信作の製品であっても売れません。     我々は幸いにも、寄本教授のお陰でAirpeakの効果を検証し、その根拠までを示すことができたことで、「販売の壁」を超える大きな一歩を踏み出すことができました。 実際、検証データを持ってからと言うもの、各メーカーとの交渉もスムーズに進むようになりました。   上に紹介したサイゼリヤの経営者の言葉を直せば、 「良いものが売れるのではない。売れるものが良いものだ。」と認識し、「良い機能を持つ帽子だから売れるはず」という思い込みをしないことが重要なのだと思います。     余談ですが、「販売の壁」を乗り越えた後、大きな一歩がありました。 横浜市が主催している世界的に有名なトライアスロンレースである2017 世界トライアスロンシリーズ横浜大会での公式キャップに採用されたのです。 こちらについてはまた後日にご紹介したいと思います。  To be continued……     ◯Airpeak販売サイト オフィシャルFacebookページ  
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一般的に、人材育成の世界では 「辛抱強く人を育成することが大事である」 と言われている。   私も昔、人材育成を主たる商材とした会社にいたことがあったので、よく分かる。   だが、営業していると時折、 「人材育成を辛抱強く?そんなのキレイ事だし、効果ないよ。」 とバッサリ斬る人もいた。 そのうちの一人が、ある気鋭のwebサービス会社のマネジャーだった。   ------------------------   当時、私は人材育成に関して深く洞察をしていたわけではなく、 「なんとなく、人は辛抱強く育成することが大事」と思い込んでいた。   しかし、そのマネジャーは私に冷水を浴びせた。 「意味ないでしょ。いいですか安達さん、いつまでも成長しない社員は、見限ることも大事なんです。」 と彼はいう。   彼は、エースのエンジニアであり、人を育てる立場のはずだ。 私は彼に言った。 「いえいえ、人は急には成長しません。ですから……」   マネジャーは私の言葉を遮った。 「ここは会社です。当然「投資対効果」を考えるべきです。リターンが得られるならば人材育成もしましょう。でも、見込みのない人に投資するなんて、バカバカしいのもいいとこです。」 「投資対効果……ですか。」 「そうです。いいですか、殆どの研修会社では「研修の投資対効果」は教えてくれます。」 「はい。」 「でも、本当に大事なのは、「人材への投資対効果」ですよ。こいつは伸びるやつなのか、それとも無能なのか。研修なんかの評価よりも、そちらのほうがよほど大事です。」 「……」 「誰でも可能性がある、なんて言うのはやめてくださいよ。そりゃ20年かければ、ある程度は伸びるかもしれませんが、会社はもっと短期で育成できる能力を必要としてます。」 「なるほど。それはそうかもしれません。」 「もちろん、最初は平等に教えますよ、でも1年たったら、だれがダイヤの原石で、だれがガラクタかはわかる。ダイヤは磨き、ガラクタは損切りする。資産運用もそういいますよね。損切り大事、当たり前じゃないですか。」   ------------------------   人は資産、経営学ではそのように習う。 しかし、資産であるのならば、運用できなければ無意味である。 そして、回収の見込みがない資産は手放さなくてはならない。   実際、そのマネジャーは、非常にレベルの高いエンジニアを何人も生み出しているが、 逆に何人にも 「もうエンジニアやめたほうがいいよ」 「もっとレベルの低い会社にいきな」 という厳しいことも言っている。そうなると、もう彼は「見込み無し」の人物には一切、時間を使わないのである。   人材育成に多くの投資をしたが、効果があまりなかった、と嘆く経営者はたくさんいた。 そのとおりかもしれない。 私は彼の話を聴くうちに、 「上司は部下の育成の責任を持つ」という言説には、一定の留保が必要なのかもしれない、と思った。   なお、Googleは、「トレーニングに多くの費用を使っていることを誇らしげに語ることは、そもそも適切な社員を雇えなかったことの証拠にすぎない」と言っている。*1 *1 [amazonjs asin="4492533656" locale="JP" tmpl="Small" title="ワーク・ルールズ!―君の生き方とリーダーシップを変える"]   ------------------------   「もちろん、全ての部下や後輩を育てなければいけない、という責任なんか、どこにもないですよ。」 と、そのマネジャーは言った。 「では、どういう部下や後輩は育てるに値するのですか?」   そのマネジャーは即答した。 「育てたくなるやつ、にきまっているでしょう。上司は「育てたいやつ」だけ育てればいいんです。」 「育てたくなる……。」 「そう。」 「すると、「どんな部下、後輩なら、育てたくなる人なのか」を聞きたいです。」 「そうですね、「育てたくないやつ」のほうがわかりやすいですかね。まず、礼儀がなってないやつ。これは一発アウト。」 「ほう。」 「といっても、何も難しいことは要求していないですよ。挨拶することと、ちゃんと連絡を入れること、敬語を使うこと。この3つだけ。それすらできないなら、教える必要はないと思っています。」 「他にはありますか?」 「同じミスを繰り返さないことですね。学習しないやつは教える気が失せます。」 「……。他には?」 「そうですね、最初の1年で、上位50%に入っていることですかね。」 「上位50%?」 「要するに、上半分、てやつです。上位20%は、何も言わなくてもできる奴らですよね。でも、最初からはできない人もいる。」 「はあ。」 「であったとしても、上半分に入れないやつは、「勝とう」とするきもちがないってことです。「勝つこと」にこだわらない人に、貴重な時間は使えない。」 「なるほど。」 「勝とうとする奴に同じ時間を使えば、同じ時間でその何倍もの成果を出しますから。」   私は礼を言って、彼と別れようとした。 すると、彼は最後にいった。 「だれでも、会社に入れば育ててもらって当たり前、なんておかしいでしょ。投資に値するところを見せてほしいですよ。そうじゃありまませんか?」   私は彼に言った。 「「どうしても性格的に合わないので、育てたくない」って人、いませんでしたか?」 「いるよ、ま、そういうやつは他に行ったほうがいい。」   彼は多くのマネジャーの本音を語ったのかも知れない。 会社とは、シビアな場所だな、と思う。     【お知らせ】 ・安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます) ・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント ・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ ・ブログが本になりました。 [amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"] ・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました!     (Photo:Katy Tresedder
※この文章はマーケメディアから"最後まで読まれて拡散されるコンテンツの作り方【虎の巻】"資料をダウンロードして頂いた方に隔週でお送りしているメルマガを再編し掲載しています。   *************

「4月によく読まれた記事は、どんな「時流」を狙ったか?」

配信日:2017年5月10日   さて、今回は「株式会社オリエンタルインフォーメイションサービス」の企業広報、 "新人研修において、絶対に新人に教えるべき、3つのことについて。" という記事について、考察してみます。   ページビュー数は約2万、いいね!数は約500を獲得した記事であり、「ITの受託開発」というありふれた業態であっても、広く記事を読まれることは可能と分かる記事です。 このコンテンツ非常に読まれ、拡散された背景は「時流に乗ること」にありました。 一体、どういうことでしょう。   一般に、企業広報はPR的な視点から、「自社のことをアピールしなければならない」と捉えがちです。 しかし、読者の視点に立てば、企業のアピールばかりの記事は読むに値しません。   なぜならば、「読まれる条件」を満たさないからです。繰り返しメルマガの中でもお伝えしていますが、読まれる記事は「共感する」「笑える」「役に立つ」のどれかの条件、または複数の条件を満たしている必要があります。 したがって、企業PRは、「いかにPRせず、アピールするか」という、一見矛盾した要求を満たす必要があります。 そこで、この企業は「自社で今、やっていること」をお役立ち情報として記事化し、「PRせず、自分たちの会社に興味を持ってもらう」という方法をとりました。     もちろん、自分たちがやっていることはたくさんあります。しかし、4月という時期に最もニーズのあるのは、ある程度の規模の会社であれば間違いなく「新入社員の育成」でしょう。 したがって、これを記事化すれば多く読まれるのではないかという読みがありました。 狙い通り、「広報」を、自分たちの視点ではなく、読者の視点から出発させることによりこの記事は1記事でページビューを2万獲得し、非常に大きな反響を得ることができました。   広報にはプレスリリース、オウンドメディア、記事広告など幾つもの手段があります。しかし、成果を出そうとすれば、本質的に中身は全て「読者ニーズ」から出発すべきものなのです。 ---------------------- 今回のメールマガジンはいかがでしたか? "最後まで読んで"くださり、ありがとうございました!面白かった!と思ってくださった方は、ぜひこちらも目を通してみてください。 <私たちが運営しているBooks&Apps の週間人気ランキング> 1位: アフリカの村で70万円盗まれたら、いつの間にかあたり一帯がバブルにわいていた。(282,821 views) 2位:「人に行動させるスキル」に長けていた人の話。(42,240 views) 3位:映画で「殺人は違法です。演じている役者たちは実際には死んでいません」と断るべきなのか?(39,251 views)   (了) ---------------------- 自社のPRについて、「こちら広報部」に相談してみたたい!というコトがあれば お気軽にお問い合わせください。  →お問い合わせフォーム
こんにちは。オリエンタルインフォーメイションサービスの竹仲です。 昨年、新卒のシステムエンジニアとして入社し、今年の4月で無事2年目を迎えることができました。 1年間、様々な人と、プロジェクトで働きました。 得るものは多かったのですが、中でも特に「成長」というテーマにおいては、考えるところも多くあり、勉強になったと感じています。   一方で、今まで学生だった方々は4月に入社し、「これからどのようにスキルアップするか」とか、「どうすれば成長するのか、」など、迷っている方も多いでしょう。 そこで今回は、「新人の成長」について自分の体験をもとに書いてみたいと思います。  

新人時代は「他と圧倒的に差をつける」チャンス

まず社会人になって一番感じたのは「勉強したモン勝ち」という事実です。社会人は皆同じかとも思いますが、技術者は特にこの傾向が強いと思います。   なぜそう言えるのでしょう。   例えば、エンジニアの世界には「信頼度成長曲線」という概念があります。
信頼度成長曲線とは、横軸に日付、テスト時間、またはテストケース数、縦軸に累積バグ発見数をとったグラフ。S字の成長曲線を描くことが多い。(Wikipedia)
こんなやつです↓ プロジェクトの最初の方には、それほどバグを発見できないのですが、途中から急にバグの発見数が上がり、徐々にバグの数は収束する、という、この世界では有名なグラフです。   で、実際に仕事をしてみると、バグに限らず「仕事の成果」も、同じようなイメージかなと思ったのです。   横軸に時間、縦軸に「仕事の成果」と考えていただくと、一つの仕事を初めて間もないころはとても能率が悪く、思うように仕事が進みません。「手探り」の状態です。 でも、途中からコツを掴むと一気に能率が上がり、成果が出るようになります。これが「ノッている状態」。 そして、ある程度仕事をこなすと、今度は労力を投入してもあまり成果がそれ以上でなくなる、というわけです。いわゆる「こだわりすぎ」の状態です。     つまり「勉強したモン勝ち」と言うのは、こういうことです。 新人の時には、どんな仕事でも、最初の進み方は非常に悪いです。どの仕事もはじめての仕事ですから、非常に能率が悪いのです。 できるだけ早くコツを掴んで「ノッた」状態にしたいと思うでしょう。   ここで、2つの選択肢があります。 1.今はわからなくてもいいや、という態度をとる 2.早く結果を出したいので、自発的に知識を取りに行く   当然、2.を選択した人のほうは、早くコツを掴みますから、1.の人に比べて「圧倒的に早く結果が出る」ということになるでしょう。 新人のときに頑張ることは「他と比べて圧倒的に結果を出す」上で、非常に合理的なのです。   逆に、皆がある程度仕事に慣れた状態では、同じ仕事を繰り返していても、「圧倒的な成果を出す」ことは難しくなってきます。 この場合は積極的に別の仕事をやることで、技能を伸ばすことができます。   つまり新人時代は 「人より多く勉強して、早く結果を出す」 「他の人がキャッチアップしてきたら、別の仕事を積極的にやる」 ことで、かなりの成長と、他の人との差別化を図ることが可能で、イメージとしては以下のようになります。  

どうやって勉強するか

ここで問題になるのは「勉強をどうやってするか」です。 そして「独学」は、その効率の悪さから、おすすめできません。「車輪の再発明」ではないですが、既に誰かが知っていることは、教えてもらったほうが遥かに早く知識を手にすることができます。   そこで重要なのが「先輩に教えてもらう技術」です。 新人は、「どうやったら先輩が気持ちよく自分に教えてくれるか」を真剣に考えなければなりません。先輩も忙しいですし、なにより人間ですから、「教えたくなる後輩」を優先するのは自然でしょう。   では、どうしたら先輩は気持ちよく教えてくれるでしょう。 ここは2つコツがあると感じます。  

