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いままで日本では、「会社員は副業禁止」が一般的だった。

しかし2018年、働き方改革の一環として厚生労働省が「副業推進」に方向転換したことで、現在は「副業のススメ」的な情報を目にする機会が増えている。

 

わたしはフリーランスとして働いているから、副業というもの自体にあまり関係がない。それでも「副業に関して目にする、耳にする情報が、なんだか偏ってるなぁ」という印象をもっている。

というのも、副業を通しての「自己実現」というロマンチックな面が語られることが多くて、現実的な要素にスポットライトが当たっていないような気がするからだ。

 

ルール無視をおおやけに肯定するのはいかがなものか

ずーーっとモヤモヤしていることがあるので、ちょっと聞いてほしい。

副業が注目されはじめたことで、いままで副業でバリバリ稼いでいた人が、積極的に発信したり、インタビューに答えたりするようになった。

そこでよく見るのが、「会社にバレないようにこっそりやってました」という一文。

 

ふしぎなことに、この一文に拒否反応を示す人はほとんどいない。本人も、悪いことをしたとこれっぽっちも思っていないように見える。

でもわたしは、ここに猛烈に引っかかってしまう。「ルール破ってるじゃん!?」と。

 

以前この件についてtwitterでつぶやいたとき、「副業禁止ルール自体がおかしいんだから守る必要はない」というコメントがいくつか寄せられた。えっそういうものなの?

ルールがおかしいと思ったら、交渉するか、抗議して堂々破るか、副業OKの会社に転職するかをすべきで、「ルールに納得いかないからこっそり破っていい」にはならないと思うのだけど……。

 

厚生労働省が方向転換したとはいえ、副業を認める制度づくりが間に合っていない企業も多いと思う。

それなのに「副業禁止するほうがおかしいんだから就業規則を無視してもいい」という空気が流れちゃうのは、なんだか不健全じゃないだろうか。

「黙って副業をした罰を受けろ!」と糾弾するつもりはないけど、ルールは守るべきだし、納得いかないなら堂々と抗議すべきだ。

 

「こっそり副業」を黙認する空気をつくらず、「ちゃんと就業規則を確認して会社と認識をすり合わせてから副業しましょう」を大前提にしないと、余計なトラブルをまねくだけだと思う。

 

副業によって労働環境の管理が複雑になるリスク

そもそも、なんで副業って禁止されていたんだろう。いろんな理由があるにせよ、「トラブル防止」という側面があるのはまちがいない。

たとえば仕事帰り、副業に関する打ち合わせに行く途中で事故に遭ったとする。さてこれは、労災になるんだろうか?

労働時間の管理はどうするんだろう? 過労死した場合、どっちにどれだけ過失があるんだろう?

 

こういうことを考えると、企業が副業に慎重になるのも当然だ。

リクルートキャリアの意識調査では、兼業・副業の禁止理由は「長時間労働・過剰労働を助長する」が半数以上。うん、まぁそうだろうね。

(https://www.recruitcareer.co.jp/news/pressrelease/2017/170214-01/)

 

また、エン・ジャパンのアンケートによれば、副業経験がある人の59%が、接客・販売・サービス系でのアルバイトをしていたとのこと。

労働時間の合計を本業、副業の企業は把握してるんだろうか。通勤ルートや社会保障の兼ね合いなど、両企業は承知しているんだろうか。

(https://corp.en-japan.com/newsrelease/2018/13507.html)

 

いままで禁止していたことを解禁する際には、当然「どういう仕組みにするか」を決めていかなくてはいけない。

でもいまのところそういった議論は二の次、三の次になっていて、注目されているのは副業のメリットや自己実現といった部分ばかり。

安心して副業を勧めるためには、もうちょっと整った制度が必要なんじゃないか?

 

「お金がないなら副業すればいいじゃない」が成り立つ社会

そしてもうひとつ。わたしが猛烈に心配しているのが、副業の解禁、浸透によって「フルタイムで働いても貧しいなら副業すればいいじゃない」という主張が成立してしまうことだ。

前述のエン・ジャパンのアンケートを見ると、副業に興味のある人の83%が「収入のため」と答えている。

 

「さらなる収入を」なのか「このままじゃ生活できない」なのかによって意味がずいぶん変わる答えだが、結婚や育児、老後などを考えると、経済的不安はつきないだろう。

非正規雇用で立場が不安定、貯金も少なく将来に希望がもてない。いわゆるワープア層に対し、「だからこそ副業を!」という主張も見かけた。

「生活が楽になりますよ」「貯金ができますよ」「キャリアアップにもいいですよ」なんて言葉で、さらに働くようにそそのかす。

 

ポジティブな理由での副業ならいい。実際、副業により自分の夢をかなえたり、人生の選択肢を増やした人だっているだろう。

でも「副業しなきゃ生活できない」状況にある人たちに必要なのは、副業推進ではなく、「ふつうに働いたらふつうに生活できる給料」だ。

 

いままでは「これじゃ生活できません!」と言えていた人が、副業OKになったことで「低賃金でお金がないならもっと働けば?」と突き放されるかもしれない。

その場合、副業は救いの手ではなくさらなる地獄への招待状になってしまう。

そうならないように、労働者保護という視点でも、もう少し議論されるべきじゃないだろうか。

 

安心してできる副業の環境を整えてはじめて「副業推進」できる

最初に書いたけど、わたしはフリーランスだから、いまのところ副業自体に関係はない。

でも副業がやたらとロマンチックに語られるのを見ると、「うん??」という感じになる。

「ルール破ってこっそり副業してたことを美談にして、まだ制度が整ってないのに無責任に副業をもちあげ、もっと働けばいいと言っていいのか?」

と首を傾げてしまうのだ。

 

副業OKの会社で、自分が望んで積極的に副業するならなんら問題はない。他人がとやかく言うことじゃない。

なんならすごい。わたしなら絶対そんなに働けない。

 

ただ、副業禁止ルールを破った人が「成功者」として取り上げられれば、ルールを守るのがバカらしくなってしまう。

制度が整う前に、しかもこっそり副業をはじめたら、予想外のトラブルが起こってしまうかもしれない。ワープア層の過剰労働に拍車をかけるかもしれない。

 

副業が徐々に広まって「ブーム」になってしまう前に、もう一歩現実的に「どういうかたちで副業を推し進めるか」を考えていったほうがいいんじゃないかと思う。

「健全で安心してできる副業」の制度が整ってはじめて、「副業推進」が許されるはずだ。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:nelio filipe)

自業自得という言葉がある。

例えば、普段まったく努力をせずに怠けている人が、大きな転機で全く成果を出せず不幸になったとする。

勉強していない人がテストで点を取れず留年したとか、怠けてばかりいる人が大きなミスをしてクビになったとか、そういったパターンだ。

 

その場合、その人に対して「自業自得だからね」という言葉が出てくるだろう。

つまり、努力を怠った人が悪い、その結果は当然、という考え方だ。

もちろんまったくもってその通り、おっしゃる通りなのだが、僕自身、最近になってこの言葉に違和感を持つようになった。

 

この言葉は、「努力と成果」「勉強とテスト」のようにある程度は関連性のある事象で使われることもあるが、時には全く関係ないと思われる事象にも使われることがある。

 

粗暴で普段から人を人とも思わないような行動をとるいわゆるクズな人が事故にあって死んだとしよう。

その場合、普段からひどい人だったからね、自業自得だよ、と言われることがあるのだ。

 

これは努力と成果という観点ではなく、言うなれば神の視点からみたバランス的な考え方だ。

いいことをしていたらいいことがある。悪いことをしていたから不幸なことが起こる。普段の行いが……というやつだ。

 

もちろん、普段の行いが周囲からの態度を決め、その結果として起こってしまう不幸もある。

皆から疎まれた末に起こる悲劇などこの世に山ほどある。ただ、普段からクズだから不幸になってもいい、死んでもいい、そんな感情は本当に真っ当なものだろうか。

 

僕自身、別に聖人ではないので、そういった輩が不幸になっているとスカッとする面もある。

ざまあと思う気持ちがないといったら嘘になる。

ただ、それを“自業自得”と切って捨てるのはなんだか危うさが残る気がするのだ。

 

あの人は不幸になったけど普段から酷かったからね、自業自得だよ。

この考え方を裏返すと、普段からクズな人は不幸になって死んでもかまわない、となる。

なんだか一気に危険になった気がする。どんな人であろうとも、やはり不幸や死、というものは重いはずで、そうそう許容できるものではない。ましてや他人がジャッジすることではない。

 

何度も言うが、決して博愛的な考えではないということだ。クズな人も等しく救われるべきとは思わない。粗暴な人も、努力を怠った人も誰かを傷つけた人も、それ相応の結果があるべきだ。

ただ、それを第三者の視点で「自業自得」と切り捨てるのはやはり違和感がある。その不幸の理由を第三者が決める権利はどこにもないからだ。

 

 

大学時代に学生食堂である事件が起こった。

 

僕の通っていた大学は、山の中に佇む要塞みたいな大学だった。

周りにお店などはあまりない立地で、田舎から出てきて大学近くの家賃3万円のアパートで一人暮らしをしていた僕は、三食を学生食堂に頼り切るという生活をしていた。

いくら学生食堂が安いといってもやはり3食全てを外食に頼るのは不経済で、すぐに僕の経済事情を圧迫するようになった。

 

そこで生み出されたのが、「199円大作戦」というものだった。

これは単純に言ってしまうと「ごはんおかわり自由」の学食サービスを悪用した裏技だった。

 

そもそも学食には「ごはんおかわり自由」というサービスがあった。これが大人気だったが、そのうちご飯だけを注文し、何回もおかわりする「ライス大車輪」という技が開発されるに至ったのだ。

これだと100円で無限にご飯を食べることができる。この世には永久機関があったのだと学部でもちょっとした話題になったほどだった。

 

学食の対応は早かった。そもそもオカズを食べてもらいながらご飯をおかわり自由にして満腹になるまで食べてもらおうというサービスなのに、オカズを頼まず、あろうことかふりかけや梅干し、果てはボンカレーまで持参してライス大車輪を行う輩が続出したのだ。ぜんぜん採算が合わない。かなりの怒りだったと思う。

この学食には定食という概念はなく、自分で好みのオカズ、小鉢などを組み合わせるタイプのシステムだった。そこでこんな注意書きが張り出されたのだ。

 

「“ごはんおかわり自由サービス”は他にもう1品購入した方に限ります」

 

もちろんふりかけなどの持ち込みも厳しく制限された。

そうなると、貧乏な学生たちは次のステージ、ご飯と何を頼むのが得策なのか、という議論に移ることになる。

学食で最も安いのは「99円」の商品だった。そのラインナップは「ほうれん草のおひたし」「生卵」「フルーツヨーグルト」これだけだ。

時は、これのどれかとご飯を注文し合計199円で無限に米を食べるという大航海時代に突入したのだ。

 

そして自然とどれと組み合わせるかで派閥が分かれることになる。

「ほうれん草のおひたし派」、「生卵派」そして「フルーツヨーグルト派」の三つに分かれる三国志の世界、学食は乱世の時代へと突入していったのだった。

 

僕はこの中でも「生卵派」に属していた。

普通に考えて生卵がもっともコスパが良い。たまごかけごはんにできるし、醤油を濃厚に使えば何杯だっていける。完全に生卵という選択肢しかないと思っていた。

 

けれども、世間は違った。なんと、信じられないことに「ほうれん草のおひたし派」もいるのだ。

彼らに言わせると「生卵派」は行儀が悪いらしい。卵をグシャーとやってベターっとやって、完全に育ちが悪い人間の行動だ、というのだ。

その点、「ほうれん草派」は上品だ。醤油を大量にかけて濃厚にしたほうれん草をちょちょっとつまんでご飯をかっこむ。何杯でもいける、そう主張するのだ。

 

絶対にたまごかけごはんの方が何杯でも行けると思うが、それでもまあ、まだ理解はできる。

本当に理解できないのは「フルーツヨーグルト派」だ。

てっきり、何かと合わせてライス大車輪するのを諦め、ご飯だけをかっこみ、デザート的にフルーツヨーグルトを楽しむかと思ったが、そうではないらしい。

フルーツヨーグルトに醤油を大量にかけて濃厚にし、それをドバーっとしてご飯をかっこむらしい。

何杯でもいける、そう主張するのだ。

絶対に頭おかしい。完全に味覚が狂っている。何杯もいけない。

 

ただ、そういった三国志の様相を呈そうとも、フルーツヨーグルト派が確実に狂っていて味覚がぶっ壊れていようとも要は個人の好みの問題だ。好きな食べ方をすればいい。そう思っていた。

ただ、事態はそれを許さず、大きなうねりをもって我々を翻弄しだしたのだ。

 

突如として、学食がある提案を貼り出した。それは、コスト削減のためにメニューの見直しをするという予告だった。

多岐にわたるメニューを削減しようというものだ。

主に麺類関係のリストラだったが、「ほうれん草のおひたし」「生卵」「フルーツヨーグルト」の99円御三家も対象にあがった。

 

この中から1品を削減する。対象期間中にレジで渡される利用者アンケートの結果を見て残す2品を決める、というものだった。

今でいうところの、99円メニュー総選挙が開催されることになったのだ。たぶん199円大作戦でも採算が合わないから締め付ける目的もあったと思う。

 

ほうれん草のおひたし派の中心的人物であった河合の動きは早かった。すぐに票集めに奔走したのだ。

顔の広い彼は、別の学部の友人や普段は学食を使わないメンツ、外部の人間を引き連れて学食を利用し、アンケートを記入させた。

 

生卵派だった僕は主に何も知らない新入生をターゲットに、「たまごかけごはんおいしいよね」と学食で洗脳工作を行った。

ただ、そこまで焦りはなかった。なぜなら「生卵派」は最多の構成員を誇る最大派閥だったからだ。ほっといても総選挙には勝てる。

 

問題はフルーツヨーグルト派だった。醤油をかけてライス大車輪をするこの派閥は見たところ2人くらいしかいなかった。

誰が見てもフルーツヨーグルトに勝ち目がないことは明らかだった。

 

ただ事態は思わぬ方向に動く。総選挙の結果発表を待たずして、フルーツヨーグルトの廃止が決まったのだ。

ただ、廃止になったと掲示があっただけで多くは説明されなかったが、色々と詳しい河合の話によると、なんでもアンケートに不正があったようなのだ。

 

アンケート用紙なんて学食の事務の人がプリントアウトしたものをコピーしたものだ。偽造しようと思ったら簡単だ。受け取ってコピーすればいい。

そうしてフルーツヨーグルト派の2人はアンケート結果を偽造した。

さすがに河合がオーバーに言っているだけだと思うが、ほうれん草100票とかそういった戦いの中で偽造票は7000票近くあったらしい。

この大学の総学生数に迫る勢いだ。もし本当ならその労力が狂気だ。明確に狂気だ。加減というものを知らない。

 

結果、不正があったとは公表されはしなかったが、フルーツヨーグルトは廃止となった。

「不正なんかするからだ、ざまあみろだよ。自業自得だ」

 

たまごかけごはんをかっこみながら僕がそう言うと、河合はほうれん草のおひたしを口に運びながら言った。

「果たしてそうだろうか? 自業自得って言葉、逃げじゃないか」

 

僕はその言葉の意味が分からず、また、たまごかけごはんを口にかっこんだ。

あの時の河合の言葉は何だったのだろうか。当時は分からなかったが、なんだか今ならちょっと分かるような気がする。

 

確かに、不正をしたフルーツヨーグルト派の連中は、愛すべきフルーツヨーグルトを失ったわけで完全に自業自得だ。

おまけに例え学食のアンケートでも不正は不正ということでちょっと問題も大きくなったらしい。その辺も完全に自業自得だ。

 

ただ、彼らが自業自得であっても、フルーツヨーグルトが消え去ったという事実は残り、それが自業自得で済まない人がいる。

醤油をかけないまでも、フルーツヨーグルトをデザートとして楽しんでいた人たちだ。

 

当人たちがそう思っているかは分からないが、不正をした連中は、そういった事実を含めて自業自得と思うことができる。

他人のフルーツヨーグルトをも奪った自分たちはその恨みをかっても仕方がない。自業自得だ。思うかどうかは別だが、そう思うことができる。

 

ただ、他人が「あいつらは自業自得」と切って捨てることは、その及んだ影響の部分を完全に無視しているのだ。

だって普通にフルーツヨーグルトを楽しんでいた人たちは何も悪いことをしていないのにそれを失っているのだ。自業自得では片づけられない。

 

 

世の中には多くの事件や事故がある。それに対して自業自得だ、自己責任だという声を聴くことがある。

確かに当事者に目を向けると、そういわれても仕方がない事象が多いことも確かだ。ただ、それは本当に自業自得で片づけても良いものなのだろうか。本当に、ただ当事者が悪いと切って捨てれば済む話なのだろうか。

 

違う気がする。

どんな事象でも、それが及ぼす影響は多くの場合、自業自得ではない。そこが大きな違和感の正体なのだ。

 

昨今の自己責任論、自業自得論はなんなのだろうか。

僕らロスジェネ世代は人生のあらゆる場面でずっとこれを言われてきたが、なんだかよく分からないままそれを受け入れてきた。

自分を取り巻く環境は自分の責任だから、ずっとそう言われてきた。

だが、この言葉、いったいなんだろうか。違和感しかない。

 

そもそも、なぜ「自業自得」は悪い意味でしか使われないのだろうか。もともと「自業自得」は仏教用語だ。

「業」は自分の行為であり、「得」は結果である。自分の行った行為が自分の運命を決める、という意味があるようだ。

本来、そこには良い意味も含まれていた。良いも悪いも自分の行為が原因、ということだ。

 

つまり、すごく努力をして頑張っていたから良い結果が得られた、これも自業自得なのである。

ただ、「よかったね、成功して、ずっと頑張ってたもんね、自業自得だよ」という言葉は今の日本語では違和感を覚える。

それだけ、“自業自得”という言葉はネガティブな方向に振り切れているのだ。

 

この成り立ちを考えると、なんだか違和感の正体が見えてきたような気がする。

そもそもこの言葉は内向きの言葉なのだ。

自分に言い聞かせ自戒する言葉であって、決して外側、他人に向ける言葉ではないのだ。それが外側に向きつつあるときに、どうしても嫉妬的な心の動きがあって良いほうの意味が使われなくなり、悪い意味だけ残ったのではないだろうか。

 

自己責任、自業自得、僕らが言われ続けたこれらの言葉は間違いだった。これは内側に向けて自問自答する言葉だ。自分が反省し、時に鼓舞する言葉だ。決して他者に向ける言葉ではない。

それが飛び交い、それであらゆる議論や思考が停止してしまうこの現代は、きっと何かが間違っているのだろう。

 

自業自得、自己責任と投げつけて思考停止していたらきっと何も進まない。そこに至った理由をもっと各々が考えるべきなのかもしれない。

 

ふいに思い出し、ヨーグルトにフルーツをドバドバ入れて醤油をかけてみる。思ったよりいける。

そこまで悪くはないかも。ごはん何杯かいける。そう思った。

 

ただ、ヨーグルトが古かったのか、食い合わせが悪かったのか、めちゃくちゃ下痢した。これは明確に自業自得である。

 

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著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

(Photo:Martijn van Exel

つい先日読んだ本が物凄く面白かったのでご紹介しよう。アフターデジタルだ。

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この本は、パソコンやスマホだけではなく、全てのモノがインターネットに接続されている中国都市社会がどのようになっているのかを紹介したものだ(なお、専門用語でこれをIoTという)なんというか未来の先取りをしているかのような内容で物凄く読んでいて興奮する。

この本を読めば、これから社会にどのような変化が起きるかわかること請け合いである。

 

「良い事」をすれば報われる社会がやってくる

冒頭で紹介されているディディという中国のタクシー配送サービス・アプリの話は衝撃的だ。

皆さんは中国のタクシーと言うと、なんだか物凄くボッタクられたり怖い思いをするのではないかという印象がないだろうか?

しかし著者によると、ディディが誕生して以降、中国のタクシーサービスの質は著しく向上したという。

 

詳しいことは本書を読んでいただくとして、ディディではタクシー運転手は乗り手が「安心して、素早く、目的地に行けたか」どうかを3つのデータで分析し、ドライバーが評価されるようになっている。

どういう事か簡単に説明しておくと、カーナビ等で車がネットと紐付けられているから、例えばドライバーは余計な回り道をしたりして最短ルートを取らなかったりだとかの悪い事をすると一発でバレるようになっている。

この事により、タクシードライバーは悪いことができなくなり、結果として中国のタクシーサービスの質は著しく向上したという。

 

こう書くと、ネット上で監視されているみたいで息苦しそうに聞こえるが実際は逆で、よい事をすればキチンとポイントが積み重なり評価され、高評価者ともなるとタクシー運転手の給与は最大でなんと10倍にもなるというので、運転手も楽しんで仕事ができるようになったそうだ。

 

さらに、給与が上がるだけではなく、ディディの高評価ドライバーは社会的にも信用があると評価され、銀行から莫大な個人融資も受けられるようにもなる。

つまり、評価システムは監視というよりも、善行がキチンと評価され、メリットとして返ってくるという加点方式なのである。

 

言われてみれば、私達の社会というのは善行があまり適切に評価されない。正直者が馬鹿をみるだなんて単語があるとおり、善行に対するフィードバックが悪行と比較して物凄くコスパが悪い。

それが「良いことをすれば、ポイントアップして、年収も社会的信用も上がる」となれば、みんなが善人になるインセンティブも働こうというものである。

ついに「良いことをすれば報われる」社会がやってきたのだ。

 

ついに、現実社会にもRPGのレベル上げが導入されるようになった

中国では、このような評価アプリが多数誕生しているが、いずれも基本的には加点方式だという。

なぜならば「ユーザーに好きになってもらって、高い頻度でずっと使ってもらえないと(サービスが)死んでしまう」という感覚が染み付いているからだそうだ。

 

確かに、いくらモノがネットに接続されようが、ユーザーがそもそも使用しないと意味がない。嫌われるようなシステムは、ポイされておしまいなのである。

 

そもそも、私達は異常に加点方式を好む。

例えばRPGゲームのレベル上げなんかは、村の周りをグルグル回ってモンスターを倒すという超単純で時間の無駄遣いとしかいいようがないような行為だけど、意外とゲームに熱中してるときは楽しんでやれたりする。

何故か?それは経験値が目に見えて上がり、ご褒美としてキチンとレベルアップし、強敵であるボスを打ち倒せるという目に見える成果があるからだ。

 

そう考えると、加点式のソーシャル社会は、ある意味ではリアル社会RPGである。

良いことをすれば評価値が上がって、ガンガンレベルアップするのだとしたら、それは確かに楽しいに違いない。おまけにRPGゲームと違って、リアル社会での御利益すらある。

ついに、現実社会にもRPGのレベル上げが導入されるようになったのだ。

 

ナッジでデザインされた社会

このような良い方向へと人間を誘う社会デザインを行動経済学でナッジという。

ナッジとは経済学者のリチャード・セイラー博士が提唱した概念だ。

もともとは「ひじで軽くつつく」という意味で、簡単に説明すると、人々に善行を強制するのではなく、行動経済学の原理を利用して、人々を自発的に望ましい方向に誘導する仕掛けや手法の事をいう。

 

有名なエピソードとしては、空港の男子トイレの小便器に「ハエ」を描いたものがある。

男性の小便器利用者が用を足す時、この「ハエ」を狙って小便をするようになった結果、便器の外に尿が漏れ出す率が著しく低下した事で、ある空港では年間なんと1億円もの清掃費の節約になったというのである。

 

このようにナッジの理論を用いることで、小さなデザインを導入し、利用者を矯正ではなく”自発的に”良い方向に突き動かし、社会全体が幸福になるような社会を私達はデザインする事が可能なのだ。

 

全てのものがインターネットに接続され正確にデータベース化される事で、善行がキチンと評価されるようになったとしたら、私達の社会は大きく良い方に変わるだろう。

 

スマートウォッチで自分をナッジしてみよう

この体験を追随する段階には、日本社会は若干まだ追いついてないが、それでも私達にも近未来を味わう方法はキチンとある。

ウエアラブルデバイス・スマートウォッチだ。

 

つい先日、Books&Appsで「日本人は、直ちに全員、Apple watchをつけるべき。」という記事を書かれていたが、これは私達を大きく健康的にナッジする為の1つのよい手法だ。

 

実際、自分も興味を持ったのでスマートウォッチを色々調べ、HUAWEI WATCH GTを購入して使っているのだが、これが実に面白い。

なお、値段も2,1万とアップルウォッチの5万に比較すれば格安であり、かなりオススメだ。

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大雑把にいうと、HUAWEI WATCH GTの機能は24時間の心拍数モニターと万歩計である。

これにHUAWEI社が提供しているヘルスケアというアプリをつなげれば、毎日の睡眠時間をモニターできる。

 

これに自分はMyFitnessPalというアプリでカロリー記録もつけて、自分の生活をモニタリングしているのだけど、こうして自分の生活が数値化されると、面白いことに何か健康的な事をしたくなるインセンティブが働いてくるのだ。

 

心拍数が24時間記録されてるから、なんかダラダラしてたらパッと走ってガツンと上げたくなったりするし、あんなにダサい万歩計もスマートウォッチにつけられてると、つい歩数を伸ばしたくなる。

ちゃんと規定の歩数を歩くと褒めてくれる機能がついてるのだが、この機能がRPGのレベルアップみたいで妙に嬉しい。本質はただの万歩計なのに不思議なものである。

睡眠も100点満点で評価されるので、ついよい睡眠を心がけたくなってしまう。

 

加えて面白いのがカロリー記録だ。

以前、レコーティングダイエットというものが流行った事があったが、確かにこれは効果がありそうだ。

MyFitnessPalというアプリでは、目標の体重別に一日のカロリー目標が立てられる。

朝・昼。晩と食べたものを記録していくのだが、取ったカロリーがキチンと積み立てられるので、自分があとどれだけ食べられるかが可視化され、とても自分が健康的な方向へとナッジされているのが実によくわかる。

なお、MyFitnessPalのフード検索機能は非常に優秀で、ほぼ全ての食物のカロリーを簡単に検出できる。

 

朝・昼と少ないカロリーで過ごしたら、夜にちょっと贅沢しても良い事が可視化されるのは実に心地よい。

逆に昼にラーメンを食べてしまったら、残りのカロリー内でどうやりくりしようか計算するのも楽しい。

 

最終的に、一日の記録をつけ終わったら、今日摂取したカロリーを一ヶ月程度続けたら、自分の体重が何キロになっているのかを提示してくれるのも実に見事である。

これで食べ過ぎたらちょっぴり罪悪感を覚えるし、逆にキチンとコントロールできたら一ヶ月でここまで痩せるのかというポジティブフィードバックにもなる。

 

とまあこんな感じで、IoTで私達の未来は随分とよい方向へとナッジされるのではないでしょうか?

リアルRPGみたいにレベル上げができる社会がくるの、めっちゃ楽しみだなー。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Dean Lin

この記事で主に書きたいことは、以下四点です。

 

・一対一の人間関係の中にも、複数の「チャンネル」が存在し得る

・人間関係を運営していく中で大事なことは「切り替え」「引きずらない」こと

・切り替えは案外難しいけれど、「チャンネル」を意識すれば割と楽になる

・チャンネルの切り替えがきちんと出来るのであれば、チャンネルは多ければ多い程人間関係が上手く運営出来そう

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

 

***

 

しんざきには子どもが3人いまして、長男はもう11歳です。今年からついに小学6年生になりまして、押しも押されもせぬ小学校最高学年です。

長男の小学校は「最上級生」というものを特別扱いする傾向がありまして、学校単位で6年生を持ち上げているように見受けられることもあり、長男も張り切っています。学校教育におけるキャリアパス制度です。

 

私と長男は勿論親子なんですが、親子であると同時にゲーム友達でもあり、アナログゲーム会に積極的に参加するボードゲーマー仲間でもあり、同じ小説や同じ漫画を愛する同好の士でもあります。

長男の知見や閃きは決して軽く見ることは出来ず、私は趣味の話をするとき、彼を自分と対等の趣味人として認識しています。

 

私と妻は勿論夫婦なんですが、夫婦であり、同じ家族を運営するプロジェクトメンバー同士であると同時に、同じジャンルの楽器演奏を共通の趣味とする音楽仲間でもあり、小説やエッセイを濫読する読書クラン同士でもあり、時にぷよぷよやパズルボブルで鎬を削るパズルゲームライバルでもあります(大抵私が負ける)。

妻にケーナを聴かせることもありますし、音楽理論さっぱりな私に指導してもらうこともあります。

一つの人間関係でも、色んな立ち位置、色んな関係性の違いがある。ちょっと前から、私はこれを「人間関係のチャンネル」だなーと見なすようになりました。

 

言うまでもなく、例えば親子、例えば夫婦という、基底になる人間関係というものは確固としてあるのですが、その人と関わるテーマによっては、なんならそこから離れることが出来る。

同じ夫婦であっても、時には「サブカル論敵」であって良いし、時には「ゲーマー仲間」であって良い。

つまり、同じ人との一対一の人間関係でも、何を媒介とするかによって立ち位置は全然変わる、いや変えることが出来るものだなあ、と。そう思うようになったんです。

 

***

 

人間関係を日々運営していく中で、非常に重要で、かつ案外難しいものの中に「対立後の気分の切り替え」とか「状況の刷新」というものがあります。いってみれば人間関係のステータス更新です。

 

例えば、子どもは日々の生活の中で、当然のことながら親に叱られるようなことをします。

悪戯をしますし、失敗をしますし、後片付けはしません。それはよくある話です。

 

で、そういうのが度重なると、勿論親子の間も人間関係ですから、時には対立が発生するし、関係が緊張したりするんですよね。

人間同士が近い距離で日々を過ごしていれば、常に対立は発生し得る。どんな人間関係でも同じだと思います。

 

ただ、例えば親子関係で言うと、「一度叱られたことを引きずられる」って子どもにとって大変疲れるしうんざりすることなんですよ。

同じ件を、ずっとねちねち言われるとうんざりするのは、誰だって同じですよね?

大抵の場合一度言われれば親の言いたいことは理解出来る(即その通り実行できるかはともかく)ところ、何度も同じようなことを言われたら、そりゃイヤになります。

親の側も子の側も、一度すぱっと言ってその場は終わり、にしたいところですよね。

 

ただ、親だって人間であってエスパーではありませんから、子どもが本当に理解出来ているのかさっぱり分からないことだってありますし、そんなにすぐに気分を切り替えられるかっていうとなかなかそうとも限らない訳です。

喧嘩をした後即仲直りって、そんな簡単にいく話でもないですよね?

