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Books&Apps編集部

先日ダイバーシティ推進の活動をされている方とお会いした。その方の言っていたことが印象的だったので、ここで紹介したい。

どういう内容かというと、

「何かメッセージを発信するときに『自分はこんなにつらい思いをしました』と言うと、聞いている人に罪悪感を抱かせてしまうから、できるだけ客観的に伝えるようにしている」

という話だった。

 

その方と話したのはセクシュアルマイノリティの人たちが集まる場だったので、LGBTの講演や研修での伝え方についての話題になり、どのような工夫をされているのか教えていただいた。

 

マイノリティでも生きやすい社会になってほしいという話をするときに「今はこんな社会だから私はつらい思いをしました。変えていきましょう」という伝え方は、相手の態度の変容を目的とするならば、あまり得策ではない。

 

そもそも大半の人は悪意を持ってなんかいなくて、差別をしたいなんてこれっぽっちも思っていない。マイノリティでも生きやすい社会になってほしいということを否定する人はほとんどいないだろう。

さらに講演を聴いたり研修を受けたりする人は、何かしなければと思っている、興味を持っている人たちであり、悪意がないどころか善意で溢れる人たちである。

 

それなのに、「今のこの社会でつらい思いをしています」という伝え方をすると、聞いている人に罪悪感を抱かせてしまう。

なぜなら、聞いている人たちはその社会の構成員だからだ。

発信側に責める意図がなかったとしても、聞き手は悪いことをしているわけではないのに「その社会の一部を担ってごめんなさい」という気持ちになってしまう。

 

感情に訴えるのが有効なときもあるけれど、相手の態度の変容が目的なのに相手に罪悪感を抱かせても意味がない。

それよりは一歩引いて客観的に淡々と“現状”と“対策”を述べたほうが目的に合っているのではないか、と。

 

こんな内容だった。

 

この話を聞いて、私は“男女平等”についても同じことが言えるのではないかと思った。

男女平等を目指す“フェミニズム”という言葉をよく聞く。でも、この言葉はあまり良いイメージを持たれていない。それどころか、嫌悪感を示す人も多くいる。

 

女優のエマ・ワトソン氏が国連で語ったスピーチをご存知の方も多いだろう。彼女はスピーチの中で、「フェミニズム」が嫌悪される言葉になってしまったと話している。

私は自分をフェミニストであると認識するようになりました。そして、これはとても自然なことに思えました。しかし、どうやら「フェミニズム」とは死語のようです。自身をフェミニストである、と認識する女性の数がどんどん減っています。

当然、私は「強すぎる、攻撃的すぎる、権利を求めて騒ぎすぎる、そして男嫌いな魅力的ではないフェミニスト」な女として疎まれる種類の女性の1人となります。

なぜ「フェミニズム」はこれほどにも嫌悪される言葉になってしまったのでしょうか?

http://logmi.jp/23710

「なぜ『フェミニズム』はこれほどにも嫌悪される言葉になってしまったのでしょうか?」

エマ・ワトソン氏のこの問いかけに、皆さんならどう答えるだろう。

 

おそらく答えは1つではなく複合的だ。

そのうちの1つが、先程のマイノリティの話に出てきた“罪悪感”ではないかと思う。

マイノリティが平等ではない社会について言及すると、それはマジョリティを責めている構造になりやすい。なぜならマジョリティは不平等な社会の構成員だからだ。

それは構造的に仕方ないことだと思う。ただ、発信する側にその意図がなくても受け手がそう受け止めてしまう以上、この点はかなり注意して発信しないと真意が歪んで伝わってしまう。

 

男女平等も同じで、男VS.女という構造になってしまいがちなのは、たとえば女性が女性にとって生きにくい社会である、不平等であると主張すると、それは女性以外の人、つまり男性側に問題があると受け止められてしまい、男性を責めているような伝わり方をしてしまうからだ。

逆も然りで、男性が男性にとって生きにくい社会である、不平等であると主張すると、男性以外の人=女性が責められているように感じてしまう。

 

多くの人はそれぞれの性に生きづらさがあることは理解しているはずだ。決して不平等を望んでいるわけではない。

ただ、同じゴールを目指しているのに、双方が居心地の悪さを感じている。それが現状だ。

 

だからあくまでも客観的に、「理想を共有する」「現状を正確に捉える」「問題点を洗い出す」「理想に近づくための対策を提示する」ということを感情抜きに伝えた方が双方にとって気持ちが良く、不快感なく行動に移せるのではないか。

 

誰だって「あなたが悪い」「早く改善して」と言われたらカチンときて反発したくなるだろう。

感情に訴えるのは時にものすごい威力を発揮する。同情してもらう、罪悪感を抱かせる、といったアプローチが有効なことも多々あって、それも戦略の1つだ。

でも、相手の態度の変容を狙ったとき、必ずしもそれがベストな方法だとは限らない。むしろ客観的に淡々と伝えるほうが受け入れてもらいやすいこともある。

そんなことを学んだ。

 

マイノリティやフェミニズムに限らず、何かメッセージを伝えたい、伝えなければならないという場面は仕事やプライベートにおいて誰しも経験することだ。

その際の伝え方1つで相手の受け止め方はかなり変わってくる。

とりわけネット上においてはむしろ過激なことを言ったほうが拡散されやすいという側面もあり、より多くの人に届けたいという場合はあえて感情を利用する戦略を取ったほうが賢いのかもしれない。

 

ただ、どうせ伝えるなら気持ちよく伝えたい、と私は思う。メッセージに触れた人に気持ちよく受け止めてもらいたい。そのほうが、建設的な意見が飛び交って、結果的にメッセージが活きるのではないか。私はまだまだ勉強中だけど、少しでも良い伝わり方をする発信を心がけたい。

 

 

 

【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

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Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:Thomas Hawk

この秋、管理職への昇進を果たした人も多いだろう。

 

管理職は最もデリケートな「人の心」を扱う職業であり、管理職の仕事のやり方によって、組織の力は大きく増幅されるときもあれば、逆に本来の力を全く出せないときもある。

 

「サピエンス全史」にある通り、人類の卓越した能力の一つは、紛れもなく「協力」だ。

人の世が始まって以来、人類は「協力」によって、外敵を打ち破り、生物界の頂点に君臨した。

[amazonjs asin="430922671X" locale="JP" tmpl="Small" title="サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福"]

その「協力」を扱う、最も重要な仕事の一つに就くことができたことは、本当に幸運なことだと思う。

 

しかし、管理職となって活躍できる人はそれほど多くない。

管理職の仕事は、「人に仕事をやってもらうこと」なので、プレーヤーとして優秀だった人でも、無能な管理職となってしまうことはよくある。

そして、無能な管理職は組織を崩壊に追い込む。

 

例えば、三越伊勢丹で、40代から50代の「管理職」のリストラが始まったとの報道があった。

三越伊勢丹 40~50代の早期退職促進へ 退職金積み増す

(NHK News Web)

部長級での早期退職の対象年齢を従来の50歳から48歳に引き下げ、48歳から50歳では退職金の加算額を5000万円とするほか、40代後半から50代前半の課長級などでは退職金の加算額を最大で2倍に増やすなど管理職を中心に退職金を大幅に積み増す仕組みになっています。

このリストラのターゲットは40代後半から50代の管理職だ。

 

実は、三越伊勢丹は「社員の半数が管理職」という異常な事態だという。

「人件費に潰される」三越伊勢丹が王者陥落…社員半数が管理職の異常体質、前社長を完全否定

問題は販管費の3分の1を占める人件費だ。人件費は1200億円の見込みで、不採算店を閉鎖しているにもかかわらず、17年3月期の1180億円から1.7%増える。

人件費の抑制が大きな課題になっているのに、具体的な道筋が見えてこない。

傘下の事業会社、三越伊勢丹は社員5400人の半数近くを管理職が占めている。ともに歴史のある、三越と伊勢丹が経営統合した経緯もあって、役職が多層に重なる組織になってしまっている。

前述したNHKの報道には「バブル期に大量に採用された40代と50代を中心に早期の退職を促し、人件費の削減につなげたい考えです。」とある。

年功型の組織で管理職という地位を乱発すれば、組織が機能不全に陥るのは必然だろう。

 

*****

 

では「管理職」に必要な能力、成果を出す力とは何か。

 テクニカルな部分では、「話し方」や「聞き方」といった話があるかもしれない。

褒めたり叱ったり、数字を見たり、交渉力や政治力にもそれなりのレベルが求められるだろう。

 

だが、現場を見てきて思う。

管理職の能力の中核は「人への関心」だ。

人好きでなくてもよい。

人への信頼がなくてもよい。

ただ、「人への関心」は絶対に必要な事項である。

 

あるIT業の人事評価面談に同席していた時のこと。

高いパフォーマンスを出した部下に対して、上司が高評価を伝えると、彼は怪訝な顔をした。

「何か不満があるのか?」

と上司が聴くと、彼は

「あっさりしてますね。」

と言った。

 彼は、その後しばらくして、会社をやめた。

「急に虚しくなった」と同僚に言って。

彼はおそらく、ねぎらいの言葉が欲しかったのだ。

 

 心理学者のミハイ・チクセントミハイ氏は「関心を持たれていること」は人にとって非常に重要な事だと、子供の例を挙げている。

子供は両親が自分に何かを期待しているということ、そしてもしその期待に添わなければ、ある特別な結果が生じるということを知らなければならない。

しかし彼らは同時に、何が起ころうとも良心の自分への関心には疑問の余地が無いことを認識していなければならない。

期待に添えないことで、失望されたり、叱られたりすることは子供にとっては必要な過程だ。

だが、失望や叱られたりするよりも、もっと重大なのは「関心を失われてしまうこと」である。

 

このように、上司に求められることは、「部下の一人ひとりへの関心」に尽きる。

人間への関心がある人物は、たとえ怒鳴ったり、人として未熟であっても、それなりの人望を集めることができる。

 

 

パナソニックの創業者、松下幸之助の腹心であった江口克彦氏は、松下幸之助の「人への関心」について、つぎのようなエピソードを紹介している。

 

ハーマン・カーンという、著名人が来日し、滞在中に松下幸之助と面会することになった。

予定日の10日ほど前のこと、松下幸之助と雑談していると、突然「ハーマン・カーンと言う人はどういう人か知っているか」と聞かれた。

「アメリカのハドソン研究所の所長で、未来学者です」と答えると、松下は、頷きながら、「そうか」と一言。

 

ところが翌日も「ハーマン・カーンと言う人はどういう人か知っているか」と、同じ質問をされた。

「また同じ質問?」と思いながら、全く同じ回答をすると、松下幸之助も、昨日と同様に「そうか」と言った。

 

そして、その翌日もまた、全く同じ質問。同じ答。

江口氏は、なぜ同じことを連日3回も聞くのか、と、ふつふつと腹がたったそうだ。

 

ところが松下幸之助を見送りながら、江口氏は突然「何回も同じことを聞かれているということは、他の情報をよこせ、ということではないか」と感じた。

すぐに本屋に行き、ハーマン・カーンの著作を読みレポートを作り、カセットテープにその内容を吹き込んだ。

 

翌日、松下幸之助がまた同じ質問をしようとした時、調べたことを必死で報告し、レポートとカセットテープを渡した。

松下幸之助氏は熱心に聞き、質問もしてくれた。

そして、その翌日。

翌朝、車を迎え、ドアを開けると、降りてきた松下が、私の前に立って、私の顔を、じっと見つめる。思わず、身体が硬直、直立不動していると、松下は、なおも私の顔を見つめながら、「きみ、なかなか、いい声、しとるなあ」と言った。

その瞬間、私は、身が震えるほど感動した。その言葉が、昨日渡したテープを聞いた、ということだけではなく、よく気が付いたな、よく調べてくれたな、内容もよかった、さらに、テープに吹き込んでくれた、ありがとう、ということなど、すべての思いを込めた一言であると直感した。

そして松下が、自分の思いを気づくまで、辛抱強く、質問を重ねてくれたんだということ感じた私は、そのとき、ああ、この人のためなら、死んでもいいとさえ思った。

 (参考:「なかなか、いい声、しとるなあ」東洋経済オンライン)

 

この記事こそ、上司と部下の関係の本質を表現している。

江口氏は松下幸之助の「自分へ対する関心」に始終興味を持っている。

松下幸之助に興味を持ってもらえないときには動揺し、興味を示してもらえれば、心の底から感動する。

 人間とは、かくも「上位者の自分への関心」に右往左往するものなのだ。

 

したがって、人に興味がない人は管理職になってはいけない。

「好き」でなくともよい。

「本心」である必要もない。

「研究対象」という程度でもいい。

だが「人への興味」を示さなければ、その時点で管理職たる資格はない。人に関心のない管理職は、職場に不満と絶望を振りまくだけの存在となる。

 

 

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(Photo:Simon

世の中には様々な人がいるが、その中には残念ながら

「話が全く噛み合わない人」

がいる。例えば、こんな具合だ。

 

上司:「昨日、顧客訪問が3件あったと日報に書かれてるけど、今期の受注に繋がりそうな成果があれば、報告してもらえる?」

部下:「あ、一つ困ったことがありまして。お客さんから会社の概要について詳しくわかる資料はないか、と聞かれたんですよ。」

 

 上司:「(成果を報告しろと言ったのに……)会社案内なら、この前発注をかけたので、後ろの棚に入ってるよ。」

 部下:「いえ、あれじゃダメなんです。」

 

 上司:「なぜ?」

 部下:「違うのがほしいということでした。」

 

 上司:「(は?質問に答えろよ……)いえ、私が聴いているのは、「なぜダメなのか」だから、理由を教えてもらえる?」

 部下:「うちの会社案内、サービス案内が不十分だと思うんですよね。」

 

上司:「あなたの意見ではなく、お客さんがなんと言っていたかを教えて。」

 部下:「ですから、違うのがほしいと。」

 

上司:「(イライラ)いや、お客さんが、なぜこの会社案内がダメだと言っていたのか、聴いてないの?」

 部下:「えーと、さっきも言ったとおり、サービス案内が不十分だったと思いますが。」

 

上司:「(イライライライライライラ)だーかーらー、あなたの感想ではなく、なんてお客さんが言ってたんだよ?」

 部下:「あ、それは聴いてません。でも多分サービス案内のせいだと思います。」

 

上司:「(結局聴いてないのかよ)……わかりました。聴いてないと。ではなぜ、サービス案内のせいだと?」

部下:「会社案内を見せたら、サービス案内のところを見て色々と質問してきたからです。」

 

上司:「どんな質問があった?」

部下:「詳しくは忘れました。あと、秘密保持契約を締結してほしいと。」 

 

上司:「(話題を勝手に変えるなよ……。)……もういい。秘密保持契約の話は後だ。話をもとに戻すぞ。

部下:「はい。」

 

上司:「最初に言ったとおり、昨日の顧客訪問3件の成果を報告して。」

部下:「それなら、昨日すごいお客さんと話が盛り上がったんですよ。」

 

上司:「(ハア?)盛り上がったのがが成果?」

部下:「たまたま出身校が同じだったんですよ。」

 

上司:「(質問に答えろよ……)だから、仲良くなれそう、というのが成果なのか?」

部下:「成果、ではないですかね。」

 

上司:「(ハア?)お客さんと盛り上がるのは手段で、営業の成果はそこじゃないだろ。

部下:「いや、でもお客さんとの人間関係は大事ですよ。」

 

上司:「(こいつ頭悪いな……)最初に「受注につながる成果を報告」と言ったはずだが。」

部下:「あ、スミマセン。特にそのお客さんからの注文はなさそうです。」

 

上司:「(怒)あhdそふあdなえうぃおdhがいg」

 

*******

 

コミュニケーションが全く噛み合っていない状況はよく見受けられる。

普段、他愛もない話をしているときには我慢できるが、仕事になるとこれは結構困りものだ。

 

上の場合は残念ながら、部下のコミュニケーション能力が著しく不足していると言わざるをえない。

特にマズいのは、以下の4点だ。

 

 

1.質問に答えていない

「成果を報告してください」と言われたのに、「資料がほしい」と質問に答えていない。

優しい上司であれば、上のように話を聴いてくれたりするが、「アタマが悪いやつ」と思われてしまうことは避けられないし、仮にこの場がミーティングなどであった場合、他の人の時間まで奪ってしまう。

聞かれたことに端的に回答する。

 

2.自分の意見と、他人の発言の区別がついていない

上司が「なぜお客さんは会社案内ではなく、他の資料がほしいと言ったのか」と聴いているのに、「サービス案内な不十分だと考えている」と、自分の意見を述べている。

事実と意見を混同して述べるのは、上司に「ダメだこいつ」と思われてしまう原因の一つだ。

仕事においては、事実と、意見はしっかりと区別する。

 

3.話題を勝手に変えてしまう

 「お客さんからどんな質問があったか?」と上司から聞かれているのに、「秘密保持契約を結んでほしいと言われた」と、話題をかってに変えてしまっている。

その場で出た話には違いないが、話題をコロコロ変えると、何も決まらないままに時間だけが経ってしまう、ということがよくある。

自分の話したいことを話題にしたい気持ちはわかるが、一つの話題が終わってから、次の話題に移ること。

 

4.相手の聞きたいことを考えていない

 コミュニケーションの最も基本的な部分として、「相手の聞きたいことを話す」と言うものがある。

だが、コミュニケーションに対して無頓着な人は、相手の思考をしばしば無視する。

上の場合、上司は「今期の受注に繋がりそうな成果を報告しろ」と言っているにもかかわらず、部下は「成果」について深く考えずに発言しており、そこに重大なミスコミュニケーションが発生してしまっている。

 

上司が何度も同じことを聴いてくるのであれば、部下は上司の意図を検証すべきだ。

例えば、「受注につながる成果、の報告ですよね?」といったように。

 

*****

 

何気ない会話であれば、相手と噛み合わなくても会話になってしまうのが、人間の素晴らしいところではあるのだが、仕事において「噛み合わない」は、後に重大なトラブルに繋がる可能性もある。

 

至極当たり前のことなのだが、

・質問に端的に回答する。

・事実と意見を区別する。

・話題を勝手に変えない。

・相手の聞きたいことを常に検証する。

この4つを意識するだけで、コミュニケーションの効率は劇的に変わる。

「お前の言っていることはよくわからない」と言われてしまう人は、この4つのいずれか、または全てに不調がある。

 

 

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(Photo:Marc Wathieu

***本記事は書評サイト「シミルボン」からの配信記事です***

文:杉江松恋

 

学生のころ、ゲテ物喰いに憧れた時期がある。

きっかけは1冊の本だった。講談社が出していたドラゴンブックスという子供向けの叢書がある。志水辰夫が別名で書いた『生き残り術入門』が有名だが、他の本もかなりな価格がつく稀覯書として取引されている。その中の寺ノ門栄『飢餓食入門』が愛読書だったのである。

 

1970年代中盤から1980年代初頭にかけて、結構な終末ブームが存在した。小松左京『日本沈没』やその映画化作品、五島勉のノストラダムス本などが火つけ役で、児童書にも「世界はこうやって終わる」と煽り立てるものが続出したのである。

背景にはもちろん冷戦の存在があり、一歩間違えば核戦争で人類は簡単に滅亡するということが日常的な恐怖としてあった。

 

私の場合はレイチェル・カーソン『沈黙の春』やトマス・ロバート・マルサス『人口論』も気になり、特に後者については、やがて深刻な食糧不足の時代がやってくるのではないか、という心配で眠れない夜も幾度か過ごした。

高校の現代社会で厚生省(現・厚生労働省)の人口問題研究所に行ってレポートを書いたこともある。そのころは今のような少子化時代が日本に到来することなど、まったく予想していなかったのだが。

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[amazonjs asin="B00N741IB6" locale="JP" tmpl="Small" title="ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月人類滅亡の日 (ノン・ブック)"]

[amazonjs asin="4102074015" locale="JP" tmpl="Small" title="沈黙の春 (新潮文庫)"]

[amazonjs asin="B00H6XBJ1I" locale="JP" tmpl="Small" title="人口論 (光文社古典新訳文庫)"]

『飢餓食入門』もそういう関心で読み始めたのだと思う。将来食べるものがなくなったときのために、というわけだ。そしてまったく別の理由で嵌まった。紹介されている飢餓食が、まことにもって美味しそうだったからだ。

 

今手元に本がないのが実に残念である。『飢餓食入門』はレシピ本といってもよく、この動物はどう料理すればうまいか、ということに記述の主眼があった。

たとえばカブトムシの幼虫は汁気がたっぷりであるとか、モグラの肉の臭みを抜くにはどうしたらいいかとか、そうした記述の一つひとつに魅了された。

そして、自分でもやってみたいと思ったのである。

 

当時私が住んでいた多摩市南部は結構な鄙で、町田市との境は里山のようになっていた。そのへんを歩いていると空の薬莢を拾うこともあったので、たぶん狩猟が許可されていたのだと思う。

したがって頑張って山の中に入れば、憧れの飢餓食の材料となる虫やら小動物やらを捕り放題だったと思うのだが、幸か不幸か、それが可能になるほどの知識や根気が私には欠けていた。

徹底したインドア派だったので、山歩きも数日すると飽きて、本の世界に戻ってしまったのである。かくして私の飢餓食実践は中途半端な形で未遂に終わった。

 

成人した後でその熱はやや再発し、新しい国に旅すると何か珍しいものは食えないか、と探すようになった。

しかしそれも、桂林でコブラのスープを飲んだり、ホー・チ・ミンでサソリの唐揚げを喰ったり、という程度で、飢餓食本来の主旨からは大きく外れたものであった。

そういえばタイで犬が食えるという噂を聞いたのでレストランに入るたびに聞いていたら店の人たちに爆笑されたことがある。「犬は精力をつけるために喰うものだから人前で言わないほうがいい」というわけだ。犬を食いたければ北部のナコーン・サコーンに行け、と言われた。

 

というわけで中途半端なゲテ食好きなのであるが、最近続けざまにその方面の本を読んだ。世の中にはやはり、一定数の同好の士がいるのである。

最初に読んだのが玉置標本『捕まえて、食べる』(新潮社)だった。これはゲテ食の範疇に入れては気の毒な本で、中に出てくる生物はスッポン、ギンポなど結構な高級食材ばかりである。

著者にとって重要なのは「捕まえて」の部分にあり、干潟に行ってアナジャコを筆で釣るような、変わった手段の漁を紹介する本と言ったほうがいいだろう。

中でもっともやってみたいと思ったのは、世界で二番目に臭い料理であるホンオフェを自作する章である。

作り方は、エイの切り身を甕に入れて放置するだけ、とありいかにも簡単そうなのだが、ものすごい臭気が漂うことも明記されているので、なかなか手が出ない。甕を庭に置いてたら、毎日やってくる野良猫からそっぽを向かれそうである。

[amazonjs asin="4103511419" locale="JP" tmpl="Small" title="捕まえて、食べる"]

紹介されている生物の数では『捕まえて、食べる』よりも平坂寛『喰ったらヤバいいきもの』(主婦と生活社)のほうが圧倒的に多い。

……

(続きはシミルボンで)

 

 


シミルボンとは

シミルボンとは、ユーザーの皆さまが “いい本”を互いに教えあったり、好みの“読書人”に出合ったりすることのできる、プラットフォームです。

ユーザー参加型のレビューやコラムの投稿サイトであり、本やマンガに関連した口コミを閲覧することができる情報サイトです。

書き込みにあたっては、ブログさながらに、少し凝ったレイアウトができたり、写真やイラストなどの画像を張り付けたりして、表現することができます。

 

(warwick_carter)

採用市場が活況を呈しているが、「うまく採用できず悩んでいる」とこぼす経営者、幹部は少なくない。

その悩みは大きく2つ。

「応募がない」と「入社させてみたら、思っていたほどパフォーマンスの高い人物ではなかった」

というものだ。

 

そして、後者は前者に比べて、より深刻である。

あるwebサービス業の幹部は

「面接では素晴らしい人物に見えた。しかし、半年たって今思うと、「騙された」というのが正直な感想だ」

と言った。

「試用期間にやんわりと辞めてもらった。頭もよく、コミュニケーション能力は素晴らしかったが、手を動かせない人物は要らない。」

「クビにした人からは、苦情などは来ていないのですか?」

「給料3ヶ月分を渡して辞めさせた。カネを受け取っているし、退職願も出させたから、訴訟にはならないと思う。」

「そうですか。お互い不幸ですね。」

「面接で、事前に見抜く方があれば良いんだけどね。イマイチな人を雇うことのマイナスは大きいからね。」

 

*****

 

採用失敗の本質は「ミスマッチ」にあり、さらに言えば「面接からパフォーマンスを予測する」のが難しいことにある。

 

だが、方法がないわけではない。

Googleは「最高の人材だけを雇う」と宣言しており、人材の質が高いことには定評があるが、その人事トップが著した「ワーク・ルールズ」にはGoogleの面接についての方針が詳細に書いてある。

1998年、フランク・シュミットとジョン・ハンターは、面接時の評価から職務能力をどこまで予測できるかという85年にわたる研究をメタ分析し、その結果を発表した。

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この研究によれば、ある人の職務能力を予測するために役立つ指標は次の3つだ。

これらの質問は、面接官が適当に聞く質問の倍の精度で、その応募者の能力を判定できると推定されている。

 

1.ワークサンプルテスト

……業務の一部を切り出して、実際にやらせてみる(コーディングなど)

2.一般認識能力テスト

……「正誤判定」が明確にできるテスト(知能テストなど)

3.構造的面接

……回答の質を評価する明確な基準を備えた一連の質問に答える面接

 

要するに「仕事をやらせてみる」ことと「筆記テスト」が最も能力の予測に対して有益な情報を提供してくれる、ということになる。

「テストできても仕事はできない」ということはなく、「テストの成績が良い人は、仕事もできる可能性が高い」のである。

 

上の2つはすでに専攻に取り入れている会社も多いだろう。

だが、この中で馴染みが薄いのが3.の構造的面接だ。

「構造的面接」とは

◯行動面接

〜した時のことを話してください。(実績に基づく質問)

◯状況面接

もし〜のような状況となったら、どのような行動を取りますか?(ケーススタディ)

の2種類の質問からなる面接だ。

これの特徴は、「思います」や「感じました」ではなく、「どう行動した(する)」という基準に基づいて成される面接だということだ。

 

「ワーク・ルールズ」では、アメリカ復員軍人援護局のサイトが参考とされているが、「構造的面接」は、Performance Based Interviewing(PBI)、つまりパフォーマンスに基づいたインタビュー、という名前で紹介されている。

パフォーマンスに基づいたインタビュー、と言うのはなかなかわかりやすい。

採用は結局、厳密にパフォーマンスに基づくほうが合理的なのだろう。

 

一部の質問を翻訳してくれている方がいるので、例として「柔軟性と適応性」を参考に紹介する。

スタートアップの採用に役立つ「パフォーマンス・ベース・インタビュー」の質問の一部翻訳

柔軟性と適応性

1. ここ数年であなたが個人的にしなければならなかった仕事の変化を説明してください。当時、あなたはその変更をどのように感じましたか?変更を行うためにあなたは何をしましたか?あなたは今変化についてどのように感じていますか?