1.「何がわからないのか」をきちんと書き出す

先輩に一番イライラされてしまうのが、「何がわからないのかわからない」という状態で、漫然と「教えてください」と聞きに行くことです。 優しい先輩であれば、何がわからないのかを逆質問で明らかにしてくれますが、それはとても時間がかかります。 ですから、普通は 「で、結局何が聞きたいの?」 と言われてしまうでしょう。 そうではなく、「何がわかっていて、何がわからないのか」を出来得る限り明確にし、また先輩に正確に説明するためにも一度紙に自分の考えていることを落とし込むことは重要かなと思います。  

2.先輩の性格を把握し、適切な人に聞きに行く

私の経験では、先輩に質問したときに、二タイプの教え方をする人がいます。 一つは、「原理原則」から話をするタイプ。ベテランの経験豊富な方に多いタイプです。 もう一つは、「まずは目の前の課題を解決する方法」から話をするタイプ。比較的若手のできる方に多いタイプです。   そして、新人のときは「原理原則」から話をするタイプよりも、「目の前の課題を解決する方法」タイプの方の方に聞くほうが、私は聞きやすいと思いました。 これは個人差もあるので、原理原則を先に聞きたい、という方もいるでしょう。 しかし、個人的には「原理原則」を先に語られても、余計にわからなくなることが多く、聞きに行ったら「根本がわかっていない」と怒られた、という経験があるためです。   もちろん、原理原則を知らなくて良い、というわけではありません。 目の前の課題を解決した後に、原理原則をもう一度聞くと理解が深まるケースはよくあります。   しかし、例えばプログラミングにしろ、資格取得のための試験勉強にしろ、まずはプロトタイプを作ったり、過去問をやったりして「習うより慣れろ」という方が勉強の効率は良いことが多い気がします。 したがって、「まず目の前の課題を解く方法を教えてくれる先輩」に聞きに行き、ある程度慣れたら「原理原則を教えてくれる人」に聞きに行くという順番を、気にすると良いと思います。     色々と書いてきましたが、新人時代は一生で一番、大きな成長を経験できるときかもしれません。 私も、今年の4月に入った新人の方と、共に頑張っていきたいと思います。     株式会社オリエンタルインフォーメイションサービス公式サイト 中途採用ページ    
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私は、年上の精神科医が書いた、経験に裏打ちされたエッセイが好きだ。 そういうエッセイには、古い知恵やユニークな発想がたくさん埋まっていて参考になるからだ。   年上の精神科医の書いたエッセイの多くは、私からみると能天気にみえる。そう見えるのは私自身の問題かもしれないし、時代の違い・世代の違いによるものかもしれない。それだけに、私自身では見逃してしまいがちな発想が豊かで、ハッとさせられることも多い。 今回、調べ物をしているうちにたまたま読んだ『「普通がいい」という病』という本もそうだった。  [amazonjs asin="4061498622" locale="JP" tmpl="Small" title="「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)"]   一人の精神科医として読んでも、一人のブロガーとして読んでも、この本は興味深かった。 もともと、同業者方面向けの講義を書籍化しただけあって、平易な言葉で綴られているけれども内容はホンモノで、ゆえに、ちょっと“アブナイ”と感じた。   つまり、本書に書かれている内容は、読む人が読めばものすごく参考になる反面、誤った読み筋で読むと、とんでもない勘違いを生んでしまうリスクを伴っている。 けれども本書の価値は、そういう“アブナイ”部分にこそ宿っていると思われ、講談社現代新書のレーベルで、よくもここまで踏み込んだものだなぁと感動を覚えた。    

1.一人の精神科医として読む 〜秀逸な言語化〜

この本は、主として神経症圏*1の患者さんの「とらわれ」や、「親や社会にインストールされて、内面化され、束縛している常識や価値観」を緩和していく際のアイデアを、バリエーション豊かに提供している。 私も神経症圏の患者さんが好きだから、その手の束縛や葛藤について話し合うことをライフワークにしているつもりだが、さすが先輩、手札のバリエーションがハンパないし、キチンと言語化されているのが凄い。
ですから、「愛情不足」と言われてきた点について、よく吟味してみると「愛情」とは 違うポイントがあることが見えてきます。 また、親の愛情を「不足」と感じたのもあくまで相対的なもので「心的現実」として子どもがそう感じたことだったということも分かってきます。 このからくりを理解するために 図7‐4を見てください。親がセンチ目盛の物差しの人で、子がミリ目盛の人だとしましょう。 図のように、ある同じものについてコミュニケーションをした場合に、親は「四センチ」だと言う。しかし、子の方からは、どう見ても三センチ九ミリである。子が親に「三センチ九ミリでしょう?」と問い返しても、親は「四センチ」だと譲らない。 泉谷閑示『「普通がいい」という病』
親と子どもで世界の見え方が大きく違えば、親子のコミュニケーションはそのぶん難しくなるし、愛情の交換も成立しにくくなる。 こういう、物差しの違いが生むディスコミュニケーションが、親子間の葛藤や対立を生むことは珍しくないし、ときには「毒親」問題の背景として無視できないこともある。   筆者の泉谷先生は、巷で流行の発達障害についてはとりたてて言及していなかった。けれども、たとえば上の物差しの比喩などをみていると、ああ、この先生なら発達障害の患者さんが相手でも、上手にやりとりするのだろうなぁと思えてくる。自他の物差しの違いに自覚的になれる人でなければ、こういう比喩は出てこない。   そういえば、別の先輩精神科医が 「認知行動療法も、精神分析も、それ以外の心理療法も、うまくいく時には、似たような過程と結果に落着するんじゃないか」 とおっしゃっているのを聞いたことがあるけれど、この本を読んでいると、そのことをやけに思い出す。   実際、本書にはこんな事も書いてある。
しかし、地下水脈にたどり着く前に、途中には緑の水や、赤い水などもある。赤い水が溜まった所にたどり着いてそこで止まっ てしまった人は、 「ここから掘ると赤い水が出てくるぞ」と言い、緑の水が溜まっている所で止まった人は「こっちは緑の水が出 てくるぞ」と言う。 井戸を掘った場所の違いで、違う色の水が汲み上がってくる。これが、いわゆる専門性ということがはらむ問題点なのです。 けれども、最も深いところまで掘り切った場合には、どの場所から掘ったとしても必ず同じ地下水脈に当たる。どこ から 掘ろうが同じ水を汲み上げてくることになる。 この地下水脈に共通して流れているものが、普遍的な真実であろうと私は考えます。「 経験」の質を高めるということは、すなわち「経験」を掘り下げていって、個々の専門性や個別性の壁を突き抜けて、普遍性にまで到達するということなのです。 泉谷閑示『 「普通がいい」という病』
この、「一芸に秀でる者は多芸に通じる」考え方は、心理療法の領域にはよくあることだし、もっと一般的なコミュニケーションの領域でもよくあることだと思う。    

2.一人のブロガーとして読む 〜アブナイ本〜

一人のブロガーとしては、「メチャクチャ面白いけれども“アブナイ”書籍だ!」と感じずにいられなかった。 『「普通がいい」という病』というタイトルのとおり、この本は、いつの間にかインストールされた常識や価値観が、どんなに人間に葛藤をもたらし、どれほど不自然な欲望を抱かせているのかを説明している。 と同時に、そういった束縛から自分を解放するためのヒントを、詩人や文学者の言葉を引用しながらいろいろ教えてくれる。   強く内面化されてしまった常識や価値観を緩めるための処方箋として良い内容だと思うし、おそらく、本書を読んだだけで葛藤が緩和できる人もいるだろう。   けれども、書いてあるとおりのことを独りで実行するべく、「普通」を逃れて「あるがまま」を目指そうとして、まずいことになる人もいるんじゃないかとも思う。 本書の内容のうち、常識や価値観に疑問を持ち、内面化された束縛を自覚するところまでは、たいていの読者がやってのけられるだろう。しかし、いざ「あるがまま」を目指しながら社会適応のバランスを維持しようとすると、これは簡単ではない。 臨床心理士や精神科医やメンターがついているなら何とかなるかもしれないが、読者一人では相当やりづらいのではないか。   たとえば、この本を読み誤ってしまうと、「「普通」は悪くて「あるがまま」が良い。あるがままを抑圧する社会が悪いのであって、私はなんにも悪くない」と居直るための書籍に終わってしまうかもしれない。 なまじ、本書に迫力があり、突き詰めたところまで突き詰めた人の気配が感じられ、過去の偉人や詩人からの引用が多いだけに、金科玉条と化してしまうおそれもある。 ともすると、「普通がいい」という病を脱して「ありのままがいい」という病にかかってしまう読者もいるのではないだろうか。   断っておくと、筆者の泉谷先生は、「ありのままならなんでも構わない」とは言っていない。常識や価値観にとらわれた神経症的葛藤を脱することを良しとはしているが、それで周囲とコンフリクトを起こして構いませんといった調子で筆は進めていない。   だが、本書が出版された2006年は、まだ、「ありのままの自分」という言葉が多くの人を惹き付けていた時代だから、「普通」を忌避するための大義名分として、本書に溺れてしまった読者もいたことだろう。 冒頭で私が“アブナイ”ところがあると書いたのはそういうことだ。本書の指し示す地平があまりに大きく、魅力的なので、誰かと一緒に読むならともかく、独りで読み込むと本に溺れてしまいそうだな、と感じたからだ。    

3.普通がいい人こそ、本書を参考にすべき 〜「普通」をよく知る生き方〜

 私はスケールの小さい人間なので、“人間は、みんながみんな、詩人や文学者になれるわけでなく、大半の人は常識や価値観に囚われながら、それらを所与のものとして受け入れて生きていく”と思っている。 これは、実に「普通」なモノの考え方だ。私という人間は、そのような自覚を持ちながら世の中を眺め、書き記していくだろう。   「ありのまま」であろうとするのは気持ちの良いことだが、その度合いが、その人の力量を越えるほどになると仇となる。 常識や価値観から距離を取るのに十分な力量を持っていなければ、「ありのまま」ではいられない。詩人や文学者は、常識や価値観から距離を取れるほど強靭な力量を持った人々だ。だから、彼らの言葉を参考にする時には、よくよく注意しなければならない。   なにより、「普通」を巡る社会状況は、この本が出版された頃とはずいぶん違ってきているようにみえる。 今日の社会は、プライベートな生活のうえでは多様性を称え、個人の自由な選択を保障しているようにみえる。だが、就活状況などが示しているように、常識や価値観の束縛が十年前よりきつくなり、それと折り合っていくノウハウが今まで以上に求められているようにも思う。   そういう情勢だから、私としては、いかに「普通」を逃れて「ありのまま」であるべきかよりも、いかに「今日の「普通」なるものの正体を把握して」「そこに折り合いをつけて生きていくか」について考えたくなる。   ただ、そのためにも、この本に書かれている「普通」を疑ってかかるモノの見方はあったほうが良い。 常識や価値観を捨てるのでなく、うまく付き合っていくことを目標とする場合でも、常識や価値観がどのようにして自分自身を束縛しているのか、そのメカニズムを把握しておかなければうまくいかない。常識や価値観とより良く付き合っていくためには、常識や価値観に囚われている自分自身と世間とに対する、醒めた目線が必要だと思う。   今の時代、「ありのまま」に重心を置いて生きるのは困難だし、こういってはなんだが、そういう生き方は流行るまい。けれども、常識や価値観のなかで「普通」に生きていきたい人にも、『「普通がいい」という病』は良いアイデアを提供してくれているし、「普通」の内実をフレキシブルな方向に変えてくれるようにも思えた。   2017年において、この本の最適な読者は「ありのままでいたい」という人ではなく、「自分は普通に社会適応しているつもりだ」という人だと思う。お勧めです。     *1 現代精神医学ではあまり考えられることの無い、病態水準という分類法で言うと一番軽い水準を指す。 精神病圏やパーソナリティ障害圏ではない患者さんと、神経症に相当する患者さんと、特に精神疾患にかかっているわけではないとみなされる人々すべてが該当する。より詳しく知りたい人は、「神経症圏 病態水準」でgoogle検索してみてください。       【プロフィール】 著者:熊代亨 精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。 通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。 [amazonjs asin="4864913250" locale="JP" tmpl="Small" title="認められたい"] twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』 熊代亨のアイコン 3   (Photo:Max Braun)
こんにちは。ソリマチ株式会社、総務部の岩木です。現在、働きながら一歳半の息子を育てています。
就活シーズンですから、今回は、これから働く若い方々に少しでも参考になればと思い、 今回は「仕事選び」について少し書かせていただこうと思います。  