対立を引きずらない、緊張関係にメリハリをつけるって、案外難しいことなんです。

 

メリハリをつけること、気分を切り替えることが上手い人っています。

言うべきことをしっかり言ったらすぱっと切替えて、もう普段のテンションに戻りましたよ、ということが簡単に出来る人もいます。

そういう人たちは、別段「引きずってしまう」ことに思い悩む必要もないのだと思います。

 

ただ、そういうのが苦手な人だって世の中にはたくさんいる訳で、私も結構引きずりがちな方だったんです。

ただ、私の場合、「複数チャンネルの存在と切り替え」を普段から意識するようにしたら、それがだいぶ楽になったように感じていまして。

ただ話題を変えるってだけの話ではなく、その人との立ち位置自体を違うチャンネルに切り替える。対立が発生しているチャンネルから一度離れる。

つまり、頭の中の緊張関係の切り替えをスムーズにしてくれる、補助ツールとして利用出来るんですね。

 

私の場合、「話題を変える」ことをこのチャンネル切り替えのスイッチにしています。

さっきの緊張関係を「じゃあこの話はおしまい」と切り上げたら、その後はゼルダの話なり、イース8の話なり、スプラトゥーン2の話なりに切り替える。

まだガチアサリをやったことがない私に強烈にアサリを勧める長男に、自然と緊張関係をほぐれさせることが出来る。

 

多分、この「チャンネル」って多ければ多い程いいな、と。

大事にしたい人間関係であるほど、「チャンネルを多くしていく」ことを意識するといいなあと、最近は思っているわけなんですよ。

 

***

 

人間関係のチャンネルは、後から増やすことが出来ます。

例えば二人で何か新しいことを始めてもいいですし、共通の趣味や共通の話題を発掘することも出来ます。

誰かと色んな趣味について話すことは、つまり「チャンネルを増やす為の作業」と定義することが出来ます。

 

これは、勿論親子関係や夫婦関係だけの話ではなく、例えば仕事仲間でも、趣味の仲間でも、「この人とは継続して人間関係をメンテナンスしていきたい」と思う相手であれば、誰にでも応用できる話じゃないかなあ、と思います。

「チャンネルを増やす」ことを意識して人と接すると、その人の色んな新しい側面を発見出来てなかなか面白いです。

 

一方で、やっぱり私は育児に興味があるので、親子関係や夫婦関係の運営を上手くやっていくことに重点を置いています。

親子にせよ夫婦にせよ、「近い関係」ってそれに甘えてしまい勝ちでして、結果、基底関係の対立が解消出来ずにのっぴきならないことになってしまう、って案外ありがちです。

 

だからこそ、今後とも色んな「チャンネル」を確保していって、適宜チャンネルを切り替えながら、お互い仲良くやっていきたいなあと。

時には「親子」から離れてもいい。親子じゃなくて他の人間関係に移ってもいいと、そんな風に考える次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:PoYang_博仰)

なぜ人は、自己啓発本を手にとっては胸を熱くするのに、1日も経てばきれいサッパリ忘れてしまうのだろう。

そんな疑問に答えをくれた、忘れられない一人の偉人がいる。

鉄鋼王と呼ばれた19世紀のアメリカの大富豪、アンドリュー・カーネギーだ。

 

貧しい移民の家庭で育った彼は、13歳から低賃金の下働きを始めると懸命に働き、やがて才能を開花。

米国史上2番目の大富豪と呼ばれるほどに巨万の富を積み上げ、アメリカンドリームを掴んだ人物として知られている。

そして彼は、自分の死後、墓石にこんな言葉を刻むよう遺言して息を引き取った。

“Here lies a man who was able to surround himself with men far cleverer than himself.”

 

意訳すると、「己より遥かに優れし人物を集める術を心得しもの、ここに眠る」と言ったところだろうか。

はっきり覚えていないが、この言葉に初めて出会ったのはたぶん20代のなかば頃。

貪るように自己啓発本を読んでいた時で、妙に心が震えた。

そして、「そうか、人生で成功するには自分より優れた人物を仲間にすれば良いんだ!」と、ド直球の短絡ぶりで字面を理解した。

 

まあ確かに間違ってはいないが、こういう現象にも「中二病」みたいに、何かおしゃれな名前が欲しい気がする。

「俺って意識高けーわw」

と、かっこいい言葉を仕入れては何かを知った気分になる症例のことだ。

 

偉人の生き方やカッコイイ言葉をたくさん知っても、その具体的なやり方や近づき方などもちろんわからない。

ステップバイステップでその領域に到達した過程など想像もできないので、結局のところ次の日には忘れてしまい、1週間も経てば本を読んだ事実すら忘れてしまう。

そして心を熱くした自己啓発本に投資した時間は無駄になりやがて忘れ、いつもと同じ怠惰な毎日を過ごすことになる。

 

ある「ブラック経営者」のこと

そして、自己啓発本の類を読む情熱すらすっかり消え失せていた30代前半の頃。

ある「ブラック経営者」の下で、私は経営企画担当の取締役をしていた。

 

その経営者はとにかく酷い。

「わかった、じゃあそれは君に任せる」が口癖で、解決するべき問題を役員会で提起すると、その全てが自分の仕事になって積み上がっていく。

大した仕事をしているようにも見えないオッサンで、年齢は親子ほども離れていた当時50代後半。

にも関わらず、一代で年商60億円の製造業を築き、業界では少し知られた人物だった。

 

そしてその経営者の下では、数億円単位の第三者割当増資やM&Aなど、およそ30代前半で経験できるとは思えない大きな仕事を次々に経験することになる。

しかし、そのほとんどの仕事に経営トップは最後まで関わろうとしない。準備から最終交渉まで、全て自分の仕事だった。

経営トップは最後に、ハンコを捺すだけである。

 

簡単に言っているようだが、このプレッシャーは相当なものだ。

VC(ベンチャーキャピタル)や業界大手の上場企業なども株主にいる、IPO(株式の新規上場)を期待されている会社だったので、下手な事をすれば役員としての責任も問われかねない。

結局、毎回必死になりながら手探りで仕事をこなしたが、この時期は、いろいろな意味で人生の思い出深いキャリアになった。

 

グーグルはなぜ巨大企業になれたのか

話は変わるが、言わずとしれた世界の大企業グーグルには、「疑うことはコストである」という価値観があることをご存知だろうか。

グーグルで働いた経験がある人や経営者などが好んで話す価値観だが、誰かが言っていることをいちいち疑い裏を取っていては、スピードが命の現代の経営環境では、それは命取りになるという考え方だ。

 

マッキンゼーやNTTドコモ、リクルートや楽天などを経てグーグルでも働いたことがある尾原和啓氏は、その著書「どこでも誰とでも働ける 12の会社で学んだ“これから”の仕事と転職のルール」の中で、グーグルのこの価値観を「ハイパー性善説」と呼んでいる。

[amazonjs asin="4478102023" locale="JP" tmpl="Small" title="どこでも誰とでも働ける――12の会社で学んだ“これから"の仕事と転職のルール"]

確かに、人を疑うことは相当なコストがかかる。

誰かが提案したことが理にかなっているかどうか、定量的に確かめるためには客観的なエビデンスが必要だ。

新規事業には十分な調査が必要だが、調査にはお金も時間も人も必要なので、定量的・定性的なコストはバカにならない。

 

そもそも、新しい売上を立てるにも、リスクが伴う。

売掛金を本当に払い込んでくれるかは、ぶっちゃけ相手の善意次第と言っても言い過ぎではない。

そして一般的な会社や組織は、新しい仕事を創出することよりも理不尽な損失を回避する方向に判断が傾く。

このようにして性悪説を前提にした組織はROI(return on investment)ではなく、損失の絶対額だけを問題視して得をした気になり、やがて衰退していく。

 

その一方で、真剣に仕事に取り組んでいる人であれば、嘘をついている確率など、実は無視できるほど小さなものだ。

間違っているとしても、そこから得られる教訓さえあれば、投資は無駄にならないだろう。

 

2001年に発刊され、未だにロングセラーを続ける「仕事は楽しいかね」(デイル・ドーテン (著))でもこの価値観は謳われているが、「試すことには無駄がない」ということだ。

[amazonjs asin="B00SIM19YS" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事は楽しいかね? (きこ書房)"]

結局、ROIの観点から考えれば、「疑うことはコストである」と本気で考えられる経営者は、本当に強い。

そしてこれは恐らく、日本人経営者の多くが、もっとも苦手な価値観であるような気がする。

 

点と点が繋がってやっと意味が理解できた

翻ってみて、かつて私に仕事を丸投げにしていたボスのことだ。

 

確かに、取締役として仕事を丸投げにされていた当時の私に、リスクが0であったわけではない。

しかしながら、そんなリスクなど経営トップから見えればちゃんちゃらおかしい。

会社が潰れても、一介の取締役が背負う責任などたかが知れている。責任という観点から考えれば、取締役と新入社員にすら、ほとんど差はないと言ってよいだろう。

 

むしろ、定量的にも定性的にもあらゆる結果責任を負う経営トップが、

「わかった、お前やれ」

と仕事を任せる豪胆さこそが、凄いことだ。

 

日常のタスクで置き換えてみると、例えば1時間後に始まる部門会議のために、パワーポイントを触ったことがないスマホ世代の若者に、資料作りを丸投げにすることができるだろうか。

そんなリスクを背負うのはゴメンなので、結局自分でやってしまうのが、普通の人の感覚ではないだろうか。

 

しかしそれでは、いつまで経っても自分の時間を付加価値の高い仕事に使うことなどできない。

そして人を疑うコストを、いつまでも自分が払い続けることになる。

さらに、部下を成長させる器量を持ち合わせることもない、ありふれた管理職であることにも気が付けないままに人生の時間を過ごし、やがてリタイアしていくだろう。

 

「己より遥かに優れし人物を集める術を心得しもの、ここに眠る」という言葉の、本当の意味

いい年をしてやっとわかった気がするが、この言葉の本当の意味は、人を信じて託する勇気を持つことだ。

部下であれ友人であれ上司であれ、相手の言うことはまずは疑わない勇気をもつこと。

 

騙されるまでは、相手を信じて自分自身と自分の想いを託してみること。

それは決してお人好しになれという意味ではなく、ROIの観点から考えても、10人の人を疑い1人の人に騙される損失を回避できたとしても、9人の人から得られたであろう利益を失うほうがトータルで考えれば損だということだ。

 

これが、グーグルが巨大企業になることができた教訓であり、何ら仕事をしているように見えない「あるブラック経営者」が、一代で大きな会社を作ることができた理由ではないだろうか。

40代なかばのオッサンになって、やっとそんな事が理解できた。

 

とはいえ、こんな心境を20年後には、「この症例に名前をつけたいくらい恥ずかしい」黒歴史になっているのかも知れない。。

人生は、いくつになっても勉強の積み重ねだ。

 

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【著者プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

去年の夏、道に迷ったおばあちゃんが家の前で座り込んでいたので、車に乗せて家まで送ってあげたことがありました。はるか遠い記憶ですが、亡くなった父親が全く同じことをしていたことを懐かしく思い出すことができて、とても幸せな気持ちになれました。

おばあちゃん、ありがとう。

(Photo:Ikhlasul Amal

このメディアの名は、Books&Appsである。

だから、たまには本の話もしよう。

 

 

新人さんは特に、会社に入ると先輩や上司から、「本を読め」と言われるのではないだろうか。

 

そんなわけで、最近、「読まないといけないと思うんだけど、本が読めない」という方から相談を受けた。

聴くと、「できる」上司、先輩たちから、本を読め、とつねづね言われているとのこと。

 

彼は困ったように

「読書、苦手なんですよね……。」という。

「なぜですか?」

「私、読むのが遅いんです。あと、そもそも何を読んだらいいか、よくわからないんです。」

「なるほど。」

「あと、先輩の進めてくる本は難しすぎて……。最後まで読めたことがないです。」

 

うーん、気の毒である。

「読んではみたんですね?」

「まあ少しは。で、実は本は断念しました。で、「マンガでわかる」というシリーズが結構あるじゃないですか。漫画なら読めるんで、あれで読んで、話を合わせてます。」

 

「別にそれでいいと思いますけど。」

「マンガになってないものもたくさんあるし、ちょっとかっこ悪いじゃないですか。」

「スラスラ本を読めるようになりたいですか?」

「そりゃ、なりたいですよ。」

 

 

「本を読めない人」は、結構いる。

 

ただ、個人的には無理して読むことはないと思う。

本を読んだからって、必ずしも仕事ができるようになるわけじゃないし、本は確かに費用対効果の高い情報源として優秀であるが、本が読めなければ、他の情報源で帳尻を合わせれば良いのである。

第一、楽しくないことに時間を使うのは、人生の無駄である。

 

しかし。

「本が読めるようになりたい」と思うのに、それができないのはちょっと気の毒だ。

なんとか解決してあげたい。

だが、どうすれば彼が本を読めるようになるのだろうか。

 

いろいろと考えてみたのだが、結局噛み砕いていくと「読書」に対して、最も普遍的なアドバイスをしているのは、19世紀の哲学者、ショウペンハウエルだ。

彼は、読書について書いた本を残している。

タイトルはずばり、「読書について」だ。

ここには、役に立つ指針が並んでいる。

[amazonjs asin="4003363221" locale="JP" tmpl="Small" title="読書について 他二篇 (岩波文庫)"]

 

1.古典を読むべし。新刊は読むな。

ショウペンハウエルの主張は明快だ。

まず彼の主張の中で、最も重要なアドバイス「何を読むか」に対しては、彼は「古典を読むべし、新刊は読むな」という。

読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。

その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。

たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。

むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。

要するに「人生は有限だから、実績のある古典だけ読んでりゃいいんだ」という話である。

 

極端にも聞こえるが、個人的には大いに同意するところだ。

大きな理由は2つ。

 

一つは供給過多。

月に出る新刊の数は約6000冊で、とてもではないが、全ては読み切れないし、読む価値のある本がますます判断しづらくなっている。

どの本を読んだら良いのかわからないのでは、貴重な時間を浪費したくない人に、本が読まれないのは当たり前だ。

 

二つ目は、供給過多に伴う品質の劣化。

特に「ほとんどの書店には、良い本を勧める能力がない」という事実である。

 

ベストセラーや、平積みを見てみるといい。

それは主に出版社と書店のマーケティングの結果を示しており、中身が良いかは全く別の話だ。

それらは「出版社と書店がプロモーションしたい本」であり、必ずしも「我々が読むべき本」ではない。

 

「いや、平積みはともかく、ベストセラーは良い本もたくさんあるだろう」という指摘もあるだろう。

だが、あえて言うと、本の質の判定には「どれくらいたくさん売れたか」よりも、「どれくらい永きにわたって売れたか」のほうが、圧倒的に重要だ。

 

10万部売れた?30万部売れた?

いやいやいや。

そんなものは、「60年間読まれ続けている」「200年間読まれ続けている」「1000年読まれ続けている」に比べれば、なんの価値もない。

 

実用書は、「普遍性のあるものについて書かれている」ほど、読む価値がある。

歴史の風雪に耐えて生き残ったコンセプトは、真理を表している可能性が高い。

だから弊社は、図書の分類を「年代別」にしている。これは、出版されてからの年数を示したもので、

「一年本」

「十年本」

「百年本」

「千年本」

の五種類だ。無論、読むべきは「十年本」以上である。

 

出版してから十年以上売れ続け、増刷を繰り返している本は、ハズレが殆ど無い。

「どの本を読めばよいかわからない」という方は、十年以上前に出た本しか読まなくてよいだろう。

 

もちろん、例外もある。新しくとも、学者が書いており、参考文献とエビデンスがきちんと示されている本ならば、良質である事が多い。

これは、「時間による普遍性の検証」ではなく、「科学的手法による普遍性の検証」が行われているため、質が高い傾向がある。

 

皆が着目していなくても、きちんとした研究と、検証を経て、世に出した情報には相応の価値があるだろう。

なお、ジャーナリストなどが書いたものであっても、信頼性の高い参考文献がきちんと示されているならば、「普遍性がある」と判断しても良い。

 

繰り返すが、本は「普遍性」を求めて読むのだ。

本は、「最新の情報」を求めて買うものではない。速報性では、新聞、TV、webには当然勝てず、雑誌にすら遥かに劣る。

だいたい、本を読むなら「みんなが知っていること」を求めて買うのは賢いとは言えない。

本に書いてある内容は、「みんなが本を読まない」からこそ、貴重なのだ。

 

だから、「今のベストセラー」、例えば、時の芸能人が書いた本や、最近業績が良い企業経営者の書いた本、流行りのキーワード(AIやRPA)に乗っかっただけの本などは、ベストセラーになっていても、うかつに手を出すべきではない。

これらは「読書の上級者向けの本」と割り切ることだ。

 

2.本の内容を憶えようとするな。繰り返し読め。

ショウペンハウエルが更に主張しているのは、「本の内容を憶えようとするな」である。

彼は、次のように述べている。

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。

思うに、読書というのは、「読んだあとに何が残るか」に価値があるのではない。「読んでいる途中に、何を考えるか」に価値があるのだ。

 

わからない言葉が出てきたら、それを調べる。

自分の考えと異なる主張が出てきたら、その背景を探る。

自分の言葉に置き換えて、主張を再構成する。

 

そういったことが、自分の血肉となっていく行為が、読書である。

 

したがって、読書は同じ本を何度も繰り返して読むことが良い。

その血肉となる行為を反復することで、内容が自分のものとなるからだ。

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。

それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。

さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。

だから、巷で人気のある「速読」は、全く意味のない行為であると、個人的には思う。

 

また「速読」は、知識の獲得という事においても、それほど有効ではないことが、カリフォルニア大学の研究で主張されている。

「速読」は不可能だと科学的に証明 「飛ばし読み」が最も有効

 

本当のところを言うと、読書のスピードを何が決めるのかといえば、実は「知識の有無」である。

「内容についての前知識があるかどうか」が、本を早く読むために最も重要だ。

 

例えば、ピーター・ドラッカーの書籍は「難解だ」と言われることが多々ある。

(だから、解説本が多く、「もしドラ」が爆発的に売れた。)

「マネジメント」には「企業は営利組織ではない」との突飛な主張があるが、ドラッカーがなぜこのような主張をしているのか、真に理解するのは難しい。

企業とは何かと聞けば、ほとんどの人が営利組織と答える。経済学者もそう答える。

だがこの答えは、まちがっているだけでなく的はずれである。経済学は利益を云々するが、目的としての利益とは、「安く買って高く売る」との昔からの言葉を難しく言いなおしたにすぎない。

それは企業のいかなる活動も説明しない。活動のあり方についても説明しない。

利潤動機には意味がない。利潤動機なるものには、利益そのものの意義さえまちがって神話化する危険がある。

利益は、個々の企業にとっても、社会にとっても必要である。しかしそれは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件である。企業活動や企業の意思決定にとって、原因や理由や根拠ではなく、その妥当性の判定基準となるものである。

そのような意味において、たとえ経済人の代わりに、天使を取締役に持ってきたとしても、つまり金銭に対する興味がまったく存在しなかったとしても、利益に対しては重大な関心を払わざるをえない。

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この文章が「読めない」「難解だ」という人は多いかもしれない。

なぜなら、これを読むにあたり

「利潤動機」

「経済人」

などの一般的ではない言葉が出てくる上に、

「まちがっているだけでなく的外れ」

「目的ではなく条件」

「妥当性の判断基準」

など、独特の言い回しも、スラスラと読むには訓練を必要とする。

 

つまり、書籍は数学などと同じように「知識の積み重ね」によってしか、早く読めるようにならない。

加減乗除を理解せずに、微分積分を理解することはできない。

微分積分を理解せずに、解析学を理解することはできない。

そう言うことである。

 

したがって、マネジメントに関して全く知識のない新人に、

いきなりドラッカーを読ませようとしても、それは小学生にいきなり微分積分の教科書を渡すようなものである。

物事には順序というものがあり、知識には系譜というものがある。

それらを無視して先に進むことはできない。

 

だから、本は「調べながら読む」のが、一番良い。

最初に手にした一冊の本に3ヶ月かかろうが、半年かかろうが、良いのである。

 

こう言う読書を繰り返していると、読書から知識を得るスピードは「知識レベル」の向上とともに、加速度的に増す。

本をよく読む人は、ますます本から知識を得るスピードが上がる一方で、本をきちんと読まない人は「本から知識を得る」ことがますます難しくなっていく。

 

したがって、「早く読めない」という人に対しては、その分野の「本当に易しくて、読む価値のある古典」から、渡さなければならない。

早く読む必要なんて、まったくないよ、と言ってあげねばならない。

 

そして、その本を何度も反復して読んでいるうちに、「次の本」が恐ろしく早く読めるようになっていることに、いずれ本人が気づくのである。

 

3.熟慮なしの読書など、する必要はない

そして、ショウペンハウエルの最も重要な主張は、「本に書かれていることについて、改めて熟慮せよ」である。

熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

読んだ感想をブログなどにアウトプットしてみる。

仕事の中で試してみる。

対人関係に活かすために、あれこれ思索する。

 

そういった「熟慮」を引き起こすことこそ、読書の価値である。

ショウペンハウエルは、「読書だけして、熟慮しなければ、バカになるぞ」という。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。

本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。

習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。

だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。(中略)

ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

痛烈な皮肉が込められているが、主張は真理であろう。

 

だが、焦る必要はない。

ショウペンハウエルが「読んだ分量の五十分の一も身になればせいぜいである」と言う通り、何かわずかでも得るものがあり、人生にとって良いことがあるならば、それは立派に「素晴らしい読書」と言えるのだ。

 

良い読書ライフを。

 

 

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(Photo:Eugene Kim

かつて大学生だった頃、僕はドトールやスターバックスコーヒーといった所で読書、あるいは試験勉強をするのが好きだった。

自宅で勉強していると、つい手が漫画などに伸びてしまったり眠たくなってしまったりと全然集中できなかったりするものだけど、不思議なことに喫茶店で適度に周りに人がいる環境下だと人は俄然集中できるもので、自宅で勉強するよりも数倍効率が良いことを知り、以降好んでいくつかのお店を使わせてもらっていた。

 

もちろんというか、勉強が第一の目的で喫茶店におもむくわけだけど、ときおり非常に興味深い話題が隣でされる事もあり、そういう時は勉強に集中はしつつも隣の会話に耳がダンボになってしまう事もしばしばあった。

 

むき出しの人の社会は実に多様性に溢れている。というか、自分の所属する社会が狭かったのだろう。

僕は喫茶店で、老人の井戸端会議や新興宗教の勧誘や怪しい投資商品の勧誘、意識の高い学生の起業話、女子会、といった様々な会話を耳にする事ができた。

 

コミュニケーションには情報共有型と感情共有型の2つがある

そうしていくつかの会話を聞くうちに、コミュニケーションというものは暗に2つの型が含まれており、実は自分を含めて多くの人は、それをキチンと認識して使い分けていなかったな、と思うようになった。

 

それぞれ、情報共有型と感情共有型とここでは定義しよう。

情報共有型コミュニケーションとは、「コミュニケーションの目的が情報である」ものである。上司から部下への指示といった、仕事場におけるコミュニケーションの多くはこれに該当するだろう。

 

コミュニケーションが情報の伝達のみに使われるのだとしたら、この機能だけで十分そうに思えるが、意外と重要な役割をするのが後者である感情共有型のコミュニケーションだ。

例えば、好きな人が言ってる事ならば何でも肯定する人がいる一方で、嫌いな人間が言ってる事はどんなによいことでも全く耳に入ってこなかったりする。

共感は、情報以前の段階で、実は強く情報の伝達に強く作用する。

更にいえば、感情共感型コミュニケーションはもっと大きな所で人を動かしていたりもするのである。

 

それについて、感情共有型コミュニケーションの代表例である女子会を例に、具体的な話をしよう。

 

男女におけるコミュニケーションの違い

生まれて初めてミスタードーナツで女子会がどういうものであるかを目の当たりにした僕は心底驚いた。

女子会の構成要素の9割ぐらいは人の噂話と100%の同意で構成されており、毎回毎回

「ねえねえ!聞いて聞いて!」

「なになに?」

「(具体的な話)」

「えーなにそれひどーい!」

「でしょ、でしょ?」

みたいな流れの繰り返しなのである。ほとんどの場合において話題にヤマもなければオチもなく、「えっ?そこで終わるの?」みたいな、なんの脈絡もないタイミングで突然会話が終わったりもする。

問題の掘り下げや分析なんていうのは全く無く、ただただ事実が流れて過ぎ去っていくのみなのである。

 

男のコミュニケーション社会にいた自分にとって最も衝撃的だったのが、基本的には女子の会話はかなり均等に会話の機会が割り振られることだった。

例えば、Aさんがある程度会話で発散したら、ちゃんと次にBさんが会話を発散する機会が与えられるのである。

 

男のコミュニケーションだと、話せない奴は永遠に話す機会をもらえない。基本的には話す権利は、面白い話ができる奴がほとんど全部持っていってしまう。

また、基本的には同意などする奴はほぼ皆無で、誰かが何か悩みでも言おうものなら、全員が問題解決の方向で問題を分析し始める。

「大変だったね」などと共感を示す例はまず皆無であり、100%「こうしたらいいんじゃないかな?」という傍から見ればお節介にもほどがある「俺の話を聞け」モードに全員が没入するのである。

 

同じ会話でも、男と女でここまで違うものなのかと、かなりのカルチャーショックを僕は受けたのだけど、つい最近まで、僕は女子会の感情共有型コミュニケーションは一体何の役に立っているのかがよくわからなかった。

 

情報ならまだわかる。報告・連絡・相談を徹底すれば会社で重宝されるのと同様、情報のネットワークは私達を個から群れへと見事に練り上げる。

では、100%の、おまけに参加者全員の共感を増幅させる女子会は、一体何の機能を果たしているのだろうか?

僕はあれは一種の魔女のサバト(集会)の機能を果たしているんじゃないかなと思う。

 

女子会は、人の群れをうごめかしているのかもしれない

前にも書いたけど、感情とは私達の本能に他ならない。

ファクトはそこにあるものだけど、感情とはそれに何らかの方向性とかを付随させる、私達を導く謎の何かだ。

<参考 多くの人が「ファクト」でなく「感情」で動いているからこそ、世の中は良くなっているのではないだろうか。 https://blog.tinect.jp/?p=59004

そこから逆算するに、女子が好んでよくやってる感情共有型コミュニケーションというのは、男子がやるような情報交換型コミュニケーションであるファクトの対極に位置するものだ。

 

恐らくなのだけど、女子会で行われている共感型コミュニケーションは、集団のコミュニティ内で、個の感情を増幅する役割を果たしており、それが巡り巡って私達全体を何らかの方向的に突き動かしているのではないだろうか?

もっといえば、あのミスドで行われてるキャッキャウフフのカワイイお茶会は、その実で、群れの中における「好き・嫌い」の方向性を壮大に動かしているのである。

 

いくら男子がスカした顔をしてロジカルに情報共有をやろうが、所詮それは単なるファクトの交換でしか無い。

そこにエモによる方向性が組み合わさって、初めて何らかの具体的な方向性が決定づけられる。

 

多くの人は、好きな人が言ってる事ならば何でも肯定する一方で、嫌いな人間が言ってる事はどんなによいことでも全く耳に入ってこない。

ならば、女子会で、集団内の「好き・嫌い」の方向性が大きく作用されるとしたら、それはある意味では強烈な人民裁判にも等しい効果を発揮するであろう事は想像に難くない。

女子会は、群れとしての私達を裏から動かす、悪の秘密結社も真っ青な機能を果たしているのだ。

 

会話も性も、等しく我々に深い快楽をもたらす

コミュニケーションの効用に情報共有と感情共有の2つの効用があることは、これでおわかり頂けたと思う。

しかしそれ以上に、なぜ私達がコミュニケーションにここまで熱中するかと言えば、それが快楽であるからに他ならない。

 

なぜか。

これにヒントとなるような話をしよう。かつて僕が大学で授業を受けていた時に、フランス語の教授が実に興味深い事を言っていた。

彼いわく

「喋って気持ちいいのは喉の粘膜が発声により刺激されるからである」

「性の喜びも同じ粘膜の刺激を通してもたらされる」

「だから人間は、粘膜を刺激することで快を感じるように生きているんだ」

との事であり、それをもって「フランス語を勉強して、日本語にはない発音で喉を震わせる事ができるようになれば、語学を通じてより深い快を得ることが君たちはできるようになるのだから、必死でフランス語を勉強しなさい」との事であった。

 

この話が面白いのは、「会話」と「性」の快楽が、粘膜という同一の部分から生じているというのを指摘している点だ。

私達は口の粘膜を通じて「会話」という快楽に身を投じているのである。

孤独がどれだけ私達の心を負の方向に蝕むかを考えると、この快感がどれだけ私達の心の平穏に役立っているかが実によくわかる。

 

ということはだ。下半身の粘膜刺激だって、同じぐらい私達の心の平穏に貢献しているはずだ。

それが取り上げられた時、人はどれほどの苦しみを感じるのかについて貴重な証言をしてくれた方がいる。

それは、乙武さんである。

 

乙武氏「地獄の苦しみだった」 タブー視されてきた“障害者の性”、当事者が抱える苦悩と課題とは

一時期は議員候補になるとも噂された乙武さん。

性的なスキャンダルにより失脚した彼だけど、その彼は当事者の立場からこう話す。

「性欲は、食欲、睡眠欲と合わせて3大欲求と言われるが、食事や睡眠と違って生死に関わるものではないということで後回しにされたのだと思う」

「ただし、ここが封じられると周りが思っている以上にしんどいんだということは理解してほしい」

 

言われてみれば確かに性が抑圧されるのは、食事や睡眠と違って生死に関わるものではない。

にもかかわらず、下手したらそれ以上に苦しい何かを時に私達に押し付けてくる。

 

現代社会において、性はある意味では勝ち組のシンボルであり、そしてそれは何故か美しいものである事が理想化されている。

美男美女の恋愛は良いコンテンツになるのに、おじさんとおばさんの恋愛は嘲笑されがちな事を考えてもらえばわかるだろう。

 

どうも世の中には「性愛は勝ち組が手にするものであり、キモい性愛はみたくない。かつ、食事や睡眠と異なり、なくても生きていけるという点から、あれは贅沢品である。手に入らないからといってつべこべ言うな」という風潮がある。

しかしここまで読んでくださった皆様なら、乙武さんの苦しみがどれほどのものか類推する事ができるのではないだろうか?

