少し前から、貧困に関する記事を頻繁に目にするようになった。

これらは、日本が貧しくなっていることの現れなのかもしれない。

ダウントレンドの国では、資源の取り分を巡る話題が盛り上がる、ということなのだろう。

 

しかし「貧困の解決」となると、これは難しい問題をはらんでいる。

 

 

少し前までは「貧困は自己責任」という論客を多数目にした。

高度成長の時期のように、国全体が盛り上がっており「大半の人は努力次第で豊かになれる」世界であれば「貧困は自己責任」と言っても許されたかもしれない。

 

だが、現在のような知識社会では「貧困は自己責任」とは言いにくい。

貧困は、生まれ持った知能のレベルに左右されることはもちろん、環境によって大きく左右され、社会現象であることはもはや議論の余地はない。

 

完全な個人の責任ではない以上、ある程度の支援は必要だ。

これを否定する人はいないだろう。もはや、「貧困は自己責任かどうか」問う段階は過ぎた。

「貧困は救うべし。」

これは、社会的な合意と言って間違いはないだろう。

 

ところが、実際に支援をする段階になると、問題が起きる。

「一体、誰が貧困なのか?」という問題だ。

 

一体、誰が貧困なのか

社会学者の阿部彩氏は、「貧困」に関しては、日本政府は公式な定義を発表していないという。

それでは、日本の子どもの何%が貧困であるのか。この問いに答えるのは、簡単なようで簡単ではない。

日本には、政府による公式な貧困基準(貧困線)が存在しない。

(中略)

現代日本の社会において、給食費が払えない子どもは「貧困」なのであろうか、公園で寝泊りしているホームレスは「貧困」なのだろうか、毎日夕食をファーストフード店でとらなければいけないフリーターはどうであろうか。

いったい、どれくらいの生活水準までが「普通」で、どこから以下が「貧困」であるのか。所得で言えば、いったい、何万円くらいが、その境界線となるのであろうか。

そこで、「貧困」の議論でよく用いられているのが、絶対的貧困と、相対的貧困という概念だ。

これは、なにを持って貧困とするか、裏を返せば、なにを持って優先的に支援の対象となるかに対して、一定の解を与える指標である。

 

絶対的貧困

世界銀行は、1日1.90ドル以下で暮らしている人を、絶対的貧困としている。

「ファクトフルネス」によれば「レベル1」の人々だ。

ただ、こうした「食うや食わず」の人々は、著しく減少している。

世界でも10億人と少数派である上、日本にはこうした人はほとんどいない。

 

日本人はほぼすべての人が、上の図で言う「レベル4」であり、世界で最も裕福な人々の一人だ。

 

相対的貧困

だから、よかった!貧困の問題は解決しつつある!といって、納得する人は、日本ではほとんどいないだろう。

なぜか。

それは「人は比べる生き物」という、本質がそこにあるからだ。

 

具体的には、「相対的剥奪」という概念がある。

人が達成したいと思っている水準と,現実に達成された水準とのギャップがあれば、人は不満を感じるのだ。(参考:公正指標による相対的剥奪論のフォーマライゼーション

 

その感覚は、この記事によく現れている。

「俺らが生きづらい社会」は「あいつらが生きやすい社会」

進歩についていけない人々は、今日の情報環境のなかで何重にも搾取されて、何重にも損をしている。

アマゾンや楽天では便利なサービスを受けているかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料でガチャを回して喜んでいるかもしれないが、それでもトータルとしてみれば、進歩と自分自身とのギャップの程度のぶんだけ、搾取されたり損をしたりしているはずである。

いっぽう、進歩についていける人は進歩の恩恵にあずかり、チャンスをものにする。インターネットに搾取される以上に、インターネットで利益や機会を掴んでいく。

面白いのは、ここで「損をしている」として、議論されているのは「絶対的な損失」ではないことだ。

あくまでも「俺ら」と「あいつら」との、相対的な差である。

 

