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ジャガイモの袋が破れて散らばった

ある日の夜、おれは鍋料理を作っていた。トマト鍋だ。トマト鍋にはジャガイモが合う。

おれはジャガイモをスーパーで買った。スーパーで買ったジャガイモは薄いビニール袋に入っている。

おれはハサミでジャガイモのビニールを切った。切ったら、やぶけた。やぶけて、なかのジャガイモたちが散らばった。

これが、その写真ということになる。なぜ写真を撮ったのか。ジャガイモが散らばったからだ。

そしておれは「これを拾い集めないな」と思った。思って、そのことを世界に発信しようとした。X。なぜそんなことを発信しようと思ったのか。この世にはわからないこともある。

 

ちなみに、ジャガイモが落ちている瓶はすばらしいスコッチであるラフロイグの瓶だ。そして、真ん中にはキッチンハイター。その左には最高にすばらしいスコッチであるアードベッグの瓶がある。

こんなふうにものを並べている人間が、どんな人間かは説明の必要は少ないように思われる。

 

年度末で非常に疲れている、というのもある

ある日、と書いたが、三月の話だ。三月、年度末。おれの仕事はなぜか年度末が忙しい。二月、三月と一年のピークがくる。

べつにおれの仕事は、決まった時期に回遊してくる魚を獲る漁師ではない。毎日、毎日、iMacの前に座って、モニタを見て、マウスを動かし、Adobeのアプリケーションでデータを作るお仕事だ。DTPだ。デザイン、コピーライティング、それにWEB周りも少々する。

まあとにかく、べつに季節性のない仕事だ。それなのに年度末はたいへん忙しい。二十年以上ずっとだ。

 

ただ、十年、二十年前に比べると、少しは楽になった。午前零時すぎまで仕事するなんてことはなくなった。なんのせいか。

おれの能力が上がったからか? 違う。たぶんだけれど、パソコンの性能がアップして処理が早くなり、アプリケーションも便利になっている。この頃は生成AIの力を借りたりすることもできる。こういうのを本当の「生産性の向上」というのだろうか。

 

しかし、である。おれの疲労は今までにないほどだ。やばいくらい疲れている。疲れは身体だけに出るものでもない。

今までは「年度末の時期は忙しくてかえって寝込まないですね」とか精神科医に言っていたものだが、今年は容赦なく抑うつも来た。去年までとは根本的に違う。そう感じるくらいに疲れる。

 

これはなにか。おそらくは、老い。これに尽きる。

心身ともに弱まっている。「ちょこざっぷに行って、ちょこっと運動しているのでは?」とも思うが、まあ忙しいとそんなところに行くこともできなくなる。

土日の出勤も前は当たり前だったが、それもないのに、土日とも寝ているか競馬しているかだけになった。

 

この間はめずらしく一人で映画に行こうと思って、予定を立てて、シャワーを浴びていたら、シャワーを浴びている間にすさまじい倦怠感に襲われた。

服を着て出かける直前までいったが、「どうしても動けない、映画館にたどり着けない」と心底感じたので、また部屋着に着替えてベッドで寝込んでしまった。

 

おれは弱っている。それはおれが精神障害者だからというのもある。

とはいえ、もしも精神疾患の診断を受けていないのに、こんなことがある人は、事情が許すならばちょっと医者に診てもらってもいいかと思う。シャワー浴びている間に、動けなくなるような人は。あるいは、ジャガイモを拾えなくなった人は。

 

もとからジャガイモを拾う人間ではなかった、というのもある

とはいえ、ジャガイモについてはどうだろうか。Xにも書いたが、おれはもとよりジャガイモを拾うタイプの人間ではなかった。子供のころからだ。おれにはそれがわかる。たしかに年度末で疲弊している。双極性障害(躁うつ病)のうつ側にあって、調子がよくなかったのかもしれない。

しかし、おれは根本的に拾わないタイプの人間だ。ジャガイモを使うときに床から拾えばいいだろう、と思う。そう思って、おれはキャベツを切り始めたりするだろう。

 

これを、一種の発達障害のようなもの、とみなすことも可能かもしれない。そのあたりはよくわからない。たとえばADHDの不注意かもしれないし、多動性かもしれないし、衝動性かもしれない。おれは医師にその傾向はあるかもしれないと言われているが、正式な診断は受けていない。

 

いずれにせよ、これは子供のころからそうだった。片付けられない子供だった。大人になっても変わらなかった。このことについては前にも書いた。

片付けられない人間の言い分を聞いてくれ _ Books&Apps

まず、なぜ片付ける気にならないかといえば、片付ける気が起こらないからである。

あまりにも当たり前すぎるかもしれないが、散らかったら片付けるのが当たり前という人にとっては、そのこと自体が異様なのではなかろうか。

ともかく、片付けるという気持ちが一切わいてこない。

おれにはこんな傾向がある。

 

行き着く先はセルフ・ネグレクト?

というわけで、目下のところ「疲れ」+「生来の気質」によって、おれはジャガイモを拾えない。拾えないというか、もとから拾う気もないので「拾わない」。

 

そして、前者の「疲れ」は、加齢によってますます強まっていくことが予想される。

気質の方は変わらないだろう。そうなると、どうなるのか。セルフ・ネグレクト状態に陥るのではないか。おれはそう思った。

 

独身、独居、中年、男性。精神疾患持ち、依存症気味(アルコールを減らすと言ったが、忙しさで頭がガチガチになったときなどは飲まずには寝られない)……やばくねえか? というか、すでに、そうなっているのではないか。

 

じつのところ、部屋が散らかっているのに加えて、このごろ水回りの掃除がおろそかになっている。ゴミはきちんと捨てているが、そのあたりが雑になっている。「まあ、いいか」となってしまっている。

 

思うに、こういう生活の質が下がると、下がる一方になる。不可逆だ。「仕事が忙しくなくなったら、きちんと掃除しよう」とか、そういうのはなくなる。いや、なくなりながらここまできた。

生活の質は下がる一方だ。エントロピーの法則だ。しらんけど。ただ、まあ、そういうものだと思ってほしい。

 

とはいえ、「気をつけよう」と思って整理整頓を心がけられる人間は、もとからこのように生活の質は下がらないだろうし、「そのとおりだ」と思う人間につける薬はない。

 

いや、そうでもないか。わからんか。もとはちゃんとしていた人間も、過労によって部屋がちらかっていって戻れなくなることもあるかもしれない。まあ、そうなったら要注意だ。

メンタルヘルスの危機はすぐそこだ。注意して生きろ。転職しろ。できないならできないで、もう仕方なく生きろ。

 

しかしなんだ、おれはおれをセルフ・ネグレクト的傾向にあると自覚しているが、本当にそうなのだろうか。

以前おれがここで「手取りの3/4を馬券購入に突っ込んでいるギャンブル依存症だ」と書いたときも、内容から「ギャンブル依存症とは言えないのではないか」という人もいた。そりゃあ、水原一平氏に比べたら依存症でもなんでもないが……って、金額の話ではないか。あ、でも収入比で見てもまったく勝てないな。勝ってどうする。

 

というわけで、独断もよくない。調べてみるか。

https://pelikan-kokoroclinic.com/shinjuku/selfneglect_check/

「セルフネグレクト(自己放任)チェックテスト」というのがあったので、こちらを試してみる。

郵便ポストの中を確認しない。あるいは、郵便物やチラシ等で郵便ポストがパンパンになっている。

→◯ ……ほとんどチラシすら入らない面倒な場所に住んでいるのでパンパンにはならない。とはいえ、郵便物もほとんどこないので、本当に確認しない。あと、なんか来ても玄関のあたりに積んでしまう。

お風呂に入るのが面倒で、気を抜くと数日入らないことがある。

→× ……これは完全にありえないことで、むしろ逆に三百六十五日、毎日入っている。どんなに体調が悪い日も、絶対にシャワーを浴びる。これはもう強迫性障害的といっていいほどだ。シャワーを浴びないと、近所のコンビニにすら行けない。

ゴミ出しが面倒で、かなり溜まっている。

→× ……さっきも書いたけど、ゴミはきちんと捨てている。

部屋ではベッドやこたつ等、横になれる場所で殆どの時間を過ごしている。トイレに行く以外は殆ど立ち上がらない。

→× ……いや、◯か? 台所の前の椅子の上か、座椅子に座っているかのどちらかだ。せまいアパートのどこを移動する? とはいえ「横になれる場所」というのがキーワードなら×か。寝込んでいる時間は人よりずっと長いとは思うが。

休日でも買い物や用事を済ませに行かず、家でゴロゴロ過ごしてしまう。

→◯ ……年度末の現状ではそうである。そうでないときは、GR IIIxでも持って散歩に行こうかとかあるけれども、だんだん出不精の度合いは高まっている。

身体に不調を来していても病院に行くのが億劫で、あまり行かない。

→◯ ……月イチの精神科には必ず行っているが(薬がないと生きられないので)、その他、ちょっと具合が悪くても、「様子見で……」で済ませてしまう。まあ、それで済むくらいしか不調ではないともいえるが。

ゴミ箱までごみを捨てにいくのが面倒で、取り敢えず適当な場所にゴミを置いてしまう。

→× ……だからそんなに広いところに住んでないって。ただ、ゴミをゴミ箱方面に向かって投げて、外れたら、そのときすぐに拾わないで、あとで入れるということはある。

歯磨きも気が進まないので、日によっては全くしない。

→× ……これもシャワーに似た強迫的なところがあって、必ず一日三回歯を磨く。

役所の手続きや請求書の支払いなど、やらなくてはいけないことが中々できない。

→×……やらなくてはいけないとなると、とっとと済ませて楽になりたいと思うタイプ。

スマホの通知を見るのが嫌で、返事をしなくてはと思いつつ、数日放置してしまう。

→×……これはないな。

動きたくないので、ご飯を食べない。もしくは栄養を考えずに適当に宅配やインスタントで済ませてしまう。

→×……一応毎日のように自炊はしている。適当にインスタントで済ますときも「栄養を考えて」完全栄養食のパンを食べている。後者はちょっと無理あるか?

昼夜逆転や1日中寝ているなど、生活のリズムが乱れている。

→◯……とにかく起きられずに午前中は鉛様麻痺で固まっていることが少なくない。休日はすぐに昼夜逆転する。睡眠薬を飲んでも眠れない日も多い。この頃は明け方に中途覚醒する。乱れている。

掃除らしい掃除を最後にしたのがいつか思い出せない。

→◯……返す言葉もございません。

 

……結果は、「注意が必要」。しかも、ここ最近増えてきたら気をつけろと。まだそこまでではない、ようだ。

 

これ以上セルフ・ネグレクト傾向を悪化させないために

というわけで、まだおれはセルフ・ネグレクト傾向にある、くらいのようだ。しかし、加齢や病気の悪化によってますます悪くなっていく可能性はある。

 

たとえばゴミだって、日々の生活で出るゴミは捨てているが、「もうゴミではないのか?」というような服や服や靴や服や本や本を溜め込んでいってしまっている。

ちょくちょく思い切って捨ててはいるが。さらにどうでもよくなって、ゴミを捨てる間隔ができてしまなわないとも限らない。

 

シャワーや歯磨き、身だしなみ。このあたりはどうだろうか。

自分自身で強迫性を感じている。潔癖症とまではいかないが。軽く病的なこだわりというか。悪くない習慣なので悪くないこだわりだ。これが治ってしまう(?)かどうかは運次第だ。

 

掃除については、もうこれは生まれ持ったものだから……、いまさら断捨離とかできないよね。どっかにネゲントロピー落ちてねえかな。え、落ちてるようなものではない?

 

とはいえ、現状を維持していくと、ものを買った分だけものが増えていって手に負えなくなる。もうなっているかもしれない。やっぱり捨てるか。とりあえず、寒いのが終わったら、冬物を思い切って処分してみよう。それだけはやってみよう。

 

と、ここまで読んで「自分には関係ないな」と思ったあなた。健常者がいつ障害者になるかなんてわかりはしない。日々の過労で気づいたらゴミが溜まっているかもしれない。疲労が重なって心が折れる日がくるかもしれない。気をつけたほうがいい。

 

でも、セルフ・ネグレクトってそんなに悪いのか?

とか書いておいてなんだけど、セルフ・ネグレクト状態ってそんなに悪いことなのかね。

ミルの他者危害原則でもないけれど、はっきりいって自堕落は楽だ。楽なことをやってこうなっている。もちろん、ゴミ屋敷化して周辺住民や家主に迷惑をかけるのは危害といえるだろう。

 

しかし、たとえば自らの身体のケアを行わないで、大きな病気になって国の医療費の負担になるのはどうだろう。それを危害と言えるのかどうかはわからない。国家による健康の強制はパターナリズムかどうか。考えてみてもいいだろう。

 

いや、そんなことを考えるまえにヨレヨレのヒートテックを捨てろ、ジャガイモを拾え。それが正しいには違いあるまい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :

フリーランスのライター。

なんだか自宅でパソコン1台でマイペースに稼いでるイメージがあるだろう。

 

実際はそこまで気楽な稼業でもないが、確かに、毎日決まった満員電車に乗り、自分の体内時計を無視することを強いられ、余計な電話を取り、オフィスではなんとなく笑顔でいなければならない、そんな世界とは違う。

 

特に余計な電話、余計な人間関係はかなり削がれてコンパクトになる。

自分あての電話しかかかってこないし、居住地に関係なく仕事をしていると連絡のメインはチャットツールである。

 

わたしは比較的穏やかな性格、というか「イラッとしたり怒ったりするエネルギーがもったいない」という考えの持ち主だが、それでもわたしをかなり強くイラつかせる人が時々いる。

直接会話していなくてもストレスになるのだから、オフィスでこれらの人々が隣に座っていた日にはたまらないだろう。心から同情する。

 

わたしなりのライター観

納品した原稿の修正作業。

この仕事をしていればよくあることだ。

 

なんだかんだいって、私は「自分のブログ」を書いてお金をいただいているのではない。

クライアントさんの意図を反映し、クライアントさんのためになるようなものを書いてこそ「仕事」になるのである。

 

この点を勘違いしておられる方もたまにお見受けするが、自分が書くものは「商品」である、ということが分かっていなければこの仕事で食っていくなんて論外だ。

 

もちろん、ポリシーがないわけではない。

わたしの場合は、そのクライアントさんと読者さんの「架け橋」になりたいというのが第一だ。

 

自分が書いたものを読んでくださった人がほんの少しでも「おもしろかった」「ためになった」と思ってくだされば、それがクライアントさんを利することである。

よって書くにあたっても一定の枠組みはある。

 

しかし、マスコミ時代に比べればこの世界は表現の自由度がそうとう高い。

なのでクライアントさんの業界問わず、わたし個人の持論を展開する余白を頂いているということはライター冥利に尽きる。

「量産型」ではない仕事になってくればこの世界は楽しい。

 

ただ、持論が行き過ぎてしまうこともあるだろう。

繰り返すが、掲載先は自分個人のブログではない。

だから、ある程度の修正や加筆を求められることじたいには何も感じない。決まった枠の中で要望に応えるものを作ることが仕事だからである。

 

しかし、そういった立場関係を差し置いても、「それ必要ですかね?」と思うことがいくつかあった。

 

意図を理解できない修正

Googleドキュメントを頻繁に使う人ならわかるだろうが、文章編集にあたって「提案モード」がある。

これを使うと、下の文章に別色で打ち消し線が引かれ、提案者の文章がその色で表記される。

 

認識の違いやトーンのずれがあれば、それを修正するのは仕事として当然のことである。

しかし、とりあえず目を閉じて10秒、心を鎮めてからでしか作業に取りかかれない、あるいは後回しにしてしまったことが何度かある。

 

打ち消し線と上書きで画面がカラフルになりすぎて、見るだけでもクラクラするような無惨な姿になって戻ってきたのである。

 

なぜこんなにカラフルになるのか?

一例を挙げると、文章の意味もトーンも全く変わらないレベルの修正を求められた場合だ。

 

正直、わたしはマスコミ時代からすればもう20年以上文章に携わっている。そして文章についてひとつの考え方を持っている。

 

それは、活字であっても「音読したときに息切れするような文章になっていないか」ということである。

テレビ出身という影響もあるだろう。

 

テレビニュースの原稿はアナウンサーが読み上げるが、新聞とテレビの大きな違いは「巻き戻しがきかない」ことである。

 

よって、耳で聞いて一発で理解できる文章を書かなければならない。新聞のように、ちょっと前から読み返す、といったことができないのだ。

わたしはこの長い経験から、ひとつの仮説にたどり着いている。

 

活字といえども、人は文章を頭の中で「音読」して理解している部分があるのではないか?

ということである。

 

小説家は時に、その原理を利用して、あえて息継ぎができない長い一文を使う演出をしている。ヘンリー・ミラーや村上龍にわたしはその一端を感じていた。

ただ、私が仕事として扱っているのは小説ではない。物事をわかりやすく伝えるための文章である。

そんな意識を持っているのに、しかもそれを変更したところで全く文意は変わらないのに、極論をいえばいわゆる「てにをは」を何十か所と訂正されたことがあった。

 

申し訳ないがわたしは、漠然と文章を書いているわけではない。音読ということまで自分なりに考えて、句読点の場所までそれなりに考えている。

 

そんなものは下請けの自己満足と思われてもわたしは立場上何も言えないが、それにしたって文章の意味が変わらない修正とは何なんだろう。

あるいは、漢字をひらがなに修正したり、ひらがなを漢字に修正したり。

表記上問題のないものを他の漢字に差し替えたり。

 

「広辞苑をもとに修正しました」と言われればさすがに頭を下げるが、そうでもないのだ。

なにか、守らなければクビにでもなる、社内独自の国語辞書でもあるのか?と言わんばかりである。

 

だったらその辞書ごと最初に寄越してくれ、いや待て、ひとつの企業にしか通用しない辞書を読んでいる暇はない気もする(それは報酬によりますよ、というのはどのフリーランスだってそうだけれど)。

それこそ生産性というやつだ。わたしたちだって必死なのである。

 

失礼を承知で言えば

正直、めちゃくちゃ失礼なのを承知で言えば、そんな修正箇所を血眼で探す、それって「ブルシットジョブ」なんじゃないだろうか。

その作業がなくても、何のためにこのコラムを掲載するかの意図は全く変わらない。内容も伝えたいことも変わらない。トーンも変わらない。

 

「なんかようわからんけど、まあそうおっしゃるのなら仰せのままに」

そんなモチベーションの書き手を求めているのなら、私は口を挟む立場にはない。

しかし自分なりに、それなりに長い経験から得た技術を駆使しているつもりだ。なのに、根拠のわからない形、それも文字単位で修正されてしまうと正直、報われない気持ちになってしまう。

 

まあ、そんなことは個人的な感情の域を出ないのだが、純粋な興味が湧いてしまう。

このやりとりを見ている上司の方っていらっしゃるのだろうか?見て何を思うのだろうか?

ということである。

 

余計なお節介だと言われればそれまでの話だが。

 

なまこを獲りにいこうぜ!

ここまでに書いたような話を、少し前に友人と酒の肴にしていた。

それってどこの会社にもあって、みんな思ってることだよね、という結論になった。

 

そんなときに私がふと思い出したのは、「なまこ理論」である。

京都大学の酒井敏教授がだいぶ前から提唱している話だ。

例えば、10人でお米を作っていたとしましょう。これを一生懸命効率化して5人で作れるようになった。5人で作れるようになったこと自体は素晴らしいことですが、問題は余った5人も一生懸命米を作ると、20人分できちゃう。余ってしまうから売れない。もっと安くしないと売れないので、どんどん値下げをしていきます。そうするとまた売れなくなってくるので、もっと効率化して3人で作るようになると。これはもう悪循環です。
(出所:https://ocw.kyoto-u.ac.jp/omorotalk02/ )

では、どうするか。

そもそも余った5人が米を作るからいけないので、余った5人は米なんて作らず、海にでも遊びに行って、なまこでも取ってこい。あれが食えることを発見した人は偉いんでしょ。それでなまこを取ってきてですね、真面目に米を作っている人に、お米だけだと寂しいですよねと、これうまいんですよと言って高い金で、高い金でっていうのがポイントなんだけども、売りつけて、そのお金でお米を買って、初めて経済が回るわけなんですよ。だから米を作ってはいけない。
(出所:https://ocw.kyoto-u.ac.jp/omorotalk02/ )

わたしはなまこが大好きだ。コリコリした食感は酒のアテに最高である。

ポン酢にもみじおろし。少し海臭くて、でもそれも愛おしい。

居酒屋のメニューで見かけたら必ず注文する。

 

この至福は、あんなグロテスクな見た目のものを食べてみようと思った人のおかげだ。

多少割高でもこの幸せには負ける。これが付加価値というやつだ。

その分酒も進む。好循環だ。

 

さて、一緒に飲んでいた友人にこの「なまこ理論」を紹介したところ、

「それだ!わかりやすい!俺もその話使うわ!」

と、かなり納得していた。

彼のモヤモヤを一瞬で解消したのである。

 

そうなのだ。そういうことなのだ。だからわたしはこの理論が大好きだ。

 

AIに怯えるのではなくて

なお、生成AI時代にはもっとこの傾向が強くなるんじゃないかと思っている。

同じことができる人材がたくさんいたとしても、AIで効率が良くなれば、結果、人間の給料が下がる。

そんな悪循環を打破するには、なまこを獲りにいく姿勢が必要だ。

 

では、さて、現代における「なまこ」とはどんなものだろう。

一見グロテスクな見た目をしているのに、しかしびっくりするほど美味しいもの。

安売りになっているものとセットにすることで、付加価値を生み出すもの。

なお「セットにする」というのは重要なことだと思う。既存のものを全部捨てるのはやりすぎだ。

 

次世代のなまこ。

わたしにもそれが何かはわからないが、少なくとも「食わず嫌い」はいつまでも続けていてはいけないということだとは思うし、なまこは閉鎖空間には見つからないことだろう。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

Photo:

かんじんなことは 目に見えないんだよ (サン=テグジュペリ)

 

経済産業省の産業審議会資料によると、2010年~2020年の日米の経済成長の差は、GAFAMの大きな成長にあると指摘されています[1]。そして、ヤフー株式会社の安宅CSOは、GAFAMを「AI ×データ活用するプラットフォームを持つ会社」と位置付けています。

このデータ活用をするプラットフォーム、つまりデジタルプラットフォームは、テクノベート(Technology×Innovation)時代のビジネスの成功における重要な要素となってきています。今回は、このデジタルプラットフォームについてビジネスパーソンが理解しておきたい基本とその導入について考えます。

 

デジタルプラットフォームとは何か

デジタルプラットフォームとは、コンピューターを用いた「場」であり、多くの個人や会社がインターネットなどで利活用するもの程度と、実務上は理解しておけば良いでしょう。[2]

 

基本的な理解のために、まずは、コンピューターの基本的な、情報の流れをおさらいします。コンピューターには、データのインプットとなる収集する、収集したデータを管理・分析・処理する、そしてデータをユーザーが使いやすいようにアウトプットするという大きく3つの役割があります。

私たちが毎日のように使うパソコン上の文書作成ソフトをイメージしましょう。キーボードや音声で入力します。それを、コンピューターが処理して、かな漢字変換を行います。

アウトプットは、指定によって変えることができます。例えば、文字を大きくしたり、紙に印刷したレイアウトでみたり、スマートフォンで見るように自動調整したり、です。

 

デジタルプラットフォームは、このデータの収集、管理・分析・処理、アウトプットを個人の中で完結するのではなく、インターネットなどを用いて個人間や企業内外、グローバルに大規模に行うことができます

 

例えば、企業内で行うものであれば、経費管理システムがあります。社員としてみなさんが使った会社経費(電車代や接待交際費など)を入力します。入力された情報は、経理部に集約され、デジタルプラットフォームを通じ情報が処理されます。処理される際、利用者に応じてアウトプットが変化します。例えば、利用した社員に1円単位で支払処理が行われ、明細に反映されます。支払い業務担当者は、金融機関に振込依頼できるように情報を加工します。会社の経営者は、経費に異常な動きが無いか確認していますが、この際は、各人がいくら使ったかという細かい情報よりも、会社全体で合算した上で、分析しやすいように売上高に対する比率や前年同時期の比較を行います。

 

デジタルプラットフォームがなぜビジネスに成功をもたらすか?

①取引コストの最適化

効果的なデジタルプラットフォームでは、データ処理にかかる時間を短縮すると同時に、価値を感じられる使いやすい形でアウトプットします。経済学でいう「取引コスト[3]の最適化」が行われるのです。

すると、サービスやプロダクトを探して、契約して、価値を感じることがスムーズに行われるようになります。例えば、上記の経費管理システムであれば、支払い担当者が銀行への支払い指示をひとつひとつ手入力すると、時間も、手間もかかるし、ミスにつながります。社内だけではなく、銀行ともデータ連携することで、取引がスムーズになります。

 

先ほどの事例のように、デジタルプラットフォームの接続先が、社内や取引先を超えて、国家的な標準が作られることで、取引コストが最小化し、多くの人たちが便利になります。例えば、エストニアで2001年に採用された行政サービスを提供するデジタルプラットフォームX-Roadは、公務員の労働時間を毎年1345年分削減しているとされています。このシステムは、エストニアを超えて20か国で採用され、52,000の団体と繋がり、3,000以上のサービスが展開されています。[4]日本でも市川市が2019年6月に採用しています。[5]

②新規事業創出の基盤になる

デジタルプラットフォームは、コスト削減のみならず、新規事業創出の重要な基盤となります。例えば、金融包摂型Fintechサービスを提供するGlobal Mobility Serviceというスタートアップがあります。同社はデジタルプラットフォームを構築しており、「車両データ(走行状況、速度等)と、金融機関と連携して取得した金融データ(支払い状況等)を分析することで、ドライバーの信用力を可視化し、従来の与信審査には通過できなかった方々へ、ローンやリースなどの金融サービスを活用する機会を創出」(同社HP)しています。もう少し具体的に同事業の特徴を整理してみれば、支払の延滞や契約条項の違反に繋がる情報をデジタルプラットフォーム上で管理し、場合によっては同社の装置を取り付けた車やバイクは外部から遠隔で停止させることが可能という点にあります。

結果として、デジタルプラットフォームが通常では信用力が足りないドライバーへの信用補完をすることで、事業としての新たな価値を創造していると言えるでしょう。[6]

 

ちなみに、デジタルプラットフォームがもたらす顧客情報の活用度合いでも、日米では大きな差が出ています。例えば、フェイスブックやGoogleが、顧客の行動履歴を用いて、広告を提供したり、AmazonやNetflixがユーザーの次に欲しそうな商品やサービスを提案したりするのは身近な事例です。

『DX白書2023』(独立行政法人情報処理推進機構) によると、日本では顧客への価値提供に関する自社のDX関連取組みについて「評価対象外」とする会社が3割半ば~7割程度であり、8割超の企業が何らかの評価をしている米国とは対照的になっています。

 

デジタルプラットフォームを日本でも前向きに活用していく

以上2点の要素をはじめとして、デジタルプラットフォームは、テクノベート時代の企業の競争力を左右する大きなポイントとなっています。この導入にはトップの関与と同時に、デジタルプラットフォームの導入の必要性を理解して協力するミドルや現場スタッフが欠かせません

 

一方で、デジタルプラットフォームは目に見えない存在であり、また、優れたデザインであればあるほど、ユーザーにデジタルプラットフォームの存在を意識させることが少なくなります。現に私たちは、GAFAMのデジタルプラットフォームが何かを理解しなくても、容易にそのサービスを利用することが可能です。

 

もちろんセキュリティやエラーの問題はあり、デジタルプラットフォームも万全ではありません。事故が起こった際の責任の所在が曖昧になるリスクもあり、環境整備が急がれます。一方で、人が行った時と比較してエラーの発生度合いを考えると、コンピューター技術の成長とデータ蓄積で次第に信頼度は増してきています。今まで人で行ったことで起きていた無意識に抱えているリスクとデジタルで行うリスクを比較して考えることの重要性は、首長などによっても既に提起され始めています[7]

 

テクノベート時代に生きるビジネスパーソンはデジタルプラットフォームの重要性や必要性とそのリスクを理解し、積極的に学習し、その導入を全社どの立場からも前向きに関与する必要性があると言えるでしょう。

 

<参考文献>

[1] 産業構造審議会経済産業政策新機軸部会 2022年2月26日

[2] 特定デジタルプラットフォームの透明性及び公正性の向上に関する法律 第2条を基にGLOBISで作成

[3] https://globis.jp/article/2034

[4]https://e-estonia.com/solutions/interoperability-services/x-road/

[5] https://planetway.com/pressreleases/Planetway%20news/

[6] https://www.global-mobility-service.com/service/business.html

[7] G1関西2022「星野リゾート・星野佳路氏、熊谷俊人千葉県知事、柳川範之東大教授が語る、リーダーシップと説明力」及び、ツイッター

 

(執筆:髙原 康次

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Google DeepMind

ある意味衝撃的なコラム

少し前になるが、新聞に衝撃的なコラムが掲載された。

全国紙の文化欄で、書いたのはベテランの小説家だった。内容は、京都アニメーション事件とその被告について。

 

まとめると、

  • この被告には小説やアニメに関わる資格などこれっぽちもなく、
  • 言葉のセンスも整合性も想像力もない。
  • 人の心を動かす物語など書けるはずがない。

と小説家は犯罪者を罵倒していた。

 

小説家の言うことは正しい。いかなる理由があれ、犯罪者は犯罪者であり、身勝手な理由で大量殺人を犯した被告なら同情の余地など少しもない。

 

ただ言えるのは、犯罪者を非難するのは簡単で、この内容の常識的なコラムならテレビコメンテーターでも書ける。

正しすぎるのだ。被害者や被害者の遺族の側に立って犯罪者と犯罪を糾弾するのは社会的に当然のことで、その犯罪者が書いたアニメだか小説だかを読みたくなんかないに決まっている。言わなくてもすでにみんなが思っている。

 

私にとって、小説家がこの正しすぎるコラムを書いたことがなにより衝撃だった。

誤解のないように念押しすると、私は別に犯罪者を擁護しようというのではない。

 

この事件に限らず、犯罪者も社会の一部であり、なんの因果もなく犯罪が起きることはない。

そして場合によっては、ある事件の犯人が自分だったかもしれないと想像することはあるし、想像しなくてはならない。

そして少なくとも小説家であるならば、その程度の想像力はあるはずだ。

 

想像力があれば、むしろこの犯罪を生んだ私たちへの厳しい問いかけでも良かったはずだ。ひたすら犯罪者を非難するだけでは、地下鉄サリン事件の時に「とにかく早く死刑にしてしまえ」と迫ったジャーナリストたちと変わらない。

言葉のセンスも想像力もないのは、小説家のほうではないのか。人の心を動かす物語など書けるはずがない、とは、自分のことを言っているのではないか。

 

常識的な小説家

小説家は一般的な世間や時代の流れに対して少しでも違った角度の視線がないと成り立たない。サッカーで言えばディフェンスの裏へ抜けるような攻撃で、ある小説家は「月の裏側」と表現したこともある。

犯罪者の側に立ち、犯罪者から見た世界を想像しなくてはならない。

 

小説家が常識的になり大人しくなると、小説はつまらなくなっていく。

中上健次は1990年、連続殺人犯の永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している。

 

小説家は政治家や評論家や法律家やジャーナリストがいえないことを小説に書かなければ意味がない。

犯罪者や社会的な異物の視点からしか見えない世界を、徹底的に個人の低い目線で物語へ組織していく作業こそ小説家の仕事なのだ。とこのように小説とはこうだ、といえるものでもないのは百も承知で言わなくてはならないほど事態は深刻なのである。

 

ただ、新聞ではなくても大手出版社の雑誌などでは、コラムも小説もポリコレ的にかコンプラ的にか知らないが慎重になっていることは確かだ。小説家が常識的になってしまったのではなく、常識的な小説家しか発表できなくなってしまったという一面がある。

 

たとえば犯罪を非難しない内容なら「犯罪者を擁護している」と取られかねないからだという。これと同じで、「女性蔑視と取られかねない」「人種差別と取られかねない」「障害者差別と取られかねない」などなど、連鎖しているのだ。