2.仕事で新たに学ぶ必要のあった最後の新しい手順について教えてください。新しい手順を学ぶのが一番難しかった点も具体的に教えてください。新しい手順を学ぶことで、あなたが一番気に入ったところを具体的に教えてください。新しい手順は現在どの程度うまく機能していますか?

3.あなたが他の人に変化してもらう責任を負った状況を説明してください。どのような役割を果たして、どんな行動をとったのですか?結果は何でしたか?もう一度やり直さなければならない場合は、何か違うことをしますか?

4.同じように扱うことができなかった2人の異なる従業員に対処しなければならなかったことについて教えてください。どのようにそれぞれ対処しましたか?あなたは何をやろうとしたのですか?各従業員へのあなたの介入はどれくらいうまくいったのですか?

この質問が優れているのは、応募者が実績をごまかしにくく、かつ質問者のレベルに依存せす、応募者の能力をある程度判定できる点だ。

それは、どの質問も

「ある状況下で、具体的に何をし、どんな結果になったか。今後はどのような予測ができるか」

を答えさせる質問になっているからだ。

そう考えると、「柔軟性と適応性」について、面接がヘタな企業で質問されているような、

 

・ウチの仕事はけっこう残業もありますけど……大丈夫ですか?

・嫌な仕事でも黙って続けられますか?

・当社のビジョンについて、共感したポイントをおしえてください。

・自分は柔軟な方だと思いますか?それとも頑固な方だと思いますか?

 

と言った質問にくらべ、能力の判定はより正確になるだろう。

 

 

 

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(Photo:Sean Davis

昔いた会社で、実際にあった話をします。

なにせ狭い業界で特定が容易なんで、細かいところはボカさせてください。

 

その会社には、主力製品の一つに、あるパッケージソフトがありました。

仮に、そのソフトの名前を「A太郎」とします。念のため断っておきますが、某ワープロソフトとは何の関係もありません。

 

その当時、そのソフトは顕著に売上を落とし始めていました。一時期は売上の内の結構な割合を占める程の売れ筋商品だったのですが、期を追うごとにどんどん販売数が減ったり、保守サービスが解約されたりし始めたのです。

 

当時の経営陣は元々システム畑の人たちで、システムのことは分かりますが、市場やマーケティングのことはよく分かりませんでした。

彼らは、主に営業チームを中心に、「売上低下の原因を探り、改善策を検討する」ことを至上命題として、検討チームを設置しました。

 

そのソフトがどんなソフトだったかというと。

具体的な言い方をすると一発で特定されてしまうので、ちょっとたとえで話させてください。

 

簡単に言うと、「秀term」とか「ハイパーターミナル」みたいな立ち位置(飽くまで立ち位置だけですが)のソフトだったのです。

皆さんパソコン通信って知ってますか?簡単にいうと、「横のつながりがないインターネット」みたいなものでして、各サーバに情報を取りにいって、掲示板を読んだり書き込んだりデータをアップロードしたりするんです。NIFTY-Serveとか東京BBSとか、懐かしいですよね。

 

そのパソコン通信をするには、上で挙げた「秀term」みたいな「パソコン通信用のターミナルエミュレーター」が非常に重要、というかほぼ必須でした。今でいうブラウザみたいなものだと思ってください。

 

パソコン通信は一時期非常に隆盛しまして、パソコン通信をやっている人たちは、殆ど例外なくこれらのソフトを使っていました。

A太郎も同じく、とある業界に属する、多くの法人・個人から重用されていました。

 

ところが、みなさんご存知の通り、インターネットが発展・普及するにしたがって、パソコン通信はどんどん下火になっていきましたよね。

当然、それに伴って、「パソコン通信用のソフト」というのも必要とされなくなっていきました。

ハイパーターミナルだって、だいぶ前にWindowsにバンドルされなくなりましたしね。Netscape NavigatorIEMozilla FirefoxSafariといったインターネットブラウザにとって代わられていったのです。

 

当時A太郎が使われていた業界でも、それに似たようなことが起きていました。

インターネット程ドラスティックな変化ではありませんでしたが、業界そのものの構造の変化と、それに伴う需要の変動が同時に発生しつつあり、必要とされるものも根本的に変わっていきました。

つまるところ、A太郎は既に「業界での役目を終えつつある」ソフトだったのです。

 

営業の担当者自身は、なにせ直接当該業界とのやり取りを行っていたので、そのことに薄々気付いていました。

そして、「いやもうこのソフト売れないですよ、しょうがないですよ」という話も上に挙げてはいたのですが、元々の至上命題が「売れない原因を追及して改善しろ」であって、つまりそれがなんであろうと「改善案」を出さないといけなかったのです。

その為、検討チームのメンバーも「このソフトはもう売れない、見捨てるべき」という結論を出すことは出来ませんでした。

 

彼らは、例えば顧客からの個別のアンケートや、自分たちがソフトを実際に利用することによるモニタリングといった、アナログな手法で「ソフトの問題、改善点」を探しました。

その結果、検討チームからは、今から考えれば恐ろしい程見当違いとしか思われない、様々な「改善案」というものが提案されてきました。

  

・保守サービスの拡充

UI上使いにくい部分の改善

・デザインの一新

・追加機能の開発

・広告宣伝の拡大

 

などなど。

お気づきと思いますが、これ「スマホが普及し始めた頃に、ポケベルに多額の開発費用をぶち込む」ようなものですからね。無駄金、無駄工数以外の何者でもありません。

 

こうなった原因は、多分複数あったと思います。

・経営陣がシステム畑の人たちであり、マーケティングや市場調査の重要性を軽視していたこと

・それに伴い、マーケティングに知識を持った人材が、経営陣に近いところに育っていなかったこと

・検討チームに経営陣が参加しておらず、権限が限定されていたこと

・それに伴い、例えば「当該ソフトのサポート自体の停止」のような、方向性を根本的に変える提案をすることが出来なかったこと

・検討チームの検討自体、「ソフトのどこかが悪い筈、悪いところはどこだろう」という前提に基づいた、客観的なデータに依拠しない検討だったこと

UIの改善のような、「システム屋にとって分かりやすい結論」に経営陣が飛びついてしまったこと

 

要は、会社自体が「データときちんと向き合わず、きちんとした分析を怠ったまま、「分かりやすい悪役」を探してしまった」んですよね。

この後、会社は「改善チーム」というものを設置して、そこに配属されることになった私も色々とエラい目に遭うんですが、まあ本題と逸れるのでそこは割愛します。

 

今から考えると「なんでそんなアホらしいことになるんだ」と思いますが、それは今だからこそ言えることで、当時下っ端だった私も、「UIやデザインが古臭いから売れなくなった」とだけ言われれば「ほー、そうなんや」としか思いませんでした。

後から考えれば明白に思える結論でも、実際その場にいると案外分かりにくかったりするんです。

 

経営陣からすると、分かりやすい結論が出てくることが大事。「取り敢えず何か対策をとった」「ともかく改善に向けて動いている」という事実に安心することが大事。

 

会社が本来すべきことは、きちんと裏付けのある材料を集めて業界の変動を認識し、その変動に応じて新たな形態の別のパッケージを開発することだったのですが、結局誰もその判断ができないまま、無駄な労力だけが費やされ、会社はずるずると業績を落としていってしまうことになった、という話なのです。現代のイソップ童話みたいなもんです。

 

これ、色んな業界の話聞いてると、多分そんなに珍しい話じゃないんですよね。似たようなケースって、結構日本のあちこちで見つかると思います。

 

ところで。

 

いきなり話は変わるんですが、先日、こんな記事を見かけました。 

「図書館で文庫本貸さないで」文芸春秋社長が訴え 「文庫は借りずに買ってください!」

「どうか文庫の貸し出しをやめてください」——文芸春秋の松井清人社長が、1013日の「全国図書館大会 東京大会」でこんな訴えを行うことが分かった。

図書館での文庫貸し出しが文庫市場の低迷に影響しているとし、読者に対しても「文庫は借りずに買ってください!」と訴える。

 私にはこれが、A太郎と同じケースに見えています。

 

勿論、きちんとしたデータがあって、「図書館の文庫貸し出しで毎年〇〇億の売り上げが失われている」という話が出来るのであれば、それはそれでこういう申し入れはされていいと思うんですよ。

そこは業界として当然やるべきことです。

 

ところが、例えば「確たるデータはないが、近年、文庫を積極的に貸し出す図書館が増えている」とか、「計量経済学的研究によると、図書館は出版物販売に負の影響は与えていないとの結果が出されている」といった記載を見ていると、データ的には「図書館の貸出で販売数が落ちる」という話は証明されていない、というかむしろ既に否定されているっぽいんですよね。なんでそれを無視するんだろう、と。

 

となれば、図書館に「文庫を貸さないで」というのは全く問題解決につながらない、ヘタをすると逆効果にすらなりかねないと思うんですが、どうもそういう話にはなっていない。図書館を悪者にする話、以前からちょこちょこ出てますよね。

 

つまりこれ、「データにきちんと向き合わない、分かりやすい悪役探し」という、まさにA太郎がハマったことと同じことをやってるようにみえるなあ、と。

「図書館で借りるだけ借りて本を買わない利用者」という、データには基づかないけれど分かりやすい悪者を設定して、それを責めることで何かやったような気になっているようにみえるなあ、と。

こういう無意味な悪役探しって、やったとしても誰一人、本当に誰一人幸せになれないと思うんですよ。

 

データは非情です。時には厳しい結論に直面することもあるかも知れませんし、より困難な道を選択しなくてはいけなくなることもあるかも知れません。

ただ、一人の本好き、出版業界にお世話になったこともある、かつ「悪役探し」でえらい目にあった経験があるものとしては、是非「悪役を探すこと」から離れて、別の可能性、方向性を模索して頂きたいなあ、と思った次第なのです。

 

長くなりましたが、今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Jeremy Noble

こんにちは。「コンサルポータル」主宰、AscentBusinessConsulting代表の北村です。

少し前に記事としても書きましたが、元外資系コンサルタントは今、企業から引っ張りだこです。

(参考:今、人材市場で「コンサルティングファーム出身者」が非常に優遇されている理由。

その理由は、単純に言えば「仕事のできる人が多い」の一言に尽きるでしょう。

外資系のコンサルタントの1時間あたりのチャージは最低でも数万円、ときに10万円を超えることもありますが、仕事をきちんと遂行してもらえれば、企業はお金を出すのです。

 

では、なぜ彼らは仕事ができるようになったのでしょう。

「もともといい人を採用しているのでは?」と言う方もいますが、新卒で就職する時点では、一般企業に入社する人と、外資系のコンサルティング会社に入社する人の能力にそれほど差はないでしょう。

たとえ差があっても、微々たるものです。

 

実は、真に差がつくのは、そのあとの3年間です。

外資系のコンサルティング会社の離職率は年間3割と高いですが、しかし、その3年間を耐え抜いた人は、かなりの実力を身につけることができます。

 

では、コンサルティング会社はどうやって人を鍛えているのか?

それは2種類です。

1.研修で事務処理能力を上げる

2.ケーススタディで実務能力を上げる

 

詳しく見ていきましょう。

 

研修で事務処理能力を上げる

コンサルティング会社は一般的に、研修が充実しています。

短期間である程度のスキルを網羅的に身につけるには、体系化された研修が最も効率が良いのです。

 

特に新卒でコンサルタントになった人は、非常に厳しい研修を受けることになります。

Office系ソフトの扱いから、ロジカル・シンキング、企画書や提案書の方法論、資料の作り方から、プレゼンテーションのやり方まで、少なくとも「優秀な事務員」として活躍できるように、徹底的に知識とスキルを詰め込まれます。

特に厳しいのは研修で出される宿題です。

とても業務時間内には終わらないほどの量の課題が次々と出されますが、それらを確実に遂行することが求められます。

 

「厳しすぎでは?」と思う方もいるかもしれませんが、今も昔も、必死に膨大な量の練習をこなすことが力量を高めることは真理です。

例えば「甲子園の常連」と言われる高校野球チームの監督は、ほぼ例外なく恐ろしい量の練習を選手に課しています。

【高校野球】伝統校・横浜高の変革 平田新監督が目指す「自主性を育てる野球」とは

1週間の流れを見ても、詰め込みすぎにはなっていない。

月曜は練習が休みで、火曜と水曜は通常練習、木曜はウェイトトレーニングの日で全体練習はない。金曜に再び通常練習を行い、土曜と日曜は練習試合。

特に投手陣は、月曜日以外の週2日をキャッチボールを含めたノースロー調整とし、高校野球の最大の弊害とも言われる“投げ込み過ぎ”をなくす取り組みをしている。

週6日間、毎日4時間以上も練習することが、「詰め込みすぎではない」というのは、もはや普通の感覚ではないでしょう。

 

実際、ある戦略系のコンサルティングファームでは、新人は入社して数ヶ月の間、エクセルの分析ツールを自然に使いこなせるように要求されます。

そこでは「手取り足取り」とか「その人のペースに合わせて」ということはまずなく、「宿題をやりなさい。できなかったらサヨウナラです。」というペースで研修が行われます。

実際、研修期間中にクビになってしまう人もいるほどです。

 

言うなれば「外資系のコンサルティング会社」は、ビジネス界の甲子園、オリンピックを目指す人々であり、「自分自身で厳しい人生を選択してきている人たち」なのです。

 

 

ケーススタディで実務能力を上げる

しかし、研修で教わることをパーフェクトに身に着けたとしても、せいぜい「優秀な事務員」の域を出ることはありません。

それらはあくまで基礎体力の一部であって、本質ではないのです。

実際、コンサルタントにはさらに「問題発見」「問題解決」「関係者の説得」などの高度な知識労働が求められ、現場にそれらを適用することが求められます。

 

そして、それらの能力は研修では身につきません。

それらの能力を高めるのは、実践です。

 

つまり「理論の知識としての習得 → 現場での適用 → フィードバック → 知識のアップデート → 現場での適用 → ……」

というサイクルが回らない限り

「頭でっかち」

「言うことは立派だけど、実践が伴わない」

「机上の空論」

という批判は免れません。

そのため、社内では定期的に現場での実践力を鍛えるための「ケーススタディ」が行われます。

そして、コンサルティングファームの「人を鍛える力」の源泉は、このケーススタディにあると言っても過言ではありません。

 

一般的に、ケーススタディはマネジャー以上の、「エース級」人材によって行われます。

また、ケーススタディにはテーマがあり、現実に近づけるため、できるだけ実際の案件が用いられ、また、出席者にはケースの予習が義務付けられます。

当日。コンサルタントの卵たちは一堂に会し、上司をお客さんに見立て「お客さんとのやり取り」を皆の前で披露します。

 

「ロールプレイだったら、ウチもやっているよ」という方もいるかもしれません。

確かに、一般的な事業会社でも、ケーススタディやロールプレイをやっているところは少なくありません。

しかし、コンサルティングファーム出身者たちは「ケーススタディは憂鬱だった」と口をそろえて言います。

実は、コンサルティングファームのケーススタディが他と異なるのは、その「厳しさ」に於いてです。

 

というのも、ケーススタディの事例は殆どが「現場での窮地」をベースにしているのです。

つまり、「お客さんからメチャクチャ詰められている」のがこのケーススタディのデフォルトです。

 

・「お客さんがきちんと頼んだことをやってくれないのに、こちらに責任を押し付けてきている時」のケース。

・「昨日決まったことが、社長の一言でひっくり返ってしまった時」のケース

・「お客さんが法律違反をしていることを見つけてしまった時」のケース

・「顧客側の内部対立に巻き込まれてしまった時」のケース

・「間違った施策をやめさせ、うまくプロジェクトを再起動させる時」のケース

 

など、あらゆるシーンにおいて「窮地」を克服するための知恵と実践的方法を、コンサルタントたちは叩き込まれます。

 

 

このように「事務処理能力」と「問題処理の実践能力」の2つを身につけ、ようやくコンサルタントは一人前とみなされます。

「仕事でここまでやるのは厳しすぎでは?」

「メチャクチャ働かせるのは、時代に逆行していないか?」

という批判もあるかもしれません。

 

しかし、コンサルタントを目指す人は、その会社に「自分で選択」して来ているのです。

それこそ、「働くな」なんて、余計なお世話以外の何物でもありません。

 

むしろ、外資系コンサルティング会社は非常に人に優しいです。

なぜかといえば、お客さんに行く前に、徹底的に「窮地」を脱する練習を積ませてくれるのです。それこそ、お客さんの前に行ったときに

「思ったよりお客さんは優しいし、仕事って意外に簡単じゃない」と思えるくらいに。

彼らはまた、2,3年やって芽がでなければ、「諦めたほうがいいよ」とはっきりと言ってくれます。

 

大人のほんとうの意味での「優しさ」ってそういうものじゃないでしょうか。

 

 

 

*鍛えられた経験を持つ人はコンサルポータル


コワーキングスペース「Basis Point」サービスサイト

コンサルポータル

Ascent Business Consulting 株式会社コーポレートサイト

 

(Photo:Jonathan Mueller)

肥満は伝染するという話をご存知だろうか?

これは2007年にハーバード大学のニコラス・A・クリスタキス教授らが発表した研究結果なのだけど、太った友達が身近にいると、24年以内に自分自身も肥満になる確率が最大で171%も増加するのだという。

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この肥満の伝染だが、一般的には肥満体質の人と親しければ親しいほど伝染しやすいようで、同性の友人、兄弟・姉妹が特に影響力が強いという。

 

この原因としてニコラス教授は「恐らく近くにいる事で食生活などが知らず知らずのうちに影響を受け、似通っていく事が元となっているのだろう」と述べている。

言われてみれば確かにという気がするが、改めて指摘されると感慨深い現象であるといえよう。

 

僕がこの研究結果を知って一番初めに思ったのは「果たして人間の意志はどこまで自由なのだろうか」という事だった。

普段、私達は好きなものを選んで好きな量を食べていると思っているかもしれないけど、ニコラス教授の研究結果をみるに、事はそう甘くないのではないかと思ったのである。

 

麻薬依存症ですら環境次第で抜け出せる

「自分の意思は自分の力でコントロールできるものだのだろうか」

この疑問はある報告書を読む事で、更に深まる事となった。

 

かつてアメリカとベトナムとの間で激しい戦争があった。

このベトナム戦争時、アメリカ兵の約50%が戦争の辛さから逃れるために麻薬を使用していたといい、うち20%の兵士は深刻な麻薬依存症に侵されていたという。

 

さてここであなたに質問をしよう。ベトナム戦争が終結した後、アメリカ本国に戻った退役軍人のうち、何%の人が帰国後も麻薬を使用していたと思うだろうか?

答えはなんと1%以下である。ちなみにこれは、アメリカ人の平均的な麻薬の使用率とほぼ同様であるという。

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僕はこの報告書を読んでおったまげた。かつて「麻薬を一回でも使ったら廃人になる」というキャッチフレーズを何度も何度も聞かされていただけに、「こ・・・こんな事があっていいのだろうか」とそれこそ膝から崩れ落ちるぐらいの衝撃を受けたといっても過言ではない。

その後、上の2つ以外にも様々な研究結果を読んだけど、どれもこれも言っていた事は全て同じような事であった。

 

結局、人間は環境の奴隷なのだ。意思とか気合とかではどうにでもならないものが私達を動かしているのである。

 

自分を変えるためにはどうすればいいか

肥満も麻薬依存症も環境次第なんだから、その他の事も環境さえ変えればかなり改善が見込めるだろう事は想像に難くない。

じゃあ実際問題、私達はどうすればいいのだろうか。

環境を変えるといったって、実際問題、環境なんて様々なファクターがあるし何を変えればいいのかなんてわからないだろう。

 

ここで1つ参考にある意見がある。元マッキンゼー日本支社・社長の大前研一さんによると、以下の3つの方法で人は変われるという。

---------------------------------------------------------

人間が変わる方法は3つしかない。

 

1番目は時間配分を変える。

2番目は住む場所を変える。

3番目は付き合う人を変える。

 

この3つの要素でしか人間は変わらない。

最も無意味なのは「決意を新たにする」ことだ。

---------------------------------------------------------

 

これは実に含蓄深い指摘だ。上のネットワーク理論と合わせて考えても、最も合理性のある言葉だろう。

 

例えば1番目の時間配分だけど、例えばあなたが退社して、毎日30分だけ会社近くの喫茶店によって勉強する習慣を導入したとしよう。

これを継続したら、たぶんあなたは凄く成長できる。

 

もちろん数日単位では何も変化は起きないだろう。けど、これが1ヶ月、1年と続いたとしたらどうだろうか。

一ヶ月なら10時間、1年なら120時間もの勉強時間を捻出できる。

120時間もの時間を勉強に当てる事ができらた、下手したら100冊近くの本は読めるはずだ。

 

2つ目の住む場所というのも非常に強い環境因子だろう。

例えば、あなたが学校や会社の近所の家に住めば、睡眠時間を今よりも遥かに増やす事ができるだろう。

睡眠は最高の万能薬だ。きっと体調はすこぶる良くなるだろう。

 

これの逆の事をして生活を改善する事もできる。

僕の知り合いに、電車の始発駅近所に住んでいる奴がいるのだけど、彼は毎日通勤電車の中で座って往復で2時間近く本を読むのだという。

この習慣を導入した事で、彼はこの5年間で見違えるほどの成長を遂げる事に成長した。これも住む場所を変える事で成功した一事例だ。

 

3番目は付き合う人を変えるも秀逸だ。例えばあなたがもしモテたいのなら、非モテ連中と「なんで私達はモテないんだ」と傷を舐め合うよりも、モテまくってる人となんとかして友達になって、その習慣を自分の身体に叩き込んでしまうのが一番だろう。

 

ネットワーク理論も立証している通り、結局人間は環境の奴隷なのだ。

モテている奴のマネをすれば、あなたも必然的にモテるようになる。無駄なこだわりや自我、プライドを捨て去ってマネに徹すれば、あなたも必ずといっていいほどモテるようになる。これはもう、間違いない。

 

ちなみに僕は仕事ができるようになる為にこの理論を導入した。

これは学生時代にコンサル会社勤務の方から聞いた話なのだけど、人の能力値はその人の所属する組織の平均値とほぼ等しいのだという。

もちろん中には仕事が凄く出来る人もいるし全然できない人もいるけども、全体を総じてみると結局のところ、全体の平均値と組織人の仕事能力はほぼ比例してしまうそうなのだ。

 

ということはである。逆説的にだけど、そこの組織でなんとか食らいついていく事さえできれば、その職場の平均的な存在ぐらいにはなれるんじゃないかと思ったのである。

 

で、気になる結果だけど、確かに自分の仕事能力は所属する組織の平均とほぼ比例しているなと感じている。

自分はそこまで物凄く自己研鑽をしているわけではないけども、何故か結果的に組織の中の平均値ぐらいには成長できている。

 

さしたる特殊な訓練もせずに組織の平均的な存在に達する事ができたのは、所属する組織の空気が最大の要因だろう。

人は職場に通って空気を吸いさえすれば、1人であーだこーだやってるよりも遥かに成長できるのだ。

影響力って、凄いと思いませんか?