たぶんあの苦しさの本質は、人と喋れないタイプの苦しみと同じであり、孤独で人が鬱になるのと同程度、下半身の粘膜刺激を奪われる事は、すっごくすっごくシンドイ事なのだ。

 

どこにも繋がれないのは、ひどく苦しい

一体、この苦しみの正体はなんなのだろうか?長い間ずっとそれについて考えていたのだけど、そのヒントがある本に書いてある事を思い出した。セックスボランティアである。

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この本の中で、障害者の性という、一般的にはタブーとされる事項が扱われていたのだが、その中である障害者の方が

「射精すると、男としての自信が取り戻せて安心できる」

といったような事を述べていた。

 

この「自信」という言葉の意味を最近まで延々と考え続けていたのだけど、これは「男性として機能できている」という事を自認できるという事の象徴なんじゃないかと思う。

性とは男女の生殖器が働くことにより産まれる「これまで、そしてこれからの時代」の遺伝子のクロニクル的な縦の繋がりだ。

その営みは、基本的には下半身の粘膜刺激を通じて行われ、人はそれに快を感じるようプログラムされている。

 

そういうインセンティブが働くからこそ、私達は下半身に突き動かされて性愛という困難に”あえて”挑戦するよう動かされる。

その結果、うまく行けば凄く凄く幸せになれるのは、いうまでもないだろう。

 

そう考えると、性欲を押さえつけられた時に感じるシンドさというのは、この遺伝子のクロニクル的な縦の繋がりが「ここで行き止まりだよ」と言われる事に近いのではないだろうか。

そう考えると、僕はすごくシックリ来る。

「射精すると、男としての自信が取り戻せて安心できる」というのは、もっと突き詰めていえば「先に進めてるよ」というDNAが本能で感じる「共感」なのだろう。

 

例えば、セックスボランティアに登場した方は、実際にいわゆる生殖活動を通じて、子供を成したわけではない。

じゃあそれをもって、障害者の性的快楽を無駄だとか贅沢品だと言えるかといえば、そんな事は全然ないだろう。

 

射精という性のコミュニケーションが「自信」として個人の心の健康に強く寄与しているという圧倒的現実を鑑みると、性の快楽とは恐らく一種の遺伝子の「共感」みたいなもので、私達が友人とバカバカしい話をしてスッキリするのと、恐らく似たようなものなのだ。

 

性を下半身の粘膜を通じたコミュニケーションと考えれば、情報共有と感情共有の2つの作用があると考えるのが当然だ。

子供のような成果物が情報共有型の性のコミュニケーションだとすれば、射精などの生の喜びは感情共有型の性のコミュニケーションであり、それを通じて過去と今との繋がりに個体レベルで「共感」できることで、人は想像以上に「生物として安牌な行動をしている」という安堵感を実感できる。

 

だから逆に下半身の粘膜刺激を奪われると、人は遺伝子レベルでつながりを否定されたかのような感覚に陥り、「性の反共感対象」に置かれたと本能レベルで実感してしまう。

だから、性の快楽を奪われると、人は思った以上に「シンドイ」のだ。

 

コミュニケーションなくして、人は豊かに生きられない。

会話の快楽も、性の快楽も、奪われたからといって直接的には生死に関わるものではない。

だが、それらが日常生活から消失すると人間は酷く心を病む。何故か?それは、過去から未来にいたるまで、私達が常につながる事で生きてきたからだろう。

 

陳腐な言葉だが、人は1人では生きていけない。良い友人に囲まれる事は、とても豊かな人生を私達に与えてくれる。

会話は、偉大なるヨコのつながりを私達にリアルに実感させてくれるし、それを奪ういじめは酷く私達の心を蝕む。

あれば、もう犯罪にしてもいいんじゃないだろうか?

 

そして同じく、私達の命は過去から今へと連綿と繋がっている。そこの流れから落とされるのをDNAレベルで直面させられる事は、今までの自分を組み上げてきた過去からの怨念ならびに、未来のありえた可能性からへの恨みも相まって、酷くおどろおどろしいものとなっている。

 

このタテ方向からのつながりの苦しさを見て見ぬふりをするのは、ひどく残酷なことだ。

キモいからって、性愛からパージされるのは、僕は大真面目に人権問題だと思う。

 

コミュニケーションなくして、人は豊かに生きられないのだ。

人のセックスを笑うなという言葉の意味は、思った以上に深いのである。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Andy Rogers

つい先日、ツイッターを眺めていたらロンブーの田村淳さんがCLANNADというアニメを褒めていた。

これを読んでいる大部分の人はCLANNADの事など知らないと思うので簡単に説明しておくと、CLANNADは2004年にKeyという会社から出されたPCゲームだ。

いわゆるノベルゲーなのだけど、そのシナリオはすざまじく面白い。ハッキリ言ってプレイすると魂が抜ける事必死である。

 

2000年頃、PCのノベルゲーはとてつもないクオリティを誇っていた。

Key三部作であるKANON、Air、CLANNADは言うまでもなく、それ以外にもEVER 17やクロスチャンネル、月姫、ひぐらしのなく頃にといった超絶面白いゲームが次から次へとポンポン飛んでくるような有様で、僕は勉強なんてそっちのけでひたすらにPCのモニターに張り付いて、徹夜で右クリックを連打して極上のシナリオを読みふけっていた。

 

「なんだこれ、こんなに面白いものがあったら、絶対にみんな夢中になるに決まってるじゃないか」

 

しかし不思議な事に、これらの文化は非常に限られた極一部の好事家のみの間でしか流行らなかった。

当時、僕はかなり必死になって周りの人に布教したのだけど、みんな「そんなオタクみたいな気持ち悪い絵のゲームなんて、やりたくない」と全く見向きすらされなかった。

僕は正直、信じられなかった。そりゃ、その当時は確かにというかオタクっぽい趣味は現在と比較して物凄く唾棄されてはいたけれど、そんなものを補って余りあるレベルの世界最高のコンテンツが目の前にあるのに、まさか誰も手にすらとらないだなんて……。

 

それから15年後、あんなにも嫌われてたオタク趣味が割と一般的なものと化し、それと共になのか芸能人のようなキラキラした人達ですら、アニメ絵バリバリのCLANNADを褒めるようになるのだから、世の中というのは本当に不思議なものである。

 

似たような事は中学生時代にもあった。

当時、ジョジョの奇妙な冒険の第5部が連載されており、僕はあまりの重厚なストーリー展開に衝撃を受けて毎週毎週ジャンプを丹念に読み耽るほどハマっていたのだけど、ジョジョも「なんだか絵が気持ち悪い」との事で全くといっていいほど、周りでは受け入れられる事はなかった。

 

これも僕には全く信じられなかった。こんなに凄い物語が、毎週毎週ジャンプにリアルタイムで連載されているのに、それを追っかけないだなんて、人生の損以外の何ものでもないじゃないか。

そう思ったのだけど、少なくとも僕の周りの人達の目は、あの絵にかなり厳しかった。

 

しかし時の流れとは恐ろしい。今では叶姉妹がジョジョのコスプレをする位に、ジョジョは一般社会で普通に受け入れられるようになってしまった。

 

繰り返しになるが、世の中というのは本当に不思議なものである。CLANNADもジョジョも、誰でも手にとることができたものなのに、爆発的に流行るまでには10年近くもの時が必要だったのである。

一体何が、10年もの間、これらのコンテンツが普及するのを阻んでいたのだろう?

 

面白い人間になる奴はコンテンツの感受性がずば抜けて高い。

コンテンツの感受性というのは本当に人によって差がある。

2000年前後の頃、インターネット最高のコンテンツの1つは間違いなくテキストサイトだった。

侍魂を頂点としたそれらのクオリティの高さは半端なく、僕は「こんな面白いものがこの世にあるだなんて」と目をキラキラさせて読みふけっていたけれど、それらが当時、表舞台で称賛される事はあまりなかったように思う。

少なくとも学校で大流行するようなものではなかった。

 

そんな感じのまま、身の回りに自分が面白いと思うようなものを共有する友達を一人も持たないまま大学を卒業するに至ったのだけど、卒後にネット経由で自分が面白いと思えるような事をやっている人と会うようになって、彼らが僕とほとんど同じようなコンテンツを孤独に消費していた事を知ってエラく驚いた。

 

みんな、人の目を偲んでコッソリとテキストサイトだったりPCゲームを嗜んで、隠れキリシタンのごとく暗い青春を過ごしていたのである。

そして彼らの多くが、小さい頃に体験した極上のコンテンツのエッセンスを用いて、大成功を遂げていた。僕は「やっぱり自分の感性は間違ってなかった」と10年越しの答え合わせをした気分だった。

 

コンテンツの感受性とキャズム理論の整合性

その後、ジェフリー・ムーアのキャズムという古典的名著を読み、僕は自分の考えていた事に理論的にも整合性を見出すことに成功する事となった。

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この本では、新しい革新的なIT技術を売り出す際のマーケティングをする際に、購入対象を以下の5つの層に分類する事を提唱している。

 

・イノベーター

新しい技術が好きで、実用性よりも新技術が好きな人。オタク。

・アーリー・アドプター

新しい技術によって、競合相手などを出し抜きたいと思っている人。

・アーリー・マジョリティー

実用主義で役立つなら新しい技術でも取り入れたいと思っている人。

・レート・マジョリティー

新しい技術は苦手だがみんなが使っているなら自分も使わなければと思う人。

・ラガード (laggards)

新しい技術を嫌い、最後まで取り入れない人々。

 

それぞれの間に溝があり乗り越えなければならないが、特にアーリー・アドプターとアーリー・マジョリティーの間の大きな溝(キャズム)を乗り越えられるかどうかが、その製品が普及するか、一部の新製品マニアに支持されるにとどまるかどうかの一番の鍵であると、著者らは提唱していた。

 

キャズムはITサービスの流行について語っていたが、その次代には新しすぎるコンテンツの流行もこれに似たものがある。

そして、それをいち早く嗅ぎつけてエッセンスを取り入れる事に成功した人が、それを用いて次世代でメチャクチャ面白いモノを提供するのではないかな、と僕は思う。

 

本当に、面白い人間というのはコンテンツの感受性がずば抜けて高い。

彼らはその当時、世間では全く流行っていない最高のコンテンツを見つけ出しては、ひっそりと孤独に消費し、それを着々と自分の血肉とし、数年後にそれを使って物凄く面白いことをする。

 

ちょっと前に、テスラのイーロン・マスクやウィキリークスのエドワード・スノーデンが「君の名は」が大好きだという事を公表していたけど、たぶん僕が思うに、彼らも若い頃、かなりマニアックだけどムチャクチャに面白いコンテンツを消費していたに違いない。

<参考 https://kai-you.net/article/58357

 

新海誠さんは「君の名は」で大ヒットを飛ばしてかなり一般化したけど、15年ぐらい前の頃から、凄くエグい話とキレイな動画を作る人としてオタク趣味の人の中では割とホットな方だった。

アーリーアダプターの人達は、自主制作やminoriで作品を作っていた頃の彼が凄く懐かしく感じるのではないだろうか。

そして多分だけど、イーロン・マスクやエドワード・スノーデンは、その頃から新海誠さんを追っかけてたはずである。

 

やっぱり、面白い事ができる人間は、マスがその当時は好まないような面白いものを消費しているのだろう。

どんなに溝(キャズム)が深かろうが、本当の感性を持つ人間はそれを易易と乗り越えて消費し、血肉としてしまうのである。

 

今の感度がいい中高生は何にハマってるのだろう?

社会人になると、仕事が私生活のかなりの割合を占めるようになり、人生の忙しさが加速的に上昇していく。

それと共に、暇な時間というものがドンドンなくなっていってゆく。

 

社会人以降の人生は本当に忙しい。加齢も重なって、全てのコンテンツを追っかけ続ける時間も体力も、どんどん消えてゆく。

最近、僕の私生活から様々なコンテンツが次々と脱落していっている。本当は全部追っかけていきたいのだけど、残念ながら気力も体力もそれに追いつきそうにない。

 

これを読んでいる人の中に今後、面白いことをやりたいと思っている人がいたら、勉強や課外活動に精を出すのと並行して、若い頃に面白いコンテンツを大量に消費する事は絶対にやっておいたほうがいい。

僕が知る限り、面白いコンテンツを消費してない人間が物凄く面白い事をやっている例は極めて稀だし、それらの面白いコンテンツを浴びるように消費するのは、若い頃にしか本当にできないからだ。

 

そしてこれを読んでいる若者の中に「いま、世間では全然話題になってないけど、サイコーに面白い」コンテンツを消費している人がいたら、ぜひ僕に教えて欲しい。

高校生時代の僕にとってのPCゲームやテキストサイトに相当するようなコンテンツが何なのか、物凄く興味がある。

 

いつの時代も、一番面白いものは若者が一番よく知っている。

そして、そういう面白いモノを消費する人達が、10年後、20年後に最も面白い事を成し遂げるのは、間違いない。

 

いつの時代も、コンテンツは最高の人間分度器だ。マスが全然受け入れないようなユニークなものを見抜ける人にこそ、ホンモノのイノベーターの素質があるのである。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

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(Photo:Alex Davis

東大生は自分のことを貧乏だと思ってる

1000万円というのが金持ちの一つの基準で、それに足りないウチはやっぱり中流階級なんだと思った記憶がある。

僕は地方都市の郊外、人口5万人程度の町で生まれ育ち、小中高(駿)大と1年を除いてすべて公立で済ませてきた。

父母僕弟の四人家族で車は国産の普通車、家は駅から少し離れた3LDKのマンション、外食は月に一度するかしないか、98円の卵のために朝からスーパーに出かけるような、至って普通の家庭だ。

中高時代はスーパーのフードコートでマックポーク1個だけで粘り、近所の友人とオタ話に花を咲かせた。高校は街中にあったので、放課後にラーメン屋に誘われることもあったが、月5000円の小遣いがラーメンに消えるのが惜しくて断ることが多かった。

冒頭リンク先のタイトルは「東大生は自分のことを貧乏だと思ってる」だが、裕福ではない東大生の生態についてより、中流家庭で育ったとする筆者が中流家庭を自認し続けているところに私は興味を持った。

 

上の引用文を読み返すと、いかにも20世紀末の中流家庭といった風情がある。

4人家族、国産の普通車、駅から少し離れた3LDKのマンション、等々。金銭的に慎ましい、「普通」の家庭が連想される。

 

だが、筆者が東大に進んだ話になってからは、ただ慎ましい家庭ではなく、お金の使い道をきちんと考えた家庭で育った様子がだんだん見えてくる。

東大生の親は、子どもを遊ばせるためにお金をむやみに与えたりはしない。

しかし、教科書代や本代を惜しむことはない。もちろん親の財力には差があり、子どもへの仕送りの額にも違いはある。

が、ともかく、子どもが学歴をつけていくこと・子どもが安全を確保すること・子どもが体験を広げていくことにはお金を惜しまない。

 

筆者もまた、そのような家庭に育ったとみて差支えなさそうだ。文中に「学期初めの教科書代は別途追加で送られてきた」というくだりがあるし、そもそも、こういう視点で東大生の生態を書き綴れること自体、筆者がそうした考え方を身に付けてきたことを証明しているように思われるからだ。

 

私が見知っている東大生や医学部の同窓生の生態も、これとあまり変らなかった。

子どもに高級車をポンと買い与えるような家庭の親はもちろん、お金に困っている家庭の学生の親も、子どもの学術書代にお金をケチっているようにはみえなかった。子どもの学力や安全や成長にお金を惜しまない姿勢があったように記憶している。

 

「資本家」としての東大生の親

ここで再認識させられるのは、「東大生の親は子どものどこにお金をかけるべきか、よく選んでいる」ということだ。

東大生の親がお金をかけているのは、子どもの学力、安全、成長だ。

つまり、子どもの将来にかかわる領域にお金を使っている。

 

子どもがかわいいからといって一辺倒に甘やかすのでなく、子どもの将来にかかわる領域に集中投資をするさまは、不必要な浪費を避け、経済生産性をもたらすところに資本を集中させる資本家のようだ。

 

私は、子育てを投資とイコールで結び過ぎるのは危険な行為だとは思っている。

なぜなら、投資財としての子どもはあまりにも不透明で、あまりにも主体的で、親と子どもでは思惑も人格も価値観も異なるからだ。ここのところを忘れてしまい、子どもをピュアな投資対象とみなして子どもの人生を歪曲してしまう親も珍しくない。

 

とはいえ、子育てには投資になぞらえたくなる側面もある。子どもの学力や能力に費やしたリソースは、子どもの年収や就職可能性といったかたちで次世代の経済生産性に貢献する。

年収に直結しないとしても、文化資本というかたちで間接的に経済生産性に貢献する側面もあろう。そうやって、親の代につくられた経済生産性は子の代へと世襲されるか、ときには、子の代において拡大再生産されていく。

 

子どもの将来に選択的投資を行い、子どものキャピタルの拡大をもくろんでいる親は、選択的投資を行い、キャピタルの拡大をもくろんでいる資本家と発想の根幹が似ている。

 

ちょっと古いが、ブルジョワという言葉をご存じだろうか。

ブルジョワとはフランス革命以前の「第三身分」に相当し、王侯貴族でも従来の農民でもない身分がこれにあたる。

産業革命以降、ブルジョワとは専ら資本家のことを指すようになり、そのブルジョワと同じ精神性を持ったもう少しお金のない人々――たとえば事務職や専門職のような――のことは小ブルジョワとかプチブルジョワなどと呼ばれていた。

 

この視点でみると、東大生の親はブルジョワやプチブルジョワに相当する。

なぜなら、子育てを投資の視点でやってのける精神性と実行力があるからだ。

 

労働者的な親や田舎の農家の親はそうではない。

イギリスの労働者階級あがりの社会学者、リチャード・ホガートが書いた『読み書き能力の効用』にも、投資の視点で子育てをやらない(というよりできない)親に触れた箇所がある。

かれらは、いわゆる「教育のある人びと」の標準からすると、間違った子供の育て方をしている。私は、現代の育児の本で説かれているような標準のことを言っている。子供ばかりではなく、若者までもずっと結婚するまで甘やかすのが、ずっとむかしからの労働者階級の伝統なのだ。

[amazonjs asin="B000J9OQ70" locale="JP" tmpl="Small" title="読み書き能力の効用 (1974年) (晶文全書)"]

労働者階級の親も子どもを大切に思うし、子どもにお金をかけている。

だが、それは「甘やかす」ものではあっても「選択的投資」ではあり得ない。いや、子どもに対してだけでなく、自分達自身に対しても彼らは「選択的投資」をなし得ない。

私は田舎の地域社会で育ったので、ここでリチャード・ホガートが言わんとしていることに実感がある。

 

昭和時代の北陸地方の田舎には、高度経済成長によって潤った家庭がたくさんあった。

たぶん、世帯年収で年収1000万をくだらない家庭も多かっただろう。手入れされた庭。大きな邸宅。立派な鯉のぼり。そういったものがごく当たり前に存在していた。

 

だが、そういった田舎の潤った家庭の多くは、東大生の親のような「選択的投資」をなし得ていなかった。

子どもが欲しがるものを与え、子育ての満足度を高めてくれるアイテムにお金をかけていた。

祭りの屋台を、子どもの金銭感覚を養い社会経験を拡げる場と捉えるのでなく、子どもが欲しがるものを買い与える喜びを得る場と捉える ── 今にして思えば、そういった親としてのありようは、ブルジョワ的・プチブルジョワ的というより、労働者階級的だった。

 

この視点で考えるなら、そういった田舎の潤った家庭の子育てや暮らしぶりは、金銭的には中流っぽくても精神的には中流ではなかったと言わざるを得ない。

それとは逆に、お金がカツカツでも東大生に本代を仕送りしている親は、金銭的には貧しくても精神的には中流だったと言える。

 

「精神的には中流」

以上を踏まえて、冒頭で紹介したはてな匿名ダイアリーの文章に戻ろう。

くだんの筆者は、いかにも慎ましいげに以下のように文章を締めくくっている。

妻は高いものを購入したい時、必ず僕に確認する。冬物のコートとか、デパートの化粧品とか(妻が怖じ怖じと切り出した割に、化粧品は6000円と意外に安かったのでそれぐらいなら確認せずに今後も買っていいと伝えた)。

僕も相談するようにしているが、この間のカメラのレンズはOKが出なかった。これが年収1000万円の暮らしなのか、と考えると今でも不思議な感じがする。まだ子供がいないから多少ゆとりがあるだけの、「普通」の家庭だと思う。

僕は今でも、自分のことを中流家庭だと思っている。

筆者はこうした慎ましげな家庭っぷりを披歴したうえで、「自分は中流である」と自称している。

 

確かに中流ではあろう。

だが私に言わせれば、この筆者が中流である最も重要なポイントは、年収の額でも趣味や化粧にお金を費やしている度合いでもない。

「選択的投資」を理解していること、そしてそのようなハビトゥス(習慣)を親や学習環境からしっかり継承していることが、筆者が中流である徴候とみる。

 

子どもの教科書代にお金を惜しまない親は中流的だが、そういった家庭で育ち、「選択的投資」という概念をしっかり内面化し、そのように社会を眺め、そのように世渡りしていく子どもも中流的だ。

たとえば普通の本屋には置いてなさそうな文化的な本を買い漁る学生などは、表向きは貧乏でもその精神性は中流的であり、いわば、精神的ブルジョワである可能性が高い。

少なくとも、同じお金をもっぱら呑んでしまったりソーシャルゲームのガチャ代に充てたりしている若者よりは、ブルジョワ的と言って差し支えないだろう。

 

資本主義のロジックを加速させていく現代社会を生き抜くにあたり、「選択的投資」をやってのけられる精神性は、あったほうが望ましいハビトゥスであり、かなり重要な文化資本と思われる。

 

「中流であり続ける」とは、年収が一定水準かどうか以上に、中流的・ブルジョワプチブルジュワ的な精神性が親から子へと適切に継承されていくことではないだろうか。

そして「中流になる」とは、こうした文化資本を自分の代になって初めて身に付けることではないだろうか。

冒頭リンク先の記事を読み、それから自分自身の生まれ故郷の過去と現在を思い出して、私はそんなことをふと思った。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:ht

ネタではなく、結構本気で言っているのだが、なぜそこに至ったか、お話する。

 

 

少し前のこと。

私は知人の紹介で、元医師の、医療系スタートアップの経営者の方にお会いした。

 

私はスタートアップの経営者にお話を伺うときにはいつも、「なぜ起業されたのですか」と聞いている。

その問題意識こそが、会社の原動力だからだ。

 

彼は言った。

「日本の医療費の伸びは、危機的状況にあります。」

事実、日本の医療費は総額40兆円を超え、一人あたりの負担も上がる一方だ。

(出典:http://www.jpma.or.jp/about/issue/gratis/databook/2018/table.php?page=p85 より作成)

 

「日本の皆保険制度をこれからも機能させるには、変わっていかなければなりません。」と彼は言う。

 

確かに、それには皆がうすうす気づいている。

私は尋ねた。

「どのように変わらなければならないのですか?」

 

彼は口を開いた。

「いまの保険制度は、病気にかかり、病院に行く、というところからスタートしています。例えば、高血圧で5年前から心臓病を患っている患者さんがいる。もちろん、塩分は控えなければなりません。

だけど、その方はどうしても、「醤油たっぷり」がやめられない。でも、それは医師による治療の対象ではない。」

「はい。」

「ついに彼は、心筋梗塞で倒れ、病院に担ぎ込まれる。そして、ここからが医者の仕事です。幸い、処置が成功し、命は助かりました。医者は感謝され、報酬を受け取りました。」

 

そして彼は、自嘲気味に笑い、言った。

「だけど、そもそも「心筋梗塞にさせない」ほうが、全体としては遥かに良いと思いませんか?」

 

それは、そのとおりだ。

「はい。」

「では、「病気にさせない」ことは、誰が担うのでしょう?」

 

考えたこともなかった。それはそもそも、自己管理の問題ではないのか。医師のやることなのか。

「……お医者さん……ではない?」

「残念ながら、いまの制度は予防に対して、お金を出しません。病気にならないとお金が出ないんですよ。もちろん、医者は節制を勧めますが、指示に従う人は少ない。」

「自己責任、ということでしょうか?」

「とんでもないです。自己責任じゃないですよ。皆保険ですから。連帯責任です。我々皆が、彼の心筋梗塞に対して、責任を担っているのですよ。」

「……。」

 

 

病気と医療に代表されるように、我々は、「予防」がとても苦手だ。

高血圧で心臓病にもかかわらず、食事の満足のために塩分過多の状態をやめようとしない。最終的には心筋梗塞で病院に担ぎ込まれる。

歯を磨くと出血をしているのに、「忙しい」と言って歯医者に行かず放置する。最終的には歯周病で歯をほとんど失ってしまう。

脂質異常症という検査結果なのに、揚げ物やラーメン、ポテトチップスを貪るように食べてしまう。終いには肝硬変を起こす。

 

もちろん、これは不合理だ。

 

実際、55歳〜74歳の男女1000名のアンケートによる「リタイア前の後悔トップ20」には、健康に関する事柄が、ずらりと並ぶ。

「リタイア前にやるべきだった……」後悔トップ20

1.歯の定期検診を受ければよかった

2.スポーツなどで体を鍛えればよかった

3.日頃からよく歩けばよかった

4.腹八分目を守り、暴飲暴食をしなければよかった

5.間食を控えればよかった

我々は、「わかっていてもできない」ことがたくさんある。

 

だが、一体なぜだろうか。

なぜ我々は合理的に行動できないのだろうか。

 

実は、これらはすべて「将来的に払わなければならない、大きなコスト」を、脳がうまく計算できないせいだ。

経済学者たちは、これを「現在バイアス」という言葉で表現する。

「現在バイアス」とは、「私達は、未来の幸せよりも、今日の幸せを選好する」というものだ。

 

このバイアスは、往々にして「悪い先送り」を引き起こす。

例えば、車のちょっとした修理など、ただちにやるべきささやかな量の仕事があるとき、人は往々にしてそれを先送りにし、最終的に車がもっと大々的な修理を必要とする状態になってから、3倍から4倍もの費用を払う。(中略)

割引率の高い人(=現在バイアスの強い人)は一般的にあまり幸せではなく、体重は多く、借金も多く、貯金は少なく、アルコール摂取量と喫煙量は多く、運動量は少なく、給料の安い仕事に就き、ひとところに勤め続ける期間は短く、離婚率も高い。

[amazonjs asin="4478021805" locale="JP" tmpl="Small" title="すべては「先送り」でうまくいく ――意思決定とタイミングの科学"]

これを「自己責任だろ」と一笑に付す人もいるが、「自己責任」で済まないのが、皆保険であり、いまの日本の現状である。

 

もちろんこれは、医療の分野だけではない。

企業が短期的な利益を追求し、不祥事を引き起こすこと。

経営者が、マーケットの先細りが見えているにもかかわらず、改革を断行できないこと。

会社員が、将来性のない会社にとどまり続けること。

フリーターが、見込みのない夢に掛け続けること。

すべて、未来に支払わなければならないであろう、大きなコストを現在バイアスのために無視している例である。

 

ではこの「悪い先送り」を回避するために、我々ができることはあるのだろうか。

 

 

私事で恐縮だが、私も多分にもれず、30代半ばから、運動不足と不摂生という問題を抱えていた。

脂質異常症、脂肪肝、歯周病、寝不足、慢性疲労……。

 

だが、仕事が忙しいから、という言い訳をしても、体の数値は改善されない。

本質的には健康というのは、生活習慣の集大成、というだけのことである。

運動を始めてもいきなり効果の出るものではないし、食事を始め、睡眠などの生活リズム、仕事の量、余暇の過ごし方まで、生活すべての見直しを含んで行わなければ、成果は得られない。

 

だが、頭でわかっていても「生活を見直す」というのは、一大事業だ。

日々押し寄せてくる、圧倒的な量の雑事の前に「生活を見直す」という意気込みは、ただ無力であった。

 

仕事が忙しくなれば、運動しなければならないことなど忘れてしまうし、何かしらのきっかけで「健康に気を遣おう」と決心し、エスカレーターではなく階段をつかってみれば、「今日はよく運動した」と、昼食にラーメンの大盛りを食べてしまう。

そんな「現在バイアス」に囚われる日々が続き、私は自分が嫌になっていた。

 

ある時、私は記事を書くためにドラッカーの著書をひっくり返していた。

ふと、目に入ったのは「目標と自己管理によるマネジメント」の項目だった。

自己管理……

 

本には、こうあった。

自己管理によるマネジメントを実現するためには、その考えを正しく望ましいものとして認めるだけでは不十分である。

そのための道具立てが必要である。これまでの考え方や仕事の仕方について、思いきった変革が必要である。

自らの仕事を管理するには、自らの目標を知っているだけでは十分ではない。自らの仕事ぶりとその成果を、目標に照らして評価測定することが必要である。

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私は震えた。

人間は目の前に脅威がない限り、「やりたい」「やらねば」だけでは、行動の動機としては不十分だという事実を、突きつけられたからだ。

道具立てが必要」とドラッカーが言う通り、私には成果を評価測定する手段が必要だった。

それができなければ、簡単に日常に圧殺されてしまう。

 

私は、「自分の行動をモニタリングできる機器」に一縷の望みを託した。

それが、Apple watchだった。(注:Appleからは何も受け取っていません、むしろ多額のお布施していますw)

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そして、このデバイスで、活動量、心肺機能、睡眠時間など、日常生活の多くのデータをモニタリングするようになってから、1年以上が過ぎた。

「自分がどの程度運動したか」

「どの程度睡眠が取れているか」

「トレーニングの成果はでているか」

「トレーニングのやり方は正しいか」

「体重の変化はどうか」

「体脂肪率の変化はどうか」

などの情報が自動で記録され、ひと目でグラフで追えるようになった。

 

生活習慣はすっかり変わり、1年で体重はマイナス7キロ。体脂肪率はマイナス8%と、ある程度の成果が得られた。

しかも、ほとんど無理なく。

今では

「どの程度の睡眠で、日中の眠気をなくせるか」

「1日あたりの摂取カロリーをどの程度にすれば太らないか」

「トレーニングはどの程度の頻度で行えばよいか」

「体脂肪率は、食事でどの程度変化するか」

といった法則が、ある程度データから読み取れるようになったので、体調の管理は信じられないくらい楽になった。

 

完全に、日常に体調管理の活動と、そのフィードバックが組み込まれたのである。

 

もちろん懐疑的な方も多いだろう。

私も、これが全員に向いている方法だ、などということはもちろん、言わない。

だが、数値的な目標、わかりやすい測定機器さえ与えられれば、それなりに努力できてしまう人は、結構たくさんいると思う。

 

いや、少なくとも、いろいろな人がこの試みを始めれば、真に困っている人々のために、皆保険制度を維持可能にするレベルにはなるのではないか。

個人的にはそう思っている。

 

 

冒頭の経営者に、私は上の話を述べた。

だが、その経営者は首を振った。

「予防に力を入れるため、健保組合などで、万歩計を配ったが、残念ながら皆使わなかった。」

 

いやいや、当たり前だ。

万歩計のようなダサい機械では、つけたいとは全く思えない。

モニタリングデバイスは、多目的で、デザイン的にも優れていて、身につけたくなるようなものでなくてはならない。

 

だから、あえて言おう。

日本人は、直ちに全員、Apple watchをつけるべきだ。

みんなが幸せになるために。

 

 

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(Photo:sergio santos

就活の面接は、もはやノウハウ&マニュアル化されつつある。

ポピュラーな質問にはすでに「模範解答」があるし、大学のキャリアセンターなんかがばっちり指導していて、学生はきっちりと暗記してくる。

 

そんな中、こんな記事を読んだ。

採用担当者が嘆く「印象の悪い就活生」の共通点

面接では志望の強さも確認される。エントリーしている他社の選考状況を聞かれ、「内定が出たらどうするか」といった質問もある。

正直な学生は口ごもり、目が泳いでしまうかもしれない。なかには「御社は第1志望ではありません」と口走る学生もいるだろう。

正直は美徳だが、こういう学生が内定を得るのは難しい。企業が抱える採用課題の1つに「内定辞退」があり、そういうリスクのある学生を避けたいと考えているからだ。

「面接で当社への入社意思が5割以下と発言されると、正直採用しにくい」(300人以下・サービス)

「自社が第1志望でない場合に、それを素直に言ってしまう。または、態度で表してしまう学生」(300人以下・情報・通信)

これらの質問に対して明確な意思を示す必要はない。なぜなら「〇〇になったらどうするか?」という仮定の質問だからだ。

仮定の質問に対しては「いま一生懸命就職活動をしており、内定をもらったことがないのでわかりません」くらいの回答でいいはずだ。

うーむ……。

そもそも、この質問にはどんな意味があるのだろう?

