職場で「優しくしてくれる人」はありがたい存在だ。

しかし、「あなたは悪くない、上司が悪い」という話に甘えてしまうのも、それはそれでまずい。

 

 

私は新卒で会社に入社した当時、ロクな仕事を回してもらえなかった。

理由は私にあったのだが、「もっとやれる」と思っていたにもかかわらず、現場の仕事がないのだから、悔しいを通り越して、失意の底にいた。

 

周りから見ても、わかる人にはわかっていただろう。

同期には現場があり、私にはない。

それがすべてだった。

 

ところが。

そんな私に、一人の先輩が声をかけてきた。

「飲みに行こうよ」と。

 

すげー優しい先輩だ。

干されている私を慰めても、彼は得することもないだろうに。

そう思った。

 

「上司が悪い」と言ってくれた先輩

彼の行きつけらしき店に行くと、他にも人がいて、私はその輪に加わった。

 

最初の話題は、「最近なにやってる」が中心だった。

恥を忍んで、「仕事がない」状態を、正直に話すと、私を誘ってくれた先輩は言った。

「あの人(上司)、お気に入りの人にしか仕事を渡さないからね。今のお気に入りは〇〇さん。」

 

それは、私が最も言ってほしかった言葉かもしれない。

要は「あなたは悪くない、上司が悪い」と先輩は言ってくれたのだった。

 

当時、好き嫌いの強い上司を「不公正な人」だと私は感じていた。

その先輩も、私がそう思っていることを見抜き、上司批判を印象付けたかったのだろう。

それを皮切りに、周りの人たちも、その上司についての「悪い噂」を語り始めた。

 

もちろん彼らは大人なので、あからさまな悪口は言わない。

ただ「好き嫌い強いよね」とか

「この前、〇〇さんに激昂してたよ」とか

「女癖が悪いよね」とか

そういう「少しずつ悪意のあること」を情報として流す。

 

人の悪いうわさはよくないことだ。

しかし、私は慰めを得た。

なぜなら「あなたも悪い」とは一言も言われなかったからだ。

 

彼らは「上司と会社が悪い」と、私が望むことだけ、言ってくれた。

 

そして私は自分を正当化するようになり、彼らと同調するようになった。

「上司は不公正」

「売り上げ至上主義の経営者は最悪」

「そもそもコンサルは、世の中に役立つことをやっていない」

という具合だ。

 

実際、そういう側面もまったくないわけではなかった。

上司は好き嫌いが激しかったし、売上が目標に達成していないという理由で、ひどく詰められている人がいた。

そして、コンサルティング会社を悪く言う人は多い。

 

だから私は「優しい先輩」のいうことを信じた。

 

上司は、すぐに仕事をくれた

だが、現実は何も変わらず、私も無力感でいっぱいだった。

会社に来て何もできないこと、無能であることは、恐ろしく苦痛で、耐えがたかった。

 

カウンセリングを受けたり、転職活動をはじめたりしたが、ついにある日、我慢の限界を迎えた私は、直接、一番上の上司に言いに行った。

もう、クビになってもいいと思っていたので、はっきりと上司に告げた。

「現場の仕事をください、でなければ辞めます。」と。

 

すると、彼は言った。

「仕事がないの、知らなかったわ。」

 

「知らなかった」と言われたのは正直、「ええ?」と思ったが、とにかく上司は動いてくれた。

そう、私は別に嫌われていたわけではなかった。

「忘れられていた」だけだったのだ。

まあ高々、新人の一人が困っていることなど、彼にとっては些細な問題だったのだろう。

 

しかし、仕事を持っている人のところを回ってくれて、依頼を出してくれた。

また、先輩の一人をOJT担当として参加させてもくれた。

 

 

その上司は、私が心酔していた先輩とは、真逆だった。

 

要求水準が高く、すぐに怒り、私が聞きたい話、耳ざわりの良い話は一切しなかった。

現実を突きつけ、顧客の評価を恐ろしく気にした。

勉強会では、予習を怠れば容赦なく詰められた。

 

だが、私は仕事を得た。

急に私は忙しくなり、会社への不信感もあっという間に吹き飛んだ。というか、そんなことを考えている暇が無くなった。

そうして私は、「優しい先輩たち」と飲みに行くこともなくなった。

 