 

このように環境次第で人はこんなにも変われるのだ。あなたも是非、自分によい環境を選択して欲しい。

大前研一先生もおっしゃってるではないか。決意をあらたにしても何も変われないのだ。そんな無駄な事をするぐらいなら、ぱっと所属する場所を変えてしまえばいいのである。

 

時間と場所と付き合う人を変えるだけで人は変われる。人が真の意味で自由に選べる場所は、そこしかないのである。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:jev55)

バカ、と人を罵倒するのは行為として褒められたことではない。

だが、残念ながら現実に「バカ」が存在することに異論のある方はいないだろう。

 

しかし、この「バカ」という存在。

一体どのような存在なのだろうか。バカとは何なのだろうか。

 

東京大学の名誉教授、解剖学者の養老孟司氏は、著書「バカの壁」の冒頭で、こんな話を引き合いに出している。

「話せばわかる」は大嘘

「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。

イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。

薬学部というのは、女子が六割強と、女子の方が多い。そういう場で、この番組の感想を学生に求めた結果が、非常に面白かった。男子学生と女子学生とで、はっきりと異なる反応が出たのです。

ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。

これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですから、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差は無い。だとしたら、どこからこの違いが生じるのか。

その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。

つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。

このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手さを示しています。同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て「新しい発見をした」と言う。明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって「そんなの知ってましたよ」と言っているだけなのです。

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 養老孟司氏は、この後に

「知りたくないことに耳を貸さない人間に話が通じないということは、日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります」

と続け、「バカ」の本質を暴いている。

 

そして、これに極めて近い話が、心理学で言う「確証バイアス」である。

ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン氏は著書の中で「確証バイアス」についてこう述べている。

連想記憶の働きは、一般的な「確証バイアス(confirmationbias)」を助長する。

サムが親切だと思っている人は、「サムって親切?」と訊かれればサムに親切にしてもらった例をあれこれと思い出すが、「サムっていじわるだよね?」と訊かれたときはあまり思い浮かばない。

自分の信念を肯定する証拠を意図的に探すことを確証方略と呼び、システム2はじつはこのやり方で仮説を検証する。

「仮説は反証により検証せよ」と科学哲学者が教えているにもかかわらず、多くの人は、自分の信念と一致しそうなデータばかり探す──いや、科学者だってひんぱんにそうしている。

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ここには重大なことが述べられている。

つまり人は一般的に「自分の信念を肯定する証拠を意図的に探す」傾向があるということだ。

 

そして、その活動は裏を返せば人は「信念を否定される」「反証を出される」と、情報を意識的、無意識的によらず、シャットアウトするということでもある。

この「情報シャットアウト」の正体こそが、「バカ」の本質だ。

 

バカは思い込む。

バカは正しさを検証しない。

バカは固執し、他の可能性を探らない。

バカは結論に飛びつく。

バカは偏見を持つ。

 

……ということは、もう一つ重要な事実が明らかになる。

それは、人は誰でもバカになりうる、という事実だ。

 

個人のバイアスの強い領域では、普段よほど知的に振る舞う人物ですら、バカになってしまうことがよくある。

 

例えば、

「普段はいい人なのに、サッカーの勝敗の話になるとなんであの人、あんなムキになるのかしら……。」

「あんな仕事のできる社長が、悪い報告をすると怒るんだよ。「お前らの気合が足りないから」って……。」

「あの学者、政治活動をするようになってから、劣化したよね……。客観的に判断できなくなっている。」

といった状況である。

 

また、上のような「いかにもバカっぽいこと」だけではなく、以下のような発言も(政治的には正しくとも)すべて「バカ」な発言である。

 

「戦争はいついかなる時も避けるべきである。これに例外はないし、議論の余地もない。」

「人権は、いつ、いかなるときも、なによりも尊重されるべきである。人権を尊重しないのは悪であり、許されることではない。」

 

発言者はそれを信じこんでいるかもしれないが、そうでない人もいる。

そして、反論を無視するのは「バカ」に他ならない。

 

したがって「バカな人」がいるのではない。人はだれでも時として「バカな状態」に陥るのである。

つまり、「バカ」とは特定の脳の働きが起きている「状態」のことを示す。

 

 

バカの正体を知ってしまえば、自分の思考を日頃から客観的に見つめる訓練を積み、「バカの状態」をできるだけ回避することもできる。

 

だが昨今では、インターネットが「バカの状態」を助長しているため、なかなか「自分がバカになっている」ことに気づきにくい。

 なぜならば、インターネットは調べれば、自分の望む情報がいくらでも出て来るからだ。

 

少し前、コンビニエンスストアに「水素水」が出回ったことがあった。

もちろん、体に良い、という触れ込みだ。しかし、果たしてこれは真実なのか。

 

国民生活センターの「水素水」についての調査を引用すれば次のようになる。

  • 水素水には公的な定義等がなく溶存水素濃度も様々です。また、特定保健用食品(トクホ)や機能性表示食品として許可、届出されたものは、現在のところありません。
  • 容器入り水素水のパッケージに表示されている溶存水素濃度に、充填時や出荷時とある場合は、飲用する時の濃度とは限りません。また、水素水生成器も水質や水量等により変わる旨の表示があり、必ずしも表示どおりの濃度になるわけではありません。
  • 水に溶けている水素ガス(水素分子)は、容器の開封後や水素水生成器で作った後の時間経過により徐々に抜けていきます。

(http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20161215_2.html)

前述のサイトには、実名で細かい調査結果も記載されており、細かく水素水の質について検証ができるよう、情報提供がされている。

 

だが、「水素水が体に良い」と信じて飲んでいる人は、おそらくこのサイトを見ることはない。

彼らが見ているのは、「水素水がいかに体に良いか」を証明するような情報が掲載されているサイトだろう。

 

ある主張と、それに対する反証をきちんと比較し「この情報が正しい蓋然性が高い」と判断するのは、面倒だし、自分の信念に反するからだ。

 

インターネットは「同じ主張を持つ人々」が固まりやすい。

「インターネットはバカを生み出す」は、真実を含んでいる。

 

*****

 

とはいえ、人間の認識には限界があり、どこまでいっても主観からは逃れられない。

どこまで行っても、正しさについての100%の証明は不可能で、客観性を標榜することそのものが、疑わしい行為である。

 

だから「バカ」は世の中からなくならない。

原理的になくすことができない。

 

したがって、我々にできるのは「バカ」を受け入れることである。

もっと言えば、「真実の追求」ではなく「バカが居る現実の受け入れ」が、世渡りで最も重要なことの一つでもある。

 

例えば「バカとハサミは使いよう」という言葉がある。

前述したように、 バカには迷いがない。 

バカの極みは狂信者であるが、狂信者のエネルギーは、凄まじいものがあり、時に自分の命すら顧みないのである。

 

また、起業するときはバカになる方が良い、というアドバイスをする人もいる。

バカな状態は、エネルギーの源泉であり、情熱の発露だというのだ。

 

すなわち、バカとうまく付き合う、ということは

「思い込み」

をポジティブに利用できるかどうかにかかっている。

バカは正義を生み出す一方で、偏見を生み出す、諸刃の剣である。

このことを忘れない限りは、「バカ」もまた、社会に必要な要素なのだ。

 

 

 

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(Photo:Dean Lin

昔教えていた時のことを思い出して、懐かしかったので書いてみます。

当たり前の人には当たり前のことかも知れませんがご容赦ください。

 

確かめ算ってありますよね。13 + 15 = 28で、計算が合っているかどうか確認する為に28 - 15をやって13になるか確認する、みたいなヤツ。

 

4の長男がちょこちょこ塾のテストなど受けるようになりまして、成績が良い子の名前が壁に張り出されるらしいんです。

で、「ぼくもあれに載りたい!!」と何やら張り切っています。小4からそこまで張り切らんでも、とも思いますが、まあモチベーションがあるのは良いことだと思います。

 

塾の算数を全くやっていないところから始めたので、当初は結構てこずったんですが、最近ちょっとずつ色々わかるようになってきているようで、横で見ていても頑張ってるなーと思います。

まあ、相変わらず問題が難しい時に投げやりになったり、手がつかなくってゲームしちゃったりすることはあるんですが。小学男子なんてそんなもんです。

 

ただ、長男のテストを見てみると、ケアレスミスというか、基本的な考え方は合っているのに計算を間違えていてよく分からないことになっている、みたいな問題がだいぶ多いんですね。

 

当たり前ですが、人間はミスをするものです。大人でもミスはしますが、子どものミスり具合は大人のそれを圧倒して多いです。

なので、「テストの点数をどう上げるか」という話をする時、塾の先生はまず「ミスをどうやって少なくするか」から考え始めます。分かってるところを確実にとる、の精神です。

 

 

そこで長男に、「問題解いた後、確かめ算ってやってる?」と聞いてみたら、「あんまりやってない…」という言葉が返ってきました。

もう少しヒアリングしてみると、どうも「確かめ算自体は知ってるんだけど、計算が複雑な時、どう確かめ算をすればいいかよく分からない」らしいんですね。

 

これってつまり、確かめ算について「ひっくり返して計算する」みたいな表面的な認識しかしてない、ってことだなーと気づきました。

理屈が分かっていれば、一つ一つ計算をなぞるだけなので。

 

 以前も書きましたが、しんざきは昔補習塾で数年間アルバイトをしていたことがありまして、学校の勉強が出来ない子に国語を教えたり算数を教えたりしていました。

確かめ算って、得点を上げる効率っていう意味では算数の勉強の中でもトップクラスでして、ちゃんと教えると15点とか20点とか余裕で上がったりするんで、結構親御さんにも喜ばれてたんです。

 

私教職免許もってないんであまり詳しく知らないんですが、どうも確かめ算の教え方って学校でも先生によってまちまちらしくって、塾でバイトをしていた頃も「そもそも確かめ算の仕組みが分からない」とか「確かめ算って何の為にやるのかよく分からない」という子が結構いました。

  

そこで、塾で教えていた頃のやり方で長男に確かめ算の理屈とやり方を教えてみたら、結構するする頭に入った様子なので、備忘録も兼ねて書き残してみることにしました。

長女次女にもその内必要になるかも知れないので。

 

教える時は、教える順番をステップして、つまづいたらそのステップを丁寧に掘り下げる、という感じでやります。以下、教えるステップです。

 

1.「計算の式で「〇 + × = △」って書くよね?これ、イコールの左と右は同じ数字になるよ、って意味だよね」

前提知識となる、イコールの意味の確認。言わずもがな、というのは子どもに教える時には存在しない言葉です。

どんなに分かり切ったことだとしても、時間が許すのならちゃんと言葉にして説明するのが鉄則です。本当に意外なところで認識が抜けている子はたくさんいます。

  

2.「イコールの左と右に、それぞれ同じ数字を足しても、やっぱりイコールの左と右は同じだよね」

 意外と重要なステップです。

昔見た子の中に、「書いてある式は不変であって、そこに数字を足したり引いたりしちゃいけない」と思っている子が結構いました。

試しに「13 + 15 = 28」と「13 + 15 + 10 = 28 + 10」みたいな感じで書いてあげるとちゃんと納得してくれます。

  

3.「じゃあ、 「13 + 15 = 28」っていう式の左と右、両方から15を引くとどうなるかな」

 これも重要なステップ。これなしで、「+-にひっくり返して右辺に持ってくる」とかやるとかなりの確率で子どもにメダパニがかかります。

しかも、そう教えられてる子、どうも意外と多いっぽい。2を理解した上で3を説明するとあまりひっかかりません。

 結果的に、「13 + 15 - 15 = 28 -15」から、「13 = 28 - 15」「13 = 13」というのを自分で書かせられれば第一関門クリア。

ついでに掛け算割り算のパターンも出来るとなお良し。

 

 4.「さて、こんな式がありました。 「32 + 60 = 94」これで今と同じことをやってみよう」

 「なんの為にこんなことをするのか?」という、理屈を理解した上で意義を感じてもらうステップ。

実際に計算ミスを発見してもらいます。この時、生徒が実際に計算ミスをした式をもってこれるととても入りやすいです。

今回長男に教えた時は、上記よりだいぶ面倒な式でやりましたが、まあそれは気にせず。

 

 5.「「32 + 60 - 60 = 94 - 6032 = 34」あれ、変なことになっちゃったね。こういう風に変なことになっちゃったら、この計算が間違えてたってことが分かるので直します」

 事後処理ステップ。ここまでで「確かめ算」の確認自体は出来るのですが、この後色んなパターンで何回か反復します。

一回で身に着く子は滅多にいません。

確認時に、例えば角度計算の問題とか、面積の問題とか、あるいは項が増えた式とか、違う範囲の計算も提示してあげると応用範囲の広さを実感してもらいやすいです。

 

 

 基本のステップは以上なんですが、フォローとして以下のようなことを話します。 

・複雑な計算が必要な問題でも、後ろから一個一個順番にこの計算をしていけば、間違っているかどうかが分かる。それが出来るように、計算式はちゃんと途中経過も書かないといけない。というか途中経過を書くのはその為

・虫食い算(□ + (18 * 3) = 70 の中身を答えさせるような問題)もこのやり方で解ける、というかこのやり方そのまんま

・中学になったらもーーっと色んなところでこのテクニック使うから、今の内に確かめ算で練習しておくといい

 

 ここで「両辺に同じ式を追加する→結果的に式がひっくり返ったように見える」ということをちゃんと理解しておくと、中学に入って方程式勉強する時にめっちゃ楽、という副次効果もあります。

まあ勿論、実際に確かめ算をする時は確かめ算をするだけの時間を確保しなくてはいけないので、その辺は確かめ算自体の速度も含めて慣れるしかないんですが。

 

なんにせよ、

・分からない部分をヒアリング

・教える時はステップ化して、一つ一つ確認

 というのは、多分色んなところで応用できるやり方なので、備忘も兼ねて書き残してみました。引き続き、本人にやる気があるのであれば、教えられるところは教えてあげたいなーと思います。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Marco Nedermeijer


突然だがみなさんは副島隆彦さんをご存知だろうか。

彼は陰謀論者として名高い作家なのだけど、その彼がこのたび老人一年生 老いるとはどういうことか (幻冬舎新書) ”という本を上梓された。

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ぶっちゃけ本音をいうと、僕は彼が普段書いている本はそこまで好んで読まない。

けどこの老人一年生 老いるとはどういうことか (幻冬舎新書) ”は凄く良い。何がいいって、筆者の本音がキチンと全て書かれているからだ。

 

老いとは痛みを抱える事である。その辛さは経験者にしかわからない

はっきり言うけど、老人一年生 老いるとはどういうことかは、科学的に正確ではない記述も多々含まれている。

理系の教育的素養がそこまでない副島隆彦さんが自頭を働かせて分析した意見なのだから、まあ仕方がない事ではあるのだけど。

 

けどこの本は、それ以上に価値がある。

何故ならかつて健康で身体に不調を抱えていなかった副島さんが、年老いて体に痛みを抱えて得たフレッシュな感想が嘘偽りなく書かれているからだ。

こんなにも正直な本は僕は今まで見たことがない。

 

この本によると、副島さんは、気管支炎、腰痛、頭痛、排尿時痛、痛風という5つの痛みを抱えているのだという。

何も痛みがない人からすれば常に身体が痛いという事がどういう事かなんて想像もつかないと思うけど、事実として痛みは凄く辛い。特に治らないタイプの痛みはヤバイ。

 

あなたが凄く運動したりして、翌日に筋肉痛を抱えたとしよう。この痛みは、辛いっちゃ辛いけど、治るからまだ良い痛みだ。筋肉も成長するし、体重も減るだろうし、まあポジティブな痛みといえるだろう。

けど、実は世の中にはこれとは違うネガティブな痛みがある。あるってもんじゃない。凄く沢山ある。

 

例えば腰痛なんかは凄いもんだ。若い頃にスポーツをやってた人の多くが腰痛を経験していると思うのだけど、この痛みは一度かかると全然抜けない。

僕が腰痛を抱えたのは大学2年生の頃だったのだけど、これは本当に治らないし下手するとこのせいで一日中動けなくなる。

 

「はぁ?腰が痛いから動けないとか甘えでしょ?」

そう思う人もいるかもしれない。僕も前はそう思っていた。けど、これはマジなのだ。

腰が痛いと、人は本当に動けない。根性じゃなくて、身体的に無理なのである。

 

腰痛は一度抱えるとなおらない。一生、付き合っていかなくてはいけない。

日によって痛みが変動する最悪の負債は、一度体験しないと絶対に理解できない。僕もこれを抱えるまでは全く理解できなかったし、正直な事をいうと、腰が痛いとか甘えだと思っていた。

けど腰痛持ちになった今だからいえるけど、腰痛は本当に辛い。スピーディに身体を動かすだなんて、本当に出来なくなる。これは甘えじゃなくて、身体的に無理になるのだ。こんな苦しみが人生にあるだなんて思わなかった。

若さとはなんと素晴らしい事よ……

 

若くて恵まれた医者には、年老いた患者の気持ちなんてわかるはずがない

こんなことを言うと凄くいやらしいのだけど、医者は基本的には社会的に恵まれた人達が多い。幼い頃から何不自由なく育った人が凄く多い。

僕自身はたまたま不幸な育ちをしたからこそより一層わかってしまうのだけど、医学生は全然苦労してない。

地獄のような底辺社会で生きた人間と比べれば、その生育環境は天国みたいなものだ。

 

天国で生きてきた彼・彼女らは、地獄で生まれ育ち、痛みを抱えて生きる苦しみは全然理解できない。だってそんな痛みは経験したことがないのだ。そりゃそうだ。

人は経験した事でないと真の意味では理解できない。ナイフで切られた痛みはナイフで切られないとわからないし、虐められた心の苦しみは虐められた経験がないと理解できない。

 

底辺社会の苦しみは、その生育環境にある。

当然いいものなんて食べられないし、みんな修羅の国に生きてるのだから、当然他人なんかに優しくする余裕なんてない。

そういう環境で虐げられないと、本当の意味での身体・精神的な苦しみなんて理解出来ない。その癖、そういう環境にいた人をケアしなくてはいけない医者はそういう環境とは無縁だ。

そういう医者が、自分が体験したことのない苦しみを真の意味で理解して、真の意味でキチンと寄り添えると思うだろうか?

断言しよう。それは不可能なのだ。誰が悪いというわけではない。こればかりはもう、仕組み上仕方がないのだ。

 

繰り返しになるが、人は経験したことがない痛みを真の意味では理解できない。

腕が切断された事がない人間は、目の前で「痛いよ~痛いよ~」と言ってる人の気持は絶対にわからない。

親から毎日虐待を受け続けた事が無い人間には、罵詈雑言が止むまで無言で黙り続ける事の苦しみなんて絶対に理解できない。

 

老いもこの苦しみの範疇に入る。人の身体は消耗品だ。どんなに神様に愛された人間だって、絶対に老いからは逃れられない。

老いを経験したことがない若い医者が、老いた人を100%理解できるかっていうと、絶対にありえない。医者なんてそんなもんだ。

 

偉大な宗教家が苦行の元にうまれるのは、結局のところ苦行を通じて苦しみを理解できたからに他ならない。

人は、経験したことがない痛みは理解できない。こればっかりはもう仕方がない。

 

お気持ちが全力で書かれた本、老人一年生

繰り返しになるけど、老人一年生は科学的に間違った事がかなり書かれている。

どこがどう間違いかを指摘するのはここでは控えるけど、まあ色々と科学的には間違いが多い本ではある。

 

けど、その上で僕はこの本を読む事を全力でオススメする。だってそこには、純情な副島さんによる、真の痛みについての正直な気持ちが吐露され尽くしているからだ。

この素直な気持ちは、自分の経験上ならびに自分が付き合ってきた患者さんの意見とほぼ99%一致する。

自分自身が腰痛持ちであり、劣悪環境で育ち、様々な苦境に追い立てられた事からも全力を持ってこの本を推奨できる。この本に書かれているお気持ちは100%正しい。

年老いる前に、この本に触れられる事はすざまじい利点となるだろう。是非、読んで老いに対する予備知識を備えて欲しい。こんなスゴ本、そうそうでませんよ。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:如煙Halfcode)

最近、「信用経済」なる言葉をよく耳にする。

個人が株式会社のように株を発行できるVALU、個人の時間を売り買いできるタイムバンクなど、「ヒトに値段をつけてやり取りする」動きが活発になってきているからだ。

そういった新しい動きは、「信用経済の発展」によるものらしい。

 

わたしは経済のことに詳しくはないが、たしかにこういったサービスは「新しい風」なんだとは思う。

でもこの「信用経済」に、ちょっとばかし違和感を感じているのだ。

 

信用経済の発展が取り沙汰されているけど……

最近ではさまざまな新サービスがリリースされ、「信用をカネに換える時代」が到来しつつあるという。

たとえばタイムバンクでは、「この人の1秒にはこれだけの価値があるだろう」という信用のもと、時間の売買が行われる。いままでになかった試みだ。

 

こういった背景もあり、「一般人でも多くの信用を集めていればカネを手に入れられる環境になった」と言われるようになった。そしてそれが、「信用経済である」と。

信用経済とは貨幣経済が発展したかたちで、「信用」をもとに経済活動する仕組みのことを指す。

でもこれって、小切手や住宅ローンのように、信用をカネに換えていると言えるんだろうか?

 

VALUやタイムバンクでは多くの場合、すでに知名度のある有名人(インフルエンサー)が圧倒的に有利で、短期間で多額のカネを稼いでいた。

信用経済と言いつつ、結局のところ個人のブランド力の競争になっているのだ。

インフルエンサーが得をするばかりの新サービスの登場は、本当に「信用経済の発展」なんだろうか。

 

人気争いは「信用経済」なのか

わたしはとあるイタリアン料理屋の常連なんだが、そこはとにかく料理がおいしい。

だがアクセスが良くないし、料理が出てくるのに時間がかかる。それでもその店が好きだから、わたしはよく足を運ぶ。

 

最近注目されている「ヒトに値段をつける」新サービスは、とどのつまり、ユーザーの「その人が好きだからカネを使う」という気持ちの上に成り立っている。

イタリアン料理屋は数多くあるが、それでもわたしがいつも同じ店に行ってカネを使うのと似たような心理なんじゃないかと思う。

 

でもそれは、「信用」というよりもただの「ファン」だ。

タイムバンクやVALUの初期値がSNSのフォロワー数で決まることからも、「価値」の評価基準が、ネット上での人気度に依存していることがわかる。

だからこういった新サービスでは、顔と名前が売れているインフルエンサーが得をする。たいした知名度がない人間は、なかなかその恩恵には与れない。

 

だがそれはインフルエンサーが社会的に信用されているからではなく、多くの「カネを払いたい」と思うファンを抱えているからカネが集まるのである。

たとえば人間性が優れており、人望が厚く、社会的に成功している人でも、SNSのフォロワーがゼロであれば、「無価値」ということになってしまう。

それが、いま注目されている「信用経済」だ。

 

ここに違和感を感じないだろうか?

