ドアの前ジャングル

おれは安普請の狭いアパートに住んでいる。

いや、安普請かどうかは知らない。雨漏りはしない。

それでも、築何年だろうか、そんなに新しいアパートではない。部屋は狭い。

 

そんなアパートのドアを開くと、植物の葉が生い茂っている。

本来なら雨水が流れるであろう部分に土がつもり、いつの間にか草が、木が生えている。

 

おれにわかるのは、レモンバーム。

葉をちぎって揉めばレモンの香りがする。

レモンバームだろう。

 

そして、ムラサキシキブ的ななにか。

コムラサキかもしれないが、おれには見分けがつかない。

 

これにさらに絡んでいるのが、多分ツルドクダミ、だろう。

これが他の植物やアパートの柱に絡みついている。

 

人一人歩いておれの部屋のドアの前に来るには、これら植物と触れないで入ることはできない。

 

おれは毎月一回だけ、自分へのご褒美として宅配ピザを頼んでいる。

宅配ピザを運んでくれる人もガサゴソ植物に触れながら来ることになる。ありがとうございます。

 

それでもなぜ伐る気にはならない

それでもなぜか、自分で伐る気にはならない。

おれ自身で言えば、自転車を自分のドアの前あたりに置くにあたって、クランクやペダルに草の絡むこと、絡むこと。

下手するとチェーンが外れたりして面倒くさい。

これが毎日のようにおこることだ。

 

しかし、どうにも伐る気にはならない。

たんに面倒くさい、というのがある。

それなりに太くなってしまった茎だか幹だかを伐るのが面倒というのもある。それはある。あってあまりない。

 

その上、伐ったあとの枝葉をゴミ袋に詰めて、燃やすゴミの日に出さなければならない。面倒だ。

 

ひょっとしたら、管理する不動産屋さんに「ちょっと雑草がすごいんですけど」と言ったら、業者を呼んでさっぱりきれいにしてくれるかもしれない。

でも、安い家賃で暮らしているおれには、そういう要請もどうも気が引ける。

ただ、こちらがなにも言わずとも、いきなりさっぱり刈られていることがあったように思うので、年に一回とか決まっているのかもしれない。

 

何年ここに住んでるんだ、おれ。

 

なんだかんだいって伐りたくないのでしょう?

と、ここまで書いて、おれも、こんな文章を読んでいるあなたもお気づきかもしれない。

 

おれはむやみに植物を殺したくない。

 

そういう思いもある。

勝手に生えてきて、たまたま適した日光や降雨の環境で、のびのびとのびている連中は、まあそのまま伸びてくれていいんじゃねえの、という感じ。

 

もちろん、おれが自転車をとめたり、自転車を出すときに、茎や葉っぱとの格闘になって、植物がダメージを受けることもある。

それがかわいそうだ、という話もあるだろう。

 

だが、おれはそのあたりについて、「おまえらがそこに生えてきて、そこに生きているのはおまえらの勝手だが、おれがここを通るのもおれの勝手だ」と思う。

そこは生き物同士のむき出しの闘争だ。

 

人間と植物の勝負である。

ただし、おれはハサミを使って攻撃をしたりはしない。

草木に対して、「おれが通りたい」という意志を貫くだけである。

そのとき、何本の葉が落ち、茎が折れようと、あまり気にしない。本当に気にしない。

 

勝負なのだ。

おれが通ることでおまえらが枯れるならそれはそれだし、おれがおまえらの抵抗に苦労しつづけるならそれはそれだ。

 

都市における自然ってのはそのあたりかな

「都市」と書いてしまったが、まあ住宅街だ。

自動車の入れない細い路地に囲まれた住宅街。

どこかの一軒家の主が庭に植えたものが、勝手にほかの家だの道端などに繁殖してしまう。

ヒメツルソバ、シンテッポウユリ、メキシコマンネングサ、インカノカタバミ……。

 

まあ、侵略的外来種だかなんだかしらないが、あまり歓迎されざる連中ではある。

とはいえ、住宅街にあって在来種もないし、「まあ、積極的に抜くほどではないよな」という気にはなる。

イソギクらしい葉っぱが立派にコンクリートの間から出ていたりすると、「まあ、よくこんなところに」などと思う。

 

千葉で自由を謳歌していたミナミジサイチョウなども、なんとなく、自由にさせておけよという気がしないでもない。

一羽はさみしいが、勝手にカエルだとかヘビだとか食って、自由に生きていた。

まあ、実際のところ、謳歌していたかどうかはわからないし、捕獲するのが筋なのかもしれないが。

 

でも、筋ってなんだろうな。よくわからなくなるときがある。

外来種に在来種が駆逐されるのもあんまりよくないなあという思いもある。

逆に日本のクズがアメリカで問題になっていたりするのもよくないなあ、と思う。

 

なにがそう思わせるのか。それはまあ、なんというか、在来種を大切にしましょう、もっと細かく言えば地域性在来植物によって緑化しましょうという話があって、「なんとなくそれは正しい」というように思い込まされているのだな。

 

思い込まされているというとあまりよくない表現か。

まあ、在来種を大切にしましょうというと、それはそうだな、と思う。

一方で、目の前に生きている植物を見ると、どうにも伐ってしまうには忍びない、という気になる。

 

むろん、これはボロいアパートの植え込みに勝手に生えている植物に対する感情であって、大繁殖するクズやナガエツルノゲイトウを前にしただれかに「何を言っているんだ」と怒られてしまうかもしれない。

