もう随分昔の話なんですが、とある出版社さんにお世話になって、ゴーストライターっぽい仕事をやっていた時期がありました。

 

ゴーストライターといっても

「芸能人や有名人の代わりに単著を書く」というような華々しい仕事をしたことは一回もなく、

単に「誰かが、何かの事情で予定通り書けなくなった時、穴埋めに何か急いで書く」

というのが主要な役割だったのでそう呼ばれていただけなのですが、書くだけならとにかく色々書きました。

 

行ったことがない場所の旅行記を書いたことも、連載ものの時代小説の途中一回だけを書いたこともありました。

 

連載もの小説の途中だけを書くというのは自分でも割と面白く、書きながら

「これ、俺が登場人物全員切腹させたら来週どうなるんだろうなー」

とかよく妄想してました。まあ普通に考えて、それ実際にやったらめっちゃ怒られてボツになるだけでしょうけど。

 

ちなみにこの時は、プロットすら何も渡されていなかったので、登場人物がひたすら内容のないことをだらだら話し続けるだけ、という情報量ゼロの展開にして乗り切りました。

 

仕事の性質上、依頼されるのはギリギリのタイミングになることが殆どで、午前2時に電話でたたき起こされて、あと4時間で何か書け、みたいな仕事もしょっちゅうでして、まあ今から考えると無茶苦茶な仕事環境だったんですが、いい経験にはなりました。

 

さて。

ちょっと前の話になってしまうのですが、安達さんが書かれたこちらの記事を拝読しました。

なぜ「事実」と「意見」を区別して話せない人がいるのか。

彼から話を聞くと、状況を把握するのに通常の3倍の時間がかかる。

何度かこのようなことが続き、私は彼に訓練を施して、きちんと「意見」と「事実」を区別できるように話せるまで、現場を任せてはいけない、と感じた。

これ、私も昔、ちょうど上述した出版社でお世話になっていた頃、何度か指導されたことがありまして。

 

記事の性質にもよるんですが「客観的な、ないし客観的と言ってよい事実」を書かないといけない場面で、「ライターの主観的な意見」が意図せず混じってしまうのって、基本的には記事として致命的なので、全ボツくらった上にやたら怒られたことが何度もあったんです。

 

当時、私がお世話になっていた上司、多分その頃既に50歳くらいで、ジェイソン・ステイサムに頭の形がそっくりだったことが印象に残っているんですけど。

あ、顔は似てないです。

 

その時受けた指導方法、今でも結構私の頭の中に残っておりまして。

振り返ってみると、一応主観と客観に分けて報告が出来るようになったのって、元はというとあの指導のおかげかもなーと思ったんです。

 

私、「一度全ての動詞に主語をつけてみろ」って言われたんですよ。

 

いや、別に大げさに言うようなことじゃなくって、何か文章を書く際にはごくごく当たり前の話なんですけどね?

 

例えばそうですね、分かりやすい例として、こういう文章があったとしましょう。

「12月8日、〇〇町で発令されていた避難指示が解除され、一斉帰宅が始まった。今後、避難指示のタイミングは適切だったかどうかが議論になると考えられる」

 

飽くまで例なんで、まあ細かいところは勘弁してください。

で、この文章のそれぞれの動詞に対して、主語、あるいはその動作の主体になる言葉を付け加えて、一応文章としての体裁を整えてみると、多分こんな感じになると思います。

 

「12月8日、〇〇町で(自治体によって)発令されていた避難指示が(自治体によって)解除され、一斉帰宅が(住民によって)始まった。今後、(自治体による)避難指示のタイミングは適切だったかどうかが(識者によって?住民によって?)議論になると(筆者には)考えられる」

 

いかがでしょう。

 

この文章を見ていると

「主語が明確な動詞」と

「主語が不明確な動詞」及び

「主語が自分の動詞」が入り混じっていることが分かりますよね。

 

基本的に、主語が三人称で確定しており、疑問の余地がない動詞は「客観的な動作」と考えて良い場合が多いです。

一方、主語が不明確な動詞は、多くの場合筆者の主観、ないし推測が混じっていると考えるべきで、最後の「考えられる」なんてのは言うまでもなく筆者の主観ですよね。

 

まず、あらゆる動詞に主語をつけてみて、その主語が明確であるかどうかを確認する。

次に、不明確な主語が混じった場合、そこは「筆者の主観を交えて書いていい部分かどうか」を考える。

当然のことながら、別に全ての文章に主観を交えてはいけない、というわけではないですからね。

 

最後に、必要な主語だけを残して文章を整える。

そういうやり方を教わって、それに従って練習する内に、「これは主観的な表現か、それとも客観的な表現か」については、ある程度無意識の内に判別できるようになった、と思います。

 

で、これ、「「事実」と「意見」を区別して話す」ということと、根っこは似ているんですよね。

 

つまり、「ある言葉の主体は自分か?それとも他人か?」ということを考える。

もうちょっと単純に言うと、とにかく

 

「主語を意識する」

 

で、「その文章の主語が他人だとして、その動作主体は確定しているか?」ということを意識する。

 

これをやっていると、自然と、「ここまでは客観的な事実と言ってよく、ここからは自分の推論、ないし期待だな」ということは区別が出来るようになるんです。

で、本来求められる主語と違う主語の文章に、なんとなく違和感を持つことが出来るようになる。

 

もちろん、「区別出来る」ことと「書かない」ということは別であって、区別した上で、意識的に自分の推論を書く場面だってあるんですけどね。

ただ、分かってやっているのと分かってやっていないのは大違い、ということは間違いないです。

 

例えばの話、安達さんが書かれた記事で、こんな会話が書かれていました。

「昨日の営業、途中退席してごめん。お客さん、ウチに依頼するか、決めてくれた?」

「大丈夫だと思います。」

これも、「主語」に着目すると、相手が聞いてきている文章の主語は「お客さん」なのに、それに対して「(自分が)思います」という言葉に、主語が入れ替わってしまっている。違和感ありますよね?

「そうか、決まるかなと思ってたけど……。お客さん、何か懸念事項について言ってた?」

「金額について不満そうでした。」

こちらもそうですよね。

 

「不満そう」というのは、一見するとお客さんが主語の動作であるように見えますが、実際には様態の「そう」がついている言葉、「(自分には)不満そうに見えた」という意味であって、主体が自分なんです。

それに対して、「(お客さんが)〇〇と言っていました」という言葉であれば、主語が明確であって疑問の余地がないですよね。

 

これを意識出来るかどうかって、会話を円滑に行う為に結構重要なんじゃないかなーと思っているんですよ。

 

以降、例えば自分自身の部下にも、この子よく主観と客観を混同するなーと思った時には「言葉の主語をよく考えてみて」っていうようにしていまして、

繰り返している内に随分改善された子もいるんで、割と通用しやすい指導方法じゃないかと考えているんですが、まあもちろんケースバイケースですけどね。

 

何はともあれ、「主語を意識する」って大事だよなーという話でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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(2024/1/22更新)

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

Photo by Carl Cerstrand on Unsplash