 

「自社の優先順位は?」という質問にはかんたんに嘘がつける

売り手市場、内定辞退……そんな言葉が取り上げられるなか、企業が「自社への入社意思が強い学生を採用したい!」と思うのは当然だ。

でも、面接で

「我が社の優先順位は?」

「内定をもらったとして入社する可能性は?」

「弊社が第一志望ですか?」と聞くことに、どれだけの意味があるのだろう。

 

この質問に対する答えは、主に4つだ。

1.本当に第一志望で正直に答える

2.嘘をついて「志望順位が高い」と答える

3.正直に「第一志望ではない」と答える

4.適当にごまかす

企業が採用したいのは「1」の学生だろう。でも問題は「1」と「2」、つまり本当にそう思っているのか、内定のためについた嘘なのか、面接官はすぐに判断できないところだ。

 

「3」の「第一志望ではありません」と正直に答えれば「落とす」と言うのだから、なおさら多くの学生は「2」の答えを選ぶ。

記事中で挙げられているような「4」の「ごまかす」だって、心証がいい答えとは言えないだろう。やっぱり「2」が無難だ。

 

いくらでも嘘をつけるこの質問に、学生はこぞって「入社する気満々です」と言うだろうし、素直に答えた学生に対し「正直に優先順位が低いと言うなんて!」と眉をしかめるのもまた理不尽のように思うのだが、なんの目的があって聞くのだろう?

 

「内定が出たらどうします?」=「告白したらOKしてくれる?」

わたしはこの「内定が出たらどうするか」という質問は、「俺が告白したらOKしてくれる?」と聞くようなものだと思ってる。

説明会という合コンがあって、学生はそこでいいと思った人(企業)に連絡を取る(エントリーする)。

 

脈ありならば、相手(企業)からデート(面接)のお誘いがくる。

デート(面接)でお互いのことを知り、相手から「うちに来てください」と告白される(内定通知)。

そこで学生は、イエスかノーかを答える(内定受諾or辞退)。

 

ぜひとも恋人がほしい人は、微妙な相手にもとりあえず思わせぶりな態度をとるだろう。いわゆる「キープ」だ。

でも実際告白して受けてくれるかはまた別問題。その言葉を信じて告白しても、振られることはおおいにありえる。

 

また、デートで「実はほかにいいと思っている人がいるの」と正直に答える人は少数派だろう。

もしそう言われたら、「そもそもデートに来るな」と思うのも無理はない。

 

しかし相手からしたら「本命じゃないけどアリ」状態なわけで、デートのがんばり次第では振り向かせることができる。

それなのに「俺が本命じゃないならおかえりください」では、ゼロじゃないチャンスを自分から捨てるようなものじゃないだろうか。

 

この質問の答えは大きく分けて「本気かどうかはわからないけど思わせぶりな態度をとられる」もしくは「本命ではないと宣言される(ごまかされる)」のふたつなわけで、どっちに転んでもなぁ、という感じだ。

 

「第一志望」と答えた学生は、もちろん採用ですよね?

さらなるモヤモヤポイントは、「俺のこと好き? どれくらい好き? 一番好き?」と聞き、相手が「うん、大好き。一番好き」と答えたとしても、「じゃあ付き合おう」と必ずしも内定を出すとはかぎらないことだ。

 

いや、もちろん、自分のことを好きな人に対し、自分も好意を抱くとは限らない。片思いはいつでもありうる。

でも自分から「俺のこと好き?」と聞いておいて、「好き」と答えた相手の好意に応えないのであれば、「最初から聞くなよ」と思わないだろうか。なんだそれ、もてあそんでいるのか。

 

学生がいくつもの企業にエントリーしているなんてことは周知の事実なのだし、企業だって多くの学生とデートして比較しているのだから、学生にだけ一途さを求めるのも妙な話だ。

相手に一途さを求めるのであればせめて、「こっちはあなたに本気ですよ」と最初に好意を伝えるべきだろう。

 

「ぜひ採用したいが、内定辞退されると困るので正直な気持ちを知りたい」なら、学生の答えも変わると思う。

自分は好意を伝えないのに相手からの好意だけはしっかり確認し、相手が「好き」と言ってもそれに応える確約はしない。そのくせ「あなたが本命じゃない」と言われるのは我慢ならない。

……うーん、あんまり付き合いたくない。

 

「なぜ優先順位が低いのか」を冷静に聞く度量がなければ無意味な質問

この質問に関してつぶやいたツイートがかなり拡散されていたので、ついでに紹介したい。

どうせ聞くなら素直に答えてもらって、「なぜ優先順位が低いのか」を教えてもらえばいいのに、と思う。

 

給料か、立地か、福利厚生か、仕事内容か、説明会のときのイメージか。

会話のなかで条件や認識をすり合わせられるのであれば、この質問にも意味がある。学生の本音に対して具体的なビジョンを示せれば、「一応アリ」から「大本命」になれるかもしれない。

 

でもそうではなくて、「優先順位が低いなら落とそう」という考えなのであれば、デートに誘う時点、つまり面接に呼ぶ時点で、「その気がないなら最初に断ってね」と言えばいいのだ。

どうせ面接で質問したって、学生はバカ正直に「御社の優先順位は下の下です!」なんて言わないわけだし、自分から聞いておいて「優先順位が低いことを素直に言うなんてけしからん!」というのもまた謎だし。

 

入社意思の確認は、建前じゃ意味がない

この質問に素直に答えて内定をもらった人もいるだろうし、「そんなこと聞かれたことがない」と言う人もいるかもしれない。

ただ実際にこの質問は想定しうるものだし、優先度が低ければ落とす、と考えている人がいるのも事実だ。

 

しかし学生はいくらでも嘘をつけるし、面接中のやりとりで優先順位が変わることもあるし、学生にだけ一途さを求めるのもおかしな話だろう。

建前がまかり通る就活面接で学生の本音を聞きたいのであれば、ネガティブなことを言われても冷静に受け入れるべきだし、本音を聞きたくないのであれば、そもそもこんな質問はしないほうがいいんじゃないだろうか。

 

まぁ、「学生が器用に嘘をつけるかチェックする」という目的なのであれば、意味もあるのかもしれないが……。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Linus Bohman)

皆さんこんにちは、しんざきです。

美術といえば、お絵描き伝言ゲームとでもいうべき「テレストレーション」というゲームがありまして、あるワードを表現した絵を描いては隣の人にまわしていって、最初のワードを当てれば勝ちという協力ゲームなんですが、私がそれに参加すると「お前が絵を描くと時空がゆがむ」とか「しんざきが参加するだけでゲームの難易度が50レベルくらい跳ね上がる」とか「お前の絵で地球がヤバい」とか、大抵非難ごうごうになるのが悩みです。何故なんでしょうね。絵を描くこと自体は実は割と好きなんですけどね、私。まあ美術の成績は散々でしたが。

 

今日は皆さんに、「ギャラリーフェイク」23巻がいかに面白いのか、更にその中でも「もう一つの鳥獣戯画」のエピソードがいかに最高なのかということ、ただそれだけを、情けも容赦も手加減もなく全力でお話したいと思います。よろしくお願いします。

未読の方は、取り急ぎ23巻だけでもさくっと買って帰ってください。損はさせませんし、他の巻を読まないでこの巻だけ読んでも特に支障はありません。勿論23巻以外のギャラリーフェイクも超面白いので、気に入ったら全巻まとめ買うといいと思います。

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皆さん、ギャラリーフェイク、ご存じですか?読んだことありますか?超面白いですよね、ギャラリーフェイク。

一応ご存じない方にご説明しますと、漫画「ギャラリーフェイク」は老練の大御所・細野不二彦先生の代表作の一つでして、「贋作専門のアートギャラリー」であるギャラリーフェイクを営んでいる藤田玲司(以下フジタ)を主人公に、美術の世界で虚々実々の人間ドラマが繰り広げられる群像劇です。

レギュラーの連載は2005年に一度終了したのですが、2017年から「ビッグコミック増刊号」で再開しておりまして、単行本は現在34巻まで刊行されています。

 

「ギャラリーフェイク」は、「美術版ブラック・ジャック」と言われることもある、言ってみればダークヒーローもの漫画です。

フジタは「贋作」という裏の世界に棲みながら、時には詐欺一歩手前の闇の商売に手を染め、時には超一流の審美眼・絵画修復の腕を持った美の使徒として鮮やかにトラブルを解決します。

ダークヒーローであるフジタ、その助手でありヒロインでもあるアラブの王族サラ、フジタのライバルのようでもあり恋人未満のようでもある三田村館長など、様々なキャラクターの魅力がギャラリーフェイクの重要な味わいの一つであることは議論を俟たないでしょう。

 

細野不二彦先生の作風は、一言でいうと「緻密極まる展開配置」ではないかと思っています。

とにかく芸が細かく、書き洩らしというものがない。お話に必要な全ての要素が、きっちりと洗濯物を折りたたむように、多すぎず、少なすぎず、最後まで必要十分読者の前に提示される。

しかもそれが、多くて2〜3回という非常に短いストーリーの中で完璧に描き出されるわけで、言ってみれば「過不足のなさ」「情報量の絶妙なコントロール」こそが、細野先生の真骨頂なのではないかと私は考えるわけです。

 

で、何故23巻なのか?という話なのですが、この巻には「ギャラリーフェイクのエッセンス」とでもいうべきものがこれでもかというくらい凝縮されており、この巻一冊読むだけで、「ギャラリーフェイクは何故面白いのか?」ということが八割方は理解できるから、ということをまずは申し上げたいと思います。

私が考える限り、ギャラリーフェイクの面白さは、次のような要素でまとめることが出来ます。

 

・実際に存在する美術史の史実・あるいは実在する謎や未解明の問題を下敷きにした、リアリティと奥行きのあるストーリー

・ダークヒーローであるフジタの活躍と、それを味わうことによる「流石(さすが)」という感情のカタルシス

・一癖も二癖もあるキャラクター同士の人間関係、対立、信頼などの人間ドラマ

・フジタの活躍によって、時には喜び、時には救われ、時には悪だくみを阻止される周囲の人間たちの群像劇

・サラが可愛い

・サラが可愛い

 

これらの諸要素が、勿論ギャラリーフェイクの各巻には綺羅星のようにちりばめられている訳なのですが、特に23巻、その中でも「もう一つの鳥獣戯画」の回には、もうこれでもかというくらい面白エッセンスが詰まっている、詰まりまくって目詰まりまで起こしている訳なのです。

この「もう一つの鳥獣戯画」の回の話を中心に、「ギャラリーフェイク」23巻の魅力について解説させていただきます。

解説の都合上、お話のネタバレが含まれることは勘弁してください。気になる人は事前に読みましょう。ぜひ。

 

***

 

まず最初に、皆さんに「菱沼棋一郎」というキャラクターについて説明しておかなくてはいけません。

菱沼は悪徳画商であり、フジタの日本画修復と裏の商売の師匠でもあり、袂を別った現在はフジタの商売敵でもあり、作中何度もフジタと対立することになる、微妙な立ち位置のキャラクターです。

フジタに煮え湯を飲ませることも、逆にフジタによってやり込められることもあり、まあ大筋悪役・敵役として振舞うキャラクターであることは間違いないでしょう。

ダリをモチーフにしたその造形も相まって、作中でも人気キャラクターの一角を占めます。

 

「もう一つの鳥獣戯画」は、ギャラリーフェイクのフジタの元に、菱沼からの依頼の手紙が届くところから始まります。

菱沼は入院中で、フジタは菱沼の病室まで呼び出されます。病室で聞いた依頼の内容は、「鳥獣戯画の断簡を正当な持ち主の元に取り戻す」こと。

 

鳥獣戯画、正式には鳥獣人物戯画は、皆さんご存知の通り、ウサギやカエルを擬人化して描いた、「日本最古の漫画」とも言われる絵巻物です。

作中では、その鳥獣戯画の一部を記した「失われた断簡」が、さる地方の名家である南雲家に秘蔵されていたことが語られます。

 

ちなみに、鳥獣戯画が甲乙丙丁の四巻に分かれていること、その内甲巻の一部が失われていることは、実際に知られている事実です。

世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ

高山寺を代表する宝物である。現状は甲乙丙丁4巻からなる。甲巻は擬人化された動物を描き、乙巻は実在・空想上を合わせた動物図譜となっている。

丙巻は前半が人間風俗画、後半が動物戯画、丁巻は勝負事を中心に人物を描く。

甲巻が白眉とされ、動物たちの遊戯を躍動感あふれる筆致で描く。甲乙巻が平安時代後期の成立、丙丁巻は鎌倉時代の制作と考えられる。

鳥羽僧正覚猷(かくゆう、1053〜1140)の筆と伝えるが、他にも絵仏師定智、義清阿闍梨などの名前が指摘されている。いずれも確証はなく、作者未詳である。天台僧の「をこ絵」(即興的な戯画)の伝統に連なるものであろうと考えられている。

こうした史実が巧みに作中に取り入れられていることが、ギャラリーフェイクの重要な面白さのエッセンス。

 

菱沼は、自分と断簡についての取引の約束をしていた南雲家の当主が死去し、本来断簡を継ぐべき南雲家の跡取り息子から、その叔父が断簡を横取りして金に換えようとしていることをフジタに語ります。

そして、その叔父から、跡取り息子の手に断簡を取り戻して欲しい、と頭を下げて依頼するのです。

 

報酬金を「一千万円」とふっかけつつもその依頼を引き受けたフジタは、菱沼に「退院はいつになるのか」と尋ねます。

それに対して菱沼は、冗談めかして「余命一カ月だから退院はない」と答えます。当然、これから断簡で商売しようという菱沼が余命一カ月な訳はありません。お互いにニヤリとした二人はそこで別れます。

 

跡取り息子の南雲圭介に接触し、更に絵画修復の達人技を披露して叔父の信頼を得たフジタは、巧みな策略を弄して叔父から断簡を取り戻します。

ところが、その過程でフジタは、作中の人物についての「ある可能性」に気付きます。

その可能性について菱沼に問いただそうとしたフジタは、菱沼が本当に余命一カ月で依頼遂行の知らせを聞く前に死去していたこと、フジタに依頼した直後に「既に事成れり」と信じた菱沼が自分に一千万円の謝礼の小切手を送っていたことを知るのです。

 

いやもーーーー。もーーー。私の拙い説明では作品の味わいの1%も説明出来ていないことは確実なので、皆さん是非実際に読んでみて頂きたいのですが、この話本当に素晴らしいんですよ。

・「もしかしたら実際にこういうことがあるのかも知れない」と思わせる、美術史上の実話を背景にしたストーリーのリアリティ

・フジタが断簡を取り戻す為の策略の巧みさ

・フジタの活躍によってもたらされる結末の爽やかな読後感

・フジタと仇敵同士になっていた菱沼の、仇敵だからこそのフジタに対する無言の信頼感

・サラが可愛い

こういった、言ってみれば「ギャラリーフェイクの面白さの精髄」とでも言うべき要素が、この一回、たった一回のストーリーに全て漏れなく詰め込まれているんです。

 

特に私、昔から「仇敵同士の無言の信頼」という展開が大好きなので、敵同士だったからこそ誰よりもフジタの手腕を理解していた菱沼の、「既に事成れり」という一言にはじーんとしてしまいまして。

 

それまでのギャラリーフェイクを読んでいて、菱沼とフジタの様々なやり合いを見ていればより一層この味わいは増幅される訳なんですが、それを抜きにしても、手紙の最後に記されていた菱沼の辞世、そして悄然としたラストのコマには、経緯を知らない方でもきっと感じるものがあるに違いないと考える次第なのです。

本当にこの回、読後感が物凄いです。未読の方は是非。

 

ちなみに、この23巻をお勧めする理由は勿論この「もう一つの鳥獣戯画」だけが理由ではなく、他にもギャラリーフェイクの魅力を詰め込んだストーリーが盛りだくさんです。

時に人情あり、時に失敗あり、時に悲劇あり、ただ常に美術に対する情熱と崇敬を背景にしたフジタとサラの物語が、どの回にも目いっぱい詰め込まれています。

 

個人的には、「落人たちの宿」でフジタの冗談にムキになって「んじゃ、混浴するぞっ!」と男湯に押し入ろうとするサラが非常に可愛いと思いますので、その点でも皆さまにおススメです。サラ可愛い。

 

また、私は「漫画の面白さには、重要な二つのエッセンスがある」と考えており、それが「まさか」と「流石」の二要素だと、以前からちょくちょく書いています。

「まさか」というのは意外性の面白さ、ピンチからの逆転、舐められていたキャラクターが周囲の評価をひっくり返すの面白さ。「流石」というのは期待が裏書きされる嬉しさ、頼もしさ。

実力があるキャラが実力通りの活躍をする面白さですね。

 

ギャラリーフェイクは、元より天才的な絵画修復の腕前と美術についての知識を備えているフジタが活躍する漫画ですので、大筋「流石」に傾斜したカタルシスが読者に提供されることが多いです。

ただそんな中にも、例えばサラが意外な活躍をする「まさか」の気持ち良さや、思わぬピンチに陥ったフジタの、あるいはフジタ以外のキャラクターの逆転劇(ただし逆転出来ないこともある)なんかも頻繁にあったりしますので、そういう点でもおススメ出来る次第です。

23巻で言うと、「古裂の華」なんかは「まさか」寄りの話ですよね。

 

ギャラリーフェイクは、特に23巻は超面白いので皆読もうぜ!という、ただそれだけの記事でした。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Thomas Hawk)

先日、部下がみんな辞めて「最後の一人」になった時の話という記事を書きました。

自戒の念を込めた、備忘録的な内容でしたが、

“自分は上司として尊敬され慕われていると思っていたが、それは思い込みに過ぎなかった。実際は、尊敬・信頼を得るための「対話」が足りていなかった。”

という話です。

 

そして、この記事を書いている際にふと思い出した出来事がありました。

 

勉強会で聞いた、「できない部下」の話

以前、何か自社でも活かせることがないかと、私は「若手層の育成・教育」をテーマとした勉強会に参加しました。

そこには、管理職・小さな会社の経営者など、業種も違えば年齢も違う多種多様な管理職が集まっていました。

 

そして、勉強会の途上。

3人でのワークショップにおける意見交換のとき、以下のようなやり取りがありました。

 

************

 

男A:若い子って、ビジネス教養は割と早く身に付くんですけど、言葉を表面で捉える癖がありませんか?

丸山:どういうことですか?

男A:日報や議事録は普通、人に見せる前提で作ると思います。だけど彼らから実際に上がってきたものを見ると、人に見せる前提で作っていない“ただのメモ”、ということがよくあります。

男B:それはありますね。もうちょっと想像力を働かせて欲しいなぁ〜、と感じることはありますよね。

男A:そうです、そもそも勘所が悪いというか“できない部下”が多いんですよね。

丸山:(…愚痴?)

男A:赤色と黄色は使えるけど、オレンジ色の使い方が分からない。そういう感じです。

丸山:(どゆこと???)

男B:混ぜるだけなのに、ということですか?

男A:そう。良いと思うことはどんどん自発的に挑戦して欲しい!と常々言ってるんですが。

丸山:(…半分は理解できる。)

丸山:理想としてはどのレベルまでの成長を期待していますか?

男A:やっぱり独り立ちですね。1人でも自信を持って熟せるようになって欲しいですよね。教えてる時間はチーム全体の生産性が落ちてしまうので。

男B:いつまでも指示でリソースを取られるのは厳しいですよね。

男A:はい。ただ、いつまで経っても受身だと、ずーっと大した仕事は出来ないんですよね、実際。良い仕事が出来るなら“自分でこれくらい出来ます!”ってアピールするでしょ、普通。

男B:受け身なのはありますよね、若手社員あるあるというか。そこは任せられない原因として大きいかも知れないですね。

丸山:そういった人にどうやって育成していくんですか?

男A:小さな事ですが、何度もやり直しさせるしか無いですね。出来ていない事を理解させて、奮い立たせるようにしています。

男B:仕事の納期とのコントロールはどうしてますか?

男A:“多少の納期”はお客さんに説明していますが、部下育成の本質はクオリティなのでプロ意識を醸成させる事が重要だと思っています。

丸山:その“多少の納期”の数が増えて、忙殺されるなんてことは?

男A:まぁ、そういう時ももちろんありますよね。

男B:クオリティの基準はあるんですか?

男A:そこが難しんですが、結局上司側の立場からすると“指示するか・任せるか”しかないんですよね。私の出したハードルを超えて来たらOK!という感じですかね。

丸山:ちなみに、そのリテイクで社員さんは潰れないですか???

男A:加圧トレーニングみたいなもんです。成長としては一番早いし一気に伸びますよ!

丸山・男B:か、加圧トレーニング……。

 

************

 

Aさんはつまり、「何度もやり直しの負荷をかけて伸ばす」という方針のようです。

もちろん、業種や社風によって育成方法は異なるので、一概にこれが悪いとは言えません。

 

ただ、部下の育成方法を画一化してしまうのは、若干の疑問も残ります。

個人的は、個人への育成は “成熟度に併せて柔軟に対応するもの” だと思うのです。

 

例えば、図に示すように、S1〜S4の部下の発達度に応じて、上司がリーダーとしての行動を変える「SL理論」という理論があります。

S1:指示型

トップダウンで、手取り足取り具体的な指示を出す

S2:説得型

プロジェクトの方向性や具体的な手法などを伝授する

S3:参加型

意思決定の支援以外は部下の自主性に任せる

S4:委任型

目的のみを共有し、その他の手法については任せる

 

先程の話で当てはめると“指示するか・任せるか”。つまりS1とS4しか存在しません。

もしかするとS2・S3の段階を「部下の甘え」と認識しているのかもしれませんが、これではクオリティの許容範囲があまりにも狭すぎます。

“出来ない部下”基準も厳しく、上司のハードルも一体どこで超えられるのか分かりません。

 

直接的な上司と部下の話ではないのですが、許容することに対するこんな話があります。

「リスクゼロ以外、許容できない」という人たちに遭遇するけど、多分それは、みんな不幸になる考え方。

「リスクゼロ」以外が許容されなくって、ちょっとでもリスクが残っていると「こういうケースがある!この時はどうするんだ!リスクを放置するのか!!」と言われたりするんです。

つまり、そういう人たちにとっては、リスク保有は勿論、リスク軽減やリスク移転さえ「リスクを放置している」というように見えるらしいんです。

リスクが「ある」ということ自体が許せない。リスク対応時の完璧主義ですよね。

〜 中略 〜

割と重要な認識として「リスクをゼロにする為のコストは基本バカ高いので、あまり現実的ではないことが多い」ということは、一つの常識になってもいいんじゃないかなーと感じています。

勿論、リスクを指摘すること、それ自体は重要なんですけどね。

これは上司が部下に業務を任せる際の「どこまでのクオリティを許容するのか」と同義ではないでしょうか。

 

たしかに、育成のため、部下に何度も手直しを要求することはあります。

会社としての仕事のクオリティを保つため。また、厳しさとやりがいは表裏一体だからです。

 

しかし、部下の仕事が、最低限のクオリティを満たしている場合には、「上司の理想」に沿った指摘ばかりだしているのも、問題です。

 

「上司の理想」よりも、「部下の達成感」を優先させよう

「指示すること」はクオリティをコントロールし、リスクを軽減させます。

反対に「任せること」はクオリティを部下に委任し、リスクを許容します。

 

細かな指示を出さないとクオリティを担保出来ない、と思っている上司は、部下の可能性を狭め、自信を奪っていると自覚すべきです。

結局のところ、上司は全て自分でやってしまった方が理想通りの仕上がりになります。

しかし、それではただの独り相撲。または典型的な “仕事抱え込みダメ上司” の出来上がりです。

 

社歴もそうですが、ひとつの業界で歴が長くなってしまうと、つい部下に対する許容範囲は狭くなりがちです。

マネジメントする上司の立場としては任せるリスクを背負うよりも、ミスを指摘する方がラクなのですが、部下からすると、ただの機会損失でしかない場合もあります。

 

部下の可能性は上司が決めるものではありません。

「成長度合いに合わせて、適度なチャンスを与えること」が上司の役目ではないでしょうか。

 

部下の本当の成長を望むのであれば、「上司の理想」よりも、「部下の達成感」を優先させるべきだと思うのです。

 

 

🕺🏻丸山享伸

Web制作会社(UNIONNET Inc.)代表。

「はたらくを楽しく」したい小さな会社の経営者として、日々現場を通じて感じる組織のことや働き方に関する事を発信しています。興味のある方は気軽にフォローしてくださいね🔥

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(Photo:alan feebery)

昔、ある会社でターンアラウンド(事業再生)に取り組んだ時に出会った、忘れられない人がいる。

その女性とのファーストコンタクトは最悪で、

「何しに来たんですか?忙しいんでさっさと出ていって下さい!」

が、初対面の挨拶だった。

 

私はその時、取締役経営企画室長という立場で、事業の状態を可視化し、経営トップを支えて業績の改善をサポートする仕事だった。

だが、カッコよく聞こえるだけで、やることは相当泥臭い。

とにかく現場に足を運び、数字を可視化する手がかりを探っていく。

 

だが、現場から見れば余計な仕事を増やすだけの敵である。

最低限でも、

・新たな業務日報のフォーマット作成を指示され

・そのフォーマットに沿った報告を毎日求められ

・その内容についてもごちゃごちゃ聞いてくるであろう

相当ウザい存在だ。

 

仕事をこなす上で味方になる可能性は0であり、排除にかかるのも無理はない。

その私が初めて工場を訪れて、設計部門の責任者である女性に話しかけた時の初対面の言葉が上述した

「さっさと出て行け」

であった。

 

呆気にとられて言葉を失う私に、彼女はさらに続ける。

「今私達が毎日、どれだけの日報を書いているか知っていますか?」

「いや、知りません。」

「同じような内容のものを3種類ですよ!一つは社長向け、一つは部長向け、一つは工場長向け。しかも内容は似たようなものなのに、フォーマットが違うから全部一から作ってるんです。しかも社長はメールで、部長はFAXで、工場長は紙に出して机に置いておけっていうんですよ。で、あなたのお好みは何なんですか?」

「・・・(あわわわ)」

「偉い人って本当にみんなそう。報告をしろって言うくせに内容は読まないし見ても理解できない。あなたも元々は、証券マンなんですよね?何がわかるんですか?同じように余計な仕事を増やして、また私達にサビ残させるために来たんでしょ?」

 

ファーストコンタクトから、強烈である。

しかも彼女の指摘は、決して的外れではない。たしかに私は、数字を可視化するために社内での情報共有の仕組みをつくることを一義的な仕事の目標にしていた。

しかしシステム投資に新たに使うようなお金はないので、取っ掛かりは報告書のフォーマット整理からになるとも考えていたところだ。

その考えを見透かされた上での、完全な先制カウンターパンチだった。

 

なおその会社は女性比率が80%を超えており、さらにその現場部隊を取りまとめるのが彼女である。

正直、彼女を敵に回せば会社の立て直しどころか、自分が会社から消えることになるだろう。

 

いうなれば、新作のRPGを始めたら、最初の城にいきなりラスボスが現れたようなものだ。

自分はどうするべきか、足りないメモリーをフル回転させて次の一手を必死になって考えた。

 

「いい人」は損をする

話は急に変わるが、世の中で仕事に成功する人は「ギバー(受けとる以上に、人に与えようとするタイプ)」か「テイカー(与えるより多くを受けとろうとするタイプ)」のどちらだと思われるだろうか。

よりわかりやすく言えば、頼まれたことは何でも引き受けてくれる仏のような上司や同僚か。

もしくは何でも人に押し付け、いつも頼み事ばかりしてくる無責任なクレクレ君の上司や同僚か。

そのどちらが出世するだろうか、という問いである。

 

人の心情としては、ギバーである「とても良い人」に出世して欲しいと願いたいところだ。

また私達の価値観が心から、ギバーと共に働き、テイカーとはできる限りお近づきになりたくないと願っている。

 

しかしペンシルバニア大学ウォートン・スクール教授のアダム・グラント氏の調査によると、「成功」という尺度で見た時に最下位にいるのは、どんな職業でもギバーであることが判明したそうだ。

技術者、医学生、営業、いずれの調査でも、ギバーたちはあらゆる尺度で良い結果を出せずに居ることが判明してしまい、アダム・グラント氏自らが、この結果に衝撃を受けたそうである。

 

この調査結果は、「残酷すぎる成功法則」(著:エリックバーカー 訳:橘玲)で述べられている一節だが、ビジネスパーソンであれば誰でも、思い当たるフシがあるのではないだろうか。

「仕事で上司から褒められるのは、いつもうまく立ち回っているアイツだけだ」

「ウチの上司はいつも部下の手柄を横取りして、成績を稼いでいる」

などという世の中にありがちな理不尽さを感じたことがある人であれば、そういう人が結局得をしている身もふたもない現実にも、悲嘆したことがあるかも知れない。

残念ながらそれは一定の真理であり、テイカーは得をしやすいという側面は、私達の生きる世界では否定できない。

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しかし、この調査には続きがある。

では、最下位の対極、もっとも成功しているのはどういう人たちなのかを分類したところ、こちらもギバーであったそうだ。

そしてテイカーとマッチャー(与えることと受け取ることのバランスを取ろうとするタイプ)は常にその中間であったとのこと。

 

結局同著では、その他の調査結果とも併せて、10のうち8まで人を信頼する人がもっとも「成功のパフォーマンス」が高く、9以上の無分別なギバーはテイカーに食い物にされるだけであるとする。

そして「平均すると、嫌なヤツはうまくやる」が、長い目で見るとその効果は低減していくと結論づけている。

当たり前すぎる結論かもしれないが、ビジネスである以上、度が過ぎたギバーはやはり自分の仕事すらこなせなくなる事態に陥るということのようだ。

 

テイカーに搾取され続けた人たちの場合

話を戻そう。

追いつめられた私は、それでも何とか冷静さを装いながら、

「わかりました。それでは一度、今皆さんが毎日書いている3種類の日報を、私にみせてもらえませんか?」

と答えた。

 

