仕事において、最も相手を傷つける言葉は、実は、「バカ」とか「間違っている」とか、「やりなおせ」とか、そういった否定的な言葉ではない。

 

もちろん、「バカ」という上司も困りものだし、言われたら傷つく。

しかし、古いタイプの上司だと、言葉のあや、ということもあるし、間違ってる、やり直せ、そういった言葉も、文脈次第だが、期待を込めて言っているときもある。

 

では、どんな言葉が最も人を傷つけるのか。

 

実は、一番ひどい言葉は、ため息をついて、「もういいよ」とか、「君は、何もするな」ということだ。

失望を表明して、無能と断じ、仕事を取り上げてしまうのが、いちばん、人を追い込む。

 

 

「無能」とは、成果を出す能力の欠如のことをいう。

そして上で述べたように、現代では働く人にとって「無能」の通告こそ、最もアイデンティティを揺るがされる事件だ。

 

昔、とある企業の現場で、

「あなたは、ほんとに何の役にも立たないな。」

と言われている人を見たことがある。

 

もちろんその人は必ずしも、一生懸命やっていなかったわけではない。

ただ、すべての仕事が的外れだし、ずさんだった。

 

お客さんには間違った資料を送付し、

見積りは数字のチェックを怠けて間違い、

経費精算は「忘れてました」と期限に遅れ、

朝は「起きられませんでした」と遅刻し、

説明はなにを言っているのかよくわからない。

そんな人だった。

 

上司および周囲の人々はいつも、その人に仕事を振ればふるほど、逆に仕事が増えてしまうと愚痴っていた。

 

あまりに同じミスを繰り返し、単純なことも遂行できないことから、上司はたまりかねて

「もう、何もしなくていいから、勉強でもしててくれ」

と、何も仕事を割り当てなくなった。

ただ、「雇った以上は」ということで、クビにはしなかった。

 

そんな処遇に対して、その人がどう思ったのかは、表面的にはよく分からなかった。

反応がなかったからだ。

 

だがついに、その人は入社半年で、自主的に退職した。

やめるときのその人の言葉は、「ステップアップしたいので」だった。

 

 

もちろん、中には「しょせんは仕事」とか、「仕事なんて頑張らなくていいよ」という人も多数いる。

別に間違ってはいない。

 

だが、仕事の位置づけがその人の中で低かったとしても、職場で

「頭悪い」

「役に立たない」

「無能」

と蔑視され、あるいは関心を持たれないのは、多くの人にとって耐え難い苦痛だろう。

 

本来的には、仕事における無能とは「仕事の能力」の話でしかないはずだ。

人格や、本来の人間の価値とは、なんの関係もない。

 

しかし「仕事の能力が、社会的な地位をあらわす」現代においては、人格否定にも等しい衝撃がある。

 

そして、これは大きな社会的問題をはらんでいる。

多くの仕事が高度になり、かつルーティンワークが機会に代替されれば、必然的に「無能」とされる人々が増えてしまうからだ。

 

そうなれば、極端にできない人たちだけではなく、「偏差値50付近の人たち」まで、無能の烙印を押されてしまう可能性すらある。

そして「無能」と蔑視されることに、多くの人は耐えられない。

 

歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは著作「ホモ・デウス」で、それを指摘した。

二一世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。

経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。

この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。

現代社会は知性を中心とする「能力主義」が、あらゆる世界で採用されており、「無用者」の受ける差別は、筆舌に尽くしがたいものとなっている。

 

能力主義は正義か

その結果として、社会不安や、市民の分断が問題視されている。

最近も、ハーバード大の教授、マイケル・サンデルが「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という著作で、それを取り上げている。

 

ただ、タイトルを見たときの私の印象は、「面白くなさそう」だった。

マイケル・サンデルの著作は面白いものが多いが、今回のテーマはすでに手あかのついたテーマだ。

 

実際、タイトルにある「成功は運による」という言説は、もはやありふれており、わざわざサンデルの本を読むまでもない。

すでに、行動経済学などの分野において、「成功は運によるところが大きい」とされている。

サンデルも「成功は、所詮、運だよ」と言って、「能力主義」を批判するつもりなのだろう。

 

だが、気持ちはわかるけど、その主張は、何の実りもない、と私は思った。

なぜなら、我々は「高い能力を持つ人」を、強く必要としているからだ。

 

そもそも、疫病のワクチンを作っているのは誰か?高能力者だ。

大きな権力を持つ、政府や大企業のトップは優秀でなくては困る。

もちろん、ヤブ医者に掛かりたくはない。

もしGoogleやAppleが存在しなかったら今の仕事は成り立たない。

地球温暖化を解決するテクノロジーは現実的に必要だ。

幼児死亡率が著しく低下し、食糧危機が回避されているのも、「高能力者」たちが生み出したイノベーションのおかげだ。

 