「人気争いが悪い」ということではない。

人気を得るのもひとつのスキルであり、そのスキルを生かしてカネを稼ぐのは至極当然のことだ。

 

ただ、知名度と人気度によってその人の価値(値段)が決まるのであれば、それは「信用」を基にしていると言えるのだろうか、と疑問なのだ。

「インフルエンサーだから人間として信用できる」わけでもなければ、「ネット上で影響力がないから信用に値しない」というわけではないはずだ。

インフルエンサーは、ファンを獲得するためにさまざまな工夫を行ってきただろう。そういう経緯、実績を指して「信用」と言っているのかもしれない。

 

それでも、ネットの影響力を「信用」と言うのは、ちょっと無理があると思う。

 

信用経済の勝者が「人気者」でいいのか

いままで「信用」というのは、年収や学歴、勤務先などの社会的要素が大きかった。給料や偏差値、従業員数などは数値化して、わかりやすく順序がつけられる。

こういった社会的信用は往々にして、努力して堅実に積み重ねていけば得られるものだ。

 

だが個人の人気争いになると、そうもいかない。

素晴らしい能力があってもそれをアピールできない人は埋没するし、実力がたいしてなくとも言葉巧みにファンを作っていけば、あっという間にカネを集められる。

 

そうすると声が大きく奇抜なことをする人が注目されるので、そういう人が有利になっていくだろう。

マジメで堅実にやってきた人の方が「信用」できそうなものだが、人気争いを前提とした「信用経済」とやらでは、そうとも限らない。たぶん、わたしはそこに最も違和感を感じているのだ。

 

「目立ったもの勝ち」の人気争いは「信用経済」なんだろうか、と。

これからもきっと、影響力や人気度をもとにヒトに値段をつけるサービスが生まれていくだろう。そこでは、人間的に信用できるかよりも、フォロワー数や発言力などの個人のブランド力が評価される。

それが「信用経済」と言うべきなのかどうか、そして「信用」とはなにを基準に測るべきなのか、これからは注目の議論となりそうだ。

 

わたしは「目立ったもの勝ち」の社会は、少なくとも「信用」とはかけ離れた姿だと思うのが、みなさんはいかがだろうか。

 

 

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

(Photo:Penn State

隣で仕事をしている人から、こんな相談があった。

「仕事で、どうも合わない人がいる」

「なぜ?」

「んー、なんと言ったらいいか……。何かを依頼すると、まず否定から入る。」

「具体的には?」

「例えば、セミナールームの席の配置を、表のとおりに変えておいてくれ、と依頼したとする。「わかりました」と素直にいえばいいのに、いつも彼は「この配置、使いにくくないですか?」と難癖をつけてくる。」

「よく捉えれば、改善案を一生懸命考えてくれるのでは?」

「いやいや、いらつくよ。「じゃ、どうすればいい?」と聞くと、「なんとなく使いにくいと思っただけです」って言って、肝心の改善案は出さないんだから。」

なんとなく厄介そうな案件である。

「他には?」

「議事録をお願いしたんだけど、「議事録なんて、誰も見ないですよ」と言うんだよ。わかった、じゃ本当にいらないかどうか、部長と課長に聞いてくれ、と言うと「ちょっと思っただけです」と逃げる。なんか、イライラするんだよね。彼と仕事するの。」

「あー、なるほど……。」

「で、ついにこの前、イラッと来て、ガツンと彼に言った。」

「なんて言ったの?」

「ここは会社だし、あなたは大人なんだから「感想」ではなく「案」を出せ。」

「そうしたら?」

「別に感想なんて言ってないです。「選択肢の一つを言っているだけです」ってさ。」

「ほう」

「小賢しいやつだ、と思うよな。」

 

確かに昔、そのような人物と出会った覚えが私にもある。彼らは概ね以下のような特徴を持っている。

・調べるのは得意

・依頼されると、素直に「はい」といえず、一言必ず難癖を言ってしまう

・責任者にはなろうとしない

・議論をかき回す

といった特徴を持つ。

 

それゆえ、彼の言う「感想ではなく、案を出せ」という言葉は、それなりに的を射ている。

噛み砕いて言えば

「感想は、好き嫌いという感情の判断を述べること。案はメリット・デメリットという論理の判断を述べること」

と言えるからだ。

そして、会社や仕事で、好き嫌いでしかものが言えない人は、上のエピソードのように疎まれる。

 

好き嫌いでものを判断してしまうことを、「感情ヒューリスティック」と言う。

心理学者のポール・スロビックは、好き嫌いによって判断が決まってしまう「感情ヒューリスティック(affectheuristic)」の存在を提唱している。

たとえば好みの党派だというだけで相手の主張に納得するのは、その一例である。

あなたが現政権の医療政策に満足していたら、この政策は便益が大きく、費用も他の政策に比べ割安だと判断するだろう。

他国に対して強硬姿勢に出る人は、おそらく、他国は自国より弱く、こちらの意志に従うと考えている。弱腰の人は、他国は自国より強く、そう簡単には譲歩しないだろうと考えている。

放射能で汚染された食品、赤身の肉、原子力、タトゥー、オートバイといったものに対するあなたの感情的な見方が、そのままこうしたもののメリットやリスクの判断につながる。

たとえば赤身の肉が嫌いな人は、「固いし栄養もない」などと言い張るだろう。

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何かを人に依頼された時、「依頼者が嫌い」とか「言い方が気に食わない」というだけで、その人の提唱する案はすべて意味がなさそうに見える、というのは感情ヒューリスティックである。

 

*****

 

「好き嫌い」は人間の根源に根ざしているゆえ、仕事においては感情をうまく扱わないと非常に厄介なことになる。

 

例えば、会社や仕事が大嫌いな人(あるいは大好きな人)の言うことは、意見にかなりのバイアスがかかっており、殆ど信用に値しない。

コンサルタントをしていたときは、このバイアスをどうやって判断するかは一つの重要な仕事だった。

 

そんな時、私は「あなたの好き嫌いに興味はありません」とはもちろん言えないので、「メリットとデメリットの両方を教えていただけますか?」と聴いていた。

メリットしか挙げられない、もしくはデメリットばかりを強調する人は、大抵は強いバイアスにとらわれているので、その意見は保留することが正しい態度である。

 

会社や仕事で何か意見をするときには、この「感情ヒューリスティクス(つまり好き嫌い)」には十分気をつけ、極力メリットとデメリットの両方について意見を言うことが作法だ。

例えば

「セミナールームの配置がスクール形式になっているのは、◯◯と言うメリットがあるので、今使われていると思いますけど、私はワーク形式が良いと思います。。この場合、デメリットは△△がありますけれど、□□というメリットがあります。いかがでしょうか?」

と言った具合だ。

 

周りの人に余裕があって優しいときは、あなたがワガママに好き嫌いを言っても、聞いてくれるだろう。

だが、結果的には徐々に疎まれ、無視されるようになる。

くれぐれも気をつけたほうが良い。

 

 

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(Photo:Joris Louwes

ここ数日、仕事もそこそこに『Bioshock Infinit』で遊んでいた。

舞台は1912年、謎の超技術で作られた空中都市「コロンビア」を冒険するアクションゲームだ。

面白いのは、この都市が極めてアメリカ的なスローガン(※自由、進歩、市場、etc)を掲げながら、実際には独裁者に支配された全体主義的な世界として描かれていることだ。

ここに、ゲーム制作陣のブラックユーモアを感じる。

 

「●●主義」とか「××思想」とか、政治哲学の用語なんて結局は〝建前〟にすぎない。時の支配者の都合にあわせて、どうにでも解釈を変えることができる。

アメリカ独立宣言で「すべての人は平等に創られている」と唱えながら、同時に黒人奴隷と白人至上主義を肯定する――。そんな矛盾だって、簡単にごまかすことができる。世界観設定を行った人の皮肉っぽい笑みが目に浮かぶようだ。

 

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なぜこんな話をするかといえば、インターネットを見ていると、しばしば、明らかに右翼的な価値観の持ち主なのに「自分は左翼だ」と称する人を見かけるからだ。

たとえば権威を重視し、個人の自由よりも社会の秩序を優先する。外敵の脅威に恐怖して、軍事力の強化を声高に叫ぶ。そんな人が、しばしば「左翼」を名乗っているのだ。

なんか、変じゃないか。

 

そういう人たちの書き込みをよく読むと、どうやら財政政策の拡大や社会福祉の充実に賛成している。この点を以て、自分は左翼だと考えているらしい。

やっぱり、なんか変だ。

 

そもそも私は「右翼/左翼」という括りそのものが時代遅れだと思っている。

なぜなら歴史の中で、この言葉はお互いを罵倒するためのレッテルとして使われすぎたからだ。

時代が変われば、政治の課題も変わり、具体的な政策も変わる。ある時代には「右翼的」だった政策が、別の時代には「左翼的」だと嘲笑された。積極財政と緊縮財政のどちらを支持するか──のような政策面では、政治的立場の左右を定義することはできない。

政治的な立場を示すなら、もっと使いやすい軸を使うべきだ。この話は、以前にもブログに書いた通りだ。

 

▼そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。

http://rootport.hateblo.jp/entry/20140216/1392564877

 

ところで最近、さる事情からチャールズ・ダーウィンの生涯について調べている。ご存知の通り、『種の起源』で現代的な進化論を確立した自然科学者だ。

で、その調査の副産物というか何というか、182030年代のイギリス政治がすこぶる面白いと分かった。1809年生まれのダーウィンにとって、思春期から青年期を過ごした時代にあたる。

 

現在でこそ偉大な科学者として名高いダーウィンだが、若いころは箸にも棒にもかからない──言葉を選ばずにいえば──デクノボウだった。

医者だった父親からは跡を継ぐことを期待されたが、外科手術が怖くて(※当時はまだ麻酔がなかった)医大をドロップアウト。将来とくにやりたいこともなかったので、田舎の牧師を目指すことにした。

牧師になれば、教会から給料を受け取りつつ、大好きな狩猟を楽しみながら暮らせると考えたからだ。彼は現代的な「モラトリアム大学生」を約200年前に先取りしていた。

ケンブリッジ大学で神学を学び、無事に卒業。

 

しかしダーウィンは、すぐには働きたくなかった。探検家フンボルトの手記に感化されて、自分探しの旅に出たいと考えた。もちろん親のカネで。端的に言ってクズである。

そんな彼のもとに、英国海軍の調査船ビーグル号で世界を一周しないかという誘いが舞い込んだ。文字通り、渡りに〝船〟というわけだ。

 

しかし、この旅がダーウィンを変えた。1831年から5年間の船旅を経て、彼は自然科学こそが自分の進むべき道だと決意。また英国の科学界からは、将来有望な研究者として認められるようになる。

ダーウィンにとって人生の転機になった時代。

それが1820年代末~1830年代初頭だ。

 

では、当時のイギリス政治がどうなっていたかというと、大荒れに荒れていた。イギリスは17世紀の清教徒革命と名誉革命を経て、いち早く立憲制・民主制に目覚めた国だ。しかし、それから約150年、さすがに制度が疲弊しきっていた。

とくに問題になっていたのは、「腐敗選挙区」の存在だ。

当時の選挙区は人口減少を反映しておらず、地域によっては10人未満の有権者によって議員が選出されてしまう状況になっていた。そういう選挙区では、当然ながら地元の有力者やその息子、親族、友人に議席が譲り渡されることになる。あまりにも特権的で代表性を欠いてるため、選挙制度を改革すべしという声が上がっていた。

 

また、国外に目を向ければ、ヨーロッパ諸国では政変の嵐が吹き荒れていた。18307月には隣国フランスで「七月革命」が起きた。

さらに8月にはブリュッセルで暴動が起き、ベルギーの独立革命に火が付いた。庶民の不満を無視すれば、いつ自分の国で革命が起きてもおかしくない――。そんな危機感がイギリスの上流階級にも広がっていた。

 

当時のイギリスは、トーリー党とホイッグ党が覇を競い合う二大政党制だった。

ざっくり説明すれば、トーリー党は保守右派。貴族階級の大地主を支持基盤にしており、国内農業を保護するような政策を取っていた。

宗教的には不寛容で、カトリック解放運動に反対していた。(※イギリスはプロテスタントの国であり、当時はカトリック教徒に対して様々な差別的な制約が課されていた。これを変えようとするのがカトリック解放運動だ)

 

一方のホイッグ党は、大まかにいえば革新左派だ。当時のイギリスは産業革命の渦中にあり、都市部では新興の資本家が力を伸ばしていた。ホイッグ党の支持基盤はそういう商工業者であり、自由市場や自由貿易を求めていた。宗教的には寛容で、カトリック解放運動にも賛成していた。

(※なお、当時のイギリスで選挙権を持っていたのは成人男子のごく一部だ。普通選挙が実施されるのは、ずっと後のことである)

 

そして「腐敗選挙区」である。

選挙制度の改革を巡って、トーリー党は内部分裂を起こした。何を隠そう、少なくないトーリー党議員が問題の腐敗選挙区から選出されていたのだ。

反面、ホイッグ党は一貫して制度改革に賛成し、183011月には政権交代に成功。さらに翌年4月の解散総選挙で大勝を収めた。

 

興味深いのは、ホイッグ党政権下での社会福祉削減だ。

宗教的な博愛精神から、イギリスでは古くから「救貧法」が施行されていた。老人や病人、親のない子供を施設で保護し、さらに収入の少ない世帯には手当を支給していた。

ところが、貧民救済のために実施されたこの政策は、思わぬ事態を招いた。

どれだけ賃金を切り下げても差額を政府が支給してくれるので、資本家たちは労働者に安い給料しか支払わなくなった。また、貧民たちは働いても働かなくても収入が変わらないため、勤労意欲が大きく削がれた。救貧制度を維持するための税金負担は瞬く間に膨れ上がった。

 

結果、税負担を強いられた都市部の資本家や中産階級――ホイッグ党の支持層――は、救貧法に反感を抱くようになった。

自分たちが商売でカネを稼いでいるのは、怠惰な貧民を食わせるためではない。そんな意識が芽生えたのだ。

1834年、ホイッグ党政権下で救貧法は改正された。イギリスの社会福祉は大幅に削減され、手当は廃止。貧困層は保護施設での強制労働か、道端で野垂れ死ぬかの二択を迫られるようになった。

 

19世紀のイギリス政治を見ると、個別の政策で「右派/左派」を定義することがいかに無意味か分かる。

たとえば自由貿易について、当時の保守右派であるトーリー党は反対しており、左派であるホイッグ党は賛成していた。

では、ひるがえって現代の日本ではどうだろう? 自由貿易協定であるTPPに賛成していたのは「右派」と呼ばれる人々であり、反対していたのは「左派」と呼ばれる人々だったはずだ。2世紀前とは立場が逆転している。

 

社会福祉についても同じことが言える。時計の針を200年ほど巻き戻せば、右派こそが社会福祉や貧者救済を訴え、左派こそがそれに反対していた。

これが逆転したのは、19世紀末~20世紀に社会主義勢力が台頭したからだ。マルクスを敬愛する人々は、保守的な「右派」に対して、急進的という点で「左派」だと見なされるようになった。

 

そう、「保守」の対義語は「リベラル」ではない。

「急進」とか「革新」のほうが、その対義語としてふさわしい。

保守とリベラルは対立概念ではない(なかった)のだ。

 

さらに20世紀の終わりが近づくと、「右派」と目される人々が新自由主義(ネオリベラリズム)を主張するようになった。

イギリスのマーガレット・サッチャー、アメリカのロナルド・レーガン、日本の小泉純一郎元首相――。いわゆる「小さな政府」を理想とする勢力だ。

こうして、緊縮財政や社会福祉の縮小を肯定するのが「右派」、否定するのが「左派」という図式が出現した。

 

◆ ◆ ◆

 

たとえば「私は右翼だ」という主張には、しばしば「あんなのは本来の右翼ではない、かつての右翼は……」と反論が寄せられる。

「右翼」の部分を、他のあらゆる政治哲学用語に置き換えても同じことが言える。言葉の「正しい定義」について、私たちは過去に答えを求めがちだ。

 

では思い切って、200年前――近代が始まったばかりの頃に戻ってみたらどうだろう?

今まで見てきたように、ある政治的立場を特徴づける政策が、まったく逆の立場から主張されていたりする。個々の政策から政治的立場の左右を決めようとするのはナンセンスだ。

社会福祉を重視するからといって、左派になるとは限らない。たとえば世界で初めての国民皆保険制度を実施したのは、ドイツの鉄血宰相ビスマルクだった。

 

これは私見だが、「右派/左派」というのは、個別の政策のような具体的で合理的なものから導かれるものではなく、何というか、もっと、こう……感情的なものではないだろうか。

たとえば自由よりも秩序のほうが〝何となく〟好ましく感じる、権利よりも義務のほうが〝何となく〟重要だと感じる――。

そんな素朴な感情を出発点に、その人の政治的立場は築かれているのではないか。心理学者キャスリン・コーソンの調査によれば、右派的傾向にはある程度の遺伝性があるという。政治的立場は脳波で分かるという研究もある。 

▼あなたがリベラルか保守かは、「気持ち悪い写真」に対する脳の反応でわかる(研究結果)

http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/30/maggots-reveal-liberal-or-conservative_n_6395006.html

モンタギュー教授によると、遺伝子が政治的な考え方に及ぼす影響は固定的なものではなく、ちょうど「身長の遺伝」と同じようなものだという。

つまり、「人の身長は遺伝によって決まるが、遺伝だけで決まるわけではない。人の最終的な身長は、栄養や睡眠、飢餓などで変わりうる。とはいえ、背の高い人の子供はやはり背が高い傾向があり、そこが出発点になると考えてもいいだろう」

 政治的な立場は、純粋に理性的で論理的なものではなく、生得的な影響を大きく受けた感情的なものだ――。そう考えたほうが、色々と腑に落ちることは多い。

 

たとえば政治的な議論が簡単に罵り合いに発展してしまうのは、それが感情的なものだからだ。政敵の間違いを(論理的に諭すのではなく)嘲笑してしまうのは、それが感情的なものだからだ。たぶん。

 

ともあれ、積極財政や社会福祉の拡充を支持しているからといって、「左翼」ということにはならない。歴史が示す通りだ。

権威を重視し、自由よりも秩序を、権利よりも義務を、変革よりも伝統を重んじる――。そういう人が、無理して「左翼」を名乗る必要はない。むしろ保守右派の本道に200年の時を経て戻ってきたのだと、胸を張ってはいかがだろうか。

 

 

【プロフィール】

著者名:Rootport

ブログ『デマこい!』を運営している匿名ブロガー。1985年東京都生まれ……という設定になっているが真偽のほどは判らない。

主な活動拠点は京都、東京。独自の視点から書かれるブログ記事が人気を集めている。『女騎士、経理になる。』でマンガ原作者デビュー。

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ブログ:デマこい!

 

(Photo:Mzximvs VdB

知人が「仕事がつまらないので、相談に乗って欲しい」と連絡をくれたことがある。

「もう10年以上も勤めているのに」と言うと、

「いい会社なんだけど、仕事がつまらなくなった」と答えた。

 

なるほど……と言いかけて質問した。

「仕事がつまらなくても、いい会社ってどんな会社?そんな会社ってあるの?」

「まあ確かに普通「いい会社」と「仕事がつまらない」と言うのは両立しないかな。」

「直感的には。」

「つまり、上から言われた仕事をこなしていれば、それなりに良い給料がもらえる会社を、とりあえず「いい会社」って言ってみただけだよ。」

「つまり「仕事が楽な会社」ってこと?」

「そういったほうが適切かな。」

 

*****

 

心理学者のミハイ・チクセントミハイによれば、仕事の楽しさを生み出す究極の没頭感、「フロー」は、下図のように、「挑戦」と「能力」のバランスがちょうどよい時に実現する。

(出典:フロー体験 喜びの現象学 世界思想社 P95)

能力に対して仕事の挑戦のレベルが高すぎれば、楽しいどころか「不安」で眠れぬ夜が続く。

逆に、能力に対して仕事のレベルが低すぎれは、そこは「退屈」があるばかりであり、勤務時間が早く終わるのを願うばかりの毎日となる。

 

つまり、最適なのは「自分の能力」と「挑戦の難しさ」が釣り合っている時だ。

 

冒頭で紹介した知人は、もう10年以上も同じ会社に勤めていた。

知人は真面目な人物で、入社後3年程度は会社に貢献すべく毎日仕事を一生懸命やっていた。それこそ脇目もふらず。

 

だが皮肉なことに、結果として早々に「彼の成長の結果」が「会社が提供できる仕事の難しさ」を超えてしまった。

それで知人は「仕事がつまらない」と認識したのだ。

 

一度仕事の楽しさを味わってしまうと、「楽に仕事ができること」「定時に帰れること」などは、必ずしも生活の充実を意味しない。

むしろ、忙しいほうが人生の充実につながりやすい。

 

前述したチクセントミハイ氏は、次のように指摘する。

事実、人は働いているときには、テレビを見ているときの約四倍のフロー体験ー深い注意集中、挑戦と能力の間の高度な調和、統制感と満足感を達成している。

(出典:フロー体験 喜びの現象学 世界思想社)

結局、仕事を通じた適切なチャレンジが、生活の質を著しく向上させる、という真実に気づくかどうかが、現代を生きる我々には非常に重要なのだ。

 

*****

 

「仕事がつまらなくても、趣味やプライベートが充実している人もいるよ」と彼に言う。

すると彼は「最近はプライベートも充実していない。」という。

「時間がない?」

「最近はほとんど定時で帰れる」

「いろいろなことにチャレンジすれば、また仕事が面白くなるのでは?」

すると、彼は言った。

「そうかも。だけど何にチャレンジすればいいのか……。よくわからない。」

 

チクセントミハイは「余暇が充実しないこと」について、こう述べている。

我々の時間に関する最も皮肉な逆説の一つは、なぜか楽しさに転換できない余暇が多いということである。

わずか数世代前に生活していた人々に比べて、我々ははるかに多くの楽しい時間を過ごす可能性を持っているが、現実に先祖より生活を楽しんでいるという兆候はない。

彼のような人物は少なくない。

では、一体なぜ時間があるはずなのに、プライベートが充実しないのだろう?

