このメディアの名は、Books&Appsである。
だから、たまには本の話もしよう。
*
新人さんは特に、会社に入ると先輩や上司から、「本を読め」と言われるのではないだろうか。
そんなわけで、最近、「読まないといけないと思うんだけど、本が読めない」という方から相談を受けた。
聴くと、「できる」上司、先輩たちから、本を読め、とつねづね言われているとのこと。
彼は困ったように
「読書、苦手なんですよね……。」という。
「なぜですか?」
「私、読むのが遅いんです。あと、そもそも何を読んだらいいか、よくわからないんです。」
「なるほど。」
「あと、先輩の進めてくる本は難しすぎて……。最後まで読めたことがないです。」
うーん、気の毒である。
「読んではみたんですね?」
「まあ少しは。で、実は本は断念しました。で、「マンガでわかる」というシリーズが結構あるじゃないですか。漫画なら読めるんで、あれで読んで、話を合わせてます。」
「別にそれでいいと思いますけど。」
「マンガになってないものもたくさんあるし、ちょっとかっこ悪いじゃないですか。」
「スラスラ本を読めるようになりたいですか?」
「そりゃ、なりたいですよ。」
*
「本を読めない人」は、結構いる。
ただ、個人的には無理して読むことはないと思う。
本を読んだからって、必ずしも仕事ができるようになるわけじゃないし、本は確かに費用対効果の高い情報源として優秀であるが、本が読めなければ、他の情報源で帳尻を合わせれば良いのである。
第一、楽しくないことに時間を使うのは、人生の無駄である。
しかし。
「本が読めるようになりたい」と思うのに、それができないのはちょっと気の毒だ。
なんとか解決してあげたい。
だが、どうすれば彼が本を読めるようになるのだろうか。
いろいろと考えてみたのだが、結局噛み砕いていくと「読書」に対して、最も普遍的なアドバイスをしているのは、19世紀の哲学者、ショウペンハウエルだ。
彼は、読書について書いた本を残している。
タイトルはずばり、「読書について」だ。
ここには、役に立つ指針が並んでいる。
1.古典を読むべし。新刊は読むな。
ショウペンハウエルの主張は明快だ。
まず彼の主張の中で、最も重要なアドバイス「何を読むか」に対しては、彼は「古典を読むべし、新刊は読むな」という。
読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。
その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。
むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。
要するに「人生は有限だから、実績のある古典だけ読んでりゃいいんだ」という話である。
極端にも聞こえるが、個人的には大いに同意するところだ。
大きな理由は2つ。
一つは供給過多。
月に出る新刊の数は約6000冊で、とてもではないが、全ては読み切れないし、読む価値のある本がますます判断しづらくなっている。
どの本を読んだら良いのかわからないのでは、貴重な時間を浪費したくない人に、本が読まれないのは当たり前だ。
二つ目は、供給過多に伴う品質の劣化。
特に「ほとんどの書店には、良い本を勧める能力がない」という事実である。
ベストセラーや、平積みを見てみるといい。
それは主に出版社と書店のマーケティングの結果を示しており、中身が良いかは全く別の話だ。
それらは「出版社と書店がプロモーションしたい本」であり、必ずしも「我々が読むべき本」ではない。
「いや、平積みはともかく、ベストセラーは良い本もたくさんあるだろう」という指摘もあるだろう。
だが、あえて言うと、本の質の判定には「どれくらいたくさん売れたか」よりも、「どれくらい永きにわたって売れたか」のほうが、圧倒的に重要だ。
10万部売れた?30万部売れた?
いやいやいや。
そんなものは、「60年間読まれ続けている」「200年間読まれ続けている」「1000年読まれ続けている」に比べれば、なんの価値もない。
実用書は、「普遍性のあるものについて書かれている」ほど、読む価値がある。
歴史の風雪に耐えて生き残ったコンセプトは、真理を表している可能性が高い。
だから弊社は、図書の分類を「年代別」にしている。これは、出版されてからの年数を示したもので、
「一年本」
「十年本」
「百年本」
「千年本」
の五種類だ。無論、読むべきは「十年本」以上である。
出版してから十年以上売れ続け、増刷を繰り返している本は、ハズレが殆ど無い。
「どの本を読めばよいかわからない」という方は、十年以上前に出た本しか読まなくてよいだろう。
もちろん、例外もある。新しくとも、学者が書いており、参考文献とエビデンスがきちんと示されている本ならば、良質である事が多い。
これは、「時間による普遍性の検証」ではなく、「科学的手法による普遍性の検証」が行われているため、質が高い傾向がある。
皆が着目していなくても、きちんとした研究と、検証を経て、世に出した情報には相応の価値があるだろう。
なお、ジャーナリストなどが書いたものであっても、信頼性の高い参考文献がきちんと示されているならば、「普遍性がある」と判断しても良い。
繰り返すが、本は「普遍性」を求めて読むのだ。
本は、「最新の情報」を求めて買うものではない。速報性では、新聞、TV、webには当然勝てず、雑誌にすら遥かに劣る。
だいたい、本を読むなら「みんなが知っていること」を求めて買うのは賢いとは言えない。
本に書いてある内容は、「みんなが本を読まない」からこそ、貴重なのだ。
だから、「今のベストセラー」、例えば、時の芸能人が書いた本や、最近業績が良い企業経営者の書いた本、流行りのキーワード(AIやRPA)に乗っかっただけの本などは、ベストセラーになっていても、うかつに手を出すべきではない。
これらは「読書の上級者向けの本」と割り切ることだ。
2.本の内容を憶えようとするな。繰り返し読め。
ショウペンハウエルが更に主張しているのは、「本の内容を憶えようとするな」である。
彼は、次のように述べている。