 

さらに言えば、「女性蔑視と取られかねない」「人種差別と取られかねない」「障害者差別と取られかねない」内容であっても、書くのが女性だったり外国人だったり障害者だったり、つまり当事者であればいくらか許されているという奇妙な事態まで発生している。

 

変えるべきは言葉ではなくまず実態

出版社やマスメディアの自主規制が小説家を常識的にしてしまっていることは、しかし出版社やマスメディア自身もよくわかっている。

 

よく言葉狩りといわれるが、問題は言葉狩りではなく、言葉の先にある文化まで狩られてしまうことにある。

たとえば差別的とされる言葉について。世界には様々な言語があり、国ごと・文化ごとに言語があり、それぞれの言語や言葉に体系があり、歴史がある。

 

差別的であるという理由だけで多様性に富んだ言語の世界から言葉を抹殺していき、しかもそれが正しいとされどんどん進行すればどうなるかはわかりきっている。

差別用語を使うことはコンプラやポリコレに反することから控えられるのが当然のようになっており、私も原則的には賛成する。

 

しかしたとえば熊が人間にとって危険だという理由で大量に殺害してしまえば、森の生態系は崩れて植物にも影響がある。生物の多様性を脅かす。

言葉と言語の多様性を破壊し、使うべきとされる言葉を限定し、言語の統一化が進めば、言語体系が崩れ、その地域、その国の文化や歴史が破壊されるのと同じことなのだ。

 

たとえばジェンダー視点から「女優」とか「奥さん」とか「嫁」といった言葉が不適切だとして、言い換えが進んでいる。

私自身も小説で関西弁の「嫁はん」をセリフで使ったら校閲からチェックが入ることがある。「妻」なら問題ないというのだが、関西人は自分の妻のことを間違っても「うちの妻は~」とは言わない。言葉狩りは単にその言葉だけを消滅させるだけでなく、標準語を起点にしている以上、結果的に方言を圧迫する機能があるのだ。

 

そもそも関西弁が方言で、関東弁が標準であるとはせいぜいこの100年くらいのことで、歴史的にそんな事実はない。1000年以上京都が都で、関東弁は「お国ことば」だった。

ある人にとって「不愉快だから」とか「差別なのでは」といった理由であらゆる言葉や表現を規制できるなら、どんな言葉や表現でも誰かを不愉快にしたり差別する可能性はあるため、ほとんどの表現ができなくなっていく。

 

いずれにしても、本来差別解消は人間の生理的な拒否感や嫌悪感や誤解から解消しなくてはならない。人の中にある差別的な心情や現実や実態という本来取り掛かるべき本質部分をすっ飛ばして、言葉を抹消してなくなったとするのはなんら本質ではなく、なくなった気がしているだけ、私たちが政治を批判する時に言う「やってる感」と同じだ。

 

しかも私たちは少なくとも一度同じことを経験している。

80年前の言論弾圧や適性語の言い換えといった表現規制は、今となっては戦争と共に「なぜあんなことをしてしまったのだろう」という反省対象になっている。

 

「差別を助長する・子供の教育に悪い・悪い風潮を助長する・不適切ではないか」といった規制が、いつのまにか自由な表現や言論を封じていき、芸術分野や小説への弾圧へ向かえば、かつて私たちが戦争に巻き込まれていったいきさつと驚くほど重なっている。

 

特に日本人は最近で言うとコロナの自粛警察などでもわかるとおり、どっと一方向へ流れる習性が強い。

やはり半世紀後か来世紀にならなければ、反省の機会は訪れないのだろうか。

 

「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」

差別的とされる言葉に対する抗議は、主に社会的弱者や被差別サイドから告発される形でスタートする。

かつては差別されがちなマイノリティの立場での抵抗的で告白的なテーマの文学はそれなりの魅力があった。

 

ところが今でいうLGBTQや多言語・人種系、あるいはジェンダー・障害者など今まで被差別的とされた分野がマイノリティでなくなった今、告白的・抵抗的にそれをテーマとしたところで文学にはならない。

 

マイノリティが表面上はどんどん受け入れられていく社会は、それだけ見ると寛容な社会に見える。

しかし言い換えれば異物をなくして分類可能にする「みんな同じで、みんな良い」緩やかな管理社会。一方でまだ容認されていないとされるマイノリティなら攻撃対象となる。

 

2024年現在、LGBTQやジェンダー関係の小説は無数に書かれており、障害者の小説が賞をとったりもしている。書きやすくなったので、それが増えるのは自然ともいえる。

しかし、小説本来の意義やおもしろさでいえば、書きづらい、言いづらいことを書くからこそ切実で読んだ人に刺さる。

 

フランツ・カフカに、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という言葉がある。

犯罪や差別は憎い。筆舌に尽くしがたい憤りを覚える。しかし怒りに任せて叩きまくったり死刑にするのが効果的なのか。多くの被害者や遺族が言う、「もう2度とこんなことが起きてほしくない」、そのためにはまず加害者の側に立ち、加害者から見た世界を描写することからはじめるしかないだろう。

 

 

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【著者プロフィール】

かのまお

ライター・作家。ライターとしては3年、歴史系や宗教、旅行系や建築などの記事を手がける。作家は別名義、新人賞受賞してから16年。芥川賞ノミネート歴あり。

Photo by:Super Snapper

学生にとって三月というのは、ただ単に慌ただしいだけでなく"進路"という名の運命が決まる月でもある。

 

思い返せばン十年前の今頃、わたしはとんでもない親不孝と周囲への裏切りを敢行した。

だがそれは、同時に自分の中でのけじめであり、むしろゴールを駆け抜けられたことに満足していた。

 

果たして、それが正解だったのかどうかは分からないが、後悔はしていないと断言できる。

 

授業中の居眠りがきっかけで

「なんで寝てるのがバレるか、分かる?」

座席が前後の友人から、突如、こんな質問を投げかけられた。わたしはなぜか、授業中に居眠りをするとすぐに気付かれるのだ。

 

そして正直なところ、バレる理由が分からなかった。なんせわたしは、モロにうつ伏せるわけでもなく、手元の教科書に釘付けっぽい姿勢を保ちながら、さり気なく眠っていたのだから。

それなのに、意識が遠のいた頃に決まって起こされるので、どうせ目を付けられているのだろう・・・くらいに思っていたわけだ。

 

ところが、彼女いわく「わたしの居眠りがバレるのは、それなりの理由がある」とのこと。まさか、いびきでもかいているのか——。

「あのね、アナタが寝ると机がカタカタ鳴るの。寝るとピアノを弾き出すから、バレるんだよ」

 

それは衝撃的な告白だった。たしかに、無意識で指が動く感覚は自分でも把握していた。とはいえ、寝ている間は自分をコントロールできないため、睡眠中に指を止めることなど不可能。ということは、わたしは授業中に居眠りすら許されないのか——。

 

そんなある日の昼休み、彼女は笑顔でこう告げた。

「アタシ、大学は音楽じゃないところにした。アナタを見てると、ピアノで受験する人はこうでないとダメなんだろうな・・って思い始めちゃってさ」

 

小学校の頃からピアノを続けてきた彼女は、もちろんピアノを使って大学受験をし、音楽の道へと進むものだと思っていた。

ピアニストのような演奏家ではなくても、音楽教師やピアノ講師など、ピアノに付随する職業に就くのだろうと勝手に予想していたのだ。

 

それに比べてわたしは、ピアノや音楽で生きていくつもりはなかった。なんせ、4歳から始めたピアノは親の勧めによるもので、センスや才能があるわけではなかったからだ。

それでも、気がつけば若干なりとも"武器"となっており、将来の夢も希望も特にないわたしは、その武器を使って大学受験を突破しようと考え始めたのだ。

 

音大や芸術系の大学を受験するには、ピアノだけを練習すればいいわけではない。当時はセンター試験による学力テストの他に、実技の課題曲と自由曲、音楽理論(楽典)、聴音、新曲視奏、声楽など様々な難関が待ち受けていた。

そのため、一般的な受験生と比べると、受験対策の内容が複雑かつ膨大だったことを思い出す。

 

だからこそ、音楽系の大学を受験すると決めたならば、最後までその方向性を貫くのが筋・・・というか、そうでなければカネも時間ももったいなくて、親を含む関係者に顔向けできないのである。

それなのに彼女は、「ピアノで受験することを諦めた」と言うではないか。にわかに信じられない。

 

「寝ても覚めてもピアノのことを考えている人でなければ、音楽の世界では生きていけないと思う。だからさ、アナタは絶対に受かってよ」

そう言いながら、彼女は涙をこぼした。

 

それを聞いたわたしは、返す言葉が見つからなかった。

「なんで?頑張って続けようよ!」と励ますのは簡単だが、もはや何を言っても彼女には響かない気がする。

しかも、よりによってピアノの演奏ではなく、授業中の居眠りが原因で彼女の夢を奪ったとなると、真偽のほどは別として、なにを言っても嫌味に聞こえるだろう。

 

無論、「寝ても覚めてもピアノのことばかり考えている」なんてことはなかった。

そもそもレッスンが憂鬱で、ピアノに対する情熱も執着心も持ち合わせていないのだから。

思うにきっと、わたしは夢の中でうなされていたのだ。そのプレッシャーが指に現れて、勝手に机を叩いていた、という点では「寝ても覚めてもピアノのことを考えている」というのも、あながち嘘ではないが。

 

とにかく、ピアノや音楽の才能など皆無であるにもかかわらず、ちょっとした勘違いから一人の女性の夢を奪ってしまった事実に、わたしは罪悪感を覚えた。

(せっかくここまで続けてきたのに、なんでやめちゃうんだよ……)

 

わたしの決断

それがきっかけとなったわけではないが、わたしはピアノに対して真摯に向き合う覚悟を決めた。

そして、じっくり考え抜いた末に「とあるゴール」を設定した。

 

努力家としての資質ゼロのわたしが、ピアノや声楽の練習に明け暮れることができたのは、明確なゴールがあったからだろう。

正直なところ、わたしのピアノの実力では合格困難な大学ばかりを希望していたため、自由曲を他大学の課題曲でまかなったり、その課題曲すらも山を張って一曲に絞ったりと、普通に考えれば合格など到底無理な話だった。

 

それでも、迫りくるタイムリミットに向かって全力疾走した。今となっては、あの当時を思い出したくても何も思い出せないくらい、無我夢中でピアノに没頭していたのだ。

 

 

3月のある日の午後、外出していたわたしに母から連絡があった。

「〇✕大学から大きな封筒が届いている」とのこと。さっそく中身を確認してもらうと、それは志望校の合格通知と入学手続きの案内だった。

 

なんの因果か、ピアノを辞めた例の友人と一緒にいたわたしは、とりあえず合格したことを彼女に告げた。すると彼女は、まるで自分のことのように泣いて喜んでくれた。

 

——だがわたしは、合格を知った瞬間に喜びとは別の感情に浸っていた。ようやく全てから解放されたことと、無事に終焉を迎えられたことに安堵したのである。

大袈裟ではあるが、悔いのない最後を迎えるべく人生を賭した一年間だった。そしてわたしは、心の中でこう呟いた。

(これでようやく、ピアノを辞められる……)

 

そう、わたしが決めたゴールは「志望校に合格したら、ピアノを辞める」というものだった。

つまり、ピアノを使って進学はしない・・・ということを予め決めていたのだ。

もちろん、この事実を知っている者などいない。両親をはじめ二人のピアノの先生、声楽・楽典の先生も誰一人として、わたしの"異常な決意"を知る者はいなかった。

 

というか、当たり前だ。ピアノ科に合格するべく、大勢の関係者の協力を得てここまでたどり着いたのに、合格したら辞退するなど"気がふれた"としか思えない奇行である。

それでも揺るぎない決心というか、むしろ、このゴールのためだけに全てを注いできたわけで、見事に駆け抜けたわたしはピアノ人生の幕を下ろそうとしていた。

 

その後に待ち受ける大混乱は想像に難くないが、唯一、わたしの決断に理解を示してくれたのは、高校2年の頃からピアノ指導をしてくれた夏目先生だった。

「実力不足のあなたがせっかく合格したのに、ピアノを辞めるという選択には拍子抜けしました。でも、それもまたあなたの人生ですから」

 

——こうしてわたしは、晴れてピアノとお別れしたのである。

 

 

あれからン十年経ち、わたしは再びピアノを再開した。きっかけはよく分からないが、

「誰かと競い合うような椅子取りゲームではなく、自分自身のためにピアノと向き合ってみよう」

と、急に思い立ったのだ。

 

大学受験という人生の通過地点における選択は、その後の未来を左右する可能性が大きい。それでも、その時点で選択しなかったからといって一生交わることはない・・・とも限らない。

だからこそ学生諸氏は、良くも悪くも胸を張って四月を迎えてほしいのである。

(了)

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

ライター&社労士/ブラジリアン柔術茶帯/クレー射撃スキート

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo:

「今年度から諸々の支払いを集金じゃなく振込にしてもらえて、本当に助かりましたよ。おかげさまで、すごく楽になりました」

「え〜。本当ですか?助かってるのは私の方なんですけど。集金作業って本当に手間がかかるし時間も取られるので、負担感がすごくて...」

 

「いやぁ、前の事務員さんはわざわざお店まで集金に来ていただいてたのに、こんなことを言うのは本当に申し訳ないんですけど、実はこっちとしても負担だったんですよね。
忙しくても接客中の手を止めて対応しないといけないし、集金のためにお店に現金を用意しておかないといけませんから。
その点、振込だと自分のタイミングでできますからね。アプリからの振込だと手数料もかからないですし。
請求書もデジタルにしていただいて、管理がグッと楽になりました」

 

商店街にあるヘアサロンのオーナーにシャンプーをしてもらいながら、思わず口元がゆるんだ。

地肌を流れていく温かいお湯も心地よいが、何より「助かりました」「楽になりました」という言葉が胸に沁みる。

 

「そう言ってもらえると嬉しいです。請求書や領収書を紙で発行するのは大変なんですよ。

デジタルのままメールで送付させてもらえればあっという間なのに、発行した請求書をわざわざ紙でプリントアウトして、それを各店舗まで歩いて持参していたら、その作業だけで一日が潰れてしまいます。

現金での集金をご希望の場合は、領収書も用意しないといけません。

集金に来て欲しいタイミングはお店によって異なるので、それに対応していたら、集金だけで何日もかかる仕事になってしまうんです。

あと、集めたお金を入金のために銀行まで持って行く手間だって、地味にストレスですよね」

 

「そうそう。僕なんて、もう銀行の支店には全く行かなくなりました。最後に窓口を利用したのはいつだったのか、思い出せないくらい。現金を使わないので、近頃ではATMもほとんど利用してません。おかげで時間を節約できてますよ。時間って、本当に大事ですよね。
そもそも、お店に現金を置いて置くのも怖いんです。盗難や横領の恐れがありますから。キャッシュレス化やデジタル化は、お互いにとって良いことしかないと思いますね」

 

あぁ、商店街組合の組合員が全員、このヘアサロンのオーナーみたいな人だったらどんなに助かるだろう。

せめて、理事の中に一人でも話の分かる人が居てくれたらと思うが、現実は厳しかった。商店街組合の理事会は、その場所で代々商売を営んできた街の古株たちが中心となっており、その中に自ら事業をおこした若い起業家は一人も居ない。

 

昔ながらの商売から手法も意識も脱却できないままの人たちは、変化を嫌う傾向にある。

変わろうとするより変わるまいとする方向に努力するのだ。そのため、業務のデジタル化やキャッシュレス化は進めたくても進まなかった。

 

私が商店街組合の事務局を引き継いだ際、まず着手したのは業務の大幅な効率化だ。

前任の事務員である岡田さんは、昭和世代であるため仕方がないと言えば仕方ないのだが、現代のテクノロジーとは全く無縁の人だった。

 

計算は電卓。書類は紙に手書き。お金のやり取りは対面が原則で、支払いも受け取りも現金が基本というように、いまだに数十年前と変わらないやり方で仕事を続けていたのだ。

銀行では、振込はもちろん、預け入れや引き出しですらわざわざ窓口に並んでいたのには驚かされた。

 

「窓口だと手数料が高いですし、預け入れや引き出しなんて、すぐそこのATMで済ませばいいでしょう? どうしてキャッシュカードを作らなかったんですか?」

「だって、カードなんて必要ないもの。同じことが窓口でもできるのに、どうしてわざわざ機械を使うの?
毎日のように窓口に通っていたら、係の人だって私の顔と名前を覚えてくれるし、『今日は暑いですね』なんて声もかけてくれるようになって、お話ができて楽しいのよ」

「だけど、窓口で対応してもらおうと思ったら、わざわざ支店まで出向かないといけませんし、順番を待たないといけないでしょう?そういう移動と待ち時間って、無駄じゃないですか?
もちろん手数料も窓口だとATMより余分にかかりますが、そういう目に見えるコストだけじゃなくて、双方に時間と手間という大きなコストがかかっているんですよ」

「ええ?コストってどういうこと? 人と会って、話をすることがコストになるの?」

 

ここで、私たちはお互いに相手を宇宙人だと認識する。何をコストと考えて、何を便利だと感じるかの感覚が違いすぎるのだ。

私にとっては、例え歩いて10分とかからない距離でも移動の手間と時間が惜しいし、待ち時間は無駄の極みだ。窓口の人と対面でやりとりをするのもストレスに感じる。

 

けれど、岡田さんは逆なのだろう。後期高齢者である彼女にとっては、若い頃からの習慣を変えることこそがストレスであり、機械の操作を覚えることは大きな負担(コスト)となるのである。

人は便利にお金を払う。岡田さんにとっては、機械を自分で操作するより係にお任せする方が便利なため、窓口で高い手数料を払うのだ。

 

岡田さんのような人は、決して珍しくない。商店街には銀行の支店がまだ置かれているけれど、窓口はいつも朝から高齢者たちで賑わっている。

 

「こんなに利用者が多いんだから、ここの支店が閉鎖されるなんて事にはならないよ。何と言ってもここは商店街の支店なんだし、商売に利用している人たちが多いんだから」

商店主たちは自信たっぷりにそう言うけれど、どうしてそんなに呑気でいられるのか分からない。地方では、これから住民の高齢化と人口減がものすごいスピードで進もうとしている。つまり、今までは当たり前に受けられていたサービスやインフラが無くなるのは、もはや時間の問題なのだ。

 

彼らにも危機感はあるのだろうが、対策を先延ばしにしたまま「近頃はどこもサービスが悪くなった」「求人を出しているのに、ちっとも応募がない。いい人が来ない」と文句ばかり言っている。

 

変化を嫌うのは、必ずしも高齢者とは限らない。

ヘアサロンのオーナーは40代だが、彼と同じ世代の商店主でも、私がペーパーレスやキャッシュレス、押印廃止を進めようとすると怒り出す人たちがいた。

 

「ペーパーレスだのキャッシュレスだの、誰も喜ばないことは言わない方がいいと思うね。みんな、今まで通り請求書と領収証は紙で持ってきてもらって、現金集金してもらうのがいいに決まっているだろう! そんなことを言ってたら嫌われるから、気をつけた方がいいぞ?」

「うちは取引が多いから、何でも銀行振込にしちゃうと、記帳が大変なことになるんだよ。まったく、勘弁して欲しいね」

「給料をもらってるくせに、印鑑を押す手間さえ惜しむなんて信じられない。ちゃんと働けよ」

 

そう言われて唖然とした。

けれど、デジタル化に反対する人たちが居る一方で、提案を歓迎してくれる人たちもちゃんと居るのだ。

 

「ぜひぜひ、今後はデジタルにしてください。紙と現金のやり取りがなくなれば、こちらとしても大変助かります」

「あぁ、やっとですか。今どき紙の請求書や現金集金って、古いなと思ってたんです。失礼ながら、うちの社長は『組合が現金にこだわるのは、裏で何かやましい事でもやってるんじゃないか』って、疑ってたくらいですよ」

 

と、喜びの声も上がったからこそ、私も自分の正しさを信じられたのである。もし組合員である商店主たち全員と話が通じなかったら、とっくに心が折れていただろう。

 

デジタル化推進派と反対派の違いは明確だった。数は少ないものの、デジタル化を歓迎する事業者たちの店は評判も良く、こんな時代でも業績が上向きだ。

その一方で、「今まで通り」にこだわる人たちは斜陽だった。人が足りないのはどこも同じだが、彼らの店は特に離職率が高く、普通以上に人手不足に喘いでいる。

 

その様子を見て「そりゃそうだろうよ」と、心の中で悪態をつかずにいられない。人に手間をかけさせるコストを度外視して、業務の効率化に取り組まない経営者の元に、もはや若いスタッフや有能な人材が居着くはずがないのである。

それなのに、彼らは一体いつまで安い賃金で人をこき使えた昔の意識を引きずっているのだろうか。

「昭和の亡霊と平成の夢はいいかげん忘れろよ」と言いたくなる。

 

今はもう、かつてのように「どんな仕事でもいいから働きたい人」がだぶついていた時代とは違う。経営者からの理不尽な要求に労働者が耐える必要がないのはもちろんだが、これからは業種に関わらず、省力化していかなければ現場が回らなくなっていく。

どんなに経営者や消費者が人手をかけたサービスを望んでも、サービスを請け負う側の人間が猛スピードで社会から消えているのだから。

 

私も、この先いつまでも非効率な集金サービスを続けるつもりはない。いずれ仕事自体を辞めるつもりだからだ。私が辞めた後、この仕事を引き継ぐお人好しは居ないだろう。

私の辞職が早いか反対派の閉店が早いか、果たしてどちらだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Towfiqu barbhuiya

第96回アカデミー賞受賞式において、アジア人に対する差別的な行動があったと多くの批判が集まっている。

 

1人目は、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニーJr.。

前年の受賞者である中国系ベトナム人の米俳優、キー・ホイ・クァン氏が彼にオスカー像を渡す際、目も合わさずに受け取り、ほかの俳優とのみ握手をして受賞スピーチを開始した。

 

2人目は、主演女優賞を受賞したエマ・ストーン。

前年の受賞者である中国系マレーシア人のミシェル・ヨーがオスカー像を手渡そうとしたとき、なぜかとなりのジェニファー・ローレンスに近づき、ジェニファーからエマに像を渡したかのようなかたちになった。

その後ヨー自身が、「エマとジェニファーが親友だから、ジェニファーと一緒に像をわたしたかった」という意図を説明している。

 

……なんてことがあった。

 

この出来事をきかっけに「アジア人透明人間現象」、つまりその場にいるのに空気として扱われることについて、多くの人が言及した。

 

非常にセンシティブな問題なので書こうかどうか迷ったが、10年近くドイツに住む日本人として思うところがあったので、「透明人間」として扱われたほろ苦い経験を書いていきたい。

 

ドイツの大学在学中、透明人間のように存在を無視された

日本の大学を卒業後、わたしはドイツの大学に正規学生として入学した。

専攻は政治学で、言語学や自然科学系、音楽系とはちがい、外国人(ノンネイティブ)がまったくいない分野だ。

 

1学期目、3人一組で各テーマについて発表するグループワークを課されたときのこと。

わたしはとなりに座っていた女の子2人と同じグループになった。顔は知っているが名前は知らない、くらいの仲だ。

教師が上から順番にテーマを読み上げ、希望チームがあるかを確認する。

 

うーん、どれがいいかな。

そう考えていたら、となりの女の子が「それはうちのチームがやりたいです」と挙手。

どうやら2人で話して、そのテーマを選ぶことにしたようだ。オッケー、じゃあそれをやろう。

 

授業はちょうど昼前だったので、授業後はどのグループも3人で話しながらメンザ(食堂)に向かう。

わたしも2人とランチしながら自己紹介でも、と立ち上がったが、2人は「ねぇどうする~?」と話しながら、教室を出て行ってしまった。

 

あれ……?

 

翌週の授業で、勇気を出して自分から「分担どうする?」と2人に話しかけた。すると返事は、「もう決めた」とのこと。

「わたしがここ、この子がここをやる予定だよ」

「? じゃあわたしはどこを担当するの?」

「うーん、まだ決まってないのは導入だから、そこをお願い!」

「え……うん、わかった」

 

導入は基本的に、「分担」の範囲ではない。手が空いた人や、最初のセクションを担当した人がおまけでやるものだ。

 

このグループワークで発表した内容をそのままレポートとして提出し、それで成績がつく。内容がない導入担当では、わたしはレポートが書けない。

どうしよう、みんな10分以上発表するのに、わたしだけ1分程度の導入を担当するなんて、成績が下がっちゃう。でも2人はもうそれで進めてるみたいだし、わたしのドイツ語じゃ、発表しても迷惑かもしれないし……。

 

頭を抱えたわたしは、ドイツ人の彼氏(現在の夫)に相談。

「わたし、仲間外れにされちゃって……」と、屈辱と悲しさで涙を浮かべながら話した。

 

すると彼は眉を顰め、「2人のFacebookを探そう。メッセージを書くぞ」とパソコンを起動。

「彼女の代理人として聞くが、なぜ彼女に仕事を渡さないんだ。彼女がレポートを書けないだろう。相談なくテーマと分担を決めた理由を説明してくれ」

 

2人からはすぐに返事がきて、「悪気はなかった」「彼女も同意していると思ってた」という。で、「こういう割り振りはどう?」という提案がきた。

 

しかし彼は、「いやいや、そもそも話し合ってすらいないのが問題なんだけど。君たちはお互い『どこをやりたい?』って相談して担当を決めたはずだろ。なぜ彼女には、どこを担当したいかを聞かないんだ。話にならない」とブチ切れ。

 

わたしは彼に、「その場で反論しなかったわたしも悪いし、担当をくれたからもういいよ」と伝えた。

大ごとにしたくなかったし、なによりみじめだったから。

 

でも彼は憤慨し、

「あのな、そんなのは当たり前なんだ。俺は5年近く大学にいるけど、グループワークの担当は毎回、全員の意見を聞いてから決める。そんな当たり前のことを、『してくれた』って感謝する必要はないんだよ」

と言った。

 

そうだ、なんでわたしは「弱い人間」という立場でものを考えていたんだろう。3人でやるグループワークなんだから、3人で話し合うのが当然じゃないか。「担当をくれた」なんて、そんなふうに思わなくてよかったのに。

……という出来事があった。

 

患者のわたしを無視…アジア人が「見えない」人たち

ではこの女の子2人は、意地悪だったんだろうか。

いや、たぶんそうじゃない。

わたしと話したくないとか、わたしをいじめてやろうとか、そういう意図はなかったと思う。

 

ただ単純に、彼女たちの「グループ」の頭数に、わたしが入っていなかっただけで。

 

その2人は、別の授業ではみんなでちゃんとグループワークするんだよ。輪になって話して、連絡先交換して、食堂でランチして……って、普通にさ。

 

でも彼女たちにとって、わたしは透明人間。だから相談してくれなかった。それだけ。

似たような経験は何度かあって、たとえばバセドウ病にかかって専門医を訪れたとき、症状を説明したら遮られて、ぞんざいに処方箋を渡された。

 

「これはどういう薬ですか?」と聞いたけど、医者は早口で専門用語を並べ立て、わたしと目を合わせようともしない。

「どういう意味かわからないので、スペルを書いてもらえますか。ググります」と言っても無視。

 

困ったわたしは、次の診察に夫を連れていった。すると医者は笑顔で、夫に細かく説明をし始める。患者はわたしなのに。

ああ、この人にはわたしが見えてないのね。

 

紹介してくれたホームドクターに「あの人はわたしの目を一度も見ず、夫にだけ話しかけた。そんな人に治療を任せられないから別の人を紹介してほしい」と依頼。

ドクターは驚いて、普段は予約できない有名な先生の病院に予約をねじ込んでくれた。

それはドクターの優しさはもちろん、そういう対応をしないと、差別を助長したことになってしまうと理解していたからだと思う。

 

外国人にとって「空気扱いされる」のはよくある話

アカデミー賞授賞式をきっかけに、「アジア人の透明人間化」「空気として扱われる」ことについて、多くのポストがされた。

そう、これは本当によくあることなのだ。暴力を振るわれる、暴言を吐かれるといった類のものではないから、目立たないだけで。

 

された側も、「モヤモヤするけど悪気はなかったみたいだし、強く発言しなかった自分も悪いしな。きっと気のせいだ」と、相手を責めるより自分を納得させて気持ちに折り合いをつけることが多い。

 

「なんでそんなことするの」と言っても「悪気はなかった」と言うし、「差別じゃないか」と言うと「そんなつもりはない」って言うし。ならどこかで手を打つしかないじゃん、と。

 

でも「いないように扱われる」って、すごくつらくてさ。みじめで、情けなくて、悲しくて、心がどんどん削られていくんだよ。

わたしはここにいるのに、みんなと仲良くしたいのに、なんでそんなことするの?って。

 

映画業界は「なんでもかんでもポリコレ配慮でおかしくなってる」と言われることがあるけど、それくらい本気で存在を主張しないと、いないことにされてしまう現実もあるのだ。

 

差別は自覚の有無ではなく、どう見えるかで判断される

アカデミー賞授賞式に関して、こんな記事もあった。

これを単に「無礼」「失礼」と批判するのではなく、ここだけ切り取って「人種差別だ」と断言してしまうのも短絡的なようにも思える。批判は見えたことに対して行い、憶測で罵倒することは避けたいところだ。

出典ːhttps://www.tvgroove.com/?p=130903

「失礼なのは明らかだが、こういう行動をした理由が人種であるか否かを判断できない以上、人種差別だと断言すべきではない」という趣旨である。

 

言いたいことはわかる。でも「無自覚な差別」がある以上、この主張は通用しない。

差別というのは、「状況を踏まえてどう見えるか」で判断されるものだから。

 

ロバート・ダウニーJr.が壇上の全員と握手をしなかったら、それは差別ではない。でもアジア系の俳優のみを無視したとなれば、差別に「見える」。

なぜそう判断されるかといえば、わたしや上記で紹介したポストのように、似たような経験をして「差別された」と傷ついた人がたくさんいるからだ。

 

ナチュラルにアジア人を見下している人なんて、本当にどこにでもいるからね。

レストランで奥の狭い席に通されたとか、列で順番を抜かされたとか、聞き飽きるくらい聞いたよ。やられたこともあるし。

 

なんでそうするかというと、その人たちにとってアジア人は「そう扱ってもいい存在」だから。視界に入らない、透明人間だから。

 

だから多くの人が声をあげたのだ。

「わたしたちはここにいるぞ!」と。

(ちなみに紹介した記事の筆者の方は、Xのポストで追記しています)

 

同じ人間として尊重しあおう、というだけの話

断っておきたいのは、この記事を書いた理由は、差別に対して怒りに震えているわけでも、アジア人の1人として義憤に駆られているわけでもない。

わたしの経験を紹介することで、この問題について考える機会が少しでも増えればいいな、という素朴な思いでこの記事を書いている。

 

ぶっちゃけ、アジア人に対して内心どう思ってようが、それは個人の自由だ。人の心までは縛れない。

しかし「どう見えるか」は重要で、意図がどうであろうと、「差別」と捉えかねない言動はすべきではない。それが、多様性を掲げた世界で生きる、わたしたちのルールだ。

 

もっと簡単に言えば、わたしもあなたも同じ人間としてお互いを尊重しよう、というだけ。

 

グループワークで苦い思いをしたわたしはその後、「外国人として生きていくなら強くあろう」と決めた。

わたしを無視した医者には、最後に「患者はわたしなのに無視されて不愉快でした。ほかの先生を探します」と言って退室した。

わたしは、透明人間なんかじゃないから。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :David DINTSH

『チーズはどこへ消えた?』といえば、1998年に米国で初刷が発売され、日本国内で450万部、全世界で2,800万部を超える大ベストセラーになった一冊だ。

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僅か90ページあまりという薄さ、子供にも理解できる容易さでありながら、大人にこそ刺さる奥の深さで記憶に新しい人も多いだろう。

日ハム時代の大谷翔平選手が愛読書の一つとして挙げたことでも、注目された名作だ。

 