だから、能力主義は正義か、という問いに、意味はない、と私は思っていた。

 

能力主義が「正義」かどうかはわからないが、能力主義は現実に機能を果たしている。

その恩恵は大きすぎて、否定しにくい。

そう思っていた。

 

サンデルの言いたかったこと

しかし、読後。

サンデルの主張を誤解していたと感じた。

 

実際、サンデルは、「高能力者は不要」「高能力者から富を取り上げろ」「高能力者を冷遇せよ」などとは言っていなかった。

マイケル・サンデルの、本著作における主張の核心は

「能力主義はよく機能してきた。だが現在、能力主義による統治は、勝者におごりと不安をもたらし、敗者には強い屈辱と怒りをもたらす。これをどう思うか。

という、素朴な投げかけだった。

 

サンデルは言う。

能力主義の敗者は、貴族主義の下層階級よりみじめだと。

なぜなら、能力主義のレトリックでは、自分のみじめさを、ほかの何の責任にもできないからだ。

 

したがって「能力主義」はそれがどのような切り口であっても、敗者を侮辱し、怒りをあおる。

お前は無能だ、お前のやる仕事はない、お前の頭は悪い、と世の中から言われ続ける屈辱は、冒頭の企業内での逸話に通じる。

 

このみじめさを放置していいのか?ヤバいだろう?不当だろう?

というのが、サンデルの主張だ。

 

そうして私は、冒頭で述べた、

「あなたは、ほんとに何の役にも立たないな。」

と言われている人をおもい起こした。

 

おそらく彼は、次の会社でも、同じようなみじめさを味わう可能性が高い。

転職を繰り返して、行き止まりになり、ついには働けなくなってしまうかもしれない。

そのような人を大量に生み出し続ける能力主義に、道義的責任はないのか、と言われたら、それは「ある」としか言えないだろう。

 

そうした人に尊厳を与えない社会は、どこかおかしいと、私ですら思う。

 

だがサンデルはロクな解決策を示せていない

しかし。

ここがこの本の最大のイマイチポイントなのだが、サンデルは言うだけ言って、「ではどうする」という話について、ロクな解決策を示せていない。

「話し合いの場に、この問題を提出したい」というにとどまっている。

 

もちろん、まったく提示していないわけではないが、サンデルの独自見解は無きに等しい。

せいぜい、何名かの政治家の提出した法案などを引き合いに出しているくらいだ。

 

例えば、大学に入学できる人々を、一部くじ引きにせよとか、低賃金労働者への賃金補助をせよ、とか。

自由貿易の規制、アウトソースの規制、移民の規制といったことにも触れている。

 

が、実際にはどれも古いコンセプトの、再配分の話にとどまり、「無能の尊厳」を回復するには至らなさそうである。

だから、サンデルの主張は中途半端であることが否めないのだが、私個人の意見としては、サンデルが好む「正義」や「市民善」などに依拠した主張するのは筋が悪いと思う。

なぜなら、正義についての統一見解は、絶対に出ないだろうからだ。

 

しかも、宗教やイデオロギーの対立の歴史が示しているように、「正義」はその名のもとに、人を強く管理し、そして人を収容所に送り、大量に殺す。とてもではないが、受け付けられない。

 

ではどうするか。

個人的には企業のマネジメントに、その打開策があると信じている。

なぜなら、ピーター・ドラッカーが指摘するように、仕事で成果を上げることは、人の尊厳を保つ役割があるからだ。

であれば、「無能」とされる人々に、活躍できる場を提供することを、企業のの責務とせねばならない。

 

 

今は高学歴者に人気だというコンサルティング会社だが、一昔前は「高学歴者」で固められていたわけではなかった。

そこそこの多様性があったのだ。

実際、私が働いていたDeloitteのある部署では、高卒の中途採用者が活躍していたし、無名大学出身のコンサルタントも数多く在籍していた。

 

彼らは決して「勉強ができた」とは言えないかもしれない。

学歴だけから見ると、もしかしたらサンデルが指摘するように「無能」とされてもおかしくない。

 

しかし、彼らは断じて「無能」ではなかった。

というより、会社は彼らをうまく使いこなしており、個人の特性に合った仕事を与え、活躍させるようにマネジメントされていた。

 

そうして、彼らの活躍を見るにつけ、私は

「無能」は多くの場合、「個人の能力」ではなく「組織の能力」が不足している。

と感じるに至った。

 

仕事は、試験よりもはるかに広範囲な能力を要求する。

だから、企業の「人を用いる能力の強化」こそ、無能を撲滅する強いパワーであると思う。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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