そして投げつけるように差し出された内容を見ると、確かに悲惨なものであった。

デタラメで見苦しい罫線に色使い。

にも関わらず、3人の聞いていることは結局同じような内容で、A4用紙一枚に統一してもまだ余白がある程度である。

なおかつ彼女たちは、このデータを毎日業務システムの画面を目視しながら、手入力で打ち込んで3枚のフォーマットに入力し、1時間以上のサービス残業で仕上げてから帰宅するのが日課になっていた。

 

ここまで明らかな無駄だとわかっている仕事を毎日、しかもサービス残業で強制されていれば、ストレスを感じるのは当たり前ではないか。

そして彼女たちにとって私は、新たなムダを増やす、4人目のテイカーとしか映らなかったのも当然である。

 

当時は、ギバーやテイカーなどという小じゃれた分類など聞いたこともなかったが、ただただ、この状況で4枚目の日報を求めようとしていた自分に背筋が寒くなる思いがした。

本当に、よく抗議してくれたと感謝しか無い。

 

状況は理解できたので、新たな統一フォーマットを作成し日報の元になるデータをシステムからCSVで吐き出すと、CSVから日報にボタン一つで転写するマクロを組んだ。

そして改めて彼女やその部下を集めると、

「これからは、CSVデータを吐き出した後にこのエクセルを立ち上げて、このボタンをクリックするだけでOKです。後はファイルを添付して、新たに作ったこのメアド一つに送信すれば、社長、部長、工場長、私にメールが届きますので、そうして下さい。」

と説明し、実演してみせた。

 

当然、マクロが実行する作業なので、彼女たちが1時間以上かけてサビ残でしていた仕事が10秒で終わる。

その呆気なさに彼女たちは驚き、

「ちょっと、何これ魔法やん!」

「嘘やろ、私達今まで何してたんよ・・・」

と、自分たちがストレスから解放されることを実感すると、目を輝かせて喜んでくれた。

そして件の怖い女性責任者は、

「みんなよく聞き!この人は使えるわ。この人には業務時間中でも時間を割いて、協力してもええで!」

と、口は悪いが最高の賛辞を受けることができた。そしてそれ以降、彼女とは長い付き合いになり、大きな仕事をいくつも成し遂げるサポートをしてもらえることになった。

 

正直に言って、エクセルでマクロを組むことなど大した技術ではなく、ちょっと調べれば誰でもできる。

フォーマットを統一して彼女たちの負担を軽減することも、エクセルが触れたら誰でもできることだ。

しかし、それまでの「偉い人」たちは、誰もそれをやろうとしなかった。私がやったことは、本当にただその程度のことだ。

 

それでも、「テイカー」から理不尽な搾取を受け続けていた彼女たちには待望の、「信頼できる偉い人」に映ったのだろう。

実物以上の評価にやや戸惑いがなかったわけではないが、素直にそのイメージに乗らせて頂いた。

 

この出来事からは、新たに人と何らかの関係を築く時には、まずはギバーであるべきだという当たり前だが大事なことを教えてもらった。

相手の役に立つことを、まずは自分から証明してみせる。

相手が部下でも上司でも、取引先でも同じことだ。

自分の力で相手のニーズやウォンツにどう役に立ち、あるいは貢献できるのか。

そこに先回りし適切なギバーになれれば、成功は後から必ずついてくる。

 

そんなことを教えてくれた彼女には、今もとても感謝している。

 

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【著者プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

妻と結婚し、最初に驚いたカルチャーショックは、「寄せ鍋にソーセージを入れること」でした。以来機会があれば、「鍋にソーセージはアリかナシか」を色んな人に聞きますが、半々なんですよね。。

なお今では、鍋にソーセージが入っていないと物足りません。

(Photo:Mark Norman Francis

品質管理のコンサルティングをしていた頃の話。

重要プロセスの一つに「協力会社の管理」があった。

 

協力会社の選定、評価、パフォーマンスの監視、再評価の4つについて、それぞれ基準を設けて、その基準に従って運用ルールを作り、それを実施する、という極めてシンプルなものだ。

したがって、我々は部門の責任者と担当者に、現在運用されている基準を最初に必ず確認していた。

 

ところが、中小企業はおろか、それなりに大きな企業であっても、この「基準」が個人の感覚に依存しているケースがとても多いことに驚いた。

 

例えば、現場責任者の課長にインタビューしても、こんな具合である。

「資料を見ると、R社に相当の仕事を外注されていますね。」

「そうです。」

「なぜ数ある会社の中から、R社を選定したのですか?」

「取引先の紹介です。評判が良かったので。」

 

ここまでは、まあ、普通である。

だが、詳細を聞いていくと、雲行きが怪しくなってくる。

「比較検討はなさいましたか?」

「相見積もりは取りました。」

「価格だけで比較したのですか?」

「……いえ、そうではないです。もちろん内容も見ました。」

「どんな項目について内容を見ましたか?」

「えーーー、納期、品質、対応の速さなどですかね。」

 

Q、C、Dと、教科書的な回答だ。

だが、ここで納得してはいけない。インタビューは、各論、個別、具体性が重要なのだ。

 

「なるほど、今「品質」と仰いましたが、例えば、品質の定義を詳しく教えていただけますか?」

「……えーと、数量にミスがないことと、受け入れ時の検査で不具合が出ないことですかね。」

「それはいずれの不具合もゼロ、ということですか?」

「まあ、それが理想です。」

「理想、ということは、ミスがあるということでしょうか?」

「たまには。」

「では、「理想」ではなく、「ルール」や「基準」として、いくつがダメで、いくつならOKなのですか。」

「……件数と言うよりは、大きな事故が起きた時に、対応する形です。一概には言えません。」

「わかりました。では「大きな事故」の定義を教えていただけますか。」

「んー………。」

 

言葉が出てこなくなった。

ただここで、「基準がないでしょう」と詰めても仕方ないし、意味もない。

あくまでも実際の事例に沿ってインタビューは行われなくてはならない。

 

「では、質問を変えましょう。大きな事故は、最近起きましたか。」

「えー、2ヶ月ほど前に大きな事故が起きました。」

「なぜ「大きな事故」と認識をしたのですか?」

「弊社の顧客への影響範囲が大きかったからです。」

「影響、とは具体的に何ですか?」

「お金のことが多いです。金額で決めているかな。」

「それはルールですか?」

「一応。」

「それは、現場の方もご存知ですか?」

「多分、知っていると思います。」

 

ところが、現場で改めてインタビューしてみると、「大きな事故」に対する社員の反応はまちまちで、ルールが適用されているケースと、適用されていないケースがあった。

この会社では、リーダーの判断で上に報告するかどうかが決まり、課長が知っている事故は、全てではなかった。

我々は、記録を調べ、照合し、丹念に一つ一つ、そのケースを洗い出した。

 

それを課長に知らせると、課長は「なんでこんな事故が報告されていないんだ!」と、リーダーに対して怒り出した。

現場の社員も戸惑っている。

「クレームにならなかったので、そんなに重要なことだとは思っていませんでした。」

それを聞いて、課長はまた怒り出した。

「なぜ、自分で考えないんだ。このケースは当然報告だろう!」

リーダーは不条理だ、という顔をしている。

「……はい。しかし……。」

 

我々は課長に言った。

「なぜ、ルールでは決まっていないことを「当然」と考えるのですか?」

「………。」

課長は、黙ってしまった。

結局我々は、内部監査のルールに従い、それを経営者に報告した。

 

その後、経営者の指示で、再発防止策として、一定の基準が定められたことは言うまでもない。

 

 

結局、この現場も「大きな事故」として取り扱うかどうかは、「課長の感覚」に委ねられていた。

 

もちろん、それが一概に悪いことだとは言えない。

全てにルールを定めることは不可能だし、効率を考えると、現場の裁量に任せてしまったほうが良いことも多い。

 

だが、「ルールがない」にもかかわらず、それに対してマネジャーが怒りを爆発させるのは、完全にお門違いである。

マネジャーが「明確な基準」を示さなければ、現場が動けないことは明白だ。

 

たとえ、気の利く現場の社員が、「ご報告しておいたほうが良いかと思いまして」と、気を利かせてくれたとしても、それを当てにするのは、完全に間違っている。

それは、一種のマネジャーの責任放棄である。

ルール違反は現場の責任だが、ルールがないことで事故が起きた責任は、マネジャーが取らなければならない。

 

先日、こんな記事が出た。

「納得感のあるダメ出し」と「しょうもない細かいダメ出し」は一体何が違うのか。

ダメ出しをする側としてまず自問しないといけないのが

「「ここはダメなんじゃないか」と感じた、その理由を明確に言語化出来るかどうか」です。

言語化出来るなら、それを共有することが出来ます。

共有出来る基準であれば、それが妥当かどうかは誰の目にも明らかになりますし、むしろ共有出来ること自体が基準の妥当さを保証することにもなるでしょう。

一方で、「言葉として説明出来ないような基準」はそもそも妥当なのか、という話があります。

それは徹頭徹尾「なんとなく」なのではないか、自分の中だけの感覚に過ぎないのではないか、という話ですよね。

「自分の感覚」だけに頼って他人の仕事のクオリティを図ることがどれだけストレスを発生させることか、自明な話なわけでして、「そもそもきちんと基準を言語化出来ない」と気づいた時点で、そのダメ出しは避けるべきなのです。

ポイントは「明文化、言語化」である。

 

だが、全てに当てはまるとは言えないが、どうも「古き良き日本企業」では、ルールを守ることは得意だが、ルールを明確に定めることが苦手なマネジャーが多いように感じる。

「なぜ基準を定めないのですか?」と聞くと、

「色々なケースがあり、一概にルールで記述できない」とか「ルールが多すぎると、窮屈だ」とか「判断するためにマネジャーがいる」とか、とにかくいろいろな反応がある。

 

だが、ルールを定めることと、特殊ケースが存在することは両立するし、ルールがあるから窮屈だ、というのも単なるイメージに過ぎない。

判断するためにマネジャーがいる、というが、常にマネジャーが待機しているわけではないし、すべての判断をマネジャーに委ねていたら、それこそマネジャーは仕事にならず、現場の作業が滞ってしまうこともよくある。

ある現場では、マネジャーに連絡がつくまで、会社に残ってないといけない、なんてケースもあった。そんなのは、不条理の極みとも言える。

 

要するに、そういった「判断基準の明確化」を保留するマネジャーは、マネジャー失格で、仕事をしていないのだ。

「ルールを定める」という重要な仕事を放棄している、とも言える。

 

きつい言葉だが、基準を明確に示さないマネジャーは、存在している意味がない。

私は、コンサルティングの現場で、それを嫌という程認識させられた。

 

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(Photo:Mikhail Kryshen

先日、妻がお金の計算をしながら、困っていた。

「どうしたの?」と声を掛けると、幼稚園のあるイベントの会計報告を任された、という。

 

「お金の計算は苦手なのよね。」

「得意な人はあまりいないから、気にしなくていいと思う。」

「そうじゃなくて、昨日の集まりで指摘されたの。」

「なにを?」

「業者さんから、野菜を仕入れたんだけど、その金額が大きすぎるって。」

 

領収証を見ると、確かにスーパーで買う金額よりも、かなり大きな金額が書かれている。

 

「本当だ。高い。」

「もうお金を払ってしまったんだけど、なんで気づかなかったのかなーって。」

「誰でもミスはあるよ。」

「そうなんだけど、この伝票、担当者と、リーダーと、私の3人が見ていたはずなの。でも3人とも指摘できなかった。」

「誰が気づいたの?」

「昨日の集まりで、別のお母さんから指摘があって、初めて気づいたの。」

「……いい加減にやっていた、というわけでもなさそうだね。」

「もちろん、ちゃんとやってた。実際、全体の金額はピッタリ合ってる。」

 

妻は困ったように言った。

「でも、金額の妥当性は誰も気にしてなかったの。会計って、金額があっているかだけじゃなく、金額の妥当性もチェックすることが役割だったなって。反省ね。」

 

 

後日、また妻が幼稚園の件で悩んでいた。

「また、怒られちゃった。」

 

ううむ、幼稚園も大変なんだな。

 

「何があったの?」

「油を捨てるとき、空いた牛乳パックに入れて捨ててるんだけど、捨てたあとに上から漏れてこないよう、ビニールテープで封をしてるの。」

「それで?」

「ただ、そのビニールテープがちょっと弱くて、よく油が漏れちゃう。だから、親切心で「百均かなにかでガムテープを買えばいいんじゃない?」って言ったの。」

「うん、何も問題はないように思えるけど。」

 

「そしたら、上の人達から「すぐに買えばいい、という発想をやめなさい」と言われちゃって。」

「ほうほう」

「穴開けて、紐か何かで縛るとか、封の仕方を変えるとか、工夫次第で幾らでもやりようがあるでしょう、と。」

 

んー、あまり合理的ではないような気がする。

私は言った。

「手間を考えると、百均のガムテープのほうがいい気がするけど。」

 

しかし、妻は首を振った。

「私も最初はそう思ったけど……。」

「けど?」

「多分、上の人もそんな事はわかってる。」

「まあ、確かに。」

「要するに、「お金がないときでも、工夫次第でなんとかできる」という方針があるのに、それを無視したから怒られたの。」

「なるほど……。」

「確かに「手持ちのもので工夫する」という姿勢は大事よね。お金は無限じゃないし、いらないものを買わないことは大事。作業は、こなすだけじゃなく、その方法や手段を考えることが大事っていう、本来の目的がちゃんと見えてなかったなー、って思って。」

 

 

妻の話を聞いていて、ふと気づいた。

「目的はなにか」と、問い直すことは、あらゆる仕事において重要だったな、と。

 

確かに、私の師は、あらゆる仕事において、「目的」を認識することを、何よりも重視していた。

 

例えば提案書をレビューしてもらうと持っていく。

「これで良いかどうか、見ていただきたいと思いまして。」

 

すると、中身を見るよりも前に、師はタイトルをじっと見る。

そして、次の一言はたいてい、

「安達さんは、どうしたいの?」だ。

 

私は、「仕事を取りたいです」と彼に告げた。だが、彼はじっと考えた後に、こう言った。

「お客さんは、何を求めてると思う?」

「……。」

「提案の目的は?」

「えー……。」

「提案は、お客さんにもメリットがなければならない。メリットというのは、要するに売上アップ、コストダウン、生産性の向上のいずれかでしかない。」

 

私はしまったな、と思いながら言い直す。

「すみません、そういう意味では、この提案はお客さんの成約率を向上させることを目的としています。」

「ならば、提案の最初にそうハッキリと書くべきでは?」

「は、はい。」

 

彼は容赦なく続ける。

「あと、成約率を向上させる、という提案に、なぜ間接部門の意識アップ、という項目が必要?」

「お客さんへの回答が早くなり、成約率の向上が見込まれるからです。」

「では、意識アップではなく、営業からの依頼に対するレスポンススピードの向上、と書かなければ駄目だろう。このままでは目的を誤解される可能性がある、あとは……」

 

という具合で、私は延々と、「目的、目的、目的、目的」と、指摘をされ続けた。目的の理解がなされていなければ、手段の議論は無意味だし、時として有害である。

 

結局私は「提案書を書く、単なる作業者」になっていたのだった。

「自分が大した価値を出せてない」と痛感させられるのは、いつでも嫌なものだ。

 

 

私達は、考えることが多くなってくると、ついつい、「本来の目的」を忘れてしまいがちになる。

そればかりか、本当は価値をあまり生み出さない活動に、エネルギーの大半を注ぎ込んだり、余計な出費をしたり、的はずれなコミュニケーションで相手の時間を無駄にしたりする。

 

行動経済学者のダン・アリエリーは、著作の中で「人間は、選択の自由のせいで、本来の目的を忘れてしまう」と述べ、こんな話をしている。

ふたつの非常に似かよった選択肢からひとつ選ぶのは簡単なはずだが、実際にはそうはいかない。

わたしも何年か前に、MITにとどまるべきか、スタンフォード大学に移るべきか悩んでいたとき、まったく同じ問題に陥った(最後にはMITを選んだ)。

ふたつの選択肢を突きつけられ、何週間もかけて両校をじっくり比較した結果、総合的な魅力という点でどちらもほとんど変わらないことがわかった。

 

そこでわたしはどうしたか。それでもまだ、さらなる情報と実地の調査が必要だと判断し、両校を慎重に吟味した。それぞれの大学の人に会って大学をどう思っているか尋ねた。近隣や子どもが通えそうな学校も調べた。

スミとふたりで、ふたつの選択肢が自分たちの望む生活にふさわしいかどうかじっくり考えた。

 

そのうち、わたしはこれにすっかり心を奪われて、学術研究や論文発表に支障が出はじめた。皮肉なことに、仕事をする最適な場所を探しているうちに、わたしは研究を軽視してしまっていたのだ。

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私は他にも、部長職やリーダー職への人員配置はあっさり決めるのに、交通費の申請の不正を防ぐ議論に貴重な時間を使っている会社を見た。

自分たちの商材について、お客さんから苦情が大量に寄せられているのに、クレームの記録手法ばかりに時間を使う会社を見た。

パフォーマンスの高い人を励ますのではなく、パフォーマンスの低い人をどう処罰するかにばかり時間を使う会社を見た。

 

実際、「パーキンソンの法則」で有名な、C.N.パーキンソンは、「議題の一案件の審議に要する時間は、その案件にかかわる金額に反比例する」という法則と、その実例を残している(*凡俗の法則)

・1000万ポンドの原子炉の見積もりには2分半

・350ポンドの事務員の自転車置き場建設には45分

・21ポンドののミーティングのお茶菓子代には、1時間15分

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仕事は日々、考えることが増え続け、我々の注意資源は常に消耗している。

そのため「本来の目的を見失っている」状態が、改めて問い直される場は、それほど多くない。

 

したがって、本当にパフォーマンスを追求するには

「それって、なんのためにやっているの?」

と問い直すことこそ真に重要だ。

 

映画「マトリックス・リローデッド」の中には、

"Why" is the only real source of power.

Without it you are powerless.

という一文が出てくる。

 

私も同感だ。

「目的」も「意味」も考えない、考えさせない、考えられない仕事では、人は、たいした価値はだせない。

従属するだけの存在となる、

 

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本記事は、名刺アプリ【Eight】のスポンサードによって制作されています。

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(Photo:Katie Dalton

「日本の常識は世界の非常識」なんて言葉がある。

「世界」とはいっても多種多様だし、ほかの国とちがうからなんだっていう気もするけど、日本独自の価値観やマナーというのはたしかに多い。

それに関しては、「いい」も「悪い」もない。ただ、「それが日本」というだけ。

 

でも、だから、こんなことも起こる。

 

苦労しないと理解できない日本人とビジネスしたいですか?

『リスクに背を向ける日本人』という本の最終章で、とある日本人女性が、筆者であるアメリカ人、メアリー・C・ブリントン氏に、こんな話をしたというエピソードが語られている(以下はわたしが要約したもの)。

 

日本的ビジネスの慣行を理解してもらうことは大切だから、本社から派遣されてきた外国人マネージャーに、日本ではどう仕事するかとか、日本でのビジネスの手続きとかを全部説明する。

でも少しして新しい人と交代するので、また最初から教えないといけない。日本文化を理解しない外国人に毎回同じ説明をするのに嫌気がさしている。

[amazonjs asin="4062880733" locale="JP" tmpl="Small" title="リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)"]

彼女の悩み、というか愚痴に対し、ブリントン氏はこう答えている。

「日本的なビジネスのやり方や、日本的なビジネス関係の作り方があるのは理解しています。

だけど、こう考える必要があるんじゃないでしょうか? 日本的なビジネス慣行がそれほど特殊なもので、新しい取引相手ができるたびに何度も何度も説明しないといけないのだとしたら、日本の経済は今後ますます他の国から置き去りにされることになるだろう」って。

(中略)

私が外国人のビジネスパーソンだったとします。私はどの国の人たちとビジネスするか、選ぶことができます。

そうしたときに、同じビジネス文化を共有していて、だから互いに理解しあえる人たちとビジネス関係を結ぼうとしないで、わざわざ、苦労しないと理解できない人たち(たとえば日本人)を相手にビジネスをしたいと思うでしょうか?

ほかの条件が同じであれば、努力をしないと理解しあえない日本人を相手にビジネスをするよりは、そんな努力をしなくても理解しあえる国の人たちを相手にビジネスをするほうが、よっぽど効率がいいと思いませんか?

そして、こうした効率こそが、ビジネスの決め手なんだと思いませんか?

「おっしゃる通りです」としか言いようのない、見事な回答だ。

 

たとえば婚活でほぼ同じ条件の人と出会ったとき、

「朝昼晩はLINEすること。寝る前は電話。飲み会は事前報告。デート代は男性が支払う。記念日には食事に行く。異性とふたりで出かけるのは禁止。毎日「好き」と言って。

この前のレストラン、メニューが総じてカロリー高めだった。今後はヘルシーなレストランに行くこと。あと服もちょっとダサいから、わたしのフェッションスタイルと釣り合いのいいコーディネートしてきて」

と言う人と、

「だいたいの価値観は共有できているので、あとは付き合うなかでお互いうまいことやっていきましょう」

と言う人、どっちと付き合いたいだろうか。

 

顔がものすごく好みだとか、面倒な要素を差し引いてでもその人が好きだとかっていう理由があれば、前者と付き合うかもしれない。

でもそういった特殊な要素がなければ、後者のほうがいい。

 

外国人マネージャーに「これが日本的ビジネスですから」とあれやこれや説明するのは、究極的に、前者のやや面倒くさい人と同じ方向性の考え方だ。

そしてブリントン氏は、「そういう人と付き合いたいですか?」と問いかけている。

 

独自ルールを守らせようとしてくる人との仕事は、非効率

冒頭の質問者の方の『日本式』が、どの程度のレベルのことを指すのかはわからない。

「日本ではほうれんそうが大事なんですよ」

「お得意さんには手土産を持っていきましょう」

「名刺は両手で受け取ってくださいね」

くらいなら、文化のちがいとして「なるほど」と思うかもしれない。

現地に溶け込んでうまく一緒に仕事をしていくための配慮は、どの国で働くにせよ必要だ。

 

しかしそれが、

「印鑑は相手にお辞儀する角度で。サインはダメです。カタカナの苗字でも関係ありません、日本では印鑑なんです」

「電話は3コール以内に出てください。それ以上の場合は、『お待たせいたしました』と言ってください」

「出してもらったお茶は、一言言ってから飲むのがマナーですよ」

レベルだったらどうだろう。

 

言う方だって「いちいち説明するのが面倒くさい」と思うだろうが、言われる側のほうが絶対もっと思ってる。「いちいち面倒くさい」と。

 

そんなことをいうと「それが嫌なら日本から出て行け」と主張する人が現れるだろうが、これは「どっちが正しいか」の話ではない。

電話を3コール以内に出るのがいいのか悪いのか、という話でも、外国人がそれを守るべきかどうか、という話でもないのだ。

「独自ルールをいちいち相手に守らせようとしてくる人とビジネスをしたいか、もしくはそういう人と効率的に働けるのか」という、シンプルな問いかけである。

 

「効率」は最近注目を集めるワードなのに、海外が絡むとなぜか「ヨソの人間がこっちに合わせればいい」という結論に落ち着きがちだ。

でもそれって、効率が悪くないか?

だっていちいち、ルールをすべて説明して、「わからせてやる」必要があるんだから。

 

もちろん、日本人と仕事をするなら『日本式』に理解があったほうがいいし、相手の文化に敬意をもってある程度順応するのは、外国人としては当然の振る舞いだ。どの国においても、固有ルールは存在する。

しかしそれが高度……細かくなればなるほど、効率が悪くなる。「それなら別に日本じゃなくてもいいや」と言われても、文句は言えない。

 

『日本式』のなかで外国人が働くのはかなりたいへん

わたしはドイツで、カルチャーギャップは感じたものの、そういった「ドイツルール」に困ることはなかった。

電話対応のドイツ語をまちがえたり、うっかりお辞儀をしたり、面接にスーツで行って人事に「フォーマルだね」と苦笑されたことはあったが、それくらいだ。

 

「あなた外国人? じゃあドイツのルールを教えるね」と、握手の強さ加減や立場で決まる座席順、こういうときはこう言うべきという定型文、サインの角度など、いちいち説明されてはいない。

 

もしドイツルールを押し付けられたら?

もちろんやる。やりますとも。外国人ですから。合わせますよ。

でも正直、「面倒くせっ」とは思うだろう。だって、「仕事」をしに来たのであって、異文化体験をしに来たのではないのだから。

 

実際、日本で働いている友人たちはみんな苦労していた。

「会議で上司が後から来たとき、立ち上がって挨拶しなかったと嫌味を言われた」

「お辞儀で頭をあげるのが早いと注意された」

「酌をしないと気が利かないって本当?」

などなど。

 

うん、たしかに外国人にとって、なにをどう気をつければいいかわからず、しかもいちいち注意されるんだから大変だよね……。

相手は「外国人に日本文化を教えてあげている」認識なんだろうから、さらに大変だよね……。

 

いつまで「グローバルなビジネス文化」に参加しないままでいられるのか

前提としては、外国人が現地ルールに適応すべきだ。

ゴミ出しのルールや電車でのマナーなどの公共性の高いテーマであれば、「こうやると日本でトラブルになりませんよ」と教えてあげたほうがいいだろう。

敬語がまちがっていて失礼な表現になっていたら、やんわり指摘するのもまた親切だ。

 

しかしビジネスの場にかぎっていえば、特殊でありかなり細かい『日本式』の慣行を「外国人にわからせる」という姿勢は、外国人からしたら正直ちょっと面倒くさいというか押し付けがましいというか、単純に「非効率」。

 

同じ本には、こうも書かれている。

私は日本が好きで、日本文化が大好きです。だから、不必要に日本のことを批判するつもりはありません。

それに、「アメリカ的」なビジネスのやり方を世界中のすべての国が受け入れなければならないとも思っていません。

けれど、世界中の企業はお互いに文化を超えてつきあうやり方を学びつつあるんですよ。日本だけが、この「グローバルなビジネス文化」に参加しないですむと思いますか?

ヒトの移動が容易になり、ビジネスがますますグローバル化するなかで、「ソトから選ばれる国」になる努力をしていかなきゃいけない現在。

ほかの国々が「それぞれ国のちがいはあるけども、それを大事にしつつうまくビジネスしていきましょう」と言ってるなかで、いつまで「日本のビジネス慣行はこうなんです!」と言い続けられるだろうか?

 

そう考えると、今後求められるのは、「外国人に日本式のやり方をわからせる努力」よりもむしろ、「多くの国の人が戸惑わずに働けるようにグローバルなビジネス文化に寄せていく」なんじゃないだろうか?

そっちのほうが、ソトから人が来てくれるようになるし、ナカ(日本)からソトに飛び出し活躍する人も増える。

 

自国の文化を大事にする気持ちはわかるけど、「ビジネス」という視点で考えたら、「効率的」に進められる相手のほうが需要が高い。

だから、情緒的なものはちょっと棚上げして、外国人が日本独自のマナーに苦労せず働けるように『日本式』ビジネスのやり方をアップデートしていく、という方向からも考えていったほうがいいと思う。

 

今後、「外国人に日本式慣行をわからせる」だけでなく、「そんなことをせずともビジネスできる」が重要になると思うんだが、どうだろう。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Heather Anne Campbell)

うつ病は、世間で言われているほど誰でもかかる病気ではない。

と同時に、社会に適応しづらい人ばかりがかかる病気でもない。

 

職場や学校がだんだん辛くなって、精神科や心療内科に行った結果、うつ病と診断される人はままある。

うつ病の背景として、発達障害の傾向やパーソナリティの偏りが見出される人などは、現代社会への適応がとりわけ大変だろう。

うつ病の背景として、とかく大変そうな問題が見え隠れしているケースは確かに珍しくない。

 

ところが、そういった人々とは別に、公私ともに充実している人がうつ病になるケースも何度か見てきた。

今回は、そういう充実した30~40代がかかるタイプのうつ病から学べることを書いてみる。

 

頑張り過ぎてうつ病にかかる、充実した3,40代

「うつ病は心の病気」とよく言われるけれども、「うつ病は神経の病気」でもある。

現代のテクノロジーでは、心の働きと脳の働きを100%に結びつけることはできないけれども、喜怒哀楽やストレスを感じる際には、セロトニンやノルアドレナリンといった神経伝達物質が作動し、コルチゾールのようなホルモンが増減していることまではわかっている。

 

だから、たとえ心のレベルではストレスを感じていなくても、神経のレベルで無理を重ねていれば具合が悪くなってしまうことはあり得る。

身体と神経は、心そのものではないかもしれないが、心の土台には違いない。心の土台を痛めつけ続けていると、心のほうにも思わぬ悪影響が出て来ることがある。

 

たとえば、生来健康で出世街道に乗って活躍している30代の会社員。

昇進後も新しい業務をこなし、数年がかりのプロジェクトに携わっていることにも喜びを感じていた。

プライベートな人間関係も充実していて、地域の活動にまで参加している。少し前に流行ったネットスラングで言うなら、"リア充"といったところか。

 

ところが、そのような人が次第に眠れなくなり、いつの間にか体重も少なくなってきて、じきに集中力や持続力の低下を自覚するようになる。

心のレベルでは充実感があり、ストレスや悩みを抱えている自覚も無いのだけれど、「しんどい」という自覚が生じはじめる。

そのうち、眼精疲労や頭痛に悩まされるようになったり、料理や酒の味を楽しめないと感じるようになったりする。

内科で検査をしても異常が見つからずに精神科を紹介され、戸惑いながら受診……といったパターン。
似たようなかたちで、仕事も子育てもバッチリで、コミュニケーション能力も高いアラフォーの女性が受診し、最終的にうつ病と診断されるケースもある。

彼女たちもストレスや悩みの自覚は無く、むしろ充実した生活を過ごしていると感じていた。

色々なことに積極的で、いつも活動的で、元来明るい性格にも関わらず、「段々しんどくなってきて」受診に至る。

 

うつ病には色々なタイプや背景があるが、こういった、ストレスとは無縁だけど「しんどい」人々は、きまって生活が充実している。

いや、生活が過度に充実している、それが問題なのだ。

彼らは決まって、元来の性格と能力の高さをフルに生かして、さまざまな活動をやりまくっている。たいていの場合、人並みかそれ以上の成果もあげている。

 

しかし、やり過ぎてしまっていて、オーバーワークに陥っている。

オーバーワークになってしまっているけれども心のレベルでは充実しているものだから、身体が先に参ってきて、神経にも負荷がかかって消耗しはじめている。

消耗が消耗を呼び、生活に支障が出る水準になった頃には心まで弱っていたりもする。

 

希死念慮や抑うつ気分が乏しく、身体症状や「しんどさ」がメインのことも多く、慢性疲労症候群と診断したくなるかもしれない。

また、患者さん自身が「燃え尽き症候群ではないか」「心身症か自律神経失調症ではないか」といったキーワードを携えて受診されることもままある。

 

だが、それにしては休息と抗うつ薬が劇的に効きすぎる。

休息と薬物療法に加え、診療面接をとおしてオーバーワークに陥っているライフスタイルの再点検がうまくいけば、まずぶり返さない。いずれ、精神科の外来からはいなくなる。

 

「できることが増えてくる」+「身体は年を取っている」

充実した、それほどストレスも感じていない彼らが、なぜ働き盛りの年齢でダウンしてしまうのか?