ではこの一冊、一体何がそこまで世界の人々を魅了したのだろうか。

以下、ネタバレにならない程度で少し、要約してみたい。

 

この本では、2匹のネズミと2人の小人が主人公として描かれている。

彼らはある日、迷路の中で溢れんばかりのチーズの山を発見する。

そして毎日その場所に足を運び、お腹いっぱい食べ続け、幸せな毎日を過ごす。

 

しかしチーズを食べ続ければ、いずれ無くなるに決まっている。

そしていよいよチーズが底をついた時、真っ先にその場を離れたのは2匹のネズミだった。

もうそこに希望はないのだから、新しいチーズを求めて次の冒険に出掛けたわけだ。

 

一方、小人2人はいつまでもそこを離れようとしない。

今までここにいて幸せだったのだから、この毎日がまだ続くかもしれない。

もしかしたら、明日にはまたチーズがどこからか現れるかもしれないじゃないか。

そう考えて二人は、連日その「チーズの跡地」に足を運ぶ。

 

そんな無駄な毎日を過ごしているうちに、小人の一人はその場所に見限りをつける決心を固めた。

「もうここにチーズはないのだから、勇気を持って旅に出よう」

しかしもう一人の小人はそれに反対し、とどまり続ける道を選ぶ。

 

物語の結論はそれぞれで確認して頂ければと思うが、ネットや書評サイトにあふれる読後感の多くは、こういったものだ。

「変化する環境に適応する重要性」

「恐怖を振り払い、変化を受け入れる勇気」

確かにこれらのメッセージ性は、物語の骨格だろう。

主要通販サイトでの著作紹介でも同様のメッセージで説明されているので、その事を否定するつもりはない。

 

しかし世界中の愛読者にケンカを売るようで恐縮だが、そのような“学び”は、余りにも一義的に過ぎるということはないだろうか。

この物語は、人間が持つもっと大きな「弱点」をこそ、物語っているということはないだろうか。

 

“毒まんじゅう”

話は変わるが、かつて地方のメーカーで経営の立て直しに携わっていた時のことだ。

様々な手を尽くしたものの、経営は上向かず現預金の流出を止める事ができない。

このままでは、時間の問題で法的整理も選択肢か…というところまで、追い詰められていた。

 

この状況にやむを得ず、最後の手段として事業の部分的売却に踏み切ることを決める。

収益性は低いが安定している稼ぎ頭の事業を売却し、ベンチャー要素の高い先進事業に集中しようという考えだ。

 

この際、買い手候補として3社が手を上げ、条件交渉を経て最終的に2社がビッド(入札)にまで残ってくれた。

結果、A社が買収額として10億円を、B社は6億円を提示する。

しかしこの際、B社の6億円の内訳は、直接の買収価額は3億円で、残り3億円は存続会社に対し転換条項付き社債での融資をするという変則的なものであった。

要するに「存続会社も安く頂きます」という“毒まんじゅう”を忍ばせる、あからさまな下心である。

 

(いくらなんでも、ここまで見え透いた条件を出すか。舐められたもんだな…)

 

両社の提示価額、条件の意味を経営トップに説明すると当然のこと、A社と契約を進めることが決まる。

そして経営トップ同士で口頭合意したその帰り道、B社に断りの電話を入れるのだが、ここからまさかの流れが始まることになる。

断りを入れたB社の社長が経営トップに面談を申し入れ、追加の条件提示をしてきたのだ。

そしてその条件というのが、要旨以下のものだった。

 

(1)存続会社に対し、毎月黒字が出る十分な売上を流す

(2)次の社長に、経営トップの息子を就任させる

 

この鼻薬を嗅がされた経営トップは、一瞬で翻意してしまう。

そして私を呼び出すと、こんな事を告げた。

 

「すまん桃ちゃん!売却先はやはりB社にするんで、A社に断りを入れてくれ!」

「社長、何言ってるんですか!すでにA社とは経営トップ同士で合意してるのに、通るわけ無いでしょう!」

「そこをなんとかするのがキミの仕事やろう、頼む」

「社長、そもそもそんな口頭での約束、本当に履行などされるわけないでしょう。せめて契約書に巻いてから決めるべきです」

「桃ちゃん、キミは仕事はできるかもしれんけど、人を疑い過ぎのところがあるぞ。俺はB社の社長を信じたんや」

「信じられるのであれば、契約書にするくらいすぐでしょう。なぜ拒むんですか」

「もうええ、もう決めたんや、これは決定事項や!」

「…」

 

こうして私は本当に、一度契約に合意したA社にその破棄を申し入れるため、一人で東京まで行くことになった。

いうまでもなく5分ほどで叩き出されるのだが、訴えられなかっただけまだマシである。

もちろん主要株主にもお詫び行脚に回るのだが、こんな形での主要事業の売却など誰からも理解を得られず、法人としても個人としても致命的に信用を失った。

 

こうしてB社に事業の売却を完了させると、程なくして私は取締役を辞任し、同社を去った。

言うまでもないことだがその後、“毎月黒字が出る十分な売上”などという口約束は1度も履行されず、さらに「毒まんじゅう」も行使され、同社はB社の100%子会社として吸収される。

わかり切っていたことであり、何の驚きもない元部下からの報告だった。

 

私はもういい年のオッサンなので、ビジネスパーソンとして経営者として悔しい思いをしたことなど、数えきれない。

理不尽な交渉や筋の通らない要求も、トータルで利益が出るなら条件次第で、笑顔で握手することも余裕だ。

しかしながらこの時の記憶だけは、今でも慣れることができない。

 

どうすればあの時、No.2としての職責を果たし、社長を止めることができたのか。

なぜ、あんな見え透いた毒まんじゅうを食わされることすら、阻止できなかったのか。

きっと死ぬ瞬間まで、あの時の申し訳無さと無力感を背負いながら、生きていくのだと思っている。

 

絶望という希望

話は冒頭の、『チーズはどこへ消えた?』についてだ。

「変化する環境に適応する重要性」

「恐怖を振り払い、変化を受け入れる勇気」

なぜこのような理解を、一義的に過ぎると考えているのか。

 

繰り返すが、このような理解は物語の骨格であり、何も間違っていない。

しかしそれは、文字を追っていけば自然に流れ込んでくるメッセージであり、いわば目に見える情報だ。

 

その一方で、もはやチーズなどないのに、そこに留まり続けることを決める人の心理は、何を表しているのか。

「偽物の希望ほど、タチの悪いものはない」

人が持つ、そんな心の弱さを描写しているのではないだろうか。

 

想像してほしいのだがある日、突然解雇され、預貯金も底をついた時、それはつまりチーズを食い尽くした状態だが、その瞬間にこんな声を掛けられたらどうだろう。

「指定されたところに行って現金を受け取るだけで30万円。そんなアルバイトしませんか?」

 

子供の学費や住宅ローンの支払いがあり、目先どうしてもお金が必要であれば、そんな偽物の希望に抱きつきたくならないだろうか。

これはさすがにあからさまであっても、もっと巧妙な誘いは世の中にいくらでもあるだろう。

人は心身ともに追い詰められると、まるで砂漠のオアシスのような偽物の希望を心に作り出して、それにすがってしまうということだ。

 

そして話は、私の失敗談についてだ。

あの時、経営トップは心身ともに追い詰められ、“偽物の希望”をキレイに見せてくれたB社の社長に一瞬で抱きついてしまった。

A社との話はセカンドベストで妥協をしたと思っていたところ、B社の提案はまさに理想に思えたのだろう。

しかしそれは、「その場に留まれば、またチーズが現れるかも知れない」という、心の中に作り出した偽物の希望に過ぎない。

そんな現実は、永遠にやってこない。

 

意外に思われるかも知れないが、「絶望」というものは、時に人を強くしてくれる。

もうそこに望みはないと諦めがつき、次に何をすべきかの選択に迷いが無くなるからだ。

チーズが無くなった瞬間に迷いなく旅に出た、2匹のネズミのように。

 

人生では時に、絶望のどん底で覚悟を決めることが、希望への最初の一歩になること。

偽物の希望を心に生み出し、それにすがることこそ、終わりのない絶望に沈んでいく本当の恐怖であること。

『チーズはどこへ消えた?』の本質的なメッセージは、そこにこそあるような気がしてならない。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

私はとにかくモフモフの生き物が大好きなのですが、中でもツンデレのウサギさんにはメロメロです。
先日は空気清浄機のコードを齧られたのですが、モフモフなので許しました。
モフモフなのでなんでもありなんです。

X(旧Twitter):@momono_tinect

fecebook:桃野泰徳

運営ブログ:日本国自衛隊データベース

Photo by:Alexander Maasch

「ルーチンワークはAIに任せて、人間はクリエイティブな仕事に集中しましょう」

そんな言葉を信じていた時期が私にもありました。

 

創造性において、AIが人間にかなうわけがない。

たかがAIに、人間の感情の機微が理解できるわけがない。

AIは「意味」を理解しているわけではない。

 

ですから、少し前の私は、AIの偉大さに感心しつつも、「人間でないとできない仕事」の存在を信じていました。

 

しかし、ChatGPTの登場から約1年半。

生成AIは「人間の方がクリエイティブだ」という私のプライドを、粉々にしました。

もはや私は「人間でなければできない知的仕事」の存在を、信じることができなくなりました。

 

 

少し前まで「AIは人間の知恵に追いつくことはない」と言われていました。

数学者でAI研究者の新井紀子氏は、著作「AI vs 教科書が読めない子供たち」の中で、次のような簡単な問題すら、AIには解けないと述べていました。

ネイト もうすぐ本屋だよ。あと2、3分かな。
スニール ちょっと。    *
ネイト サンキュー。よくあるんだよね。
スニール 5分前に結んでなかったっけ?
ネイト だね。今度はしっかり結んどくよ。

 

*にいれるべき文は次のうちどれでしょう。

①随分歩いたね
②もうすぐだね
③いい靴だね
④靴の紐ほどけてるよ

(注:上は日本語訳)

新井氏は、「AIは文章の意味を理解できないから、簡単な語順の問題すら解けない」と言います。

正解は④の「靴の紐ほどけてるよ」です。が、東ロボくんは②の「もうすぐだね」を選んでしまい、2016年度の英会話完成問題の正答率は4割に届きませんでした。

(中略)

英語チームが東ロボくんに学習させた英文は、最終的には150億文に上りました。
それでも、英会話完成のたかだか四択問題の正答率すら画期的に向上させることはできませんでした。

[amazonjs asin="B0791XCYQG" locale="JP" tmpl="Small" title="AI vs. 教科書が読めない子どもたち"]

これは2018年の本ですが、当時は「AIが高度な文脈を理解できるようになるなど、ありえない」とする学者が殆どだったのでしょう。

 

しかし、たった6年後。

2024年の3月においてはどうでしょう。

 

ご想像の通り生成AIはこの問題に易々と正解します。

それどころか、人間の感情など理解せずとも、言葉を紡ぐことはできるのだと証明してしまったのです。

 

いや、もしかしたら、それ以上かもしれません。

例えば、Amazonのレビューを読ませれば、ChatGPTは人の感情を、即座に、正確に判定します。

 

既にChatGPTは司法試験の一部科目で合格水準を出したとの報道もあり、その知的水準はとどまるところを知りません。

生成AIが司法試験「合格水準」 東大発新興、一部科目で
「GPT-4」ベースに独自開発

 

芥川賞を取った九段理江氏は、その受賞作「東京都同情塔」について、「全体の5%くらいは生成AIの文章をそのまま使っている」と述べ、世間を驚かせました。

文章は自然で、どこにAIが使われているのか判別することはできませんが、文中で「AIによる文筆家の代替可能性」が語られているのは著者の皮肉でしょう。

レイシストでないことを証明するのは非常に難しいが、私が他人を傷付けることなく真実を伝えるという執筆上の高等スキルを持ち合わせない三流ジャーナリストであるのは否定できない。

もし品性のある読者が、何かの間違いでこの低俗なゴシップサイトに辿り着き、心ならずも続きを読まなければならない必要に迫られている場合は、記事を丸ごとコピー&ペーストし、「腐れレイシストのクソ文を高級な文章に直して」と文章構築AIにお願いした方がいい。代替可能な売文屋から仕事を奪おうとするクソAIの正しい使い方だ。

[amazonjs asin="B0CQ7GXR6N" locale="JP" tmpl="Small" title="東京都同情塔"]

こうして私は「AIに不可能なのは肉体労働を伴う仕事だけ」と考えるようになりました。

 

「AIにできる」「AIにはできない」と言う議論は、もはや感情的なものに過ぎず、すべてのホワイトカラーの仕事は、「AIによる変化、代替可能性」を受け入れることになるのだろうと思います。

 

 

現在、「生成AIブーム」はひと段落したと言ってよいでしょう。

Gooogleトレンドの検索回数を見ても、昨年の興奮は過ぎ去ったようです。

 

しかし現在、企業においては粛々と「生成AIの活用の可能性」が模索されています。

「AIによる投資の意思決定」

「AIプロジェクトマネジャー」

「AIによる営業ロールプレイング」

「問い合わせへのAI対応」

「キャッチコピーのAI生成」

「AIによるマーケット巡回とレポーティング」

……

これらはすべて「人の代替」というよりは、人不足への対応というやむにやまれぬ事情から来ています。

そして、期待通りの成果を上げつつある領域も少なくありません。

 

現状の企業の取り組み方を見るに、みんなが「生成AIの活用」を意識しなくなるころには、すでに、生活のあらゆる領域にAIが入り込んでいる可能性はあるでしょう。

 

私は決して悲観論者ではありません。

が、少なくとも「人間だけが創造性を発揮できる」という根拠のない思い込みは辞めようと思いますし、「AIによって、自分の仕事をどのように変えなくてはならないか?」を考えざるを得ないことは確実だと思います。

 

日曜の夜 生成AI活用に関するウェビナーやります

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【著者プロフィール】

 

 

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Xu Haiwei

あれからもう、13年が過ぎた。

東日本大震災の発生時、わたしは報道局内にいた。

個人的には、TBSへの在職期間中で最も大きな災害報道の経験である。

 

そのなかで、ひとつ後悔、というか、自分の想像力の至らなさを痛感した瞬間があった。

「瓦礫」の存在である。

 

事前に震源地を知っていることの怖さ

あの日のことは、なぜか鮮明に覚えている。

石原慎太郎氏が東京都知事選への出馬を表明する記者会見を開いており、在京テレビ局はすべてそれを生中継していた。

きょうはこの話題で持ちきり。経済部の出番はなさそうだなあ、という、ゆるい空気の中、それを見ていた。

 

その最中に、緊急地震速報が鳴った。

局内には気象庁から提供される情報をリアルタイムで反映しているモニターがあり、それを見れば、震源地が宮城県沖であることはわかる。

 

そこから実測値が更新されながら、モニター画面内では、同心円が広がっていく。

その同心円の線が地図上で東京に触れた瞬間、「くるぞ」とわかって身構えたが、想像以上の揺れがやってきたのだ。

 

都内で外を歩いている人たちは「地震だ!でかい!」と思うだろう。しかし、揺れる前にどこが震源地なのかは知らないから、これがとてつもない地震だと知る由はない。

しかしわたしたちは、揺れる前から震源が遥か遠い宮城県沖であることを知っているのである。尋常ではないことがその瞬間にわかる。

 

オンエア中の番組を即中断し、報道局からの特番に切り替わる。

 

あの歴史的な出来事の第一報

このように「トタ」で始まる報道特番には当然、進行表などない。最初の数十分をしのぐためのなんとなくのテンプレートが存在するだけだ。

 

気象庁から発信された情報、自前の報道局内で24時間回している固定カメラに収録された地震発生時の様子の映像、その程度しか手持ちの情報がないまま、しかし一度開いた特番枠は中断できない。

状況によっては何時に終わるなんてことも決まっていない。

 

しかも今回は、地元の系列局も大きく被災している。

通常ならば地方局の準備が整い次第そちらにスタジオを渡すのだが、当該地域の局と連絡が取れなくなってしまったのである。

 

東京から当該地域の市役所などに電話をかけようにも、電話は繋がらない。もどかしい時間が長く続きながらも、しかし何らかの情報は更新していかなければならない。

現場は東北にもかかわらず、都内で起きたちょっとしたボヤを見つけては大騒ぎせざるを得ないのはこのためである。

 

そんな時、経済産業省記者クラブの担当記者から1本の電話を私は受けた。

のちに歴史的大惨事となる、福島第一原発についての話だった。

 

正しく対処したつもりだった

東京電力から経済産業省記者クラブにひとつの「資料投げ込み」があったのだ。

 

担当記者は「とりあえず」ということでその記者発表の紙を、私がいる本社にFAXで送ってきた。

 

内容は、ひとことでいえば

「福島第一原発で外部電源喪失、電源車が現地に向かっている」

というものだった。

 

この第一報をどう扱うか?

いくら新しい情報に困っているからと言っても、これは「とりあえず手元に止めておく」というのが通常の判断である。
中途半端な情報はパニックを引き起こす。

 

ここまでは良かったはずだった。

しかし、この後、わたしは自分の無能さを知ることになる。

 

自分が悔しくて仕方なくなった

福島第一原発で異変が起きていて、しかし修復に向かっている。

 

ほかの情報を処理しつつも、そのことは気にはかけていた。今後どのような経緯をたどるか、絶対にウォッチしておかなければならないことだからだ。

 

何かあれば続報が来るはずだ、そう思っていた。

しかしその思いはしだいに揺らいで行った。

何時間経っても「電源車に接続完了」「電源供給を開始」といった情報が入ってこないのである。

 

ずいぶんと続報が遅い。

こんなに時間がかかる理由は何かと、さまざまなことを自分の頭の中でシミュレーションした。

 

現場ではどんなことが起きうるだろうか?

 

それを可能な限り想定し、当局に質問としてぶつけることが記者の仕事でもあるはずだ。

これだけの時間が経過しても、電源車を接続できない理由を色々と考えてみた。

 

しかしこのときわたしは完全に、ひとつの可能性を見逃していたのである。

現実はこうだったのだ。
第一報の段階で「電源車が向かっている」のは事実である。

 

しかし、

「向かっているが、瓦礫のため近づけない」のもまた事実だったのである。

そうならそう早く言ってくれよ!と思うかもしれない。

 

しかし、その後の東京電力の対応を見ればみなさん想像のつくことだろう。

質問しなければ何も出てこない、あの状況だ。

 

「瓦礫で近づけない可能性もあると考えるのですが、実際どうなっているのですか?』

そう質問しなければいけなかったのである。

 

もちろん、瓦礫のことを知ったとしても「電源車が近づけない」と速報することはなかっただろう。

この非常事態でわたしたちが伝えるべきは、「視聴者が少しでも安全な行動を取れるよう、参考となる情報」である。

 

報じることで逆に混乱を引き起こす情報を、無責任に世に放つわけにはいかない。

「では周辺に住む我々は何をしたらいいのか?」という質問に答えられないような、単なる騒ぎはこのシチュエーションでは引き起こすべきではないという判断だ。

 

とはいえ、状況を正しく知っていれば、何か心構えをする材料にはなったのではないか。

なぜその可能性を想像できなかったのか。

ましてや津波が直撃していたなど、想像外の想像外だった。

 

その想像力の貧困さを、わたしは今でも悔しく思っている。

 

この場を借りて、後輩たちにひとつ言いたい。

記者の仕事というのは、記者会見を聴きながらバチバチとノートパソコンを打つことではない。

 

相手の言葉を聞き漏らさず、コンテクストを嗅ぎ取り、顔色を凝視し、いかに相手が何を隠しているか。行間から情報を得てそれを対象に投げ返し、少しずつ真実に近づいていくことである。

メモを取るだけの人間にそんな高給を払う価値があると思っているのか?

 

瓦礫の自己無限増殖

それはさておき、「瓦礫」というのは、多くのところで「無視できるもの」とされているのかもしれない。

しかし、瓦礫が瓦礫を生む恐ろしい事態が、いまこの自然界で起きている。

 

「ケスラー・シンドローム」という言葉をご存じだろうか。

宇宙科学の世界で、いまもっとも懸念されている出来事のひとつである。

 

いま、宇宙開発がかつてより身近なものになり、民間の小型ロケットが低予算で打ち上げ可能になっている。

しかし今、地球の軌道は「瓦礫」で溢れている。

運用が終わった衛星、打ち上げミッションを果たした後のロケット本体。これらはすべて「ゴミ」である。

 

かつては「ビッグ・スカイ理論」といって、宇宙のような広い3次元空間ではモノとモノが衝突する可能性は稀であるとされていた。

 

しかし似たような軌道にこれらの「ゴミ」が溢れ続けた結果、懸念されているのがこの「ケスラー・シンドローム」、言ってみれば「ゴミの無限増殖」である。

ISSが1日で地球を16周するように、宇宙ゴミもまた秒速数キロというスピードで軌道を周回している。すると、どんな小さなものでも、瓦礫同士がぶつかると、衝撃でさらに小さな瓦礫を生み出す。

 

こうして瓦礫の数が増えていくのである。瓦礫の自己増殖、これがケスラー・シンドロームである。

ひとたびこの状況に陥ると、それ以降いっさいの打ち上げをやめたとしても瓦礫の増殖は止まらないとされている。

 

ストレスを無限増殖してどうする?

さて、あの日の報道フロアにはその初期段階のようなものも見られた。

発災直後。

当該地域の系列局との連絡が断絶されてしまった。これは訓練にはない出来事だった。

 

指揮をとる編集長が苛立ちを見せ始める。

その苛立ちが、周囲に伝播する。

 

何時間後だっただろうか。翌日だっただろうか。なんとか福島の系列局が、懐中電灯でスタジオを開いたのが一番近い距離だった。

宮城と岩手の状況はわからない。

ただ、お天気カメラが捉えた悲惨な津波の映像と、自衛隊から提供される悲惨な火災の映像が送られてくるだけだ。

 

ようやく仙台、盛岡と放送体制が整っていくが、ロジが思うようにいかないこと、起きる現象が多すぎることに、だんだん苛立ち、ついに局内には怒号が飛びかうようにもなる。

 

ADさんは常に走っている。彼らの走りで床が揺れているのか余震で揺れているのか、わたしたちにもストレスになってくる。
しかし、わたしは内心思うことがあった。

「本当に全員が全力で走る必要あるんだろうか?」

「そんな大きな声出さなくても聞こえるけど?」

 

考えてみれば、これらは「ストレスの無限自己増殖」である。

議論や喧嘩で出てくる大声ではないのだから、普通に話せばいい。

ただ、「災害ハイ」「もどかしさ」で、次第に声が大きくなっていく。その心理はわからんでもない。

 

しかし、上に立つ人の声が大きくなれば、なんだか自分も緊張している風を装わなければならないような気がして、ADさんは「走らなければ」と感じてしまう。

あるいは、わたしくらいの中間層には、単なる雑音が与えられる。

上に立つ人間がストレスを現場でぶちまけることによる「ストレスの自己増殖」というのは存在するのだ。

 

そして。

中には、その余計な疲れを「きょうはがんばった」と自分を褒める要因にする人間が出てくる。

 

いや、これはポジティブシンキングの持ち主で良いことかもしれないが、満足の軸がぶれている。

「きょうはタイプミスなくメモを取れた」ことで仕事をした気になる記者を増殖させるだけだ。

 

いや、それは違うだろう?

 

TBSに入社した直後の私は、ある先輩から「なぜマスコミの社員には高い給料が支払われるのか」という話を聞いたことがある。

それは、「社会に対する責任を負う仕事であるから」だと彼は説明した。

 

その通りだと思う。

しかしマスコミに限らず、「上司に対する責任」に終始する人間も社会には多いのではなかろうか。

上司がテンパってるから自分もでかい声出さないとやる気ないみたいに見えるかな、みたいな。

 

申し訳ないが、いまの日本社会には、そのようなブルシットジョブに給料を払う余裕などない。

組織の内側にストレスを撒き散らしている余裕はないのだ。外を思え。外のコンテクストを読み取り、外に寄り添う人間たれ。

わたしはそう思う。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

Photo:Library of Congress

この記事で書きたいことは、大筋以下のようなことです。

 

・昔、新卒研修を受けていた頃、「試行錯誤」についての根本的な意識の違いを感じたことがあります

・「まず試して、失敗したら違う方法を考える」というやり方は非常に効率的な一方、精神的な必要コストがそこそこ高いです

・色んな人と仕事をする内に、世の中には「試行錯誤なんて可能な限りしたくない」「そもそも自分なりの試行錯誤のやり方を知らない」という人の方がだいぶ多いのでは?と思うようになりました

・ただ、試行錯誤が出来る出来ないでは大違いで、「試行錯誤のやり方」を身につけておくことは、仕事をする上でとても大事です

・ところで私は試行錯誤のやり方をジョイメカファイトで学びました

・「試行錯誤が苦にならない、むしろ好き」という人は、自分がとても大きなアドバンテージを持っているということを自覚していいと思います

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

私は新卒でシステム開発の会社に入りまして、入社当初は新卒研修というものを受けていました。

もっとも、今から考えると研修期間が随分短くて、教室での研修なんてほんの2~3週間で、あとはOJTって名目で現場に押し付けられちゃったんですけど。

 

研修は座学とグループワークに分かれていて、座学で最低限の知識を身に着けた後、実際にグループワークで設計と開発を行う、というような進行でした。

クラスはざっくりと「経験者」「あまり経験がない人」に大別されていまして、私は一応「ファミリーベーシック」という任天堂の名機でプログラミングの経験はあったものの、大学の専攻はガチガチの文系だったので後者にクラス分けされました。

 

この時、実際に要件が提示されて、その要件に基づいて設計・開発を行う、というようなグループワークもあったんですが、最低限のドキュメントだけ渡されて、やり方についてはほぼ生徒たちに一任する、というような形式でした。

講師の人たちから投げっぱなしにされる時間もしばしばありまして、ああ、皆さんお忙しかったんだなーと今なら分かるんですが、当時は「ええ……」と思ったものでした。

 

まあ、課題は課題なので頑張ってみんなでやろうとする訳なんですが、この時、「人によって随分やり方が違うなあ」と感じたんですよ。

 

おおざっぱに言うと、

「取り敢えず手を動かして色々試しながら、ああでもないこうでもないと検討・試行錯誤する人」と、

「まずあれこれ考えて、可能な限り正しいやり方を調べてすり合わせをして、きちんと手順を決めてから進めようとする人」

に分かれました。

 

5~6人のグループ構成だったんですが、前者は私ともう一人くらいで、他の人たちは大体後者でした。

メンバーは自然と「実行部隊と検討部隊」みたいな役割に分かれて、私を含んだ「手を動かす組」が実行部隊としてひたすら試行錯誤を繰り返す中、検討部隊がそちらのフィードバックを元にドキュメントを作ったり設計を検討したりする、みたいな動き方になりました。

 

確か言語はJava、WebサーバはApache + Tomcatで、DBはPostgreSQLで最初から構築されていて、それをもとに簡単なグループウェアとスケジュール管理機能を開発する、みたいな課題だったと思います。

 

もちろんこれ、「どっちが正しい」という話ではなくって、開発のステージ次第で前者が正しい場面もあれば後者が正しい場面もあるし、どっちかに集中しないといけない場面もそりゃあるんですよ。

 

壊していい検証環境がなければそもそもあまり試行錯誤は出来ないし、情報や経験が足りているなら、きちんと手順や構成を決めてから作り始めた方が効率的な場面もあるでしょう。一概に「開発の際は試行錯誤を重ねるべき」なんて単純な話でもないんです。

 

ただ、そもそもみんな「取り敢えず手を動かしながらあれこれ試す」ってことをあんまりやりたがらないんだなあ、というのはその時思いました。

 

多分講師陣としては、「最低限の情報だけ渡すので失敗しながら色々試してください」という感覚だったと思うんですが、そこで大体の人は手が動かないんですよ。

取り敢えずよく分からないまま作ってみて、エラーや問題が出たらそこで対処を考える、というやり方が、今から思うと一番効率が良いんですが、「そもそもエラーを出したくない」「なんか壊すと怖いから触れない」「取り敢えず、なんとか正しいやり方を調べよう」という思考になる。間違ったことは怖いからやりたくない。

 

その点私は、普通に色々試して何度も環境をぶっ壊して、臆面もなく「すいませーん、なんか壊れました」って講師の人を呼んでは周囲から「大丈夫かこいつ」って目で見られたりもしていたので、随分メンバーを不安にさせてしまったと思うんですが、まあ課題については滞りなく完成して、お褒めの言葉もいただきました。ついでに「壊し屋」という幾分不名誉なあだ名も頂戴しましたが、まあ今から考えるといい思い出です。

 

その後、色々あって私は管理側の業務にも携わるようになり、自分が新卒の方々を教えたり研修メニューを考えたりする立場にもなったんですが、その経験を通して、

「むしろ、「試行錯誤が苦にならない」って人の方がずっと希少なんじゃないか?」

と思うようになりました。

 

私が新卒の時は、5,6人のメンバーの中に私を含めて二人「試行錯誤から始める人」がいたわけなんですが、それ実は相当幸運な比率で、見る側からすると20~30人の中に一人いればいい方。大体の人は事前に用意した教材の通り、用意された手順をなぞることしかしないし、「色々試して、なんなら環境ごと壊してもらってもいいですよ」「何度もエラーを出してみて、その原因を解明しようとする方が勉強になりますよ」ということを一生懸命伝えて、ようやく数人が手を動かし始めてくれる、ということが殆どなんです。

 

改めて考えてみると、「試行錯誤」ってすっごくコストが大きい行為なんですよね。

・まず「正解が分かっていない状態でタスクに手をつける」という行為自体のコストが高い
・「失敗した」という結果を出す為に、結果を判断出来るだけの情報を出力しなくてはいけない
・出力した内容を、毎回「失敗か成功か」と判断しなくてはいけない
・自分が失敗したという事実と向き合わなくてはいけない
・その上で「どうすれば失敗しなかったか?」ということを考えなくてはいけない

そりゃあ確かに、やらないで済むならやりたくない人の方が多いよな、と。

 

一方、試行錯誤ってハマるともの凄く面白いし、有用な行為でもあります。当たり前ですが、「間違った経験」って積めば積む程そのまま自分のレベルアップにつながりますので、ただあれこれ考えているだけの状態よりは遥かにスキルが上がりますし、試行自体のハードルもどんどん下がっていきます。実際、上記した新人研修でも、一番得をしたのって多分私だと思うんですよ。

 

私は試行錯誤があまり苦にならないというか、「試行回数を重ねて自分の行動を最適化していく」という行為で気持ちよくなってしまう方なので、「これ壊してもいいよ」って言われたら喜んでぶっ壊しますし、わかんなかったら全くためらわずに人を頼ります。

これでいい面もあれば悪い面もあるとは思うんですが、トータルで見るとだいぶ得をしているよなあ、と今は考えています。

 

「試行錯誤が苦にならない」という属性は、恐らくかなり大きなアドバンテージかと思いますので、その属性持ちの方は是非試行錯誤を大事にしていただいて、また「試行錯誤が苦にならない」という強みを活かしていっていただければ、と思う次第なのです。

 

***

 

それはそうと、「試行錯誤のやり方」「試行錯誤を始める為のスイッチ」みたいなものは多分人によって色々で、そこを見つけておくのは重要なんじゃないかなあ、と思っています。

私自身について言うと、自分なりの「試行錯誤メソッド」って、多分ゲームで獲得したものです。

 

皆さん、「ジョイメカファイト」ってゲーム、ご存知でしょうか?1993年にファミコンで発売されたロボット格闘ゲームでして、端的にいうとめちゃくちゃ面白い上にBGMが恐ろしく良いので、遊んだことがないぜひSwitch Onlineなどでプレイしていただければと思うのですが。

 

小学校~中学校くらいの頃、友人たちとの間でジョイメカが大はやりしたことがありました。当時は既にスト2がターボまで出ていて、そんな中ファミコンで格闘ゲーム?と思われるかも知れないんですが、ジョイメカってファミコンのソフトだってことが信じられないくらいよく出来ていて、対戦もめちゃ熱かったんですよ。ゲーセンでスト2やって、お金がなくなったら誰かの家にいってジョイメカ遊ぶ、というのが一つの定番ムーブでした。

