品質管理のコンサルティングをしていた頃の話。
重要プロセスの一つに「協力会社の管理」があった。
協力会社の選定、評価、パフォーマンスの監視、再評価の4つについて、それぞれ基準を設けて、その基準に従って運用ルールを作り、それを実施する、という極めてシンプルなものだ。
したがって、我々は部門の責任者と担当者に、現在運用されている基準を最初に必ず確認していた。
ところが、中小企業はおろか、それなりに大きな企業であっても、この「基準」が個人の感覚に依存しているケースがとても多いことに驚いた。
例えば、現場責任者の課長にインタビューしても、こんな具合である。
「資料を見ると、R社に相当の仕事を外注されていますね。」
「そうです。」
「なぜ数ある会社の中から、R社を選定したのですか?」
「取引先の紹介です。評判が良かったので。」
ここまでは、まあ、普通である。
だが、詳細を聞いていくと、雲行きが怪しくなってくる。
「比較検討はなさいましたか?」
「相見積もりは取りました。」
「価格だけで比較したのですか?」
「……いえ、そうではないです。もちろん内容も見ました。」
「どんな項目について内容を見ましたか?」
「えーーー、納期、品質、対応の速さなどですかね。」
Q、C、Dと、教科書的な回答だ。
だが、ここで納得してはいけない。インタビューは、各論、個別、具体性が重要なのだ。
「なるほど、今「品質」と仰いましたが、例えば、品質の定義を詳しく教えていただけますか?」
「……えーと、数量にミスがないことと、受け入れ時の検査で不具合が出ないことですかね。」
「それはいずれの不具合もゼロ、ということですか?」
「まあ、それが理想です。」
「理想、ということは、ミスがあるということでしょうか?」
「たまには。」
「では、「理想」ではなく、「ルール」や「基準」として、いくつがダメで、いくつならOKなのですか。」
「……件数と言うよりは、大きな事故が起きた時に、対応する形です。一概には言えません。」
「わかりました。では「大きな事故」の定義を教えていただけますか。」
「んー………。」
言葉が出てこなくなった。
ただここで、「基準がないでしょう」と詰めても仕方ないし、意味もない。
あくまでも実際の事例に沿ってインタビューは行われなくてはならない。
「では、質問を変えましょう。大きな事故は、最近起きましたか。」
「えー、2ヶ月ほど前に大きな事故が起きました。」
「なぜ「大きな事故」と認識をしたのですか?」
「弊社の顧客への影響範囲が大きかったからです。」
「影響、とは具体的に何ですか?」
「お金のことが多いです。金額で決めているかな。」
「それはルールですか?」
「一応。」
「それは、現場の方もご存知ですか?」
「多分、知っていると思います。」
ところが、現場で改めてインタビューしてみると、「大きな事故」に対する社員の反応はまちまちで、ルールが適用されているケースと、適用されていないケースがあった。
この会社では、リーダーの判断で上に報告するかどうかが決まり、課長が知っている事故は、全てではなかった。
我々は、記録を調べ、照合し、丹念に一つ一つ、そのケースを洗い出した。
それを課長に知らせると、課長は「なんでこんな事故が報告されていないんだ!」と、リーダーに対して怒り出した。
現場の社員も戸惑っている。
「クレームにならなかったので、そんなに重要なことだとは思っていませんでした。」
それを聞いて、課長はまた怒り出した。
「なぜ、自分で考えないんだ。このケースは当然報告だろう!」
リーダーは不条理だ、という顔をしている。
「……はい。しかし……。」
我々は課長に言った。
「なぜ、ルールでは決まっていないことを「当然」と考えるのですか?」
「………。」
課長は、黙ってしまった。
結局我々は、内部監査のルールに従い、それを経営者に報告した。
その後、経営者の指示で、再発防止策として、一定の基準が定められたことは言うまでもない。
*
結局、この現場も「大きな事故」として取り扱うかどうかは、「課長の感覚」に委ねられていた。
もちろん、それが一概に悪いことだとは言えない。
全てにルールを定めることは不可能だし、効率を考えると、現場の裁量に任せてしまったほうが良いことも多い。
だが、「ルールがない」にもかかわらず、それに対してマネジャーが怒りを爆発させるのは、完全にお門違いである。
マネジャーが「明確な基準」を示さなければ、現場が動けないことは明白だ。
たとえ、気の利く現場の社員が、「ご報告しておいたほうが良いかと思いまして」と、気を利かせてくれたとしても、それを当てにするのは、完全に間違っている。
それは、一種のマネジャーの責任放棄である。
ルール違反は現場の責任だが、ルールがないことで事故が起きた責任は、マネジャーが取らなければならない。
先日、こんな記事が出た。
「納得感のあるダメ出し」と「しょうもない細かいダメ出し」は一体何が違うのか。
