羨ましい。他人を見てそう思った事がある人は多いだろう。

 

しかし…この感情は改めて考えると不思議だ。今日はその話をする。

 

羨ましい。けどあなたの人生は絶対にやりたくない

卑近な例で恐縮なのだが、我が家の例をあげよう。

うちはよく、僕が楽しそうに何かをやってると妻が

「あんたは楽しそうでいいよね」

と小突いてくる。冗談で言ってるわけではなく、本当に羨ましそうにこれを言うのである。

 

僕は最初の頃、このセリフを特に気にしていなかった。だが、つい先日これを言われた際

「よく僕の事を楽しそうで羨ましいっていうけどさ…」

「僕がどんな大変な人生をおくってきたか、妻であるあなたは知ってるわけじゃん?」

「その上で聞きたいんだけど…僕の人生ってやってみたいと思う?」

と聞いてみた。すると

 

「絶対に、嫌!!!」

 

と即答された。

(´;ω;`)

 

みんな自分の都合のいいように解釈している

僕からすれば、僕がいま楽しいのは今までの困難を乗り越えたという”過程”があるからだ。

だが妻はそういった過程は全部無視し、”結果”である楽しそうな僕をみて僕を羨ましいと言う。

過程を無視し、結果をみて”羨ましさ”を感じる。けど、過程をやりたいかと言われると、絶対にやりたくはない。

 

改めて考えるまでもなく、これは奇妙である。

例えるなら「努力はしたくない。が、東大にガチで入りたい」と言っているようなもので、こんな事を身近な人が言ってたら「ふざけるな」で即終了である。

 

別にうちの妻だけが特殊なわけではない。多くの人は同じように他人に嫉妬する。

例えば、日本で一番有名なYouTuberであるヒカキンさん。彼の投稿をみて、彼に激しく嫉妬している人が実はコメント欄にたくさん居るのだが、その人達がみているのも”結果”としてのヒカキンさんだ。

 

実は”過程”としてのヒカキンさんの人生は非常に難易度が高い。

新潟県妙高市にうまれ、2008年に高校卒業後、1人で上京しスーパーマーケットで住み込みで働きつつ動画投稿を開始。

当時は全くなかったYoutuberという職を暗中模索し、誰からも「動画配信なんかで食ってけるはずないだろ!」と言われながらの活動継続。

そういう”普通ではない”苦労を十何年も継続しての今である。

 

”過程”どころか”現在”も彼の生活は修羅だ。

食事は全部コンビニ。睡眠時間はヘタすると1時間。実質労働時間20時間の超過酷生活を継続と、彼は完全に常軌を逸している。

 

そういうのを全部ひっくるめて考えればである。

彼をみて呆気にとられるならまだしも、彼をみて嫉妬できるだなんて…随分とおかしな話なのである。

 

嫉妬している人の多くは一日すらヒカキンをやれないはずだ。

自分がやれないものに嫉妬するだなんて…かなり変ではないだろうか?

 

なぜこんな奇妙な現象が生じるのだろう?

それは私達が他人の事を自分に都合よい形で切り取って解釈するのが普通だからだ。

 

ファンタジーとしての、その人が羨ましい

人間は見たいものをみる自由があり、理解したいように何かを理解する自由がある。

この事は少し前から理解はしていた。

けど、この理解には1つ重大な視点が抜け落ちていた。

それは時間だ。

 

実は人間は自分で変幻自在に時系列を無視し、勝手に何かとくっつけて対象物を”理解”する。

例えばである。うちの妻は僕が楽しそうに何かに没頭している姿に嫉妬する。

 

彼女が僕がこれまで辿ってきた人生の辛酸を舐めた時期はキレイに切り取って、上澄み部分である”楽しそうに何かに没頭している”姿だけを選り抜き、それを自分にくっつける。

すると、物凄く羨ましそうにみえてしまうのである。

自分では絶対にやりたくない”過程”を切り取り、”結果”だけを切り取って利用できるのだから、人間の理解というのはまさに変幻自在である。

 

ヒカキンさんに嫉妬する人もそうである。

ヒカキンさんの”上澄み部分”を選り抜いて自分にくっつければ、羨ましくもみえる事も理解できなくもない。

なにせ日本で一番のYoutuberである。

 