 

で、当時、一部のメンバーが「勉強」と読んでいる行為がありました。それが何かっていうと、要は「相手の強い技に対応する技の研究」です。

 

ジョイメカファイトって40体近くの使用キャラがいまして、それだけのキャラ数にしてはびっくりするくらいバランスとれてるとは思うんですけど、それでも「強いキャラ」「弱いキャラ」の差ってかなり極端だったんですよ。

ボスキャラは身内ルールで使用が禁じられてたんですけど、それでも「カエン」や「レオ」「ワイ」辺りの強キャラに対して、それ以外のキャラで挑むのは至難の業でした。

 

私は当時「レジェンド」ってキャラが好きでずっと使ってたんですが、「上位キャラに勝つためにはどうすればいいのか?」と頭をひねって、「上位キャラの行動に対して、どういう行動をとれば有利になるかを探してみよう」と考えました。

この為に、もう一人の「勉強」仲間だった柴田くん(仮名)に協力してもらって、柴田くんにずっと特定の行動をとってもらい、それに対して打開出来る行動を探す、ということをずーーーーっとやってました。

 

今のゲームなら、トレーニングモードでCPUに特定の行動を繰り返させるってそんなに珍しい機能じゃないんですが、当時は人力でやるしかなかったんですよ。カエンの強パンチやレインボーウェーブにどう対応するか、ワイに対してどうジャンプ技を通すか、マジで何時間もぶっ通しで試行錯誤していました。

 

文句も言わずに付き合ってくれた柴田くんには感謝しかありませんが、柴田くんがいない時は、2コンを足で操って練習したりもしてました。はたから見れば相当意味不明な風景だったと思います。

 

一度自然気胸(肺に穴が開く病気)にかかって入院したことがあって、その時も病室にニューファミコンを持ち込んでずっとジョイメカの勉強をしていました。

それを友人に目撃されて「それ何が楽しいの?」と突っ込まれもしまして、あれも一種「試行錯誤に対する距離感」の現れかも知れないんですが、そこから今でも保持している「試行錯誤のコツ」って、私については以下のような感じです。

 

・解決したい課題は明確にする(カエンに勝ちたい、とか)
・成功/失敗を判定するのはなるべく機械的に出来るようにする(ダメージを受けたかどうか、とか)
・試行については方向性を定めず手当たり次第にやる
・試行の出力結果を見てくれる人を見つける(柴田くんとか)
・試行の結果について言語化する(柴田くんと話したりとか)

 

この辺、恐らく人によってだいぶやり方が違うと思うんですが、一つの例として参考になるところもあるかな、と思って書かせていただいた次第です。

 

長々書いて参りましたが、ポイントは「試行錯誤が出来るだけで十分強みになる」「自分なりの試行錯誤のやり方を身につけておくべき」ということで、特に今後新社会人になる方には是非覚えておいていただければと考えるわけです。ついでにジョイメカもお勧めです。

 

皆さんがより良い試行錯誤ライフを送られることを願ってやみません。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Dan Cristian Pădureț

企業は従業員に対して、労働力の対価として、報酬を払っています。

しかし中には報酬を受け取りながら

「依頼された仕事を、一向にやらない人」

も事実として、存在しています。

 

「クビにすればいい」という方もいるでしょうが、企業は彼らを雇った責任がありますし、人を活かすという社会的な役割もあります。

企業は決して、人を解雇するのが好きな訳ではありません。

しかも、日本では法律的にも倫理的にも「解雇してしまう」というのは本当に最後の手段ですから、あの手この手で、彼らを戦力化しようとするのが常です。

 

そういうとき、企業はまず注意をしたり、叱ったり、責任感に訴えたりします。

実際、「言うだけ」でなんとかなるケースもあります。

 

しかし、そうではないケースのほうがむしろ多数です。

その場合、企業は「仕組み」からアプローチして、なんとかしようとします。

教育。

配置転換。

他の社員によるアシスト。

 

ですが、たいてい徒労に終わります。

そうして「本当にやらない人は、何をやっても、どう助けても、結局やらないし、それは直らない」ことが、周りの人間に、徐々にわかってくるのです。

一体なぜ、このようになってしまうのかについては、以前に書いたことがあります。

「依頼された仕事をやらない人」は、なぜあれほど言われても、仕事をしないのか

「依頼された仕事をやらない人」は、なぜ仕事をしないのか。それは、知性の欠如でも、努力ができないわけでも、意欲がないわけでもない。

単に「色々考えるのが嫌」という、もう少し根の深い部分に、課題がある。

彼らの仕事が進まない理由には、本当に様々な理由があります。

ですが、突き詰めて言うと彼らは「頭を使うのがきらい」なのです。

 

運動がきらいな人、歌うのがきらいな人、人前で喋るのがきらいな人。

彼らと同じくらい、「頭を使うのがきらいな人」は、数多くいます。

 

だから、誤解を招かないように申し上げたいのですが、これは「頭が悪い」とは全く違います。

仕事ができなくても、頭の良い人はたくさんいます。

そうではなく「頭を使うのがきらい人」は、正確に言えば「頭を駆動させるのがきらい」なのです。

 

なぜかと言えば、頭を使うと、彼らはすぐに疲弊してしまうから。

つまり精神的なリソース、いわゆるMPをすぐに使い切ってしまう人々なのです。

 

だから、教育やツールなどの仕組みでも解決できません。

配置転換も無意味なことが多いです。

彼ら自身が「好きで自分に合っている仕事です」と言っても、多少面倒なことが起きると、もう彼らは仕事をしません。

MPが尽きてしまうからです。

 

「MPを消費しない仕事」しか、やらせることができない

このような話は、故小田嶋隆さんが、「アルコール依存症の自分」について書いたコラムで、とても解像度高く紹介しています。

「お前はとにかく死ぬまでこの単語帳を丸暗記するんだ」という課題を外部から与えられると、案外できたりします。

私は受験勉強も結局、高校に通っていた間は丸三年間一瞬たりとも勉強しないで、それはそれはひどい状態になっていた。

浪人して、ある日、「さあ始めるぞ」ってなことになって勉強を始めたら、その日から一日に一三時間勉強するみたいな勢いで丸暗記に励みました。それでダーっと成績が上がって、大学に合格すると、とたんにこれがまた勉強しなくなってしまう。

 

なぜそういうふうに極端に振れるのかというと、別に私が極端な人間だからではなくて、自分の暮らし方だとか生き方についてその都度その場面に沿ったカタチで考えることがとにかく大嫌いだったから。

要するに、ある種人工的だったり習慣的だったりする指針に従うほうが本人としては楽だったということです。

 

酒を飲むという行為は、そういう立案を嫌う人間が依存しやすい生き方だと思います。

いろんなときに「ま、とにかく飲んじゃおうよ」というのがいいプランに見えたんだと思うんですね。私にかぎらず、人間は「人生を単純化したい」というかなり強烈な欲望を抱いています。たとえば念仏とかも、単純化の極みじゃないですか。

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・「1日13時間、死ぬまで単語帳を丸暗記」はできる

・人工的だったり習慣的だったりする指針に従うほうが楽

・念仏のように人生を単純化したい

こうした特性は、いずれも「依頼された仕事を、一向にやらない人」という特性に良く合致します。

 

つまり彼らには、本質的には「MPをあまり消費しない仕事」しか、やらせることができない。

わずかなMP消費で、クリエイティブなことをやってのける一部の天才もいますが、大抵は転記作業、定型的な反復動作、マニュアル通りの応対など、「考えさせたらダメ」だと思って、仕事を割り振らねばなりません。

 

ただ、「そんな仕事、多くないよ」と思う方は多いでしょう。

「それなら社員ではなく、アルバイトで十分」と考える経営者もいるでしょう。

まさに、それが現代社会の大きな課題の一つです。

 

昔は、MPを使わない仕事がそれなりにありました。

高度経済成長時は、「作れば売れる」のだから、余計なことを考えずに、目の前の仕事をとにかくこなせば、何とかなりましたし、サービスも単純だった。

 

ところが現在は違います。

消費者の欲求を満たすために、現代の仕事は複雑、かつコミュニケーション気を配る必要があり、「稼げる仕事」は、大量にMPを必要とする仕事ばかりです。

 

私もMPは特に高い方ではないので、「とにかくやれば終わる仕事」をやる時には本当に気が楽です。

経理や数字のチェック、大量の封入の作業、エクセルの入力などは、とにかく手を付けさえすれば「終わる」ので、救いがある。

 

しかし、企画をつくったり、提案をつくったり、論理を組んだり、アイデアを必要とする仕事は、時間をかけたからといって、「終わる保証」が全くないのです。

試行錯誤を必要とするこれらの仕事は、MP消費量がが全く違うので、ツラい仕事です。

 

 

先日、Youtubeを見ていたところ、岡田斗司夫氏の「ベーシックインカム」に関する言及が目に留まりました。

 

Amazon創業者の、ジェフ・ベゾスはベーシックインカム推進派です。

良いことのようにも思えますが、その真の理由は

「ビジネスは有能な者たちとAIだけでやるから、お前ら(無能)は面倒くさいから社会に出てくるな」

だと、彼は言います。

これはある意味、「仕事ができない人を、企業が救う事は無理」という宣言でもあります。

確かに、企業は慈善団体や公共機関ではありませんし、高度なサービスを提供している会社は、ますます有能な人間(あるいはAI)を必要としていますから、当然の帰結なのかもしれません。

 

となると、これは政府や非営利団体の出番です。

ベーシックインカムは、その一つの解決方法かもしれませんが、「社会に出てくるな」というのも、解決になっているかと言うと、微妙です。

そういう意味では、4500年前のピラミッド建設のように、「社会的な大義があり」「MP消費の少ない」を作りだすことが、公共の役割、そして治安維持の良い方法なのかもしれません。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:brut carniollus

『ブリッツスケール』著者のリード・ホフマンによれば、インターネット革命により物事すべてが高速化された。

そのため急成長できるだろうタイミングで、今まででは考えられないほどの巨額の集中投資を行い、指数関数的に成長し一気に競合を突き放す、超ハイリスク超ハイリターン型の勝ち方が生まれたという。

「ブリッツ・スケーリング」を実践する際には、従来と異なる戦い方のポイントがいくつか出てくる。今回はそのうちのひとつ、『世の中からの期待』についてメルカリの事例で紹介したい。

 

期待獲得でスタートアップの企業価値をあげる

今も昔も、出資する投資家は、経営者、市場性、提供価値、事業計画や企業価値など、様々な要素を合理的に吟味する。そのため実態が全くなければ評価はされない。

ただ、最近のスタートアップ投資においては「将来のリターンが見込める」「次のGAFAになりうる」「世の中を変えてくれるであろう」など、ある種実態の見えない『期待』も重要なファクターだ。スタートアップ企業の価値を測る時価総額には、「業績」のみならず「将来の期待」が含まれるのだ。

時価総額に将来への大きな期待が反映されれば、業績以上の資金獲得が可能となり、成功確率が低いブリッツスケールや新サービスが挑戦可能となる。その結果、実態としても企業価値が上がり、更なる資金調達や急成長のための巨額投資がしやすくなる

メルカリを例に事業戦略の観点で紹介していこう。

 

メルカリが上場した際、将来に対する高い評価で一時、時価総額は8000億を記録した。

2018年当時は設立5年目で「日本のフリマアプリの代名詞」ではあったが、年度の売上は358億、利益はマイナス70億だ。国内フリマアプリ市場全体でも前年度3割成長で6392億円に過ぎなかった(経済産業省の2019年の調査)※1

 

もちろん投資家はベンチャー・キャピタル法などでスタートアップの時価総額を算出し、定量的に投資判断をするが、最後の意思決定は感情的な要素も少なくないのだ。

 

<参考記事>
メルカリの時価総額はなぜこれほど高いのか?

 

『期待』に応えてさらなる期待を!

では、そんな「期待」は何にひかれ集まるのか。『期待』の由来を複数のユニコーン成長事例から考察するとポイントは以下であった。

  1. 大きなビジョンを持ちながら、素早く中核事業を成長させる
  2. 果敢な挑戦、失敗したら次に生かす

それぞれをメルカリにあてはめてみよう。

1.大きなビジョンを持ちながら、素早く中核事業を成長させる

「現在までの成長と実績」に加え、社会課題解決やグローバル展開などの「将来の壮大なビジョン」を見据えた戦略が、事業急成長の為の資金調達と投資を可能にしていく

 

2013年2月創業のメルカリは、翌14年3月、売上がまだない状態でシリーズB、14.5億円の資金調達をした。当時の時価総額は82.9億円であった。「新たな価値を生みだす世界的なマーケットプレイスを創る」をミッションとし、2014年9月には米国でのフリマアプリ事業を開始している。資金を基に広告やサービス強化など積極投資し、2015年2月にはアプリダウンロード数が1,000万、2017年12月に世界累計1億ダウンロードと着実に成長した。そして2018年のIPO前までに約180億円の資金調達をし、新サービスや事業を立ち上げていくわけだが、2017年度は売上212億円、営業利益44億円である※2。業績に対しても、調達額が非常に大きいことが分かるだろう。

2.果敢な挑戦、失敗したら次に生かす

失敗から学んだことをオープンにし、学びをその後活かして成功確率を高める、こういった取り組みが、失敗を期待に変える要因となりうる。

 

メルカリも初期段階から積極的に複数サービスを開始し、多くの失敗を経験している。創業から2年の2015年9月には、子会社である株式会社ソウゾウを設立し「ありそうでなかったをソウゾウする」ミッションのもと、新サービスを次々と立ち上げている。しかし、「メルカリ級になれなかった(メルカリのような成長曲線を描けない)」という理由でほとんど撤退した※3

メルカリグループにおける終了・撤退サービスの例

撤退により期待は下がり、一時8,000億円超を記録した時価総額も2019年6月に4,309億円となったが、中核事業の成長と、オンライン決済メルペイサービスなど新たな事業への期待は根強かった。 メルカリ会長の小泉氏はある記事で「事業撤退やサービス終了に際し (略) 振返り、学べたことを共有する」という社内の仕組みについて述べている。

 

他にも、元ソウゾウ代表の原田大介氏は「撤退基準を設けること」が失敗からの学びで、その後活かしていると述べていた。

 

現在のメルカリは、失敗からの学びを活かし、サービスを広げすぎずに事業展開している。2023年6月期の売上高は1720億円、最終利益は130億円で時価総額は約5700億円である(時価総額は2023年8月)。次に生かされる失敗は、むしろ将来の期待と成長につながる。

 

最後に

インターネットなどデジタル技術を用いた事業は、勝者総取り(Winner takes all)となりやすい。そして他社に先んじて圧倒的勝者になるために、業績実体のない中、多額の調達した資金を継続的に投じる必要がある。そのためには、大きなビジョン、目の前の行動と失敗からの学び、失敗を乗り越えて事業を急成長させることが今まで以上に重要だ。そのために経営者として信頼を得、『期待』を獲得することが一層必要になっているのである。

 

<参考文献>

※1 フリマアプリ市場が2年で倍増、割食って伸び悩んだ「あの市場」

※2 メルカリ ファイナンス情報|STARTUP DB
FY2018.6 通期決算説明資料|メルカリ
 フリマアプリ「メルカリ」が世界1億ダウンロードを突破|メルカリ

※3 ソウゾウはなぜ、すべての事業をクローズしたのか?──挑戦と撤退を繰り返すことで見えた、事業創造の要諦|fastgrow
 時には名誉ある撤退も、メルカリに学ぶ「見切る力」|日経ビジネス
 メルカリ小泉文明氏が語る、会社のミッション達成に近づけない新規事業の撤退判断|ログミーBiz
メルカリが英国事業から撤退 理由は「リソース配分の優先順位から判断」|Forbes

(執筆:小川 智子)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Rob Hampson

「規制が厳しくなった。コンプラのせいでおもしろいことができない」

これはもう、何年も前からテレビ業界の人が言っていることだ。「嫌なら見るな」という言葉が、それを表している。

 

実際、「嫌だから見ない」という人は大勢いるし、そもそも家にテレビがない人も多いだろう。うちも、テレビは接続せずにPS5用ゲームモニターと化している。

 

そんななか改めて思ったのだが、バラエティの規制が厳しくなったのは、「配慮を求める社会になった」からなんだろうか。

その影響はもちろん大きいけど、根本的に、「画面内が特別じゃなくなった」だけじゃないだろうか。

 

「クレームのせいで何もできない」と嘆くテレビ業界の人たち

一昔前、ポロリは当たり前、一般人に対して笑えないドッキリを仕掛けたり、芸人の車や家を壊したり、顔面にパイを投げつけたり、罰ゲームで電流を流したりワサビを口に詰め込んだり、なんてのが「典型的なテレビのバラエティ」だった。

 

わたしは1991年生まれで、ロンハーのマジックメールを見て育った世代だ。あんな一般人晒し、いまなら確実に放送できない。

ドッキリで後輩を怒鳴ったらパワハラだし、スカートを下からのぞき込んだら性暴力だし、食べ物を使ったら「スタッフがおいしくいただきました」という注意書きが必要になる。

 

平成の半ばから、コンプラ順守による規制はどんどん厳しくなった。先日もこんなニュースが流れ、「またか」とテレビ業界に対して不信感を持った人も多いだろう。

この状況を、「すぐにクレームが来るから何もできない」と受け止めているテレビ側の人が一定数いるようだが、わたしはそれを的外れだと思っている。

 

いままでは「画面の中だから」と許されていただけで、画面の中が特別じゃなくなった以上、一般的な常識を守るべきなのは当然でしょう、と。

 

非常識から生まれる笑いは、非常識だから批判される

『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などを手がけた演出家マッコイ斎藤さんの著書『非エリートの勝負学』で、コンプラに関してひとつの例が挙げられている。

 

あるロケでセグウェイを借り、芸人が乗り回していたら、壁に思いっきりぶつかってすっ転んだ。リアクション含め、とても面白い映像が撮れた。

 

しかし、ADが相談もなく「メーカーはこういった乗り方を推奨していません。危険なのでやめましょう」というテロップを入れ、マッコイ氏は腹を立てた。

メーカー側に忖度するなんて裏切り行為だ、笑いが潰れてしまう。メーカー側に誠心誠意頭を下げて納得してもらうか、それでもダメなら番組の最後にテロップを入れればいいのに、と。

 

でもわたしは、「そもそもセグウェイに乗っててズッコケることのなにがおもしろいんだろう?」と首をかしげた。転んだ人を見て笑えるんだろうか?

お笑いというものは本来、理不尽や、非常識から生まれるものだと思っている。

それをコンプライアンスという名の「見えない力」が、かたっぱしから否定していくのはひどいと思っている。

俺たちの仕事は、イカれているか、イカれていないか、ギリギリの境界線を歩けるヤツを評価すべきなんですよ。絶対に。

なるほど、こういう考えなのか。

日常生活であれば、セグウェイで乗り回してすっ転ぶなんて危ないし、まわりからしたらいい迷惑。

 

でも、「非常識だからこそおもしろい」と考えているのだから、「非常識だ」と批判されるのも当然で、話は平行線だ。

 

いったいなぜ、考え方のズレが生まれるのだろう。

それは、「画面内を神格化しているかどうか」だと思う。

 

画面内が特別だった時代はもう終わった

昔は、「画面内」が神格化されていた。芸能人は特別な存在で、非常識でもとんでもないバカでも、「芸能人だから」で許された。

日常生活ではありえないような派手なこと、理不尽なことを思いっきりやってくれるのがテレビで、だからこそバラエティがおもしろかったのだ。

 

が、今では誰もが自分で配信し、「画面の中」に行くことができる時代。

わたしだってあなただって、その気になれば顔出ししてYouTubeでバラエティ番組もどきを作ることができる。

 

芸能人だって、リプで一般人とやり取りしたり(なんなら芸能人からファンにDMしてデートするらしい)、投げ銭コメントを読んでリスナーの名前を覚えたりする。

視聴者も画面内の世界に行くことができるし、出演者が画面外に出ることも多い。画面の中の世界も、画面の中にいる人も、日常の延長。なんら特別ではない。

 

そうなった現在、「画面内だから許されたこと」が許されなくなるのは当たり前だ。「画面内は治外法権じゃないんだから、一般的なルールは守りなさい」というだけの話。

 

食べ物で遊んではいけない。みんなそれをわかっているからこそ、昔はあつあつおでんを食べて吐き出したり、パイを顔に塗りたくったり、ワサビを口に詰め込んだりすることが笑いになった。

でも「画面内だから許される」前提がなければ、それはただ食べ物を粗末にする行為。だからNG。

 

罰ゲームで痛がる人を見てもかわいそうだと思うし、若手芸人が体を張って裸になっても痛々しいだけだし、高所恐怖症の人がバンジージャンプを前に泣いていたらやめてあげて、と思う。

 

そんなもの、全然おもしろくない。

日常生活でそんなシーンを見たら、胸糞悪いだけだもの。

それを「コンプラが厳しくなった」というのは、なんだかちょっとちがう気がする。

 

例えば子どものころ、立ち入り禁止区域で遊んでいたとしよう。でも工事現場の人は、「子どもだから」と見逃してくれていた。が、現場監督が代わって怒られたので、遊べなくなってしまった。

 

それは、ルールが厳しくなったからだろうか?

単純に「今まで見逃してもらっていただけで、そもそもよくないことだった」って話じゃないか?

 

仕掛け人同士で完結するドッキリ番組

こういう話をすると、「なにもできなくなった」と言う人がいるが、それはちがう。

 

わたしが最近見た動画でおもしろかったのが、『ゴットタン』などを手がけたプロデューサー、佐久間宣行氏のチャンネルの『【クズ弁護士ドッキリ】こたけ正義感が裏ではめちゃくちゃ金に汚い悪徳弁護士だったら…?』だ。

弁護士資格を持ち、実際弁護士としても働いているお笑い芸人、こたけ正義感がもし悪徳弁護士だったら、というドッキリである。

 

こたけ氏は番組の打ち合わせで「契約内容とちがう」とスタッフに絡んだり、プロフィール表記が間違っているから「虚偽罪」だと言ったり、誤って水をかけられ「損害賠償を請求する」と証拠写真を取り始めたり、やりたい放題。共演予定の女性タレントは、困り果てている。

 

が、このドッキリのミソは、こたけ氏がダメ出ししたりお金を請求したりするのは、あくまで仕掛け人が対象ということだ。

ドッキリを仕掛けられているのは女性タレントだが、こたけ氏が彼女に、「損害賠償を払え」と詰め寄ることはない。いちゃもんをつける相手はあくまで企画を知っているスタッフであり、いちゃもんをつけるこたけ氏もまた仕掛け人。

 

もしこたけ氏が彼女に向かって「金を払え」と言ってたら、何も知らずに悪徳弁護士に脅される女の子がかわいそうで、笑えなかっただろう。でもそうじゃないから、笑えるのだ。

 

動画のコメント欄を見ると、「こたけの演技力やばい」という意見が多く、佐久間氏も「ドラマのオファーくる!」と大絶賛。

ドッキリを仕掛けられた女性タレントも、明らかにやばい言動をするこたけ氏とどうにかうまくやろうと気を遣っていて、「めっちゃいい子」と褒めちぎられている。

 

傷ついた人を笑う、弱いものをいじめる、派手で無茶苦茶なことをやる。そんなことをしなくても、おもしろいコンテンツはいくらでも存在するのだ。

まぁ、これがテレビで放送できたかと言われれば、わたしは判断ができないが。

 

コンプラが厳しくなっても、おもしろいコンテンツの需要はある

いくら規制が厳しくなったとはいえ、「おもしろいものを見たい」という願望は、だれしもが持っている。

ただ求めるおもしろさが、「非日常的なぶっとんだもの」ではなく、「目の前でこんなことされたらやばい(笑)」という視点になったというだけで。

 

そりゃまぁ、一生行くことのない秘境でのサバイバル生活や、仲が悪いコンビに解散を持ち掛けて本当に解散しちゃうとか、企画としてはおもしろいし個人的には好きだけど。

 

でも需要を考えれば、「見ていてかわいそうな理不尽かつ非常識な企画」より、「ドキドキハラハラするけど最終的にはみんなハッピーな企画」のほうがいい。

マッコイ斎藤氏の著書にも、こうある。

だからなんでもかんでも「コンプライアンス」で片付けないで、一つひとつの演出について議論させてほしい。どれだけ放送が難しそうでも、柔軟に考えて、抜け道を探したい。

誰も傷つけることなく、みんなが心から笑ってくれるための抜け道を。

事実彼は、「負けた人が奢るといじめに見える」という批判を受け、勝った人が奢るという「男気ジャンケン」を考案している。

 

前述した悪徳弁護士ドッキリも、「ドッキリターゲットはその場にいて巻き込まれるだけで、脅されたり怒られるのはあくまで仕掛け人側」というかたちで、抜け道を使っている。

 

画面内が特別じゃなくなっても、現代の価値観に合った「おもしろいもの」はいくらでも存在するし、作れるはず。

だから改めて、「コンプラのせいで何もできない」は、ちがうんじゃないかと思うわけだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Aleks Dorohovich

『安楽死が合法の国で起こっていること』という本をご存じだろうか。

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筆者の児玉真美さんは障害者やその家族の立場に立って活動しているベテランの著述家だ。その著者が、安楽死の議論と実践が進んでいるオランダやカナダなどの現状を伝え、議論のたたき台としてまとめたのが本書、ということになる。

安楽死・尊厳死・自殺幇助といったまぎらわしい語彙を理解するにも向いているだろう。

 

いわゆる人権先進国で安楽死が急増している

人の生死を扱う書籍だけに、『安楽死が合法の国で起こっていること』にはドキドキする話題やセンシティブな議論が多い。なかでも強い印象を受けたのは、カナダやベルギーやオランダやスイスで安楽死が合法化され、しかも急速に広がっているという話題だった。

 

たとえばカナダでは2016年に安楽死が合法化されたが、少なくとも当初、その条件は慎重に設定されていた。

 カナダは2016年に合法化した際には「死が合理的に予見可能」すなわち終末期で「本人が許容できると考える状況下では軽減不能な」耐えがたい苦痛のある人に限定されていたが、2021年にカナダ政府は「死が合理的に予見可能」の要件を撤廃し、障害や不治の病がある人にも安楽死への道を開いた(終末期の人は手続き期間が短いためFast TrackあるいはTrack One、新たに対象となった非終末期の人はTrack Twoと称される)。

この時、精神障害や精神的苦痛のみを理由に安楽死を希望する人については、十分なセーフガードを設けるべく追加の議論が必要として2年間の猶予を置くことが決まった。期限を迎えた23年春、さらに慎重な議論が必要として再度1年の延期がきまったところだ。
─『安楽死が合法の国で起こっていること』より

この条件で十分に慎重と言えるか否かにも議論の余地はあるだろう。が、ともかくもカナダ政府はこのように安楽死の条件を考えたはずだった。

 

ところが合法化されてみると、どんどん安楽死が増え、安楽死者が総死者に占める割合が高まっていったという。

 またカナダでは、合法化当時は終末期の人に限定されていた対象者が合法化からわずか5年で非終末期の人へと拡がった。2021年3月の法改正で新たに対象となったのは、不治の重い病気または障害が進行して、本人が許容できる条件下では軽減することのできない耐え難い苦しみがある人だが、前述のように2024年には精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も容認される方向だ。

カナダの安楽死者は2021年の対象者拡大から増加し、保健省のデータによると2021年は2020年から32.4%の急増となった。2021年、2022年にそれぞれ1万人超える。……もともとカナダの一連の動きを強力に牽引してきたケベック州では安楽死者が総死者数に占める割合は5.1%(7%というデータもある)に及ぶ。
─『安楽死が合法の国で起こっていること』より

カナダの総人口は日本の3分の1以下だから、日本でいえば毎年3万人以上が安楽死しているぐらいの数字だ。また、医師だけでなく上級看護師にも安楽死の実践が可能だったり、通常の標準治療や緩和ケアで軽減可能な苦痛でも本人が許容できないと言えば安楽死の対象になり得たりと、カナダでは安楽死のハードルがどんどん低くなっている。

 

どうやらカナダでは、安楽死は例外的措置ではなく、よくある死のひとつとして制度化され、実践されようとしているっぽいのだ。

著者は、カナダでの安楽死の法制化は医師による例外的にきわどい行為というコンテキストから、患者の権利としての安楽死の容認というコンテキストに飛躍してしまったのではないか……と述べている。

 

カナダに続いて、ベルギー、オランダ、オーストラリアといった国々の安楽死も紹介される。そこでも、自殺ツーリズム・機動安楽死チーム・親の同意に基づいた乳児への安楽死、といった日本では考えられない語彙が次々に登場する。

 

これらの国々は日本の人権感覚の遅れをバッシングする際に引き合いに出されがちな、人権先進国のはずである。ところがそれらの国々で安楽死が驚くべきスピードで広がっているのだ。

それなら、私たちは彼らを真似て安楽死を合法化すべきなのか?