 

その理由で最も大きなものの一つが、彼が「挑戦スキル」を養ってこなかったことだ。

安寧に慣れすぎてしまったがために、彼は「自分にちょうどよい挑戦の機会を作り出す」というスキルが未熟な状態で年月を経てしまった。

このような状態になると

「何が楽しいと感じるか?」

「何に挑戦すべきか?」

「何が自分は得意なのか?」

といった重要な質問に自答する感性を失ってしまう。

 

そして、「挑戦スキル」の不足は仕事のみならずプライベートにも影響する。

 

一般的には我々には、「仕事の充実」と「プライベートの充実」は両立しない、という固定観念がある。

だが実際には「仕事の充実」を図れている人は、時間さえきちんと作れれば「プライベートの充実」をも実現している事が多い。

その原因は前述した「挑戦スキル」にある。

 

実際、「何かに挑むこと」は、高度なスキルだ。

適切にリスクを判断し、自分にあった機会を見つけなければならない。

また、計画的に自らの力量をあげるトレーニングを継続的に行い、自らの可能性を広げつづけなければならない。

 

仕事が人生の充実につながりやすいのは、適切な挑戦を会社がある程度与えてくれるからだ。

だが、プライベートにおいては挑戦を自ら用意しなければならない。だから、実はプライベートの充実は、仕事の充実よりも難しい。

仕事で挑戦スキル身につけることができた人が、プライベートも充実させやすいのはこのためである。

 

チクセントミハイ氏はまた、次のようにも述べる。

皮肉なことに、実際には仕事は自由時間より楽しみやすい。

フロー活動と同じく仕事には目標が組み込まれており、フィードバック、ルール、挑戦があり、それらのすべてが仕事に没入し、集中し、我を忘れるように仕向けるからである。

他方、自由時間は構造化されておらず、楽しめるように形作るためには遥かに多くの努力を要するからである。

 

*****

 

キャリアを考える意思決定において、よく「人生で何がしたいのか?」と問われる。

 

だが、この質問は適切とはいえない。

なぜならば、自分が何をしたいかわかっている人はキャリアで悩んだりはしないからだ。

逆に、何をしたいかわからない人には質問が抽象的すぎる。

 

この場合、「何がしたいか?」という質問よりも答えやすいのは

「これから伸びる可能性のある市場で、興味のもてそうなものはあるか?」

である。

 

仕事は、長期の大きな構想を描くよりも、むしろ「伸びる市場」をイメージするほうが、次の行動を決めやすい。

例えば

「電気自動車のことをもっと知りたい」

「web上で集客する仕事をしてみたい」

「VRソフトウェアがどのように開発されているかを知りたい」

といったものでも良い。

流行りものはこれから大きくなるマーケットにつながり、結果的に自らの市場価値を高めてくれることも数多くあるからだ。

大きくなりそうな成長マーケットで働くことほど、将来の安定につながることはない。

 

*****

 

人生を充実させるには、「自ら挑戦の内容を決める」ことを避けて通れない。

 

人生のできるだけ早いうちに、挑戦⇒フィードバック⇒力量向上⇒新しい挑戦のサイクルを確立し、「挑戦スキル」を確立すること。

そのために伸びそうな市場を相手にして仕事をすること。

 

さもなくば、仕事もプライベートも充実は望めない。

 

 

 

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・ブログが本になりました。

※おかげさまで、重版が決まりました。

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(Photo:Chris James

思うに彼は、自分の商品に対する愛情が余りに深過ぎたのではないか。

「この盾を貫ける武器は地上に存在しません、ただし唯一この矛を除いて…ああ違う」

 

彼は悩んだに違いない。「矛盾」を防ぐのは、実際のところ極めて容易だ。

商品の完璧性について、ただ一つだけの例外を設け、しかもそれを自分の利に帰さしめてしまえば良い。

 

つまり、自分の矛、盾のいずれかについて、もう一方だけを「勝てない対象」とすれば良いのだ。

ただそれだけで「矛盾」は霧消し、また商品についてのキャッチコピーも完成する。幼い子どもにもわかる論理に、海千山千の商人であった彼が気づかなかった筈がない。

 

 

この世でただ一つの盾以外すべてを貫くことの出来る、最強の矛。

あるいは、この世でただ一つの矛以外すべてを防ぐことの出来る、無敵の盾。

 

美しい謳い文句ではないか。かのMEN'S KNUCKLEのキャッチコピー担当でも、こうシンプルなコピーを思いつきはすまい。

せいぜい、「春秋五覇が俺にもっと輝けとささやいている」とかその程度のものだ。

 

矛と盾、どちらを優先するかは大した問題ではない。攻撃と防御、どちらを重視するかというだけの差に過ぎない。

一般的には、ゲームスピードが速くなれば速くなるほど攻撃有利であると言う。中段攻撃の性能にもよる。

 

 

「この矛が鋭いことといったら、この世に貫けぬものなどない程です、ただしただ一つ、この盾だけが…あああそんなんじゃダメだ」

ただ、商人には自他共に認める欠点が一つあった。彼は己の商品についてあまりにも妥協を知らず、ある意味では完璧主義に過ぎた。

商売をするにはナイーブ過ぎた、と言ってもいいだろう。

そのナイーブさは、商品についてのたかが一言のリップサービスにおいてすら、例外を認めることを許さなかったのだ。

 

商人には例外を認めることが出来なかった。

自らの商品を愛し信ずるあまり、実際の性能などとは何の関係もなく、双方について完璧な性能を謳うことしか許容出来なかった。

そして、そこに生じる不整合など知れ切っていた。謳えば謳う程、道行く幼児にすら笑い者にされるであろうということが、彼には最初から分かっていたのだ。

 

そして彼は、悲壮な覚悟を固め、分かり切った負け戦に挑む。 

「吾楯之堅、莫能陷也(私の盾はとても堅いので、貫くことが出来るものなどありません)」

「吾矛之利、於物無不陷也(私の矛はとても鋭いので、貫けぬものなどありません)」

 

こう往来で叫んで見せた時の彼の心境はいかばかりであったか。その目には涙すらにじんでいたかも知れない。

蒼く晴れた空は、その目から美しく見通すことが出来ただろうか。

悩んだ末にたどり着いた結論…分かり切った不整合をそのまま天下にさらけ出すことになろうとも、私は天下に「矛盾」を叫ぶ。

 

そして、いつの時代にも、不整合を見れば必ずそれを指摘しようというものがいるものだ。

彼はただ、己の識見を周囲に誇示しようとするだけの為に、言わずもがなの弱点を突く。言ってみれば古代中国におけるマウンター(どんな状況でもマウントをとりたがる人)である。

これを専門用語で春秋戦国マウンターと呼ぶ。

 

彼は芝居気たっぷりに矛と盾を指さし、シンプルに一言、こういう。

「以子之矛、陷子之楯何如(では、その矛でその盾を突いたらどうなるのか?)」

 

たとえ春秋戦国マウンターだったとしても、このシンプルさを見れば、彼の知能、彼の識見、彼の言語能力が高い水準に達していたことは否定し得ないだろう。

矛盾を突くのに百言を費やす必要はない。僅か10文字で足りる。ただし、その10文字を過不足なく仕上げるにはある種のテクニックを必要とする。

 

彼は、僅か10文字で、全く過不足なく「矛盾」を貫いて見せた。これ以上の追語は必要なく、これ以上の省語も必要ない。

これだけシェイプした言葉を、ほんの数瞬で構成して口から出して見せる辺り、彼が恐るべき言語学的センスを持っていることは否定のしようがない。

 

 

あるいは彼は、韓非その人であったのかも知れない。

 

言うまでもないことだが、今我々が「矛盾」の逸話を知ることが出来る理由は、韓非が儒家を批判する中でそのエピソードを用いたからだ。

となれば、高い言語能力を持ったその春秋戦国マウンターが、韓非自身であっても不思議なことはない。

 

韓非子を読めば、彼が大体の場合においてマウンターであったことはわかる。彼は、相手が儒家であろうが王であろうが、相手が誤っていると考えれば情け容赦なくマウントを取りまくる。

彼が現代に生きていれば、優秀なはてなモヒカン族になっていたであろうことは想像に難くない。

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となると、韓非が書き残している最後の一文も、若干ニュアンスが変わってくる。

「其人弗能應也(その商人は答えることが出来なかった)」

 

違う。そうではない。

商人は答えられなかったのではない。答えなかったのだ。

始めから分かり切っていた不整合を天下にさらけ出し、始めから分かり切っていた通り完敗した。ただの10文字で、見事に不整合を射貫かれ、彼の謡い文句は丁度鳥が射貫かれるように地に墜ちた。

 

予定調和としての敗北。その敗北にまみれた時、彼の心も汚辱にまみれていただろうか?

 

そうではなかった。

 

商人の顔は、「ゲゲゲの女房」クランクアップ後の向井理もかくやと言わんばかりに清々しかった。輝くようですらあった。やり切った漢の表情であった。

彼にとって重要なことはただ一点、天下往来で己の商品の無謬性を叫ぶことのみであり、それが出来た今、不整合も論理矛盾ももはやどうでもいいことだったのだ。

 

それを間近に見た韓非()は、訝しく思っただろうか。負け惜しみだと感じただろうか。あるいは、何かに気付いてハッとしただろうか?

いずれにせよ、その場で起きたことはただ一つ、天下往来で論理矛盾を晒した商人を前に、聴衆が白けて解散したことだけだ。

  

その後…。

  

やがて、不思議なことが起きた。暫くは野良犬が立ち止まることすらなかった商人の見本市が、嘘のようににぎわい始めたのだ。

誰もが、商人の売る矛と盾を求めていた。商人の見本市は連日連夜即完売、コミケの壁サークルであるかのような活況を呈し、徹夜組が韓軍や楚軍に取り締まられ、春秋ネットオークションにプレミア価格の転売屋まで現れる始末であった。

 

戸惑うばかりの商人に、一人の男(もしかするとこれも、韓非本人であったのかも知れない)が告げた。

今、あなたの矛と盾は、中華で一番有名な矛と盾になっているのですよ、と。

 

そう。彼の矛と盾は、中華どころか後々まで、あらゆる世界で名を馳せる、史上もっとも著名な矛と盾になったのだ。

他ならぬ、彼自身の論理が撃ち落とされた「矛盾」という逸話によって。「矛盾した矛」といえば、誰でも一発で「ああ、あの商人の矛か!!」と声を挙げる程の超絶知名度である。下手をするとエクスカリバーやグングニルより有名かも知れない。

 

その言葉を聞いた商人が喜んだかどうか。そこまでは我々には知れない。武具の性能を愛する彼にしてみれば、もしかすると不本意な売れ方だったかも知れない。

 

いずれにせよ我々は、このエピソードから一つの教訓を得ることが出来る。つまり、

「批判されることが分かっていても気にせず言い切れるヤツは、なんだかんだで強い」

ということである。

 

読者諸賢には、覚えておいて欲しい。あの姿を。蒼天の下、天下往来に対して「矛盾」を叫んだあの商人の姿を。

それは、いつかあなた自身がとるべき姿かも知れないからだ。

 

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:See-ming Lee

書店にある本は成功談が多い。

「こうしたら一億円儲かった」や「起業で成功する方法」といった自己啓発本が、棚の大部分を占めているのを思い浮かべてもらえば理解頂けるだろう。

しかし我々が本当に学ぶべき事は失敗談にある。

「こうしたら成功した」は再現性が非常に低いが、「こうしたら失敗した」は大体において何らの共通のルールがある。失敗にこそ宝の山が埋まっている。

 

実は数は少ないながらも失敗談はいくつか刊行されている。今回は良質な失敗談を三冊ほど読みどころと共に紹介していく事にしよう。

 

1.国家の罠

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筆者の佐藤優さんは外務省ロシア科・主任分析官という外務省の中でもとびきりの出世コースを歩んでいた方だ。

そのままいけば何らかの偉業を成し遂げ国のヒーローとなった可能性すらあったのだけど、国家による策略が働いた事により検察に逮捕され、英雄から一気に犯罪者となってしまった。

この本にはその顛末が書かれている。

 

昨日まで英雄だった人が、ある日から突然犯罪者にされてしまうのだから人生は本当にわからない。

本書で極めて象徴的なのが国策捜査という単語だ。本書によると、国は逮捕基準をいかようにでもいじくり、罪状なんて簡単に作りあげる事ができるのだという。

 

例えばあなただって、信号無視を一度や二度くらいはした事があるだろう。このように私達は普通に生きているだけで、ある程度は法律を破っている。

普通は信号無視なんてしても捕まらないけど、あなたがある日から国から目をつけられたら、その法律違反を理由に逮捕されてしまう可能性がある。

 

いままで低い位置にあった逮捕基準を、ぐんと上にあげてしまえば国は誰でも犯罪者として逮捕する事ができる。あなたがどんなに清廉潔白で優秀な人間であれ、国という暴力機関が本気になれば監獄にぶち込めるのだ。

 

こんな恐ろしい事を国ができるだなんて僕はこの本を読むまで全く知らなかった。

けどそういう視点でものを眺めてみると、私達は様々な国家でそれに近いことが横行していたのをみつける事ができる。いやはや、平和な時代に生まれて本当によかった。

 

作中で登場する検察官・西村さんは、国策調査について以下のように述べている。

「国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作りだして、それを断罪するのです」

人はどんなに自由に生きているつもりでも、歴史という大いなる流れには逆らえない。本書「国家の罠」は国という暴力機関に、個人が翻弄されるという貴重な体験を追従できる、稀有の本だ。文章も読みやすいし、オススメである。

 

2.私はこうして受付からCEOになった

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邦題をみると成功談?と思ってしまうけど、実際は完璧な敗戦記だ。原タイトルは「Tough choice」であり、どちらかというとこっちの方が本書を表すのには適切だと思う。

 

本書は著者であるカーリー・フィオリーナさんが役員議会の決議により、ヒューレット・パッカード社のCEOから解任される場面から始まる。

冒頭からいきなりクビにされる場面を提示している本なんて、僕はこれ以外には見たことがない。

 

その後はカーリーさんの幼少期から今に至るまでの人生の流れが自伝という形をとって紹介されている。そこでは企業という男性社会において、女性という異邦人が出世していくのにどのような苦労を乗り越えてゆかねばならないのかが書かれており読んでいて非常に学びが多い。

 

本書を読んで僕が学んだ事は「郷に入れば郷に従え」という事の重要性だ。

現在ではさして珍しくない女性のバリキャリという生き方だけど、この本が書かれた当時は非常に稀有な事例であったようで、本書にはカーリーさんの男性社会に入り込む為の気苦労がそこかしこに書かれている。

 

女性が男性社会に入り込むコツを一言で言うと、とにかく相手の文化に適合する事が肝心なのだという。

いったん、自分の事を「私はあなたの仲間です」と認識させる事に成功さえすれば、異邦人でもキチンと同等に扱ってもらえるというのだ。

 

僕はこの本以上に「郷に入れば郷に従え」の精神をわかりやすく説明している本をいまだに見たことがない。

「なんでわざわざ相手に迎合しなくちゃいけないんだ、そんなのこっちからごめんだ」と思う人もいるかもしれないけど、組織にキチンと適合するという事は誰にとっても非常に大切な事だ。

 

人は残念ながら1人では生きてはいけないし、1人では大きな事を成し遂げる事はできない。

あなたがどんなに優秀であっても、組織に所属する事無く偉業を成し遂げる事はほぼ不可能だといっていい。大義を成し遂げるにあたって、人は組織を利用しなくてはいけないのだ。本書でそのヒントを学んでいただければ幸いだ。

 

まあ、結局失敗で終わっていることからもわかる通り、カーリー・フィオリーナさんは最終的には組織に迎合しきれていなかったのだけど。果たしてどの段階で失敗してしまったのかを読み解くのも、本書を読むにあたっての興味深いポイントだといえるだろう。

 

3.都知事失格

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最後はタイムリーな本を紹介しよう。前都知事・舛添要一さんの敗戦記だ。

連日行われていた彼への大バッシングを知らない人はいないだろう。あの時、国民は冷静さを欠き、完全に熱狂の渦に巻き込まれていた。

あの時、舛添さんが何をどうやっても都知事を辞任する事は避けられなかっただろうけど、じゃあ実際問題何が悪かったのかについてキチンと指摘できる人はほとんどいないだろう。

 

本書を読み解くと、舛添さんが都知事として非常に熱心に仕事に取り組んでいた事がわかる。そんな舛添さんが、マスコミの手にかかると一気に完全な悪人として描かれてしまうのだから、マスメディアの力というのは本当に恐ろしいものだ。

私達は良くも悪くも情報を元に物事の両悪を判断する。マスメディアはその情報源としての大切な役割を担っているのだけど、時に私達を偏向した意見へと持っていってしまう。

 

この本を一言で言うと、わたし達・日本国民の失敗談だといえよう。あのときマスメディアに踊らされず、冷製な判断ができなかった事のツケがいつかきっと私達にふりかかる。

同じ過ちを二度と繰り返さないためにも、衆議院選挙が始まる前に是非とも読んで欲しい一冊だ。

 

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オススメ本は以上だ。どれもこれも、非常に学びに満ちた本である。読書の秋に、ぜひともあなたの本棚に加えて欲しい。

失敗から学べる事は本当に多い。恥を忍んで書かれたこれらの本を、読まないだなんてあまりにももったいない。一冊でも手に取っていただければ、幸いだ。

 

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:The Explorographer™)

「働きたくない」

「働かずに、自分が好きなことをして、楽しく生きていきたい」

僕も日々「めんどくさいなあ……」と思いながら仕事をしていることが多いので、その気持ちは理解できるのです。

 

でも、「働きたくない」と言う若者たちをネットでみていると、なんだかとてもモヤモヤするんですよね。

これは、「自分はこんなに働かされてきたのに、お前らだけ楽しく生きようなんて、ずるいよ」という嫉妬心なのだろうか。

 

先日、『北海タイムス物語』(増田俊也著/新潮社)という小説を読んだのです。

入った新聞社で、希望とは違う部署に配属されて仕事に身が入らなかった主人公が、あるきっかけでその部署の魅力に気づき、がんばって成長していく、という話です。

 

ありがちな「お仕事小説」のようだけれど、後半の主人公の「熱さ」に引き込まれます。

作中、先輩が彼にこんな言葉をかけてきます。

「仕事っていうのはな、恋愛と同じなんだ。おまえが好きだって思えば向こうも好きだって言ってくれる。おまえから抱きしめないかぎり、仕事の方もお前を見てくれないぞ」

[amazonjs asin="4103300736" locale="JP" tmpl="Small" title="北海タイムス物語"]

山田ズーニーさんの『「働きたくない」というあなたへ』(河出文庫)という本のなかには、こんな著者の体験が紹介されています。

私は、「やりたいことしかやりたくない」人間だった。

企業で教材の編集者をしていたので、「仕事で有名人に会えた」とか、「憧れの先生に取材できて、スッゴイ勉強になった」とか、友達に自慢していた。自分が成長できるかどうか、充実感があるかどうかが、仕事のモノサシだった。

「仕事とは何か」をはき違え、自己実現を求めていた。どんなに頑張っても突き抜けなかったのも、いまから思えば当然だ。

 

転機は、入社11年目。

新しい教材開発のため岡山から「東京に転勤」になった。そこで叩きこまれたのは、「読者の側から見て」ものづくりをすることだった。ここまでするかというくらい綿密な読者調査をする。教材を使った読者の反応も、自社が自社都合で検証するだけでは手ぬるいと、専門の調査会社に頼み、徹底的に読者目線で検証された。

容赦ない検証結果を突きつけられ、ぺしゃんこになった。それまで自分のつくった教材は、イケてると思ってきたけれど、読者の高校生から見れば、小難しい、とっつきにくい教材にすぎなかった。

「自分はどこを見て仕事していたんだろう。」

それから、高校生を理解するためなら何でもする! と腹が据わった。高校生が生まれた年から今までの社会背景を年表にした。寝る時間を削って高校生に会いに行き、教材に偏らない人生全般の話を聞いた。道行く高校生がいれば、カバンの中を見せてもらい、そこに高校生が好きだというCDがあれば、すぐさま自腹でCDを買いに行き、ライブにも行った。

生まれて初めて自分以外の人間を、自分が無くなるほど、想いに想い考えに考えた。

 

その秋、リニューアルした教材は、会議を一発で通り、試作品を作って読者の反応をテストしてきた営業が、息を弾ませてこう言った。「高校生たちが、この教材を見るなり、”こんなのが欲しかった!”と、身を乗り出した!」検証結果では、調査会社も驚くほど読者の活用率・満足度が跳ね上がっていた。

そのころ、海外に行った友達から電話がかかってきた。それまで私の、「仕事で憧れの先生に会えた」とかいう自慢を聞いてくれていた友達だった。でもそのとき、いまの仕事の状況を言おうとして、口をついて出てきたのは、

 

「読者がいた。読者がいることがわかった……」

それだけ言って涙が出てきて言葉につまった。まったく要領を得ないこの言葉に、なぜか友達も泣いていた。

 

仕事は「他者貢献」である。

[amazonjs asin="4309020003" locale="JP" tmpl="Small" title="「働きたくない」というあなたへ"] 

「働きたくない」というのは「わかる」んですよ、僕だって、そんなに働きたいわけでもないし、実際にここで紹介した人たちみたいに、身を削って働いてきたわけでもない。

もちろん、彼らだって、「そういう時期があった」ということであって、就職してからずっと、すべてをささげてきたわけでもないと思う。

 

ただ、仕事ほど、やり遂げたときに充実感を得られることは、人生にそんなに無いような気はします。

 最近のネットでの「働きたくない」をみていて感じるのは、「この人たちは、仕事がつまらない、興味が持てない、働きたくない」という前に、自分からその仕事を好きになるための工夫や努力をしたことがあるのだろうか、ということなのです。

 

僕は内視鏡検査があんまり得意じゃなかったのですが、以前、大腸ファイバーが上手い同僚に「下手だし、緊張するし、やらなくて済むのなら、あんまりやりたくないな」なんて話したことがあったのです。そして、どうやったら上手くなれるの?と尋ねたのです。

彼はこう答えてくれました。

「自分もそんなに得意でも好きでもなかったんだけど、自分であれこれ工夫しながら回を重ねていくうちに、これって、テレビゲームが上手くなるのと同じじゃないか、と思えてきたんだよね。

ある程度上手くなってこないとわからない面白さはあるし、誰かと比べるんじゃなくて、今までの自分より上手になればいいや、って」

 

仕事をつまらなくしているのは、自分自身にも原因があるのではないか、というのを、「向いていないから」「面白くないから」という理由で辞める前に考えてみたほうが良いと思うのです。

 

ほとんどの人は、本業がつまらないから、といいかげんにやり過ごして副業に精を出そうとしても、そこに残るのは、さらに興味が持てなくなった本業と、やっぱり面白くもなく、稼げもしない副業でしかない。

作家の森博嗣先生やライターのヨッピーさんのような才能や情熱がない人間は、本業をちゃんとするだけで精一杯のはず。

長い目でみれば、そのほうが稼げるし、人生を良いものにできる可能性が高い。

 

そもそも、これだけブラック企業が問題になっている御時世なのに、会社で普通に仕事をして、副業を頑張るなんて、「セルフブラック労働者への道」だとしか僕には思えないのです。

みんなが「働きたくない」時代だからこそ、きちんと働く人は、周囲に差をつけることもできる。

 

たしかに、世の中には、京大卒ニートのphaさんのように「組織に属して働くことが本当に向いていない人」って、いるのだと思います。

でも、大部分の人は、フリーランスより、社畜のほうが、まだ生きやすいのではなかろうか。

 

 僕は、流行りとか、周囲の「意識が高そうな人」の話に影響された人が、向いてもいない「はたらかない、自由な人生」を選択するのは、危ないと感じています。

自由って、やりがいはあるけれど、けっして、ラクな道ではありません。

 

僕は数カ月仕事をしていなかった時期があったのですが、「この人、なんでこんな時間にここにいるの?」って思われているような感じがして、つらかったんですよね。

今の世の中って、いろんな時間に、いろんな人がいろんなところにいるのが当たり前なんだな、と実感もできましたが。

 

前述の「『働きたくない』というあなたへ」のなかで、著者のこんな言葉が出てきます。

「選んだ先が、結果的に、すごくいいところだったとか、よくなかったとか、自分の選択が、あとあと、まちがっていたとか、いなかったとか、そんなことはどうでもいい。意志のある選択こそが、自分の人生を創っていくんだ」 

phaさんのように、自ら「はたらかない人生を切り開いている」人は、それで良いのです。

でも、「ネットで有名な人がそう言っているから」というのがきっかけであれば、よく考えてみることをおすすめします。

それは、本当に「あなた自身の選択」なのか?