一社目は「社長の情熱」に打たれた

学生時代に美術部だった私が新卒で入社した会社は「菓子屋のベンチャー企業」でした。   多くの方が戸惑うのではないかと思いますが、就職活動は大学3年の終わり頃に突然始まり、自分がどのような職業が合うのかもよくわからないまま競争に投げ込まれるのだと思います。 当たり前ですが、社会人として働いたことがなければ、「仕事」をよく理解することはできません。また、当時はwebなどの情報も少なく、会社の雰囲気は入社するまで全くわかりませんでした。   ですから、一社目の会社は、就活の際の人事や会社の代表者のイメージで入社する会社を決めました。   様々な会社を回り、会社の説明を聞いた結果、ある会社説明会で出会った菓子会社の社長さんが熱く夢を語っていて、「バリバリと働こう」と思っていた当時の私はとても良いことをおっしゃっているように感じたのです。 業界、職種、休日、ボーナスの有無等、全く考えず、良く言えば熱意の塊でした。   そして入社が無事決まり、仕事が始まりました。 私はあんこを炊くといった下ごしらえのようなことから、品質管理、店頭での販売など、ゼロから全てをやらせてもらえました。 また、若い会社だったため、お店のオペレーションも自分の手探り状態で探っていくような感じで、常に少ない人数で回さざるを得ず、休日が潰れることも多々ありました。 ですが、自ら望んで入った会社だったので、仕事は嫌いではなかったですし、むしろ楽しかったと言っていいと思います。     ただ、入社前には思ってもみなかったギャップがありました。   それは、長く働くにつれ見えてきた、「経営者」と「従業員」の意識のギャップです。 社長は夢を語りたいのに、現場の従業員は「もっと現実を見なよ」といいます。 社長は「ボーナスを支給」するために奔走していますが、従業員は「当たり前だろ」と言います。 しばしば社長は、社員をホテルの食事などに招待し、「質の良い世界に身をおくこと」や「一流の雰囲気」を体感させることに心を砕いていましたが、一方で従業員の中には「休ませてくれ」という人もいます。   どちらの視点も正しいのですが、会社においてはたくさんのすれ違いが生まれるのです。こういった状況を見て「経営者の孤独」と「従業員の視点」の両方学べたことは、とても私の身になりました。   こうして、とても勉強になる職場ではあったのですが、結局3年弱で辞めることを決意しました。 「バリバリ働きたい」という夢はかないましたが、小売業なので、非常に忙しい上、「連休」「週休二日」がなく、もうすこしスローダウンした人生をおくりたかったからです。  

二社目は「職種」で選んだ

そこで、次は「事務職」になりたいと思い、ある投資会社の事務員募集に応募しました。 二社目は「職種」で選んだのです。   ただ、やはりこの会社でも、私はまた入社前と後のギャップを感じました。(もう驚きませんでしたが)   営業会社の雰囲気をご存知の方は共感していただけると思いますが、営業のフロアに行くと、そこはまさに戦場でした。 毎日何百、何千という電話営業がなされており、中には「周りがうるさい」という理由で、机の下で電話してる人がいたりして、とにかく「営業とはこんなに激しい仕事なのか」と、びっくりした記憶があります。   そして、ご想像の通り、「数字が全て」というカルチャーですので、その人の性格や人格はあまり問われません。 中には「あまり仲良くできそうにないけれど、仕事だけはメチャメチャできる人」や、「クラブのホステスへのプレゼントを事務員に買いに行かせる人」、果ては「ネットサーフィンをしすぎてパソコンを壊す人」 など、学生のときには想像もつかない変わった人がたくさんいました。   とはいえ、私は営業部員ではなかったので、確かに休日などはしっかり取れて安定的な職場であり、私の望みは叶ったともいえます。 ですが、「仕事がヒマすぎた」のと、会社の業績が不振になったことから、私は二社目の会社も、早期退職制度を利用して辞めました。  

三社目は「自己分析」をした上で、価値観で選んだ

この二社の経験から、私は次に入る会社を真剣に考えるようになりました。 「なにが私の望みだろう」 「どんな会社が私にあっているのだろう」 「どんな仕事がうまくできるだろう」 三社目はきちんと自己分析した上で、「やりがいのある仕事ができて、本当に長く勤められる会社に行きたい」と、私は思っていました。   そんな中、転職サイトを見ていて偶然に知ったのが今の会社でした。 「営業事務」を未経験者でも募集していたので、「接客」と「事務」の経験が生き、それなりの規模があって、長く勤められそうだ、と思いました。 業界、会社の安定性やボーナスの有無も調べました。   そうです、自己分析やら、業界の調査やら、会社の業績のチェックやら、これが真の意味で、私の「就職活動」だったのです。   余談ですが、こういった私自身の経験から、私は無責任に学生にベンチャーへの就職を勧めることはしません。 「入ってみなければわからない」のは事実なのですが、私が体験したように、ベンチャーは、普通の会社で「あって当然」と言うものがなかったり、常識が自分とは大きく違う人がたくさんいます。 その覚悟がある学生の方には、ベンチャーは、とても良い職場であるのは間違いないのですが……     私はこうして、今の会社のインフォメーションセンターで働くことになりました。 お客様からの要望を電話で受ける仕事なのですが、初めて出社した時から、結構忙しかったのを覚えています。 (あとで知ったのですが、繁忙期でした) しかし、前職で「ヒマ」の辛さを知っていた私には、とても心地よく、また充実感もありました。   その後結婚し、産休育休を取得した後、総務にて短時間勤務で働いています。 復帰してまず感じたのは、部署や仕事内容が違っても同じ会社で継続して働けることはとても仕事がしやすい、ということでした。   総務では様々な方とやり取りをしますが、前の部署で知っている方も多く、仕事の流れがわかっているからこそ気付くことも多いです。 前線に立って仕事をしていただいている皆さんを支えるため「働きやすい職場」を作ることが今の私の仕事の成果です。   息子は保育園に入ると毎月のように病気にかかってますが、総務部の仲間の理解とサポートにも恵まれ、仕事を続けることができています。   学生の皆さんは、「どんな会社に入ったら良いのか?」と大変迷っていることでしょう。 でも、どんな会社にも良いところと、あわないところがあり、100%完璧な会社はありません。 大事なのはその条件でひとまず頑張ってみること、自分を変えること、そして、頑張っても合わないと感じたときには、きちんと「自分の価値観」を見つめた上で転職も選択肢に入れること。 この柔軟性が大事なのではないかと思います。   私はソリマチでもう10年近く働いています。 そういう意味では、私にとても合っている職場であり、それと出会えた私は幸運だったのだと言えると思います。     現在、弊社では新卒・中途採用ページを開設し、募集しております。 ソリマチ株式会社 新卒・中途採用ページ ソリマチ株式会社 コーポレートサイト
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 どうもしんざきです。好きなギャラリーフェイクの単行本は23巻です。   最近、「理不尽なクレーム」と「それを受け入れてしまう組織」についての議論を観測する機会が何回かありました。 直近記憶に新しいのは、消防車でうどん店に寄って昼食をとった消防団員が注意を受けていた件で、「別にいいんじゃね?」という声も結構上がっていたと記憶しています。  
 消防車でうどん店寄る 一宮市消防団員7人 愛知県一宮市消防団の50代の分団長を含む男性団員7人が、制服姿のまま消防ポンプ車で市内のうどん店に行き、昼食を取っていたことが分かった。市消防本部(同市緑1)は25日、全25分団長に口頭で注意を促した。近く文書で全団員にも呼び掛ける。 同本部は、消防車は消防活動以外に使わないと市内の消防団と申し合わせている。同本部によると、16日午前9時半から同本部で消防操法大会の説明会があり、出場予定の団員ら50人が大会で使うポンプ車に乗り合わせるなどして参加。このうち、一分団の7人が終了後、うどん店に立ち寄った。 市民が同日夜にメールで「消防車がうどん店にあった。おかしくないか」と写真付きで同本部に指摘。このため19日に「消防車で飲食店に乗り付けるのは非常識」として分団長に口頭注意した。
  ちょっと前は、電車の車掌室で水を飲んでいた車掌さんや運転手さんに文句つける乗客がいて、一時期水を飲むたびに報告が必要だった、みたいな話もありましたよね。
運転士、水飲んでも報告不要! JR東海が規定見直し 電車の運転士らに熱中症とみられる症状が相次いだため、JR東海は乗務中に水分を補給した際に義務づけていた報告を不要にした。今月から在来線で始めている。 JR東海の乗務員は停車中に水分補給が認められているが、飲んだ場合、乗務中の無線報告と業務終了後の報告書の提出が義務づけられていた。飲んだ時間や場所、理由や乗客の苦情の有無も記していた
  まあこれに限らず以前から、「理不尽なクレーム」問題は、不寛容問題と絡めてしばしばみられるお話だったと思います。   先に前提なのですが、あるクレームが理不尽かどうか、というのは単にファールラインの問題であって、明確に定義することは多分難しいです。 ガイドラインでこと細かに「これはOK」「これはNG」と決めていけばいいんでしょうけど、まあそんな手間かけるのもアホらしい話ですよね。  その上で、個人的な感覚としては、業務中に遊んでたということならまだしも、水分の摂取や食事など、生きていくのに必須な行為に文句をつけるのは、それがどんな状況であれ文句をつける方がおかしい場合が極めて多い、とは思います。 それだって極端なケースというのはあるのかも知れませんが。    ただ、一般的に言えることとして、 ・クレームをつける側の極端な不寛容 ・それを受け入れて何らかの措置を行ってしまう組織    上記二点がそろった時初めて、「理不尽なクレーム問題」は可視化される、というところまでは間違いないと思います。クレームつける方もおかしいけどそれを受け入れる組織もおかしい、という話です。  私自身は、クレームをつける側は個人であって、個人の不寛容を完全に緩和することが不可能である以上、クレーム対処は組織の側にガイドラインを設ける問題であると考えています。     ところで、私は昔、「理不尽なクレームを簡単に受け入れてしまう」組織に所属していたことがあります。 といってもシステム業だったので、例えば勤務中に水飲むなとかそういう話があったわけではないんですが、BtoCのシステムで、「いやなんでそんなクレームに対応しなきゃいけないんだよ」という機会はしばしばありました。   例えば、どう聞いてもブラウザの不具合の問題であって、1,2週間パッチを待てば解決する話なのに、何故か3週間以上の工数をかけてフロントエンドの修正をしなくてはいけなくなったり、であるとか。   一般的に考えてとても見えにくいとは思えないボタンを、顧客のクレームを受けて3倍くらいの大きさに変えなければならなくなって、全体のバランスがガタガタになったりとか。    これらはほんの一例なんですが。基本的には、「顧客のクレームにそのまんま従うチケットが上がってきて、現場は疑問を思いつつもチケットを却下する権限がなく、そのまま実装せざるを得ない」というケースがちょくちょくあったのです。   当時私は末端チームのサブリーダーに過ぎなかったんですが、「なんでやねん」と思うことが余りに多かったので、リーダー了解のもとクレームの受け入れ態勢について色々調べてみました。 その結果、その時のその組織では、クレームの受け入れをこんな感じで行っていたことがわかりました。     ・顧客からの架電、クレームを受けたコールセンターは、そのままCRMにその内容を登録する ・内容を確認したサポート部門は、その中からシステム的に対応可能な部分を抽出して、そのままインシデント(事故などの危難が発生するおそれのある事態)としてチケットを登録する ・インシデントチケットは、工数管理担当にスケジューリングされ、システムのチケットとして案件化される ・システムのチケットは全て要対応チケットとして扱われる   何でこうなるかお分かりですよね。早い話、「受け入れたクレームの評価を誰も行っていない」のが唯一最大の問題だったんです。    ・クレームを無条件でインシデントとして扱ってしまっていた(評価する機関、ないし担当がいなかった) ・インシデントには必ず対応策を書かなくては登録出来ない仕組みになっていた ・チケットを登録する側にはシステム的な知識がなかった ・システム部門に、インシデントチケットを受け入れるかどうか判断する、ないし拒否する権限がなかった   「そりゃそうなるわ」って感じですよね。私も当時はそう思いました。  つまり、この組織が「むやみにクレームに対応してしまう組織」になっていた原因は、仕組みの方にこそありました。     アホだと思いますか?私も当時、この辺のフローを確認したときには「いやこれアホ以外のなにものでもないやろ」と思いました。 ただ、このフローが出来上がったその背景には、「顧客のクレームを過大評価する」空気というものがあったように思います。   2ちゃんねるやwebにおける、いわゆる「晒し」と「炎上」というものが一般的になって、「クレームにはちゃんと対処しないとヤバい」という恐怖感だけが上層部に広がってしまった。 また、中には「クレームの中にこそ貴重な顧客の声が含まれている」などという観念論がまかり通ってしまい、クレームは無条件にインシデントになってしまっていた。   クレームの中には、「取り上げるべき貴重な意見」が含まれていることがある。それは確かです。 しかし、これは一般論として言ってしまっていと思うんですが、貴重な意見以上に「取り上げれば取り上げただけリソースの浪費、ないし逆効果にしかならないどうしようもない意見」が含まれていることも確かなのです。 例えば、漫画雑誌のアンケートなんかで、アンケートの声に従っていたら従った分だけどんどん人気が落ちてしまった、とかそんな話もありますよね。   クレームを挙げるのは飽くまで「クレームを挙げる層」に過ぎないのであって、それが顧客全体を代表しているわけではない。 となれば、クレームはまず「受け入れて益がある意見かどうか」「受け入れるべき意見かどうか」を評価しなくてはいけないし、その評価の結果受け入れるべきではないとなったら、それはきちんと拒絶しなくてはいけない。 これは多分、BtoC(企業対顧客)で活動しているあらゆる組織に共通のことなんじゃないかなあ、と私は思うのです。場合によっては、BtoBでも同じようなことが言えるかも知れません。     「クレームの評価」はきちんと行いましょうね、という、言ってしまえばそれだけの、当たり前の話でした。 ちなみに私が所属していたその組織ですが、上席をたきつけて色々フローを変更させて、さあこれからはアホらしいチケットに対応することが減るぞ、となったほぼその瞬間、不同意の敵対的TOBの結果、組織が早晩消滅することが判明しました。よくある話ですね。   今日書きたいことはそれくらいです。       【プロフィール】 著者名:しんざき SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。 レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。 ブログ:不倒城     (Photo:Toshiyuki IMAI)
こんにちは、株式会社ネットプロテクションズ、代表の柴田紳です。 弊社は、コンビニ後払い決済サービスの「NP後払い」を運営する会社です。 「コンビニ後払い決済」はあまり日常的に使われる言葉ではありませんが、ECサイトを日常的にご利用であれば、コンビニで代金を支払ったことがある方も多いのではないでしょうか。(参考:導入事例) 表に出ることはあまりありませんが、言うなれば、ECサイトにおける決済の一角を担う、「縁の下の力持ち」的存在であり、現在、弊社が取り扱う流通総額は1400億円を超え、累計で1億人以上の方にご利用を頂いています。   しかし、今でこそ主力事業が利益を十分に生み出せる状況となり、BtoB領域においても順調に事業を成長させることができていますが、ここまでに至る道のりは険しかったというのが正直なところです。 実際、サービスの立ち上げから8年はずっと赤字、黒字化したのは2008年のことでした。   今回は、その弊社の黎明期のことについて、少し書いてみたいと思います。   *******   私は2001年にITXから出向し、弊社の取締役に就任しました。 当時のネットプロテクションズは、「ネットでの後払い決済」の会社と聞いていましたが、本音を言えば私にはまるでピンときませんでした。 なぜなら、当時のネットでの決済と言えば、前払いの銀行振り込みか、もしくはクレジットカードだったからです。   インターネット上の取引において、購入者の与信データもなく、万が一焦げ付いたときにどの程度の回収もできるか全くわからないという「後払い決済」ですから、ある意味では「無謀な取り組み」と言っても良かったと思います。
与信:「商取引において取引相手に信用を供与すること」を指します。 たとえば、商品を販売する場合、商品を先に渡して代金は後で回収することが行われる場合があります。 この取引において、販売先に対して商品の代金を回収するまで「信用を与える」ことを「与信」といいます。 帝国データバンク https://www.tdb.co.jp/knowledge/yoshin/01.html
  さらに、内情は惨憺たる状況でした。なにせ、初年度の決算は1億3000万円の赤字です。 その当時まだ顧客がほとんどいないのに、某大手IT会社のデータセンターに月間800万円、「ブランディング支援」という名目でコンサルティング会社に月間200万円ほどを支払っており、恐るべき額のキャッシュを垂れ流していました。   端的にいうと、ありもしないトラフィックを想定して巨大な設備を囲い、ブランディングばかりしている売上のない会社。 それが当時のネットプロテクションズでした。   このような状況でしたから、逆に完全に開き直ってやるしかありません。 「とにかく、やれることからやろう」と、私たちは決意して仕事に取り掛かりました。   当時、やらなければならないことは3つありました。 1.現金の垂れ流しをとめる。 2.まだ見ぬ顧客を開拓する。 3.後払い決済のオペレーション(与信、請求、回収、およびその付帯システム)をつくり、コストを圧縮する。   しかし、やるべきことがわかっていてもそれを実行できるかどうかは別の問題です。 第一に、人材が慢性的に足りていませんでした。 第二に、スタッフの実力にかなりのばらつきがあり、できる人とそうでない人の差がかなりありました。   これらの条件から、必然的に仕事はできる人に集中します。 ありがたいことにシステムは一人、業務委託で来てくれているメンバーでとても優秀な人物がいたので、その人を口説いて任せることにしました。   とはいえ、当時の私は20代、外から乗り込んできた若造が年上のスタッフたちにガアガア言うのですから、相当嫌がられていたと思います。 ですが、会社の危機には強力なリーダーが必要です。私は甘んじてその役割を引き受けました。   さらに、コストカットにひたすら奔走しました、現金の流出を止めて、時間を稼ぐ必要があったからです。 無駄な取引をやめていくことで出血はひとまず止まり、営業とオペレーションに取り組むことができるようになりました。   ただ、もちろん「後払い」は新しい決済サービスですから、口を開けて待っているだけではお客さんは増えません。 その場合、やるべきことは1つです。 一件ずつ電話をかけ、メールを送り、アポイントを取ってECサイトの出店者の方に「後払い決済を使わないか」と営業をして回るのです。   とにかく小さな成果であっても積み上げなければ明日はないので、数万円の取引を決めるために、2時間かけてお客様のところに訪問したこともあります。   また、決済という業務の性格上、絶対にミスは許されません。そのため、しばしば私は社内に檄を飛ばしました。 時には声を荒らげることもありました。恥ずかしながらときに相手のプライドを傷つけるような言い方をしてしまったこともあります。 しかし、もちろん社員の献身と協力無くして、オペレーションはありえません。そんなときには私は全社に謝罪をし、協力をお願いしたこともありました。   当然、拡大に伴う「お金」の問題もありました。手元のキャッシュが尽きかけて、投資家に増資のお願いをして回ったこともあります。     ただ、粘り強くやることで報われることも数多くあります。 明らかに風向きが変わったのが2008年、黒字化を成し遂げた年です。   企業が黒字になるということは「社会的に意義がある」と認められたということです。そして、得られた収益を再投資できる「継続可能なビジネスである」ことが証明されたことでもあります。 実際、2008年に200億円程度だった利用金額は、以降、指数関数的に伸び、2012年には2.5倍の500億円、さらに2016年には1400億円を突破と、急増しました。   そして、経営が安定すると、更に「後払い」の向こうにある、次の世界を見ることができるようになります。 それは「企業間取引」の世界です。 よく知られているとおり「後払い」は、一般消費者よりもむしろ企業間で一般的です。 掛売りという後払いの商習慣は至って普通であり、かつ一般消費者向けよりも遥かに大きな金額が流通しているのです。   しかし、多くの企業にとって掛売りに伴う「請求」「回収」業務は純粋な負担です。 例えば、大手企業が飲食店、美容室、工務店などの小規模企業と取引をする際、請求が小口である上、回収に非常に手間もかかります。また、時には支払いが滞る時もあり、「現金取引のみ」という制限をつけざるをえない場合もあります。 ただ、これでは小規模企業との取引を拡大をするにあたり、足かせがある、と言わざるを得ません。   そこに我々が間に入って決済を引き受けることで、お互いの利便性が高まり、より取引が活性化するのならば、誰にとってもメリットがあるのではないかと思います。 そこで我々は2年半ほど前から、一般消費者向けではなく、法人向けのサービスを開始しています。   思うのですが、結局のところ、システムや仕組みを作ることができても、それを使ってもらうためには膨大な手間が必要です。 「ネットの商売は手間がかからないので儲かる」なんて、多分嘘です。(笑) 事業拡大に魔法はなく、地道な努力の積み上げが、成果を生むのだと思います。     ◯コーポレートサイト:https://corp.netprotections.com/ ◯BtoC取引向け後払い決済「NP後払い」サイト  :https://www.netprotections.com/ ◯BtoB取引向け掛け払い決済「NP掛け払い」サイト :https://frexb2b.jp/
 