 

「滑りやすい坂道」問題と「日本人にとって自由とは何か」問題

いや、何も考えずに真似するものでもあるまい。

著者は「滑り坂」という言葉を使って、それらの国々で起こっている出来事を説明している。

 

つまりこうだ。

ある方向に足を踏み出したら最後、滑り坂を転がり落ちていくように議論と実践が止まらなくなってしまう、そんな社会変化が安楽死が合法の国々で起こっているのではないか、と。それらの先進国でも「滑り坂」を危惧する声はもちろん上がっている。

が、たとえば先ほど紹介したカナダはものすごい勢いで安楽死の「滑り坂」を転がり落ちているようにみえるし、歯止めがかかっているようにはみえない。

 

比較的最近まで、私自身は安楽死そのものには賛成だった。いや、今でもいくらかは賛成である。

安楽死が合法化されるべき状況・個人はあり得ると想像しているし、そもそも人は生まれて死ぬものだとみなしたうえで、生の自由のなかにはリスクを冒したり死を受け入れたりする自由が含まれていなければおかしいのではないか、とも思っている。

 

だが、『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んでなお、安楽死に賛成だと言い続けるのは難しい。

民主的で人権先進国といわれる国々でさえ数年程度で「滑り坂」を転げ落ち、日本の年間自殺者を上回るパーセンテージの安楽死者を出すに至っているとしたら、それは危険な兆候ではないだろうか。

 

それからもうひとつ。

私自身が日本への安楽死導入に際して気にかかっているのは「日本において個人の自由意志がどこまで本当に自分のもので、どこから家族や社会や世間のものなのかがわかりにくい」点だ。

さきほどから私は、カナダなどを人権先進国と表現しているが、実際、それらの国々では個人の自由が日本よりも重視されているようにみえる。

 

ただし、それは「人命を日本より大切にしている」という意味ではない。たとえばコロナ禍に際して、欧米諸国は日本よりずっと個人の自由が尊重される社会としてコロナ対策を実施していた。個人の自由が重視されているからこそロックダウンという措置が必要になり得たし、それでもあちこちでコロナパーティーが繰り広げられたりもした。

 

しかし日本では、欧米諸国ほど個人の自由はくっきりとしていない。日本は全体主義の国ではないが、それでも日本人は世間や空気を意識する。

コロナ禍の盛期において、ときの政府が「自粛要請」という「お願い」で日本社会を御し得たのも、ロックダウンという措置が不要だったのも、日本社会や日本の個人主義が欧米諸国とどこか違っていることを示唆している。

 

その観点でいうなら、カナダやオランダで安楽死の議論と実践が先行することに、私はむしろ納得感をおぼえている。

なぜなら、個人主義と個人の自由が峻厳な国々(個人の自己責任も峻厳だ)において、死の自己決定権は日本以上に個人自身のものであるはずだし、個人の権利の一環として人生の終末が議論されるのも自然に思えるからだ。

 

こうした欧米と日本の違いは、精神医療の制度とその実践をみていてもうかがわれる。

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日本には医療保護入院という制度もあります。これは、資格を持った精神科医1名の診断と家族や市町村長などの同意によって患者さん(以下、患者と表記)を強制入院させることのできる制度で、国内の強制的入院の半分以上がこの制度に基づいています。

しかし、この制度は患者の人権と自由に十分配慮できておらず、濫用されているという批判が国内外から集まっていました。
─『人間はどこまで家畜か』より

日本には精神科病院に長期入院している患者さんが多く、その法的根拠である医療保護入院という制度は批判の対象となってきた。

欧米人からみれば、家族や行政の同意に基づいて何ヵ月も、ときには何年も入院を余儀なくされる患者さんがいるのは個人の自由を侵害しているとうつるにちがいない。

 

また、日本では個人の責任と家族の責任の境界も曖昧で、たとえば事件を起こした犯人の家族が世間に謝罪したり、コロナ感染者の家族に嫌がらせが行われたりすることがある。

犯人にせよ感染者にせよ、行動とその責任の主体は本人にあって家族にはないのだから、これは欧米目線ではおかしい。

 

それどころか、たとえば問題行動を繰り返す患者さんの責任が行政や国に及ぶことすらある。

たとえば、「あの、退院してくるたびに通学路で子供の手を握ってまわる患者さんを何とかしろ」と言われる先は、当の患者さん自身以上に、おそらく家族、おそらく精神科病院、おそらく地元の行政当局である。

こうしたケースに対して行政当局は無責任を決め込むことができず、何かあった時には批判の矢面に立たなければならないので、結果として行政も患者さんの行動の責任の一部を負うことになる。厚労省が医療保護入院の撤廃を検討してもうまくいかない背景には、この、個人~家族~行政~国まで責任が繋がりあう曖昧な構造が存在するからではなかったか。

 

個人の健康や生命を誰もケツ持ちしてくれない社会

 個人の自由が日本以上に尊重されているアメリカでは医療保護入院に相当する制度はなく、患者は1週間以内に退院できます。退院した患者は自由であると同時に責任の主体でもあり、家族や行政や国がその責任を肩代わりすることはありません。こうした文化の違いは社会的ひきこもりに対する日米の温度差にも現れ、たとえば家に居続ける子どもを親が裁判をとおして追放した事例が、アメリカ社会の個人と家族の関係を象徴しています。
─『人間はどこまで家畜か』より

最も個人の自由の峻厳なアングロサクソンの国々、なかでもアメリカでは医療保護入院という制度はなく、家族や国が患者さんを長期間保護することはない。イギリスはもう少し日本寄りだが、それでも患者さんが長期入院する割合はずっと少ない。

 

そのかわり、その自由は社会に適応しづらい患者さんがホームレスになったり刑務所になったりすることと表裏一体である。

大勢の人がオピオイド依存やアルコール依存による緩慢な死に至るのを黙認することとも表裏一体かもしれない。少なくともアメリカでは、患者さんの脱入院化という美名のもと、精神医療は大きく後退し、大勢の患者さんが困窮することになった。

 もちろん、精神病院からの解放が状況の改善に貢献した事例とてまったくなかったわけではない。……だがそんなふうに穏便に事が進んだ事例は、飽くまでも例外にすぎなかった。
重度慢性患者の退院後の処遇としては、やはり家族の許に戻ったケースが最もうまくいったように見えるが、そのことをもってこの種の脱施設化が円滑に進み、なんの問題も生じなかったと考えるなら、それは大きな間違いというものである。家族は仮に苦悩と悲惨を抱えていたとしても、そうそう外に漏らしたりはしない。そして、まさにそうした消極的傾向こそが、病院からコミュニティへの転換がもたらした効果について誤った楽観論を蔓延させる原因となったのである。しかしかれらの被った困難がいかなるものであったにせよ、人数的にはかれらを遥かに凌ぐ身寄りのない患者、あるいは家族に引き受けを拒まれた患者を待ち受けていた境遇に比べれば、よほどましであったと言わざるを得ない。誰からも救いの手を差し伸べられることのないホームレスの狂人、路傍の精神病者は、すでに現代の都市風景の一部と化している。
─『狂気 文明の中の系譜』より

欧米諸国における個人の自由とその責任は、日本よりもずっとクリアカットだが、そのぶん厳しい。

個人の行動の責任、ひいては個人の健康や生命を誰かがケツ持ちしてくれる度合いは日本よりもずっと少ない。精神医療もそれを反映して、大勢の患者さんが自由になると同時に路上に放り出されたり刑務所や怪しげな施設に収容されたりするに至った。

 

こうした精神医療を巡る自由と責任のありようは、ほとんどの日本人の大半には苛烈なものとうつるだろう。

だが同じく、日本の自由と責任のありようは、アングロサクソンの国々からは不明瞭にみえるだろうし、日本の精神医療は家父長制的で許しがたいものとうつるに違いない。

 

こんな自由と責任の建付けで安楽死の合法化はあり得るのか

こうした認識があったものだから、『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んだ私は安楽死の導入に大きな不安を抱くようになった。欧米、とりわけアングロサクソンの国々で安楽死が制度化されるのはまだ理解できる。

だが、日本のように自由と責任の建付けの曖昧な国で安楽死が制度化したら、その安楽死はいったい誰の自由意志によるものなのか、その安楽死はいったい誰のためのものなのか、やっぱり曖昧になるだろう。

 

日本には何事につけ「欧米にならえ」と主張する人がいるし、安楽死についてもそう言いたい人がいるのはみてとれる。

しかし制度だけ真似しても真似しきれないものはあるし、へたに真似た結果、とんでもないことが起こる可能性もある。日本社会の家父長制的なところは、患者さんの健康や生命のケツ持ちという点ではやさしい。

しかし、安楽死というイシューに際して、同じくやさしい顔をしているのかは、誰にもわからない。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Marcelo Leal

満員御礼の長野駅

——ナゼだ。 あと一人で、ようやく自分の順番だったというのに、貴様はナゼ、堪えることができなかったんだ……

逃げるようにみどりの窓口を飛び出した外国人に向かって、わたしは心の中で強く叫んだ。

 

 

三連休最終日の長野駅は、ウインタースポーツを満喫した観光客で溢れかえっている。

首都圏へ戻る人間がこぞってみどりの窓口へと押し寄せたが、わたしは他人と会話をするのが億劫なため、券売機の前に立ち乗車券と特急券を購入した。

 

だが、向こう3時間以内の指定席は満席で、僅かにグランクラスが残っているばかり。自由席で空席を見つけて滑り込むしかない。

長野発ならばまだしも、金沢から来る満員列車で自由席が空くとは思えない。これはまさかの立席か……。

 

新幹線の乗車時間は、単なる移動ではなく作業または睡眠の時間である。

なんとしても席を一つ、確保しなければならない。

 

とりあえずわたしは、「もしかすると」という淡い期待を胸に、東京方面のホームへ行った。

だが入線してきた新幹線は目を凝らすまでもなく、デッキだけでなく自由席の通路まで、100%を超える乗車率であることが瞬時に確認できた。

——これは絶対に無理だ。

 

到着した新幹線から降りる乗客よりも先に改札へと向かい、「直近で確保できる指定席を購入したい」と告げた。その後、みどりの窓口へと案内されたのである。

この際、高級車両であるグランクラスもやむを得ない。なんせ、時間と座席はカネで買うもの。いつ死んでも悔いのない人生を送るんだ!

 

こうして、大したことでもないのに人生を賭す覚悟で、グランクラスの購入に踏み切った。

 

みどりの窓口の惨劇

「みどりの窓口」を滅多に利用しないわたしは、目の前に連なる長蛇の列に対して、二か所しか稼働していない窓口の不釣り合いさに絶望を感じた。

 

そういえば、長野電鉄株式会社は今年から"日曜日の市内バス運休"を決定したという。

その理由は、運転士不足によるもの。

地方の人手不足は深刻であり、窓口対応できる駅員が二人しかいない状況も理解せざるを得ない。

 

わたしが狙っているグランクラスの列車は40分後に発車するため、のんびりと順番を待っていても間に合うだろう。

だがここにいる客の中には、急ぎでチケットを手に入れたい者も存在するらしく、数分ごとに一人また一人と脱落者が現れる。

(よし、いいぞ。このままどんどん脱落していけ!)

性悪なわたしは他人の不幸が大好物。自分の順番が早まる優越感に浸りながら、顔がニヤけるのを抑えられなかった。

 

そして気が付くと「あと数人でわたし」というところまできた——と、ここで事件が起きた。

 

わたしの前に並んでいた欧米人が、ソワソワしながら外を見ている。きっと仲間が待っているのだろう。しきりに携帯電話をいじっては外を見て、とにかく忙しなく動いているのだ。

(落ち着けよ、あと一人でキミの出番なんだから)

そう心の中で彼をなだめながら、わたしはグランクラスの残席数が△になっていることに、若干の焦りを感じていた。

 

その瞬間、落ち着きのなかった外国人がダッシュで逃げたのだ。ボタボタと重量感のある「ナニか」が滴(したた)る音と共に——。

 

長蛇の列の後方では、先頭で何が起きたのかを知る由もない。

しかし、われわれ最前線の者にとっては、希望と絶望が一気にやってきたようなものだ。

一人の脱落者と共に、大量の嘔吐物がばら撒かれたのだから。

 

わたしは咄嗟に身をひるがえしたため、その勢いで壁に激突したが身体の汚染は免れた。だがわたしの後ろに並んでいた家族らは、逃げ場もなく見事に足元をやられてしまった。

さらに悲惨なのは、窓口で今まさにチケットを購入している者たちだ。自身の背後で何が起きたのかも知らずに、膝下から靴にかけて嘔吐物爆弾による攻撃をモロに食らったのだから。

 

人手不足が顕著な長野駅関係者は、この大惨事を処理するべく人員確保に奔走している様子だったが、5分経っても状況は変わらない。

そしてわれわれ被害者は、惨状から目をそらすことはできても、嗅覚への攻撃から逃れることができず苦しんでいた。

 

かといって、あと少しで新幹線のチケットが手に入るというのに、すごすごと逃げ去ることもできない・・・まさに地獄だ。

 

嘔吐や排泄に関する提案

今回の外国人に限らず、なぜか人間は嘔吐に関して寛大(?)というか、むしろ舐めているように思う。

 

もしもこれが排泄であれば、まず間違いなくトイレへ向かう。

己の排泄物を公衆の面前で晒すなど、常識的にあり得ない行為だからだ。

ちなみに、腹を下したときも急な腹痛を伴い症状が現れるが、それでもトイレまで持ち堪えられるのは「外肛門括約筋」の締めヂカラによるもので、嘔吐よりは時間調整できるわけだ。

 

とはいえ、吐き気やむかつきを感じた時点でトイレへ駆け込めばいいだけのこと。遅かれ早かれ訪れる"惨劇"を無視して、なぜボケッとしているのか理解に苦しむ。

その証拠に、金曜日の夜の駅構内には嘔吐物の残骸が散見されるが、排泄物はどこにも見当たらないわけで——。

 

「当たり前じゃないか、大や小をもよおしたらトイレへ行くに決まってるだろ!」

その通りだ。もよおしたらトイレへ向かうのが、常識人がとるべき"当たり前の行動"である。

それなのになぜ、嘔吐の時はやりたい放題にまき散らして、自ら処理もせずに立ち去るのか。これは、無責任どころか非常識というべきではないのか!?

 

激高するわたしに向かって友人が、

「犬だって、ウンチしたら後ろ足で砂をかけるのにね」

と、静かになだめてくれた。正にその通りである。犬でさえマナーを守っているというのに、いったい何をやっているのだ、ニンゲンよ!!

 

ここでひとつ豆知識を挟んでおこう。

犬の"砂かけ行為"の目的は諸説あり、巷で支持されているものの一つに「マーキング説」がある。

犬は肉球から分泌物が出るため、自分の縄張りを主張するべく、地面を蹴ってニオイをばら撒いているらしい。

 

なるほど、土や砂が排泄物にまったくかかっていないのに、地面をカッカッと蹴り上げては誇らしげな顔をする犬がいるが、あれは一理あるわけだ。

「おやおや、ウンチは隠れていないぞ・・」と思っていたわたしだが、どうやらあれで正しかった模様。

 

だが、友人の獣医師に尋ねたところ、

「痕跡を消すためとも言われているね。犬の先祖であるオオカミは、敵に気づかれないように自身の排泄物に土をかぶせてニオイを消していた・・とも言われているから」

と教えてくれた。

 

たしかに、屋外で飼育される犬が穴を掘ってお宝を隠し、その上から土をかぶせる姿を見たことがある。

そういった行動からも、排泄物を隠す目的で"砂かけ"をするのは理にかなっているといえる。

 

いずれにせよ、犬の習性を人間に当てはめるつもりはないが、それよりもむしろ犬を見習ってもらいたい。

とどのつまりは、自己管理の範疇を超えて勝手に酔っぱらい、他人への迷惑を顧みずに駅構内や道端で嘔吐するような輩は、嘔吐物の始末までをセットにさせるべきだ。

なに、大したことじゃない。吐き気がするならビニール袋を持ち歩くなど、当たり前の準備をするだけで事件は回避できるのだから。

 

 

まぁ、今さらあの外国人を責めるつもりはないが、もう少し早く"列から脱落する覚悟"を決めていれば、あの事件は起きなかったはず。

願わくば、余裕を持ってトイレへ向かう・・という危機管理能力を持ってもらいたいものである。

(了)

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

ライター&社労士/ブラジリアン柔術茶帯/クレー射撃スキート

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo:Towfiqu barbhuiya

e-sports市場が熱い。

 

わたしもじつは、これらのゲームが大好きである。

ただ、自分でやってしまうとゲーム廃人になることが分かっているので、ネット上の配信サイトやYouTubeで見ることで我慢している。

 

中でもやはり「PUBG」の流行に始まり「RUST」に代表されるバトルロワイヤルゲームだ。

これらの共通点は「オンライン上でチームを組み、見知らぬ相手と殺し合う」という形式だ。

 

「VALORANT」については世界大会が実施されている。

ネットゲームゆえに、地域も国籍も問わない。

人気配信者の加藤純一さんのプレイを見て、わたしはいくつか考えさせられた。

 

原始の争いに近い世界観

数ある中で、今回は「RUST」というオンラインゲームの話をしたいと思う。

最初のリリースは2013年12月。10年前の話である。

しかし今でも、ゲームアプリSteeam上では「最もプレイされているゲーム」の14位である(2024/3/1現在)。

 

わたしはRUSTの魅力について、こう感じている。

「人間が戦争をしている」生々しさがある。いや、人類史の凝縮だ。

プレイヤーは最初のログインをすると、裸の状態でランダムな場所に落とされる。

 

そこから石を拾い木を切って木材を集め板を作り、敵対する人物は殺害し、その骨までもが武器の材料になる。

路上のドラム缶や廃車から金属を集め、硫黄を含む石を砕いて火薬を作れば、それらを合わせて銃火器も製造可能になる。

 

そんな具合で拠点となる建物を作り、その世界に存在している他の軍団の拠点を壊しに行く。

(https://rust.double11.com/press-kit)

リスポーン(=生き返り)機能を除けば、本当に原始的な戦争に近い。

 

大勢の「山の民」とともに

このゲームは、24時間稼働しているいくつかのサーバーからどこかを選びプレイする。

いろんな国の人がひとつのサーバー、つまり土地に混在するのである。

 

ひとつのサーバー上で日々拠点を強化し、長く君臨するクラン(=人の集団)もある。

その後に新規参入する新しいクランを潰すことで彼らは王の座を維持できる。

 

しかし新参者に本部拠点を破られれば、どんな強いクランであっても再建に時間や人員が必要となる。

もちろん、自陣も敵もオンラインプレイヤーの集合体である。

本部以外にも物資の倉庫を多数作るクランもある。

人が生き返ることができることを除けば、ほぼ戦争そのものだ。

 

わたしがこのゲームを知ったのが、ネット配信で活躍中の加藤純一さんの実況を見た時のことだ。

チャンネル登録者はYouTubeで124万人。Twitchで89万人。かなりのファンを抱えている。

 

彼は「何日からRUST配信をする」と配信で伝える。

しかしいつログインするか具体的には知らせない。

 

なぜなら、時刻を告知してしまうと、一緒にプレイしたい視聴者が一気にログインしようとしてサーバーに負担をかけてしまうからだ。

しかし配信を見ていれば彼がゲームを始めたかどうかがわかる。視聴者はそこを目指して合流するのだ。

 

面白いのは、彼は参加する視聴者のスキルを問わないことである。

一部には高いスキルを持つ参加者もいるが、岩でものを殴ることしかできない参加者もいる。

彼はそんな彼らを「山の民」と名づけ、まずはひたすら物資を集める作業に専念させるのである。

 

「山の民」は100人規模で集まってくる。

初心者を集めてどうするのか?と思うかも知れないが、これが愉快なのである。

 

失うものがない裸の王様

彼はもはやRUSTの世界では、「Katoの日本人グループがきた!」となるくらい厄介な存在になっている。

ひとえに「山の民」の迫力のおかげだろう。

 

優秀な部下に建築や道具の製造を任せるが、そうでない視聴者が山ほどいる。

しかし、どんな扉も1万回殴れば穴を開けることができる、それが彼のやり方だ。

 

板を数発殴るだけのために「山の民」は狙撃されて死に、生き返り、また壁を数発殴っては死に、また生き返って壁を殴りに行く。

気の遠くなるような作業だ。

しかし集まった視聴者たちは、それをやってのけるのである。

 

今では「ゾンビ・アタック」と言われるこの手法はまさに「数の暴力」だ。

そして外壁が1枚、2枚と抜けていくごとにロケットランチャーなどを装備した精鋭部隊が後方支援をかけていく。「仲間ごと壁を打つ」ことも厭わない。

 

しかしそれ以上に面白いのは、彼の立ち回りである。

じつは彼は、上級者ではない。

 

自分自身はほとんどの時間を石ひとつ、裸で移動するのである。見た目は「山の民」である。

視聴者が資材を集めても、「俺に渡すな!俺は下手だから!」と言い張る。

 

大将でありながら、死んだってどこかでリスポーンできる。しかしその時にロストするアイテムは、石ひとつだけで済む。

「自分は上手じゃないから、物資の無駄遣いはしない」という考えだ。

 

つまり彼は、「失うものがない大将」なのだ。

 

「日本の無職ジジイを舐めんなよ」

「いいかー、俺はこれから寝るからな。でもお前たちは資材を集めとけよー」

おいおい、と思うかも知れない。

 

しかし真に人を動かす大将というのはそういうものかもしれないと思わされてしまう。本人は裸に石ひとつ、の姿であっても。

 

そして、非常に印象的な言葉がある。

「チート」という、つまりはサーバーなどにプログラムの改ざんを働きかけて自分の攻撃力や防御力を上げる輩が時々いるのだ。

 

しかし彼はそれに屈しない。配信でプレイヤーにこう呼びかける。

「相手がチーターなら、こっちはニーターだ!日本の無職のジジイを舐めんなよ!」

この言葉こそが、彼の人気を支える要素だとわたしは思っている。

 

日本でネット配信、それが収入になるという礎を築いたのは「ニコニコ動画」、そこから誕生した「ニコニコ生放送」だろうと思う。「2ちゃんねる」創設者のひろゆき氏も一枚噛んでいる。

 

いまも、1日中ネットに貼りついている、つまり無職というユーザーが「ニコ生」を支えている。

そして、それを支えているのは氷河期世代だということが、視聴者のコメントなどを見ているとよくわかる。

 

今年の3月からプレミアム会員の料金が大幅値上げされ、「会員やめるわ」というユーザーが増えているが、今流行の「ふわっち」や米系の「Twitch日本向けチャンネル」のように、ネット配信で収入を得るということがひとつの職業になるという道を切り拓いたのは間違いなく「ニコニコ生放送」だろう。

このKさんも、「ニコ生出身」の人である。

 

そこに裏切り者がいたとしても

それはさておき、加藤純一さんの「RUST」配信の醍醐味は、人の心理を見事に描き出す点にもある。

 

人気配信者ともなれば、当然多くの視聴者が彼の軍隊の兵になりたいと参加するのだが、それを逆手にとってスパイ行為をはたらく参加者も出てくるのだ。

かつ、世界中のチームがそれぞれのサーバーにひしめいている。

 

すると、何が起きるか。

自陣からして「得体の知れない人物」が出てくる。

 

「共通の大敵を一緒に倒すお手伝いをします」という意図なのか、敵陣が送ったスパイなのかは最初はわからない。

しかし、彼の味方が「あの人はスパイです」などの情報を仕入れてくる。「情報班」とも呼べるだろう。

 

中には、「他のプレイヤーが、加藤さんのせいでサーバーが重くなっていることを不満に思っている」

という情報も得てくる。

さて、その時、彼はどうするか。

 

自ら「首脳会談」に赴くのである。

「今から◯◯のポイントに向かうって相手に伝えてくれ!」と指示をして、これまた裸に石一つで駆けつけるのである。

相手は英語やその他の言語だ。それも、ボイスチャットだ。Google翻訳など使っている余裕はない。

 

ではどうするか。

 

配信で「誰か英語できるやついねーかー!通訳してくれー!」と叫び、実際に英語が得意な参加者を連れて通訳をしてもらうである。あるいはなんとかカタコトの英語でコミュニケーションを取り、プレイヤーの国籍を超えた「連合軍」まで作ってみせるのである。

その様が、まさに「人間が起こしている争い」だという生々しさを見せつけてくれる。

 

ある「首脳会談」では、通訳と一緒に簡易的に小屋を作ってその中で相手と和解し、「誓い」としてその場で手榴弾で一気に自決するというシーンもあった。

 

それも、相手の提案によってである。

しかも英語が流暢というわけではない彼は、最初は相手が何をしたいのか、見た目だけではわからなかった。しかしまもなく、その意図を汲み取った。

 

身軽だからこそできるノリの良さ

もちろん彼がここまでの面白さを持つ配信をできるのは、彼がずっとインターネット上で努力を重ねてきた結果の集客力にほかならない。

 

しかし、自分は裸一貫。

ある時には、優秀な視聴者に拠点作りを任せるが、「場所は俺も知らないほうがいい」と伝える。

本人が妙な所をうろつくと、場所がバレてしまい、敵対者が一斉に襲ってくるからだ。

 

ゲームの世界で何を言っているんだと思われるかもしれないが、オンラインゲームはもはや「人」がそこにある。いや、ネットゆえに近寄ってくる相手が何者なのか余計に察しがつかない。

今や人を束ねる世界とは、そういうものなのである。

 

もちろん、寓話の「裸の王様」とは趣旨が異なるが、自ら裸になることもひとつの戦略なのかもしれない。

(なお、結局は国籍で軍が組まれて敵対するという部分も非常に興味深かった。)

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

facebookを見ていて、茶を吹いた。

以前から胡散臭い商売をしていた知人の外見と職業が、胡散臭さの最終形態へと進化していたからだ。

 

つい先日、私が子供の卒業式のため着物を着用した姿を投稿したところ、そこに件の知人から「いいね」が押されていた。

SNS上では「友達」であるものの、没交渉になってかれこれ9年。その間、相手から私の投稿に「いいね」が押されることなど、これまでに一度も無かったのだ。もちろん、こちらから押したことだってないのだけれど。

 

一体どういう風の吹き回しだろう?

怪訝に思って彼のプロフィール写真を見てみると、スーツ姿で腕組みしていた以前のものとうって変わって、和装のアンサンブル(同一柄、同一品質でできた着物と羽織のセット)できめ込んでいる。

 

日本文化や和装に馴染みがある人ではないのに、なぜ着物を着ているの?

自分が着物を着るようになったから、私の着物姿に「いいね」を押したの?

 

よけい不思議になって彼のページを見に行ったら、どうやら職種を変えたらしい。2ヶ月前に肩書きが更新されていた。

去年までは自称「ビジネスコンサル」で、ぼったくりのセミナー屋だったのが、なんと「宿命鑑定士」になっているではないか。

 

は?宿命??鑑定???

 

ざっと調べてみたところ、宿命鑑定とは、生年月日からその人が生まれ持った才能や未来について鑑定するものだそうだ。

要するに、占いの一種である。

 

インチキ占い師、じゃなかった宿命鑑定士になった知人によれば、

・宿命とは、現世での使命のこと

・宿命を知ることで己の運気を知り、運命を変えることができる

・宿命鑑定を受けると、好機を逃さず、次元上昇の波に乗れる

そうだ。

なかなかのスピリチュアル臭さではないか。私好みのネタである。

 

女のキラキラ起業家は、まっとうな物作りやサービスを販売する実業で稼げないと、コンサルやセミナービジネスという虚業に走り、そこでも行き詰まりを感じると、スピリチュアルに傾倒するのがお決まりだ。

このパターンはてっきり女の専売特許だと思っていたのだが、なんだ、男よ、お前もか。

 

実業で成功するのは難しい。

凡人が起業した場合、商売のセンス以上に必要なのが、時間と根気である。成功を焦ると、上手くいくはずの事業も上手くいかない。

けれど、大抵の起業家は「早く稼げるようになりたい」と焦っており、トライ&エラーを繰り返しながら地道に商品やサービスの改善をはかる前に、心が折れる。

 

そんな時に登場するのが「あなたの悩みを解決します」という、自称ビジネスコンサルである。

「こんなことで悩んでいませんか?成功の秘訣はマインドにあります。あなたもマインドの持ち方を変えれば、今までの悩みが嘘のように解決しますよ。これまで多数の起業家のコンサルをしてきたワタクシが、成功者のマインドの秘密を特別に伝授いたしましょう。起業家のためのマインドアップセミナー、ウン万円。これは、あなたの覚悟の値段です」

残念ながら、焦って知能指数が低下している真っ最中だと、この手のベタなテンプレにまんまと引っかかってしまう。

 

しかし、中身が空っぽのセミナーにいくら高い料金を払っても、何の変化も起こらない。当然である。商売に試行錯誤をスキップできる秘訣なんてないのだから。

 

しかし、IQダダ下がりの上にプライドまで高いとなると、虎の子の金をドブに捨てたと認められなくなってしまい、

「もしかすると、得るものがなかったのは学び足りないせいかもしれない。たった1回のセミナーでは不十分だったんだ」

と、都合よく解釈する。そして、さすらいのセミナージプシーになるのだ。

 

よせばいいのに高額セミナーに重課金し、大枚はたいて自称コンサルから役に立たないアドバイスをもらい続けるうち、やがてどんなバカでもふと気が付く。

「こんなチョロい商売なら、俺(私)にもできんじゃね?」

 

思い立ったら、即行動だ。

何事もまずは形から。髪を整え、眉を揃え、ほんのりメイクもしてもらい、スーツを着て写真撮影。女はお腹の前で手を重ね、男はナナメに構えて腕組みポーズがこの手の写真のお約束。

 

実績なんて無いけれど、信頼できる風の講師っぽい写真が撮れたら、セルフプロデュースはバッチリさ。

大事なのは中身じゃない、外見だ!

本物じゃなくても、本物っぽければいいんだよ。

 

それなのに、楽勝だと思ったセミナービジネスも、いざ始めてみると楽じゃない。

どうして世の中は、セミナー講師やコンサルになりたがる奴らばかりなんだろう。おかげで競争が激しいじゃないか。

カモは奪い合うものじゃない。廻しあうものだろう?仲良くしようぜ!

 

同類との交流が集客に繋がるとばかりに、虚業家同士でランチ会、お茶会、飲み会に集い、お互いのセミナーやコンサルを受け合って、心にもないお世辞を言い合うのが互助会のマナー。

交際費がかさんで仕方ないけれど、投資と思って割り切ろう。

 

だけど、そうした「お付き合い」による集客も、仲間内を一巡すると終わってしまう。

 

商売は水ものと言うが、虚業であればなおのこと。いつだって収入も立場も心も不安定で、将来への不安から逃れられない。

「そんなあなたのマインド、支えます」とばかりに、つけ込んで来るのがコミュニティーに紛れ込んでいるスピリチュアル系の虚業家たちだ。

 

自称・起業家である占い師やヒーラー、霊能者から、霊視だの鑑定だのヒーリングだのを受けているうち、どんなバカでもふと気が付く。

「こんなチョロい商売なら、俺(私)にもできんじゃね?」

 

このようにして、にわか占い師が量産されていくのだろう。

知人は、信頼できる風の占い師であることを演出するために、今度は着物を着ているというわけだ。

「運命というならまだしも、宿命というのは実に嫌な言葉だねぇ。二重の意味で人間を侮辱している。一つには、状況を分析する思考を停止させ、もう一つには、人間の自由意志を価値の低いものとみなしてしまう」

(出典:アニメ「銀河英雄伝説・本伝」シーズン3エピソード24第78話「春の嵐」より)

これは、「銀河英雄伝説」というSF小説の金字塔で、主人公の1人であるヤン・ウェンリーが発した言葉だ。

 

よく「銀英伝・名言集」としてネットにまとめられているが、このセリフには続きがある。

「宿命の対決なんて無いんだよ、ユリアン。どんな状況の中にあっても、結局は当人が選択したことだ」

「すみません...」

「いやぁ、これは、私自身に戒めて言っていることさ。宿命なんていう便利な言葉があるとつい、自分の選択をそのせいにして正当化したくなる。
私はべつに、いつも自分が正しいなんて思っちゃいないよ。が、同じ間違えるにしても、自分の責任で間違えたいのさ」

私が銀英伝のアニメシリーズを見るためにレンタルビデオ屋に通い、原作小説を貪り読んでいたのは中学生の頃である。当然、大いに影響を受けた。

 

ヤンのセリフに私なりの解釈を加えると、宿命とは「状況を分析する思考を停止させる」と同時に、「状況にあらがわず諦める」ことを肯定するための方便なのだ。

 

スピリチュアルに傾倒する人たちは、自分の思い通りにならない状況を、いつも何かのせいにしている。

「私が◯◯を苦手なのは、前世が関係しているせい」

「何をしても上手くいかないのは、大殺界だから」

「結局いつもこういう結果になってしまうのは、宿命なのよ」

そうやって便利な言葉で理由をつけて、「まずは現実を直視し、現状を受け入れる。その上で、現実的な解決策を考えて、自ら行動を起こす」ことを拒否している。

 

宿命鑑定士と肩書きを変え、仕事を志事と表現するようになった知人のプロフィールは、いつまで着物姿だろうか。

お手並み拝見である。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

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大規模な仕様変更などで現在、ユーザーに混乱が目立つTwitter(現X)。

オーナーであるイーロン・マスク氏は、Xだけでなく、テスラやスペースX、直近話題のブレイン・マシン・インタフェース開発企業のNeuralinkなどの経営も担っており、多忙を極める身です。

 

しかしそんな状況でありながら、2023年5月の報道によれば、マスク氏は、テスラ社の全ての新規採用について、自身の承認がなければ認めないという方針を示しました。

 

全ての新規採用に関与する姿勢に、その必要はあるのかと多くの人は疑問を抱くでしょう。しかしこの方針の根底には、マスク氏の経営戦略にも繋がる、ある採用観が見えてきます。探ってみましょう。

 

成功のためには、採用は絶対に妥協しない

企業を立ち上げる際、「最低でもA評価でなければ入隊させない」ということを実践してきた―これは2008年のWeb 2.0 Summitでの発言ですが、ここからはマスク氏の採用に対する強いこだわりが見えてきます。

 

彼はスタートアップを将来的に優れた大企業に育てるためには、このルールを厳格に守る必要があると考え、「特殊部隊戦略」と呼びました。同時に「非常に厳しい環境を乗り越え、最終的に影響力の大きな企業に育て上げるためには、極めて高い能力を持ち、組織のために命をかけて働く人材を集める必要がある」とも発言しています。

 

実は、“成功のためには、採用は絶対に妥協しない”という考えは、組織づくりにおいて非常に重要な鉄則です。

 

たとえ自社が今、人材不足だとしても、採用基準を緩めてはいけません。なぜなら、妥協して基準に満たない人材を採用してしまえば、後々組織に好ましくない影響を与えてしまうからです。

 

例えば、採用した人材への育成コストが想定以上にかかることで現場の負担が増したり、その人材がカルチャーに合わない場合は職場の人間関係を乱したりする可能性があります。これらが重なると、現場の士気が下がったり、業務の品質が落ちたりするなどの問題が生じるおそれがあるのです。