 

本業で、試行錯誤しながら一生懸命仕事をすること以上の見返りがある副業って、ほとんど無いから。

本当に頑張っている人は、誰かが見てくれているものだから。

たとえ、誰もみてくれていなくても、自信につながるものだから。

 

 

 

【著者プロフィール】

著者;fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ;琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:MiniTar)

こんにちは。翔栄クリエイトの河口です。

弊社は「業績を向上させるオフィスづくり」を生業とする会社です。

さて最近、「他の人に気兼ねなく電話をしたいので、ワークスペースに電話ボックスを設置してほしい」という要望を頂く事があります。

「オフィスで電話をするのは当たり前」という感覚の人からすれば「えっ?」と思われるかもしれまんが、これが以外と多いのです。

 

一般的に、『人の話が聞こえるワークスペース』と『静かなワークスペース』のどちらが良いですか、と聞くと多くの人が『静かなワークスペース 』を選択する傾向にあります。

 

仕事が忙しい中、効率よく仕事をする為に静かな環境で集中したい。

でもそんな場所で声を出して電話をかけるのは周りの人に迷惑だ。そんな奥ゆかしい感覚を持っている人が、少なからずいるのです。

 

 

「静かなワークスペース」が生産性を高めるとは限らない

しかし、ちょっと待って下さい。「電話ボックス」が必要なくらい静まり返ったオフィスも悪くないですが、実は必ずしも「静かなワークスペース」が生産性を高めるとは限りません。

 

例えば「カフェは仕事に集中できる!」と感じる方は多いのではないでしょうか。カフェでは一度集中してしまうと、隣に座っていた人が知らない間に入れ替わっていたなんて事もあります。

でも、もちろんカフェは決して「静か」ではありません。

なぜカフェは集中できると感じるのか。

 

それは「カフェのざわつき」は集中力を上げる「暗騒音」だからです。

カフェが集中できると感じるのは、“カフェだからではなく、“BGMを含めた人々の声が混ざり合った一定音量の騒音が、あるからです。

参考:カフェでの勉強はなぜはかどる? ”カフェ勉” が集中力を高める3つの科学的理由。

この場合の”BGMを含めた人々の声が混ざり合った一定音量の騒音の事を『暗騒音(あんそうおん)』と言います。

 

逆に、閉店間際のカフェで、殆ど客が居ないし~んとした状況で、新たに来店した4人組が自分の隣の席で大きな声で話し始めたシーンを想像してください。

おそらく、その会話が気になって、全然集中できなくなるでしょう。

騒音とは、「気になってしまう」から騒音であって、気にならない音は騒音とは感じない。

 

暗騒音とは、対象としているもの以外の音の事です。

誰かと会話をしているなら相手の声以外の音、テレビを見ているならテレビの音以外の音が暗騒音という事になります。

 

仕事に集中しやすい環境というと、まず「静かな環境」を思い浮かべがちですが、カフェのように、一定の安定した暗騒音がある環境もまた、集中力を高める効果があるという事です。

逆に、弊店間際のカフェのようなし~んとした静かな環境(暗騒音が小さい環境)で聞こえる会話は、音が際立ち過ぎで、集中力の妨げになりやすいという事です。

 

この事から、社員数や業種・職種にもよますが、一般的に仕事に集中するのに適した音環境は

「徹底した静かなワークスペース 」もしくは「一定の安定した暗騒音があるワークスペース 」

のどちらかという事となります。

そして、とても良くないのが、その中間である『静かなワークスペース を目指した、時々会話が聞こえてくる中途半端な音環境』という事になるのです。

 

確かに集中力を高める為には「静かなワークスペース 」は適しています。

しかし「静かな状態の「維持」」がむずかしく、結果として『静かなワークスペース を目指した、時々会話が聞こえてくる中途半端な音環境』となってしまうオフィスが多いのです。

そのため「電話ボックスを設置してくれ」といった要望になるのでしょう。

 

「徹底した静かなワークスペース 」の弊害

では、「徹底した静かなワークスペース 」を追求すれば良い、という人もいるかもしれません。

 

ただ、社員視点で考えると、集中力の阻害要因となるワークスペース内の会話ですが、会社視点ではメリットもあります。

 

例えば以前、このような事がありました。

「当社は総務の電話応対が、淡々としていてあまり良くないんです・・・」と言っていた企業の総務の電話応対が、オフィス移転を機に格段に良くなったという事がありました。

 

何をしたかと言うと、移転元では別のフロアだった営業部と総務部を、移転先オフィスで隣接させたというだけです。

移転前も、総務部の方々は、営業部が努力している事は業績数字を見て知ってはいたのですが、移転後、部署が隣接し、営業の方々が、がんばって営業をしている電話の声や、社内での営業報告等の声が、直に総務の方々の耳に入るようになった事で、営業の努力が、頭で理解していた事から肌で感じる事に変わり、その結果、自然に電話応対の言葉に心がこもり始めたという事です。

 

このように、ワークスペースにて自然に耳に入る会話は、会社視点で考えれば、プラス要素にもなりえるという事です。(誰の会話が誰に聞こえるかにもよりますが)

 

今度は、話す側の事を、考えてみましょう。

 

例えば、営業部署で、他の営業マンが何かを知りたがっているという会話が聞こえ、その情報を自分が知っている場合、通常であれば、「それ、私、知ってますよ!」と、声をかけると思います。

しかし、し~んとしたワークスペースの場合、周りに自分の事が聞こえてしまう事から無意識に声を抑制する傾向にあります。

 

場合によっては、心の中で、「あ! それ知ってる!」と思っても、無意識に声を出す事にブレーキがかかり、「まあ後でいいか・・・」となり、そのまま伝えずに終わってしまうという事が起こりうるという事です。

このように、無意識に声を抑制してしまうし~んとした音環境は、情報共有だけでなく仕事のアクティブ感、スピード感にもマイナス影響を及ぼす可能性があるのです。

 

それは、いわゆる「話しづらいワークスペース 」、「電話がしづらいワークスペース 」となり、それが「電話ボックスを設置して欲しい!」というような要望に繋がってくる訳です。

すなわち、会話が飛び交う可能性があるワークスペースなのであれば、「静かなワークスペース 」を目指すより、ワイワイガヤガヤしている「一定の安定した暗騒音があるワークスペース 」を目指した方が、仕事に集中しやすく働きやすい環境になる可能性が高いという訳です。

 

ワークスペース内で飛び交う様々な音。

その音達は、意図的に活用する事により、業績にインパクトを与えられる程の影響力を持つという事です。

 

「静かだから良い」や「騒がしいのでダメ」と一様に考えず、

“そこで働く方々のワークスタイルに、“そのワークスペースの音環境

をあわせていくことが重要なのです。

 

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(Photo:guccio@文房具社)

「ゲームばかりしてないで、本を読めば?」と、彼女は言った。

社会人5年目で後輩の指導を任されるようになった彼女は、新人と行動を共にすることが増えた。

「まだ、課題図書も読んでいないでしょう。」

しかし、移動中も、昼休みもその新人はずっとスマートフォンのゲームばかりしている。

「ゲームが好きなんです。」と、彼は言った。

「自由時間に何をしようが、勝手じゃないですか。ほっておいてください。」彼は画面に目を落とす。

「そりゃ、自由時間に何をしようが別に構わないけどさ。ちゃんと課題はこなしてよね。」

彼は迷惑そうにちらっと彼女の方を見た。

「…はい。」

 

 

「通勤の時さ、車内でスマートフォンのゲームやっているひと多いよね。」

と、彼女は隣の席の同僚に言った。

彼は同期の中でも仕事ができると評判だ。

 

「そうだね。」同僚は相槌を打つ。

「一体何がそんなに面白いのかな。」

「通勤の時ヒマだとか、ゲームが大好きだとか、いろんな理由があると思うけど。」

「ねえ、スマートフォンのゲームやったことある?」

「うん、昔はハマってたよ。今はそれほどでもないけどね。」

「何がそんなに面白いの?」

「うまく言うのは難しいんだけど…。僕が一時期ハマっていた理由は、手っ取り早く達成感が味わえる、ってところかな。」

 

彼は、カバンからスマートフォンを取り出し、ゲームを立ち上げて彼女に見せた。

「ほら、こんなかんじでダンジョンに入って…何回かこの戦闘を繰り返して、最後にボスを倒せばおしまい。」

彼は、彼女にスマートフォンを渡し、ひとつのダンジョンをクリアさせた。

「ね?単純で、簡単でしょ?」

「これだけ?ストーリーとか、謎とかそういうのは無いの?」

彼女は呆れたように言ったが、彼は即答した。

「僕の知る限り、ストーリーとかは、それほど重要じゃないんだよ。」

 

彼女は訝しげに聞いた。

「ふーん、何が楽しいのか、ますますわからなくなってきた。なんであなたはハマったの?」

「ダンジョンをクリアすると、時々強いモンスターやレアなアイテムが手に入る。射幸心が刺激される。たぶんギャンブルとか、宝くじとかと、モチベーションの源泉は一緒。」

「なるほど。ギャンブルも宝くじも好きな人多いもんね。」

彼は彼女に言った。

「まあ、けど趣味なんて人から見ればくだらないものばかりなんじゃないかな。何が良い趣味で、何が悪い趣味ってのは、別にないと思うけど。」

 

 

「課題図書は読んだ?」と、彼女は後輩に聞いた。

「いえ…まだ読んでないです。…すいません。」

消え入るような声だ。

「あなた、課題はきちんとやるようにと言ったじゃない。」

後輩は俯いている。

彼女は「勉強しなさい」と言う母親になったような錯覚を覚えた。

「いい加減、学生気分はやめてよね。」

彼女は嘆息した。

 

しばらく二人は沈黙する。

「先輩は、ヒマな時何やってるんですか?」

「いきなり何?」

「先週、付き合いはじめた子から「電車の中でゲームやっているとバカに見えるからやめなさい」って言われて、その時は「ほっといてくれ」って言ったんですけど、やっぱり気になって。」

 

好きな子の言うことなら聞くんだ、と呆れて彼女は答えた。

「バカに見える、っていうのは言いすぎだと思うけど、ソーシャルゲームよりも有意義な時間の使い方はあると思うけど。」

「例えば何ですか?」

そうストレートに言われると、即答できない。彼女は口ごもった。

「読書とか?」

後輩は、ニヤッと笑った。

「先輩、趣味ないんですね。かわいそう。」

生意気な後輩だ。

「先輩。」

「何?」

「課題図書って、就業時間内に読んでもいいんですよね。オフィスで。」

「普通、就業時間内に読まないでしょ。」

「でも仕事だったら、就業時間内にやるべきじゃないですか?定時後に読むなら、残業代つくかなーと思って。仕事なら、対価を受け取るのは当たり前じゃないですか?」

彼は本当に「残業時間」として申請しそうだ。そうなれば、私が上司に「どういう指導をしてるんだ」と責められるのは目に見えている。

 

結局、彼に、課題図書を読もうという気はさらさらないのだ。そう考えると、怒りがこみ上げてくる。

「わかったわよ。もう勝手にすればいいじゃない。読まなくて困るのは私じゃなくてあなたよ。向上心がない人に時間を使うほど私もヒマじゃないの。」

彼は冷たく笑った。

「どうせ僕はマンガしか読みませんよ。でも先輩、ビジネス書なんて本当にオモシロイと思ってるんですか?」

「課題だから、面白いとか面白くないとか、そういう話じゃないと思うけど。」

「昨日ちょっと初めの方だけ読んでみたんですが、よくこんなつまらないもの読めますね。こんなもの読んだって、一生稼げるようにはなりませんよ。」

全く腹の立つ後輩だ。

 

 

しばらくして、後輩は会社をやめた。

入社してちょうど1年だった。

ダメな後輩だと思っていたが、いなくなると寂しい。

「やっぱり、ガミガミ言い過ぎたかな……。」

彼女は少し後悔していた。

 

「ねえ、やっぱり私の指導方針、まちがっていたかな」

「なんの話?」

「やめた彼。あの人、私が嫌なことばかり言うからやめたんじゃないかって。」

「あ、ああ、それはないと思うよ。」

「なんで?」

「あー……、もういいかな。いや、ちゃんと話すよ。」

 

実は同僚は後輩から、会社をやめるかどうかについて、結構前から相談されていたらしい。

彼は「会社員がこんなにくだらないとは思わなかった」と言っていたそうだ。

 

「で、おどろいんたんだけど、自分がよく見ていた攻略サイト、彼が作ってたんだよね。」

「え…。」

「そのゲームをやっている人だったら、まず知らない人はいないっていうくらいのサイト。」

「そんなにすごいの?」

「うん。すごいと思う。彼のゲームレビューって、ものすごく面白いんだよね。」

 

同僚によれば、彼はアフィリエイトやイベント、原稿料などで月に100万円以上を得ていたらしい。

「どう考えても、みんな無駄な仕事ばかりしているって、彼、よく言ってたよ。」

「あの人、ウチの部長よりも稼いでたんだ。」

「まあ、稼ぎ云々、というよりも、我々よりビジネスについては遥かによく知っていた、というべきだろうな。」

 

 

「あたし、何やってんだろ。」

彼女は帰途について、そう思った。訳知り顔で「課題はきちんとやるように」なんてさ。恥ずかしいわ。全く。

後輩が内心、自分のことをあざ笑っていたのかと思うと、悔しいような、情けないような、そんな気持ちになった。

 

携帯が鳴動する。

見ると、後輩からメールが届いていた。

 

*****

 

すみません、Tさんから「全部話しちゃった」って、連絡が来たのでメールしました。

 

ぼくが会社をやめたのは、100%、先輩のせいじゃないですので、気にしないでください。

あと、先輩の言っていたことは、正しいと思います。

会社員やるなら、本を読んだほうがいいと思いますし、上司の評価は気にしなくちゃならないですよね。

まあ、僕が社会人としてダメなのは認めます。

 

でも、つねづね「苦手を克服するより、得意なことをした方がいい」と僕は思っているので、

会社は辞めることにしました。

僕は一流のサラリーマンにはなれそうもないので。

 

では先輩、お元気で。

 

*****

 

「一流……。」

彼女はそれまで、何かで一流になるなど、考えたこともなかった。

後輩には「向上心」などと宣ったが、実際に自分がやっていることはなんとなく仕事をして、上司とうまくやり、会社の言うとおりにしているだけだ。

 

「向上心」とは一体何か。

私みたいな人間でも、一流を目指す資格はあるのだろうか。

いや、よそう。

私のような凡人が野心を抱いても、ろくな結末にならないことは目に見えている。

 

彼女は後輩から貰ったメールを削除し、家路を急いだ。

 

 

 

 

【「コミュニケーション」についての本を書きました。】

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(Photo:tokyoform) 

故スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学卒業式の式辞で「点を繋げる(connecting the dots)」という概念について述べた。

リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。

退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。(中略)

もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。

(日本語訳出典:https://www.nikkei.com/article/DGXZZO35455660Y1A001C1000000/)

重要なのは、「学んだことがいつ役に立つかは、わからない」という指摘だ。

 

スティーブ・ジョブズは、この後に以下のように続けている。

繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。

だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。

これは、他の思想家などにも見られる傾向だ。

 

フランスの文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースは、著書 の中で「ブリコラージュ」という概念を提唱している。

これは、「とりあえず、今手の中にあるもの、そのあたりに存在するものを使って何かを作る」という行動のことであり、重要なのは、「事前に何が必要かを想定しない」という点だ。

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例えば、

「なんとなく哲学に触れたくなったから、授業を取っておこう」

「ロボットが面白そうだから、自分で組み立ててみた」

「英語で映画が見たいので、字幕無しで映画をずっと見ていた」

という学生がいる。特に将来の事を考えているわけではない。

 

ところが就活に際して面接官に

「学生のときに楽しかったことはなんですか?」と聞かれ、とっさに

「ロボットの組み立てにハマっていたのですが、英語の文献しかなく、海外の掲示板に質問を書き込んだら、哲学の話題で盛り上がったことです」

と回答できるのは、ブリコラージュ的、「connecting the dots」だ。

 

ペニシリンの実用化は「connecting the dots」から

そして「いつ役に立つかわからない研究」は、ときに歴史的な大発見に至る。

 

ペニシリンは1928年にアレキサンダー・フレミングによって発見された、世界初の抗生物質だ。

そしてこのペニシリンは

「フレミングが細菌培養に使った使用済みシャーレを洗わず放置したところ、偶然カビが細菌の増殖を抑える物質を作り出すことを発見した」

というエピソードとともに語られる。

 

ただ、この話はもう少し奥が深い。

実は、フレミングはこの発見を「実験用の試薬」として論文を書いたが、治療薬への応用の可能性はほとんど考えておらず、論文もほとんど注目されていなかった。

そして、フレミング自身もこの発見を中断してしまった。

 

実はペニシリンはその10年以上後、「ハワード・フロリー」という抗生現象を専門に調査をしていた学者によって再発見された。

彼はフレミングの論文を読み、動物実験を繰り返した結果、その効果を確信し、実際の患者へ投与し効果を立証した。

 

その後、この発見はノーベル生理学・医学賞につながるが、その時のフレミングのコメントが象徴的だ。

自らの研究は決して深い洞察に基づくものではなく、培地の汚染という偶然の出来事に端を発したものであったが、自分の功績はといえばその現象を無視せずに記録し、後続研究の端緒としたことである

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スティーブ・ジョブズの述べた、connecting the dotsとは、まさにこのようなことを言うのだろう。

 

キャリアも「connecting the dots」的な発想で

「キャリア」を考える際にも、「connecting the dots」的な発想が意味を持つ。

 

ソウルドアウト社の池村公男氏は、現在は財務、人事、総務、経理などのバックオフィスを統括する「CFO」という立場だが、以前はインターネット広告代理店「オプト」の営業部長という、フロントからバックオフィスへの異色の経歴を持つ。

「求められればどんな仕事でもやる。むしろそのほうが、キャリアにはプラスです。仕事と言うのは、根っこが動かなければ、何をするかというのは、瑣末なことです。

弊社は中小企業の経営者を助けるための会社です。それがブレなければ「やりたいこと」にあまりこだわらないほうが、長期的な結果はよくなると思います。」

と、池村氏は述べる。

 

通常「仕事はやりたいことをやるべき」と言われることが多い。

しかし、池村氏はそれに対して「目的と手段を取り違えないほうがいい」という。

 

「会社は「営業をやること」「マーケティングをやること」が最終目的ではないですよね。「世の中を変える」や「顧客に貢献する」が目的。だからキャリアを考えるときも、同じレベルで考えなければなりません。

つまり、「職種」は手段にすぎない。会社が「営業で貢献してくれ」というなら、営業をやったほうがキャリア上は遥かにプラスです。それこそ、将来何が自分にプラスになるかわからないのですから。」

 

これは、「connecting the dots」の思想にほかならない。

 

「例えば、サッカーの小野伸二選手を知っているでしょうか。芸術的なパスをすることで知られた選手です。」

「彼のすごいところは、右利きであるのに、左足の方がうまく使えること。他の選手は利き足という「強み」を磨くことで一流になろうとしますが、小野選手は手段を選ばない。「苦手を克服する」ことで、一流になったことです。

「いまやりたい、強みである」と思っていることが、将来に渡ってもそうであるかはわかりません。だから「とりあえずやってみたこと」を強みに変えていくアプローチが、キャリアを考える上で重要ではないでしょうか。」

 

*****

 

「仕事が気に入らなかったら、会社なんてすぐに辞めちまえ」という過激な意見もよく聞かれる。

だが、落ち着いて考えてみてほしい。

今の仕事がもし「人生の目的」につながるものだったら、将来、必ず何かしらの役に立つはずだ。

 

仕事は手段にとらわれず、なんでもやってみよう。それがいつ大きな成果を生むか、自分にはわからないのだから。

 

 

◯ソウルドアウト社PR記事一覧

◯ソウルドアウト株式会社コーポレートサイト

 

 

 

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(Photo:barbara w)

タイトル長いのでなんか略称作りたいんですが、なんていえばいいでしょうね。批判過敏症候群とでもいえばいいでしょうか。

 

これは割と一般的に言っちゃっていいと思うんですが、「多数の好意や賛意よりも、少数の非難や悪意の方が表現者の心に残りやすい」というのは多くの創作分野における共通項です。

 例えばブログの記事とかでもそうなんですが。余程おかしなことを言っていない限り、実際のところ読者というものは案外作者に好意的です。

 

例えば、記事に対するはてなブックマークの反応が100あったとして。その反応の割合として典型的なものは、経験則としては

・無言:40% 50%

・賛意、ないし好意的な反応:30% 40%

・反対、ないし批判的な反応;5% 10%

・内容を踏まえているように思えない理不尽な罵詈雑言:1% 5%

 割とこんなもんです。で、無言ブクマというのは、たとえばその後のツイッターでの反応とか、あるいは単純にブクマ数に寄与していることを考えると、どちらかというと好意寄り反応と考えられることが多そうです。

 

そこから考えると、実は反応の内の8割〜9割方は好意的な反応だったりします。

まあ、書いている内容とか、書いているジャンルとか、反応が来る媒体とか、様々な要素によって比率は上下するんですが。

「わざわざネガティブな反応をする人は、よほど批判的な人が定着しない限りはそれほど多くない」というのは言えると思います。基本的には、読んでる人って賛同してくれる人の方が多いんですね。

 

 

ただ、それでも、というか、だからこそ、というか、時折発言者・発信者は、「ごくごく一部の悪評」ばかりを気にしてしまうことがあるんですよ。

ちょっと前なんですが、こんなまとめを読みました。 

店主「値上げしたいのにTCGプレイヤーが反対してくる」

 ゲームカフェの店主さんが、値上げについてのツイートをしたところ拒否反応が凄かった、というような主張をされており、その後紆余曲折を経て色々と妙な方向に話が転がっていく過程、みたいな内容ですよね。

 

私、この時たまたまリアルタイムで状況を観測してたんですけど、実は違和感凄かったんですよ。ツイート個別にさかのぼって頂ければわかると思うんですが、この店主さん、当初は結構好意的、というか賛成寄り中立みたいなリプライも多数受け取っているんですよね。

 

周囲も含めて見た感じ、反対意見っていうのはぽつぽつっていう感じで、ざっくりした感覚としては78割の人は賛成寄りの反応をしているように見えました。

「別に周囲の意見なんていちいち聞く必要ないのでは」「お金を払っていない人を客として扱う必要はない」みたいな、極めて店寄りの意見を言っている人も割みかけました。

ところがこの店主さん、どういうわけかどんどん「自分に対する反対意見」についての反応だけを先鋭化させていくんですね。

 

確かに反対意見とか、ご本人が言われているような理不尽な要求を投げつけている人もいるにはいるんですが、私に観測出来た限りではせいぜい1件とか2件とか、全体からするとごくごく一部です。

まあ勿論DMやらでもっと色んな反応が来ていた可能性はあるんですが、それでも「ごく一部の反対意見」だけをクローズアップして、どんどんご自分から状況を悪くしていっているように見えたんです。

 

当初は店主さんに好意的だった意見も、だんだん「あれ、なんかこの人おかしいぞ」みたいな感じになっていってしまうのも、上記で書いたような過敏な先鋭化が原因だったように見えました。

 

これを見て、あーーと思いまして。いわゆるアレです、「あ、これ進研ゼミでやったヤツだ!」的な瞬間です。

webにおける、「何故か反対意見だけを認識してしまう症候群」の一例だなーと。

 

これ、似たようなケースで言うと、例えば漫画のアンケートでも同じような問題があるそうです。昔お世話になっていた編集者さんからは、こんなことを聞きました。

・最近は作家さんもtwitterや他のソーシャルブログをやっていることが多く、以前と比べて「ファンとの直接のやり取り」の機会が飛躍的に増えた

・その為、以前ならまだぎりぎり可能だった「ファンレターを見せる際の、ファンからの声のコントロール」のようなことは、ほぼ完全に不可能になった

・作家さんの中には「悪評を見るとへこんで悪影響が出るのに何故か自分から悪評を求める」というような困った習性がある人がいて、そういう人がファンと直接やり取りをするのはやはり編集としては結構心臓に悪い

・百の好評よりも一の悪評の方が気になるし記憶に残るし反論したくなる、というのはプロもアマチュアも同じ

 

百の好評よりも一の悪評の方が気になる、というのは示唆的ですよね。

99賛成があれば1くらい反対があっても気にならなそうなものですが、発信者って案外そうでもないんです。勿論賛意は嬉しいんですが、それでも何故か悪評だけ気になっちゃう。

 

ただ気になるだけならともかくとして、「みんな敵ばっかりだ!!」みたいな変な勘違いをしてしまうと、上であげたまとめのような、よくわからない方向に突っ走ってしまってどんどん状況が悪化、みたいなことになってしまいかねないと思うんです。

 

勿論、「聞くべき批判」というものはあります。聞いて参考にするべき、受け入れて今後に取り入れるべき悪評というものはあります。そういう批判にはアンテナをきちんと立てられるに越したことはありません。

 

けれど、聞くべき批判や取り入れるべき悪評と同じか、下手をするとそれ以上の数、「聞けば聞くだけ疲れるだけで何も得られない」罵詈雑言というのもあるもので。

例えばそもそも内容を把握しないで投げつけられる罵倒とか、一部の単語だけ拾い上げて脳内構成された論旨に対する非難とか、いちいち受け取ってると疲れちゃうと思うんですよ。

 

そういう部分については、適度に脳内フィルタリングして見なかったことにするのも、webで生きる上での重要なテクニックなんじゃないかなーと。

 

しんざき自身について言えば、まずなによりも、「読んで下さる皆さんは、味方だ」と思っています。読んでくださるというだけでも有難い限りですが、更にしばしば賛意を頂けるとか、ありがた過ぎて読者の皆さんに足を向けて寝られませんの直立して寝る必要が生じます。困る。

で、「あ、これは真剣に相手すると疲れちゃいそうだなー」と思った批判や非難については、「まあこれだけ味方してくれてる人がいるし」ということで、軽やかに流させて頂いていますし、受け止め過ぎて潰れちゃうくらいなら皆さんそうした方がいいんじゃないかなーと思うわけなんです。

 

勿論、世の中には強靭な精神を持った方もいらっしゃるもので、「俺を罵倒しやがったヤツは全方向3倍返しで罵倒し返してやる」くらいのグラップラーな方もいて、すげーなーと思ったりするのですが。まあしんざきに関しては、引き続きそんな感じでゆるゆるやらせて頂ければと思う次第です。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Britt-knee

ネットユーザーは誰でも、少しずつ付き合う相手を変えていき、それに伴って、ユーザー自身も変わっていく。

インターネットを長く眺めつづけると、そういう人間の変化をしばしば目撃する。

 

もともとは、趣味や動物についての雑談が大好きだった人が、数年ぐらいかけて、政治的な発言を繰り返すアカウントになってしまうのを、私は何度も見てきた。

彼らが選んだ政治的ポリシーは、いわゆる“ネトウヨ”的な場合のこともあれば、“リベラル”的な場合のこともある。どちらにせよ、昔は楽しいタイムラインの隣人だった人が、政治的な発言を繰り返し、対立する意見に鋭く詰め寄る人に変わってしまったのを目の当たりにすると、ああ、楽しかった頃のあの人はもうここにはいないんだなと、寂しく思わずにはいられなくなる。

 

 彼らは少しずつ、相互フォローの輪の中に入っていった

 彼らも、一夜にして別人になってしまったわけではない。

たとえば東日本大震災の頃、彼らはほんの少し、原発推進-反原発の話題をシェアやリツイートする程度だった。この時点では、まさか、政治的な発言を繰り返すアカウントになってしまうなどとは想像もつかなかった。

 

ところが時間が経つにつれて、少しずつ政治的な発言をシェアやリツイートする回数が増えていき、彼ら自身の政治的な意見を書き込むようになっていった。

はじめのうちは、保守かリベラルか、原発推進か反原発か……といった政治的なポジションも明確ではなく、中立的であろうと努めているそぶりだったのに、いつしか、特定のポリシーに傾いていった。

にも関わらず、当人はといえば、自分のポリシーが傾いていっていることへの自覚は乏しく、対立する意見への批判に心を奪われている様子だった。

 

どうして彼らはそうなってしまったのか?