終戦直後の日本に比べれば、今のほうが「絶対的」には豊かであることは疑いの余地はない。

ただし、精神的に豊かであるかどうかは、別の話、というわけだ。

 

そしてこの感覚を「貧困」の定義に用いようとする人々がいる。これが冒頭のTweetにもあった「相対的貧困」という概念だ。

「貧困」を見つめるまなざし ~我々は何を貧しいとみなしているか:その壱

相対的剥奪という概念を考えたとき、議論の土台となるのは、その国の住民たちが、国民としてこれは享受できて当たり前、と誰もが思っている事柄が、実行できない、という社会の認識です。

しかるに、その国民が、「享受できて当たり前」と考えている事柄とは一体何なのか、を問うことで、その社会がもっている貧困観を逆説的に浮かび上がらせることができるわけです。

ようするに「貧困」は比較と認識の問題で、それらも含めて貧困問題だというのが「相対的貧困を救うべし」という論者の主張だ。

 

これを指標化したのがOECDだ。

貧困は「周りの人と、自分の稼ぎの差」によって決定される。

貧困線とは、等価可処分所得(世帯の可処分所得(収入から税金・社会 保険料等を除いたいわゆる手取り収入)を世帯人員の平方根で割って調整 した所得)の中央値の半分の額をいいます。(参考:国民生活基礎調査

現在の日本では、年間の一人あたりの手取り所得が約125万円以下の人のことを指す。

上の「ファクトフルネス」の図では、日本人であるにも関わらず、レベル4と3の境界にいるような人々のことだ。

 

「誰が貧困なのか」で我々は合意できるのだろうか?

ところがこの基準については、議論が尽きない。

絶対額で見れば、ある国では貧困層としてカウントされる人も、別の国の基準でみれば貧困ではない、ということもあり得ます。

そもそも、なぜ中位所得の50%の水準なのか、という論点もあります。

相対的な貧困は、主観に依拠している以上、基準を設けるのが極めて難しいのである。

 

だから「相対的貧困は解決不可能」という主張もでてくる。

相対的貧困は解決できるか

人は飢えて死ぬばかりでなく、羨望でも死ぬのだ、というのは事実だろう。

けれども、「飢え死にしそうな人間」と「羨望で自殺しそうな人間」のどちらを先に救済すべきかと言えば、限りあるリソースは「救える方」に配分すべきだろう。

相対的貧困には原理的に「打つ手がない」からである。

というのは相対的貧困というのは「脳」が作り出したものだからだ。

脳は「自分に欠けているもの」を無限に列挙することができる。

なるほど……。

 

本当だろうか?と思っていたら、例えば、こんな記事を見かけた。

埼玉で人並みの生活、月収50万円必要 県労連が調査

回埼玉県内で人並みに暮らすには月約50万円の収入が必要で、子供が大学に入ると支出が急に増え、奨学金がないと成り立たないとする調査結果を、県労働組合連合会(埼労連)と有識者がまとめた。

ちなみに、統計によれば、埼玉県のアラフォー男性の年収中央値は574万円

これは天引き前なので、手取りはもっと少ない。

……ということは、ほとんどの人が「人並み以下」という奇妙な結果が提示される。

 

そんなアホな。

人並みの給料で暮らしている人が、人並みの暮らしのはずだ。

ただ、この調査は「回答者の7割以上が持つ物を「必需品」とし、それを持つ生活を「普通の生活」と定義。」しているそうだからこうした結果になってしまう。

これは確かに「あいつが持っているのに、オレは持っていない」とう、脳が作り出す貧困にほかならない。

 

このような「解決が極めて難しい相対的剥奪」感は企業の中でもよく見られる。

 

例えば、若手に「成果によって、給与に差をつけてほしいか」と聞くと、だいたい「つけて欲しい」という回答がある。

だが、実際に差をつけて評価すると、「めちゃめちゃ不満が出る」のだ。

 