そんな山盛りの承認欲求を得てそうな存在を目の前にして「この人もいろいろ苦労したんだろうなぁ」と思いを巡らせるのは想像力が豊かな人だけだ。

多くの人は彼を歪んだ形で理解するし、むしろそれが普通だろう。

 

こうして考えてみれば分かる通り、実のところ羨ましいとか嫉妬のような感情は、自分が選り抜いて作った幻想だ。

それは明らかに空想の産物でしかなく、再現性はゼロだ。

つまり、私達が何らかの対象物に感じる羨望は全てファンタジーなのである。

 

相手がみたいように見せてあげる。それがコミュニケーションのお作法である

このように人間のコミュニケーションというのは時間を切り貼りされて行われており、キチンと時系列順に意を汲んでなされるだなんて事は、ほぼ皆無に等しい。

 

人は自分がみたいように、時間や空間を無視し、情報を切り貼りして解釈する。

これがコミュニケーションの本質である。

誰もあなたの事を”正しく”理解してくれないし、あなただって”正しく”誰かの事を解釈してなんかいない。

 

このような世の中において、私達はどう立ち振る舞えばよいか?

実は発想を逆転させてしまえばいいのである。

相手が自分を気持ち良くみてくれるよう、こちらから整備してしまえばいいのだ。

 

どういう事か?具体例をあげて説明しよう。

 

本物のNO.1は勝っても嫉妬されないような空気を作る

Twitterで大人気であるもちぎ(@omoti194)さんが書かれた本である ”ずる賢く幸せになる 元ゲイ風俗ボーイの人たらし哲学” に書かれた話をしよう。

 

この本はギスギスした競争社会である現代で、どうしたら楽に生き抜けるかのヒントが書かれている。

僕がこの本で一番感心したのがNO.1になっても誰からも嫉妬されなかった人たらしゲイボーイの話だ。

 

この本によると、ゲイ風俗は金とプライドが絡み合う場で、ボーイ同士の嫉妬や確執といったドロドロとした感情が常に付きまとう場だそうだ。

そのような場において、ランキング上位者は陰口を叩かれるのが常だというが、ある日、件の人たらしゲイボーイがランキング上位に入った時、筆者であるもちぎさんは彼が作り出した雰囲気の異常さに気がついたのだという。

 

なんと誰一人として、彼のランキング入りに文句も不当も訴えなかったというのだ。

だけど彼の場合は一位になろうと素直にみんなに評価された。

二位以下の人間が「やっぱ今月はあなたが一位だったか」と悔しそうもせずに一位の彼に向って話しかける。

順位で格付けがハッキリとする世界において、勝った人間が負けた人間から全く嫉妬されないという状況は言われてみれば確かに異質だ。

普段からライバルに気を遣う事で、あいつなら勝っても当然だという雰囲気を勝つ前から整備する…そうすれば人気者になっても嫉妬されない。
つまり、勝っても嫉妬されない雰囲気は自分で作れるのだ。

 

ここでのポイントは、件の彼の本性は正直どうでもいいという点だ。

彼は根っからの善人だからそう現実を切り取れたのか、それとも善人にみえるように現実を切り取って他人に見せたのかは、実は誰にもわからない。

もちろん本心は分からないけれど、少なくとも周囲から見守っていたあたいには、本当に人のためを思い行動しているように見えた。例えそれがお客様を奪い合うライバルであっても。

思えば彼はいかなる時でも驕らずにいた。支えてくれる周りにはよく感謝し、金銭の授受がないようなことでもきちんと礼を言っていた。彼のために新人がお客様のご案内やお茶出しを行えば、必ずありがとうと伝えているのを見かけた。

だが、どちらにせよ彼は他人がそういう風に自分を勝手に理解してくれるように現実を切り取って相手に提示し続けた。

その結果、相手は自分をいいように解釈してくれた。

 

つまり情報の置き方を絶妙にするだけで、相手の理解を操作したのである。実に見事な人たらし術である。

 

人間力を積み重ねてゆく。それが人間道の本質とみたり

繰り返しになるが、コミュニケーションというのはキチンと時系列順にまとまった形で意を汲んでなされる事はない。

都合よく切り貼りされ、本物から程遠い何かとして誰かの前に現れる事も多い。

 

あなたの理解だって歪んでるし、相手の理解だって歪んでる。

だから”唯一の正しい”解釈というものがないこの世界において、どのように情報を配置するかは非常に強い武器となる。

 