こういったケースの場合、身体的・社会的な変化にあわせてライフスタイルを変えきれなかったことで、本人も気付かないうちにオーバーワークの水準に達してしまったのだ、と私は考えている。

 

彼らはもともと健康で積極的な20代を過ごし、うまくやっていた。

これまでのライフスタイルで人生の版図を広げてきた自信も持っているし、多少のことではへこたれないだけの強さも持ち合わせている。

 

ただ、そんな彼らでも歳は取っていく。20代の頃には身体が持ちこたえてくれたことも、アラサー、アラフォーと年を重ねてくれば怪しくなってくる。

たいていの人は、歳をとったぶん身体をかばうことを憶えていくものだが、なまじっか健康な人のなかには、そうした自覚の乏しいまま、ガッツに任せて働けてしまえる人がいたりもする。

 

変化は社会的な立場にも及ぶ。

生活の充実したアラサーやアラフォーは、出世、転職、起業、結婚、子育てなどによって社会的役割を増やしていく。

できることだって増えていくだろう。喜ばしいことではあるが、時間的・身体的なやりくりはハードになるし、気を回さなければならないことも増える。

 

目の前のタスクにとにかく取り組んでいれば良かった20代の頃とは違う。手を抜けるところでは手を抜き、欲張り過ぎないところでは欲張り過ぎないすべを身に付けていなければ、増えた社会的役割のぶんだけ負担が増えてしまう。

 

こうした危険性は、成功体験を積み重ねていて、頑強な身体を持っている人のほうが意識しにくい。

挫折経験のある人や病弱な人ならば心得ている、自分自身の限界について自覚の乏しい人が案外いる。だからつい、だいたいこなせる自分自身に任せてやってしまう。もう、若い頃とは事情が違ってきているのに……。

 

「限界を知っておくのも経験のうち」

こうしたタイプの患者さん達から、2つのことが学べるように思う。

 

ひとつは、現在の自分の限界を知っておくことの重要性。

どれほど丈夫で有能な人でも、心身の限界という制約を逃れることはできないし、疲労が蓄積すれば過労に、ときにはうつ病などの病気に繋がってしまう。

心疾患や脳梗塞といった、最悪の病気すら考えられるだろう。

 

そうならないためにも心身の限界をわきまえ、限界を越えてしまわないための意識はどこかで持っておいたほうがいい。

そういう意味では、挫折体験で打ちのめされた人や、もともと病弱な人のやりかたから学べる部分もあるのではないかと思う。

 

もうひとつは、身体的・社会的な変化にあわせてライフスタイルを変えていくことの重要性。

人間という存在がどんどん移ろいゆくものである以上、ライフスタイルはその都度都度にあわせたものにしたほうが絶対にうまくいく。

中学生時代にベストだったライフスタイルが社会人になってから通用しない部分があるのと同じように、働き始めた頃にベストだったライフスタイルが30代~40代になってから通用しない部分があるのは当然のことだ。

 

である以上、私達は変化に対して敏感であったほうが良く、変化を踏まえてライフスタイルを少しずつ変えていったほうが良いのだろう。

もちろんこれは30~40代に限ったものではなく、50代以降にも当てはまるはずなので、「いまどきは可変的なライフスタイルを身に付けたほうが良い」とまとめられる。

 

そういう意味では、30~40代までに一度くらいは心身の限界を意識するようなイベントがあっても良いのかもしれないし、そのようなイベントは、ライフスタイルを見直すきっかけとして案外重要なのかもしれない。

 

とはいえ、病気というのはどれも辛いものだから、「転ばぬ先の杖」の精神で、自分の心身の様子には敏感になっておき、神経や身体を痛めつけすぎないようなライフスタイルを心がけていただきたいと思う。

うまくいっていて充実している時こそ、神経や身体の使いすぎにはご注意を。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:kıro potkin

ちょっと前にシロクマ先生のこの記事に関係するような話を体験したので共有したい。

「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい。 | Books&Apps

そんな状況下で信頼できる情報をピックアップするためには何が必要でしょうか?

必要となるのは「事前知識」と「高いリテラシー(literacy, 読み書き能力)」と思われます。

僕の友達に、つい最近妊娠・出産を経て初めての子育てに関わることになった女性がいた。

当たり前の話だけど、彼女にとっては初の子育て経験だ。

 

子育てという、様々な困惑の嵐に晒される事になった彼女は、当然の如くわからない事だらけなので仕事と同じ感覚でGoogle検索で色々調べて物事を解決しようと画策したそうなのだけど、これがまあ酷いのだという。

素人が適当に思いついた言葉を用いてGoogle検索でヒットする知識は非常に低レベルなものばかりだったようで、内容が信頼に値するものではなく全く使いものにならなかったそうなのだ。

 

まさに「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい、を地で行くようなエピソードである。

 

彼女は運が悪い事に、友達に子育て経験者が少なく、話を聞こうにも十数年も前に自分を育て上げた母親ぐらいしか知り合いがいない。

鉄火場のように忙しい育児現場で睡眠不足の目を擦って育児書を読むのも難しく、育児開始の当初はかなりまいってしまったようだ。

 

新ママ、まさかの5ちゃんねるに救われる

そんな中で、彼女はあるインターネットサイトで救われた。それがなんと5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)だというのだから驚きだ。

 

2ちゃんねるは1999年に西村博之氏が立ち上げた日本の電子掲示板である。

「ハッキング」から「今晩のおかず」までをスローガンにした場所で、利用者は自分の興味がある板(スレッドという)に出向き、そこで匿名で情報交換を行う。

 

普及当初はインターネット内でもかなりアングラ色が強く、初心者が書き込むと

「厨房が!半年ROMってろ」

と言われるなど、かなり怖い場所であった(先のネットスラングを自分なりに意訳すると、初心者は板のルールがわかるまで、ちゃんと読んで予習してね、位のニュアンスである)

 

2ちゃんねるのアングラ色を特に際立たせたのは、ネオむぎ茶氏による西鉄バスジャック事件や、加藤さんによる秋葉原通り魔事件だろう。

中高生時代の僕にとっては、2ちゃんねるは犯罪の温床みたいなイメージが強く、なんか凄く怖かったイメージがある。

 

しかし実際のところ、2ちゃんねるはどんなマニアックな趣味でも同士を見つける事が可能な、かなり面白いマッチングサイトとしても役割を果たす場所として機能していた。

僕の知り合いに軍事オタクの子がいたのだが、彼は延々と戦車についての話を夜な夜なインターネットでしていたのだという。

 

確かに、そういう話は高校生で好きな奴はあまり多くないし、個人で掘り下げるにしろ、どういう風に知識を身に着けていけばいいかの先人がいれば、より深い場所へと最速で行くことができる。

2ちゃんねるに人が集まってたのは、なにも犯罪者が密談をしていたからではなく、そこにリアルな人と人の触れ合いがあったからに他ならない。

 

そう言われてみれば、確かに5ちゃんねるは、育児の知識をシロウトが手に入れるのには最適な場所である。

なにせ今まで蓄積されてきた知恵が積み重なっているし、先輩ママ達からの最新の育児アドバイスもすぐに手に入れる事ができる。

実際に書かれた事をやってみた他の参加者が「効果あり、なし」の情報共有してくれるから、情報の真偽について、とても判断がしやすい。

まさに、リアルタイム・最新の育児知識の共有ネットワークだったわけだ。

 

なるほど、確かにシロウトがGoogle検索を使って適切な知識を手に入れるのは難しいかもしれない。

けれどインターネットが私達にくれたのは、検索エンジンだけではない。コミュニティという、有益な知識がつまった”場”へのアクセスする権利も、同時に私達に提供してくれていたのである。

 

「知識」と「人脈」はどれだけギブしてもなくならない

ネットワーク理論にハブという概念がある。

ハブとはネットワークの中心の事で、例えば日本の空港なら羽田や成田がハブに相当する。

 

ネットワーク内において、ハブになると繋がりのレベルが凄いレベルで変わる。

例えば、日本の航空の利用者数は1位の羽田空港が8709万人なのに対して、10位の仙台空港はなんと357万人だ。

 

なんでこんな事が起きてしまうのかというと、ハブに全てが集まるような仕組みが産まれてしまうからだ。

例えば、以下の図は複雑系ネットワークのバラバシ・アルバートモデルというものだけど、ネットワークの中心部と端っこはこんな風に圧倒的なつながり格差が産まれてしまう。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AFから引用 )

 

さて、先の育児話で、僕はコミュニティによる集合知の凄さを書いた。

Google検索を使いこなせないシロウトでも、コミュニティへアクセスさえできれば、一気に知の高速道路に乗ることができる。

 

この強みが最も強く出てくるのは、当然だけど現実社会だ。

例えば、筋の良い知り合いが多かったら、転職サイトを経由するよりも良い転職先を紹介してもらえる確率は圧倒的に高いだろうし、面白い情報の共有スピードも桁違いに上がる。

僕なんかだと、良いグルメの情報は所属コミュニティ内で瞬で広まる。コミュニティはGoogle検索とは別ベクトルで、凄い威力を発揮しているのである。

 

それならば、現実社会で私達が目指すべきは筋のよいコミュニティと交流を持つことで、かつその中でも”ハブ”にどれだけ近づけるかがポイントとなる。

では、どうやったら”ハブ”を目指せるのだろうか?

 

作家の橘玲さんは、著書・働き方2.0vs4.0の中で、そのヒントを書かれている。以下に引用しよう。

一般論としては、「奪う(テイク)」よりも「与える(ギブ)」方が道徳的にすぐれていると誰もが同意するでしょう。

しかし、手元にあるお金をすべてギブしてしまえば無一文になってしまうし、食べ物をギブすれば餓死してしまいます。

 

このことから、「有限のものを無制限にギブすることはできない」という第一の原則が導き出せます。

これは極めて冷酷な原理ですが、それでも例外はあります。無限にあるものならいくらでもギブできるのです。

 

それほどギブしても減らないものなどあるのでしょうか?じつは、そんな特別なものがこの世に2つだけあります。

それが「知識」と「人脈」です。「ギバー」は、自分が持っている知識や人脈を惜しげもなくいろんなひとたちと共有するのです。

(中略)

ギブすることがなぜ重要なのか?このことはネットワーク理論からも説明できます。

まわりのひとたちにギブする知識や人脈をたくさん持っているひとは、それを利用してネットワークのハブになることができます。

そして、情報と同時に富もハブに集まってきます。なぜなら情報(知識)社会において、情報と富は同じものだから。

[amazonjs asin="4569841007" locale="JP" tmpl="Small" title="働き方2.0vs4.0 不条理な会社人生から自由になれる"]

高度知的社会において、全ての分野において「知識を手に入れるための知識」を習得するのは物凄く難しいし、そんな能力も時間も私達にはない。

 

なら、私達がなすべきことはたった1つだ。

有益な情報の提供を通じて、良き人とネットワークを構築し、そこの中で評判を高めるのである。

 

幸いにして、SNSを始めとする発信型ツールはこの流れを加速し、かつ個人の参加を非常に容易にしている。

例えば個人でも、ツイッターやインスタグラムのフォロワー数でネット社会への貢献度は簡単に推し量れてしまう。

どこにいようが、インターネットに接続さえしていれば、誰でも有益な情報を”無限”にギブできるのが、今のソーシャルネットワーク時代なのである。

 

人気Youtuberが億万長者になったり、人気インスタグラマーにモデルの仕事が舞い込んできたりと、ソーシャル社会へ良き貢献をした人に対する社会の恩返しはすざまじい。

そのレベルでなくとも、例えば僕の周りでもツイッターを通じて仕事だったり配偶者を獲得したりといった話は頻繁に耳にする。

 

僕自身もこうしてライターの仕事を頂けているし、生涯の友といえるような食べ歩き仲間をインターネットを通じて沢山つくる事ができた。

これは運が良かったというものあるとは思うけど、それ以上に、僕自身がキチンと発信を続けていた事に対する、インターネットからの恩返しみたいなものなのかな、とも思う。意外とネットって奴は、義理堅いのだ。

 

というわけで、これを読んだみなさんも、ソーシャルネットへのギブを今日からやってみてはいかがでしょうか?

これが現代というSNS社会における、1つの良い人生戦略なのかな、と僕は思います。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:)

異動の時期である。

昇進し、マネジャーなどの管理職となった方も多いだろう。

 

管理職になると、組織の中枢として新しい仕事の仕方が求められるようになる。

裁量も報酬も大きくなり、「組織を動かす」やりがいを強く感じる人もいる。

 

だが、それにうまく適応できない人も多い。

 

「管理職がこれほど難しいとは思いませんでした」

「部下が思った以上に言うことを聞きません」

「コミュニケーションが大事だとわかっていても、時間が取れないです」

そんなふうに、管理職の難しさを語る人は数知れない。

 

しかし、いちメンバーであったときは様々な仕事をうまくできたはずの彼らがなぜ、管理職という仕事に「適応できない」ケースがこれほどまでに多いのだろう。

 

 

私は前職、管理職研修の講師を頻繁に行っていた。

私がやっていた中で、特に人気があった研修は、「新任」の管理職研修だ。

「具体的で」「すぐに使えて」「効果の高い」、管理職としてのTipsを数多く紹介する研修になっており例えば、

 

・部下の話をいきなり否定しない

・小さなことでも表彰する

・声掛けをする

・お客さんの満足の声をフィードバックする

 

などの施策を紹介し、毎回、8割、9割以上の高い満足度を得ていた。

 

だが、研修を実際に受けたマネジャーたちが、その後、本当に良い管理職になったのか、うまく組織の中枢に適応できていったか、というと、若干の疑問が残る。

 

事実、「管理職研修で学んだことを実践していますか?」という質問に対して、多数のマネジャーたちが

「実践できていない」

「忙しくてやる時間がない」

という、現実を抱えていた。

 

また、実践してみたが、

「習ったとおりには行かない」

「うまく行っているかわからない」

という管理職も多数いた。

 

私が行っていた管理職研修は、結局の所、活かせるかどうかは「本人次第」であったし、研修を受けた人と受けなかった人とで、その後のマネジメント能力に有意な差がでたとは言えなかった。

要するに、「時間のムダ」であったのだ。

 

 

私はそれを受け入れるのに少し時間がかかった。

自分の一生懸命やってきた研修が、無意味なものであるとは認めたくなかった。

だが、それが現実だった。

 

現実を受け入れなければ、新しい一歩は踏み出せない。

私は、「マネジャーに求められるもの」とは、一体何なのかを、真剣に考えるようになった。

 

 

その後、マネジメントの権威である、ピーター・ドラッカーの文献に立ち返ったときのことだ。

その中には、次のように書かれていた。

人を管理する能力、議長役や面接の能力を学ぶことはできる。管理体制、昇進制度、報奨制度を通じて人材開発に有効な方策を講ずることもできる。

だが、それだけでは十分ではない。根本的な資質が必要である。真摯さである。

最近では、愛想よくすること、人を助けること、人づきあいを良くすることが、マネジャーの資質として重視されている。そのようなことでは十分なはずがない。

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私は、ドラッカーに見透かされているような気がした。

「お前が教えているような、小手先のテクニックで、マネジャーとして一流になれるわけがないだろう」と。

 

私は食い入るように、その次の文章を読んだ。答えがあるはずだ。

事実、うまく行っている組織には、必ず一人は、手を取って助けもせず、人づきあいも良くないボスがいる。

この種のボスは、とっつきにくく気難しく、わがままなくせに、しばしば誰よりも多くの人を育てる。

好かれている者より尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。

何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも、知的な能力を評価したりはしない。

このような資質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人づきあいがよかろうと、またいかに有能であっって聡明であろうと危険である。

そのようなものは、マネジャーとしても、紳士としても失格である。

私は呆然とした。

今まで私が研修で教えてきたことは一体何だったのか。

失格ではないか。

 

それ以来、私は管理職研修ができなくなってしまった。

だが、マネジャーに必要なことの言語化をすることはできた。

 

つまり、こういうことだ。

マネジャーになったら、「スキルの成長」から「人格の成長」に軸足を移さないと、行き詰まる。

 

いち社員として、仕事になにより必要なのは、純然たる仕事の遂行能力、つまり、スキルである。

スキルを磨き、できることの幅を広げ、多くのネットワークを築き、収益につなげる。

 

しかし、マネジャーの仕事は、その延長線上にあるものではない。

究極的には、マネジャーに必要なのは、真摯さ、つまり人格の本質にかかわることであって、スキルではないのだ。

 

もちろん、マネジャーが真摯さを発揮するには、スキルが必要な場面もある。

だが、土台たる人格の問題を避けて、スキルの習得に走っても、それは砂上の楼閣というものだ。

 

 

広辞苑で「真摯であること」について調べると、次のように出てくる。

管理職となった人々も、かつては部下であっただろう。そのときに、上司に期待したことは一体何だったのか。

真面目で、仕事にひたむきであり、その人と合う、合わないはともかく、正しさについて真剣であることではなかっただろうか。

 

部下を持つ、ということは、部下の人生の一部について責任を持つ、ということだ。

適応できないマネジャーたちは、短期的に成果を出そうと焦るあまり「マネジメントスキル」に囚われていることも多い。

しかし、それでは部下たちに見透かされるだけである。

「打算的な人だ」と。

 

そんな時は、本来あるべき土台となる「真摯さ」であり、自らの「人格」に立ち返るのも良い。

むしろ、真摯さや、マネジャーに必要な人格についての逸話は、小説や映画、そのほかありとあらゆるコンテンツで学ぶことができる。

自らが尊敬する人を思い返しながら、自省することもできる。

毎日、部下の反応を見ながら、反芻して改善も可能だ。

それは、毎日の仕事の中でできるし、特別な時間など、必要ないのである。

 

4月から新しく管理職になる方々、どうか頑張っていただきたい。

その努力は、必ず誰かが見ている。

 

 

【お知らせ】

本記事は、株式会社リクルートマネジメントソリューションズのスポンサードによって制作されています。

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【著者プロフィール】

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(Photo:Johnny Walter

3月といえば、卒業や異動・転勤の月ですね。

僕もこれまでの人生で、かれこれ10か所近くの病院で働いてきました。

 

最近は、3月31日まできっちり働いて、翌日には次の職場、ということは少なくなってきましたが、以前は、3月の最終日も定時まで働いて、翌日は朝いちばんで次の職場で仕事、ということも多かったのです。

外科の医師は、3月31日の夜に緊急手術、というのも何度かみてきました。

内科の場合も、出勤最終日の時間ギリギリに、ずっと診ていた患者さんが紹介されてきて……ということは少なくありません。

 

医局に属していれば、1〜2年での転勤が日常茶飯事の医療業界でも、やはり、転勤前というのは慌ただしくなります。

入院中および外来の患者さん全員に、簡単な経過と治療方針のサマリーを書くなどの、引き継ぎをしなければならないし、いろんな部署からの送別会が続きます。

何年間かでも、苦楽を共にした職場であれば、寂しい気持ちにもなります。

 

ある病院に勤務していたとき、同じ科に、少し年上の「すごく良い先生(以下、先輩)」がいたのです。

先輩は人から頼まれたことをほとんど断らず、自分の専門外の患者、あるいは、「救急外来に運ばれてきたけれど、どの科も引き取りたがらないような『老衰』のような患者さん」も、いつも笑顔で受け入れていました。

穏やかな人で、どんなに忙しいときでも、声を荒げたり、他のスタッフにきつくあたるようなこともなかったのです。

 

しかしながら、仕事というのは「できる人」「断らない人」に集ってくるものでもあります。

他所の科からの相談は「話しやすくて、なんでも引き受けてくれる」先輩に集中し、その先生は、同じ科のなかでも図抜けて大勢の担当患者を抱えて、いつも夜遅くまで仕事をしていたのです。

病院というのは、「その場にいる」だけで、「ついでにちょっと御相談なのですが……」という状況になることもあり、先輩の仕事はさらに増えていきました。

 

ある上司は、「あいつは立派なヤツだけど、あんな働き方をしていたら、いつか壊れるんじゃないか」と心配していたのです。

「専門外の患者まで抱え込んで、何かトラブルが起こったら、自分の首を締めることになる」とも。

僕も内心、「あんな働き方はできないし、この病院では、どんなに仕事をしても給料が上がるわけじゃないのになあ。家庭のことはどうなっているのだろう」なんて、思っていたものです。

 

その年の3月31日、先輩は転勤することになりました。

正確には、転勤ではなく、地元の病院に戻ることになったのです。

その日、先輩がいつものように仕事をして、同僚の医者たちにお別れの挨拶をし、病院を出ようとしたときのことでした。

 

「先生、ちょっと待って!」

ひとりのベテラン看護師が、彼に玄関ホールで声をかけました。

すると、四方八方から、看護師や事務の人などが集ってきて並び、先輩のための「花道」をつくったのです。

大勢の人が、そのために先輩の帰りを待っていたのです。

みんなが手をつないでつくったアーチを通り抜けながら、先生は少し泣いているように見えました。

僕が見た、その長い花道も、少し潤んでいたのです。

 

しばしの別れの場面のあと、先輩は大きな花束をたくさん抱えて、病院を出ていきました。

途切れない、拍手の中で。

 

僕は基本的に「賞罰なし」の人間だし、いつも「働いた分は給料をもらいたい。生活もあるしね」とか「プライベートな時間がたくさんほしい」と思っています。

転勤するときは、盛大に送別会をしてもらえることもあれば、めんどくさいから誰にも会わないように、と、ひっそり職場を出ていったこともありました。

 

この先輩のときのような、熱い「見送り」は、僕自身が体験したことがないのはもちろん、それまで見たことがなかったし、その後もありません。

その病院を僕が去るときも、儀礼的なお別れのやりとりだった。

いや、当時の僕の働きぶりで、あんな盛大なお別れをされたら、かえって恥ずかしくて消えてしまいたくなったでしょうけど。

 

僕は、あのとき、そんなふうにみんなに惜しまれて送られていく先輩をみて、すごく羨ましかったのです。

あの時間は、彼自身が、これまで自分のいろんなものを犠牲にしてやってきたことの、ささやかな見返りだったのでしょう。
そのために、あそこまでの仕事ができるか?と問われたら、やっぱり僕にはできない。

僕には、日常でのささやかな「ラク」の積み重ねのほうが、たぶん優先順位が高いのです。

 

因果応報、には違いありません。

先輩には、たしかに、あれだけのことをしてもらう「資格」があったと思います。

そして、医者としての日常と現実に直面する前の自分が「医者とは、こうあるべきだ」と思っていた姿が、あの場面にはあったのです。

 

僕は現実のめんどくささや身体のきつさに負けてしまった。

僕のなかには、あの先輩の働き方は「セルフブラック労働化」だ、という気持ちもあったのです。

そこまでやって、自分を追い詰めて、壊れてしまったらどうするんだ、という。

 

医者という仕事は、自分からやることを見つけようと思えば、底なし沼のように仕事が尽きない。

仕方ない、僕にはこれが限界だったんだ……。

 

今の世の中では、「身を削って仕事をする」ような働き方は、時代遅れとか、自分を大事にしていない、なんて言われがちです。

僕には、「そうだよなあ」という気持ちと、「それは、きちんとやらない(できない)自分への言い訳ではないか」という後ろめたさが、ずっとあるのです。

 

先輩が見送られていた光景は、僕にとって、なんだかとても崇高なものとして、いまでも胸に刻まれています。

「立派に生きる」ことを、いつのまにか放棄したことに気づいた、自分への苦みとともに。

 

その一方で、「それで給料が上がったわけでもないし、あの一瞬の祝祭のために、先輩は、あれだけの仕事を請け負う価値があったのだろうか?」とも考え続けているのです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Matt Madd

ちょっと前のこと。

ある企業で、私は営業の会議に出席していた。

その企業では、顧客との関係は営業が責任を持っていたため、「どれだけ営業が顧客の責任者に会えているか」が成果指標の一つになっていた。

 

この指標は、如実に営業の力量を反映する。

そのため、彼らは会議の席上、この指標に基づいて、営業のメンバーに改善指導を行っていた。

 

同じミスを繰り返す営業メンバー

目の前で、数名の営業メンバーが成果指標の達成率について発表していく。

 

と、あるメンバーの一人が「今月は、大幅に成果指標を下回りました」と発表した。

理由は、3週間前に大型の取引があったため、その手続に時間を取られて、十分な外部訪問の時間が取れなかった、というものだった。

 

そのメンバーの発表が終わると、間髪入れず、一人のマネジャーが、彼にツッコミを入れた。

「確か、先月も同じように時間が取れなかった、とおっしゃっていましたね。」

「えー、はい。そうだったと思います。」

「先月も同じことを言ってたじゃない、なんで改善してないの。」

「……申し訳ございません……。」

「時間管理は営業の基本ですよ。たしか、きちんとタスクを消化できているかどうか、確認しながら進める、と前に言ってましたよね。」

「はい。」

「ちゃんとやったんですか。」

「一応、やりました。」

 

皆で記録を見ると、なんともおそまつである。

書き方が甘く、タスクがきちんと分解されていないので、これでは時間管理は使えそうにない。

 

この粗末な記録を見て、マネジャーがまた怒ってしまった。

「ちゃんと記録をつけないと駄目だと、あなたが言ったんじゃないですか。」

「も、申し訳ございません。書いてみてはいるのですが、忙しいとどうしても後手にまわってしまって……」

 

マネジャーはそれを聞いて、怒ってしまった。

「あのね、言い訳しないでください!」

「……」

「同じミスを繰り返していては、なんの進歩もないですよ。どうするんですか、これから。」

「……」

 

そのメンバーは、うなだれている。

 

「まあまあ、彼の話を聞いてみましょう。」

すると、課長が、

「まあまあ、もう少し、彼の話を聞いてみてはどうですか。」

といった。

 

そして、メンバーの方に向いて、言った。

「時間が取れなかった、というお話しはよくわかりました。ただ、この状態がつづくと、お互いに良くないと思います。もう少し、話を聞かせていただいて良いですか?」

「はい。」

 

「この記録ですが、結構ざっくりと書いてありますよね。「提案」とか「準備」とか。」

「はい。そうです。」

「例えば、準備とは一体何を指しているのですか?」

「えーと、持っていくものの準備をすることです。」

「具体的には?」

 

そのメンバーは、標準化されているいつくかの営業資料の名前を挙げた。

だが、それは間違っていた。準備の標準手順から、かなりの項目が抜けている。

 

先程の怒ったマネジャーが、今にも「お前はなんにもわかってないのか!」と怒鳴りだしそうだ。

 

しかし、課長は、さらに穏やかに質問した。

「他に、やることはありますか?」

「特になかったように思います。」

「いくつかの項目が抜けていますが、ご存知ですか。」

「えーと、確認しようと思ったのですが、ファイルがどこに入っているかわからなくて……。」

また言い訳が始まった。

 

それを黙って聞くと、課長は丁寧に説明を始めた。

いくつかの資料を用意することと、営業前に義務付けられている顧客プロフィールの調査をすること、そして訪問計画を建てなければならないことなど。

それは、前にも説明がされたことばかりだったが、彼はすべてを繰り返し、説明した。

 

そして、課長は最後に

「では、1週間後に、もう一度ちゃんとそれができているか確認します。」

といい、話は終わった。

 

対照的な二人のマネジャー

この場には二人の対照的なマネジャーがいた。

「言い訳をしないでください」と怒ったマネジャーと、「言い訳を黙って聞いた」課長。

 

私は、二人の管理職の対照的な一連のやり取りを見て、「言い訳するな」と、発言を封じるのは、デメリットが結構大きいのだな、と改めて認識した。

 

「できない理由」をきちんと分析するためには、ある程度当人の話を聞く必要がある。

ところが、できていない人は、大抵の場合分析が甘いので、原因を追求してくと、どうして「言い訳がましい」話となってしまうことが多い。

 

そこで上の人間が「言い訳するな!」と言ってしまうと、もはや何が起きているのか、全く把握できなくなってしまう。

 

「言い訳するな」という発言は、そのイライラの表れである。

実際には、言い訳であっても、きちんと話を聞くことで、部下を取り巻く状況について、良い情報が入手できることも多い。

 

 

米国マサチューセッツ工科大学の、「システム思考」で知られるピーター・M・センゲは、学習する組織に必要なのは、構成員同士の「対話」だという。

 

そして、その対話で重視されるのが、以下の3つである。

1.全参加者が、自分の前提を「保留する」こと。(決めつけはいけない)

2.全参加者が、互いを「仲間」と見なければならない。

3.対話の文脈を保持する進行役がいなければならない。

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そして、「言い訳を許さない上司」は、この3つのいずれにも反する。

自分の前提を部下に押し付け、部下が自分の思い通り動かないとイライラしてしまう。

 

結局、そのような状態では、部下は「学習」をしないばかりか、上司の意向だけを伺うようになるだろう。

 

上の課長は逆に「もう少し話をを聞きましょう」と、対話を促した。

これにより、「言い訳がましくても」部下は自分の考えていたことを表明でき、また、上司の促しによって、自分がどうすべきか考えることもできる。

 

そう考えれば、課長の「言い訳を許す」態度は、なかなか実践的な態度であると、私は感じたのだが、どうだろうか。

 

 

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(Photo:Renee Barron

どうもしんざきです。最近は、モニターの前で髪の毛をがしがししながらDBクエリをチューニングする仕事で専ら生計を立てています。

モニターを威嚇していると人が近寄ってこなくなるのが最近の悩みです。

 

四月から新社会人になる皆様、調子はいかがですか?

働く直前ってことで無理して遊んで派手に体調崩したり、学生最後と思って酒飲みまくって急性アルコール中毒になって救急車呼ばれたりといった事態にはくれぐれもお気をつけ頂ければと思います。経験談に基づく老婆心からご忠告申し上げます。

 

しんざきが、毎年新入社員の方に、まず口をすっぱくしてお願いしていることについて書こうと思います。
会社という組織で仕事をするにあたって、何が重要になるかってそれは圧倒的に「言語化」と「共有」です。間違いありません。

つまり、自分のしていること、自分が抱えている課題、問題、進捗の不調やら何やらを、ある程度整理して「伝えられる内容」に整形すること。

これを言語化と呼びます。

 

次に、それを適切な立ち位置、適切な能力を持った人に伝えて理解してもらうこと。

これを共有と呼びます。

 

言葉にしてしまうと、なんか当たり前の話みたいじゃないですか?

出来て当然、みたいに思いませんか?