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社会人になりたての頃、 「こんなこと当たり前だ。いわなくてもわかるだろ?」 と、先輩によく言われたものである。   しかし、その「当たり前」が意外と当たり前ではなかったりするから会社は怖い。 「そんなにあたりまえかなぁ?」と思うものもかなりあった。 だが、大事なことに限って、はっきり言う人はいないし、明示されることもあまりないので、「知らない人」は不利益を被る。   今回は、会社で聞かされた、そんな話を集めてみた。    

1.他者の評価は、自己評価より遥かに重要

「他人がどう思うかなんて、関係ないんだよ!」 とマンガの主人公はカッコよく言うが、組織の中では現実はそれとは正反対である。 むしろ正反対だからこそ、主人公はそう叫ぶのだろう。   先輩は逆に、こう言った。 「お前がどう思うなんて、これっぽっちも意味が無いんだよ。」   組織で仕事をするにあたって最も重要な価値観は、「上司」と「客」がなんと思うかである。 したがって、他者の評価は、自己評価より圧倒的に重要だ。 結局、その人の有能さは、その人自身では正確に把握できないし、その人の「優秀ですアピール」は大抵の場合バイアスがかかっているので、アテにはできない。   逆に、周りの人の評価はだいたい正確だ。 その人の能力に関する正確な評価は、取引先や上司の評価がほぼ当たっていると考えて良い(というより、それが正とされる)。   つまり、未熟なときはどうしても、自分の正確な力量がわからず「自己評価>>>他者評価」となり、仕事を一人前にこなせるようになってようやく「自己評価=他者評価」となる。 そして最後には、「自己評価<<<他者評価」として、「評価は他者がするもの。自分の評価は関係がない」と、妥協ない仕事を目指すようになる。 それが「一流」だ。    

2.言い方が大事

私は学生の時「大人は皆、学生よりも遥かに成熟している」と思っていた。 批判にも耐えうる、立派なオトナが多いのだと思っていた。 だが、勘違いだった。   殆どの人は自らのことを「優秀である」と考えている。少なくとも「オレはバカだ」とは思っていない。 したがって、仕事をする上での最大のタブーは、ただ人のプライドを傷つける行為である。   公然と批判する、間違いを皆の前で指摘する、能力を嘲笑する、無能を公言するなどの行為は、後々まで禍根を残すことににつながる。   そして、ほとんどの場合これには例外がない。 「それが本当のこと」であったとしても、それを面と向かって言われることは、だれも望んでいない。 「なんでも言ってくれていいよ」は、リップサービスにすぎない。   したがって、人に何かを言う時にもっとも重要なのは「言い方」である。 「話をするタイミング」も大事だ。 だから、重要度として 言い方>>>>>タイミング>>>>>>>話の中身 と位に思っておけば、まず間違いはない。    

3.勝ち組に、もっと勝たせるのが企業

学校は良くも悪しくも、「できない人」に合わせて制度設計がなされている。 だが、最も「平等」や「民主的」と程遠い世界、それが企業である。 組織において重要なのは「成果」であって、それ以外は全て2次的な存在だ。   したがって、会社の中では、面白い仕事、おいしい仕事は、常に成果を出した人物に与えられる。 「勝ち組に、もっと勝たせる」 のが会社であるから、当たり前といえば当たり前だが。   したがって、仕事を楽しくしたいなら、まずは成果を出すこと。 「仕事楽しいです」なんて言っている人は、皆勝ち組だ。どこかの組織や競争で勝てるからこそ 「楽しい」し、「見栄えも良い」し、「金もたくさんもらえる」仕事に就いている。   逆に言えば、最初から「楽しい仕事」に就ける可能性は恐ろしく低い。 実績がないからだ。 だから、殆どの人は、最初楽しくなくても、徐々に楽しみを見つけながら成果を出し、 本当の楽しい仕事を自分から獲得していくのである。 その努力を怠って、「楽しい仕事」なんて、寝言である。    

4.成功に法則などなく、単なる確率の問題である

働く前は「成功の法則」を「勉強法」と同じように考えていた。 一定の方法に従って、淡々と仕事をこなすと、良い結果が手に入ると思っていた。   だが現実として、仕事においてはノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンが指摘するように、成功と失敗は、実力の有無よりも運で決まることが多い*1。 [amazonjs asin="4150504105" locale="JP" tmpl="Small" title="ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)"]   同じことをやっても、ほんの少し初期条件が違えば、アウトプットが大きく変わるからだ。 したがって巷にあふれる「こうすれば成功する」は、大抵の場合役に立たない。本当に成功したくば、試行錯誤を繰り返すしかない。   賢い人は皆思っている。 「「成功したいのですが、どうすればいいでしょうか?」と聞いてくる時点で、既に見込みが無いよね」 逆に、彼らはこう言う。 「成功したいなら努力せよ。なぜなら、成功は確率の問題であるからだ」   だから、彼らは失敗を恐れない。   逆に怖いのは「再起不能」である。失敗ではない。 そして彼らの言う「再起不能」とは、お金がなくなったり、職を失ったりすることではない。 「あの人は努力しないし、誠実ではない」 との評判が立ってしまうことである。   「できる人たち」の中では、努力というのは単なる「必要条件」である。 必要条件すら満たせない人とは働けない、と彼らは思っている。だから、努力は大事なのだ。    

