この文章は『シン・エヴァンゲリオン』についての文章というより、シン・エヴァンゲリオンの想定ファン層についての文章、いや、シン・エヴァンゲリオンの思い出話をとおして再認識した「なかなかシンクロしにくい感性」についての文章だ。

 

先月から今月にかけて、シン・エヴァンゲリオンについてのzoom飲み会を二度経験した。

参加者はどちらも1996年頃から『新世紀エヴァンゲリオン』を愛好し、楽しみにしてきた古参エヴァファンだったので、積もる話に花が咲いた。

 

『シン・エヴァンゲリオン』については、公開から一か月以上が経ってたくさんのことが語られたから、以下のような話はどこかで語られているかもしれない。

 

それでも『シン・エヴァンゲリオン』も含めた21世紀のヱヴァンゲリヲンと、1995~97年に放映されて青少年が熱狂した『新世紀エヴァンゲリオン』の違い、なにより、それを楽しむファンの感性の違いについて、きっと誰かに伝わるものがあると思う。そう信じてこれを書く。

 

新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』は誰に向かってサービスしていたのか

さきに述べたように、私は3月と4月にシン・エヴァンゲリオンについてと銘打ったzoom飲み会に参加したが、その内実は『エヴァンゲリオンぜんたいを偲ぶ会』だった。

新旧のエヴァンゲリオンについて、ありとあらゆる話題が交換された。

 

「シン・エヴァンゲリオンはどうでしたか」

「終わってくれて本当に良かった。生きているうちに完結してくれて本当に良かった」

「庵野監督とカラーの皆さんに、お疲れさまと言いたい」

「おめでとう! おめでとう!」

 

まずはエヴァンゲリオンの完結に乾杯。90年代に『新世紀エヴァンゲリオン』に出会い、以来ずっと追いかけてきた古参ファンにとってエヴァンゲリオン完結は大変めでたい。

生きているうちにエヴァンゲリオンが完結し、その行く末を見定めることができたこと自体、大いにめでたいことなのだった。

 

1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』の放送開始から数えて四半世紀。この間に鬼籍に入ったエヴァファンもいた。

だから私たちにとって、集まってエヴァンゲリオンの話をすることには仏前報告の意味合いもある。

アニメの完結を見届けたい者は、完結するまで生き続けなければならないのだ。

 

「でも、シン・エヴァンゲリオンは昔のエヴァンゲリオンとは違いますね」

「よくできているんだけど、尖ったナイフみたいな感じじゃ無かった」

「昔のエヴァンゲリオンと同じやつを2020年に映画館で公開するの無理やん」

「一般受けしませんよ」

「エヴァンゲリオンも、みんなに愛されるコンテンツになったってことじゃないですか。」

「碇ゲンドウがひげそりのCMに出る時代だからねー、ひげそりエヴァンゲリオンですよ。」

 

アルコールが回るうちに、話題は『シン・エヴァンゲリオン』の、ひいては21世紀の新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』四部作の寸評になっていった。

シーン別にみれば称賛できる点も多いにせよ、総論としてはTV版や旧劇場版に比べて物足りない、楽しみやすいけれども視聴者の心に食らいついてくる感じがしない……といった意見が大勢を占めた。

 

シン・エヴァンゲリオン(と21世紀の新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』シリーズ)はよく売れたアニメではあり、全体としてみればキチンとまとまった作品になっている。

また、たとえば『新劇場版:Q』の冒頭シーンなども素晴らしい。

 

だけど人の心に深く食らいついてくる作品、魅入られてしまった者を掴んで離さないような恐ろしい力を持った作品……ではないように私たちには思われた。

 

「昔のエヴァンゲリオンは、『機動戦士ガンダム』でいうならニュータイプとか強化人間のためのアニメっていうか、ジオングとかサイコガンダムみたいな作品で、シン・エヴァンゲリオンは量産型ザクみたいな作品。デチューンして誰でも乗りこなせるようにしたエヴァンゲリオン、誰でも楽しめるコンテンツにして間口を広くした感じっていうか」

「予告編でミサトさんが”この次もサービスサービス♪”って言ってたの、パチンコからエヴァンゲリオンに入ったお客さんに向かって言ってたんであって、俺らに向かって”サービスサービス”って言ってたわけではない」

「綾波でもレイでもなくて、綾波ちゃんかレイちゃん。アスカじゃなくてアスカちゃん。」

「新劇場版は”安全なエヴァンゲリオン”。TV版と旧劇場版は尖ったナイフみたいな”危ないエヴァンゲリオン”。」

 

新劇場版と比べて、TV版と旧劇場版が尖ったナイフのように感じられるのはなぜだったのか?