 

いや、これが、実はぜーーんぜん当たり前じゃないんですよ。かなり長いこと会社組織で働いていても、この二つがてんで苦手という人は全く珍しくありません。

困った状況を言語化も共有も出来ずに一人で丸抱えしてしまう人、びっくりする程たくさんいます。

むしろ、この二つがきちんと出来るというただそれだけで、その人はある程度以上の信頼感を勝ち取れる、と言ってもいいくらいです。

 

ちょっと、「言語化」と「共有」について、もうちょっと細かく話してみましょう。
まず一つ目は、「言語化」についての話です。

何かしらのプロジェクトに配属されて、何かしらの仕事を任されていると、その仕事についての状況、進捗具合、課題というものは当然刻一刻と変わっていきます。

やっている内に色んな問題が出てきますし、その問題は自分で片付けられることも、人に頼らないと片付けられないこともあります。

大抵後者の方が多いです。

 

例えば、技術上どうしても理解出来ない問題が出てきて、何か作ろうにもそこをどうすりゃいいかよく分からん、とか。

資料を読み込んで別の資料を作らないといけないけれど、資料に書いてある内容がさっぱり分からん、とか。

 

いやまあ上記は分かりやすい例ではあるんですが、まあ仕事やってると、

「なんかうまく出来ない」

「なんかうまくいかない」

なんてことは山ほど出てくるんですよ。

どんなベテランでもそうなんですから、社会に出たばかりのルーキーの方であれば言うに及ばずです。

最初からすらすら仕事が出来る人は、存在しないとまでは言いませんが、まあナルガクルガ希少種くらいの希少中の希少生物でしょう。

 

そんな時は当然「他の誰か」の手を借りないといけないんですが、これも当たり前のこととして、誰かの手を借りるには「今の自分の状況」を言葉にして伝えないといけません。

助ける側もエスパーではないので、言葉にしてもらわないと何に困っているのかが分かりませんし、ヘルプのしようがありません。

 

「自分が何をしようとして、何に困っているのか」

「自分の状況にはどんな課題があって、どんな問題が起きているのか」ということを言葉に直すのって、実は想像以上に難しいんですよ。

これ、慣れも必要ですし、ある程度の経験値も必要です。

 

特にシステム系の仕事にはよくある話なんですが、何かが分からなくて困っている時って、まず「何が分からないのかが分からない」という状況になりがちなんですね。

同様、「何か上手くいっていない」時に、「どこがどう上手くいっていないのか」ということを明確に捉えることは割と難易度高いです。

分からない時、上手くいってない時って精神的に一杯一杯になってしまっていることも多いので、より一層言語化が難しくなるんですね。

 

一つのコツとしては、自分の状況に対して幾つかの質問を投げて、それに対して一つ一つ回答する形で整理すると、比較的言語化がしやすい傾向があります。

・今している作業、今している仕事の目的は何か?何を達成しないといけないか?

・今の作業の目標達成時期は?それに対して、進捗は遅れているか、進んでいるか?

・現在、どの部分でどうつまづいているか?何をしようとした時に課題にぶつかったか?

・その課題の原因は何だと考えられるか?知識量不足か?単純に作業量が予想より大きくて時間がかかっているのか?環境の問題か?

 

上の設問は一つの例なんですが、割と応用が利く内容になってはいると思います。

この内の幾つかでも明確にしてもらえれば、手を貸す側はぐぐっと楽になります。

 

状況把握は問題解決の最初の一歩、しかも絶対に飛ばせない一歩なので、まず第一に「自分が困った状況」について適切に言葉にすること、これが滅茶苦茶重要ってわけなんです。
二つ目は、「共有」の話です。

報連相報連相ってよくいいますけど、組織のキモは「数のパワーが使えること」です。

一人で出来ないことを皆で片付けられるからこそ、組織で仕事をすることに優位性があるわけです。

 

で、当たり前のこととして、「皆で課題に立ち向かう」為には、課題の内容を知らせないといけません。

上の「言語化」でなんとか言葉には出来たとして、それを適切な人に、必要なタイミングで投げられるでしょうか?

 

実をいうとこれがまた、なかなか簡単なことじゃないんですよ。

大きな問題として、何よりも「上手く進んでいない、ということは人に言いにくい」というものが挙げられます。

進捗が遅れています。ここが分かりません。ここが出来ません。そういうことって、大筋どんな話でも「言いにくい」んですね。

怒られるんじゃないかとか、能力不足と思われるんじゃないかとか、評価下げられるんじゃないかとか。

その恐怖感はよくわかります。

 

勿論、「上手くいっていない」という情報にどう接するか、というのは上司の器量の一つでして、中にはあまりいい気持ちで受け取ってくれない人もいることは事実です。

ただ、これについては「マネジメントの責任」というものがありまして、管理職の仕事って半分は「上手くいっていないという情報をキャッチして、それに対して適切に対処すること」なんで、「上手くいっていません」という情報は最も重要なインプットになるんですよ。

 

プロジェクトをやっていると、「進捗が上手くいかない」「仕事が遅れる」なんてことはぜんっっっぜん普通に起こりえることでして、むしろ全てが順調にいくプロジェクトなんてものは千に一つとかそれくらいの確率でしか発生しません。上手くいく方が珍しいんです。

だから、ある程度ちゃんとしたマネージャーは、「上手くいかない」という状況に対して色んなオプションを用意しています。ただ、それは、勿論「上手くいっていない状況」を適切に把握しないと選択することが出来ません。

 

状況対処には速さが必要でして、大抵の場合、進捗の不調は対処が遅れれば遅れる程ダメージがでかくなっていきます。

誰かが「仕事が進まない」ということを誰にも相談せずに一人で抱えていればいる程、どんどんリカバリは大変になっていくわけなんです。

つまり、「あなたの上司は、あなたが一番言いにくい情報を、一番に知らないといけない」のです。これは間違いありません。

 

幸いといいますか、新入社員の間なんてのは一種の無敵モードのようなものでして、皆が「失敗してなんぼ」「上手くいかなくてなんぼ」ということを認識している時期です。

この時期に「遅らせられない仕事」を新入社員に振る上司なんてのはマネージャーとしてちょっと頭おかしいのであって、そこでなんか上手くいかないことがあってもあなたの責任ではありません。

基本、あなたが仕事を遅らせることは皆織り込み済な訳です。「上手くいかなくて当然」なんです。

 

なので、「勇気をもって、自分の仕事が上手くいっていないことを上司や周囲に共有してください」。

これ、「状況共有の練習」として、これから何年、何十年と重要になることです。だからこそ、今、仕事を始めたての時期に目いっぱい練習しておくべきことなんです。

 

一つ重要なテクニックとして、「相談しやすい人、相談しやすいタイミングを見つける」ということも早い内に練習しておいた方がいいかと思います。

上司にも話しかけやすい人話しかけにくい人色々いるもんですが、別に上司に限らず、「ちゃんと相談に乗ってくれる人」「状況共有を受け取ってくれる人」というのは大抵職場に複数存在します。

誰に話しかければ状況が改善するのか?誰が適切にアンテナを立ててくれているのか?

そういうことを考えながら職場の人を見渡す経験も、早い内にしておくに越したことはないと思います。
ここまでの話をまとめると、新入社員の方に最初に身に着けて欲しいこと、練習しておいて欲しいことは、

・自分の困った状況を整理して言語化すること

・言語化した内容を、勇気をもって周囲や上司に共有すること

この二点だ、という話になるわけなんです。

 

昨年も、私自身新入社員の人に接しまして、この二点については本当に何度も何度もお願いしてきました。

その甲斐もあってか、今ではどしどし進捗の遅れを上に共有してくれるようになりまして、私はその対処で順調に死にそうなわけですが、これは組織が上手く回っている証としてとても健全なことです。

 

ただ「困った問題を自分だけで抱えない」ということが出来る、それだけで、その人は十分、組織人としてやっていけると言ってもいいくらいだと思います。

あなたも是非、「抱えない人」を目指してみてください。

 

4月からの新社会人の皆様、色々大変なこともあるかと思いますが、皆さんがいくつもの仕事の面白さを見つけ出して、順調な社会人生活を送られることを願って止みません。

お互い無理せず頑張りましょう。
今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Always Shooting)

昔、営業チームの改革を行うため、ある中小企業を訪れた時のこと。

 

この会社は近年、営業チームの弱体化が課題となっており、競合企業にシェアを奪われつつあった。

また、離職率も高止まりし、収まる気配がない。

「パワハラがある」との訴えも、社内でチラホラ聞かれる。

 

商材にはまだ一日の長があるとはいえ、このまま放置して良い問題ではない。

経営者は、焦っていた。

 

 

そこで経営者は、外部のコンサルタントに調査を依頼した。

 

営業チームの弱体化の原因は何か。

現状を打開するにはどうしたらよいかを明らかにしてほしい、と経営者は言った。

 

ヒアリング、調査を重ね、コンサルタントたちはいくつかの客観的な事実から、営業チームの弱体化には、いくつかの要因が考えられることを報告した。

 

例えば、以下のような事象である。

・営業の力量が落ちてきている

・営業ツールの質が低い

・顧客の担当割り当てが、効率的ではない

・事務仕事が多すぎる

……

 

経営者は、これら全てに対し、「異論はない。」と言った。

 

だが、経営者はコンサルタントへ言った。

「ですが正直、いま言っていただいたようなことは、前からわかっていました。」

コンサルタントは頷いた。

「至極、当たり前かもしれません。」

 

経営者は言った。

「しかし、私が気にしているのは、「なぜ、そういったわかりきったことが、実行されないのか」です。外部の力を借りたいのは、そこです。一体、どうしたら解決できるでしょう。」

 

評判の悪いマネジャー

「そうですね……その解決方法なのですが……。具体的な解決策の前に、一つお聞きして良いですか。」

「なんでしょう。」

「仮定ですが、Oさんがもし、いなくなったら、会社はどうなりますか?」

Oさんとは、営業チームのマネジャーだ。

 

質問に、経営者は即答した。

「困るでしょうね。」

「何故ですか」

「彼のチームが、稼ぎ頭だからです。Oさんが営業部のかなりの割合の数字を作っている。」

 

コンサルタントは、一息ついて、ためらいながら言った。

「そうですよね。でも、Oさんの評判が、かなり悪いこともご存知ですか。」

経営者は、黙ってしまった。

 

コンサルタントは続ける。

「営業部で、Oさんの話はよく出ました。新人教育をしていた時「そんなもん、やっても意味ないよ」と、自分の部下を研修から連れ出して、営業同行させたらしいですね。」

「「研修より、実践でいい題材がある」と訴えられたので、私が許しました。」

「成果を出しているチームのやり方を、営業ツールに落とし込む、というプロジェクトも、Oさんのところが何もしないので、頓挫していると聞きました。」

「ああ……そうでしたね。」

 

コンサルタントは、経営者に気を使いながらも、ハッキリと言った。

「社長、様々な施策が実行されない理由は、すでにご存知なのでは。」

 

経営者はじっと考え込んでいたが、とうとう、口を開いた。

「私が悪い、と仰るわけですか。」

「誰が悪いか、はあまり問題ではないと思いますが、やらなければならないことは、非常にはっきりしていると思います。」

「……。」

「結局、売上減少のリスクを社長が負えるかどうかだけかと。」

「……そうですね……。」

 

「成果出してりゃいいんだろ」というマネジャーが、組織を壊す

社長は後日、コンサルタントを再度、呼び出した。

「私は何をすればいいだろうか。」

 

コンサルタントは言った。

「社長、私はあらゆる会社で「成果出してりゃいいんだろ」というマネジャーが、組織を壊すのを見てきました。」

「他でも同じようなことがある?」

「ベンチャー・スタートアップ、中小企業では必ず一人はいるタイプです。彼らは成果を出すことにかけては一流ですが、組織を作ることに関しては三流以下です。」

「……」

「パワハラ、セクハラなどの温床になるケースも多い。そういった話もちらほら、聞こえました。」

社長は、じっと聞いている。

 

「人には、それぞれ得意分野があります。組織を強化したいなら、Oさんにはマネジャーを降りてもらうべきです。給料はそのままでもいいです。でも、組織を重視しない人に、権限を与えてはいけません。」

「……だが、Oさんは、創業以来、ずっと一緒にやってきた。なんとかならないかね。」

「もちろん、チャンスを与えるかどうかは、社長次第です。Oさんに変わるチャンスを与えるのも良いでしょう。ですが……」

「何か?」

「得意ではないことをやらせても、たいてい成果はあがりません。」

「……。」

「二兎を追った結果、Oさんの売上が大きく落ちてしまう可能性もあります。そうなってしまったら、元も子もありません。」

 

あらゆるマネジャーに共通の仕事は5つ

ピーター・ドラッカーは、「マネジメントは技能」であり、学ぶことができるものであると主張した。

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彼は、あらゆるマネジャーに共通の仕事として、

  1. 目標を設定する
  2. 組織する
  3. 動機づけとコミュニケーションを図る
  4. 評価測定する
  5. 人材を開発する

の5つを挙げる。

 

ただ、実際には上で述べたOさんのように、①以外には何もしていないマネジャーが存在し、それによって、組織が十分に機能しなくなってしまうことは珍しくない。

 

成果出してりゃいいんだろ、というマネジャーを、許してはいけない。

彼は短期的には数字を作ることができるが、長期的には、組織を崩壊に導くリスクそのものである。

 

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(Photo:Sgt. Pepper57

仕事上、問題はなるべく発生しないほうがよい。

だが、もし発生してしまった場合には、可能な限り速やかに、より良い方法で解決するべきだ。

そして、同じようなミスやトラブルが今後発生しないように、改善策を練ったりマニュアルを作ったりと最善を尽くす。

それが取引先(顧客)のためであり、会社のためであり、何より自分自身のためだ。

 

しかし、どうやら世の中にはそうではない人がいるらしい。

問題が発生しても解決しようとしない、解決したがらない人たちが、社会人であっても少数ながら存在する。

 

少なくとも私の十年余りの会社員生活や、友人や家族の話の中では、多くの企業において必ず一人か二人はそういうタイプの人がいた。

 

もちろん、「能力不足」というケースもある。

だが、「本当は解決できるのに、敢えて問題を解決しない人」が一定数、存在するのは不可解だ。

いったい彼らはなぜ目の前の問題を放置するのだろう。

 

問題を放置するとメリットがある

まず、問題が解決しないことによって、当人が何らかのメリットを得ている、例えば「残業時間が長い」という問題を放置するケースである。

このケースでは残業代を稼げる、というわかりやすいメリットがある。

さらには、一昔前までの日本企業の多くでは「残業すればするほど仕事熱心」などという謎の美学があったため、評価が上がることすらあった。

当人にとっては二重のメリットだ。

ついでに家庭内に居場所がなくあまり早く帰宅したくない人にとっては、良いこと尽くめだ。

 

責任を引受けたくない

次に、「責任を引受たくないから」というケース。

問題を解決するために何か案を出したり、最終的な決断を下したりしたら自分の責任になりそう。それは自信がない、嫌だなぁという短絡的な理由だ。

もちろん、問題解決を先延ばしにすることによってもっと大きな責任問題になる可能性もあるし、このタイプの人が部署のトップだった場合は「だれも決断しない」状態となり、地獄の袋小路に入る。

「先送り」という悪癖で、その場限りのことしか考えられないタイプの人は少なからずいる。

 

考えるのが面倒

そして、単純に「考えたくない」「考えるのが面倒」というケース。

過労が原因のケースもあり、それは同情するが、困るのは「今までこのやり方でやってきたから」と、従来のやり方に根拠もなく固執する、悪い意味で頑固な人だ。

例えば、時間を掛けてFAXを各所に送る仕事を長年担当していた人に「今はパソコンから一斉に一瞬で送れますよ」と周りが提案したら涙目で怒り出した、という話がある。

 

愚痴を言いたいだけ

だが、一番迷惑なのは「愚痴を言いたいだけ」の人だ。

彼らは決して周囲のアドバイスに耳を傾けず、別の解決策を講じるわけでもなく、ただ「あー大変。困った困った」としきりに騒ぐ。

その人たちは、「あー大変大変! 私困っちゃう~」と言っている自分が好きでたまらなく、また、苦労している自分が可哀想で可愛くてしかたがない。

 

例えば、クレーム処理。

周囲が気を遣って「ではこういうやり方で解決してはいかがですか」と提案しても、素直にそれをやることはまずない。

彼らはひとしきり騒いで周囲も巻き込み、時間を使うだけ使う。

どうしようもなくなって、最終的には周囲がアドバイスした方法に従うのだが、時すでに遅し。

顧客も待たされすぎて怒り心頭に発しており、最悪「二度とそちらとは取引しない!」と契約を切られることもある。

 

見捨ててしまえば周囲は楽なのだが、もちろん、部署でトラブルが発生しているのに素知らぬ顔で定時退社するわけにもいかない。

解決するまで他の人もそれぞれの仕事が滞ってしまい、退社が遅くなったり、翌日の業務にしわ寄せがきたりする。

 

あまりにひどいので「このようなことがもう起こらないよう、私がマニュアルを作りましょうか」とこちらが提案しても、改善される様子はない。

そしてまた似たようなトラブルが発生したとき、「どうしようどうしよう、困った困った」と言うだけいって、時間を費やして…と無限ループに陥る。

「だから言ったではありませんか」という言葉が、幾度となく喉元まで出かかる。

 

これは私の周囲だけではない。友人たちからも似たようなケース、同じようなタイプの人に悩まされているという。

「アタマの回転が悪いのだろうか?」と思ったこともある。

だが、世間的には彼らは「優秀層」に入るだろう。

レベルの高い大学を出ていたり、難関と言われる資格を取得したりしている人が含まれていることがあり、単純に頭の回転の問題でこのような事態に陥っているとも考えにくい。

 

だが、現実は上のようになっている。

社内の評価も社外の評判も、自分の時間やプライベートまでも犠牲にしているのに、「愚痴を言う」ほうが彼らは好きなのだ。

 

長いこと、私は彼らのそうした行動を不可解だと思っていた。

だが、ある時気づいた。

片思いしている人を想像すると納得がいくのだ。

 

片思いでは「白黒つけるのが怖い」もしくは「うまくいきそうだけど、このどっちつかずの甘酸っぱい状況にもう少し浸っていたい」という心理がたびたび働く。

だからこちらが

「じゃあこうやってアピールすれば?」

「こんな文面で連絡してみたら?」

と提案したところで、でもでもだって…と無限ループする。そして悩ましげにため息をつきながら「あーほんと辛い。ほんと切ないわぁ」と嘆くのである。

要するに、動きたくはないが、愚痴は言いたい、というわけだ。

 

これを、彼ら彼女らは仕事でもやっているのだ。

 

例えば、ルート営業で成績が伸びないと悩む人から相談を受けたときの話だ。

その営業の女性は、「毎日欠かさずお客さんのところに顔を出してるし、景品だって付けてるし、価格交渉にも応じるって伝えてるのに、そもそも全然話を聞こうとしてくれないの」という。

 

しかしよく聞けば、自分が回りたい時間に、回りたい順で顧客の元を訪ねているのだ。

「顧客が○○商店なら、その時間帯は一番忙しいんじゃないかな。訪問時間をずらしてみたら?」

 

そういう、いたって基本的なアドバイスをしてみたが、

「うーん…それはちょっとね。私も他にたくさんお客さん抱えてるし、急に変えるのはなかなか難しいのよ」

色々と言い訳をしつつ、こちらの意見を取り入れることはなかった。

挙句、再びぼやくのだ。「あーあ。こんなに頑張ってるのに、何で報われないんだろう」

 

恋愛であればその「あー、辛い」が当人もしくは恋の相手にしか影響しないので、大して迷惑でもないのだが、仕事の場合は周囲に大小さまざまなダメージを与える。

プライベートの付き合いと違って職場では周りの人間はそういった人と関わり合いを辞めることができないため、 内心、舌打ちされているかもしれない。

 

また、大変な尻ぬぐいをさせられた同僚からは恨まれているかもしれない。

「愚痴を言って周りを振り回すのは、真に不毛な行為」と自覚してくれればと、真に思う。

 

愚痴を言いたいだけの人には、非情に接することにした

こうして、呆れるようなことが何度も発生した結果、私は、「愚痴で人を振り回す」職場の人への対応を思い切り非情にすることにした。

トラブルが解決しなくても、相手にしない。

自分の仕事が終わったらさっさと退勤してしまう。

当人が大騒ぎしていても、だ。

 

部署全体のトラブルに発展していたところで、尻ぬぐいは一切しない。何としても当人だけで解決してもらう。

たとえ当人から冷たいと罵られようとも、過剰に気を遣って付き合ってあげる必要はない。

 

それで相手との人間関係がぎくしゃくしたところで構うことはない。

社内の人たちの目が気になるかもしれないが、こちらに理があることは皆もわかっているだろう。

他の人たちも同じように振り回されてきたのならなおさらだ。

 

周囲から完全に見放されて本当に痛い目にあったとき、ようやく当人も、どれほど無駄なことをしてきたのか気付ける可能性がある。

困った人を変えるのは難しい。自分が変わるほうが手っ取り早い。

 

結局、そういうありふれた結論に至るのだった。

 

 

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【著者】

西 歩 (にし あゆみ)

大学卒業後、教育関連企業の会社員時代を経てフリーの編集者となる。

趣味はゲーム、漫画、服飾史研究。好きな時代は古墳時代~平安時代。

(Photo:Brian Toward

ちょっと前まで許されていたのに、時代の流れとともに許されなくなった……。

そういうものはたくさんある。

たとえば体罰とか、容姿を採用基準にするとか、女性をお茶汲み要員として扱うとか。

 

そのなかでも際立って変わったのは、『根性論』に対する価値観だと思う。

根性論ってそもそもなんだったんだろう? なんで時代遅れになったんだろう?なんてことを、平成生まれのわたしなりに考えてみた。

 

根性論は強者の理論であり、現在は弱者目線が正義

ゆとり世代のわたしはいうほど『根性論』を押し付けられたことはないけれど、それでも「心を強く持てば乗り切れる」的な主張はそれなりにあった。

 

文化祭の準備が明らかに遅れていて作業プロセスの見直しが必要なのに、「遅くまで残ってやればできる」。

運動会でリレーに出たい人がおらず足が遅い気弱な子に押し付けておいて、「がんばれば速く走れる」。

販売ノルマの達成がむずかしいなとき、マネージャーが言うのは「一生懸命やれ」。

 

そう言われると、「気合ってなに? 具体的にどう努力するの? 不眠不休にだって限界はあるよ?」とちょっと冷めた目で見てしまう。

指示には根拠と具体性を添えてほしい。

 

2019年現在、こういった根性論は、古臭いし暑苦しいし具体性を欠くし場合によっては人を死に追いやるので、「よくないこと」だという認識が広がっている。

一昔前のスポ根漫画なんかを読むと、そのギャップをより強く感じる。

 

でも、具体的になにが変わったから根性論は「ダメ」になったんだろう?

 

根性論は弱者に「もっとがんばれ」と鞭打つ行為だから嫌われる

わたしなりの答えは「根性論は強者の理論であり、現在は弱者目線が正しいとされているから根性論は許されない」だ。

 

根性論はすべてが「やればできる」に帰結するので、できなければ必然的に「できなかったほうが悪い」となる。

できない理由は「心が弱い」「根性が足りない」「やる気がない」から。

 

がんばればできるのになぜできないんだ。

根性が足りないからだ。やる気を出せば、もっと努力すればできるはずなのに。

もっとガムシャラになれ。そうすればできる。……これは、「やればできる」を前提とした、強者の目線だ。

 

でも現在、「強い者目線」というのはあまり快く受け入れられない。

みんなちがいます。多様性です。それぞれの能力や環境のちがいを認めましょう。不平等なチャンスは是正しましょう。努力ではどうにもならないこともありますよね。ええ、わかります。大丈夫、あなたは悪くないですよ。そんな状況じゃできないのもしかたありません。

 

こういう言葉が「善」。「貧困家庭だろうが持病があろうが関係ない! やれ!」というのは「悪」。

弱い人の立場に理解を示し、共感し、弱者目線でいることが、社会的正義なのだ。

 

根性論は弱者に「なんでもっとがんばらないんだ」と鞭打つ行為だから、現代の価値観とそぐわない。

だから、「時代遅れ」だと言われるのだと思う。

 

「根性」は無敵の必殺技ではなく自分をも傷つける諸刃の剣

でも根性論を本気で信じている人は、平成が終わろうとしているこのご時世にも一定数いる。

ジェネレーションギャップといえばそうかもしれないけれど、そういう人たちはきっと、心という絶対的な存在が身体を支配していて、ときに身体の限界を超えられると信じているのだ。

 

ジャンプ漫画で、強敵にボコボコにされてボロ雑巾のように転がっているのに仲間のピンチを救うためにもう一度立ち上がる……みたいな、そんなことが現実世界で可能だと本当に思っている。

『根性』は最終奥義、それを繰り出せば勝てる、みたいな。その奥義習得には限界突破が必須だから、無理することを前提に話を進めていく。

 

もしかしたら、高度経済成長期やバブルのとき、朝から晩まで血を吐くほど働いて、それでも心の強さで実際に乗り切ったという経験もあるのかもしれない。

現代なら訴訟ものだし、育児を手伝ってくれる実家や専業主婦が家事をやってくれるわけではないので、「時代がちがう」といえばそうなのだが。

 

実際、『心』には謎が多いから、心の強さによって身体をコントロールすることは可能なのかもしれない。

そこらへんはまだ科学的によくわかっていない分野だ。

でもうつ病という言葉が浸透し、ストレスによる病気の認知がどんどん進んだ現代、『心』が絶対的な存在ではないと、みんな気づき始めている。心だって壊れてしまうのだ。

 

「根性」は万能で無敵な必殺技ではなく、一時的にパワーアップしてもその後痛いしっぺ返しがくる諸刃の剣。

だから、その諸刃の剣を最終奥義のように思っている根性論者を見ると、わたしは「え、その武器そんなに強くないっすよ。自分も斬れちゃうけど大丈夫ですか」と違和感をもつ。

 

ただし、『心』が生み出す可能性は信じていたい

他人を追い詰める根性論は大嫌いだし、無理はしないほうがいいとは思う。

ただ、『心』は未知数だからこそ、ものすごく強くなる可能性を秘めているのも事実だ。

 

人生でまともにスポーツをしたことがなく、中学校高校と部活を辞め、大学でもサークルを辞め、ドイツでも就活を断念し大学も辞めているわたしとしては、「もうちょっとがんばったらなにか身になったんじゃないか?」と考えたりもする。

 

「イヤな思いをしてまで続ける必要はない」

「ここでがんばってなにになるっていうんだ」

「この苦痛な時間をもっと有意義に使えるんじゃないか」

そう思って放り投げちゃったけれど、きっちりしがみついていれば、またちがった結果になってたかもしれない。

だから、根性論を否定することで『心』がもつ可能性をも否定するのは、ちょっともったいないとも思う。

 

他人に「根性」を押し付けたり、「精神論ではどうにもならない」とすぐに諦めたり。それはそれでちがうだろう。

「つらくてもあと一歩がんばろう」と自ら前を向いて顔をあげる力を「根性」というのなら、それは悪いことばかりではない。

 

ただ、「根性」と「無茶」の線引きというか、レッドゾーンがどこかがよくわからないから、「根性論」はむずかしいのだ。

だから「使わない方が無難」という答えになる。

 

根性論はもう時代遅れ。具体性を欠く精神論でだれかを追い詰めるのは悪。物理的な限界は存在する。それは大前提。

でも、「根性論」のまちがった使い方で他人や自分を追い詰めないようにしよう、と思いつつ、『心』が生み出す無限の可能性を信じたいなぁとも思うのだ。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Ullas Karanth)

先日、事務所近くのラーメン屋が潰れた。

筆者が事務所を構える場所から徒歩一分ほどの距離にあり、事務所を移転してから2年以上もたっていたが一度も行かずじまいだった。

 

駅から徒歩5分ほどで周辺は住宅街、人通りも少なく一見客を期待できる立地ではなく、あまり条件は良くない。

ただ潰れた原因はそこではない。筆者がお店に入らなかった大きな理由がある。ラーメンの価格が分からなかったからだ。

 

価格によって客の行動は大きく変わる。その変化は非常に大きい。

特に商品・サービスを提供する経営者やフリーランスは品質や内容以上に価格について誰よりも頭を悩ませる必要がある。

 

値段の分からないラーメン屋

飲食店が店先に看板を出してメニューと価格を表示することはごく普通に行われている。

意識すらしていない人がほとんどだろう。しかしその潰れたラーメン屋は店先の看板にメニューは載っていても価格は載っていない。

 

外からお店の中を覗くと壁にメニューは見えるがやはり値段の表記が無い。何度か奥の方まで覗いたがそれでも見えなかった。

なぜここまでかたくなに価格を見せないのか、ぼったくり価格でラーメンを出すお店なのか?と怖くなってしまったほどだ。

 

あまりに気になってネットで調べた所、1杯800円程度と一般的な価格だった。

価格を表に出さないことに意図があるのかどうかは分からないままお店は消えてしまった。

なぜ価格を表示しなかったのか、今となっては知る由もない

 

価格が分からなければ安心して入れない……素人でも分かるようなミスで潰れてしまったラーメン屋を笑う人もいるかもしれない。

しかし、価格が不明朗なビジネスは決して珍しくない。筆者が属するような士業は特にそうだ。

 

価格が不透明な士業のビジネス

弁護士や税理士や社労士、司法書士、行政書士など、そういったビジネスで独立している人のHPを見ると価格が明確でない事も多い。

酷い場合は価格の目安すら掲載されていない事もある。

 

筆者の行っているFPビジネスも同様だ。他のFPのHPを見ると、相談料が1時間5000円とか1万円と掲載されていても、例えば保険の見直しは何時間かかるのか、住宅の購入相談なら何時間かかるのか、それが分からなければ結局いくらになるのか不透明だ。

顧問契約のような形で毎月いくらと明記されていても、家を買ったり保険を見直したりは毎月行うものではない。

顧問契約で毎月お金を払う価値があるのかも不透明だ。

 

筆者はFPになる前、トラブルに巻き込まれて弁護士に相談したいと思ったが、法テラスという無料相談だけで終えた。

無料相談で解決したからではなく、料金がいくら掛かるか分からなかったからだ。

弁護士=料金が高いというイメージも手伝って話はそこで終わった。ラーメン屋に入らないまま終わった話と同じだ。

 

価格が分からないお店に入ろうと思う人は居ない。そして問い合わせることすら面倒くさい。

宣伝になるので詳細は省くが、筆者が独立する際はこの教訓を思い出して、とにかく明朗会計であることを最優先とした。

 

明朗会計が話題になる業界

価格が不明瞭な業界として、ライターやイラストレーターなども同様だ。

記事一本がいくらか、絵が一枚いくらか、ハッキリと自身のホームページに載せている人は決して多く無い。

以前、広告記事を書くライターが一本あたりいくらで仕事を請け負っているか取材でハッキリと回答していた。それが記事として掲載されると「この人は一本〇〇円で仕事をやっている」と話題になった。

何とも不思議に見えるかもしれないが、それくらい価格が透明であることが珍しい業界もあるという事だ。

 

もちろん、サービスを提供する側にも言い分はあるだろう。手間のかかる仕事とそうでない仕事を同じ価格で受けたくないと。

ただ、それによってどれだけの客が逃げているか?という事になる。

 

商品やサービスの価格は売り手ががいくら受け取るか? 買い手がいくら支払うか? というだけの問題ではない。

値付け(プライシング)は顧客に対する極めて大きな情報提供であり、マーケティングでもある。

 

価格は「モノを言う」

例えば冒頭の潰れたラーメン屋で言えば、1杯800円なら標準的なお店、300~500円位なら安さで勝負するお店、1000円以上ならこだわりの材料を使っている特徴のあるお店、といった具合に客は価格だけでも様々な情報を受け取る。

もし1杯3000円のラーメンならばキャビアとかフォアグラでも入ってるのか?と誰もがその価格の意味に疑問を抱く。

 

そして価格の決め方も一つではない。

材料費がいくら、人件費と家賃がいくら、だからこれくらいで売ろう……といったコストを積み上げる方法は一番分かりやすいがそれだけではない。

マークアップと言って、仕入れ価格に一定の利益(マージン)を載せる方法、他社の商品価格の相場に合わせる方法、顧客が払っても良いと考える価格、払える価格に決める方法など様々だ。

 

価値と価格=コスパ

例えばラーメン1杯が3000円ならビックリするような価格だが、これが居酒屋のコース料理なら、安いチェーン店ならそんなものか、と言った水準だろう。

一方でフレンチのコースが3000円ならば「随分安いけど中身は大丈夫?」と心配になる水準だ。

もちろんこの辺りの感覚は人によっても違うが、多くの人は自分なりの相場で判断をする。

 

「価値と価格」という言い方もあるが、価格もまた価値の一部だ。

価値に対して価格は高いか低いか、つまりコストパフォーマンスが良いか悪いか、客は価値や価格を単体で見るわけでもない。

価値と価格の組み合わせが相対的にバランスが良いか悪いか、つまりコスパで客は判断する。価格が不明瞭であることはそれだけで判断基準を大きく失い、買い控えが発生する。

 

今ではごく一般的になった回転寿司のメリットはただ安いだけではない。

価格が不明瞭な「時価」で提供される高価な寿司への対抗的なサービスとして広がった。

1皿いくらという形で、価格がはっきりしている事はそれだけで顧客への価値となりうることが分かる。

 

日経新聞はアダルトサイト?