5.「能力」より「丁寧さ」のほうが遥かに重要

働き出す前は、なぜ「精神論」が仕事において幅を利かせているのかわからなかった。 仕事は純粋な能力で成果が決まるのだと思っていたからだ。   だが、実際は逆だった。 実際に大事なのは「能力」ではなかった。むしろ「姿勢」というか「意気込み」というか、 端的に言ってしまえば「丁寧さ」のほうが遥かに重要だ。     なぜならば、多くの仕事は 「その人で無ければできない、高い能力を要求されるものは非常に少ない」からだ。   その人が抜けても、会社は問題ないように作られているし、仕事では「かけがえのない人」はむしろ邪魔である。 そう考えていけば、言ってしまえば要するに、組織や企業における仕事というのは「簡単」なのである。   偉大な科学的発見をしなくても良い。 1000年語り継がれる著作を残す必要もない。 数学の未踏の分野を切り開くこともない。   逆に、 1日に20件のテレアポをすれば良い。 丁寧にお礼の手紙を書いて、お客さんを喜ばせれば良い。 ミスのないように、出荷検査をすれば良い。 会議で良い発言をすれば良い。 相手のことをきちんと調べてプレゼンテーションすれば良い。 契約書を隅々までチェックすれば良い。 ちゃんと約束を忘れずに守ればいい。   と、丁寧に仕事をすれば良いことばかりである。 仕事の価値を決めるのは、多くの場合能力ではなく、丁寧さなのである。     【お知らせ】 ・安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます) ・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント ・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ ・ブログが本になりました。 [amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"] ・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました!   (Photo:Denis Mihailov
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社長 「最後です、「人生を変えようと思った時点で、既に人生は変わり始めている」と思ってください。」 私 「…どういうことでしょう?」 社長 「50歳で人生を変えたい、という決意がどれほどのものか、安達さんに分かりますか?」 私 「相当の決意、ということでしょうか。」 社長 「そうです。だからこそ、私は50歳以上を面接する、そして、今の話に賛同していただいた方々だけを、採用するのです。私は、そういう方々をリスペクトしているのですよ。」     漫画:眞蔵修平 website:http://www.matthewroom.com/ Twitter:https://twitter.com/makurashuhei Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei 出典:50歳以上しか採用しない会社の社長が言った、「人生の変え方」  
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仕事で知らない言葉に直面したとき、あなたならどうするだろうか。    例えば会話の中に出てきた場合、 ・聞き返せる相手だったら聞き返す。 ・聞き流してあとで調べる のどちらかだろう。   また、会話以外で出てきた場合は、 ・先輩や周囲の知っていそうな人に聞く ・インターネットや書籍等で調べる のどちらかだろう。   いずれの場合も他人に聞くか自分で調べるかのどちらかである。 聞き返したり質問したりすれば、相手に少なからず迷惑がかかる。 しかし、自分で調べるとしても多少時間がかかってしまうため、タイムラグが発生し、その分仕事が滞る。   というわけで、「知らない言葉」に直面した時点でどちらを選択しても多少の迷惑はかかると言える。   でも、仕事では、それだけで関係が切れることはない。 なぜなら目的はコミュニケーションを楽しむことではなく成果にあるからだ。そのためにあなたには働いてもらう必要がある。 また、仕事をするためにあなたに知識を身につけてもらう必要があるので、むしろ知ろうとする姿勢は素晴らしいと評価されるかもしれない。   つまり、仕事において「知らないことを知ろうとする行為」は、マイナスだったとしても致命的にはならず、プラスになる可能性すらあるということだ。   ☆★☆★☆   では、日常会話においてはどうだろうか。   先日、飲み会で誰かがこう言っていた。 「頭悪い人と話すと疲れる」 別の人が「わかる」と同意した。    どういうことか詳しく聞いてみると、  2割引と3割引の違いをわかってくれない。割引だから安くなっているということはわかっているが、2割引と3割引はどちらが安くなるのか、いくら割引になるのかはわかっていない。 ・たとえ話で歴史人物を出しても伝わらない。 ・光合成を知らない。「植物を太陽の当たるところに置いて光合成させよう」と言っても伝わらない。   といった具体的な話が出てきた。  つまり、当然知っているだろうと思って使った言葉が伝わらなくて会話がスムーズに進まなかった、ということだ。   自分が知っている言葉は相手も当然知っているだろう、という態度は傲慢だと思うけれど、ある程度共通の言語があると想定して話さないとそもそも会話を成立させることは難しい。 「義務教育レベルのことを知らないとさすがに疲れる」と言われ、納得してしまった。 相手の「わからない」回数が多くて、その度に説明するのは確かにストレスに感じるだろう。   ☆★☆★☆   我が身を振り返ってみた。   よく一緒にご飯を食べる先輩で、日本語に精通している人がいる。 会話に知らない四字熟語や諺がたくさん出てくる。その度に私は「えっ?」と聞き返し、「すみません、調べさせてください!」と言って検索する。 はっきり言って、先輩にとっては迷惑である。でも、先輩はいつも笑顔で待ってくれ、解説もしてくれる。ありがたいことだと思う。   同様のことが別の人との間で起こったら、相手はストレスを感じ、だんだん関係が遠のいてしまうかもしれない。 仕事以外の人間関係では、「これを絶対に伝えなければならない」という目的があるわけではなく、コミュニケーションそのものを楽しむことが多いので、そのコミュニケーションが滞ってしまうと、関係性に良くない影響があってもおかしくない。 特に恋人同士のような親密な関係であればあるほどコミュニケーションのストレスは大きくなり、最悪の場合別れることになってしまう。   ☆★☆★☆   知ろうとする努力は、仕事においては認められる。『聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥』という諺もある。でも、聞かれる側はストレスを感じるのだ。   「感情を持つ人間だもの、イラっとするのも仕方ないよね」と思う一方、自分自身が知らないことだらけで質問することの多い人間なので、都合良く「大目に見てくださいよ~」なんて気持ちになったりもする。   相手にストレスを与えておきながら「大目に見てください」というのもおこがましいので、そこは相手との関係性次第ということになってしまうが、せめて自分自身の心がけとして、今後誰かの「わからない」に直面にしたときは、先輩が私の「わからない」も含めて楽しいコミュニケーションにしてくれたことを思い出しながら会話をしたい。   ではまた! 次も読んでね!       [著者プロフィール] 名前: きゅうり(矢野 友理) 2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。 著書「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015) Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女」 (Photo:Mario Piperni
”物乞う仏陀”という本がある。ルポライターの石井光太さんが実際にアジア各国を自分の脚で周り、各国の路上生活者や障害者についての実像をまとめた名著だ。 [amazonjs asin="4167717913" locale="JP" tmpl="Small" title="物乞う仏陀 (文春文庫)"] この本を読み解くと今の日本で感じる生きにくさについての正体が非常によくわかる。   今回は何が人から希望を奪い去るかについてを発展途上国と日本の現状と対比させながら明瞭に描いていこう。  

国が発達すると人の幸福にグラデーションがかかる

”物乞う仏陀”では基本的に最底辺からスタートして、徐々に徐々に経済レベルの発達順に発展途上国の路上生活者ならびに障害者の実像が描かれている。   この本を読んで初めに面を食らうのは、一番初めにでてくる経済発達レベルでは最底辺にあるカンボジアの路上生活者が、思いの外明るく幸せそうであるという事だ この当時のカンボジアは、ポル・ポト政権による大虐殺により国内が荒廃しており、文明レベルが極めて低下していた。文字通り最貧国のうちの1つだったのである。   一般的な印象だと、最貧国の路上生活者なんてそれこそ想像を絶するレベルで不幸そうだと感じるかもしれないが、実際は意外とそうでもなく、そこに生きる人達は意外と明るい。何故か?それは生活の中に希望があるからだ。   皆が同じく貧しい社会では、人の序列もほとんど横並びだ。この状態では、少しの頑張りが、そのまま努力の形として評価されやすい。 社会が発達していないという事は、すなわち頑張りさえすれば、すぐにそれが結果として実現しやすいという事なのだ。 この本に出てくる路上生活者の一人であるリンさんは、はたから見ればただの物乞いである。日本の物乞いを想像すると、そこに夢も希望もあったもんじゃないけども、この本で書かれているリンさんの目はキラキラ輝いてみえる。   リンさんは、いつか仲間と一緒に自動車修理工場を開くことを生きがいに物乞いをやっているようだけど、実際のところ、この当時のカンボジアでは物乞い→事業主へのルートは比較的容易に移行できたという。 国内があまりに荒廃しすぎていたので、競合者があまりにも少なく、また事業を始める敷居も低くかった。こんな状況だと、いったん事業をスタートさえできれば、ほとんど成功に等しかったのだ。   皆が一律に貧しいという環境は、ある意味で非常に平等だ。 もちろん内情は悲惨なのだけど、そこには希望がある。故に、物乞いの目にも光がある。 こうして最貧国であるカンボジアで、平等と希望という人が心穏やかに生きれる素晴らし条件が偶然にも出来上がってしまっているのである。   繰り返すが、これはかなり驚くべきことだ。 このようにして明るいスタートを切った本書だが、続くカンボジアよりも発達した他国の路上生活者の生活は、一転して厳しくなる。 国が豊かになり、経済が発展していけばしていくほど路上生活者から平等も希望も消え失せていく。   何故だろうか?それは人々の間に格差が一旦生まれると、平等が否定され、地位が固定されてしまうからだ。   具体的に説明しよう。 さきほどカンボジアでは自動車修理工場を仲間と起こすのはそう難しくないと書いた。 では逆に日本で路上生活者がそれと同等の事ができるかどうかを考えてみて欲しい。たぶん、まず不可能である。例えできたとしても、競争に勝ち残れる人はほとんどいないだろう。   社会の発達とは、ある種の毒なのだ。 私達がエデンの園から一歩踏み出し、科学技術を用いて発達する事を選んだその日から、私達の中で格差が必然的に生まれる事になる。そしてその格差は強固に人々の間に身分差を作り出し、結果下層の民から希望の芽が摘まれていく。   そうしてそこには、光と闇の濃淡がより強固になった社会が生み出される。社会が発達という毒を内包する事を選択したその時から、人々の間に格差が生じる事を許容せざるをえず、そして人の幸福にグラデーションがかかるようになるのである。   ちなみにこの世でもっとも不幸な存在はニューヨークに生きる路上生活者だという。 この世で最も発達した豊かな国・アメリカに、この世で最も不幸な存在がいるというのは、実に皮肉な話である。    

日本の幸福格差はいかにして生じているか?

さて。では私達の住む日本ではどうなっているかをみていく事にしよう。 この国で豊かな資源を手にするには、良い職業に就く必要がある。 そのどれもが社会的ポストに限りがあり、日本で生まれた子供はそれを熾烈な受験戦争ならびに就活という試練を乗り越えなくてはいけない。   これらの試練を乗り越えて、偶然お金の稼ぎやすい職につくことが出来た人は、その後幸福のグラデーションを濃い部分に身を置くことができ、発達した社会の恩恵をうける事ができる。 その側に立てた人は、基本的には幸せになれる下地が整ったといえるだろう。 まあ幸せになるためには他にもいろいろやらなくちゃいけない事はあるのだが。   こう書くと「年収があるから幸せだなんて短絡的だ」と思う人もいるかもしれないけど、年収はあるならそこそこあった方がいいに決まってるし、これはデータ的にもある程度立証されている。   なぜなら、およそ700万程度で頭打ちになるとはいわれているが、基本的には年収が上がれば上がるほど人の幸福度は向上するからだ。 ちなみに日本における年収700万以上の人の割合は10%程度でしかない。つまり日本の社会で存分に幸福を味わうためには、幸運に恵まれ続けて上位10%に入らないといけない。   なんて厳しい世の中だろう。   こうして、この10%の席を争って毎年若者が骨肉の争いを繰り広げている。おまけに、日本は新卒一括採用制度を採用しているので、どこかで道を一回踏み外してしまうと、まずこの10%の中には入ることができない。 これがこの国に漂う絶望の正体だ。 薄氷の上を、薄氷を踏みぬかずに22年間歩き続けて、よいキャリアをスタートさせる事ができた人のみが、発達した日本という国の一番美味しい部分を食べることができる真の意味での特権階級になれるのである。   こんなグロテスクな事は当然誰も教えてくれない。けどこれと似たような事はみんななんとなくは理解している。 だから教育ママはお受験に狂い、我が子を「あんたの為」といいながら鞭打って勉強させるのである。 我が子の幸せを願い、幸福の10%の中に何としてでも入れようとするその行為を誰が馬鹿にする事ができるだろうか?    

