去年のこの時期はすごく暑かったような気がする。

よくよく考えると、去年はもっと暑かったと去年も言っていたような気がするので、まあループ世界なんだろうと思う。

そう、夏とはループするものなのだ。

 

その熱帯のような暑い気候とは裏腹にこの時期の僕の気持ちは憂鬱だった。

仕事の関係で兼ねてから「いやな感じの人だなあ」と感じていた人とペアを組む必要が出てきたのだ。

これまでの人生、そこそこ自由奔放に生きてきたので、けっこういい歳だというにあまり好ましくない人との付き合い方が分からないのだ。

 

「どうしたものか」

床に入り、そう呟く。

 

ふと天井を見上げると、そこには巨大なクモがいた。それはそれは巨大な、グローブ大はありそうなクモがそこにいた。

一瞬、怯んでしまいその後、クモと睨みあう形になってしまった。お互いがお互いを警戒し、牽制しあう状態だ。殺される、そう思った。

あれだけ大きなクモだ、毒とかあるんじゃないだろうか。いきなり襲ってきたりするんじゃないだろうか。様々な事態を想定した。

 

視線を逸らさないようにしてスマホを手繰り寄せ、色々と検索してみた。

どうやら、あれはアシダカグモというらしい。

説明によると、見た目はかなり恐ろしいが、特に人を襲ったりはしないようだ。もちろん人間に影響する強い毒は持たない。

それどころか、ゴキブリなどの害虫を食べてくれる益虫らしい。軍曹、家の守り神とまで書いてあるところもあった。

 

「なんだ、見た目は怖いけどいいやつじゃん」

心の底から安堵し、その日は眠りについた。しっかりゴキブリを獲ってくれよ、くらい考えていた。暑く、寝苦しい夜だった。

 

 

次の日、オフィスに行くと恐れていた通り、苦手な感じの人と組まされることになった。

高圧的な物言いで、自己中心的、平気で相手を傷つける人物、なる噂を聞いていたので絶対に苦手な人だと思っていた。

 

けれども、実際に話してみると、確かに高圧的な物言いではあったけど、そこまで自己中心的な感じはしなかった。

それどころか、けっこう気遣いもあり、他者への思いやりもある。

それをストレートに表現できないだけの不器用な人で、悪い人に見えてしまう、そんな感じに思えた。

 

「なんだ、実際に話してみるといいやつじゃん」

そう思った。

「噂だけで人を判断しちゃいけないな」

自分を省みつつ床に入り、天井を見上げると、昨日と全く同じ場所にアシダカグモがいた。

丸一日、ずっと動いていないかと思うほどに、同じ場所にいた。また目が合う。

 

さらに調べてみるとアシダカグモは網を張らず、徘徊する種類のクモだ。

つまり、同じ場所に留まることはそうそうないと考えられる。

 

なにか動けない理由でもあるのだろうか。

もしかしたら死にかけているのだろうか。

 

立ち上がって凝視して見ると、このアシダカグモには足が1本ないことに気が付いた。

何らかの理由で足がもげてしまったようだ。

それが理由で動けないのかもしれないし、エサを満足に取れないのかもしれない。だから死に瀕してこうなっているのかもしれない。

 

なんだか可哀想になったので、このクモを保護することにした。

アシダカグモはかなり機動力があり素早いと記述があったが、やはり弱っているのか、うまく動けないのか、簡単に捕まえることができた。

そして、虫かごに入れて保護、しばらく様子を見ることにした。

こうして、僕とアシダカグモの奇妙な日々が始まったのである。

 

 

最初に見た時はグローブ大の大きさがあると感じたが、あれは驚きのあまり印象が誇張されただけのようだ。

こうして保護して見てみると、実際にはそんなことはなくてせいぜい8センチ程度、それも大部分が長い脚なので、本体の大きさとしてはかなり小さいことが分かる。

 

保護してみたのはいいものの困ったことになった。

アシダカグモにあげるエサが分からないのだ。

キャットフードみたいな粒状のエサを与えてみたが興味がない様子だった。たぶん、生餌でないと食べないのだろう。

Wikipediaには「ゴキブリが主食」と書かれていて、生きてるゴキブリなら食べると思われるが、そもそも探してほいほいゴキブリが出てくる状況にない。見つけられたとしてもとても生け捕りにする勇気はない。

 

何がいいのか分からないので、近くの空き地で色々な虫を捕まえてきて与えてみた。

すると、コオロギをよく食べることが分かった。

見た目がちょっとゴキブリに似ているためか、本当に好んでよく食べた。

ただ、足が一本ないためか、うまく捕まえられないらしく、何度か失敗していた。

 

コオロギを食べるのなら都合がいい。空き地で捕まえるのはなかなか大変なのだけど、コオロギなら近くのペットショップで爬虫類などのエサ用に販売している。それを買ってきて与えることにした。

 