もともと、そのような思想信条の持ち主だった、とも考えられなくもない。だが、仮にそうだとしても、自分の思想信条をそこまで開陳するように変化した理由までは説明できない。

 

眺めるに、彼らが誰の意見をシェア・リツイートしたのか、そして、誰をフォローし、その次に誰をフォローしていったのかが重要だったように思われる。

 

たとえばある人が、保守的な意見を穏当に述べているアカウントを一人見つけて、その人をフォローするようになったとする。

 その時点では、その人は“ネトウヨ”でもなんでもない。保守的な意見の、穏当な主張に、ときどき耳を傾けているだけの人だ。

 

 しかし、似たような意見を主張する、やはり保守的なアカウントを二人、三人とフォローし続けると話が変わってくる。

その人のタイムラインには、保守的な意見が並ぶ確率がかなり高くなる。

それらの保守的なアカウントもまた、シェアやリツイートを駆使するので、フォローしていない保守的なアカウントの意見までもがタイムラインに飛び込んでくるようになる。

新たに一人、また一人と近しい意見の持ち主をフォローしていくうちに、その人のタイムラインには保守的な意見がズラリと並ぶようになり、保守的ではない意見は、だんだん目立たなくなっていく。

 

そういった状態が長く続くと、自分では中立・中庸を心がけているつもりでも、そもそも視界に飛び込んでくるタイムライン自体が保守的な意見に大きく傾いているので、バランスをとるのはきわめて難しくなる。うかうかしていれば、たちまち“ネトウヨ”ができあがってしまうだろう。

ここでは“ネトウヨ”を挙げたが、同じ現象は“リベラル”の側でも起こり得る。他人を愚弄するような言葉遣いを平然と用いる“リベラル”をフォローしている人が、だんだん極端な物言いの“リベラル”に近づいていき、異なる意見に耳を貸さなくなっていった人が、この数年間に一体どれだけいただろうか。

 

インフルエンサーに気をつけろ! 

こうした現況をみるに、SNSのたぐいを常用する際には、以下のことに気を付けなければならないと私は思う。

 

 ①誰かをフォローすること・誰かを視界に入れるということは、そのフォロー対象からの影響を受け入れることに等しい、と自覚しておくべきだ。

 私達は、自分達が思っている以上に、目にするものから影響を受けやすい。

 お気に入りの文章や写真をアップロードしているアカウントをフォローしているうちに、それに影響を受けて、昔よりも好みの偏りが大きくなってしまうことは非常にあり得ることだ。

一人のインフルエンサーをフォローして、そこから芋づる式に近しいアカウントをフォローし続けていけば、自分のタイムラインは、たちまち特定方向の嗜好に傾いてしまう。

 

また、自分のタイムラインに同じような嗜好を持った人がたくさんいるという感覚は、同じような嗜好を持つ人が世の中にはたくさんいるという錯覚まで、それほど遠くない。

結果、グルメが嵩じてしまったり、思想が偏ってしまったり、異性の選考基準が極端になってしまったり、いろいろな影響を受ける可能性がある。

 

もうひとつは、現代社会において、誰かの思想を偏らせたり強烈な影響を与えようとしたりする間近な存在は、大量のフォロワーを持つ、いわゆるインフルエンサーであろうということだ。 

昔は、誰かを洗脳するといえば、対面で対象をそそのかすようなものが主流だったし、もちろん今日でも気を付けなければならない。しかし、インターネット社会においては、SNSのインフルエンサーに耳を傾けているだけで、気付かないうちにどんどん洗脳されている……なんてことも起こり得るようになった。

現に、思想信条系のものであれ、何かを売買するものであれ、インフルエンサーと呼ばれる水準の有名アカウントのなかには、たくさんのフォロワーに影響を与えて、フォロワーがフォロワーを呼ぶような繋がりのなかで“信者”獲得につとめている者もいる。

 

すべてのインフルエンサーが、“信者”獲得のために狙ってフォロワーを洗脳していると私は主張したいわけではない。

しかし、たとえ洗脳してやろうなどと企んでいなくとも、インフルエンサーのフォロワーが、どんどん勝手に洗脳されて、勝手に“信者”になってしまっていることはあり得るだろうし、そのような“信者”に囲われているうちに、インフルエンサーの側が思慮分別を失って堕落してしまうこともあり得るだろう。

 

怪しいインフルエンサーは、怪しいアプリと同じぐらい危ない 

私達は、興味を持ったアカウントや、いいなと思ったアカウントをフォローすることに、あまりにも慣れてしまっている。

だが、誰かをフォローすれば、フォローした相手から影響を受けやすくなることは不可避である。ということは、あまりにも魅力的なアカウント、あまりにも影響力の強いアカウントのたぐいには十分な注意が必要ではないだろうか。

 

怪しげなアプリをインストールする際には十分に注意深くなるのと同じように、怪しげなインフルエンサーをフォローする際には、慎重に構えておくべきなのだろう。

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

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twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

 (Photo:Free Images

たまには本業の話も書いてみる。

私の本業は、「メディア運営」「記事広告」「コンテンツ制作」、そして、それらの「拡散」の4つである。

 

10年以上もやっていたコンサルティングを本業とせず、なぜメディアをやっているかというと、webの素晴らしさに感銘を受けたからだ。

「こんなにwebには力があるのか」

と圧倒された。

何と言っても、webは名もなき個人の意見が、時に何百万人に届く。これは驚くべきことで、まさに「個が力を持つ」時代だ。

 

特に「拡散」という現象が、私にとっては非常に興味深い研究の対象だった。

そんなわけで、5年ほど前と比べて、様々なメディアに寄稿したり、集客したりと、手伝いをすることがとても多くなり、今に至る。

 

さて、PRはそれぐらいにして、そんな中で考えざるをえないのが、

「書く」というスキルについてだ。

 

「書く」は、ここ10年ほどでかなり重要なスキルとなった。

なぜか。

まず、web上では検索エンジンとSNSにもとづいて人が動くため「文字」をベースとしたコミュニケーションが中心となっている。

音声ベースのコミュニケーション手段として多用されていた電話も、今やメール、チャットやメッセージサービスなどの「文字ベース」の手段に取って代わられた。

 

さらに、複雑かつ厳密な、科学的思考はどうしても文字を中心として記述される。

webは科学的思考ができる人々にとって非常に有利に発信ができる世界だ。だから「知識の結合」「情報発信」の主戦場がweb上に移行している。

 

「本を読まない人が増えている」のは事実かもしれないが、「文字を読む人」は爆発的に増えている。

世界では毎日、大量のテキストデータが生み出され、webにアップされている。

 

*****

 

しかし「書く」という技術の重要度が上がったことに比べ、「書ける人」はそれほど増えていない。

「良いエンジニアの不足」と同様に、「良い書き手の不足」という状況も、当分解消される見込みはない。

 

「そんなことを言っても、安く買い叩かれているライターがたくさんいるではないか」という反論もあろう。

確かに、そう言った問題もある。

例えば、「一文字1円」とか、「一文字0.5円」など、粗製乱造を誘発するような報酬の設定をした案件を、クラウドソーシング上で見かけることがある。

 

ただ、最近ではそう言った案件に人は集まりにくいし、徐々にライティング料も上がっている。

 

もっと率直に言うと、力があるのに安い案件に甘んじているライターは、単純に言えば営業努力が不足している可能性が高い。

良い案件は、スキルを高めて実績を積み上げ、自分で情報発信し、営業努力を積み上げて取りに行くものである。

営業努力と差別化なしに、「単価が安い」と言うのは、ちょっと違うな、と思う。

 

話がそれた。

 

そういうことで、ライターが高コスト化しているので、

企業内では最近、「どうにか自分たちでコンテンツを生み出したい」「ライターを育成したい」という動きが出始めている。

ただ、これが言うほど簡単ではない。

 

例えば、ある教育業での話だ。

この会社では従来、販促手段として広告にお金をかけてきたが、最近では費用対効果が合わない、と経営陣が判断した。

さらに、最近では競合がwebのコンテンツを活用して大きく成果をあげていることから、経営陣からマーケティング部門へ「コンテンツの発信を強化しろ」との指示が出た。

ただし、多分にもれず、それほど予算は付いていない。

要するに経営陣は「内製でやれ」と現場に命じた。つまり記事を持ち回りでで社員に書かせた。

 

ところが、これがうまくいかない。

「社員に書かせる」までは良いものの、提出されてくるコンテンツの質が低い。

ビュー数も伸びない。

半年ほど運用し、全く成果らしきものを残せないまま、このブロジェクトは立ち消えになってしまった。

 

この会社には「書ける人」が存在しなかった。

 

こう言った事例を数多く見てくると、「文章で人を動かす」はそれほど簡単ではないことに気づく。

村上春樹は「才能が必要」というが、プログラミングと同様、センスにある程度依存しているのかもしれない。

 

*****

 

では、「書ける人」と「書けない人」は、一体何が違うのだろうか?

 

それにはまず「書ける人」の定義が必要だ。

 

私が思う「書ける人」とは、「人から言われたテーマを綺麗に書ける」人のことではない。

検索に引っかかる記事は書けるが、その文章のファンは生まれない。

そうではなく、ここに掲載されているような純粋に「ファンを生み出すような記事」を書ける人は、他の人と何が違うのだろうか。

 

個人的には、以下の点に集約されると感じる。

 

現実の切り取りかたの妙

マスメディアにはできないけれど、個人メディア、企業メディアにできることは何か。

それは「主観の発信」である。記事は言ってしまえば、主観が強いほど面白い。「主観」が取り除かれてしまっている記事は、去勢された記事である。

 

ただ一方で、独りよがりの記事は時として読者を不快にさせる。

そこで、「主観」に説得力を持たせるために書き手は色々と工夫をする。

その工夫が「書ける人」の力量そのものである。

 

例えば、価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないという記事がある。

筆者の主張は次だ。

値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。

価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

この主張をするため、著者は自身の体験、知識、論理を積み上げている。

精神的な背骨がある人は、自分が間違えることをだいたい許容できる。自分の判断基準からしてどうでも良いことならば、間違えたって直してより良いものにしていけば良いだけだから。自分の判断基準からして重要な間違いならば凹むかもしれないけどね。でも、一度背骨を作り上げている人ならば、背骨自体を強化したり、変更したりできるので案外タフだ。

一方、精神的な背骨が無い人は、いかなる間違いも許容できない。なぜならば、判断基準は外にあるためどの間違いが自分に致命的でどの間違いが自分に致命的でないかが判断できないから。だって、判断するのは他人。完璧に振舞いたいのだけど、どう振舞えば完璧かわからなくなり、自信が無くなり、自分が嫌いになる。まるで、プライドを殻にした甲殻類みたいになるんだ。判断基準は外にあるので、自分が取れる選択肢は「他人に嫌われないようにする」「他人にかっこ悪いと思われないようにする」「他人にできない奴とみられないようにする」というものしかない。強化も変更もできないんだ。

これは本質的には「人が何に興味を持っているか」を看破できる力であり、コミュニケーション能力であり、プレゼンテーション能力である。

 

「書ける人」は、テーマ設定からして、「書けない人」とは大きく異なる。現実の切り取り方が、普通と違うのである。

 

 

推敲する親切さ

「書ける人」は文章を生み出すことについては、さほど苦労しない。というより、常に「書きすぎ」なのである。

しかし、それをそのまま表に出せるわけではない。

文章には「推敲」という作業があり、これを辛抱強くできるひとが「書ける人」である。

 

太宰治の「人間失格」を直筆で読める本がある。

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これを見ると、「作家」はここまで表現を吟味するものなのかと、驚かされる。

推敲の量が普通の人と全く異なるのだ。

 

実際、知人の物書きは、「下書きを一万文字書いて、表に出るのはその3分の1程度」という。

 

ときに、村上春樹氏は「推敲が大好き」なのだそうだ。

推敲は僕の最大の趣味です。やっていて、こんな楽しいことはありません。推敲ができるから、小説を書いているようなものです。

最初はだいたい流れのままにさっと書いてしまって、あとからしっかりと手を入れていきます。最初からみっちり書いていこうとすると、流れに乗ることがむずかしくなるので。

推敲にとってもっとも大事なのは、親切心です。読者に対する親切心(サービス心ではなく親切心です)。それを失ったら、小説を書く意味なんてないんじゃないかと僕は思っているのですが。

村上春樹氏の言う「親切さ」とは、まさに「書ける人」が持っていなければならない重要な資質である。

 

読者を怒らせてやろう、騙してやろう、読解力のない読者は置いていっても構わない……

そういった書き手は、「書ける人」ではない。

読者は、そういった書き手をすぐに見抜き、長期的には離れていく。

 

「書ける人」は、訴えたいこと(テーマ)があり、表現の工夫に手間を惜しまない(推敲)人々であり、情理を尽くして読者に何かを伝えたい、何かを訴えたい、そういうこだわりの持ち主たちである。

 

 

 

【「コミュニケーション」についての本を書きました。】

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※おかげさまで、重版が決まりました。

 

【お知らせ】

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・ブログが本になりました。

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・「「仕事ができるやつ」になる最短の道」のオーディオブックもできました

 

(Photo:Tekke) 

気になってウズウズしたのでTwitterで聞いてみた。

(個々の票数は小数点以下で四捨五入しているため、合計は合わない。)

 

 「質問の対象外/閲覧用」を除外すると、次のようになる。

・今も無人島でもあった方がいい 41

・今はあった方がいいが無人島ではなくていい 20

・今も無人島でもなくてもいい 39

 理由を書いてくれた方も何名かいて、人それぞれの理由があることがわかったし、回答者に偏りがある前提のデータなので、この割合を見て何か結論めいたものを出すことは難しい。

それでも質問の対象となっている女性で、かつ閲覧目的ではない(はずの)人から500票以上集まった結果なので、少し所感を書いてみたいと思う。

 

そもそもなぜこのようなアンケートをしようと思ったのか。きっかけは、先日初めてお会いした方との会話である。

「どんな本が好きなんですか?」と聞かれた。 

「中村うさぎさんの本が好きです」と答えた。

「わかります、面白いですよね。中村うさぎさんとマツコ・デラックスさんのやり取りで好きな場面があります。中村うさぎさんは豊胸の手術をされていますが、胸はマッサージをしないと硬くなってしまうそうです。だから、自分でマッサージしているらしいんですね。それを聞いたマツコさんが『男に揉んでもらう胸を自分で揉むなんて、なんて寂しいの!』と言ったという場面。大好きなんです」

 

この話を本で読んだことがあるかどうかは記憶が曖昧なのだが、ふと思ったのが、中村うさぎさんは男に揉んでもらうために豊胸手術をされたのだろうか、ということだった。

もしかしたら本を読めば書いてあるのかもしれないが、残念ながら家にある本をパラパラと見てみた限りでは見つからなかった。

私の勝手な想像だが、中村うさぎさんは顔の整形もされていて、美しさや自意識、自我、アイデンティティといったものについてこれでもかというほど深く考えてこられているので、「男のため」という理由ももしかしたら少しはあるのかもしれないけれど、それ以外のもっと大きな理由があるのではないか、という気がしている。(他人の私に何がわかるのかって感じではあるけれど。)

 

この会話のあと、思い出したことがある。それは大学生の頃ゼミの先輩が日本における化粧について研究されていたことだ。

うろ覚えだが「誰かに見てもらう化粧から、“あそび”としての化粧へ」という話があったように思う。自分以外の誰かに見てもらいたいから、きれいだと思われたいから化粧をするケースも当然あるが、見られることを目的としていない“あそび”として化粧をするケースもある、と。そんな話だったと思う。

記憶が曖昧なのであくまでも私の印象に残っている話では、ということは強調しておきたいが、家の中で1人化粧をして遊んでいる女の子がいるであろうことは想像に難くない。

 

化粧は他人の視線を気にしてするケースと、他人は関係なく自分のためにするケースがある。

胸はどうなんだろう。他人の視線がなかったら、なくてもいいのだろうか。もちろん出産して母乳を飲ませるために必要だというのはわかるけれど、母乳を飲ませる対象がいなくても、自分自身のために必要だと感じている女性もいるのではないだろうか。

 

胸がなくなると自分ではなくなるとか、女ではなくなるとか、アイデンティティとして“胸”が不可欠な人っているような気がする。

“行為”である化粧と“身体の一部”である胸を同じ類の話だとするのはあまりに雑な括りだけれど、その必要性に“他人の視線”の影響を受けているという点は共通している。

では、胸も自分のために必要だという人はいるのだろうか。アイデンティティと関係あるのだろうか。他人に関係なく胸を必要としている人の割合はどのくらいなんだろう。その疑問をぶつけたのが、冒頭のTwitterアンケートである。

 

結果を見てまず思ったのが、「胸を必要としない女性、多すぎないか!?」ということである。

今も無人島でもなくてもいいという人が4割近くいる。私は「今も無人島でもあった方がいい」と「今はあった方がいいが無人島ではなくていい」が拮抗するだろうと予想していて、「今も無人島でもなくてもいい」はおまけの選択肢として一応用意していた。

だが蓋を開けてみると、なんと39%もの人が今も胸を必要としていない。「今も無人島でもあった方がいい」人と2%しか差がない。これには驚いた。

 

考えてみてほしい。世の中にあふれるバストアップ商品はいったい誰のためのモノなのか。

世の中にあふれるバストアップ術はいったい誰のための情報なのか。血眼になって胸を大きくしようと努力している女性がいる一方で、胸に存在意義を見出しいない女性もいるのである。

 

「今はあった方がいいが無人島ではなくていい」人は2割で、意外と少ない印象だ。他者の視線によって胸の必要性が変わってくる人はあまりいないようである。(2割を多いとみるか少ないとみるか次第だが。)

 

私が着目したいのは、「今はあった方がいいが無人島ではなくていい」「今も無人島でもなくてもいい」と回答した6割近くの人たちだ。

他人に関係なく胸を必要としている人の割合はどのくらいなのか、「無人島ではなくていい」という人の割合と比較してみようと思っていたが、それよりもこちらの方が興味深い。偏りのあるデータだとはいえ、無人島では胸は不要だという人が今も不要である人と合わせて6割もいるのは本当に驚きである。

 

別の部位に置き換えてみると特異さが際立つ。目や鼻、手や足、体のどこをとっても不要だと思う部分はないはずだ。

それはもちろん、それらが“機能”しているからであって、胸も出産して母乳を飲ませるときは必要だと感じるのだろうけど、逆に目や鼻、手や足がその機能を失わず、ただ形だけ消えるとなったら、そのことは受け入れられるだろうか。

自分が自分でなくなってしまう気がして必要だと感じるのではないだろうか。私だったら、自分が自分であることを認識しておくために、今の体は維持したいと感じると思う。

でも胸は生まれたときからあるものではなく途中から変化した結果として存在しているものだし、性別を規定する要素は胸以外にもたくさんある。そうなると、自分が自分であるために、あるいは自分が女であるために、胸が必要だと思うことって、もしかしたらあまりないのかもしれない。

 

もしくは、こう考えることもできる。胸はいわゆる“女性らしさ”の象徴だと思うのだけど、案外女性自身がそこに必要性を感じていないとすると、そもそも女性は自身の体に“女性らしさ”を求めていないのではないかと。

 

と、いろいろ想像を膨らませてみたけれど、もしかしたら単に胸の存在が邪魔なだけかもしれない。結局のところ11人に理由を聞かない限りは想像の域を超えない。ただ、たまにはとりとめのないことを胸に描いてみるのも悪くないと思うのである。

 

☆★☆★☆

 

ではまた!

次も読んでね!

 

 

 

【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

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Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:anjan58

最近、医療の世界でも、人工知能(AI)に関する話を聞くことが増えてきました。

 

僕は内科なのですが、他科の医師と飲み会などで、「医療用AIが進化していったら、最後に残るのは、どの科になるだろう?」なんてことを話す機会が何度かあったんですよね。

放射線科の医師は「画像診断については、AIに早晩追い抜かれてしまうのではないか」と心配していましたし、外科医は「疲れを知らず、トイレにも行かなくてすむロボットによる手術」なんて技術ができたら、人間の医者じゃ太刀打ちできないな」と言いつつも、「停電とか、何かミスが起こった場合の責任はどうなるのかわからないけど」と。

 

内科に関しては、夜中に「昼間に薬をもらいに来ることができなかったから、いま貰いにきた」なんていう、いわゆる「コンビニ受診」の患者さんをAIが診てくれたら、どんなにラクになるだろう、AIは寝不足でも文句一つ言わないだろうし!なんて言うのですが、考えてみれば、本当にそうなったら、仕事はかなりラクになる一方で、仕事の全体量も減るはずで、失業の危機に陥ってしまいます。

 

将棋の世界でみられたように、AIはものすごいスピードで進化しているので、近い将来、名医の診断能力もAIに抜き去られる日がやってくるかもしれません。

いや、その日がやってくるのは明らかで、あとは、それがいつになるかです。人間の名医とヤブ医者なんて、AIの圧倒的な能力に比べたら似たようなもの、になってしまうかもしれませんね。

 そんなことを思うと、いまの若い人が「医者になりたいんです」というのを聞くたびに、ちょっと心配になるのです。

 

それでも、医療というのは、高度な知的労働であり、AIやロボットに置き換えられるのは、これまでの「人間の仕事」のなかでは、かなり遅いほうではないか、と思っていたんですよ、身贔屓なのかもしれませんけど。

先日、『仕事消滅 AIの時代を生き抜くために、いま私たちにできること』 (鈴木貴博著・講談社新書)という本を読んだのですが、そのなかに、こんな話が出てきたのです。

2025年には世界中でタクシードライバーや長距離トラックのドライバーの仕事が消滅する。セルフドライビングカー、つまり完全自動で運転が行われる自動車の登場がその原因だ。日本国内ではこれによる消失する仕事は123万人の雇用に相当する。

同じ頃、デイトレーダーの仕事は絶滅する。株式のトレードでもFXのトレードでも人間はAIに勝てなくなるからだ。金融機関でも人間のトレーダーはAIにとってのカモに堕ちていく。

 

2030年頃にはパラリーガルと呼ばれる弁護士助手の仕事、銀行の融資担当者、裁判官といった、主に「頭を使う専門家の仕事」がAIにとって代わられ消失する。

頭を使う専門家の仕事の最もたるものが学者である。2030年代を境に、ノーベル物理学賞はAIしか受賞できなくなるだろう。

 

2035年頃になるとAIは汎用的な思考ができるようになり、その結果、研究者やクリエイターといった仕事も消失していく。世界中の病院や医院では最終的な診断を下すのは医者ではなくAIになる。そして会社では判断や評価を下す管理職の仕事もいらなくなるだろう。

同じく2035年頃にはロボットの足と単純な手の性能が人間の能力に近づく。ロボットを導入することで倉庫の中の作業や宅配などの肉体労働の仕事の一部はロボットに移行していくだろう。

 

2045年から2050年頃にはいよいよ頭脳から指先の動きまで人間と同じ能力を持つロボットが実用化されるようになる。そしてそのようなAI搭載ロボットの価格が数百万円程度にまで下がったときには、人類の90%の仕事が失われることになる。

[amazonjs asin="4062729989" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事消滅 AIの時代を生き抜くために、いま私たちにできること (講談社+α新書)"]

著者は、AIやロボットでは、「足」「脳」「腕」「顔」「指」の順に人間レベルの機能が完成していくだろうという、現時点での専門家の予測を紹介しています。

 

僕はずっと「ホワイトカラーの仕事のほうが機械に置き換えられるのに時間がかかる」と思い込んでいたのですが、実際は、指先の微妙な感覚(触っただけでものの種類や固さ、つかむのに適当な力などがわかる)のほうが、いまの機械にとっては「難易度が高い」のです。

 

たくさんの情報の効率的な処理や価値判断などは、むしろ、AIの得意分野ともいえます。

そして、「マックジョブ」のようなマニュアル通りの仕事のほうが、知的労働とされる専門職よりも、現状では安いコストで人を雇えるだけに、あえて機械に置き換えるメリットに乏しい、という面もあるのです。