希望は戦争

かつて、フリーライターの赤木智弘氏が”「・・・31歳フリーター。希望は、戦争。」”という文章を書いた。そこには中年フリーターの苦しさが実直に書かれていた。
戦争は悲惨だ。 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
日本には年収300万以下の人が、およそ40%程度いるといわれている。 この40%人達の中にも当然幸福な人も沢山いるとは思うのだけど、社会の暗黒サイドにいる人も少なくないだろう。   受験戦争だとか、就活だとか、なんだかよくわからないゲームがいつの間にか始まっいて、気がついたら社会の幸福なサイドに入るキッカケを逃していた人からすれば、このまま座して死を待つよりかはゲームが戦争のような強力な外部要因によりリセットされる事を望む気持ちを持つのは極めて普通の考えだろう。 私たちは発達の味を知ってしまった。それ故に、カンボジアのような平等で希望のある生活にはもう戻れない。   だからこそ、この発達してしまった社会の、光と闇のあたる部分についての認識をしっかりと持ち、強きものが弱きものを虐げるような社会の存在を許してはならない。   頑張ったのだから報われて当然だ、という価値観は否定しない。けどその逆の、頑張らなかったのだから、虐げられるのは自己責任だという認識は、あまりにもエグくはないだろうか?     かつてレイモンド・チャンドラーは「 強くなくては生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」という言葉を書き残した。実に含蓄深い言葉である。   強くあり、優しくもある立派な大人を目指していこうではありませんか。       【プロフィール】 名称未設定1 高須賀 都内で勤務医としてまったり生活中。 趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。 twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki
SFというジャンルの一つのキモは、「いかにスケールのでかい嘘を作るか」ということだと思うんです。 ちょっと、しんざきの趣味に走ったお話をさせていただければと思います。   皆さん、SF小説って読みますか?「月は無慈悲な夜の女王」とか「幼年期の終わり」とか「太陽の簒奪者」とか「敵は海賊」とか「エンダーのゲーム」とか「火星の人」とか「何かが道をやってくる」とか、読んだことありますか? [amazonjs asin="B00DM4ZH3Q" locale="JP" tmpl="Small" title="月は無慈悲な夜の女王"] [amazonjs asin="4150103410" locale="JP" tmpl="Small" title="幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))"] [amazonjs asin="B00CIMDKDC" locale="JP" tmpl="Small" title="太陽の簒奪者"] [amazonjs asin="B00GJMULPC" locale="JP" tmpl="Small" title="敵は海賊・海賊版 DEHUMANIZE"] [amazonjs asin="4150107467" locale="JP" tmpl="Small" title="エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))"] [amazonjs asin="B00O1VJZLO" locale="JP" tmpl="Small" title="火星の人"] [amazonjs asin="4488612016" locale="JP" tmpl="Small" title="何かが道をやってくる (創元SF文庫)"]   世の中には「SF小説」というちょっと偏ったジャンルがありまして、およそ一般的な読書傾向の方々は、あまりこのジャンルに触れない傾向があるような気がしています。 「そのジャンルを別段偏愛していない人でも手にとる本」 と 「そのジャンルを偏愛している人でないと手にとらない本」 というのがありまして、SFというジャンルには後者の割合が著しく多いような肌感があります。 面白いんですけどね、SF小説。   しんざきは昔からのSF小説好きでして、国内SFも読めば海外SFも読みます。 どちらかというと海外の、ちょっと古めのタイトルが好きな傾向があるかも知れません。ブラッドベリとか、カードとか、ティプトリーとかが特に好きです。国内だと神林長平先生を偏愛しています。   が。これは恐らく、SF好きの人なら結構多くの方が同意してくださると思うんですが。どれか一作、ありとあらゆるSF小説の中での最高傑作を選べと言われれば、私はあんまり迷わずにこう答えます。 それは「星を継ぐもの」だ、と。  [amazonjs asin="448866301X" locale="JP" tmpl="Small" title="星を継ぐもの (創元SF文庫)"]   「星を継ぐもの」。1977年、ジェイムズ・P・ホーガン著。 その恐るべき完成度、細部まで手の込んだディテールがありながら、この一作が彼のデビュー作だった、というのが本当に信じられない事実です。   以下、作品についてのお話。一応大きめなネタバレは避けるようにします。まだ読んでない方は読んでみてください。超面白いので。   -----------------------   「星を継ぐもの」は、「月で見つかった、赤い宇宙服の遺体。それは5万年前のものだった」という豪快な導入から始まります。    「チャーリー」と名付けられた遺体は、どう調べても人類そのままとしか思えません。が、当たり前のことですが、人類が月にいけるようになったのはほんのここ数十年程の話です。 それ以前に月に行ける程の高度な文明があったとしたら、何故、その痕跡が地球上に全く残っていないのでしょう?全く別の星からやってきたいわゆる宇宙人だとしたら、何故チャーリーの姿は人類そのままなんでしょう?    お話の展開は、物理学者であるヴィクター・ハントと彼の相棒のロブ・グレイ、そして生物学者のダンチェッカーといった、様々な魅力的な人物たちが、「チャーリーは一体何者なのか?」というたったひとつの疑問に挑む、ということを中核として進みます。 このテーマは、最初から最後までお話の中心に居座り続けます。つまり、この作品は基本的に「謎解き」の物語です。ミステリーや推理小説に近いといってもいいでしょう。     この「星を継ぐもの」の何より物凄いところは、「嘘の作り方」です。 SFは、人によっては「スペースファンタジー」だったり「すこしふしぎ」だったりしますが、一般的には「サイエンス・フィクション」と読みます。科学的な空想に基づいた、フィクション。フィクションということはつまり、どう取り繕ったところで、どこかに必ず「嘘」は混じってしまうんですね。   タイムマシンは、今実際には存在しない。けれど、存在するとしたら、それはどんな科学にもとづいて作られたんだろう?  超光速宇宙船は、今実際には存在しない。けれど、存在するとしたら、それはどんな設計思想にもとづいて作られたんだろう?    一つの大きな嘘を、色々なディテールで細かくコーティングして、まるで本当にそこにあるかのように演出する。そして、その舞台装置の上で、様々なドラマを組み上げる。それがSF小説の面白さであり、SF作家の腕の見せどころです。   そして、この「星を継ぐもの」の「嘘」は、本当に卓絶しているんです。まさかそこに「嘘」を持ってくるのか、と。そして、その「嘘」にそんなディテールを被せるのか、と。  細部が固まっていれば、嘘は大きい程ばれにくい、という言葉があります。ホーガンのディテール描写の巧みさは、読者に「嘘」を感じさせません。   この作品は、勿論中核にはフィクションがあるんですが、その中に「実際に存在する(あるいはその当時存在していた)謎」を本当に巧みに混ぜてくるんですよね。 一つの大きな謎があって、その周辺に大小様々な謎が新たに発生して、しかもその謎の幾つかは実際にある謎だったりして。読者は本当に、ハントやダンチェッカーと一緒に、そこに存在する謎を解いているような気分にさせられます。   そして、それらの謎が組み合わさって段々と描かれていく「作品上の真実」は、謎解きを経てきた読者たちにとっては、「もしかすると本当にこういうことが起きていたのかも知れない」という、圧倒的なリアリティをもって振りかかってくるのです。    嘘を、嘘でなくしてしまう。これがSFの味であって、「星を継ぐもの」が最高傑作である、数ある理由の内大きな一つです。      それはそうと、その「謎解き」の周辺で、「星を継ぐもの」は色々な人間模様、キャラクター同士のドラマも展開してくれます。 ときには衝突し、時には協力し、所によっては組織論にまで踏み込みかねないその人間模様は、それだけでも一級のドラマといって差し支えないものです。   例えば、生物学者であるクリス・ダンチェッカー。 当初は「チャーリーは地球人である」という結論ありきの議論にこだわり、頑迷な学者のように描写されていた彼ですが、あるきっかけを境にハントの良き友人となり、物語をリードする人物の一人になります。彼の終盤の演説は圧巻という他ありません。   例えば、国連宇宙軍の本部長であり、ハントやグレイを呼び寄せた張本人であるグレッグ・コールドウェル。 彼が「全く外部の人間」を組織に呼び寄せて、だれにも文句を言わさずにだんだんと中核に据えていく方法は、実際の組織にも応用できそうなくらい微に入り細に入っています。 彼、グループLという組織を作って、その責任者をハントとして情報共有と情報展開の仕組みを作り上げるんですが 「ただ情報を共有するだけでなく、ちゃんとそこから情報を得ることもできる」 という双方向の組織になっていることが様々に描写されるんですね。これ、現在でいうところのグループwikiみたいなものの走りの描写でもあると思います。   その他、言語学者のドン・マドソンやら月理学の権威スタインフィールドやら、様々なキャラクターたちが様々な立ち位置で「チャーリーの秘密」を解き明かそうとするその展開は、筋としては「謎解き物」でありながら、冒険小説であるかのように起伏に富んでいます。 もしお読みになっていない方がいらっしゃったら、ぜひ一度、月の遺体の謎を解き明かす旅に出られてみてはいかがでしょうか。旅のたどり着く場所、最後の一文で、あなたはきっと雷に打たれたような感動を感じる筈です。   今日書きたいことはそれくらいです。     【プロフィール】 著者名:しんざき SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。 レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。 ブログ:不倒城   (Photo:Ray Ordinario)
糸井重里氏の「上場」に関するインタビューを見た。   その中で一点、気になるフレーズがあった。以下の部分である。
糸井重里が語り尽くす、ほぼ日の「誤解」 上場前は「要するに手帳の会社ですね」ってよく聞かれました。キングジムや良品計画をイメージさせる、文房具にも強い手帳の会社。 最初は抵抗があったんですが、今では割り切っています。農業に例えれば僕らの事業は苗木だらけ。(手帳以外は)数字に表れていないヒヨコばかりですからね。
これを見て、「あー」と思った。 同じような物言いを、他でも頻繁に見かけたからだ。   知人の一人は、この物言いに対して、露骨に不快感を表す。 「「要するに◯◯でしょ」と、すぐにまとめたがる人って何なの、あれ言う人って、自分で理解した気になって、人を見下したいだけだよね。」   少し前、彼は起業して「企業内教育に用いるアプリ」を作った。 だが、もちろんアプリをただ作るだけで事業になるわけがない。そこで彼は法人営業をし「社員教育研修」を受注する。そして、研修を提供するお客さんにアプリを使ってもらうことで少しずつ利用者を拡大している。 彼は「いつかは法人の教育プログラムのスタンダードを担いたい」と言っている。   だが、この話を他の人に話すと、時にこう言われるそうだ。 「要するに、研修会社でしょ。」   彼はいう。 「説明するのも面倒なんで、何も言わないけど「要するに◯◯でしょ。」って言う人は、はっきり言って「頭が悪い」と思っている。」 「なんで?」 「自分の今持っている価値観の中でしか考えようとしないから。iPadの発売の時「要するに大きいiPhoneでしょ」って言った人がいたけど、その感じ。」 「ああ。」 「iPadが「大きなiPhoneでしょ?」は、要するに、新しいものが想像できないから、自分の理解できる概念に無理やり押し込もうとする。それが「要するに◯◯なんでしょ?」っていう決めつけになるわけ。」 「なるほど。」 「まあ、どう思うかはその人の勝手だから、別にいいんだけど。でも、そう言う風に言う人はすごく損しているよね。」 「なぜ?」 「だって、それ以上は誰も何も言わないでしょう。自分が間違っていることを指摘されない状況は、バカの始まりだよ。」   確かに、糸井重里氏も、
最初は抵抗があったんですが、今では割り切っています。
と言っている。   おそらくその後には 「どうせ言ってもお前には理解できないだろうから」 と続くのだろう。 指摘する気も起きない、と言ったところだろうか。   ---------------------   「ほぼ日」は手帳の会社なのだろうか。   普通に考えれば、「手帳の会社」と、無邪気にまとめてしまうのは控えたい。 ほぼ日は少なくとも「メディア」「ECサイト」を運営しており、手帳はその回収エンジンの一つに過ぎない。しかも現在たまたま、売上が大きいだけである。 たしかにそれを「手帳の会社ですよね」と言ってしまうのは、あまりにも不勉強であるし、糸井重里氏にも失礼だ。   おそらく「手帳の会社ですよね」と言ったどこかの誰かは、「ほぼ日」をきちんと理解しようとしていない。 単に「何の売上が大きいか」だけを見、自分の中の価値観に照らし合わせて、「これは手帳屋だ」と決めつけたか、メディアの成功を見て揶揄したいだけだろう。   ちなみに、中小企業向けのコンサルティング会社である日本能率協会やタナベ経営も、「手帳」の売上の割合はかなり大きいと聞く。 しかし、彼らをよく知っていれば「手帳の会社」とは言わないはずである。     そう言えば少し前、ある人物が 「自分はライターでなく、作家」と主張したことで、物議を醸したトピックがあった。 「自称」と「他称」が異なるのは珍しいことではないが、これは「ほぼ日」の話と似通っている。「何かの枠に決めつけたがる外部」と「そうではないと主張したい当事者」の対立だ。   他にも、村上春樹を「小説家」ではなく、「エッセイスト」と呼んでいた人に出会ったことがある。 「小説も書いているのでは?」と聴くと、「あんなものは小説ではない」とその人は言う。   残念ながら、この方は客観的視点にかけているようだ、と思ったが、結局のところ、プロは「どう名乗ったか」ではなく「何を生み出したか」でしか評価されない、と思ったのも事実である。 だからもちろん、その人物をどのように思うかは、個人の勝手だ。 しかし、個人的には、 「要するに手帳の会社でしょ」と、「要するにライターでしょ」には多くの共通点があると思うし、失礼な響きが含まれていると思う。 したがって 「要するに◯◯でしょ」 と会ったこともない誰かや、よく知りもしないサービスの評価を聞きかじっただけで決めつけるのは、少なくとも「賢い行い」とは言えないな、と私は思う。       【お知らせ】 ・安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます) ・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント ・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ ・ブログが本になりました。 [amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"] ・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました!   (Photo:Joan M. Mas
最近、ふとしたキッカケからネットで炎上した人達を追跡調査してみた。 炎上は旗から見ている分には単なるお祭り騒ぎみたいなもんで、傍観者としては一種の遊びみたいなものにみえるかもしれないけど、じゃあ実際問題食らった人はどうなるのかっていうのは結構興味深かったのである。   で、その結果だけど思いの外厳しいものではあった。 ほとんどの人達は炎上後Twitterやブログの更新が停止している事が多く、中には心を病んでしまったかのような痕跡を残している人もいた。 生き残って活動を続けている人は、本当に極少数だった。ここでは個別に例をあげないが、興味ある人は各自自分が見たことがある炎上案件をもう一度思い出して検索してみるといいだろう。   僕もネット歴はそこそこ長いのでネガディブなコメントやら言及やらをされる事はそれなりにはあるのだが、正直あれはキツイ。たぶん批判的な意見を書いている方が思っている以上に、こっちには精神的ダメージがくる。   よくディベートを嗜んでいそうな人が「批判的な意見を言うのはあなたの人格を攻撃しているのではなく、あなたの意見を批判しているのだ」っぽい事を言っている事があるが、その領域に到達できる人間はあまり多くはない。 自分の意見は自分の人格より生み出されし何かであって、そう簡単にバッサリ人格と切り離せるようなものではないのである。 一人の人間から批判されるだけでも結構グサッとくるのに、炎上という形で大勢からのネガティブな意見をぶつけられた人がどうなるかだなんて、火を見るより明らかじゃないか。真摯に批判に向き合う前に、潰れてしまうのが関の山だ。  