すると、ペットショップのコオロギはやや大きいサイズらしく、恐れをなしたのか食べようともしなかった。

ゴキブリなんかはこのコオロギより何倍も大きいのに、ちょっと大きいだけのコオロギは食べない、本当にゴキブリを食べるのかよと不思議になった。

でもゴキブリを捕まえて確かめる気にはならない。

仕方がないので、空き地で小さなコオロギを捕まえる日々が続いた。けっこう手間がかかるやつだ。

 

 

そんな折、オフィスの方でも変化があった。

苦手な感じがすると思っていたが、実はそうではないと感じつつあったパートナーだが、その彼が本領を発揮し始めたのである。

 

相変わらず高圧的な物言いだったが、突如としてこちらに対する配慮を欠いた言動が見られるようになった。

詳細な言及を避けるが、これまではこちらの人権を尊重したかんじだったが、それらを一切考慮しない物言いに変わった。

 

まるで脱皮したかと思うほどの豹変ぶりだった。たぶん様子を見ていたんだと思う。

一時は、噂だけで苦手な感じと判断して反省、反省だよ、と思ったもののやっぱり噂通りじゃないか、苦手な感じだ、と納得してしまった。

 

家に帰ると、アシダカグモが脱皮していた。

虫かごの底にゴロンと脱ぎ捨てた衣が転がっており、本体は元気そうに蓋のところに張り付いていた。

驚いたのは脱皮だけじゃない。なんと脱皮によってもげていた足が再生していたのだ。

これはエヴァが暴走した時に「左腕復元!」となった時くらいの驚きがあった。

おまえ、再生すんのかよ、と虫かごの前で叫んでしまった。

 

さて、そうなると、8本揃った足で苦労なくエサを取れると思うので、特に保護しておく理由はない。

だから放してあげても良かったのだけど、なんとなく寂しい気分がしたので引き続き保護することにした。

もしかしたらもう野生には帰れない可能性もある。保護すべきだと思った。

 

 

ペットショップで買うコオロギは食べないので、さらに空き地で捕獲する日々が続いた。

そのうち季節が廻り、暑い季節は終わっていった。

 

寒くなってくると空き地でコオロギを捕獲できなくなってきたので、仕方なく、ペットショップでコオロギを買った。

なるべく小さいヤツをお願いして詰めてもらった。

 

エサに関しては一つ、大きな発見があった。

やはり小さくてもペットショップのコオロギはあまり食べなかったが、ハエをよく食べることを発見した。

むしろ好物だろうというかぶりつきかただった。

 

しかもハエはゴキブリに比べて生け捕りにすることが容易かった。

半分に切ったペットボトルを使えば簡単に捕まえられる。そしてゴキブリに比べて心理的な負担も少ない。

家にハエが出たら捕まえて与える。アシタカは喜んで食べた。

 

アシタカとの日々は単調に続き、オフィスでの憂鬱な日々も同じように続いていた。

そして、また暑い気配がする季節がやってきた。

いよいよアシタカが我が家にやってきて1年が過ぎようかという時、嫌なヤツと組まされるようになって1年が過ぎようかという時、大きな異変が起こった。

 

 

職場のマドンナ的存在の人が、結婚を機に退職することになった。

僕のパートナーはこのマドンナの大ファンだった。ちょっと本気で狙っている向きがあった。

悔しさと、寂しさを滲ませた良く分からない表情をしながらその報告を聞いていた。

 

ただ、マドンナの方はそうではなかった。

彼にかなり高圧的な物言いをされ傷つけられ、パワハラ的な言動もあったときく、そう、彼女は完全に嫌っていた。

 

「一個だけすっごい安物にしたの」

彼女は退職の挨拶と同時に、少しシャレた小物を準備していた。

ちょこっとデスクの端に置けるような、彼女のセンスが光る品物だ。

それらを丁寧に梱包し、オフィス全員分を準備していた。

 

ただ、彼女としては、嫌いなあの人にその品物を渡したくなかったようだ。

100均で買ったようなヤツにして、他の品物と同じように梱包だけしたらしい。

僕にだけこっそり教えてくれた。けっこう性格きついマドンナだ。

 

ただ、僕も彼にはかなり嫌な思いをしていたので、ざまあ、という気持ちがあった。

 

ただ、梱包も開けず、それを大事そうにデスクの引き出しにしまい込む彼を見ると、妙に胸が締め付けられる気がした。

彼は何を想ってしまい込んだのか。開けてしまったらマドンナの結婚を認めることになってしまう。

でも捨てるわけにはいかない。大切なマドンナがくれた品物だ。

じゃあ、そこまで想うマドンナになんであんな高圧的な態度をとったのか。色々な想いが駆け巡った。

 

 

家に帰ると、アシタカが奇妙な動きを見せていた。

虫かごの壁に張り付き、何やら魅惑的に尻を振っている。一年間一緒に暮らしてきて見たことがない動きだ。

 