以前こんな話も聞いたことがある。有料のニュースサイトとして国内で最大の規模を誇る日経新聞は、紙の新聞価格をほぼそのままネット上で展開しようとしたところ、ネットビジネスに詳しい人から絶対に無理だと笑われたという(現時点で電子版は4200円、紙は4900円、両方同時に利用すると5900円)。

月額4000円で電子新聞が売れるわけが無い、月額4000円も取る事が出来るネットサービスなんてアダルトサイトくらいだ、と。

 

確かに、何でも無料が当たり前のネットで月額4000円も払う文化は一昔前には無かった。

リアルの世界では習い事やスポーツジム等で数千円から1万円程度の費用は珍しくないにも関わらずだ。最近になってやっとサブスクリプションサービスでAdobeが売っているような高価なソフトの利用権に月額数千円を払うようなケースも一般的になった。

 

ペイペイ騒動と消費税とゾゾアリガトウ

価格で人が動く事は珍しくない。歩合の給料をインセンティブと呼ぶが、本来は動機付けという意味だ。収

入の高低が動機づけになるのであれば、支出の高低も動機づけになる。

 

昨年末のpaypay騒動は記憶に新しい。購入価格の2割がポイントで還元される、総額で100億円還元する、という宣伝でビックカメラに行列が出来て新型のipadは軒並み売り切れた。

数か月先までのキャンペーンを見込んでいたが、10日で100億円の予算は使い切ってしまった。

 

何度も大騒ぎしては延長される消費税はわずか数%でありながら消費に大きな影響を与える。

消費税の増税もシンプルに言えば値上げと同じだ。過去には消費税を導入しようと画策したり増税をした政権はほぼ例外なく選挙に負けている。それくらい政治家にとって消費税やその引き上げは鬼門だ。

 

売り手も価格決定権は譲れない領域である。

ゾゾタウンの提供する割引サービスであるZOZOARIGATO(ゾゾアリガトウ・10%の恒常的な値引きサービス)はゾゾタウンに出店するアパレルブランドと亀裂を作り、複数の店舗がブランド価値への影響を理由に撤退を明らかにした。

 

アパレルブランドはセールの時期になれば10%引きどころか50%引きは当たり前、最後の最後になれば8割引きや9割引きで投げ売りすることを考えれば、ブランド価値の維持と言われても苦笑するしかない。

しかし、それでも価格は自社でコントロールしたいという事なのだろう(実際には前澤社長が指摘するようにファッションビル等での値引きはごく普通に行われている)。

 

前澤氏は洋服の原価は2、3割程度とツイッターでつぶやいたことも話題となったが、価格を高くすれば儲かるというほどビジネスは簡単ではない。

値段を上げれば一つ当たりの利益率は高くなるが、販売数量は落ちる。すると全体で見ればコストの回収は難しくなる。なぜなら売上に関係なく発生する固定費(家賃や人件費)が存在するからだ。

 

価格で顧客の動きを「コントロール」する。

ピザの宅配はあえて高値に設定して回転率を落としている。

そうすることで配達の人員・バイクを利益が出る水準でバランスよく回す。その証拠に持ち帰りなら二枚目無料や半額割引など極端な値引きが行われている。

 

その真逆で、いきなりステーキや俺のフレンチは高級料理を立ち食いで提供することにより、低価格を実現している。

飲食店のビジネスモデルを乱暴に要約すれば「固定費(家賃+人件費)を粗利(売上-材料費)でいかにまかなうか?」とシンプルに表現することが出来る。

 

同じスペースでも立ち食いで多数の客を詰め込むことが可能になり、回転率も上がる。

少ない粗利でも多数の顧客と高い回転率で固定費を賄い、利益を積み上げる。

客が少なくシェフが手持ち無沙汰になったり、空席が目立つ状況を避けることで稼働率、原価計算で言う操業度を引き上げ、固定費の無駄遣いを避ける。

結果的に高品質な料理を低価格で提供可能になる。

発想としては「工場をフル稼働させて低価格・高品質な商品を大量生産する」というビジネスモデルに近く、生産性も上がる。

 

このような考え方は偶然やってみたら上手く行ったということではなく、高値・安値どちらでも価格設定がビジネスモデルと密接に結びついていることが分かる。

高価格で大量販売(=人気の高級ブランド)が最も効率は良い事になるが、実際には低価格で大量販売(=ユニクロ型)か、高価格で少量販売(=多くのブランドビジネス)か、どちらが儲かるかはケースバイケースでしかない。

 

消費者としては「なぜこの商品はこの価格なのか?」、売り手としては「この商品はこの価格が本当に最適なのか?」、そんな当たり前を改めて考えてみると面白いかもしれない。

 

 

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中嶋よしふみ ファイナンシャルプランナー、シェアーズカフェ・オンライン編集長

保険を売らず、有料相談のみを提供するFPとして対面で相談・アドバイスを提供。得意分野は住宅購入。

東洋経済オンライン、日経DUALなど経済メディアで情報発信を行うほか、マネー・ビジネス・経済の専門家が書き手として参加するシェアーズカフェ・オンラインを運営中。

ツイッター @valuefp https://twitter.com/valuefp

フェイスブック https://www.facebook.com/yo.na.7965

公式HP http://sharescafe.com/

(Photo:Mark Turnauckas)

ちょっと前にファクトフルネスという本を読んだ。

本書では教育、貧困、環境、エネルギー、人口など幅広い分野を最新の統計データを用いて取り上げて、世界の正しい見方を紹介している。

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詳しい内容は本書を読んで欲しいのだけど、簡単にいうと、世の中は私達が思っている以上によくなっているという事実を、これでもかと事実(ファクト)を元に証明していく本だ。

結構、思った以上に事実と認知の間にズレがある事がわかり、人によっては衝撃を受けるかも知れない。

 

本書をどう読むかは人それぞれだろうが、僕はこれを読みながら、なぜ人間はここまで事実を事実として受け取れないのか、また、人々が事実を事実として淡々と伝える事ができないのかをずっと考えていた。

一ヶ月ほど考えて出た結論は、人間がロジックとエモーションを混同させて生きる生き物だからこそ、世界をありのままに見ることができないのかもな、というものだった。

 

というわけで今日はロジックとエモーションの話をしていこうかと思う。

 

情を持つと、世の中を正しくみれなくなる

かつてGEにジャック・ウェルチという経営者がいた。

彼は1年ごとに社員の下位10%を解雇するか配置換えするという非常に厳しい人事評価システムを採用していた事で知られている。

 

このシステム自体は、賛否両論いろいろあったようだけど、なぜこのシステムをジャック・ウェルチが考えついたのかについての話が非常に面白い。

ジャック・ウェルチが働いていた頃の外資系企業では、必要に応じてキチンと他人のクビを切るのもマネージャー(管理職)の1つの大切な仕事だった。

 

しかしやはり人にクビを言うのは非常につらい。その為、多くのマネージャーはこれが原因で数年で疲れてしまい、他の職を移ってしまっていたのだという。

 

そうすると、当然次にまた新しいマネージャーがやってくるわけだけど、ここで非常に興味深い現象が生じている事にジャック・ウェルチは気がついたのだという。

なんと、職場環境をよく知っているはずの前任マネージャーよりも、新しくやってきた新任マネージャーの方が、誰をクビにすべきかを客観的かつ正確に判断できる事が多かったのだという。

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普通に考えれば、情報量が多い前任マネージャーの方がよりよい選択ができそうなものだけど、なぜそんな事が起きてしまうのだろうか?

 

それは、前任マネージャーが”知りすぎている”が故に、社員に情が移ってしまうのが原因ろうとジャック・ウェルチは推測する。

そして、ロジカルな10%ルールを導入すれば、情に惑わされる事なく常に”正しく”、おまけにマネージャーの心を悩ませる事もなく、誰をクビにするべきかをきめる事ができる、と考えるに至るわけだ。

 

ジャック・ウェルチのこの考えは、クビを言い渡す心労に頭を悩ませていたマネージャーには実に甘美な囁きとなった。

今まで、いろいろと頭を悩ませて誰をどういった理由でクビにするか、なんて言葉でクビを伝えればいいかを考えなければいけなかったマネージャーからすれば、「ルール」でクビを言い渡す相手を自動的に決めてもらえるのだから、これ以上楽な事はない。

 

というわけで労働者からすれば冷徹だが、マネージャーからすればこの上なく優しい10%ルールは、一時期経営者から称賛をもって向かい受けられていた。

 

これぞエモーションがあるがこそ故に、ファクトをありのままにみれない事例として、最適な例といえよう。ロジックという合理性の前に立ちはばかるのは、いつだって非合理的なエモーションなのである。

 

ファクトに基づいてロジカル考え、合理的に正しかったはずの結論が……

そして面白いのはここからである。

ファクトに基づき、ロジカルに出したエレガントな解法であった10%ルールだけど、結果的にはなんと大失敗だったのだ。

今ではGEを含め採用している企業はほとんどない。

 

果たして10%ルールの何がいけなかったのだろうか?

原因は様々だろうけど、一般的には働きアリの法則というもので失敗の原因が説明される事が多い。

 

働きアリの法則とは以下のようなものだ。

1.働きアリのうち、本当に働いているのは全体の8割で、残りの2割のアリはサボっている。

2.よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。

3.よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働くアリになり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。

4.よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる。

5.サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。

 

GEの10%ルールの問題点は、4の「よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる」に集約されている。

つまり、パフォーマンスが悪い働かないアリをのけ者にして、働きアリだけを集めたところで、結局働きアリが働かなくなるだけなのだ。

 

なぜアリには、こんな奇妙な生態系が導入されているのだろうか?北海道大学の長谷川英祐は進化生物学の見地からこれをこう解説している。

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働くアリと働かないアリの差は「腰の重さ」、専門的に言うと「反応閾値」の差によるのだという。

 

アリの前に仕事が現れた時、まず最も閾値の低い(腰の軽い)アリが働き始め、次の仕事が現れた時には次に閾値の低いアリが働く。

 

なぜこんなシステムを導入しているかというと、仮に全てアリが同じ反応閾値だと、すべてのアリが同時に働き始め、短期的には仕事の能率が上がるが、結果として全てのアリが同時に疲れて休むため、長期的には仕事が滞ってコロニーが存続できなくなるからだ。

 

この結果が正しい事はコンピュータシミュレーションの結果からも確認されており、閾値によっては一生ほとんど働かない結果となるアリもいるが、そのようなアリがいる一見非効率なシステムがコロニーの存続には必要なのだという。

 

エモこそが私達の本能なのではないだろうか?

10%ルールの失敗はロジカルに、合理的に頭のよい人が正しく判断したはずの回答が、巡り巡って結果的に不正解となった事例として、人間の思考力の限界を痛感させられる一例だと言えよう。

こう考えると、マネージャーが部下をクビにする事に罪悪感を覚えるという情こそが、働きアリの法則の法則を集団で守らせようとする為の本能のようなものに思えてくるのだから面白い。

 

人間は、働きアリのようにプログラム化された存在ではない。私達には、それぞれ固有の自由意志というものがある。

しかし、この自由なはずの私達だけど、面白いぐらいに類似した文化を各地で形成して社会を営んでいる。

 

自由な意志を持っているのなら、多様な社会が形成されてもいいだろうに、なぜ人間は世界中のアリが似たような生態系を呈するがごとく、類似したシステムを組み上げてしまうのだろうか?

僕が思うに、それこそがエモーションの役割なのだ。感情という無意識に仕込まれたプログラムこそが、人間を最もキレイにコントロールする補佐役となっているからこそ、人間というのはここまで上手に社会を形成できているのである。

 

実は民主主義こそがこれを最も体現していると言ってもいい。

太古の昔から、王政や貴族制といった、”頭のいい人”が市政の人々をロジカルに束ねる試みは常に実験されてきた。

しかし多くの場合において、それは失敗している。全てを政府の計画下に置いて、効率化を推し量った共産主義の歴史的な失敗が、それを最もよく表しているだろう。

 

結局、キリストが産まれてから2019年もたった今、大国の政治はほぼ選挙によって選ばれた政治家と、それを補佐する官僚により成立している。

国民のエモーション担当が政治家であり、国民のロジカル担当が官僚と考えると、この組み合わせが驚くほどシックリくるのは、僕だけだろうか?

 

もちろん、常にエモーションが正しいとは限らないし、むしろエモーションはよく間違える。

ファクトが正しくみれない私達は、まさにその体現といってもいい。

 

しかし、それは言うまでもなく、ロジックについても同じことがいえる。

例えば透析患者は自己責任で全員医療費自己負担にしろという考えは、国が借金まみれの今だと、”合理的に考えれば”、ある人にとっては”正解”なのかもしれない。

 

しかし、これを冷徹に”良し”と判断できない、私達のエモーションの部分に宿った無意識の部分にこそ、私達人間の大切な本能が隠されているのではないだろうか。

 

もし、近々合理性が社会に導入されたら、エモーションで無意識にコントロールしていた部分はどうなるのだろうか?

ディープラーニングを導入されたAIでビッグデータを解析し、ファクトに基づいた正しい分析が行われようとしつつある。

僕の本職である医療においてもAIの力は及ぼうとしているが、ハッキリ言ってファクト抽出に関して言えば、AIに敵う医者は1人もいないだろう。それぐらいに、AIのファクトを見る目は優れている。

 

この事を、大手を振って迎え入れている知識人も結構多いけど、一般人の感覚としては、なんか薄ら寒いものを感じないだろうか?

たぶんなんだけど、その感覚は間違ってないのではないかな、と僕はファクトフルネスを読んでなんとなくだけど思った。

 

こんなにも事実を”正しく”みれてないにも関わらずこの世がどんどん良くなっているのは、逆にいえば多くの人が”正しく”事実をみず、エモーショナルに基づいて行動しているからこそ、結果的に正しくなっているのではないだろうか?

 

AIが導き出した圧倒的ファクトでロジカルに導き出された答えは確かに正しいのかもしれない。

ただ、それを水面下でコントロールするエモーショナルな部分は、AIが導入された社会において、果たしてキチンと機能できるのだろうか?

 

ファクトに基づいたロジカルな意識と、エモーションに基づいたスピリチュアルな無意識。

もし、社会にAIが導入され、ファクトがエモーションより多い比率で採択されたとき、私達は真の意味で無意識から手が離れた社会を生きることになる。

 

それが楽園なのか、地獄なのかはそう遠くないうちにわかるだろう。

 

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:nelio filipe

どうもしんざきです。今仕事が割と追い込みで、久々に軽いデスマに片足を突っ込んでおり、連絡待ち時間と現実逃避にこの記事を書いています。

夜景がいつもより綺麗に見えてくるとそろそろヤバいかなって思いますよね。

 

ということで、すいません、ちょっと細かい話をさせてください。

皆さん、自分の成果物に対して、「特に意味があると思えない細かいダメ出し」を上司にされた経験ってありますか?

 

言うまでもなく、報連相というものは色んな意味で重要であって、成果物のレビューというものの重要性もそれに準じます。

何かを作った時は、自分ひとりの責任にしない為にも、それをレビューしてもらわなくてはなりません。レビューしてもらうことによって、そのレビューを行った人にも責任を分担してもらう。

これ、仕事の上で凄く重要な考え方です。

 

ただ、職場環境とか仕事の環境というものは当然人それぞれでして、このレビューの際の動き方というのも職場によって全く変わります。

何をレビューするか、誰がレビューするか、どの工程でレビューするか、どういう形式でレビューするか。千差万別です。

 

ただ、千差万別の中でも共通する経験というものはあるもので。

結構ちょくちょく聞く話として、「それ、なんか意味があるの?」という細かいダメ出しを上司から受けた、という事案、あちこちで観測するんですよ。

 

例えば、発表資料の語尾やちょっとした単語の使い方にダメ出しをされた、とか。文字の大きさや色みたいなくだらないところで延々修正する羽目になった、とか。

特にコード規約に定められてもいないのに、メソッドの命名やファンクションの書き方についてやたら詰められた、とか。

 

「なんとなくダメ」みたいな回答の存在しないダメ出しよりはなんぼかマシかも知れないですが、それでも、「なんでそんな細かいとこにこだわるんだ?」という疑問を抱えながら成果物の修正をしないといけない経験って、かなり辛いですよね。

 

この事案に共通する要素って、基底に存在するのは「上司と部下間のディスコミニュケーション」なんですが、その内容を精査すると、大筋二つの原因に集約されます。

・そもそも成果物の目的が共有されているか、目的に沿ったダメ出しになっているか

・ダメ出しの基準は明確になっているか、その基準は開示されているか、基準が「個人の感覚」になっていないか

 

この「細かいダメ出しに対する不満」って物凄く印象に残るものなんで、基本的にはこれ、上司の側が、上司の責任で防止するべきものだと思うんですよ。

「しょうもない細かいダメ出し」と部下に思わせた時点で、負け。

少なくとも私はそう思います。

 

価値を生まないダメ出しは単にチームの足を引っ張るだけの行為

上記二つの補足に入る前にまず切断しておかないといけないんですが、世の中確かにしょうもない人ってのは存在していまして、

「なんか言わないと仕事をしてないような気がするので無理やりダメ出しをひねり出している」上司っていうの、信じられないかも知れないですが本当にいるんですよ。

為にするダメ出し、意味も価値も本当に存在しないダメ出しですね。これやってしまう人は本当にダメだなーと思います。

 

私は、今どちらかというと管理側の人間で、レビューをされるよりはレビューをする側に回る方が多いんですが、確かに、「レビューを素通しする」って上司としても若干ながら勇気がいる行為ではあるんですよ。

ちゃんと見てないんじゃないかと思われそう、とか。

意見を言えないのが能力不足と思われないか、とか。

 

ただ、それは徹頭徹尾上司の側の個人的な事情でして、ただそれを避けるだけの為に部下に余計な工数を押し付けるべきではない、ということは間違いありません。

価値を生まないダメ出しは単にチームの足を引っ張るだけの行為です。

 

一つ確実に言えることは、「「細かい指摘事項を無理やり探そうとしている」時点で、そのレビュアーは成果物の本質を理解出来ていないのが周囲からは丸わかりなので、それを周囲に喧伝するくらいなら勇気をもって素通しするべき」ということです。

細かいことしか目につかないんでしょう?大丈夫ですよ、その成果物。

ノーコメントで承認しましょう。死にゃしません。

 

「細かいダメ出しだなあ」と部下に受け取られたときは、何が問題か

問題はどちらかというと、「上司の側としてはきちんと必要なダメ出しを行っているつもりなのに、その重要さ、価値が部下に共有されていない、ないし価値判断が上司・部下間で食い違っている」というケースです。

私自身は、「細かいダメ出し」と部下に受け取られたケースの内、半分くらいはこちらのケースがあると思っています。

 

もう一回、上で挙げた二つの原因を引っ張ってきましょう。

・そもそも成果物の目的が共有されているか、目的に沿ったダメ出しになっているか

・ダメ出しの基準は明確になっているか、その基準は開示されているか、基準が「個人の感覚」になっていないか

 

まず重要なのが、「その成果物がなんの為のものなのか、ということがきちんと共有されていない、認識されていない」ということがないかどうか、という話です。

 

当たり前の話ですが、成果物に求められる品質基準は、その成果物の用途によって変わります。

重要な客先のプレゼンに使う発表資料と、チーム内の情報共有にしか使われない資料では、表現に求められるクオリティも、データに必要とされる精密性も全く異なります。

似たような話で、客先に納入するパッケージへのコミットと、1回データを整形することに使われるだけのマクロでは、意識しないといけない点も異なるでしょう。

 

上記は極端な例ですが、まず重要なのは、「必要なクオリティは用途によって変わる」という認識と、「その成果物の用途」それ自体をきちんとレビュアー・被レビュアー間で一致させておくこと、だと思うんです。

 

いや、当たり前の話だと思う人もいると思うんですが、仕事してると案外ここで発生するディスコミュニケーションが目につくことってあるんですよ。

「目的の明示なく作らされた成果物に、説明もなくダメ出しされる」って相当にひどい状況ですよね。何で!何で最初にゴールを共有しないの!!!!って思うんですけどね。

 

次に基準の話になります。

これも当たり前の話なんですが、何故ダメ出しが発生するかというと、それが何らかの基準に達していないから、そのギャップを埋める為です。

この基準は、コーディング規約のように明確なものかも知れないですし、そうでないかも知れません。

 

ダメ出しをする側としてまず自問しないといけないのが、「「ここはダメなんじゃないか」と感じた、その理由を明確に言語化出来るかどうか」です。

言語化出来るなら、それを共有することが出来ます。

共有出来る基準であれば、それが妥当かどうかは誰の目にも明らかになりますし、むしろ共有出来ること自体が基準の妥当さを保証することにもなるでしょう。

 

一方で、「言葉として説明出来ないような基準」はそもそも妥当なのか、という話があります。

それは徹頭徹尾「なんとなく」なのではないか、自分の中だけの感覚に過ぎないのではないか、という話ですよね。

「自分の感覚」だけに頼って他人の仕事のクオリティを図ることがどれだけストレスを発生させることか、自明な話なわけでして、「そもそもきちんと基準を言語化出来ない」と気づいた時点で、そのダメ出しは避けるべきなのです。

 

つまり、レビュアー側としては、

・資料自体の目的がきちんと共有されているかを確認すること

・ダメ出しの基準を言語化して、出来ればダメ出しの際にそれを併記すること

・基準を言語化出来ないダメ出しはそもそも妥当でない可能性を考えること

の三点が、割と重要な義務になるのではないかなーと。そう考えるわけなのです。

 

しんざき自身は、勿論レビューをしてダメ出しをする機会もしばしばあるのですが、それが何故ダメなのか、どんな目的、どんな基準の為にダメなのかは、時間の許す限りきちんと説明するようにはしています。

結構気を遣うんですよね、これも。

 

繰り返しになりますが、例えそれが「必要なダメ出し」であったとしても、「特に意味がない細かいダメ出し」だと思わせてしまった時点で、それはレビュアー側の負けだと考えます。

適切なダメ出しで、適切なモチベーション管理を心がけたいと考える次第なのです。

 

「納得出来ない細かいダメ出し」に苦しむ社会人が一人でも減ることを祈るばかりです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:ivyhouse.jesse)

私の周囲には「すぐ試す人」が結構いる。

「すぐ試す人」とはどんな人か。

 

例えば、私はKindle端末の愛好家だ。

その中でも特に、Paperwhiteという機種を愛用している。

 

発売当時、知人のひとりに

「軽いし、電池持ちが良いし、読みやすくて、しかもちょっと格好いい」と勧めた。

当然、ほとんどの人には「ふーん、好きなんだね。」と流される。

いつもの反応だ。

 

だが、その彼は「へー、そんなにいいなら、買ってみるわ。」と、その場でAmazonで購入してしまった。

私はあわてて

「いや、もっと用心しなよw」

と言ったのだが、

「使ってみないとわかんないから。」

と、全く躊躇しない。

 

彼は他にも、モバイルバッテリー、Apple watch、保護フィルム、イヤフォンなど、ありとあらゆるものを「すぐに試す」。

今では、大抵のガジェットのことなら、彼に聞けば使い勝手がわかるので、迷うときは彼に相談することにしている。

 

彼にはかなわないなあ、と思う。

 

 

前の職場で、タスクを漏らしがちの人間がいた。

彼が困っていたので、私は当時つかっていた、あるタスク管理ツールを

「自分はこれを使ってる。」と説明し、励ました。

 

そして、1ヶ月位たった頃だろうか。

彼は「アドバイス、役に立ちましたよ」と私に礼を言ってきた。

 

「それは良かった。使いやすいでしょ。」と言うと、彼は「いえ、実は勧めてもらったものとは違うものを使ってるんです」と、申し訳無さそうに言う。

 

「へえ、どんなの使ってるの?」と聞くと、

彼は「実は、あれから世の中にあるタスク管理ツール、10個ほど試しまして……」という。

「なんと、10個?」

「そうです、この無料のアプリが一番使いやすかったんで、今はこれを使ってます。」

 

「何が決め手だったの?」と聞くと、

「リピートが設定しやすく、サブタスクを入れることができて、重要度と、スケジュール連携ができて……」と、

マニアックな知識を披露してくれた。すでに私よりも遥かに使いこなしている。

 

「そんなにたくさん使ってみたんだ。」と私が言うと、彼は

「試してみるうちに、自分なりの使い方が見えてくるんですよ」と言った。

 

彼にはかなわないなあ、と思う。

 

 

最近、よく一緒に釣りに行く知人も、「よく試す人」だ。

私は密かに彼のことを「テストの権化」と呼んでおり、公私に渡って、いろいろな実験をしている。

 

もちろん、釣具も例外ではない。

彼と釣りに行くたびに、何やら格好が変わっていたり、竿やリールはもちろんのこと、餌や収納用品、ジグに至るまで、バージョンアップしている。

 

彼は実に楽しそうにテストをする。

「次はこれを試す」と言うときの彼は、子供のようである。

 

一方で、彼は様々な人にアドバイスをする仕事をしているが、仕事においても、すぐに「試せ」とアドバイスしているようだ。

 

例えば、日本の野菜を中国に輸出したら、売れるんじゃないか、市場はあるはず、と言う相談者の方に、

「一回やってみればいいじゃないですか。」

「会社を作ってみればいいじゃないですか。」

「試してから考えましょう。」

と、全くブレがない。

 

彼にはかなわないなあ、と思う。

 

「試すこと」が究極的に重要であるわけ

IPS細胞の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥は、著書の中で、ある自己啓発本に触れている。

何度も読んだのは『仕事は楽しいかね?』(デイル・ドーテン著、野津智子訳、きこ書房、二〇〇一年刊)です。

なるほどと思う言葉がいくつもありました。結局、この本のタイトルの通り、仕事も楽しむしかないのかなと思っています。

こういう本から学んだことはいろいろあります。一〇回のうち一回成功すればいいというくらいの気持ちでチャレンジしようとか、やるかやらないかの選択を迫られたとき、やらなくて後悔するくらいなら、やってから後悔しようといったメッセージには、とても共感しました。

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山中伸弥が紹介する「仕事は楽しいかね?」は、2001年の発売以来、20万部以上売れているロングセラーだ。

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同書の大きなメッセージとして、

「試してみることに、失敗はない」

「何を試してきたのかね」

「人は、変化は大嫌いだが、試してみることは大好き」

と、「試すこと」の重要性を繰り返し説いている。

 

その根拠として、同書は、米国で行われた「ホーソン実験」という有名な実験を取り上げる。

 

この実験は、工場の生産高が何によって変わるのかを調べた実験だった。

例えば「照明の明るさ」を変えたり、「休み時間」を変えたりして、生産性を測定した。

だが、驚くべきことに「何を変えても」工場の生産性は30%も上がってしまった。

 

昔の実験であるし、現在の社会学者は「ずさんな実験」と批判する者も多い。

だが著者は、本当に得られた教訓は、「試してみることに失敗はない」だと、主張している。

ホーソーン効果は、被験者の意識のあり方によって正しいリサーチができなくなる例として取りあげられることが多い。

だけどね、現代の社会学者は、事実を誤って認識して、間違った教訓を学んでしまってるんだ。

彼らは、ホーソーンでの実験はいい加減なリサーチだし、失敗に終わった実験だと思ってる。だけど、本当はそうじゃない。あの実験で学ぶべき大切なことは、試してみることに失敗はないということなんだ。

 

 

「試行」と「学習」がセットで、繰り返し行われるとき、大きな推進力が得られる

中には「自己啓発書に書かれていることなんて信用できない」と、懐疑的に見る方もいるだろう。

だが、これらの主張には一定の信頼が置ける。

 

例えば、英国の進化生物学者、リチャード・ドーキンスは、著書「盲目の時計職人」の中で、コンピュータプログラムを用いて、

「どんな些細なものであれ、一つ一つの改善が将来の構築のための基礎として利用される」

ことが、生物進化の原動力になったことを説明している。

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生物は常に、突然変異によって「あたらしい試み」を繰り返し、その環境に適応した結果、現在のような多様で複雑な生命が出来上がった。

つまり、「試みること」と「試みから得られたことを次に活かす」がセットになったとき、「生物の進化」という、とてつもない大きな推進力を得ることができるのである。

 

そういえば、前述した「釣り仲間」の彼は、仕事の同僚から「学習モンスター」というあだ名を付けられていた。

 

「試行」と「学習」のセットを繰り返し行うことが偉大な力をもたらすのは、どうやら間違いなさそうである。

 

 

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(Photo:Eelke