そうこうしているうちに、「優しい先輩たち」は、徐々にみな辞めてしまった。

一方、私は性懲りもなく、会社に居座り続けた。

彼らから見れば、私は裏切り者だろう。

 

だが、私はすでに、仕事に特に不満はなかった。

 

「耳ざわりの良い話」の功罪

そうして3、4年がたち、社内の様子を見る余裕ができてきたとき。

実は、「成果の上がらない人」が、「優しい人たち」につられて辞めてしまったり、経営陣に根拠のない不信感を持つようになるなど、私が当時体験したようなことが何度も起きていることが分かった。

 

そして私は「耳ざわりの良い話」の功罪について、冷静に考えることができるようになった。

 

功としては、優しい言葉は、「報われていない社員たち」の安らぎになる。

私が、仕事がなかった時に、私の悪いところを指摘しなかった、先輩たちに心酔したように。

 

しかし、「罪」もある。

本質的な解決にならないことだ。

 

彼らは問題の解決に取り組んでくれるわけではない。

単に「優しい言葉」をかけるだけだ。

中には、単に後輩から好かれたいがために、後輩に優しくするという人もいただろう。

 

実際、悪意はなかったとは思うが「優しい先輩」にとってみれば、さぞかし私は「チョロい」ヤツだったと思う。

経営陣に反感を持ち、私が彼らに心酔するように仕向けるのも簡単だったに違いない。

 

 

だが、会社においては、現実に対峙しないと、キャリアが台無しになる可能性もある。

 

私の件に関しては、どう考えても、悪いのは「私の受け身な態度」だった。

「仕事をくれ」の一言すら言わなかった私が、100%悪いのだ。

上司も先輩も、もちろん会社も悪くない。

原因は私の無能だ。

 

だが、私が「優しい言葉」を信じ続けていたら、どうなっただろうか。

自分の行動を変えずに、上司のせいにしたまま転職を繰り返し、十年、二十年たてば、もう取り返しがつかないだろう。

想像するのが怖いくらいだ。

 

会社で困っている人を救うには、仕事を与え、訓練を施し、成果をあげさせなければならない。

それには、相応の時間的コストと労力が必要だ。

 

そして何より「本人の意識」を変える必要がある。

利口ぶるやつは誰からも教えてもらえないし、悪口は良識ある人を遠ざける。

(参考記事:世界一のコーチですら「素直じゃない人は放っておけばいい」と思っていた。

 

だが、当たり前だが「優しい言葉をかけてくれる人々」は、そうしたコストを支払ってくれるわけではない。

実際、状態が改善されたのは、私が意を決して自分で動いてからの話だ。

 

こうして私が確信するに至ったのは、「職場では、優しい言葉にあまり甘えないほうがいい」という事実だ。

「会社が悪い」

「上司がひどい」

「がんばる必要なんかない」

という言葉を信じたばかりに、問題の解決から遠ざかることすらある。

 

優しい言葉は、短期的には一時の慰めにはなる。

が、長期的に見ると、本質的な解決策ではない。

 

あなたのために犠牲を払ってくれる人

どこにでも「耳ざわりの良い話」はたくさん転がっている。

皆、「あなたは悪くないよ、世の中が悪いんだよ。会社が悪いんだよ、上司が悪いんだよ、金儲けが悪いんだよ」と言ってくれる。

 

もちろん、そうして慰めを得ることが悪いわけではない。

私がそうしたように。

 

でも「耳ざわりの良い話」をしてくれる人は、必ずしも、問題を解決するために動いてくれるわけではない。

彼が、不遇な人たちから好かれたいだけかもしれないのだ。

 

なぜなら、他人の問題を解決するのは、恐ろしくコストがかかる。

現実を直視させること。

嫌なことに対峙させること。

訓練を受けさせること。

本人から嫌われてしまうかもしれないようなことを、率直に言うこと。

そして、時間をその人のために使うこと。

 

そう言う人は間違いなく、あなたに現実的で、厳しいことを言うだろう。

 

そうした「犠牲」を支払ってくれる人だけが、あなたを救ってくれる。

それは「優しい言葉をかけてくれる人」と、たいてい、同一人物ではないのだ。

 

 

 

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。