東大生は自分のことを貧乏だと思ってる

1000万円というのが金持ちの一つの基準で、それに足りないウチはやっぱり中流階級なんだと思った記憶がある。

僕は地方都市の郊外、人口5万人程度の町で生まれ育ち、小中高(駿)大と1年を除いてすべて公立で済ませてきた。

父母僕弟の四人家族で車は国産の普通車、家は駅から少し離れた3LDKのマンション、外食は月に一度するかしないか、98円の卵のために朝からスーパーに出かけるような、至って普通の家庭だ。

中高時代はスーパーのフードコートでマックポーク1個だけで粘り、近所の友人とオタ話に花を咲かせた。高校は街中にあったので、放課後にラーメン屋に誘われることもあったが、月5000円の小遣いがラーメンに消えるのが惜しくて断ることが多かった。

冒頭リンク先のタイトルは「東大生は自分のことを貧乏だと思ってる」だが、裕福ではない東大生の生態についてより、中流家庭で育ったとする筆者が中流家庭を自認し続けているところに私は興味を持った。

 

上の引用文を読み返すと、いかにも20世紀末の中流家庭といった風情がある。

4人家族、国産の普通車、駅から少し離れた3LDKのマンション、等々。金銭的に慎ましい、「普通」の家庭が連想される。

 

だが、筆者が東大に進んだ話になってからは、ただ慎ましい家庭ではなく、お金の使い道をきちんと考えた家庭で育った様子がだんだん見えてくる。

東大生の親は、子どもを遊ばせるためにお金をむやみに与えたりはしない。

しかし、教科書代や本代を惜しむことはない。もちろん親の財力には差があり、子どもへの仕送りの額にも違いはある。

が、ともかく、子どもが学歴をつけていくこと・子どもが安全を確保すること・子どもが体験を広げていくことにはお金を惜しまない。

 

筆者もまた、そのような家庭に育ったとみて差支えなさそうだ。文中に「学期初めの教科書代は別途追加で送られてきた」というくだりがあるし、そもそも、こういう視点で東大生の生態を書き綴れること自体、筆者がそうした考え方を身に付けてきたことを証明しているように思われるからだ。

 

私が見知っている東大生や医学部の同窓生の生態も、これとあまり変らなかった。

子どもに高級車をポンと買い与えるような家庭の親はもちろん、お金に困っている家庭の学生の親も、子どもの学術書代にお金をケチっているようにはみえなかった。子どもの学力や安全や成長にお金を惜しまない姿勢があったように記憶している。

 

「資本家」としての東大生の親

ここで再認識させられるのは、「東大生の親は子どものどこにお金をかけるべきか、よく選んでいる」ということだ。

東大生の親がお金をかけているのは、子どもの学力、安全、成長だ。

つまり、子どもの将来にかかわる領域にお金を使っている。

 

子どもがかわいいからといって一辺倒に甘やかすのでなく、子どもの将来にかかわる領域に集中投資をするさまは、不必要な浪費を避け、経済生産性をもたらすところに資本を集中させる資本家のようだ。

 

私は、子育てを投資とイコールで結び過ぎるのは危険な行為だとは思っている。

なぜなら、投資財としての子どもはあまりにも不透明で、あまりにも主体的で、親と子どもでは思惑も人格も価値観も異なるからだ。ここのところを忘れてしまい、子どもをピュアな投資対象とみなして子どもの人生を歪曲してしまう親も珍しくない。

 

とはいえ、子育てには投資になぞらえたくなる側面もある。子どもの学力や能力に費やしたリソースは、子どもの年収や就職可能性といったかたちで次世代の経済生産性に貢献する。

年収に直結しないとしても、文化資本というかたちで間接的に経済生産性に貢献する側面もあろう。そうやって、親の代につくられた経済生産性は子の代へと世襲されるか、ときには、子の代において拡大再生産されていく。

 

子どもの将来に選択的投資を行い、子どものキャピタルの拡大をもくろんでいる親は、選択的投資を行い、キャピタルの拡大をもくろんでいる資本家と発想の根幹が似ている。

 

ちょっと古いが、ブルジョワという言葉をご存じだろうか。

ブルジョワとはフランス革命以前の「第三身分」に相当し、王侯貴族でも従来の農民でもない身分がこれにあたる。

産業革命以降、ブルジョワとは専ら資本家のことを指すようになり、そのブルジョワと同じ精神性を持ったもう少しお金のない人々――たとえば事務職や専門職のような――のことは小ブルジョワとかプチブルジョワなどと呼ばれていた。

 

この視点でみると、東大生の親はブルジョワやプチブルジョワに相当する。

なぜなら、子育てを投資の視点でやってのける精神性と実行力があるからだ。

 