読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。
思うに、読書というのは、「読んだあとに何が残るか」に価値があるのではない。「読んでいる途中に、何を考えるか」に価値があるのだ。
わからない言葉が出てきたら、それを調べる。
自分の考えと異なる主張が出てきたら、その背景を探る。
自分の言葉に置き換えて、主張を再構成する。
そういったことが、自分の血肉となっていく行為が、読書である。
したがって、読書は同じ本を何度も繰り返して読むことが良い。
その血肉となる行為を反復することで、内容が自分のものとなるからだ。
「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。
それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。
さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。
だから、巷で人気のある「速読」は、全く意味のない行為であると、個人的には思う。
また「速読」は、知識の獲得という事においても、それほど有効ではないことが、カリフォルニア大学の研究で主張されている。
本当のところを言うと、読書のスピードを何が決めるのかといえば、実は「知識の有無」である。
「内容についての前知識があるかどうか」が、本を早く読むために最も重要だ。
例えば、ピーター・ドラッカーの書籍は「難解だ」と言われることが多々ある。
(だから、解説本が多く、「もしドラ」が爆発的に売れた。)
「マネジメント」には「企業は営利組織ではない」との突飛な主張があるが、ドラッカーがなぜこのような主張をしているのか、真に理解するのは難しい。
企業とは何かと聞けば、ほとんどの人が営利組織と答える。経済学者もそう答える。
だがこの答えは、まちがっているだけでなく的はずれである。経済学は利益を云々するが、目的としての利益とは、「安く買って高く売る」との昔からの言葉を難しく言いなおしたにすぎない。
それは企業のいかなる活動も説明しない。活動のあり方についても説明しない。
利潤動機には意味がない。利潤動機なるものには、利益そのものの意義さえまちがって神話化する危険がある。
利益は、個々の企業にとっても、社会にとっても必要である。しかしそれは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件である。企業活動や企業の意思決定にとって、原因や理由や根拠ではなく、その妥当性の判定基準となるものである。
そのような意味において、たとえ経済人の代わりに、天使を取締役に持ってきたとしても、つまり金銭に対する興味がまったく存在しなかったとしても、利益に対しては重大な関心を払わざるをえない。
この文章が「読めない」「難解だ」という人は多いかもしれない。
なぜなら、これを読むにあたり
「利潤動機」
「経済人」
などの一般的ではない言葉が出てくる上に、
「まちがっているだけでなく的外れ」
「目的ではなく条件」
「妥当性の判断基準」
など、独特の言い回しも、スラスラと読むには訓練を必要とする。
つまり、書籍は数学などと同じように「知識の積み重ね」によってしか、早く読めるようにならない。
加減乗除を理解せずに、微分積分を理解することはできない。
微分積分を理解せずに、解析学を理解することはできない。
そう言うことである。
したがって、マネジメントに関して全く知識のない新人に、
いきなりドラッカーを読ませようとしても、それは小学生にいきなり微分積分の教科書を渡すようなものである。
物事には順序というものがあり、知識には系譜というものがある。
それらを無視して先に進むことはできない。
だから、本は「調べながら読む」のが、一番良い。
最初に手にした一冊の本に3ヶ月かかろうが、半年かかろうが、良いのである。
こう言う読書を繰り返していると、読書から知識を得るスピードは「知識レベル」の向上とともに、加速度的に増す。
本をよく読む人は、ますます本から知識を得るスピードが上がる一方で、本をきちんと読まない人は「本から知識を得る」ことがますます難しくなっていく。
したがって、「早く読めない」という人に対しては、その分野の「本当に易しくて、読む価値のある古典」から、渡さなければならない。
早く読む必要なんて、まったくないよ、と言ってあげねばならない。
そして、その本を何度も反復して読んでいるうちに、「次の本」が恐ろしく早く読めるようになっていることに、いずれ本人が気づくのである。
3.熟慮なしの読書など、する必要はない
そして、ショウペンハウエルの最も重要な主張は、「本に書かれていることについて、改めて熟慮せよ」である。
熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。
読んだ感想をブログなどにアウトプットしてみる。
仕事の中で試してみる。
対人関係に活かすために、あれこれ思索する。
そういった「熟慮」を引き起こすことこそ、読書の価値である。
ショウペンハウエルは、「読書だけして、熟慮しなければ、バカになるぞ」という。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。
習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。
だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。(中略)
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。
痛烈な皮肉が込められているが、主張は真理であろう。
だが、焦る必要はない。
ショウペンハウエルが「読んだ分量の五十分の一も身になればせいぜいである」と言う通り、何かわずかでも得るものがあり、人生にとって良いことがあるならば、それは立派に「素晴らしい読書」と言えるのだ。
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