ダメ出しをする側としてまず自問しないといけないのが
「「ここはダメなんじゃないか」と感じた、その理由を明確に言語化出来るかどうか」です。
言語化出来るなら、それを共有することが出来ます。
共有出来る基準であれば、それが妥当かどうかは誰の目にも明らかになりますし、むしろ共有出来ること自体が基準の妥当さを保証することにもなるでしょう。
一方で、「言葉として説明出来ないような基準」はそもそも妥当なのか、という話があります。
それは徹頭徹尾「なんとなく」なのではないか、自分の中だけの感覚に過ぎないのではないか、という話ですよね。
「自分の感覚」だけに頼って他人の仕事のクオリティを図ることがどれだけストレスを発生させることか、自明な話なわけでして、「そもそもきちんと基準を言語化出来ない」と気づいた時点で、そのダメ出しは避けるべきなのです。
ポイントは「明文化、言語化」である。
だが、全てに当てはまるとは言えないが、どうも「古き良き日本企業」では、ルールを守ることは得意だが、ルールを明確に定めることが苦手なマネジャーが多いように感じる。
「なぜ基準を定めないのですか?」と聞くと、
「色々なケースがあり、一概にルールで記述できない」とか「ルールが多すぎると、窮屈だ」とか「判断するためにマネジャーがいる」とか、とにかくいろいろな反応がある。
だが、ルールを定めることと、特殊ケースが存在することは両立するし、ルールがあるから窮屈だ、というのも単なるイメージに過ぎない。
判断するためにマネジャーがいる、というが、常にマネジャーが待機しているわけではないし、すべての判断をマネジャーに委ねていたら、それこそマネジャーは仕事にならず、現場の作業が滞ってしまうこともよくある。
ある現場では、マネジャーに連絡がつくまで、会社に残ってないといけない、なんてケースもあった。そんなのは、不条理の極みとも言える。
要するに、そういった「判断基準の明確化」を保留するマネジャーは、マネジャー失格で、仕事をしていないのだ。
「ルールを定める」という重要な仕事を放棄している、とも言える。
きつい言葉だが、基準を明確に示さないマネジャーは、存在している意味がない。
私は、コンサルティングの現場で、それを嫌という程認識させられた。
Twitterアカウント▶安達裕哉(一緒にやりましょう!)
Eightアカウント(本記事の読者の方であれば、どなたでも、名刺交換リクエストを受け入れます。)
90万部突破のベストセラー『頭のいい人が話す前に考えていること』著者・安達裕哉が語る特別ウェビナーを開催します。
なぜか伝わらない。ちゃんと説明しているのに、人が動かない――その原因は「言語化」にあります。
問題を「話し方」や「伝え方」だと思っている限り、この課題は一生解決しません。
本ウェビナーでは、ベストセラー著者・安達裕哉が、言語化とは何か、なぜ「伝え方」だけ磨いても意味がないのか、信頼される人が無意識にやっている思考を、具体例と練習問題を交えて解き明かします。
自分以外の誰かの意思決定や行動を、前に進める立場にあるビジネスパーソンの方に特におすすめの内容です。
ぜひ、お気軽にご参加ください。

このウェビナーでお伝えする内容
・言語化とは何か
・伝え方だけ磨いても人は動かない
・信頼を得るには? – 青と白の服どちらが良い?
・練習問題 – 「夜ご飯何がいい?」
・1on1を「サクッと」済ませない
・「違う、そうじゃない」を防ぐ
・良い考えが浮かばないのはなぜ?
・ストーリーを作る
<2026年2月24日 実施予定>
なぜ、言語化できないと人は動かないのか
講演者:90万部突破!!『頭のいい人が話す前に考えていること』著者・安達裕哉【対象】
この講座の対象は、特定の職種や役職に限定されません。
共通する条件は、ただ一つ。「自分以外の誰かの意思決定や行動を、前に進める立場にある方」です。
例えば、
・上司として、部下やチームを動かす必要がある方
・マーケ担当として、営業や社内を動かす必要がある方
・事業責任者として、経営や他部署を動かす必要がある方
など、組織や立場は違っても、ビジネスパーソンとして「自分の言葉で人を動かす必要がある場面」に直面している方が対象です。
日時:
2026/2/24(火) 14:00-15:00
参加費:無料
Zoomウェビナーによるオンライン配信となります。
お申込み・詳細
こちらのウェビナー詳細ページ をご覧ください。
(2026/2/9更新)
【著者プロフィール】
Twitterアカウント▶安達裕哉
◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)
◯Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)
◯ブログが本になりました。
(Photo:Mikhail Kryshen)