労働者的な親や田舎の農家の親はそうではない。

イギリスの労働者階級あがりの社会学者、リチャード・ホガートが書いた『読み書き能力の効用』にも、投資の視点で子育てをやらない(というよりできない)親に触れた箇所がある。

かれらは、いわゆる「教育のある人びと」の標準からすると、間違った子供の育て方をしている。私は、現代の育児の本で説かれているような標準のことを言っている。子供ばかりではなく、若者までもずっと結婚するまで甘やかすのが、ずっとむかしからの労働者階級の伝統なのだ。

労働者階級の親も子どもを大切に思うし、子どもにお金をかけている。

だが、それは「甘やかす」ものではあっても「選択的投資」ではあり得ない。いや、子どもに対してだけでなく、自分達自身に対しても彼らは「選択的投資」をなし得ない。

私は田舎の地域社会で育ったので、ここでリチャード・ホガートが言わんとしていることに実感がある。

 

昭和時代の北陸地方の田舎には、高度経済成長によって潤った家庭がたくさんあった。

たぶん、世帯年収で年収1000万をくだらない家庭も多かっただろう。手入れされた庭。大きな邸宅。立派な鯉のぼり。そういったものがごく当たり前に存在していた。

 

だが、そういった田舎の潤った家庭の多くは、東大生の親のような「選択的投資」をなし得ていなかった。

子どもが欲しがるものを与え、子育ての満足度を高めてくれるアイテムにお金をかけていた。

祭りの屋台を、子どもの金銭感覚を養い社会経験を拡げる場と捉えるのでなく、子どもが欲しがるものを買い与える喜びを得る場と捉える ── 今にして思えば、そういった親としてのありようは、ブルジョワ的・プチブルジョワ的というより、労働者階級的だった。

 

この視点で考えるなら、そういった田舎の潤った家庭の子育てや暮らしぶりは、金銭的には中流っぽくても精神的には中流ではなかったと言わざるを得ない。

それとは逆に、お金がカツカツでも東大生に本代を仕送りしている親は、金銭的には貧しくても精神的には中流だったと言える。

 

「精神的には中流」

以上を踏まえて、冒頭で紹介したはてな匿名ダイアリーの文章に戻ろう。

くだんの筆者は、いかにも慎ましいげに以下のように文章を締めくくっている。

妻は高いものを購入したい時、必ず僕に確認する。冬物のコートとか、デパートの化粧品とか(妻が怖じ怖じと切り出した割に、化粧品は6000円と意外に安かったのでそれぐらいなら確認せずに今後も買っていいと伝えた)。

僕も相談するようにしているが、この間のカメラのレンズはOKが出なかった。これが年収1000万円の暮らしなのか、と考えると今でも不思議な感じがする。まだ子供がいないから多少ゆとりがあるだけの、「普通」の家庭だと思う。

僕は今でも、自分のことを中流家庭だと思っている。

筆者はこうした慎ましげな家庭っぷりを披歴したうえで、「自分は中流である」と自称している。

 

確かに中流ではあろう。

だが私に言わせれば、この筆者が中流である最も重要なポイントは、年収の額でも趣味や化粧にお金を費やしている度合いでもない。

「選択的投資」を理解していること、そしてそのようなハビトゥス(習慣)を親や学習環境からしっかり継承していることが、筆者が中流である徴候とみる。

 

子どもの教科書代にお金を惜しまない親は中流的だが、そういった家庭で育ち、「選択的投資」という概念をしっかり内面化し、そのように社会を眺め、そのように世渡りしていく子どもも中流的だ。

たとえば普通の本屋には置いてなさそうな文化的な本を買い漁る学生などは、表向きは貧乏でもその精神性は中流的であり、いわば、精神的ブルジョワである可能性が高い。

少なくとも、同じお金をもっぱら呑んでしまったりソーシャルゲームのガチャ代に充てたりしている若者よりは、ブルジョワ的と言って差し支えないだろう。

 

資本主義のロジックを加速させていく現代社会を生き抜くにあたり、「選択的投資」をやってのけられる精神性は、あったほうが望ましいハビトゥスであり、かなり重要な文化資本と思われる。

 

「中流であり続ける」とは、年収が一定水準かどうか以上に、中流的・ブルジョワプチブルジュワ的な精神性が親から子へと適切に継承されていくことではないだろうか。

そして「中流になる」とは、こうした文化資本を自分の代になって初めて身に付けることではないだろうか。

冒頭リンク先の記事を読み、それから自分自身の生まれ故郷の過去と現在を思い出して、私はそんなことをふと思った。

 

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(2024/3/26更新)

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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