人間の本性は1つではない。悪人にも善人の顔があり、善人にも悪人の顔がある。

 

だが…世の中は悪人は悪人、善人は善人だという。

たった少し、情報の配置を変えれば評価は容易にひっくりかえるかもしれないのに、それでも悪人は悪人で善人は善人なのが、この世の中なのだ。

 

あなたの中にある数多のあなたを、どう配置するかはあなたの自由だ。

それによって、あなたはいい人にもなれるし、悪い人にもなる。

 

たぶん、これが人間力というものの正体だ。

獪さを身に着け、組織の中で誰もが気持ちよくなれる場所だって作れる

 

それこそが誰も傷つかない最高のファンタジーだといえよう。そういう空間を演出できるのも、また私達人間の1つの力なのだ。

 

物事には言うべき時、言うべき場所、言うべきタイミングがある

「こんな特殊な技術、普通の人間に身につけるのは無理」

 

そう思った人もいるかもしれない。

だが僕が思うに、私達は普通に生きているだけで、この手の処世術のようなものが自然と身につくような世界に生きている。

 

というか社会というものは、むしろそういうものの宝庫なのだ。

僕がそう思えたあるエピソードを話そう。

 

つい先日、たまたま転職エージェントの人と酒を飲み交わす事があり、僕は前から疑問だったある事を聞いてみた。

 

「転職って、ようは多くの人はタテマエとホンネの動機があって、ホンネってドロドロしてるわけじゃないですか?」

「そのドロドロを面接で志望動機として正直に話さないのは不誠実なんじゃないですか?って就活中の人に聞かれたら、どう答えてるんですか?」

 

それに対して、彼女はこう答えた。

 

「面接は面接官がみたい姿を面接の場で作れますかという確認作業でしかない」

「そこで相手がみたくない現実を相手の事を考えずに言ってしまう人は逆に不誠実」

 「実際、雇う側だって転職活動している人間の多くが給与やら人間関係といった色々な不満があるから動いてる事ぐらい百も承知です」

「そういうのがモチベーションなのは”いわないでもわかってる”事なのに、それをわざわざいうような人は、まあコミュ障ですって言外に伝えてるようなものですよね」

 「それでも自分の行いが不誠実に思うのなら、キチンと誠実に働いて頑張りを証明した後、飲み会の席で”実は前職では人間関係でトラブりまして”…とか話せばいいじゃないですか。そうしたら何も問題なく聞いてもらえますよ」

「物事には言うべき時、言うべき場所、言うべきタイミングがあります」

「だから”今は言わなくていい事”はいう必要はないし、相手が言って欲しい事を言うべきタイミングでキチンと返すのが大切なんじゃないですかねって、私は面接に挑む人には伝えてます」

 

僕は深く頷き「じゃあ結婚する前に借金の話をしないのも誠実さの1つの形ですね」と言ったら、それは絶対に駄目ですよ!と怒られた。

 

彼女の言うとおりだ。

物事には、確かに言うべき時、言うべき場所、言うべきタイミングがある。

面接という儀式は、その大切さを私達に教えてくれる生きた場所だ。

 

このように社会人としての生活を積み重ねる事で、私達は徐々に社会性を身に着けてゆく。

いわゆる角が立たないものの言い方の大切さや、根回しといったものの重要性。

そういったものの大切さは、労働を通じて生きた知識として私達の中に必ず宿る。

 

大人とは、よい雰囲気を自分で演出できる人

かつて自分は「大人ってなんなんだろう?」と思っていた。

単に世の中の理不尽に耐えて、心が麻痺するのが大人なのだろうかと思っていたこともある。

 

けど、今は本当の大人っていうものは、いい雰囲気を作り出せる人の事をいうのではないかと思っている。

社会人生活は気苦労の連続だが、この困難の中には確かな何かがある。

 

組織の中でそういう修練を経て、きっと私達は大人になってゆく。

以前は大人になんてなりたくないと思っていたが、最近は大人がやれるようになりたいなと強く思うようにすらなった。

 

たぶん、誰もが傷つかない優しい場所は誰でも作れる。

そして誰でもその技術を獲得する権利がある。

 

社会で生き抜くというのは困難な事ではあるが、そういう魔法を私達に授けてくれる場でもある。

大切なのは私達に大人をやる覚悟があるかだけである。

 

あなたは大人になる覚悟がありますか?問われてるのはそれだけなのだ。

 

 

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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