 

組織で発生する問題の中には、元をたどれば採用の失敗が原因である場合があります。マスク氏の姿勢は、おそらくこうした採用の妥協によるマイナスの影響を考慮してのことでしょう。

 

最初に人を選び、後から目標を決める―『ビジョナリー・カンパニー2』との共通点

さて、ここまでマスク氏の採用観を見てきましたが、経営の観点からも彼の思想を紐解いていきましょう。

 

参考にするのは、ジム・コリンズ著『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』で示されている原則です。多くの経営者に読まれ、絶賛されている経営の名著のひとつである本書のなかでも、採用の重要性が説かれています。有名な一節「だれをバスに乗せるか。最初に人を選び、その後に目標を選ぶ」をご紹介します。

 

ここでは、飛躍を導いた指導者は、次の3つの真実を理解している、と言います。

 

第1に、成功を収めるためには「何をすべきか」よりも「誰を選ぶか」を先に考えるべき、ということです。そうした組織であれば、行き先を柔軟に変えることもでき、環境変化にすぐに対応できるでしょう。

 

第2に、適切な人材が組織に参加してくれれば、動機付けや業務管理などの問題はほとんど発生しないということです。組織に相応しい人材は自らの意欲を持ち、最高の成果を出すために行動してくれるのです。

 

第3に、不適切な人材が多い組織は、たとえ優れた方向性や計画があっても偉大な企業にはなりえないということです。偉大な人材が揃っていなければ、どれだけ素晴らしいビジョンがあったとしても、意味を持ちません。

 

お分かりの通り、先ほど見てきたマスク氏の採用観とは、共通点が多いでしょう。さらに本書では、「疑問があれば採用せず、人材を探しつづける」とも述べられており、採用は妥協してはいけないことが強調されています。

 

ただ、ここまで見てきて、ふとこう疑問を持った方もおられるでしょう。「採用にコミットする重要性はわかったが、なぜ、マスク氏自ら関わり続けるのか?」という疑問です。

 

あくまで推測ですが、マスク氏が採用に関わるのは、経営戦略上の理由があるのではないかと考えます。

 

マスク氏が採用にコミットする理由とは?―経営戦略の一端に迫る

環境変化が激しい現在、優れた戦略だけで競争を勝ち抜くのは困難です。つまり、競争優位性の源泉はその実行を担う人材にあるのです。採用によって事業の成功可否が決まると言っても過言ではありません。

 

しかし、採用が経営上重要と言いながらも、組織の規模が大きくなると、経営者は見るべき範囲が広がり、やむを得ず採用現場から遠ざかってしまいます。代わりに、採用責任者や担当者に任せるようになりますが、その際、発生するのが採用のジレンマです。

 

採用責任者や担当者も「採用は妥協してはならない」とわかっていながらも、その厳格さを保てずに妥協してしまうことがあります。それは「人手不足を埋めるために急いで採用しなければならない」という焦りによるものです。

 

経営からは事業成長には人材が不可欠だと言われ、現場からは待つ余裕がないから急いで人材を採用してくれとの要求が寄せられます。採用責任者や担当者は、こうしたプレッシャーに挟まれるのです。しかし、どんな魅力的な企業でも優秀な人材を採用するのは簡単ではありません。

 

こうしたプレッシャーの中で不意に「採用後に育成すれば良い」という甘い囁きがあると、いつしかその厳格さは失われていきます。結果は想像にかたくなく、やがて組織は平凡化し、弱体化していくという訳です。

 

こうした背景を踏まえるとマスク氏は「非常に厳しい環境を乗り越え、最終的に影響力の大きな企業」を実現するための経営戦略において、自らが採用の強いリーダーシップをとることが重要だと考えていると捉えることができます。

 

イーロン・マスク氏は一見破天荒な行動をとる人物ですが、彼の思想を探ってみると、実は経営の基本原則に従って行動していることがわかります。今回のテスラにおける採用への関わり方も、極めて原理原則に基づいていると言えるでしょう。

 

経営者が採用に本気で取り組んでいるかどうかが、企業の将来を決めるのです。それはマスク氏がこれまで手掛けた事業を見れば、火を見るよりも明らかです。

(執筆:太田 昂志

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Ben White

かつて在籍していた会社には、優秀な人がゴロゴロいた。

 

会社では、顧客にアンケートを取っていたので「どのくらい優秀か」は数値ではっきりと示された。

優秀な人は、明らかに顧客の満足度が高く、プロジェクトの継続率も高い。

 

おまけにマネジャー以上になると、営業の数字もはっきりと出る。

特に受注率は重要で、優秀な人は明らかに提案を出してからの受注率が高かった。

 

そんな人に対して、私は「すごいなあ」という気持ちと、「悔しい」と言う気持ち、両方があり、どちらかというと「悔しい」が勝っていたように思う。

だから、彼らの実力をそのまま認めることができなかった。

もっと具体的に言えば「彼らは運が良い」「実力的にはそう変わらない」のだと自分を納得させ、彼らから学ぼうとしなかった。

 

教えを乞う事もしなかったし、「同行させてくれ」と頼みに行くこともしなかった。

それは「負けたような気になるから」だ。

 

 

しかし、そんな自分を見透かしている人も、たくさんいた。

当然だ。彼らは優秀なのだから、自分よりも未熟な人間はすぐにわかる。

 

だから先輩の一人は、私に向かって「素直じゃないねえ」と言った。

わたしはカチンときて、先輩に抗弁したが、まあ、彼らは優秀なので、そんなことも含めて、お見通しだった。

「そんなことしてると伸びないよ。これ以上。」

そうはっきりと指摘された。

 

わたしは悩んだ。

自分のプライドを取るか。

それとも「自分が無能である」と言う事実を受け入れて、彼らに教えを乞うか。

 

結局私は「無能だ」という事実を受け入れた。

それは、借金返済のためのカネが欲しかったからだ。

評価は客観的な指標をもとになされるから、私は高い評価を得ている人間に学ぶ必要があった。

 

だが一つ問題があった。

「高い評価を得ている」人間たちが、快く私に教えてくれるかどうかは、わからなかった。

彼らは忙しいし、私に、自分が苦労して得たノウハウをくれてやる義務はない。

 

そこで、苦肉の策を取った。

成果をあげている人物に対して、相手の人格に関わらず、本気で下手にでて、ひたすら教えを乞うことにした。

しかもそれは表層だけの話ではなく、「心からやる」ことが必要だった。

つまり「彼の能力は完全にわたしよりも上で、それについては私は一切の批判的意見を持たない」と、思うことだ。

 

バカなことだと思うだろうか?

しかし、私はこの決定を合理的だと思った。

 

なぜなら、「私は無能」なのだから、私には「彼らの行動の良し悪しが判定できない」からだ。

それが「教えを乞う」ことの本質だ。

 

教わりたいなら、教えてくれる人に対して、批判的であってはならない。そうして、彼らから一つ残らず吸収するように動く。

彼のやることなすこと、すべてに対して「オープン」になるようにする。

 

そうして、少しずつ「自分より優秀な人々」を模倣することが、唯一の生き残りの道だった。

 

 

後日分かったことだが、これは「教育」の本質を含んでいた。

本物の教育には、自分には知らないことが(たくさん)あると知ることも含まれている。持っている知識だけでなく、持っていない知識に目を向ける方法を身につけるのだ。そのためには思いあがりを捨てなければならない。知らないことは知らないと、認める必要がある。

何を知らないかを知るというのは、自分の知識の限界を知り、その先に何があるかを考えてみることにほかならない。

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つまり「自分がわかっていないことすら、知らない」ことを前提にすれば、とにかく「自分は下である」と思い込む必要がある。

 

「リスキリング」と言う言葉がはやっている。

しかし、本当の意味で「リスキル」が難しいのは、「自分は下である」ことを、行動として体現するのが難しいからだ。

なぜなら、プライドに関わることが多いから。

 

だから、私は今もなお、「優秀だな」と思った方に対しては、徹底して「上下関係」を自らつくりに行くのが良いと思っている。

もちろん、自分は「下」だ。

バカにされるときもあるが、別に気にしなければいいだけの話だ。

 

つまらないプライドで飯は食えない。

だが、成果を上げる方法さえ身につければ、もう食うに困らない。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Sergey Zolkin

わたしは社会人になって、人から「教養は大事」と何度か諭されたことがあります。

そして、その理由は細かい点では異なりますが、おおむね共通していたように記憶しています。

 

 

そもそも、わたしは以前は「教養懐疑派」でした。

というのも、(今思えば)ステレオタイプに「教養は他者にマウントするための道具」という程度にしか思っていなかったからです。

 

芸術、文学、音楽、数学。

それらの「知識」を持っていない人間に誇示し、「我々はあなたたちとは違う」と知らしめるための、差異を可視化するための道具。

そのような理解でした。

 

ですから、私が当時の先輩の一人から、「コンサルタントにとって、教養は大事だよ」と言われた時に、「面倒な話だな」と思った記憶があります。

しかし、新人は先輩のいう事を素直に聞かねばなりません。

そこで「なぜですか」と聞きました。

 

すると先輩は言いました。

「教養って、なんのことだと思う?」

「芸術とか、それこそ一般教養とかいう、すぐに役に立たない知識のことじゃないですか」

 

先輩はそれを聞いて、苦笑しました。

「そうそう、そう思うよね。」

 

「ちがうんですか?」

「いや、違わないよ。私もそう思ってたし。」

 

わたしはからかわれているような気がして、先輩に尋ねた。

「今はどう思っているんですか?」

「こういうやり取りができることが、「教養」って思ってる。」

 

教養があるとは「考え方のレパートリーが豊富」だということ

「どういう事でしょう?」

わたしが聞くと、「うまく説明しにくいんだけど」と彼はいった。

 

「僕が教わったのは、教養があるとは「考え方のレパートリーが豊富」だということ。」

「よくわかりません。」

 

「例えば、安達さんが「すぐに役に立たない知識」だとさっき言ったよね。」

「言いました。」

 

「僕は、別に自分に教養があるとは言わないけど、「安達さんみたいな考え方もある」っていう事は知ってた。だから「そう思うよね。」って心から言えた。」

「はあ。それはどうも。」

 

「実際、教養の負の側面として、役に立たない知識だからこそ、格差を固定して、身分を作り出す、っていう考え方が世の中にはある。」

「そうなんですね。知りませんでした。」

 

「そうそう、でも、だからこそ教養があると「この人はなんでこう考えているんだろう」「どういう思想を持っている人なんだろう」って、想像ができるようになると思ってる。そうしたら、お互いの深い理解につながるんじゃないかって。」

 

先輩の話には、それなりの説得力があった。

「なるほど、考え方の切り口が多様だと「そういう人も多い」と思えるから、コミュニケーションに余裕ができますね。」

 

「うん、そういう効果もあるんだけど、そもそも「いろんな人がいろんなことを考えている」ことがわかるだけで面白いじゃない。コンサルタントは変わった人に会うことが多いからね。引き出しが多いほうが、相手を尊重できるし、絶対にうまくいくよ。」

「確かに……そうです。」

 

「一見、わけのわからない現代美術も、様々な「試行錯誤」の果てに今の形になっていると知ると、十分納得がいくものだったりする。だから教養って、別に人に誇示するものじゃなくて、より良い相互理解につながるもの、って僕は思っている。」

 

他者への「想像力の欠如」が最も怖い

コンサルタントの仕事をやっていて、もっとも怖いことの一つは、「お客さんの要望」をきちんとくみ取れないことです。

そしてそれは多くの場合、「人の発言」の裏を想像し、行動を検証していくことでようやく、理解できるようになります。

 

その「想像力」を育て、人の心理への洞察力を得るために、教養は必須なのだと、先輩は教えてくれました。

 

そう考えていくと、様々なものが「教養」と呼べるようになります。

例えば、わたしはSFが好きです。

「幼年期の終わり」

「ファウンデーション」

「1984年」

「星を継ぐもの」

「月は無慈悲な夜の女王」

「ハイペリオン」

近年では「三体」もとても良い本でした。

そしてSFを読むたびに思うのは、作者たちの卓越した想像力と、人間への深い理解です。

 

例えば「月は無慈悲な夜の女王」には、次の一説があります。

組織とは、必要以上に大きくあってはいけないのですよ……単に参加したいというだけの理由で同志を入れては絶対にいけません。そしてまた、ほかの人に自分と同じ見解を持たせるという楽しみのために、他人を説得しようとしてはいけないのです。

あるいはこんな一説も。

成人とは、人間が必ず死ななければいけないことを知り……そしてその宣告をうろたえることなく受け入れられる年齢だと定義してもいいぐらいなんだよ

こうした「切り口」は、様々な分野に興味を持てば持つほど、多様になることでしょう。

 

 

世の中には「手っ取り早く教養を身につける」ための「教養本」というものが書店にならんでいます。

中身はたいてい、まとめ記事のような構成になっており、様々な知識をダイジェストで入手することができるようになっています。

 

批判もあるでしょうが、わたしは「ダイジェスト教養」も悪くない、と思っています。

教養には「ひとより多く知って気持ちがいい」という側面があることも事実ですし、それをきっかけに、未知の分野に興味が喚起されることもあるでしょう。

 

ただそれが「人にマウントする」あるいは「知識をひけらかす」だけの目的になってしまうと、本末転倒なのかもしれませんが。

 

難しい仕事ほど、人間理解なしには成り立たないものです。

コミュニケーションが特に重要とされる現代の仕事において、「教養は大事」だと諭してくれた先輩には、今でも感謝しています。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Kateryna Hliznitsova

日本は過剰にサービスするから客がつけあがるんだ。

サービス業でももっと気楽にやればいい。

そんな主張の一例として挙げられるのが、「座ってレジ業務をする」だ。

 

「海外では座ってレジをするのが当たり前。日本ではみんな立っているが、余計な負担になるだけでなんのメリットもない。別に、レジ業務は座ってやってもいいだろう」

こういう理論だ。

 

わたしも以前は同じ考えで、ドイツから日本に一時帰国すると、「ずっと立っていて大変そうだなぁ。座ればいいのに」と毎回思っていた。

が、先日ふと思った。

「海外でも立ってレジをしていることは多いし、結局合理性の問題じゃん」と。

 

「海外では座ってレジするのが当たり前」は本当か?

1年半も前のポストになるが、こんな投稿があった。

https://twitter.com/Tsim5Mayday/status/1557971681930465281?s=20

たしかに、日本のスーパーはきちんとしすぎだと思う。客としてはもちろん助かるが、それが従業員の負担になるのなら、「そこまでしなくていい」という人は多いだろう。

また、「スーパーマーケット・ベイシアのレジ従業員に、座りながら仕事をさせてください! #座ってちゃダメですか」というオンラインの署名活動もされており、実に2万以上の署名が集まっている。

 

この署名ページでは、「海外のスーパーではレジ係は座っていて当たり前」としたうえで、「働く現場においても理不尽なルールがたくさんありますが、私たちが声をあげれば変えていける」とこの署名活動を開始したそうだ。

たしかにわたしが住むドイツのスーパーでもレジは座ってやるものなので、別に日本でも座ればいいのになぁ、と思う。

 

しかし先日行ったドイツの大型ドラッグストアで、とあることに気が付いた。

地下のレジ業務は座ってやっているのだが、1階ではみんな立ってレジをしているのだ。

 

改めて考えると、その日行った薬局や香水屋さん、本屋さんなどのレジ業務は、みんな立ってやっていた。

あれ、スーパーではレジは座ってやるけど、ドイツだって案外立ってレジしてるところが多いぞ?

 

立ってやるレジと座ってやるレジのちがい

立ってやるレジと座ってやるレジ。いったいなにがちがうのか。

それは、「ベルトコンベアかどうか」だ。

 

「韓国のスーパーでは座ってやるのが当たり前」というこのポストの写真を見ていただきたい。

https://twitter.com/drjpstudies/status/1558088312317181953?s=20

そう、座ってやるレジとは基本的にベルトコンベア式であり、客がベルトコンベアに商品を置き、レジ係はその商品をスキャンして、そのまま横に流す(画像左下の台のところ)。

レジ業務は、流れてくる商品を読み込みその商品をさらに横に流していく作業、つまり左右運動なので、くるくる回るイスに座りながら仕事をしているのだ。

 

一方、ドイツでも薬局や本屋のレジにはベルトコンベアがない。

理由はおそらく、スーパーのように大量に買うことを前提としていないことと、従業員がレジ以外の業務も担当していることだろう。

 

たとえば薬局ならバックヤードで薬の整理、本屋なら本の案内などで、レジを離れることも多い。そうなると、立ってレジをしたほうが手っ取り早い。

 

先ほど紹介した地下は座って、1階は立ってやるレジのドラッグストアは、地下は日用品コーナーで洗剤やシャンプー、掃除用品などが置いてある一方、1階は化粧品がメインでレジ業務の人は化粧品の案内も兼ねていた。

だから地下のレジにはイスがあり、1階はなかったのだろう。

結局のところ、海外だとか日本だとかは関係なく、「立っていたほうが合理的だから立っている。座っているほうが合理的なら座る」だけの話なのだ。

 

「座って会計」から合理性を求めて立ってやるレジに

では日本のレジシステムでの合理性はどうか。

日本のスーパーのレジは基本、客が商品を入れたカゴを持って行き、レジ業務担当者はカゴから品物を取り出してまたカゴにしまうという上下運動。上下運動をするのなら、立ってやったほうがいい。

 

セルフレジをやってみるとわかるが、カゴを使って買い物をすることが前提の場合、立って会計したほうが圧倒的に楽だ。

上記の署名活動では、立ってレジ業務をすることを「理不尽なルール」としているが、理不尽もなにも、ただ「合理的だから立っている」だけである。

 

そもそも少し昔の話をすれば、日本でも、お店の人は座っているのが当たり前だった(今でも田舎の個人商店などはそうかもしれない)。

 

たとえば、江戸東京たてもの園の東ゾーンにあるいくつかの建物を見てみよう。

1枚目は文具店で、2枚目は荒物屋、3枚目は小間物屋だ。

いまではめったにお目にかかれない、店の奥が住居になっており、お客さんが来たら座布団の上に座って接客するスタイル。

日本だってちょっと前までは、座っていたほうが合理的だったから座って会計していたのだ(そもそも畳だし……)。

 

その後、西洋式のレジスターが普及し、大量消費社会に突入。

従業員が立ってレジの省スペース化、従業員が品物をカゴにつめ、客は会計後レジから離れて改めて鞄にしまいなおすことでレジの混雑を緩和、という方法が主流になった。なぜならそれが合理的だから。

 

つまり、「座ってレジをすればいいじゃん」を実現するためには、座ってやるほうが合理的なレジシステムにする必要があるのだ。

それがなければ、非合理的な働き方改革を迫ることになるので、経営陣は首を縦にはふらないだろう。

 

なぜレジ業務は座っちゃダメなのか?結局は合理的な方法が選ばれる

立ちっぱなしより座ってたほうが楽。

そりゃそうだ、気持ちはよくわかる。

 

でもそう思っている人がたくさんいるのにそうならないのは、立っていたほうが合理的だからなわけで。

座ってレジ業務をするためには、多大なコストをかけて、そっちのほうが合理的になるシステムに移行しなくてはいけない。かんたんにいえば、左右運動を前提としたベルトコンベア式だ。

 

現在の「カゴから品物を取り出したり入れたりする」という上下運動のレジでは、どうやっても立ったほうが効率的だから。

が、システムを丸ごと変えるコストをペイできるほど、座ることで利益が上がるのか? 従業員の満足度が上がり、離職を防いで人材確保ができるのか?

そうなると、さすがにちょっと説得力がない。

 

実際日本でも、病院の受付や一部の銀行など、座っても業務に支障がないと判断されているところは座って業務をしている。何度もいうが、あくまで合理性の話なのだ。

「座るのは利益のためではなく働きやすさの観点での要求だ」という主張もわかるが、それなら企業だって「働きやすさの問題ではなく効率の問題だ」と主張するだろうし、「じゃあデスクワークすればいいじゃん」と言われて終わりな気がする。

 

結局のところ働き方改革だって、「働きやすくしたほうが人材が定着する」「定時帰宅のために業務の効率化が進む」といった合理的な側面があるからこそ進んでいるわけで。

そういったメリットがない、働き方改革のコストに見合うペイを期待できない状態なら、進まなかっただろう。

 

つまり「日本でもレジ業務は座ればいいじゃん」が実現しないのは、「日本は働きづらいから」ではなく、「座ることが合理的じゃないからレジシステムだから」。

なんでもかんでも「日本は働きづらい」「海外に比べて遅れている」というのもちがうようなぁ、と思った話である。

 

ちなみにベルトコンベア式は、客がレジでベルトコンベアに品物を乗せ、会計したあともレジで直接鞄に詰めるせいで、日本のレジよりかなり時間がかかる。

日本のスーパーの混雑具合はドイツの比ではないので、実際ベルトコンベア式にして座って会計したら、業務が楽になるどころか長蛇の列ができてよりしんどくなると思ったほうがいい。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :sq lim

先日、新宿駅西口の海鮮居酒屋で酒を飲んでいた時のことだ。

飲み会のお相手は、大学教授のミホコさんとプロサックスプレイヤーのさやちゃん、敬愛する友人お二人である。

 

昼の12時を過ぎたばかりだというのに、周囲は同じような呑ん兵衛たちがビールにワインにと、盛り上がりを見せる。

固い木の椅子、安物のテーブルのしつらえが昼飲みの退廃的な雰囲気を盛り上げており、皆が刹那的な楽しみに時間を忘れている。

 

その時にふと、さやちゃんの荷物に目がいった。

明らかに楽器のようだ。もしかしてサックスが入っているのだろうか。

「何言ってるのよ!モモちゃんが時間厳守で12時に来いっていうから、家に持って帰る時間がなかったんやん!」

 

楽器のメンテナンスついでに、飲み会に駆けつけてくれた彼女だ。

遅れられないと、命と同じくらい大事な楽器を抱えてお店に飛んできてくれたのだという。

申し訳なく、ウナギ丸ごと1匹焼き、大エビフライ2匹乗せのエビチャーハンを注文し、ご機嫌を取る。

 

しかし楽しい時間ほどあっという間に過ぎ去ってしまうのが、人生の不条理である。

「お楽しみのところ申し訳ありませ~ん、混み合ってきたのでラストオーダーです!」

やむを得ず3人で2次会の店を探し始めるのだが、その時ふと、ダメ元でこんなお願いをしてみた。

「ねえねえ、2次会は3人でカラオケ行きませんか?さやちゃんの生演奏、そばで聴きたい!」

 

プロの演奏家に向かって、我ながらいい度胸だ。

狭いカラオケボックスで生演奏するだけでなく、なんなら私のヘタクソな歌に合わせて伴奏しろと、要求してみせたのである。

 

それを聞き、席を外してしまったさやちゃん。

そしてこの後、彼女からこんな事を学ばせてもらうことになる。

「運の良さ、運の悪さって、こういうことか…」と。

 

「自分のためにやれ」

話は変わるが、令和の時代に世界で活躍するプロ野球選手と聞かれたら、思い浮かぶのは大谷翔平(文中敬称略)だろうか。

しかし10年ほど前まで、それ以上にメジャーリーグと日本人を熱狂させた選手がいた事をご記憶の人も多いだろう。

イチローこと、鈴木一朗のことである。

 

首位打者7回などの大記録を引っ提げて米メジャーリーグに渡り、その勢いのままに新人王、MVP、首位打者などの主要タイトルを総ナメにし、長年にわたり全米を熱狂させる。

さらに2004年、31歳の時に打ち立てたシーズン262安打はメジャーリーグ史上最多記録であり、未だに破られていない。

文字通り、日米両国の記録・記憶に残る偉大なスター選手である。

 

しかしそんなイチロー。高校時代、そしてプロ野球に入ってからも暫くの間は、決して一流と言えるような選手ではなかった。

愛工大名電高時代には、甲子園に2度出場するもいずれも初戦敗退。

 

ドラフト会議では4位指名でのオリックス入団であり、決して注目を集めたとはいえないプロデビューとなる。

さらに試練は続き、プロ3年目の1993年、20歳の時の成績は43試合出場で12安打、打率1割8分8厘と低迷を極めた。

もはやいつ戦力外通告をされてもおかしくない、3流以下の選手として4年目を迎えたのである。

 

そして正念場となるシーズン、開幕してすぐの94年4月のこと。

ダイエー戦に0-3で敗れた帰り道で、イチローの人生に転機が訪れる。

 

イチローの才能を見出したオリックス監督、仰木彬(当時)はショボくれた顔をする彼を見つけるとこんな声を掛けた。

「お前、なにをそんなに暗い顔してるんだ?試合の勝ち負けは俺に任せとけ。お前、二塁打1本打ったじゃないか。それでいいんだ。お前は自分のことだけ考えてやれ」

(デイリースポーツ:イチローが語る仰木監督

 

チームプレイでは、チームのために戦うマインドを常に求められる。

しかし仰木は、成績の振るわないイチローに対し、

「お前は自分のやるべきことだけ、しっかりやれ」

と喝を入れ、その結果責任を全て負うと宣言したのである。

 

「調子のいいこと言っても、どうせ成績が出ないと2軍に落としてクビにするだろう」

そんなふうに思うだろうか。

しかしこの話には、実は伏線があった。

 

繰り返すが、前年のイチローの成績は43試合出場で12安打、打率1割8分8厘と、もはやプロとして通用しないことを示した不本意なシーズンとなった。

しかしそのオフの宮古島キャンプで、仰木はイチローのスイングに目を奪われ、類まれな才能に気がつく。

そしてオープン戦でこの“ポンコツ”を出場させ続けると、スタッフにこう宣言した。

 

「こいつはええぞ」「今年、最初から使うぞ」

(プレジデントオンライン:無名選手だったイチローに、オリックス仰木監督がひとつだけ施した"手直し"の中身

 

この時のことを、当時オリックス広報部員だった横田昭作は、やはりプレジデントにこう語っている。

「仰木さんは、やれると思ったらずっと使うんです」

 

想像してほしいのだが、自分なら本当にこんなことできるだろうか。

勝ち負けに全責任を負う監督であり、結果次第では即日、クビになりかねないのである。

打率2割以下の選手など、どう考えても2軍に落とすのが当然の判断だろう。

そんなイチローを1軍で出場させ続け、「お前は自分のやるべきことだけ、しっかりやれ」と、喝を入れたのである。

 

その時のことをイチローは、こう述懐している。

「その瞬間から自分のためではなく、この人のためにやりたい、と思った」

 

「自分のためにやれ」と言われたのに、「この人のためにやりたい」と決意を固めるー。

まるで逆だが、これこそ本物のプロ同士が、共鳴した瞬間だったのだろう。

お互いの為に責任を取り合う覚悟を決めた、まさに歴史的選手が生まれた瞬間である。

それを裏付けるようにイチローは、デイリースポーツのインタビューに、このようにも答えている。

 

「自分のプレーによって監督が恥ずかしい思いをするかもしれない。『監督に守られてる』っていうのはこういうことですから」

 

リーダーが責任を取り切る覚悟を示した時、部下もまた覚悟を決め、リスクを恐れず躍動し始める。

これこそ、リーダーにのみ切ることができる唯一無二の最強カードだ。

そしてこの年、イチローは全130試合にフル出場し、打率3割8分5厘の大記録を打ち立て、そのまま世界に駆け上がっていくことになる。

 

“プロが持つ力”の正体

話は冒頭の、真っ昼間の飲み会についてだ。

席に戻ってくるなりさやちゃんは、こんな事を言った。

「近くで予約取れたんで、ほな行こか~」

プロの演奏家にムチャなお願いをして怒らせたかと冷や冷やしたが、なんのことはない、タバコついでに近くのカラオケボックスを予約してくれていたのである。

 

さっそくカラオケに到着するとリモコンを奪い、オハコの『銀河鉄道999』を打ち込む。

前奏に合わせてサックスをあわせ始めるさやちゃん。

この後、言葉にするのが難しい、本当に特別な経験をする。

 

“音でケツを蹴られる”と表現すればいいのだろうか。

ジャズ特有のアレンジで、ボーカルや音楽に合わせて複雑な演出を入れてくるのだが、その音量、熱量が彼女の声になって鋭く心に刺さる。

「もっと声出せ!」

「ここはもっと、ムーディーにいこうぜ」

 

サックスの音量が上がれば、自然に声量もあがり気持ちがアガる。

サックスが繊細になれば、それに合わせ繊細な感情を表現したくなる。

本来はサックスがボーカルに合わせるのだろうが、サックスに操られてしまう。

しかしその演奏の意図がわかれば、気持ちよく“一つの音楽”を作り上げる快感にのめり込み、経験したことのない世界に沈み込んだ。

 

真冬だというのにすっかりと汗をかき、2曲目を歌い終えたところで、大学教授のミホコさんがこんな事を言った。

「桃野さん、カラオケでも全力投球ですね!」

それは半分正しく、半分間違いだ。

 

実は私は、カラオケと言えば採点機能をハックすることが趣味で、

「どうやって機械のご機嫌を取り、ヘタな歌で高得点を叩き出すか」

にしか興味がなかった。

 

しかしそれは、例えばSEOという名のもとにgoogleのご機嫌を窺い、判で押したようなゴミコンテンツばかりが溢れるようになったインターネットに似ている。

 

コンテンツは読者のためにあるのであって、googleのためにあるのではない。

音楽は人と人の心を繋ぐためにあるのであって、採点機能で高得点を出すための道具ではない。

さやちゃんの生演奏にあわせて歌えたことで、今更のようにそんな当たり前の事実に気がつけた。

まさにプロの仕事であり、心から感謝している。

 

そして話は、イチローについてだ。

仰木監督は20歳のイチローのセンスを見出すと、自分のキャリアと引き換えにしてでも、この若者を育てるリスクを背負った。

そのことに共鳴し、イチローが確変モードに突入したことは先述のとおりだ。

名将と邂逅できた、運の良さと表現してもいいだろう。

 

しかし結局のところ、“運の良さ”とはこんな表現に集約できる。

「この人たちのおかげで、今の自分がある」

 

そして“運の悪さ”は、こうだ。

「こんなに頑張っているのに、なぜうまくいかないんだ」

運の良さとは感謝の潜在意識であり、運の悪さとは他責への転嫁ということである。

 

仰木監督と出会い本来の力を引き出されたイチローは、きっと自身の運の良さを今も噛み締めているだろう。

そして私も、さやちゃんの演奏で歌の新たな楽しさを引き出され、未知の世界を垣間見ることができた。

本当に運の良い、幸せな邂逅に感謝している。

 

組織や部下の結果が出ず、運が悪いと嘆いているリーダーには、ぜひ考えて欲しい。

その認識にこそ、根本的な原因があることを。

運が悪いと考えていること自体が、すでに他責でありリーダー失格であることを。

本物のプロに出会うことができればきっと、そんな事実に気がつけるはずだ。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、埼玉県和光市に4泊5日で出張に行ったのですが、駅前のコンビニにも西友にも成城石井にも、スーパードライのフルオープン缶が売ってないんですよ。
もしかして埼玉県民さん、フルオープン缶はお嫌いなんですか?(泣)

X(旧Twitter):@momono_tinect

fecebook:桃野泰徳

運営ブログ:日本国自衛隊データベース

Photo by:

先日、新宿で飲む機会があった。

昼スタート。一緒にいた2人は夕方には引き上げなければならないということで、おふたりをそれぞれの駅まで見送り、はて、と頭を捻った。

 

まだ、まっすぐ帰宅できる理性はあるし、できるならそれに越したことはない。

しかし日々引きこもり生活を送っているわたしは、都心に出てくるのは貴重な機会だ。

 

自然と足が「思い出横丁」に向かう。

こんなことしているからお金が貯まらないことだってわかっている。でも、いつものことだ。

まあ、財布はともかく、死にはせんだろ。

 

もはや立派な観光地

「思い出横丁」とは、西新宿の一角にある、狭い路地に焼き鳥やもつ焼き、ちょっとした居酒屋がひしめく飲み屋街である。

小さな店ばかりがぎゅうぎゅうに集まっている。感覚としては屋台村のようなものだ。

Wikipediaの説明はこんな感じだ。

空襲の跡がまだ生々しい1946年(昭和21年)ごろにできた闇市にそのルーツを持つ。かつては小田急百貨店新宿店まで広がり、300軒ほどの店舗が立ち並んでいたという。