実際に、評価を厳密に行い、根拠について丁寧な説明をしても、必ず

「評価の基準があいまいだ」

「担当しているお客さんが悪かっただけだ」

「もっと長期で評価してほしい」

「プロセスを見てほしい」

「上司の指導が不適切」

「上司に嫌われたからだ」

と、ありとあらゆる評価の穴を見つけて、差をつけられたほうが、大きな不満を持つ。

これは、客観的な証拠を示しても、誰がどのようなシステムに基づいて評価をしても、必ず不満が出る。

 

要するに「カネの配分」という、極めてセンシティブな問題は、「誰を評価すべきか」についての合意形成が極めて難しい。

すべての人が満足する解など、決してありえない。

 

だから、経営者は一般的に、よほどのことがない限り「相対的剥奪」には、気を配らない。

なぜなら、できる人を優遇し、できない人にはやめてもらったほうがむしろ会社としては助かるからだ。

 

だが、貧困に関しては、そうはいかない。

「相対的剥奪は気にするな、嫌なら出ていけ。あるいは死ね」というわけにいかないからだ。

結局、

「高等教育無償化」は誰が対象なのか?

「子ども手当」のあるべき姿は?

「年金の受給」を老人一律に行うべきなのか?

など、少し考えただけでも頭の痛くなる問題ばかりとなる。

まあ、国民的合意は不可能だろう。

 

最終的には「政治的闘争」となる、相対的剥奪の解決。

したがって、結局のところ「誰が貧困なのか」の決定は、最終的には必ず政治的な闘争となる。

合意形成を目指すのではなく「いかに多数派をとるか」が目的となる。大衆を扇動するポピュリズムの台頭は、こうしたことが原因だろう。

 

ただ、そんなことをしても「不満」は消えるどころか、ますます政治的な闘争は激化する。

「優先的に配分を受けた人と、まだ配分を受けていない人」が分かれるだけのことである。

 

だから個人的には「相対的剥奪」の解決は、「カネの配分」や「政治」によっては解決されないだろうと思う。

いくらカネを配分したところで、平等は決して実現されないし、カネの面で平等になったとしても、橘玲氏が「上級国民/下級国民」で指摘したように、最終的に「モテ/非モテ」は解決しないからだ。

もしかしたら遠い将来、なんらかのとてつもないイノベーションによって、全世界のすべてのひとに「健康で文化的な生活」を保障するだけのお金を配ることができるようになるかもしれません。

左派リバタリアンはこれをもって「理想社会の完成」を宣言するでしょう。生活のために働く必要はもはやないのですから、すべてのひとがそれぞれの興味や関心に従って、芸術や文化、スポーツなどの活動に自由に従事すればいいのです。

しかし、もし仮にこのような世界が到来したとしても、やはり「幸福な社会」は実現できないでしょう。すでに気づいている方もいるでしょうが、ベーシックインカムでは「モテ/非モテ」問題は解決できないのです。

お金を分配するのと同じように、男に対して女を分配することはできません。

では、我々はどうすべきだろうか。

 

私は現在、科学によりすっかり権威を失ってしまった「宗教」がそれを埋めると思っている。

あるいは「地縁」などのローカルコミュニティが、それに変わるかもしれない。

要するに「物質」を扱う科学や企業よりも、「精神」や「つながり」を扱う宗教/ローカルコミュニティのほうが、この問題解決には適していると思うのだ。

 

いや、「科学」サイドも、もしかしたらVRの異常な発達を促し、リアル世界の嫌なことをすべて忘れられるようになるのかもしれない。

あるいはロボトミー手術の復活か。

 

いずれにせよ、21世紀の人類が直面する最大の課題の一つは間違いなく「相対的剥奪」の解決だろう。

それだけは、確実だ。

 

 

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(2024/1/22更新)

 

 

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