「なんだ? 誘ってんのか?」

しばらく様子を眺めていると、どうも虫かごの壁に向かって糸を出しているようだった。

調べたところによるとアシダカグモは滅多に糸を出さない種類のクモらしい。

それが壁に向かってものすごい勢いで糸を放出し、みるみる虫かごの壁の一部が白くなっていった。

白い糸の塊は厚みを増していき、みるみるアシタカの体長と同じくらいの白い円盤が出来上がっていた。

 

「なんだこれ?」

調べてみると、これは卵嚢らしい。自分の糸で作った円盤状の卵嚢に卵を産み、産まれるまで飲まず食わずで守り通すらしい。

アシタカはその卵嚢を自分の足で器用に抱えていた。

 

「お前、メスだったのか」

虫かごの前でそう呟いた。

 

 

次の日もアシタカは卵嚢を抱えていた。そしてその次の日も抱えていた。

与えられたハエも食べず、必死に卵嚢を抱えて守っていた。

その健気さは心を打つものがあった。たぶん子供が生まれるまで必死に守っていくのだろう。

 

ただ、ここにきて重大な事実に気が付いた。

 

「子供、生まれないんじゃないか……?」

 

よくよく考えると、この一年間、アシタカは虫かごの中だ。

つまり異性と接触する機会がなかったはずだ。接触がないのなら卵が生まれるはずがない。

つまり、あの円盤状の卵嚢には卵が含まれていない可能性が高い。何も生まれてこない可能性が高い。

 

そんな卵嚢を必死に抱え、守るアシタカの姿に心が締め付けられる想いがした。

僕がアシタカを捕まえて保護さえしなければ、異性と出会い、この卵だって生まれてきた可能性が高い。

僕が捕まえたばっかりに、彼女は生まれることのない卵嚢を飲まず食わずで守り通すことになったのだ。

 

毎朝、アシタカの姿を確認する。まだ卵嚢を抱えている。大切そうに抱えている。決して生まれることのない卵を愛おしそうに抱えている。

もういいんだ、やめてくれ、僕が悪かった。やめてくれ。

 

 

オフィスに行くと、あの嫌な感じの人が、まだマドンナからもらった記念品を大事そうにしまい込んでいた。

自分だけ安物が入っていると知らず、梱包されたままの状態で大切そうにしまいこんでいた。その姿が、アシタカと重なった。

 

「開けないんですか、それ」

たまりかねた僕がそう聞くと、彼ははにかみながら首を横に振った。

その表情が僕の心を締め付けた。

 

そこには他の人みたいなセンスのいい小物が入っているわけではない。

マドンナが最後に嫌がらせに安物を入れたのだ。100均のやつだ。

僕はそれを知っている。

知らずに大切そうにしまいこんでいる彼に教えるべきなのか、教えないべきなのか。

 

家に帰れば、アシタカが生まれない卵を抱えている。

オフィスに行くと、彼が自分だけ安物の記念品を慈しむように保管している。

 

もうやめてくれ。二人ともやめてくれ。

二つの事実が僕の心を締め付けた。

アシタカは死ぬまで卵嚢を抱えて守るのだろうか。

彼は死ぬまで安物としらず記念品を保管し続けるのだろうか。

 

 

「全員入っているものが違うらしいですよ。開けた方がいいですよ。もしかしたらメッセージとか入ってるかもしれませんよ」

苦しさのあまり、そう指摘してしまった。これでこの苦しさから解放される。完全に利己的な想いがあった。

 

「そ、そうか、じゃあ開けてみるか」

開けてみると、本当にそこにはまあ、安いんだろうなという小物が入っていた。

他の人の小物は洗練された感じで花とかをモチーフにしたものなのに、彼のものだけ、カエルが大股開いているみたいな、ちょっとセンスのカケラすら感じられないものだった。どうみても他の人の物より2ランクくらい落ちる。

 

彼はそれを知ってしまった。これで僕だけが知っていて心苦しくなる状態から解放されるのだ。

彼の表情を見ると、おそらく自分だけがセンスの悪い安物を渡されたと分かっているはずなのに、嬉しそうに笑っていた。

そして変わらず、その大股開いたカエルの小物を大切そうに引き出しにしまい込んだ。

 

たぶんやっぱり、不器用な人なんだ。

 

家に帰ると、ついに諦めたのか、アシタカがボロボロになった卵嚢を放り出し、ハエを捕食していた。

 

 

もうあんな心苦しい思いはしたくない。

そのために、もうアシタカは放して来年こそは卵を生めるようにしてあげたい。

そして、パートナーに対しても横暴な言動に対してはきちんと指摘し、オフィスのみんなに嫌われないように軌道修正していくべきなのだ。

 

そう決意したけど、相変わらず寂しいしかわいいやつなので、放すことなく虫かごでアシタカを飼い、捕まえてきたハエやコオロギを与えている。

そして、パートナーも、その横暴な言動の裏に隠された不器用さがかわいいので指摘せずに凸凹コンビのまま仕事をしている。

 

何も変わらない夏がまたやってくる。

きっと夏はループしているのだ。

 

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(2024/3/26更新)

 

 

【プロフィール】

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

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(Photo:Chris Fithall)