別称「ションベン横丁」。酔っ払いがそこらで立ちションベンをすることでこう呼ばれていた。

間口の狭い、カウンターを作るのがギリギリというサイズの店がひしめく。

 

しかも、これらの店にはトイレがない。

横丁全体の共有トイレが一か所あるだけだ。

ごく最近改修されたが、まあ、言うほど快適ではない。

 

正直、飲食の場としてはめんどくさい。

しかし、外国人観光客でつねに混雑している。

わざわざ海外から来て寄るところか?と疑問に思うくらいだが、思い出横丁で焼き鳥を食べる、これが人気らしい。

特に白人ウケが良いようだ。

 

一見さんのおひとりさまでも問題なし

さて、わたしにはひとつの特技がある。

だいたいの店に、ひとりで一見さんでフラッと入るのに抵抗がない。

そうやってこの路地をうろついているうちに、ある行きつけができた。

 

Bar ALBATROSS。この狭い間口によくこんなにちゃんとしたバーを作ったなあと驚くくらい、しっかりしたバーなのである。
外国人も多い。

 

数ヶ月に1回くらいしか足を運べないのだが、スタッフさんはみんなわたしのことを覚えてくれていて、居合わせたお客さんも、なんだか覚えてくれている。

まあ、いつも大はしゃぎするから覚えられてるんだろう。

 

最初にこの店に来た時は、隣に坊主頭のサラリーマンが座っていた。

わたしも楽しくなっていたので、その人の頭を撫で回したことはよーく覚えている。

坊主頭のジャリジャリ感が気持ち良いのだ。

 

そうしているうちに、その日カウンターにいたいろいろなお客さんと盛り上がって、えらく気分良く帰宅した。

そうやって飲みの場で誰とも仲良くなってしまうのもまたわたしの特技なのだが、実はちょっとしたコツがある。

 

「ひとりで来ている客の隣」の席を選んで座るのだ。

ひとりでカウンターで飲んでいる客って、自分も含めて、話し相手が欲しい人が多い。

中には「話しかけるなオーラ」を放っている人もいるので、そこはさすがに空気を読むが、場所が場所である。

 

銀座の高級バーなどではない。

ひとりでしっぽりやりたい人は、そもそもこんな騒々しいところには来ない。路地裏に身を隠しながらも、その空気、その店の良さがわかる人とならば楽しみたいという客が多いと思う。

(この手法で、伊勢崎町のある店で隣に座った見知らぬ人からビールを奢ってもらったことがある。スロットで勝ったらしい)

 

キラーカクテルを自分に見舞う

さて、この日も「大当たり」だった。

何がかというと、楽しいお客さんとわちゃわちゃできたということである。

 

早い時間から混んでいたので、わたしが座れた場所は女性2人客の隣だった。

これが、実は母娘だったのだ。

19か20歳くらいの娘さんと、そのお母さんである。

 

親子でこういうところで酒を飲んでいる、もう素敵が過ぎるじゃないか。

「この子、これから仕事だからそれまでの時間ね〜」

と言いながらも結構飲んでいる。

 

わたしにはそんな青春はなかった。だから、すごく羨ましいし微笑ましく会話させてもらった。てか、バーテンダーにお酒を奢っているお母さん、惚れるわ〜。

酒の飲み方わかってるわ〜。

いやここは、このテンションに追いつかなければ。

 

そんなとき、わたしには最短で酔うコースがある。

まず、ラムのショートカクテルをグイッと行く。

そもそもショートカクテルというのは、「おいしいうちに飲む」ために3口で空けるものだといわれている。知り合いのバーテンダーさんもそんなことを言っていた。

 

作る過程を見ていれるとどうしても「こんなに手数を踏んで作ったものを一気飲みするなんて!」と思っちゃってる人は多いと思う。

でも、作る側になってみれば、おいしいうちに飲み干して欲しいに決まってる。

氷を入れてシェイクする意味を考えてほしい。

 

そこから、キラーカクテルの代表格をぶち込んでいく。

普段カクテルは飲まないが、こういうところでは必要なのだ。

わたしの場合、ロングアイランド・アイスティーがそれである。

 

Wikipediaに国際バーテンダー協会のレシピが載っているが、こんな感じである。

材料
テキーラ - 15ml
ホワイト・ラム - 15ml
ジン -15ml
コアントロー - 15ml
レモンジュース - 30ml
ガムシロップ - 20ml
コーラ - 適量

作り方
全ての材料をハイボールグラスに入れる。
ゆっくりとかき混ぜる。
好みでレモンスライスを飾る。

テキーラ、ラム、ジンがシャッフルされる。チャンポンの代表格だ。

これを頼むとだいたいのバーテンダーさんはニヤッとする。

急いで酔うためのカクテルだとしか考えようがない。

 

わたしは、これは酒飲み中の酒飲みのためのカクテルだと思っている。

男性のみなさんは悪用しないでください。ガチで。

 

女性に見舞うなら自分も同じもの飲まないとアンフェア。

いうてそんなに甘いカクテルでもないし。

 

さすがにあれは掻き捨てならない恥だったと思う

母娘が帰って、「もうちょっと濃いめで!」と2杯目のロングアイランド・アイスティーを頼んでいたあたりで、わたしは外国人が隣に座っていたことに気がついた。

わたしから見て手前に韓国から来た女性が2人、その奥にはスイスから来た男性が2人。

 

手前の彼女は韓国語、日本語、英語のトライリンガルだ。

わたしには逆立ちしてもできないスキルの持ち主である。

 

なので、スイス人とも話したかったわたしは彼女に頼りまくった。

スイス人2人組は、スキーをしに日本に来たのだとか。翌日には白馬に行くと言う。

 

(スイスのほうがはるかに景色のいい雪山ありそうやのに・・・)

と一瞬思ったが、観光も兼ねてということなら安上がりなのがいまの日本だろう。

 

とりあえずジャパニーズ・サケを飲んでみてよ、と訳もわからないまま2人に1杯ずつご馳走した。

マスにグラスを入れた冷酒スタイルである。

なんか、なんだかんだいって日本文化を自慢したい自分がいることに気がついた。

 

「日本へははじめてですか?」「どんな印象ですか?」「日本の食べ物好きですか?」

そんなチープなことは聞かない。恥ずかし過ぎる。

いや、冷酒くらい飲んだことだってあるかもしれないけれど、そこは自己満足だ。

 

どう考えたって日本は安い国なのだから、わざわざ貧乏な日本人から酒を奢ってもらわなくてもいいかもしれないけど、まあいいじゃないか。

一期一会の恥は掻き捨てでいい。

 

ただ、掻き捨てならない恥もあった。

通訳係をしてくれた彼女に、えらく失礼なことを言った気がする。

というのは、南北朝鮮の話題を出してしまったのだ。

 

ただ、意外な反応だった。

韓国は韓国で、北の人間とは接触をしないよう徹底的に教育されているのだという。

だから、彼女も「そう教えられているから」という感じだった。

 

たぶん失礼なことをしてしまった。トライリンガルの彼女だから心が広そうだというところに甘えてしまったのかもしれない。

でも、個人的にはとても勉強になる事実だった。

もし次に会うことがあったら、平謝りと感謝の意を伝えたい。

 

上目遣いの若い美女

外国人御一行が帰った頃には、前に顔を合わせたことのある男子2人組が来ていた。

メガネにネルシャツをジーンズインする子と、シルクハットの子。なんて強いコンビなんだ。

 

そして奥の方に若い美女が座っていた。20代前半とみた。

「ええから私みたいなん相手にせんと、奥の美人さんとお話せんかい!」

半分冗談、半分本気だ。

そんなこと言わなくてもシルクハットはちゃっかり美女の隣に座っていた。

 

まあ、これは彼の礼儀だろう。

自分がかわいいという自覚のある女子が、ひとり放っておかれるのはよろしくない。

その時間にはカウンター席は4人になっていた。

 

私はネルシャツの彼と喋っていた。

そのうちに、ずいぶん酔っ払った。

 

そろそろ帰ろ。

そう思って店員に話しかけにその美女の後ろに立った時、美女は上目遣いで言った。

「なんでわたしと飲んでくれないんですかぁ?」

 

いやいやいや。待て。

そもそも席遠いやん?

ワイ隣に知り合いおったやん?

てかあんた初めて会ったやん?

いや、こういう店やん?

てかわたしはそっちの性的嗜好はない、ごめん。

てか、そんなにワイと飲みたいんやったら、なんで話しかけにこないの?

 

他力本願でなんとかなると思ってるのか?

世の中は美貌とカネであることは否定しない。

しかし何よりも大事なのは「一歩踏み出す」ことだろう。

 

この、簡単に聞こえてとても難しい行動を取るかどうか、それが人生決めると言ってもいいような気がする。

手狭なこのバーでいろんな人と話すたびに、いかに自分が井の中の蛙であるか認識するのだ。

だから、また新宿方面に用事があったら寄ります。アルバトロスさん、よろしく。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

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圧倒的な勝者だけが生き残ると言われるデジタル・テクノロジー(インターネット・AI・ビッグデータなど)を用いた事業。

一方でそういった事業は、将来新しい技術や生活スタイルの変化が現れると、一気に他サービスに代替されるリスクをはらんでいる。そのため、早い段階で新サービス導入や事業多角化を行い、負けにくい状態、即ち優位性を構築することが重要だ。

 

今回は、昨今の注目される事業拡大戦略の一つである「エコシステム(生態系)」について、前回に引き続きメルカリを例に紹介したい。

 

ビジネスにおけるエコシステム(生態系)とは

複数の(顧客を含む)関係者が連携しながら共に価値を生み出し、お互いに利益を享受する状態が続くことだ。「資本、事業パートナー、サプライヤー、顧客など、あらゆる種類のリソースを引き寄せ、相互協力的なネットワークを築かなくてはならない」1993年にジェームズ・ムーア氏が提唱した。

その後、デジタル技術の進化(インターネット・ビッグデータやAI・IoTなど)で、関係者やモノ同士が繋がり、製品・サービスの組み合わせによる価値が生みだしやすくなり、エコシステムを意識した事業の重要性が増した。

 

事業拡張とエコシステム

メルカリは「勝つか負けるか」の事業特性を意識し、早い段階から新サービスや事業多角化に取り組んだ。創業翌年の米国でのフリマ事業を皮切りに、様々な各種新サービス・事業を立ち上げていた。

しかし、2018年から2019年にわたりほとんど撤退している。以下はメルカリが2019年までに立ち上げたサービスについて、新規事業参入を紐解くフレームワーク、アンゾフのマトリクスで整理してみた図だ。

図:メルカリが2019年までに立ち上げたサービス(赤字が2023年継続中のサービス)

筆者作成

 

そして2020年6月期には「日米フリマとスマートフォン決済の3本柱に集中する」とし、「(新事業は)むやみに広げずに、パートナーとの提携を模索する」と述べた(メルカリCEO山田氏)※1

 

メルカリが失敗から学び、選択した「資源を集中して中核事業からエコシステムを構築(拡張)する」という戦略が、大企業などに比べてヒトやカネのリソース(資源)が限られているスタートアップの効果的な事業拡張法だ。

 

ただそうは言っても、具体的にどのようにエコシステムを構築し、拡張するのか。引き続きメルカリの事業を用いて整理していく。

 

初期の事業エコシステム

国内フリマアプリ事業をエコシステムで捉えた図が以下となる。

メルカリのプラットフォームサービスを中心に、買い手と売り手が自由に売買し、宅配担当がモノを届ける。

どのプレーヤーが欠けても成り立たず、お互いがメリットを享受している。さらに、ユーザー数や宅配サービスの選択肢が多いほど、利便性が上がりメルカリのサービス利用者が増える、ネットワーク効果が期待できる状態だ。

 

事業エコシステムの拡張

次に、初期のエコシステムを拡張させる成長戦略を、2021年10月に創設されたネットショップサービスであるメルカリShopsと梱包や配送の効率化を目指すメルロジで表すと以下のとおりとなる。

メルカリShopsもメルロジも独立したサービスであるが、中核の国内フリマアプリ事業を軸に、エコシステムが拡張しているのがお分かりだろうか。自社アプリサービスが向上し、さらなるユーザー獲得や利用頻度増が期待できる。

このような拡張は、全く異なる領域で事業を立ち上げるわけではないので、自社資源の活用や相乗効果が期待できる。

 

エコシステムの拡張と大いなるビジョンとの整合

エコシステムの拡張戦略では、中核事業を足掛かりに事業を拡張させることになるが、同時に自社のビジョンに合わせてエコシステムの全体像を描くことも重要だ。

 

メルカリは2018年、既存サービスの多くを閉じ、エコシステムの構築に集中するという方向転換をした。このとき、中核はフリマアプリではなく、スマホ決済を含む金融プラットフォームサービスとなった。

いずれもメルカリ「FY2018.6 通期決算説明資料」メルカリを参照して編集部作成

一見フリマアプリとは全く異なる事業でありながらメルペイ(スマホ決済サービス)を始めたきっかけが、このエコシステムをみるとわかりやすい。IDを中核にあらゆる店舗やサービス、ユーザーとつながり、「モノやサービスを得るときにはメルカリサービスを使う」状態を共創するかたちになっているのである。

 

この戦略が優れているのは、一度エコシステムを構築すれば、簡単には他社に負けにくいところだ。モノを売り買いするときにはメルカリ、というエコシステムの中に関係者を多数巻き込めば、容易には競合にひっくり返されることはない。

つまり「複数の他社と連携しながら、自社もサービスを増やす。そして顧客がどのサービスを利用してもエコシステムで完結しうる」状態が、競争優位につながるのだ。

 

最後に:メルカリの事例について

様々なスタートアップの事例から導き出された成功の原則を、メルカリの事例で紹介してきた。メルカリは勝ち方の原則に非常に忠実であり、これから成功したい、スタートアップ経営者のみならず新規事業担当にも参考になるノウハウが詰まっている。

 

一方で、経営は、自分達が何をしたいか、どうありたいかも重要だ。成功の法則を参考に、自分たちなりのビジョンと“成功”を定義し、それに向かって実現して頂きたい。

 

(執筆:小川 智子)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

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<参考>
※1 メルカリ上場1年、多角化失敗で得た教訓|日経新聞

『人間はどこまで家畜か』をお送りいただく

シロクマ先生……熊代亨氏、早川書房さまより『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』を恵贈いただきました。消費者庁のガイドラインに沿って書きました。なのでこの記事はステマではないです。あとはなに書いてもいいんだよな?

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おれと進化心理学

して、この本をお送りいただくにあたって、シロクマ先生より、「こいつはこのへんのことに興味がありそうだ」とお考えになられたようです。

たしかに、おれは以前、進化心理学の本を何冊か読んだ。読んで、その感想を自分のブログに書いたこともあった。

 

進化心理学……、人間の心理というものもダーウィンの自然選択によって進化してきたものだという考え方だ。理にかなっていると思った。
そんな中で見かけたのが「楽園追放仮説」だった。

[amazonjs asin="4788509539" locale="JP" tmpl="Small" title="進化心理学入門 (心理学エレメンタルズ)"]

まさに『進化心理学入門』という本で紹介されていた。その仮説を唱えたと紹介されていたのは、連続爆弾魔「ユナボマー」として知られるセオドア・カジンスキー。次の文を『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されるよう脅迫した。

現代社会の社会的・心理的問題は、ヒトという種が進化してきた条件とはまるで違う条件の下で生きるよう、社会が人々に強いていることに原因がある。

カジンスキーは8回分の終身刑に処され、2023年に自殺した。

 

まあべつに、カジンスキーのオリジナルのアイディアというわけでもない。そういう発想はある。

人類の脳が今と変わらないものとして成立したときと現代では、社会、文明、文化が変化しすぎている。人間の脳は、人類の曙に適応したままなのに、生活環境の何もかもが変わってしまった。現代人の心理的な苦しみはそこにある。われわれはわれわれが適応した楽園から追放されたのだ。いや、自らの手によって追放したと言えるかもしれない。

 

精神障害者保健福祉手帳を持っているくらいには病んでいて、幼少期より人間集団、組織にまるでなじむことができなかったおれにとって、そのアイディアは悪くなかった。おれの脳は古代人のままなのに、この現代社会に適応していないのだ。

 

……って、おれみたいなのは少数派だよな。たまたま古代人の血が濃いのか。よくわからない。まあ、そんなんで進化心理学は心のどこかで興味ありつつも、「そんなものだろう」の箱に入れておいた。

 

ほかに印象深かった本は、このあたりの本だろうか。

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[amazonjs asin="4826901747" locale="JP" tmpl="Small" title="野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎"]

 

新しい知見「自己家畜化」

して、熊代亨先生の『人類はどこまで家畜か』である。本書の挑発的なタイトルにある家畜。人類は自らを家畜化してきたという。自己家畜化。そんな発想はまったく知らなかった。この本で知った。

人間が作り出した人工的な社会・文化・環境のもとで、より穏やかで協力的な性質を持つよう自ら進化してきた、そのような生物学的な変化のこと

これである。家畜化という変化については、ネコの本を読んだときに知った。あとは、この本でも紹介されている、ソ連のギンギツネの実験もネットで読んだことはある。

 

人類も、家畜化した。それは化石研究でも明らかにされているという話だし、周囲の環境を家畜化させるなかで、相互の作用で人間も家畜化していったのではないかという。

 

そして、文明成立以後もピンカーの『暴力の人類史』をもとに、どれだけ人間が人間を殺さなくなってきたかという話になる。なるほど、暴力と死はかんぜんになくなったとはいえないけれど、ものすごく少なくなった。

 

そして、現代の日本社会ということになる。穏やかで、平和だといっていい。裏側にはなにかあるかもしれないが、だいたいにおいて相当な水準にある。世界的にみてそうだろう。著者はそう言うし、それに異論はない。そして、これこそが、自己家畜化の達成した人間社会ではなかろうか、と。

 

そしてまた、かなり短い時間で、それは進んでいる。昭和と令和。そんな区分で見ても価値観は大いに変わっている。より穏やかに、平和的に。暴力や差別は見えないものとなり、今日がある。

 

正直、おれはこのあたりで時間のスケールがわかりにくくなった。著者は進化というものが現代の技術や社会の移り変わり対してスローすぎるとも述べているが、いったいどのくらいの長さで人間の脳は変化するのだろうか。たとえば、どこかの本でわれわれ人類、10世代遡れば95%が農業をしていたというが、その頃と今と、心理は進化したのだろうか。

 

価値観や文化、もちろん技術は変化した。しかし、脳はどうなのだろう。10世代くらいでもなんらかの自然選択がおきて根本的(なにを人間の根本とするかはさておき)なところで変化が起きるものなのだろうか。ミームの話なのだろうか。このあたりは、もう少し色々な本を読んで勉強したい。幸いにも、本書にはその手かがりが多くある。

 

ともかくとして、著者はこの現代環境に適応した人間を「真・家畜人」と呼ぶ。

野性的で暴力的だった過去の生にNoと言い、今日の文化と環境にふさわしい生にYesと言う。生物学的な自己家畜化を超えて、真・家畜人として文化や環境に飼い馴らされる生を、あなたは満喫していますか。

もし満喫していて、そうした社会と生のありように疑問を感じないなら、真・家畜人として生き、馴らされ、管理されるのもそう悪くはないでしょう。ですがもし、この文化や環境に生きづらさを感じているなら? それでもこの文化や環境を肯定できるでしょうか。そして今後さらに文化や環境が進展し、私たちが生物学的に身に付けている自己家畜化の水準と、“文化的な自己家畜化”のニーズがどこまで乖離していくことさえ肯定できるでしょうか。

そうか、生物学的な家畜化と、文化的な家畜化か。そこの接続はともかく、時代のスケールの違いはここで分けられているのか……などと、読み返して、感想を書いている段階で気づいたことを書くものでもないか。まあいい。もちろん、この書き方からわかるように、著者は「私は無条件に肯定できずにいます」と言う。それが本書の肝心要の部分ということになる。

 

人類は自己家畜化してきた、その末に、本当に家畜のように生きる平和で穏やかな社会が誕生しているかのように見える。もちろん、適応だけでは語れないだろう。たとえば、フーコーの語る「自己のテクノロジー(technologies of the self)のように、自分自身の魂や思考、行為、存在方法に働きかけて、自らの幸福や純潔、知恵、完全無欠、不死に働きかけようとする意思もあるだろう。

 

いずれにせよ、はたしてそれは肯定されるべきかどうか。ちょっと、異を唱えてみたほうがいいんじゃないのか。

 

「家畜」になれないおれ

……して、かような論説に対しておれが何を言えるのだろうか? 高卒のおれには学識も医師の資格もない。当たり前だ。しかし、一つの立場を取ることができる。「家畜になれない者」だ。

 

おれは双極性障害(躁うつ病)の精神障害者だ。当然のことながら、この現代日本の労働において求められている人間ではない。正式な診断は受けていないが、かかりつけ医との会話の中で、いわゆる発達障害(ADHD)である可能性が大いにあると示唆もされている。各種チェックをしても、その可能性は高い。

私は無条件に肯定できずにいます。なぜならその“文化的な自己家畜化”についていけないとおぼしき人々、ここでいう真・家畜人として今日の文化や環境に適応できず、条件付きの生を生きざるを得ない人々のことを知っているからです。

たとえば昨今の精神医療の現場は、そうした人々の浮かび上がってくる場のひとつではないでしょうか。

おれは医療の現場で浮かび上がってくる人間の一人だ。精神科医はたくさんのそういう人を見ている。ただ、おれは一人の人間として自分の精神科医に向き合っている。もちろん、まだ精神疾患の診断には光トポグラフィー検査が十分に成立しているわけでもなく、自分が意図せぬローゼンハン実験の仕掛け人になっている可能性もあるのだが。

 

しかして、おれのような現代の家畜化された人間が望ましいとされる社会で、そうなれなかった人間がどう生きるのか。

これは悲惨なものである。幼稚園のころから集団というものに馴染めず、待っているのは孤立しかない。人間の集団でうまく立ち振る舞う術を知らない。わからない。

 

結局、おれは大学に入ってすぐに、もう耐えられなくなった。健常者のルートから外れて、ひきこもりのニートになった。ニートで実家ぐらしをしていたら、親が事業に失敗して一家離散となった。

そのあとは給料が出るか出ないかわからない零細企業で二十年以上働いている。働いているといっても、双極性障害が出てきてからは、一週間まともに朝から働けたら上出来すぎるというくらいだ。おれのタイムカードの、ただ単に動けなかったから出られなかったという理由の「午後出社」の多さよ。

 

そんな人間が、たとえば自分だけの世界を作って、楽しく生きることができるのか? できるやつはできるだろう。おれも孤立にいくらかは耐えられる精神の方向性を持っている。そうでなければいま生きていないだろう。

とはいえ、完全に孤立を克服して、なおかつ現代において価値、金銭的な価値を生み出せるものような才能はもっていない。貧乏に慣れるというのも真・家畜人になれなかった人間の生きるすべだろうか。

 

その人生は悲惨なものだ。安楽な家畜にすらなれない。家畜小屋の中にいるのに、餌を与えられない。かといって、檻を破壊して自由の身になって、自然界で生きていくこともできない。

 

本書では「エンハンスメント」という言葉も問題になっている。能力向上のためにどれだけ向精神薬が用いられるべきかどうか。

かつてアメリカでプロザック・ブームが起きたのも「本来の自分」や「明るくポジティブ性格」を求めてのことだった。大うつ病性障害でもない人間が、プロザックで人格を変えてハッピーになろうとする。マイナスからゼロにではなく、ゼロからプラスへ。おれは基本的にマイナスなので、エンハンスメントにはならないだろうが。

 

本書でも取り上げられている『リベラル優生主義と正義』では、こんな文章があった。

人が子を残すとはなんぞや? 『リベラル優生主義と正義』を読む - 関内関外日記

……つまり、彼らにとって、人間は単なる生物学的存在ではなく、自らの生物学的諸特徴を観察・研究の対象ともすることができる合理的・自律的存在なのである。自己意識を持つ、道徳的主体である「人格」は当然、自分自身の生物学的身体をも操作・改変可能な客体として認識することができる。
「第三章 リベラル優生主義の倫理的正当化」

これはもう、たとえば、生態心理学者のエドワード・S・リードが批判するところの、人間の機械視といえるかもしれない。そのあたりはよくわからん。ただ、「心」も操作・可変可能なのではないか?

 

で、おれの行き着く先はベンゾジアゼピン系の抗不安剤(時代遅れ)とアルコールとのチャンポンだ。目の前の不安を消すことが高い優先順位を占める。不安以上に、抗精神病薬を飲んでいても襲われる重い抑うつ、身体の鉛状麻痺があるが、もうそれはどうにもならないと諦めている。

 

こんな人間は、この世に存在していてはいけないと思うばかりだ。これは不幸であって、この世の不幸を増大させているだけだ。おれも不幸だし、周りの人間も不幸にさせる。

 

おれは、「家畜にすらなれない人間がどう生きていくべきか?」などと考えない。家畜になろうと、家畜になれなかろうと、一切の生がなくなれば、不幸は再生産されない。

 

ゆえにおれはラディカルな反出生主義者だ。おれのような人間がこれ以上生まれて、不幸を積み重ねるようなことがあってはならない。不幸を再生産させてはならない。せめて、いま生きているすべての人間の幸福に注力すべきであって、無責任に新しい不幸を作り出してはならない。

「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。これはだれの影響でもなく、自分のなかにふっと湧いてきた言葉だ。同じようなことを考える人間もいる。

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たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。
シオラン『生誕の厄災』

そういう地点から、おれが未来の社会を描くとすれば、こういうことになる。

 

「高度な情報と知性を持ったものはAIのみになり、生殖の本能だけで生きているわずかな人類はドングリを拾って生きている。ほかの動植物と同じように維持・管理されている。質素な服を着た人類は、その日に拾ったドングリと引き換えに、機械によって完全栄養食のパンと塩のスープが与えられる。文明のはすべてAIが行い、家畜ですらない人間が、なんの存在意義もないまま、ときどきの生殖行為とドングリ拾いだけを行う。ドングリは完全栄養食のパンに用いられることもあれば、廃棄されることもある。朝に日はのぼり、夕には日が落ちる。永遠に繰り返される日々になんの変化も訪れない。」

 

これがおれの想定する未来だ。できればあらゆる人間が不幸の再生産をやめるという、獣にはできない選択をしてほしいが、そうもならないだろう。

とはいえ、もう知性のある人は滅んでしまった。残された人間は、AIにドングリを納めるだけの存在だ。家畜以上でらあろうが、幸福といっていいかもしれない。たぶんAIはドングリの拾えない季節でも、哀しい人類に栄養を与えてくれるだろう。愛とは言えないが、慈悲はある。それを信じたいものだ。

 

しかし、そうなることがおれの理想ではない。人類は無益な不幸をこの世に積み重ね、繰り返す必要はない。人類は苦しみの総量を増やすべきではない。人々が新しい不幸を増やさないようになって、この地上からいなくなってしまうのがよい。

 

これが、シロクマ先生の「未来を考えてみませんか?」という問いに対する、あまり模範的ともいえないおれの回答ということになる。おれはこう考えた。

ぜひ、『人間はどこまで家畜か』を読んで、自分の価値と家畜さと人類の未来について考えて、発表してほしいと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Benjamin Davies

うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ。

 

おめーは何にも知らないくせに、なぁ〜にが「あんたは、商店街の内情をよその人に喋ったらいかん」だ。ふざけんな。

こっちは商店街に義理もへったくれもねぇんだからな。おめぇらの体面なんざ知ったこっちゃねぇし、だいたいもうそんな悠長なこと言ってる場合じゃねぇんだよ。

 

商店街組合連合の事務局長に呼び出され、やんわりと説教をくらった私はブチ切れた。だから、洗いざらいぶちまけてやったんだ。

 

私が事務局を引き継いだ組合は、なんと発足してから35年もの間、ずぅうーーーっと運営が杜撰だったことを。

去年ようやく退職した勤続35年の前事務員・岡田さんは、頭を抱えたくなるほど仕事がいい加減で、経理や会計はテキトー。決算書の数字もでたらめだったってことも。

 

けれど、誰もチェックしないものだから、これまで誰にも気づかれず、不正会計と粉飾決算が常態化していたんだってことをな!