 

外来種の駆逐と矛盾する心

外来種の駆逐といえば、テレビでやっている「池の水を全部抜きました」的な企画にもあらわれる。

釣り人かだれかが放した魚などを駆除し、在来種を残す。悪い話ではない。

 

が、一方で、まあ、どうだろうか、うーん、外来種も生きてるんだしな、などと思ってしまう。

どうにも好きになれない。

好きになれないというのはおれのお気持ちに過ぎない。お気持ちなあ。

 

まあなんというか、おれの心のわずかな良心が「殺すな」と言っているようにも思える。

こんなこと言うのは照れる。

しかし、そういう思いはある。

 

植物の駆除なら、あまりそういう心もわかないかもしれない。

だが、アライグマだの、ミシシッピアカミミガメだのを殺するところは、あまり見たくないよな、あなたも。違うか。

そこのあたりの、微妙なラインだ。

 

外来種だからといって、公園の池からミシシッピアカミミガメを釣って、コンクリートに叩きつけて殺している小学生を見たりしたら、「おい、ちょっと」と思うのではないか。

 

とはいえ、これに正解はない。

矛盾があってもいい。

むしろ、人間たるもの矛盾の一つや二つなくてはおかしくない。そんなもんじゃないのか。

 

矛盾の果てになにがあるのか

では、そんな矛盾を抱えた人間たちが生きていって、その先になにがあるのか。

ひょっとしたら、人間によって持ち込まれた侵略的外来種がある場所の在来種を駆逐してしまうかもしれない。

それによって絶滅してしまう種が存在するかもしれない。

 

それはもったいないよな、という心と、まあそれはそれでそういう自然というものじゃないのか、という心。

どう思う?

おれは整理がつかない。

たとえば、世界規模のパンデミックを引き起こしているCOVID-19だって、元はといえば中国の一都市で発生したものだ。

それが世界中に広まって、えらいことになった。

 

人々はそれだけ都市と都市を行き交い、海を超えて国と国とを行き交う。

外来種というものも、そういう人の行き交いによって広まってしまう。

もう、世界はつながってしまっているのだし、感染症が収まれば、また移動が行われるだろう。

 

とはいえ、各地域における外来種の問題は放っておけない。

人間とて自然の存在なのだから、その結果も自然だ、というのはやや無理がある。

霊長類だといって地球の支配者だといって驕り高ぶるのも変だ。

かといって、この人間というものが単なる一哺乳類です、というのもおかしいだろう。

 

小さく咲いた花は見逃そう……?

人間は環境を大いに変えられる存在だ。

異常繁殖した外来種を駆除することもできる。それはそれでいい。

 

一方で、この横浜の自動車も入れない細い路地に囲まれた道端の外来種くらいは、まあ見逃そうか、そう言ってしまってはいけないのだろうか。叱られるのだろうか。

 

まあ、それでもいい。外来種といっても、たとえば幕末から明治にかけて帰化したシロツメクサはどうだろうか。

ウメなんて、もっと大昔に中国から渡来したものだ。

 

だからなんだ、ヒメツルソバだって、キショウブだって、百年、二百年経てば……とかいい出すときりがないか。

それでも、地域だの国境だのの区切りは人間の都合で定めたものだし、なんか自由に生い茂っちまえ、なんて心がないでもない。

でも、クズやナガエツルノゲイトウとかな……。

 

うーん、むずかしい。

いや、ゼロトレランスだ、全部消毒だ、といって燃やし尽くしてしまうのが理なのかもしれないが、そんなモヒカン世紀末が好ましいとも思えない。

 

なんだかんだでやっていこうや

まあ、もう、なんだかんだでなるようにしかならん。

学者や自然保護活動家には怒られるかもしれないが、そんな感じだ。

それで、人の目から愛される草花は外来種でも生き残る。

そうでない連中は駆除される(駆除できればの話かもしれないが)。なるように、なる。

 

少なくともおれはおれの手で、そこらに生えてきた連中を積極的に駆除するつもりはない。

たとえば、ヤブガラシというつる植物は別名ビンボウカズラといって、庭の手入れもできない貧乏人の家に絡みつくなんて言われるが、貧乏なら貧乏で、ビンボウカズラと一緒に生きようという感じだ。

 

いま、アパートの前の植え込み的なところはドクダミでいっぱいだ。

不安定そうな斜面からはガクアジサイが花を咲かせている。

アガパンサスもおおきな蕾をつけて、これから開こうとしている。

 

やがてムラサキシキブ的なやつは実をつけ、葉を落とし、まったく枯れ木のようになってしまうだろう。

春になると嘘のようなスピードで葉を茂らせることだろう。

 

おれには、そんなんでいい。

足元にレモンバームがわさわさとしていようが、それでいい。

たまに新葉を摘んでハーブティーでも作ってやろうか。

そのくらいは許してくれよ、ってそんな感じだ。

 

というわけで、みなさまにおかれましても、そこらへんに生えている草本、木本、なんでもいいけれど、ちょっと気にしてみたらいかがでしょう。

この家のジューンベリー(アメリカザイフリボク)、今年は実が熟すのが早いなあ、とか、発見はあるものです。

まあ、やっかいな話もあるけれど、都市、街なか、住宅街の植物というものも面白いもんだ。

もちろん、在来種保護や住環境のために草を抜いても構わないぜ。好きにしてくれ。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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