インターネットで創作活動をおこなおうと思っている人に覚えておいて欲しい、たった1つの事

ドラゴンクエストというゲームがある。レベル1からスタートして、徐々に研鑽を積み、最後に大魔王を倒してエンディングを迎える国民的なRPGである。 ドラクエで最初の町から物語が始まる際、一番初めに戦う相手はスライムだ。スライムはレベル1の勇者が比較的余裕をもって倒す事のできる相手であり、それを相手に場数を踏むことで勇者はレベルアップできる。 こういう風に、段階を踏むことで勇者はしょぼかった何かから、徐々に強きものへと変貌を遂げていく事ができる。   インターネットでの文芸活動は実はドラクエとよく似ている。 相手はスライムではなく、批判的な意見ではあるが。批判にゆっくりと向き合いながら、徐々に徐々に文章力だとか影響力を増していく事ができる人のみが、しょぼかった何かから強きものへと変貌を遂げていく事ができる。リアル・ドラクエである。   よく「人の批判などいちいち気にしていても仕方がない」という人もいるが、個人的にはそういう態度は長いインターネット生活をおくるにあたって、あまり適切なプレイスタイルだとは思わない。 現実世界で人に失礼なものいいをする人間がろくな存在じゃないのと同様、インターネットでも反応がある事がよいことだという風に何でもかんでも扇動的になってしまうのは問題だ。   読者に喜んでもらうがために文章を書くというのが本来のスタート時の心意気だったのが、PVが稼げりゃ炎上でも上等という風に読者を不快にさせるようなものしか生み出せないような存在になってしまったら、それはもう作者としておしまいだろう。 あなただって読んでて自分が不快になるような記事ばっかりが連載している雑誌を好んで買おうとは思わないだろう。僕だってそんな雑誌は買いたくない。人間、誠実さが一番である。   だから、これを読んだ人の中で今後現実世界ないしインターネット等で何らかの活動を行おうと思っている人がいたら、これだけは覚えておいて欲しい。 批判はできる限りでいいからキチンと向き合ったほうがいい。これはもう、間違いない。   言ってることが正しいとか間違ってるとかそういう事は置いといて、やっぱり人から批判されるという事は、なんらかの落ち度が作り手には絶対にあるのである。反省すべきこと、学ぶべき事がそこには山のようにある。 これは自分自身も作り手・受け手、両方の側面からかなり痛感しているのだけど、ネットで人が何かを批判する時、内容が合ってるだとか間違っているだとかよりも、モノの言い方や態度が悪すぎるという事に端を発する事が非常に多いと思う。 文面から滲み出る傲慢さはどんなにロジックを駆使して綺麗に形を整えても隠しきれるものではない。   言っている事がいくら正しくても、人はうちに秘めた傲慢さや暴力性に結構敏感なのだ。力がある人は、やはりその力に責任を持たなくてはいけない。 趣味としてのインターネット空間の主人公は大衆であり、そういう場所で文芸活動を行う人間は、やはり能力に責務を追うべきだというのが一般的な認識だろう。   だからネットで創作活動を行う人は、出来る限りで構わないから批判的な意見をキチンと検証できるようになっていって欲しいなと思う。批判に向き合う事ができるようになると、読者の事を考えて力を使う事がだんだんとできるようになる。 現実世界でいうところの丁寧で礼儀正しいものの言い方のようなものだ。 繰り返しになるが批判にしっかりと向き合うのは本当にキツい事なのだけど、これは本当に大切な事なのでできる範囲でいいからゆっくりと初めていって欲しい。たぶんそのキツい体験は、後々の大切な資産になるから。  

半年ROMれの真意

かつて2ちゃんねるというサイトで「半年ROMれ」という単語が新参者にぶつけられる事があった。
半年ROM 半年ROM、または「半年ROMってろ」とは、その場の空気を読めないレスやコメントをした者に対して使われるネット用語である。以下のように使われる。
475 名前: ひろゆき@どうやら管理人 ★ 投稿日: 04/07/16 04:28 ID:??? banananってなんだろう?496 名前: 動け動けウゴウゴ2ちゃんねる 投稿日: 04/07/16 04:38 ID:LODdbtec >>475 半年ロムってろ
当時インターネット初心者であった自分は、この言葉を「なんて傲慢なものいいだろう」と思っていたのだけど、今思うとあの言葉は実に含蓄深いものがある。   今現在になってからこの「半年ROMれ」を自分なりに読み解いてみると、「キチンとルールを把握してから場に参加しなさい」という風にも読めるし、「何をやっても攻撃される時は攻撃されるんだから覚悟してから場に参加しなさい」という風にも読める。   半年というタイムスパンがまた絶妙だ。 それは「少なくとも今、お前はここに来るべきではない」という事の意思表示であり、半年分の覚悟を高速で習得するのかゆっくりと習得するのかは言われた側に一存されている。   この記事を読んだ人の中にも、将来インターネットで活動を行ってみたいと思っている人がいるかもしれない。 個人的には面白いコンテンツがネットに増える事は心の底から歓迎するので、あなたの参戦は心から歓迎するのだけど、年長モノとしておせっかいのような事を1つだけ言わせてもらうとすれば、「半年ROMれ」の精神をいつまでたっても忘れないで欲しいな、とは思う。   これを無視してちょっと過激な事でもかいて、つい貰い事故のような形で炎上を食らってしまうと、上に書いた炎上した人達と同様、批判に心が耐えきれずに一瞬で精神が崩壊してしまう。 批判は出来る限り向き合うべきだが、炎上は常人には到底耐えられるものではない。あれは風来のシレンでいうところのモンスターハウスみたいなもんで、一瞬でタコ殴りにされてゲームセットである。くれぐれも慎重に慎重を重ねながら、良質なコンテンツを作っていって欲しい。   炎上を避け、褒め言葉を糧にしつつ、批判に誠実に対応していくことさえできれば、あなたの勝利は約束されたようなものだ。いつかきっと魔王だって倒すことができるだろう。     【プロフィール】 名称未設定1 高須賀 都内で勤務医としてまったり生活中。 趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。 twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki (Photo:sassyfras;)
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結局割りを食ったのは、若手の技能の低い人であり、30前後の中堅社員だった。   一方、その経営者は、その後全く新しい会社を立ち上げ、再起している。 「今度も、もちろん残業代は払っています。でも採用は非常に慎重にやっています。あと、定期昇給は廃止しました。」と、彼は言う。 前の会社のことを聞くと、 「結局誰が得したんでしょうかね。」 と、彼は苦笑いした。     漫画:眞蔵修平 website:http://www.matthewroom.com/ Twitter:https://twitter.com/makurashuhei Facebook:https://www.facebook.com/makurashuhei 出典:サービス残業を撲滅した結果、誰が一番得をしたのか。  
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ここ数年、「ベーシック・インカム」という言葉を、随所で見かけるようになった。 ベーシック・インカムとは、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するという構想(引用:Wikipedia)である。   報道に寄れば、すでに北欧で社会実験も始まっているとのこと。
2017年1月1日、フィンランドが国家レベルでは欧州ではじめて試験的なベーシックインカムの導入を開始した。 このプロジェクトでは、1月から2018年12月まで、無作為に選出された2000人の失業者に対して月に560€(日本円にして約6万8000円)を支払うというもの。2年間の実験で、ベーシックインカムの導入が失業率の低下に影響をもたらすのかを調べるのだという。 近年、ヨーロッパを中心にベーシックインカムの導入の是非がたびたび議論されてきた。 ヨーロッパ諸国の社会保障においては、その制度があまりに複雑で多層的であるため、社会保障を受けている失業者がその恩恵を受けられなくなってしまうという不安から、低収入あるいは短期の仕事に就きたがらなくなってしまうという問題が起こっていた。 ベーシックインカムとは「政府による、無条件の最低限生活保障の定期的な支給」であるため、就業による支給打ち切りの心配がない。よって、たとえ低収入の仕事であっても失業者は気軽に次の仕事に就くことができるため、失業率が低減する、というのが大枠の論理だ。 (出典:Newsweek Japan)
このベーシック・インカムという制度そのものの是非について、私は特に意見を持たないし、社会実験の結果を見てから判断するのでも遅くはないだろう。   しかし、ベーシック・インカムという制度に対して肯定的か否定的かに関わらず、いずれにしろ、「働かなくても、誰でも最低限の生活は保証される」というのは一見、極めて魅力的な提案にも見えるが、深刻な問題を引き起こす可能性がある。   それは「身分制度」の復活である。 現在、憲法では14条で「法の下の平等」が謳われている
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
この憲法の下でも「身分制度」が運用できてしまう施策、それが「ベーシック・インカム」だ。   なぜそうなるのか。 つまり、こういうことだ。   ベーシック・インカムが実行されると、まず世の中は2つに分かれる。   ・ベーシック・インカムの有無にかかわらず、働く人 ・ベーシック・インカムが支給されると、働かなくなる人   「働かなくても、死なない」というのは、強烈な誘惑であり、そして、経験的に私たちは「働くことが合っていない人」の存在を知っている。 仕事ができず、いつも周りに迷惑をかけて、冷笑される人。 どこの会社でも雇ってくれない、コミュニケーションの下手な人。 命令されることが耐えられず、いつも職場でトラブルを起こして辞めてしまう人。   そんな人達は世の中にたくさんいる。 そして「ベーシック・インカム」は、そんな人たちに対して、とても優しい。 「働けなくても大丈夫だよ」 「無理してまで働く必要はないよ」 と言ってくれるのだ。   さらに、法律も解雇に対して甘くなるだろうから、職場に「できない人」がいなくなり、企業の生産性も上がるだろう。 お互いにとって、「満足の行く社会」の出来上がりである。   しかし、その30年後、社会は直面する。 「30年間、ずっと働いてこなかった人」たちと、「30年間、真面目に働いてきた人たち」の 大きな能力差に。 ともすれば、それは親から子へ、子から孫へと「世襲」されてしまうかもしれない。   言うまでもないが、働かなければ能力はあがらない。そして、現代は「知識」「能力」が社会の階級を決める社会である。 当然、仕事を通じて手に入れられる知識も、能力も、人脈も、何も持たない人々は、すでに、「配給」に依存して生きる他はなくなっている。   そして、「ベーシック・インカム」制度は、あるとき曲がり角を迎える。 とある政治家がこう主張する。 「ベーシック・インカムの支給金額を少し上げるかわりに、学校や教育関係の予算を削りましょう。いまは、誰も学校を使っていませんから。」 そのとおり、身分の高い人たちは、既に「私立」の学校に行かせたり、留学させるなどして、自分の身の防衛をしている。   だが、身分の低い人達は、学校など行かない。勉強もしない。金をもらって生きているだけである。   だから、皆大賛成である。その政治家は狙い通り選挙に勝ち、首相になるかもしれない。 そして、少しずつ「小さな政府」から配られるお金で身分の低い人達が「飼われる」ようになる。   さらに「小さな政府」のスポンサーとなっている「身分の高い人達」ばかりがいる企業は、今や有名無実となった政治家を手のひらで転がす。 彼らは皆、能力も意欲も高く、人脈も豊富で、人柄も良い。   そして、真面目に、切実に彼らは思っている。 「我々が、身分の低い人達を導いてやらなければ、日本はなくなってしまう。何とかして今のベーシック・インカムを制度として続けなければならない。能力があり、貴族たる我々が、彼らの生活に対して責任を負っているのだ。」   全てこれらの状況は、国民が望んだ状態なのだ。 それが望ましい状態かどうかは、当事者が判断するだろう。     【お知らせ】 ・安達裕哉Facebookアカウント (安達の最新記事をフォローできます) ・編集部がつぶやくBooks&AppsTwitterアカウント ・すべての最新記事をチェックできるBooks&Appsフェイスブックページ ・ブログが本になりました。 [amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"] ・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました!   (Photo:Generation Grundeinkommen
こんにちは。日本植物燃料株式会社、代表の合田です。 皆様、私が「ダチョウが人類を救う」と突然言い出したらどう思うでしょうか。 でも、これにはきちんとした理由がありますので、今回はダチョウの話にお付き合いください。   2014年、西アフリカで大規模なエボラ出血熱の流行がありました。
2014年の西アフリカエボラ出血熱流行 2014年の西アフリカエボラ出血熱流行は、ギニアをはじめとする西アフリカにて2013年12月頃から、バイオセーフティーレベル4に属する最強の感染性と毒性を持つエボラウイルスが原因となって発症するエボラ出血熱が流行し始めた事象。 2015年10月18日までにおける世界保健機関 (WHO) の発表によると、感染疑い例も含め28,512名が感染し、11,313名が死亡(死亡率40%)した
ご存じの方も多いと思いますが、エボラ出血熱は非常に危険なウイルスによる感染症で、1976年から2014年8月時点に至るまで、20回を超えるアウトブレイクが報告されています。 (参考:国立感染症研究所 http://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/342-ebola-intro.html)   日本にいれば「遠い世界のどこかで危険な病気が流行っているのだな」で済ませてしまうこともできます。 ですが、2014年当時、私はすでにアフリカでビジネスを始めていました。つまり、アフリカに恩があります。そこで、まず自分ができることを何か探そうと思いました。   とはいえ、日本でできることは限られます。 なぜかと言えば、現在日本国内ではエボラウイルスを扱った実験ができないからです。   エボラウイルスは危険なため、現在でもごく限られた施設の中でのみ実験を許されており、当時は、実験ができる施設は国内にありませんでした。