 

「これは昨年の決算書です。ここの数字を見てください。高度化事業未収金となってますよね。これは全額が不良債権です。請求先は倒産していたり、行方不明になったりしています。本来は回収不能となった事業年度に貸倒損失を計上してこなければならなかったのに、未処理のままなんですよ。それが積もり積もってこの金額です」

「えっ?高度化事業って、何十年も前の...」

 

「そうです。大昔のものが放ったらかしなのです。しかも、よく見ると高度化事業『他』って、なっているでしょう?この『他』の部分に、色んな未収金が適当に突っ込まれているんですよ」

「普通は、未収金にはその内訳をあわせて記載するものだが...」

 

「内訳なんてありません。岡田さんは、組合がやっている事業の入出金をちゃんと記帳していなかったので、詳細は不明なままです。例えば、こちらの連合との共同事業ですが、当組合の会計上は存在していないことになっています。入出金の記録がまったくないからです」

「ええっ?それは...、一体どうして...」

 

「面倒だったんじゃないですか?なんせ、紙に手書きでお仕事をされてましたからね。毎月、数十件にものぼる取引をいちいち伝票と元帳に書いていたら大変ですもの」

「でも、顧問税理士が居るだろう?税理士は何も言ってこなかったのか?」

 

「顧問は居ません。お世話になっている会計事務所には、決算の後に代理申告を頼んでいるだけです」

「えええ?では、会計理事や監査は何をしていたんだ?」

 

「それはこっちが聞きたいですよ」

「そんなやり方で、これまでお金は合っていたのかね?」

 

「合うわけがないでしょう!」

 

怒気を含んだ言葉を叩きつけると、ようやく事務局長も真顔になった。

 

「いいですか。私は4月に事務局を引き継いだのに、6月になってもまだ通帳を見せてもらえなかったんですよ。

新年度が始まって2ヶ月以上が過ぎても、岡田さんが『お金の管理は私がやるから』と言って、通帳も財布も渡そうとしない。『いいかげんにしてください』ってぶんどったら、すっからかんだったんです。そんな状態なのに、今年度は100万円近い赤字が出る前提で予算が組まれていたんですよ。ありえない」

「しかし、組合が赤字前提で予算を組むこと自体は、ままある話で...」

 

「すでに資産を使い果たしていて、赤字を補填する財源はなく、このさき収入が増える見込みも無いのにですか?」

「いや、それは...」

 

「とっくの前からこの組合は破綻しているのです。毎年秋には様々な支払いが集中するので、まとまった額のお金が必要になります。だけど、どう考えてもその時期にそれだけの余裕はありません。

岡田さんに『お金がないのに、今までどうやって支払いをしていたのですか?』と聞いたら、『そういう時は、とりあえず自分が立て替えて支払いを済ませておくの。それで、組合にお金が入った時に、ちょっとずつ引き出して清算すればいいからね。私はずっとそうしてたから』って言われたんです。つまり、彼女は毎年50万円以上のお金を個人で立て替えており、場合によっては持ち出しもしています。あろうことか、私にもそうするように言ったんですよ。組合の資金として私の銀行口座を当てにするなんて、冗談じゃない!」

「えええ...。個人での立替は、役員借入という形で理事長や理事が資金を出すなら分かるが...、事務員にそんなことをさせちゃいかん。組合の理事たちは、このことを知っているのかね?」

 

「言いましたよ。報告はしましたが、問題の解決に駆けつけるどころか、詳しく話を聞きにきた理事は一人もいません」

「なぜ?」

 

「さあ? みなさんお忙しいんじゃないですか?対策を協議すべき人たちが話を聞こうともしない中で、私にどうしろと?理事が頼りにならないなら、関係者に全てを打ち明けて、協力を仰ぐよりほかないじゃないですか。他にどうすればよかったんですか?」

 

もはや事務局長は私の目を見れなくなっている。気まずそうに視線を外したまま、

「....そうか」

と呟くと、それきり黙ってしまった。

 

「言っときますけど、こうした問題があるのはうちの組合だけだと思わないでくださいよ。連合傘下にある他の組合だって、機能不全に陥っているところが少なくないんですからね!」

と畳み掛けて、私は憤然としたまま局長室を後にした。

 

まったく腹がたつ。商店街組合の腐れっぷりは根が深く、もはや事態は内々で処理できる話ではなくなっているのだ。

 

私のやり方が気に入らないのなら、クビにすればいい。むしろ、こちらは「さっさとクビにしてくれよ。とっとと辞めてやるから」という心構えでいるのだ。

ずいぶん前から辞職を願い出ているのだが、後任が見つかるはずもなく、懇願されて仕方なく残っているのである。

 

残るからにはできるかぎり問題解決に努めるが、この先もずっと頼りにされては困る。ある程度の整理がついたら辞めるつもりだ。

二言目には、「本業が忙しいので、組合には関われない」「自分たちはもう年だから、何もできない」と言い募る組合員たちからの要望を際限なく聞いていたら、やがて私が第二の岡田さんになるだろう。岡田さんとて、最初から仕事を投げていたわけではないのだから。

 

「事務員さんには絶対に居てもらわないと困る」と商店主たちは言うが、それは「自分たちの代わりに面倒なことを何でも引き受けてくれる便利な人に居て欲しい」というエゴである。

 

組合の事務員は用務員ではない。それなのに、商店主たちは何を勘違いしているのか、公園や道路脇の花の世話や、ゴミ集積所の管理まで任せようとしてくるのだからたまらない。

 

道路脇の花壇が手入れもされず、ゴミが放置されて街が荒んでいるのは、事務員が仕事をしなかったからではない。

この街のありように責任を持つべき地権者と商店主たちが何もしなかったからだということを、まずは彼らが自覚すべきだ。

 

こちらがそう言うと、必ず「昔とは違うから無理」だと言い訳が返ってくる。

 

「今は余裕がないんだよ。みんな自分の店のことや生活で手一杯なのだから、街のことを考えたり、組合の活動をするお金と時間がある店主なんて居ないんだ」

と。それはその通りなのだろう。だったらなおさら、やるべきことがあるはずだ。

組合の解散である。

 

元はといえば、この組合は商店街の高度化事業(アーケードの設置や道路のカラー舗装)で助成金を得るために法人化したのだ。

 

高度化事業を終えて、借入金もすべて返し終わった今、組合は役割を終えている。

もっと言えば、すでに商店街そのものが地域住民の買い物インフラとしての役割を終えているのだ。昔ながらの商店街が無くなったところで、住民は買い物に困らない。

 

いいかげんその現実を受け入れて、状況に合わせて変化すべき時が来ている。

現状維持にこだわって、時代の中で役割を終えたものを無理やり延命させているから、余計なコストがかさむのだ。

 

みんな頭ではそれを分かっているのに、

 

「それは正論だけど、口に出したらいけないよ」

「そう白黒はっきりつけようとするな。グレーなものはグレーなまま置いといてくれ」

 

と、私を諌め、問題の先送りを続けようと必死だ。

だったら、好きにすればいいじゃないか。

 

もはや自分たち自身が微塵も信じていない「商店街活性化」に逃げ続け、その場しのぎのイベントを乱発してお金と時間を無駄にしながら、1日でも長く決断を先延ばしにしていたいのなら、ご自由にどうぞ。

私は覚悟を決めない連中にいつまでも付き合う気は無いので、

どうだっていいぜ問題はナシ。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Luz Fuertes

風来のシレンシリーズって、とても「良質な失望」を味わうことが出来るゲームだと思っているんですよ。

 

先日、「風来のシレン6 とぐろ島探検録」がSwitchにて発売されました。「5」から数えると約14年ぶりの本シリーズ続編となる「シレン6」、どんなものかと思って遊んでみたらこれがまためっちゃくちゃ面白くて、「4」の浜辺の魔洞以来かなって思うくらいハマりこんでおります。

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ヤマカガシ峠、50回くらいチャレンジしてようやくクリア出来ました。

クリアした瞬間「うぉっしゃぁぁあああ!」とテレビの前で全力ガッツポーズをする40代三児の父です。

 

ということで、難関を越えた勢いで「シレンについて書いていいでしょうか!?」とBooks&Appsさんにお願いしてみたらOKをいただいたので、今回は風来のシレン6について主に書いていきたいと思います。

とてもビジネスパーソンを励ましそうにない記事で申し訳ありませんが、ビジネスパーソンの皆様にはご容赦いただけると幸いです。

 

この記事で書きたいことは、大体以下のような内容です。

 

・「風来のシレン6」がめちゃくちゃ面白いです

・特に操作感とUIが素晴らしくて、遊びやすさのあまり無限にプレイしてしまいます

・基本を丁寧に抑えないと状況を打開出来ないバランスも大変私好み

・シレンシリーズ結構やっているつもりなんですが、もしかするとシリーズ中でも屈指の完成度かもしれません

・あとBGMがめちゃめちゃ良いです

・ただし山伏だけは本当に絶対に許さない

・ゲームを評価する軸のひとつに、「プレイヤーに対して、いかに「良質な失望」を提供するか」というものがある気がしています

・ゲームで失敗して失望を味わっても、くやしさとその先にある達成感を糧にして何度でもトライして上達していけるのが「良質の失望」だと思います

・シレン6が、とても「良質な失望を味わいやすい」ゲームであることは保証できます。皆さんシレン6遊んでください

 

以上です。よろしくお願いします。

 

***

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

これ以降の話の前提として、しんざきのシレン歴はSFC版1,PSP版3,4,5,あとはGB版の1と2で、外伝は遊べてません。「アスカ見参!」遊びたいです。

 

「風来のシレン」とそのシリーズは、1980年発売のダンジョン探索RPG「ローグ(Rogue)」をゲームシステムとしての下敷きに、93年発売のドラクエスピンオフ作品「トルネコの大冒険」を直接的な前身にした、いわゆる「ローグライク」のRPGです。

画面を見るとアクションRPGのようにも見えますが、実際には完全なターン制であり、アクション要素はほぼありません。

プレイヤーは風来人である「シレン」を操ってダンジョンを探索します。ダンジョンのマップやアイテムは基本的にランダム生成で、シレンのレベルもダンジョンに挑む度にリセットされます。プレイヤーは、自分の知識・スキルを最大の武器として、ほぼ徒手空拳でダンジョンに挑むわけです。

 

シレンは、ダンジョンで入手出来る武器や盾、そして様々なアイテムを駆使しながら、立ち塞がる敵モンスターや罠、食料不足、アークドラゴン、みだれ大根、イッテツ戦車などの数々の苦難・強敵に立ち向かいます。

難易度は決して低くないのですが、「様々な試行錯誤の末、ダンジョンをクリアした時」に味わえる達成感、爽快感は折り紙つきで、数々のシレンジャーがダンジョン探索の虜になっています。

 

まずはシレン6の出来の話なのですが、

「UIや操作上の機能がめちゃくちゃよく考えて作られていて、シレンを動かす上でのストレスは殆どない」

「一方、敵と戦う上でのバランスはかなり辛めに作られており、攻略の為には基本を丁寧に抑えたプレイが必要とされ、その分失敗時の「敗因」がよくわかる構造になっている」

この2点については言ってしまって良いと思います。

 

まず一点目として、今回のシレンってとにかく徹底的に「どうすれば遊びやすくなるか」が考え抜かれているんですよ。

 

シレン6で追加された機能ばかりではなく、一部は「5 plus」以前から引き継がれた要素なんですが、

 

・飛び道具や杖の使用を十字キー+ボタンに割り当てて4箇所ショートカット設定が出来、矢が尽きても設定はそのまま保持される

・アイテム欄に入ったギタンが、整頓によって勝手に持ち金に入らないような設定が選べる

・壺の中身は、いちいち覗かなくてもカーソルを合わせただけで全て表示される

・シレンが向いた向きの軸が「見渡す」でもそのまま表示され、直線上にいる敵かどうかが分かりやすい

・アイテムごとに「既に識別した」「識別してはいないが名前をつけた」ということが表示され判別出来る

・トレモ的な「もののけ道場」で色んな敵やアイテム配置をシミュレート出来る

・動作や反応もきびきびしていて違和感がない

・ファストトラベルや罠・アイテム・モンスター図鑑的な「手帳」など、その他便利機能も全般的に使いやすい

 

などなどなどなど、「シレン」としての基本的なフォーマットはきっちりと抑えた上で、「手動でやってやれなくもないが面倒くさい」「けれど攻略する上ではかなり重要」という要素が、ほぼUIで解決されています。

これまでの「シレン」の便利機能の改良版集大成と言ってよい内容、シレンシリーズを遊んだ人であればある程「かゆいところに手が届く」と感じるであろうUIで、開発側のシレンに対する理解度が極めて高いと言わざるを得ません。

 

特にギタン整頓の有無を選べるのすげー助かる。保存の壺がない時にギタン砲を誤って整頓してしまった時の悲哀を、もう味わわずに済むんですよ!

 

飛び道具のショートカット設定も相当便利で、旧作であれば矢稼ぎの為に毒矢の罠に向かって矢を撃つ時、一度打ち切るとまたいちいち装備し直さなければいけなかったところ、今回は矢を拾うだけで再びショートカットを起動できます。

複数種類の矢を持っている時も、いちいちアイテム欄を開かなくてよくてめちゃ便利。

 

もののけ道場も相当使いでがあって、「こういう状況になったらどう打開するか」というのをゆっくりじっくり突き詰めることが出来ます。練習の為にも相当助かるモードです。

 

二点だけUI的な意味での不満を述べるとすれば、

 

・一部の地形が小マップ上で見づらく、通路なのか入れない地形なのかがぱっと見で分かりにくい

・アイテムの呪いや祝福のマークがやや小さい為、アイテムの状態が把握し辛い(つい使ってしまって呪いの音で気付く)

 

というくらいで、ここについてはアップデートなどで解決されるといいなあと思うのですが、総合してみれば100点満点に近い出来だと思います。

遊ぶ上でのストレスが極限まで抑えられており、実に気軽に「もう一度挑戦する」が選べてしまうわけで、文字通り無限に遊んでしまう出来となっております。

 

とはいえ、以上のような話は飽くまでインターフェース的な要素であって、ゲーム体験がまったりストレスフリー難易度になっているかというとそういうわけではありません。むしろ、ダンジョン探索というシレンの核の部分については、今回かなり難易度高めに振られているように感じました。

 

こちらも箇条書きにしてみると、

 

・全体的に敵のHPや攻撃力・防御力が高めに設定されていて、かなり攻撃力を高めないと一撃で敵を倒すことは難しく、殴り合いの機会が増える

・その為、攻略の上では「絶対に複数の敵を同時に相手にしない」「敵は通路に引き込んで倒す」「必ずこちらから先制する」「見渡しで部屋の状況を把握する」などの基本的な立ち回りが序盤から重要になってくる

・ノロージョなどが顕著だが、以前のシリーズ作なら「特殊能力が厄介だけど、通常戦はそれ程でもない」敵でも、だいぶ耐久度や攻撃力が上がっている

・当然リソースがどんどん削られるので、「いかに矢や杖、レベルなどのリソースを稼ぐか」ということをきちんと考えなくてはいけない

・もちろん、ゲイズ系や大根系を筆頭に、特殊能力自体が厄介な敵もダンジョン後半からはどんどん出てくる

・ただし願いのほこらやボヨヨン壁など、プレイ次第で有利になるギミックも増えているので、知識やノウハウが増える程うまく立ち回れるようになる

 

これくらいは言えるのではないでしょうか。

 

とにかく今回まず敵が固く、武器によっては3回、4回と殴らないと敵を倒せないという場面が頻繁にあり、当然ヒリヒリした場面が増えます。特に持ち込み不可ダンジョンや序盤のストーリーダンジョンでは、複数の敵を同時に相手にするだけで簡単に死が見えます。

プレイ感というか、ストーリーダンジョンの難易度上昇の感覚はSFC版「1」に近いものがあり、今回のシレンが「原点回帰」を一つのテーマとしている、ということも納得のゲームバランスです。

 

ただ、これって必ずしも「単に難しい」という話ではなくて、むしろシレンというゲームの味わいをより純粋に楽しめる調整だと思うんですよね。

 

ここで冒頭の「良質な失望」の話になります。

 

ゲーム体験における「失望」というのは、要は何かを達成できなかった時に味わう感情です。STGにおける被弾。格闘ゲームにおける敗北。パズルゲームにおける詰み。我々がゲームを遊ぶ時、そこにはたくさんの「失望」が隠されていますし、我々は時として「歓喜」以上にその前に積まれた「失望」の方を印象に残しています。

何かを達成できるその前に数えきれない敗北があるからこそ、達成感がより強くなる。勝利の喜びが深くなる。

 

で、「負けた時に「ちくしょう、次は絶対に勝ってやる!」と思えるかどうか」というのは、ゲームの演出、プレイ感によってかなり違ってくると思うのですよね。

プレイヤーにどう「失敗」を受け止めさせるかというのは、ゲームを評価する上で一つの軸になるのではないかと。

 

「負け」を糧として、その向こうを目指せるかどうか。敗北を散々味わったあとでも、挫折せずに勝利を目指せるかどうか。

ここで、「次は勝つ!!」と思わせてくれるゲームこそ、「失望」の演出が上手いゲーム、良質な失望が味わえるゲームなのではないか、と思うわけです。

 

私が考える限り、

 

・「敗因」が明確であって、「何をすれば今の失敗を回避できたのか」をきちんと突き詰めることが出来る

・試行回数を気軽に積み重ねることが出来る

・失敗を踏まえることで、きちんと知識やノウハウが積み上がっていく

・得たノウハウを使うことで上達を実感できる

 

この辺は、「失望」を上手く演出する上でかなり重要な要素なんじゃないかなあ、と思います。

 

で、シレンシリーズ、特にシレン6のストーリーダンジョン時点のゲームデザインって、ここに完全に合致しているんですよ。

 

上で書いた通り、今作かなりダメージレースが厳しく、立ち回りにおける甘えが許されにくい作りになっています。

もちろん運の要素もあるんですが、甘えた動きは割と簡単に死と直結します。「あと一発殴れば倒せるけど外せば死ぬ」という状況で、運を天に任せて攻撃ボタンを押したとき、幾人の風来人が「失望」を味わってきたことでしょうか。

 

だからこそ、死んだとき「今、自分はどうして死んだのか」「どうすれば立ち回りでカバー出来たのか」ということを思考しやすいんですね。

もちろん「完全に詰み」という状況もあるんですけれど、「回避する方法はあったけど運に頼ってしまった」という状況の方が遥かに多く、「くそっ、一手間違えなければ突破出来たのに!」とも思えるし、そこで「どうすればよかったのか?」を考えることで自然とプレイヤーが迷宮探索の知識を身に着けられる構造になっている。

 

しかも、これも上述の通りUIが極めて使いやすく連続プレイの面倒くささが薄いので、さっくり「もう一度挑戦する」を選択して試行回数を積み上げることが出来る。もののけ道場で状況を再現することも、パラレルプレイで他人と共有することも出来る。

 

さらに、ローグライクというシステム自体が(武器持ち込みダンジョンでは回避することが可能だとはいえ)、基本的には「レベルと強武器でざっくり解決」ということが出来ない、ないししにくい作りになっているので、プレイヤーとしてはノウハウを溜めていく他ない。

そして、ノウハウが溜まる度に、明白に状況が打開しやすく、先に進みやすくなっていく。シレン6の優れたインフラが、これまた「ノウハウの蓄積」を容易にしてくれています。

 

これだけ「試行と思考」が上達への良循環になるバランスもなかなかないと思うんですよ。

 

何度も何度も失敗して、それでも「あと一回」「あと一回」とプレイを重ねる内に、ついに見えてくる迷宮踏破。これを味わった時、大抵のプレイヤーは立派なシレンジャー(シレン中毒者)に成長してしまうわけです。

 

とにかく、「試行錯誤と、それに伴う上達」「数えきれない失望の、その先にある達成感」という要素を含めて、「風来のシレン6」がシリーズ経験者はもとより、ローグライク自体まだあまり慣れていない、という人にもお勧め出来る出来だということは保証します。ぜひ体験していただきたいと思う次第なのです。

 

少なくともストーリーダンジョンクリアまでは。

 

***

 

お勧め文は以上です。以下は個人的なヤマカガシ峠(ストーリークリア後に遊べる追加ダンジョンのひとつ)に対する私怨です。

 

とにかく今回ヤマカガシ峠がもーーーーホント意地が悪いというか、モンスター出現テーブルがあまりに悪意に満ち溢れているとしか言いようがない作りで、5Fから先は畑荒らしやら火遁忍者やら、延々と床落ちアイテムを燃やしまくるモンスターが出現し続け、たまにアイテム破壊モンスターが出てこない階層があると思えばそこでは鬼面武者のコンビネーションでパワーアップしたノロージョがガンガンこちらのHPをけずってくれて、マゼルンが出てこないのである程度の強さの盾を拾えていない時は殴り合うことすらままならず、やっと強い盾が拾えたと思ったら強化されたノロージョ軍団に混ざって現れるのはケンゴウで、盾を吹っ飛ばされたところに見事にノロージョ母の集団が刺さってくれたりして、終盤の山伏軍団は言うに及ばずお前ら単体でも十分凶悪なのにお互いを強化しまくって召喚もしまくりでもうほんっっっっとふざけんなよと思いながら先日ついに、ついに、ついについについにクリア出来ました!!!やったぜ!!本当山伏軍団だけは絶対に許さんからな。

https://twitter.com/shinzaki/status/1758472856697180375

またタチが悪いことに今回仲間キャラも非常に強力かつ魅力的で、トゥガイもヒビキもデブータも、もちろんアスカもとても良いんですがセキが大変に可愛く、しかしヤマカガシ峠に入ってしまうとダンジョンクリアまでセキが登場してくれないので、プレイヤーとしてはセキを人質にとられたも同然で泣きながら挑戦し続けざるを得ないわけです。コッパは「またヤマカガシ峠の頂上にいってみるか」とかいってたけどもう向こう二ヶ月くらいはヤマカガシ峠にいきたくない。

 

まあ、こうした「理不尽な追加ダンジョンとの格闘」もまたシレンの醍醐味ではあって、適度な学習曲線でシレンのノウハウを身に着けた後はちょいと理不尽なダンジョンでもおひとついかがですか、という話にもなるわけです。

 

誤解のないよう補足しておくと、今作の追加ダンジョンは難度も程よくってアイディアも面白いダンジョンも数多く、特に「三択で未識別アイテムの選択肢が提示される」推測の修験道のアイディアは出色だと思います。巻物が読みまくれる杖と巻物の領域や、敵の能力を駆使して戦う桃まんダンジョンも好き。デッ怪ラッシュだけはあんまり肌に合わなかったんですけど。

 

最後にもう一つ、今作BGMの出来も本当にすばらしく、お祭りのような和風なメロディの中にも時折アンデスやケルトの民族音楽的なメロディもあったりして、サントラを熱望する次第なのです。どの曲もいいんですが、特に鬼木島中層のBGMがあまりにも良すぎる。

https://twitter.com/shinzaki/status/1756487108725006403

長々と書いてまいりましたが、本記事で言いたいことは「皆さん風来のシレン6を遊んでくださいめちゃくちゃ楽しいしセキもかわいいので後悔はさせません」ということだけであり、他に言いたいことは特にありません。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:

先日、NHKのサイトで小さなニュースを見かけました。

お遍路、30年ぶり値上げ

 

「お遍路」こと「四国八十八か所巡礼」は、四国四県を一周する世界でも珍しい「回遊型巡礼」で、江戸時代には弘法大師ゆかりの地を巡るレジャーとしても発展しました。

そのお遍路の値上げとは、八十八か所のお寺で納経帳 (注:お遍路専用の朱印帳だと思ってください) に記帳してもらう料金が300円から500円に値上がりするという意味です。八十八か所の合計では17600円なので、それなりの出費になります。

 

この値上げが2024年の4月以降なので、その前に、春のお遍路はいかがですか? という話を書きます。

 

春はお遍路に最適な季節

春はお遍路の美しい季節です。
寺院は桜の花びらでいっぱいになり、

梅、牡丹、木蓮なども咲き乱れ、

旅路は菜の花でいっぱいになります。

標高の高い寺院では、水墨画みたいな景色に出くわすこともあります。

もちろん夏~冬のお遍路にも良さがありますが、気候がやさしく、草花が美しく、雪や台風を避けやすいのは春なので、はじめてお遍路にトライするなら春が狙い目でしょう。

 

お遍路という非-日常へようこそ!

お遍路に何を求めるのかは人それぞれですが、私が求めるもののひとつに「リセット」があります。

四国八十八か所の道中にはお地蔵さま・お堂・石仏、お遍路さん向けの標識などが点在しています。

白衣(びゃくえ)を身にまとい、杖をついている歩きのお遍路さんにも数多く出会うでしょう。そうした非-日常の景色に溶け込み、八十八の寺院を訪れては般若心経を読み上げていると、だんだん浮世離れした気持ちになってきます。

ところどころ、こうしたお遍路さんの団体さんに出くわし、般若心経を唱和する声を聴いたりもします。

団体バス遍路や車遍路は、歩き遍路に比べてスタンプラリー的だ・観光客っぽいと揶揄されることもありますが、なかなかどうして、車で巡礼しても没入感は相当のものです。

そうした没入を助けてくれるのがお遍路用のアイテムです。金剛杖、納経帳、納札(おさめふだ)、ローソク、お線香。

これらはお参りの作法のためのアイテムですが、巡礼を実感する触媒として優れています。

 

白衣もおすすめです。最近は白衣を着ないお遍路さんも見かけますし、これもコスプレだと揶揄する人もいるでしょう。

でも私は、白衣にそでを通すと身が引き締まる思いがするので、仏教的な体験をしたい人だけでなく、体験型レジャーとしてお遍路を楽しみたい人にもおすすめしたいです。

そうして八十八の寺院を巡っているうちに、俗世の憂いをしばし忘れて、「リセット」が成就するのです。

この場合、四国が海に囲まれているのも好都合ですね。本州から車でお遍路に向かう時、私は瀬戸大橋や大鳴門橋が「俗世とお遍路の境界」のように感じます。四国に住んでいる人には馬鹿馬鹿しく思えるかもしれませんが、本州からお遍路に参る者にとって、本州四国連絡橋は絶妙な境目になっていて、まるでゲートみたいに感じられるんですよね。

それから、八十八の寺院には宿坊が併設されているところもあります。上の写真のように、早朝の勤行を経験できる宿坊もあるので、早起きに抵抗感のない人にはおすすめです。

 

せっかく四国に来て観光しないなんてとんでもない

お遍路は四国をぐるりと巡る1200㎞以上の旅になります。時間に余裕があるなら、徳島県の大歩危小歩危、高知県の四万十川上流、愛媛県の佐田岬などに寄り道もできるでしょう。せっかくですから四国四県を観光し、思いっきりグルメを楽しんで、四国でお金を使っていきませんか。

 

徳島県なら、大塚国際美術館に寄り道するのもアリですね。ここの展示品はすべてレプリカですが、展示の規模が桁違いで、圧巻は「実物大システィナ礼拝堂」です。

コロナ禍以後、ローマのシスティナ礼拝堂は金銭的にも時間的にも治安的にも行きづらくなりましたが、ここなら近いし安全だし、写真も撮れます。展示されているさまざまな時代の美術品のレプリカをとおして美術史を一望するのも楽しいです。

 

高知県は全県にわたって観光スポットが多すぎですが、まずは、アルコールの文化がただよう高知市を。

高知市の観光スポット、ひろめ市場。早い時間から飲み客で賑わっていて、なんやかんや言っても雰囲気あります。

何を食べても美味いですが、せっかくなら郷土料理を食べたいところ。マイゴ・チャンバラ・ウツボあたりは本州ではなかなか食べられないので、お遍路で高知市に入るたび、ひろめ市場でいただいています。

それから海。高知県のお遍路は海沿いのエリアが多く、太平洋が一望できます。とりわけ、徳島県から高知県に至る数十キロの海岸線は、遠くに霞んで見えた室戸岬がだんだん近づいてきて、車のお遍路でもインパクトがあります。

 

愛媛県は城下町のそれぞれの海の幸が楽しく、柑橘類にもよく出会います。

宇和島市、松山市、今治市などが、お遍路さんの投宿を待っています。愛媛県は東西に大きく、名物の鯛飯にもバリエーションがあり、あれこれ食べ比べるのも楽しい感じです。そのうえ、車遍路なら

少し欲張ってしまなみ海道でサイクリングを楽しむこともできます。松山市でお遍路を中断して本州に戻る前か、四国を再訪する時に寄り道するとルート的に効率が良いかもしれません。

 

そして香川県。

香川県といえば、平坦な讃岐平野、それから讃岐うどん。ところが讃岐うどんの写真が手許にありませんでした。ファーストフードとして訪れ、ファーストフードとして食べてしまっているからだと思います。

お遍路さんが白衣を着たままうどん店に入ると、みかんや漬物をつけてくれることがあります。巡礼者に親切に振舞う習慣を、四国では「お接待」と呼ぶそうですが、この習慣はまだ残っているようにみえます。

 

楽しい旅を、どうかご安全に。

日常のしがらみを「リセット」でき、グルメや観光も欲張れるお遍路の旅。春に四国を訪れて、お遍路さんとして巡礼すれば忘れられない思い出になると思います。

一度に八十八か所を回りきるのが難しい人は、徳島県の1番からスタートする場合は高知市か松山市で止め、香川県の88番からスタートする場合は宇和島市の手前で止めるか高知市で止めるのが良いと思われます。

その際、旅の日程にはゆとりや「あそび」を持っておきたいものです。

急ぎ過ぎると寺院のタンプラリーになってしまい、道中の景色を楽しむ心の余裕がなくなってしまいます。せっかく俗世を離れてお遍路をしているのに、俗世と同じようにセカセカしていてはお参りの雰囲気が台無しです。

 

そのうえで、道中にはくれぐれも気をつけてください。

四国四県の交通マナーは良い部類だと思いますし、スピード違反する車も少ないです。

その一方で、道中には細い道・険しい道が多く、落石・動物などに出くわすこともあります。江戸時代のお遍路より安全になったとはいえ、油断は禁物です。

 

四国八十八か所の寺院は午前7時~午後5時までがお参りして構わない時間となっていますが、歩きのお遍路はもちろん、車のお遍路でも午後3時には宿にチェックインするぐらいのスケジュール的余裕と用心深さがあったほうがいいと思います。

 

こうした点に気を付ければ、四国四県をテーマパーク的に楽しめるでしょう。テーマパーク、というとろくな褒め方ではないと思うかもしれませんが、気持ちを切り替え、非-日常の世界を体験するという点では、お遍路は最高の体験型レジャーになり得ますし、ハマるとクセになります。ストレスフルな日常をリセットして、海と山の美しさとグルメを楽しんでみませんか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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学びは「本当に」幸せにつながるか

最近になって「リスキリング」や「リカレント教育」など働く社会人の学び直しの話を聞くようになってきた。働きながら学び続け、自身の能力をアップデートし続けることは、仕事においてより高いパフォーマンスを出し続けることはもちろんのこと、周囲からの評価や充実感の高まりによって「人生100年時代」とも呼ばれる現代を幸せに生き抜くことにもつながっていくだろう。

 

このように「学び直し」に注目が集まる中、積極的に学び続けて自身のアップデートを怠らない人も多くいるだろう。しかし一方で、自分自身にも学び直しが必要なのか?学び直しのメリット/デメリットは?などと考えて、学び直しに一歩踏み出せない方もいるのではないだろうか。

例えば、日々の仕事や家族との時間の合間を縫い、少なくはない投資をして学び直しをすることで本当に幸せになれるのか、と疑問に思う方もいるだろう。

 

そこでここからは、時間やお金、そして多くのパワーを注がねばならない学び直しとして経営学修士(Master of Business Administration:MBAに着目し、実際にMBAを目指した人々がその後本当に幸せになっているのだろうか?という疑問に答えるべく、これまでに報告されているMBAと幸福度に関する研究を紹介しよう。

 

MBAと幸福度に関する海外の調査

2013年にMBA50.comによって行われた調査[1]では、世界各国のビジネススクールで学んでいる1,100名以上のMBA在校生を対象に主観的幸福度が問われている。その結果、MBA入学前に比較して、MBA在学中の主観的幸福度は向上しており、さらには、MBA取得後に期待される幸福度はさらに高いことが示された。

 

この結果から、MBAの取得は個人の幸福度にポジティブな影響をもたらすことが示唆されている。しかしながら、このMBA50.comによる調査は、日本のビジネススクールは対象外であることから、実際に日本のビジネススクールでMBAを取得することが幸福度の向上につながるのかはこれまで不明であった。

 

日本のビジネススクールでMBAを取得すると幸せになれるのか?

筆者は、日本のビジネススクールでMBAを取得した者の主観的幸福度を評価するために、日本に存在するビジネススクールでMBAを取得した者に対するインターネットアンケート調査を行い、316名の有効回答を得た[2]。この316名の主観的幸福度については、MBA入学前、MBA在学中、ならびに、MBA修了後の主観的幸福度を11段階評価(最も不幸せ:0 ~ 最も幸せ:10)で回答してもらうことで評価した。

 

その結果、回答者の主観的幸福度は、MBA入学前(5.05)<MBA在学中(7.19)<MBA修了後(7.69)とだんだんと高くなっていた。また、MBA取得による幸福度の変化に影響を及ぼす要因を検討した結果、キャリア発展、リーダーシップ開発、学ぶ喜び、の3点がMBA前後の幸福度の変化に対して影響を与えていることが示唆された。

 

オンラインビジネススクールでMBAを取得した人の幸福度

新型コロナウイルス感染症の影響もありオンライン学習に対するニーズも拡大しているが、オンラインでMBAを取得できるプログラムを提供するビジネススクールも増えてきている。筆者は、オンラインビジネススクールでMBAを取得した者の主観的幸福度についても同様に調査した[3]

 

その結果、オンラインビジネススクールでMBAを取得した者の主観的幸福度は、MBA入学前(5.55)<MBA在学中(6.79)<MBA修了後(8.00)とだんだんと高くなっており、オンラインビジネススクールにおいてもMBAの取得が個人の幸福度にポジティブな影響を与えていることが示唆された。

 

学びは経済/非経済の両面から幸せにつながる

今回の筆者らの調査はMBAに着目して、MBAで学ぶことの幸福度向上に与える影響について評価したが、MBAに限らずとも学ぶことは幸せにつながることは世界共通のことであろう。事実、これまでの多くの研究で学ぶことが幸せに貢献することが報告されている

 

個人の能力を向上させることで、就職・転職を有利にしたり、仕事上の評価が高まったり、収入を上げたりすることができるという意味で、幸せにとって教育はもちろん重要である。加えて、学びは単に経済的な利益をもたらすだけでなく、幸福度、健康、および社会的関係といった生活の質の向上、すなわち非経済的な利益にも寄与することも知っておきたいポイントだ。MBA前後の幸福度の変化に、キャリア発展、リーダーシップ開発、学ぶ喜び、という経済的な利益だけでは収まらない3点が影響を与えているということも、ここに繋がるだろう。

 

読者の皆さまにおいても、継続的に学び続けて、自身をアップデートし続け、よりよい幸せな人生を切り開いていって欲しいと願ってやまない。

(執筆:米良 克美)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:MD Duran

 

<参考文献>

  1. Matt Symonds, The MBA50.com (2013) MBA Happiness Index 2013
  2. 米良克美 (2023) 経営学修士(MBA)取得による主観的幸福度の向上,グロービス経営大学院紀要1 巻 p. 51-54
  3. 米良克美 (2022) オンライン学習による幸福度向上効果 ~オンラインMBAプログラムに着目して~ 第11回日本ポジティブサイコロジー医学会学術集会