理由はいろいろ思いつく──TV版が未完成だったこと。

旧劇場版が過激なファンの反応に対する意趣返しとしての性質を帯びていたこと。

いわゆる謎が謎のままで、解釈の余地ある幕切れとなったこと。

多くの登場人物が無念のうちに死んでいったこと。

人間のいやらしさや怖さやディスコミュニケーションがストレートに描かれた作品だったこと。

 

20世紀のエヴァンゲリオンにあったこれらの要素は、新劇場版では軒並み”改善”されていた。

ここでいう”改善”とは、よりたくさんの人に愛されやすい、理解されやすいアニメになるための”改善”という意味で、20世紀のエヴァンゲリオンが深く刺さって抜けなくなったファンからみればデチューンであり、口さがないファンなら”改悪”と言ってしまう変更のことである。

 

シン・エヴァンゲリオンが公開されて以来、古参のエヴァファンの一部が厳しい批判をしていたが、その気持ちは私たちにも理解できる。

思春期の頃に私たちの心に突き刺さった20世紀のエヴァンゲリオンの、その深く突き刺さる棘のようなものを、新劇場版、ひいてはシン・エヴァンゲリオンは丁寧に除去してつくられていた。

 

そうした棘を残したままでは、シン・エヴァンゲリオンはここまでヒットしなかっただろうし、親子で安心して視聴できるエヴァンゲリオンにもならなかったに違いない。

だから酔っ払っている私たちにも、制作陣の判断が間違っているとはあまり思えなかった。

 

しかしですね。

棘に相当するものを引っこ抜いたエヴァンゲリオンとは、本当に、エヴァンゲリオンの名に値するものだったのだろうか?

 

「シンエヴァで3回泣く」感性にフォーカスしたエヴァンゲリオン

そうやって新劇場版の食い足りなさを云々している最中に

「でもそれって、オレたちが歳を取っただけじゃねーの?」

という力強い反論が投げ込まれた。

 

「オレたちが歳を取ったから、昔のエヴァンゲリオンが心に刺さったように感じて、21世紀のヱヴァンゲリヲンが心に刺さらないだけじゃないのか。」

 

そう言われるとにべもない。

しかし、だったらシン・エヴァンゲリオンも含めた新劇場版のヱヴァンゲリヲンが心にちゃんと刺さっている人が、年下のゾーンに存在しなければならないのではないか?

 

そう訊ねた私を待ち伏せていたのは、こんな言葉だった。

「いやね、うちの職場でシン・エヴァンゲリオンの話になって若い人から話を聞いたらね、”シン・エヴァを見て三回泣いた”っていうんですよ。」

 

シン・エヴァンゲリオンで三回泣いただって?

 

慌てて私は記憶を手繰り寄せ、シン・エヴァンゲリオンのどこで泣けばいいのか考えた。

第三の村で綾波レイが虹になるシーンで一回、葛城ミサトのあのシーンで一回、それと碇ゲンドウと碇シンジの親子のやりとりで一回ずつだろうか?

 

世界が元に戻っていくシーンでもう一回泣けるかもしれない。

式波アスカラングレーが第三の村に帰ったシーンで泣く人もひょっとしたらいるかもしれない。

そういえば、私が映画館で『シン・エヴァンゲリオン』を見ていた時も、隣の席の女性が実際に泣いていたのだった。

 

エヴァンゲリオンで涙といえば、古参エヴァファンなら綾波レイの流した涙のことを思い出すだろう。

TV版23話『涙』の時に流した綾波レイの涙が、印象的なBGMとともに記憶に焼き付いている人も多いに違いない。

 

シン・エヴァンゲリオンにも涙が登場する場面はある。第三の村で綾波レイが流す、あの涙だ。

けれどもTV版23話の時とは違って、あの涙は碇シンジに前を向かせるきっかけになっていく。

そして視聴者は綾波レイのエピローグを、たった数十分待っただけで知ることができる──TV版や旧劇場版では望むべくもなかった温情といわざるを得ない──。

 

惣流アスカラングレーについても、葛城ミサトについても、TV版/旧劇場版の結末はシビアだった。

それらに比べれば、シン・エヴァンゲリオンの式波アスカラングレーと葛城ミサトの結末は温和で、安全で、安心だった。

登場人物の誰かに感情移入したとしても、キャラクターごと深く傷つく心配はなかった。そもそも新劇場版のヱヴァンゲリヲン四部作は、登場人物の誰かに深く感情移入しすぎてファンがおかしなことになってしまわないよう、安全装置をつけられたような造形になっていると私にはみえる。

 

ちょっと気になってSNSを調べてみると、「シン・エヴァンゲリオンを見て泣いた」という声はけっして少なくなかった。

彼/彼女らは本当に泣いていたのか?