つまり、日本のエボラウイルス研究者は、国内で実験ができず、海外の研究機関に委託するなどして研究をするしかなかったのです。

  そこでこう思いました。 「日本の研究者に、エボラウイルスの研究ができるような環境を用意することはできないだろうか?」   幸いなことに、私はアメリカ軍に知り合いがいた事を思い出しました。 といっても、何も特別なことはありません。 実はアメリカ軍は2010年に、エネルギー調達のリスク管理上の観点から、「再生可能エネルギーで軍を稼働させる」という目標を掲げていたことがあります。 そして、弊社は「日本植物燃料」という会社名の通り、再生可能エネルギーを取り扱う会社です。   そのため、過去にこのプログラムに参加するため、弊社の木村というUCバークレー卒の役員を通じ、海兵隊のツテを辿り、ガチの軍人であるマーティン・スティール氏という、元海兵隊中将の方と知り合ったことがありました。   アメリカ軍ならば、生物兵器への対策として、エボラウイルスの研究にも力を入れているはず。 予想通り、私はマーティンから、メリーランドにある「アメリカ陸軍感染症医学研究所」のエボラ研究の最高責任者、シナ・ババリ博士を紹介してもらうことができました。 一方で、私は日本の感染症研究者をリストアップし「米軍におつなぎします」と、様々な方へメールを送りました。   マーティンは 「ババリは超忙しいから、会ってくれるかわかんねーぞ。」 と言っていましたが、会えばなんとかなるだろうと、とりあえず陸軍感染研究所のあるメリーランド、フォート・デトリックへ皆で乗り込むことにしました。   ところが、はじめから躓きます。正面ゲートから入ろうとすると、 「アポイント入ってないぞ」 と拒否。完全に怪しい人扱いです。   まあ、よくわからない東洋人の集団が、「エボラ研究の責任者に会わせてくれ」と頼みに来るのはそう頻繁にあることではないでしょうから、当たり前です。 ただ、相手は軍なので、ネタでは済まされません。 仕方がないので、基地の裏側のゲートの方に周ります。裏口に回るのは余計怪しいですが、既に正面突破は不可能です。   今度はミスが許されません。そこで木村が携帯から直接ババリ氏に連絡しました。すると OK、基地の中のバーガーキングで会おう。」 と、あまり病原体の話題にはふさわしくない場所で会うことができました。   結論から言うと、ババリ氏はとても喜んでくれました。 やっぱり会いに行くのは大事です。   我々が下調べしたところによれば、ババリ氏は有機化合物を用いてエボラをノックダウンする研究をしており、そこに似たような研究をしている日本人の研究者をおつなぎしたのです。 こうして米軍と、感染症治療の実験が始まりました。 しかし、一定の成果を上げたものの、その研究者が用いていた化合物では毒性が出てしまうことがわかり、エボラ対策としては実用化には至りませんでした。   しかし、ブレークスルーを実現するためには、ここで諦めない事が大事です。   他にも良いアイデアを持っている人がいないか粘り強く探していたところ、面白い論文を発表している方がいました。 その方が、京都府立大学の塚本康浩教授です。 塚本教授は、「ダチョウの卵を使った抗体」の研究をしている、「鳥フェチ」として知られた、ちょっと変わった研究者の方です。   「抗体」とは、あまり聞き慣れないかもしれませんが、要するに体に異物が入ったとき、防御反応を引き起こすタンパク質のことで、様々な用途に用いられます。
抗体とは 抗体は主に血液中や体液中に存在し、例えば、体内に侵入してきた細菌・ウィルスなどの微生物や、微生物に感染した細胞を抗原として認識して結合する。 抗体が抗原へ結合すると、その抗原と抗体の複合体を白血球やマクロファージといった食細胞が認識・貧食して体内から除去するように働いたり、リンパ球などの免疫細胞が結合して免疫反応を引き起こしたりする。
例えば、抗体の利用で身近なところでは、予防接種が挙げられます。 予防接種のワクチンは、病原体から作られた無/弱毒化された抗原を投与し、体に病原体に対する抗体を作らせ、感染症に対する免疫を作り出すものです。   しかし、塚本教授は、医療の用途以外にも 「抗体でハゲを治す」 「抗体を使ったニキビを抑制する化粧品」 (参考:http://dachou-koutai.com/media.html) など、様々な用途開拓を行っています。   ただ、これまで「抗体」は非常に高価なのがネックでした。 通常0.1ミリグラム当たり、200ドルから600ドルほどもかかります。 これは抗体の製造をするにあたって、「マウス」や「うさぎ」を大量に必要とするからです。しかも、抗体をマウスなどから取り出すには、その個体を殺さなくてはなりません。 非効率であるばかりではなく、抗体を取り出すためだけに動物を殺すのは、倫理的な問題も伴います。   ところが、塚本教授は「ダチョウの卵」を用いてこの抗体を作る方法を実現しました。 実は鳥類は、自らの身体で作り出した抗体を「卵」に蓄積する性質を持っており、抗体の製造にあたってダチョウを殺す必要はありません。   さらにダチョウの卵は世界でも最大クラスの卵ですから、ダチョウの卵はなんとニワトリと比較して4万倍の抗体を採取でき、生産性も極めて高く、安価に抗体を製造できます。 実際、貴重な抗体を「ハゲに効く」といった用途に使えるようになったのは、安価に製造できるからです。   これは極めて大きなブレークスルーであり、特許の取得もされています。 また、ガンの治療薬として期待されている「抗体医薬品」の大量生産にも係る技術であり、多くの人を救う可能性のある技術で、塚本教授は「ダチョウの卵で人類を救います!」と言っています。 [amazonjs asin="4093882487" locale="JP" tmpl="Small" title="ダチョウの卵で、人類を救います! : アトピー、新型インフルエンザ、HIVも撃墜する夢の抗体発見秘"]   当然のことながら、すでに彼の研究はすでに学術界ではかなり注目を集めていたようで、フランスのパスツール研究所からも声がかかっていました。 その塚本教授を、再度、米軍のババリ氏に紹介したところ、大変気に入ってもらい、抗体を用いたエボラの治療薬を開発すべく、正式に研究がはじまりました。   この実験では、抗体を作る際によくウサギの血清が使われていたのですが、ダチョウ1羽が半年で産む卵が生み出す抗体は、ウサギ800羽分の血清に相当します。 さらに、そのダチョウから作った抗体は、熱にも強く、酸にもアルカリにも強いのです。 最終的に、エボラの一種である「スーダンエボラ」株のマウス感染実験においてダチョウ由来の抗体を投与した結果、感染前投与、感染後投与のいずれにおいてもマウス生存率100%の結果が得られました(投与無しは100%致死)。   なお、余談ではありますが、このダチョウの卵を使った研究は非常にエポックメイキングなものであったため、私たちを迎え入れてくれた陸軍研究所のババリ氏ですら大変驚いたそうです。 そのため、その周りの研究者たちがこぞって研究をはじめ、今ではハーバード大学の医学部を中心に、ケリー教授とCDI(クリストリジウムディフィシル)、
ライアン教授とコレラ、ファサーノ教授と
ズヌリン(グルテンアレルギーなど各種アレルギー疾患)

においても、ダチョウ由来の抗体を用いた共同研究が行われています。     で、 色々と書いてきましたが、一方で私は事業家なわけです。 これをどうにかビジネスに結びつけたいと思いました。   ……ということで、「ダチョウ抗体」を用いた医薬品を作るべく、塚本教授と共同で会社「OstriGen Inc.(オーストリジェン)」という会社を作りました。 (合田、塚本、Stu、Lamontで、Lamontは、ハーバードの消化器内科の元教授です。Stuは、OstriGen Inc.の共同創業者の一人。OstriGenは、塚本、木村、Stu、合田の4人が創業者)   この会社では、ダチョウ抗体を用いた様々な医薬品やそれに準ずるものを作る事をミッションとしています。 様々な例えば、私の写真を見てください。花粉症でマスクしてます。 これ実は、我々の技術をつかって抽出したダチョウの抗体を含ませた花粉症用マスクなのです。   私は商売人なので、ここで宣伝しますが、Amazonでも売ってます。 [amazonjs asin="B013ABY3US" locale="JP" title="クロシード さらに進化したダチョウ抗体マスク プリーツ記憶タイプ Rサイズ(ふつう) 3枚入"] ありがたいことに、文部科学大臣賞をいただき、すでに数千万枚が売れています。 さらに、抗体が安価に生産できることで、応用の幅をどんどん広げることができ、「抗体入りのアメ」なども作ることもできました。 [amazonjs asin="B06XDN8N78" locale="JP" title="花の粉バリアGG黒糖のど飴50g×5袋セット"] とりあえず、味は悪くないと思います。   この「アメ」ですが、応用編として、今後、アフリカなどの途上国の子どもたちに、「抗体入りのアメ」を配布すれば、下痢や感染症などの予防ができ、公衆衛生にも寄与できるのではないかと考えています。 ですので、あえて医薬品とはせずに、「食品」として、アフリカで販売をする予定です。 他にも、皮膚に塗って、トイレタリーや化粧品などに使うこともでき、ダチョウからできる「抗体」の応用範囲はかなり広いのです。   偶然が重なり、「バイオ燃料」や「エボラ」からずいぶん遠い所まで来ましたが、なんかこういう「脱線」も、ビジネスの面白いところって気がします。     日本植物燃料株式会社コーポレートサイト  
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