ちょっと前の話なんですが、Twitter界隈で、「謝ってるから許してあげなさい」というのは理不尽だよね、という議論が盛り上がっているのを観測しました。
「謝ってるから許しなさい」他人を許すことを強要する教育に違和感…謝ったのに許してくれないという思考が生まれる原因にも。大人はどう対応すべきなのか?
「謝ってるから許してあげなさい」という教育は本当に害悪だと思う。許すか許さないかはその人にしか決められないし、相手を許せない自分に罪悪感を覚える必要もない。
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2018年12月25日
上のまとめは、色んなスタンス、色んな意見を無差別にまとめる形になっていると思うのですが、この記事で書くのは「twitterの流れをトリガーにした上での、私が勝手に考えたこと」です。
特にまとめを踏まえたものになっていないことはご了承ください。
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子どもの頃、「ほら、〇〇くん謝ったんだから許してあげなさい」と言われた記憶が、私にもあります。
「なんで許してあげられないの」などと怒られた記憶もあります。
もう細かい原因を覚えていないのに、その台詞だけはしっかり覚えているというのは、恐らくそれだけ「許してあげなさい」に感じた理不尽さが強かったんだろうなー、と今では思います。
つまり、いたずらをされて喧嘩になって、大人に怒られてその犯人が謝った時、
・何故か、「謝られた」ことで責任の位置が転倒し、自分が「許さないといけない」という責を負わされてしまう
・ただ「謝られた」だけで、自分の被害は何も回復していないのに、「水に流す」ことを強制される
ということに、幼少時の私はよっぽどの「理不尽」を嗅ぎ取ったのだろうなと。
なんでただ謝っただけで「責められる」側が入れ替わってるんだよ、と。なんで、その割に「許す」ことのトリガーを自分は持っておらず、大人トリガーで許さないといけないんだよ、と。
勿論、子どもの頃の話ですから、大人から見れば「他愛もないいたずら」「他愛もない喧嘩」だったのでしょう。大人になった今からすれば、その感覚自体は分かります。
ただ、大人の視点と子どもの視点は同一ではないし、大人の価値観と子どもの価値観も同一ではない。
大人にとっては「たかがおもちゃの取り合い」であったとしても、それは子どもにとって、決して許すことが出来ない大被害だったかも知れないのです。
そこを斟酌せず、「仲直りさせたい」というのは純然たる大人の都合です。
そりゃクラス運営の為には子どもたちを仲良くさせたいでしょうし、トラブルが起きたらどんな形であれ解決しないといけないのが教師の立場ですから、その「都合」を即座に否定する気はありませんが、それでも子どもの思い、子どもの悔しさというものを、全く無視して「許してあげなさい」というのは、ちょっと私には受け入れることが出来なかったのです。
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月日が経ちました。あれから30年以上が経過して、私はいつの間にやら3児の父になりました。
しんざき家には長男、長女、次女の3人の子どもが所属していまして、長女と次女は双子です。
幸いといいますか、長男は私が任命した「こどもリーダー」という立ち場を凄く大事に思ってくれており、長女次女の面倒も本当によく見てくれているので、長男と長女ないし次女の争いというものは滅多に発生しません。
ただ、長女次女双子は当然同い年でして、力関係は拮抗しています。お互い生活時間帯もほぼ一緒、行動範囲も行動スケジュールもほぼ一緒ということで、四六時中密着してもいます。
普段仲良し双子であることは間違いないんですが、やはり子ども同士、長女次女間での喧嘩はかなり頻繁に勃発します。
長女はいたずら好き、次女は生真面目ということで、長女が次女にちょっかいをかけて次女を泣かせることが極めて多いです。
長女的には次女大好きなんですが、どうもついついいたずらをしかけてしまうようなんですね。好きな子についちょっかいをかけてしまう、小学男子的マインドだと思います。
で、次女は泣くとすぐに「ぱぱーーー!!!」と大声で叫ぶわけで、長女次女間戦争の仲裁を私が務めることも増えました。
30年前の教師の立場に、今、私が立たされた訳です。
実際にその立場に立って分かりました。
「謝って、水に流しておしまい」って、何よりも大人にとって「楽」なんですね。
取り敢えずいたずらをした側を「反省」させたことにはなるし、喧嘩を終息させる為のゴール、マイルストーンとしてもとても分かりやすい。
表面上トラブルも解決し、その後も家族を平和に運営させ続けられる。言ってみれば仲裁をした人間の「成果」として、実に魅力的なんです。
長女も次女もまだ7歳であって、喧嘩の理由も「ぬいぐるみを取った」とか、「書きかけのノートに落書きした」とか、そういう規模のものばかりなんです。
大したことじゃないだろ、許してやれよ、と言いたくなることは、確かにありました。
けどそれ、違うよな、と。
そこでそう言ってしまうのは、かつて私に理不尽な思いをさせた先生と同じことだよな、と。
大人にとって他愛ないことは、子どもにとっては人生かける一大事だったよな、と。
いざ自分が仲裁する段になって、そういうことを思い出したんです。
勿論、長女次女は生まれた頃からの二人連れ、この先もずっと一番近い姉妹で有り続ける訳で、仲良くして欲しいのは山々です。
ただ、だからこそ、相手に対して「理不尽に許さなければいけなかった記憶」なんてものを残したくないと、少なくとも私は思ったんです。
勿論、してしまったことに対する反省と謝罪というのは、いたずらを仕掛けた側にとって重要です。
だから、「された側は何故嫌だったのか」「嫌なことをしてしまったら、何故謝罪しないといけないのか」ということをきちんと説明して、自発的に「ごめんなさい」が言えるように、ということはしています。
説明すると、長女はちゃんと謝れます。
ただ、それに対して、「じゃあ許してあげよう」というのは、私は言わないようにしています。
「今許したくなかったら許さないでいいよ」「ちゃんと「許していいや」って思ったら許してあげればいいよ」と言うようにしています。
「許す」のは飽くまで被害者の義務ではなく権利であって、許すトリガーを持つのは許す側であるべきだから。
許す際に何よりも必要なのは納得感であって、腹落ちしていないことを無理やり許さなくてはいけない程理不尽なことはないから。
勿論のこと、「それじゃ許したくない」という何か条件があるなら、それはそれで相談事項だと思います。
少なくとも、無理やり大人の側に「謝ったんだから許してあげなさい」と言われるよりは、その方が「理不尽感」を薄めることが出来るんじゃないかと。
勿論のこと、これは飽くまで「今のところしんざき家でやろうとしている、しんざき家のやり方」に過ぎません。
これが正しいやり方だ、一般的にこうするべきだ、という気も全くありません。もしかすると、後々「このやり方よくねえな」と思って私自身やり方を変えることもあるかも知れません。
ただ、今のところは、「許さないといけない」という理不尽感を発生させないことこそ重視しようと。当面はこういうやり方で運用してみようと、私はそう考えている次第なのです。
幸いなことに、今までのところ、少しの時間が解決しない程深刻な事態は発生しておらず、長女にいたずらをされても、次女は暫時距離を置いてから「いいよ、許してあげるよ」ということが出来ているようです。
もちろん、これは長女→次女の間ばかりのことではなく、逆の立場でも起こり得ることです。
許したり許さなかったりを繰り返しながら、最終的には仲良し双子として大人になっていってくれればいいなあ、と。
そんな風に考えている訳なのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
(Photo:World’s Direction)