それともいまどきのSNS文体として、「泣いた」という感情表現が好ましいからそう書いているだけなのか?

 

確かなことはわからない。

が、尖ったナイフではなくなったエヴァンゲリオンでも泣ける人は実在するし、たぶん、そういう人に最適化されたエンタメとして新劇場版のヱヴァンゲリヲン四部作はチューンされているのだろう。私はそう思うことにした。

 

エヴァンゲリオンはもう、棘だらけのエンタメでも尖ったナイフのようなエンタメでもない。

エヴァンゲリオンは、いわば”シン・エヴァンゲリオンを見て3回泣ける人のためのエンタメ”に成長したのだ。

 

“全米が泣いた”とまでは言えなくても、間口の広い、たくさんの人に愛されるエンタメとして世に受け入れられるに至ったのだ。

もうエヴァンゲリオンと長く付き合っていて、完結を待ち望んでいたファンに安全なピリオドを打つ作品ともなっているだろう。

おめでとうエヴァンゲリオン。ありがとうエヴァンゲリオン。さようならエヴァンゲリオン。

 

こうした変化を、私はファンの一人として嬉しく思う。と同時に、”自分たちはもう想定顧客ではない”という事実を突きつけられた気もして、寂しさをも感じた。

無名だった歌い手がメジャーデビューし、だんだん間口の広い歌い手になっていくのを見送る古参ファンも、こういう気持ちになるのだろうか。

 

エヴァンゲリオンが完結してもATフィールドの壁は残る

時代が変わればエンタメが変わり、人も感性も変わっていく。1995~97年の『新世紀エヴァンゲリオン』は、万人に愛されるエンタメとは言えない代物だったが、それでも90年代後半のムードによく寄り添った、訴求力のあるエンタメだったと思う。

 

対してシン・エヴァンゲリオンも含めた新劇場版のヱヴァンゲリヲンは、もう90年代後半のムードとは決別している。

ちゃんと今世紀のアニメ映画らしさがあり、時代の最先端……とまではいかないにしても、若いファンがついてこれる程度には21世紀のムードにあわせてつくられている。

 

この新旧のエヴァンゲリオンの違いは、他のエンタメにだってみられるものだ。

泣ける映画・楽しいドラマ・恋の歌など、どれも時代のムードを反映していて、旧い作品の基準で新しい作品を評価してもピントがずれてしまいやすい。

いまどきはNetflixやspotifyのようなサブスクリプションサービスがたくさんあるので、そうした時代のムードや作風の違いを把握しやすくもなっている(尤も、サブスクリプションのサービスが増えているということ自体が、ひとつのムードや作風の違いを作り上げている側面もあるがそれはまた別のお話)。

 

しかし、どんなに時代のムードや作風の違いを頭で理解したつもりになっても、自分自身の感性まではなかなか変えられない。

昭和の終わりから平成にかけて生まれ育った人間が、平成の終わりから令和にかけて生まれ育とうとしている人間とまったく同じ感性を持つのは、たぶん不可能だし、強いてそうすべきでもあるまい。

だから「シン・エヴァンゲリオンで三回泣ける」感性に私は理解でアプローチすることはできても、感性でアプローチすることはできない。

エヴァンゲリオンで喩えるなら、そこにはATフィールドの壁があり、私たちはどこかで決してわかりあえない者同士であり続ける。

 

碇シンジが選んだ世界、ひいては私たちが現実として生きている世界とはそのようなものだった。

理解をとおして違いを認識することはできても、感性まではシンクロさせにくい世界。

 

だから私などは「シン・エヴァンゲリオンを見て三回泣く」というフレーズに驚き、打ちのめされてこんな文章を書いたりしている。

こういうことが過去にも現在にも未来にもあるのが人間世界だと理解していても、なかなかそれについていけない。

 

私はエヴァンゲリオンをとおしてたくさんの学びと気付きを得たけれども、エヴァンゲリオンが最後に思い出させてくれたのは「越えられない壁、ATフィールドは文字どおりAbsolute Terror Fieldだ」という事実だった。

三回泣く感性を知ることをとおして、私はTV版/旧劇場版の振り出しに回帰したとも言える。

 

世はすべてこともなし。エヴァンゲリオンが完結しても、私たちは心の壁の存在する日常をこれからも生きていくし、生きていかなければならない。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Ryan Yao