飲食産業での人手不足の状況が慢性的になれば、そういうところからロボットが利用されるようになるかもしれませんが。

 

基本的に、医者のような人件費が高く、人を雇うのが難しい仕事ほど、機械に置き換えることのメリットは大きいのです。

近い将来、機械に置き換えるコストのほうが高くつくような単純作業だけが、人間に残されるのかもしれません。

 

「やりがいのある仕事」を奪ってしまうAIは。人間を本当に幸せにするのだろうか、と考え込んでしまいます。働く側の「やりがい」よりも、診断ミスの少ない医療や事故のない運転のほうが大事ではあるのだとしても。

 

僕は学生時代に、「太平洋戦争前、花形だった石炭産業に就職した東大でトップクラスだった人たちが、エネルギーが石油に置き換わったことで苦労することになった」という話を聞きました。

放送局も、ラジオが主で、テレビには山師みたいな人たちが行っていた時代があるそうです。

 

いま小学生の僕の子どもたちは、将来、どんな仕事をすることになるのだろう、どんな仕事に「将来性がある」のだろう、と悩んでしまうんですよね。

もちろん、親が「この仕事がいいよ」なんて言う筋合いはないし、言うつもりもないのだけれど。

僕が子どもの頃にみていた「大人の仕事の世界」と、今は全然違っているし、何十年も先のことなんて、いまの想像どおりにいくわけもない。

 

正直、政治家とか、さっさとAIに置き換えてしまえばいいのに、なんて思うことも多いんですよね。

AIなら、不倫したり、秘書を罵倒したりしないだろうから。

 

 

 

【著者プロフィール】

著者;fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ;琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:Christophe Becker)

「君たち、よい結婚というものは果たしてどういうものだと思うかね?」

これは僕が駿台予備校で浪人していた頃に聞いた話の1つだ。この雑談は僕の人生で、最も役に立った話の1つである。

 

僕はその当時、結婚というと好きな人と恋愛の果てにするものだという漠然としたイメージをもっていた。なので後述する彼が定義する「よい結婚」の条件を聞いて随分と奇妙な印象を抱いたのを今でもよく覚えている。

 

彼は続いて以下のような話をした。

「君たちのご両親はなんで結婚したんだと思う?」

「好きだから?相手が愛してくれるから?」

「違うよ。この人となら50年位は一緒に生活していける、って思ったからだよ」

 

先述したとおり、その頃の自分は恋愛の末に訪れるものが結婚だと思っていた。

故にこの予備校講師の結婚論が当初、随分と奇妙に思えた。「50年位は一緒に生活していける」って、どういう事か訳がわからんわって感じにね。

 

けど後に何度かの恋愛を経験し、脳科学の本などを読み進めていくと「あの話は随分と含蓄深い話だったのだな」と思えるようになっていった。

というわけで今回は僕の結婚観についての話をしようかと思う。

 

愛は3年しか持たない

人類学者であるヘレン・フィッシャー博士は著書『愛はなぜ終わるのか』で、「多くの場合において、愛は3年程度で終わってしまう」と述べている。

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この効用も作用してか、結婚して4年目のカップルが最も離婚に至る率が高いのだという。

 

あなたも、ひょっとしたら雷に打たれるように一目惚れしてしまった経験があるかもしれない。

このように、人生に輝きを与えてくれる「好き」という恋愛感情だが、脳科学的にはドーパミンの分泌の結果得られるものだという事がわかっている。

まあ、つまるところ脳内麻薬によるドーピング反応と思ってもらえば差し支えない。

 

このドーパミン分泌だけど、残念な事にずっとは続かない。

持続期間はせいぜい3年程度が関の山であり、はじめの頃はあんなにもキュンキュンさせてくれた「恋心」という感情は、徐々に終わりを迎えてしまう。恋の始まりは突然だけど、終わりは定時退社なのだ。

 

これだけだと納得しない人もいるかもしれないので、今度は別の形で恋心がいかに不安定なものなのかを説明しよう。恋心が持続しないのは、片思いの感情からでも説明可能だ。

 

あなたが人生で生きてきて、今まで好きになった人の顔を思い浮かべてみよう。

あなたは今現在、その人の事を好きになった当時と同じぐらい、好きだという感情を持ち続けられているだろうか?ぶっちゃけ、今現在は全然好きでもなんでもない存在だってのが関の山なんじゃないだろうか。

 

悲しいことに片思いですら、恋心は長くは持続できないのだ。恋は確かに素敵なサムシングではあるかもしれないけど、同時にすっごく脆いものでもあったのだ。

 

「なんだそのソニータイマーみたいな設定。誰も教えてくれなかったじゃん。愛は永遠ってみんな言ってたじゃん」

こうして愛というものに対して信用をほとんど無くしてしまった自分は、冒頭の予備校講師のいうところである「耐用年数50年はどういう状況設定下で生じるだろうか」という事を真面目に考える事になった。

 

結果、一応なんとかそれに相当するものを見つける事はできた。それは友情である。友達なら50年どころか100年でも1000年でも場合によっちゃ成立するなと思ったのだ。

 

幸福な結婚は愛の先にあるものではなく、友情の先にある

さて愛はどうやら3年で終わるらしい。しかし結婚は3年で終わらせるわけにはいかない。

できればやっぱり、50年ぐらいは上手く継続できるのが望ましい。

 

では50年続く人間関係とはどんな形態がありえるだろうか?

いろいろ考えた結果、僕は「それは友情しかないじゃないか」と思ったのだ。50年続く友情なら、50年続く恋なんかよりかはよっぽどありえそうだって思ったのである。

 

考えてみると友達というのは不思議な関係だ。それは基本的にはメリット・デメリットで形成されるような関係ではない。たまたまウマが合った結果、人は友達になるのである。

そこで僕は今までの友達を頭の中でリストアップしていき、どんなタイプとなら50年人生を一緒に歩めそうかを書き出していった。

 

結果だけど、情緒不安定だったり嘘をつくといった根本的に一緒にいて辛い要素を持たない、人としてキチンと信用できる人とならば50年ぐらい一緒にいてもなんとかなるんじゃないだろうかという結論に至った。

一言で言うと「人を無闇に試してこない人」とでも言えるでしょうか。誠実さって結局のところ相手を試さない事に行き着くな、と思うのですよね。

 

結婚は、結局のところ信用に行き着く

僕は結婚は投資に凄くよく似ていると思う。もう本当に瓜二つだ。

 

具体的に考えてみよう。あなたの目の前に若手起業家がおり、出資を願いこんできたとする。彼は自分の事業計画を巧みにプレゼンし、自分に出資すると大きなリターンが帰ってくると熱演している。

では、どのような時、あなたは彼に投資するだろうか?事業計画が儲かりそう?相手が仕事ができそう?まあ様々な意思決定の仕方があると思う。

 

ここでプロの意見を参考にしてみよう。

直販系投資信託会社のトップであるレオス・キャピタルワークス社長であり、ひふみ投資を運営されている藤野英人氏によると、最終的に出資を頼まれた企業に投資を決める決定だとなるのは以下の2つだという。

1つ目は彼が誠実であり、嘘つきではない事。

2つ目は彼の事が人として好ましく思え、かつ友達になれそうかという事。

 

この2つにYESといえるかどうかが、人に出資を決める最終条件だそうだ。嘘つきは信用できないし、友達になりたくないような人間も同じぐらい信用できないからだというのが、その理由だという。

 

確かに信用できない人間に、お金なんて出資したいかっていわれると、100%ノーだ。そんなのは泥棒にお金を預けるのと同じぐらい、無為な行いだ。

結婚だって同じだ。嘘つきには自分の半身は預けられないし、人として好きになれそうにない人に半身を預けるのなんて、もっとごめんだろう。

 

まあ一言で言うと「あんた、そいつの事、心の底から信用できるの?」ってとこなんじゃないですかね。

心の底から相手を信用できるのなら、マイクロソフトとかソフトバンクみたいに、結婚後はお互い急上昇で成長していきますって。

 

まあ僕の結婚観はこんな感じです。まあ、こんなにロジカルに結婚を決めたわけじゃなく、最後は「えいや。後は野となれ山となれ」って思った部分もあったのは事実ですけどね。

良い人との結婚は良いものですよ。これはもう間違いない。結婚、ちょーオススメです。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Erich Ferdinand)

 

先日、とある伝統工芸の職人さんとお話する機会がありました。

しんざきは宮城県にルーツを持っていまして、ちょこちょこ向こうの人と飲んだり、お話をしたりすることがあります。その時は、宮城のとある温泉街の、伝統的な人形玩具の職人さんと色々お話しました。

 

で、その時、「高齢化による後継者不足」の話になりました。

最近、色んな業界で聞きますよね。後継者不足の話。業種によって理由は色々、状況も色々だと思うんですが、直近だとホタテ漁の話と、刀匠の話がそれぞれwebでも話題になっていたと思います。

“刀剣ブーム”の裏で深刻な刀匠の後継者不足 「二次元」とのコラボで活路

 日本一豊かなホタテの村も人手不足で四苦八苦、オホーツク沿岸の猿払

 で、上記ケースは2件とも、人手不足なのに高い給与が出せない、あるいは高い給与を出していないということで、それぞれwebでも議論になっていました。

 

ホタテ漁の件では、

それでも移住実績はゼロ。伊藤浩一村長(57)は都会との収入格差が障害だと話す。

ある40歳代の男性は500600万円の年収を希望していたが、見合った就労先はなく、畜産振興公社の年収300400万円の商品開発の仕事を打診したものの話は進んでいないという。

村長は「それほど収入がなくても十分暮らしていけるのだが」と嘆く。 

刀匠の件では、

 「刀匠になるには、刀鍛冶のもとで5年以上の修行が必要となり、しかも完全な無給。なので、一度社会に出てお金を貯めるなり、家族のサポートがないと修行を続けるのは難しい」

この辺の記述が目を引きます。

 

まあ、個別の案件には個別の事情があるもので、給与出せてたら採算が取れないとか、刀匠の見習いはそもそも住み込みの弟子に近く一般的なビジネスと同一視出来ないとか、各論としては色んな事情があると思うんです。そこに踏み込む気はあんまりないんです。

 

で、話は最初の職人さんの件に戻ります。

今回私が直接聞いた「後継者不足」のケース、実は殆ど同じ内容の話を、これまでに2回聞いています。ケース数だけ言うとたった3ケースなんですが、共通している要素が余りに多いので、これもしかすると割と広範な話なんじゃねえかと思って紹介してみます。

 

その時私は、都内の某水産系飲み屋でその方とお話していました。

最初の内は、土地柄の話や温泉宿の話であーだこーだ言っていたんですが、その内「若い人がいなくて、後継ぎが見つからない。どこも高齢化してきているし、困っている」という話になったんです。

 

「跡継ぎ候補で働く人を募集したりとかしないんですか?」と聞いてみました。

「一応してるんだけどねえ、給料安いとかで、なかなか若い子が来てくれないんだよねえ。田舎だしなあ」

「やっぱ、高い給与出すのは厳しいんですか」

「いやあ出せないことはないんだけど、お金目当ての人が来ちゃうのもなあ」

 

ん?と、ちょっと違和感を感じました。つい5秒程前、「給料安い」という理由が出たばっかりだと思うんですが、「お金目当ての人」というのはどういう話なんでしょう。

 

「単に給料上げちゃうとさ、その給料目当ての人が来ちゃうじゃない。最終的に、雇われじゃなくて自分でやってくとなると苦しいことも色々あるしさ、そういう時に続かなかったら結局意味ないしさ」

「うーん、そういうもんですかね?」

「あとまあ、うちだけ高い給料出しちゃうと抜け駆けみたいになっちゃうってこともあるんだけどね」

 

こんな会話でした。

この時は、特にこれが話の目的でもなかったんで、なんとなく上記の話題はうやむやに終わったんですが。

これ、他2例で似たような話を聞いたと書いたんですが、共通する部分として、

 

・あまり給料を上げるとお金目当ての人が来てしまう

・自分たちだけ抜け駆けみたいに給料を上げられない

 

という点が挙げられます。

いやこれ、この言葉を額面通りに受け取っていいのかは分かんないんです。実際には、単に収支的に苦しくて良い給料を提示出来ないところ、ちょっとした見栄や認知バイアスで、「お金目当ての人」という理由を後付けしている、という可能性も勿論あります。

 

ただ、敢えて額面通りに受け取った上で私の考えを述べると、「無償のやる気信仰」みたいなものがどこかにあって、それが変な影響を及ぼしている可能性はそれなりにあるんじゃないかなあと思っています。

 

「お金目当ての人」を忌避するっていうことは、つまり「安い給与でも頑張って働いてくれる人」を望んでいる、その方が優れている、あるいは長く続くと思っているということですよね。

安い給与でも敢えてやるっていう人は、それはよほどその仕事が好きなんだ、やりたいんだろう、と。となれば仕事が苦しくっても続けてくれるだろう、と。なるほど、理屈は分からないでもないです。

 

究極的には、給与の高い安いを越えて、「「ただでもいいからその仕事をしたい」っていうくらい熱意ややる気がある人」を求めている、ってことなんだと思うんです。

けどそれってなんか違うんじゃねえかなあ、と。本当に「無償のやる気」は「有償のやる気」に勝るのかなあ、と。

 

私が好きな漫画で、らーめん才遊記っていう料理漫画がありまして。その登場キャラである芹沢達也っていうキャラクターが、とてもいい味出してるんですが、彼のセリフでこんなのがあるんですよ。ちょっと引用させてください。

「「金を払う」とは仕事に責任を負わせること、「金を貰う」とは仕事に責任を負うことだ。金の介在しない仕事は絶対に無責任なものになる」

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金の介在しない仕事っていっても色々あるので、絶対に無責任なものになるかは賛否あるかとは思いますが、私、基本的にはこの発言に賛成でして。お金を貰うことによる責任、お金を貰うことによるやる気って、凄く大事だと思うんですよ。

 

まず何より、報酬ってモチベーションに直結します。

適切な報酬が出るからには、きちんとその仕事をやり遂げないといけないし、その仕事を存続させる為にも頑張らないと、って気にやっぱりなります。

損得勘定から言っても、「ちゃんと稼げる仕事」は長く続けたいですし、そうなるとその仕事を回す、存続させる為には何をすればいいのかって自分でちゃんと考えることになると思うんですよ。

 

誰だって、待遇がよくて満足出来る仕事は長く続けたいと思うし、そうでなければ仕事なくなってもいいなあと思うもんじゃないでしょうか。現実問題、ちゃんとお金貰わないと人生やっていけないですしね。

 

なんか、「お金目当て」って言葉、それだけでなーんとなくいやな響きを感じてしまいがちですが、本来全然悪い言葉じゃないと思うんですよ。報酬でやる気が出るのは当然です。報酬の為に仕事を頑張るのであれば、それが一体何で悪いんですか?って話です。

 

ただ、そこに何か、考え方のギャップがある人というか、ギャップがある世代がある気がするんですね。

もし仮に、収支とはまた別の問題で「無償のやる気」「薄給でも仕事を好きになってくれる気概」を望むような傾向が、特に伝統工芸を担ってきた高齢者の間に広範にあるんだとしたら。

「お金目当て」という言葉を無条件で悪い意味にとっちゃう人が多いとしたら、そのギャップって伝統工芸を始めとする色んな産業を滅ぼしかねないんじゃないかなあ、と。

 

たった3件の観測例で語るのも恐縮なんですが、そういう危機感を覚えたので書かせて頂きました。

願わくば、色んな業界で、「適切な報酬」と「適切なモチベーション」が、ごく当然に見られるようになって欲しいなあと思った次第です。

 

長くなりましたが、今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Joan Valls

子供が生まれてから、「シンデレラ」などの童話に触れることが増えた。

これはディズニーのマーケティングの影響が大きく、あらゆる子供用のグッズにディズニーが入り込んでいるためだ。

 

もちろん、子供はほぼ例外なくディズニーが好きだが、ディズニーは物語の原作を童話から得ているため、

「これはなんのお話?」と聞かれると、ディズニーのアニメよりも「どうせなら原作も読ませたい」となんとなく思ってしまうので、ついAmazonで童話を買ってしまう。

 

例えば

「リトル・マーメイド」は、アンデルセンの「人魚姫」

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「塔の上のラプンツェル」はグリムの「ラプンツェル」

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「アナと雪の女王」はアンデルセンの「雪の女王」

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「シンデレラ」はグリムの「灰かぶり」

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その他にも白雪姫や眠れる森の美女、さらにはアラビアン・ナイトなどがある。

残念ながら、ディズニーはエンタテインメントを追求するあまり、物語の殆どをハッピーエンドに、あるいは冒険譚にしてしまうため、原作が跡形もなくなっていることが多く、特に人魚姫などは「お話がディズニーとは違う」と娘からクレームが来る。

 

さて、童話作家の中で代表的なものはアンデルセン、グリム兄弟、そしてイソップだ。

この3名の寓話は圧倒的な地位を占めており、触れたことのない人はほとんどいないだろう。

残念ながら成長するに連れ「童話」に触れる機会は少なくなったが、読み返してみると深い洞察も多く、記事を書く際に学ぶべきものもたくさんある。

 

そして、上の3名のなかで特筆に値するのは「イソップ」である。

アンデルセンもグリム兄弟も19世紀の人物だが、イソップだけは異なる。

 

驚いたことに、イソップは紀元前600年頃のギリシャの奴隷で、ヘロドトスの「歴史」に名前が登場する人物だ。

*参考文献

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40年も生きてきて、イソップがそれほど昔の人物であるとは、恥ずかしながら知らなかった。

 

 

客観的に見れば、イソップの寓話は「聖書」の600年以上昔から、さらに「論語」よりも100年以上長く読み継がれている。

それほど人間の本質に触れる物語だということだ。

 

「アリとキリギリス」……備えあれば憂いなし

「オオカミ少年」……嘘をつくと信用を失う

「金の卵を生むガチョウ」……成果を性急に出そうとすると、かえって損をする

「北風と太陽」……強制しても人は動かない

「金の斧と銀の斧」……正直者には報いを、嘘つきには罰を

「酸っぱいブドウ」……手に入らなかったものを蔑むのは簡単だ

「うさぎとかめ」……努力継続することが重要

 

などビジネスシーンでも、よく例え話として利用される寓話の殆どが、イソップによるものである。

むしろ、「自己啓発」の源流はイソップなのかもしれない。

 

余談だが、弊社では以下の分類に従って、「本を分類」している。

「千年本」・・・千年以上読み継がれた本。名著、とよぶ域を超えた本。意識はしていないが、この本のどれかに誰もが必ず影響を受けている。世界の思想の底流をなす本。

「百年本」・・・百年単位で読み継がれた、あるいは読み継がれそうな本。いわゆる「古典」多くの思想や技術に影響を与えた人類の至宝。

「十年本」・・・これから歴史の評価に耐えられるかどうか、試されている本。「本当に良い本」、「出会ってよかった」と同時代の多くの人が思う良本。

「一年本」・・・いわゆる「ベストセラー」にはなったが、その後決して読み返されない本。

「ゴミ本」・・・そのままゴミ箱に直行する本。

 

イソップの寓話は「千年本」だ。

子供の本だとバカにせず、大人になってから読むと、また味のある楽しみ方ができるのではないだろうか。

 

 

 

【「コミュニケーション」についての本を書きました。】

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(Photo:Paul Bence) 

 

知人の会社で、毎月決められた冊数の本を読むことが、奨励されていた。

評価にも反映される、ということで取り組みを始めたとのこと。

 

だが、取り組みをはじめて半年で、それが確実に遂行できている人数は全体の1/3になってしまった。

「なんでこんな簡単なことができないんだろうな」

と知人は言う。

「大した冊数でもないのに、別に仕事が忙しいわけでもないのに」

 

私は聞いた。

「課題が難しすぎるのでは?」

「そんなことはないと思う。指定した本はそれほど難しいものではないし、どうしても厳しければ自分のレベルに合ったものを選んでいい、ということになってる。」

「ふーん。」

「結局、やる人は何も言わずともやるし、やらない人は何かと理由をつけてやらない。お手上げだよ。」

 

彼は私の方に向き直って言った。

「と、いうわけで、なんで本を読まないのか、彼らに聞いてほしいんだけど。俺が言うと、萎縮してしまうので。」

 

*****

 

いつも彼は強引である。

私は彼にセッティングにしたがい、「課題を遂行できていない」人物の一人と、面談をさせてもらった。

 

「本日の面談の目的はご存知ですか?」

「知ってます。読書の件ですよね。すみません、できていなくて。」

「いえいえ、で、読めていない理由はなんだと思いますか?」

 

彼は苦笑いをした。

「弁解のしようもないのですが、単にサボっているだけです……。ちゃんとやります。」

「特に理由はない、とおっしゃるのですか?」

「いえ、読もうとはしてるんですよ。いつもカバンに入れてます。でもどうしても読む気が起きなくて……。」

 

確かにカバンには本が入っている。

「どこで読もうとしているんですか?」

「通勤途中とか、寝る前とか。」

「昨日、今日は読みましたか?」

「今朝はスマートフォンでニュースを見てまして……昨日の夜は寝てしまいました。」

「なるほど。ありがとうございました。」

 

 

他にも数名、「読めていない人」と面談をしたところ、理由は殆ど同じだった。

結局、

「読む時間がない」

「やる気がわかない」

「誘惑に負けてしまう」

と、彼らは言う。

 

*****

 

次に面談をしたのは、毎日欠かさず本を読めている、という方だ。

 

「毎日欠かさず本を読んでいる、と聞きましたが。」

「はい、いまのところ。」

「いつ読んでいるのですか?」

「通勤と、移動時間、あとは昼休み、ちょっとした隙間の時間です。」

 

前の方と同じような回答だ。

「やる気がわかないときって、ありませんか?」

「もちろんありますよ、私、意志が弱くて家に帰ると絶対に読まないので、日中、忙しくて読めなかったときは、家の近くのコンビニにイートインコーナーがあるので、そこで読んで帰ります。」

 

なるほど、と思う。

「1日にどれくらい読むことができますか?」

「そうですね、1日5ページは目を通す、と決めてます。まあ、読み始めると面白くて一気に読んでしまうときもありますが。」

「スマートフォンを見てしまったり、ついつい家に帰って寝てしまったり、ということはないですか?」

「ありますよ。実は最初の頃、なかなか本を読む気分になれなくて苦労しました。私、そのころスマートフォンのゲームにハマってたので。」

「どうやって切り替えたのですか?」

「私、気づいたんです。」

「?」

「つまりこれって、ゲームを取るか、本を取るかの2択でしょう。」

「なるほど。」

「だから、思い切ってゲームをスマートフォンから消しました。スマートフォンにゲームが入っていると、絶対やりたくなっちゃうし。」

「そうなんですか。」

「いつも思ってたんですよ。「ゲーム」って、時間の無駄だなって。いいきっかけでした。」

 

その後、更に数名の「読めている人」と話をした。

彼らの共通項は、

「読む時間を意図的に作る」

「1日5ページ、など目標がある」

「スマホや睡眠などの誘惑を断ち切るための工夫をしている」

だった。

 

*****

 

努力を継続している人は、「強い意志」によってそれを継続していると考えられがちである。

だが実際には、努力を継続できるかどうかの基準は、意志力ではない。

 

むしろそれは、「自分が努力をできるように、行動を設計できているか」に依存する。

英会話スクールも、ダイエットも、資格取得も、何かしらの技能習得も、すべて「自分の行動の設計」ができていれば結果が出るし、そうでなければ結果を出すことはできない。

 

その後、冒頭の「本を読めていない」という彼と、再度面談をした。

「スマートフォンを見てしまって、本が読めない、とおっしゃってましたよね。」

「ええ、でも、あれから、少し読んでますよ。頑張ってます。」

「それは良いことですね。……ちなみに、スマートフォンで何を見ているんですか?」

「(ニュースアプリの名前)ですね。後は(SNSの名前)です。」

「消したらどうですか?あとは、通知を切るとか。」

 

彼はまた、苦笑いした。

「ああ、そういうことですか。」

「別に強制はしませんけど。」

「いえ、習慣を変えたいと思ってたので、今消しますよ。」

 

*****

 

私も、スマートフォンがかなり時間を食うことを発見して以来、見る頻度が多いアプリは、トップ画面に置かず、できるだけ簡単に触れられない、フォルダの奥などに置くようにし、通知も切った。

 

ちょっとした工夫をするだけで、大きく習慣を変えることができる。

簡単なことだ。

 

 

 

【「コミュニケーション」についての本を書きました。】

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(Photo:Paul Bence)