強度の自己陶酔癖でもある人でなければ、自分の老いた容貌が好きなどとは言わないであろう。

わたしも普通の人なので、自分の老いた顔立ちなど、できることなら眺めたくはなかった。

 

髭剃りのためであっても、その頻度を減らし、視線はなるべく髭だけに向けるようにして、他はじっくり眺めたりしないようにしていたが、そうもしていられなくなった。

 

視界の曇りと、夜間照明の眩しさに耐えられなくなり、数年前ついに、白内障の手術を受けることにした。

その術後経過を確認するため、しかたなく己のかんばせと対峙し、できるだけ客観的にその現況を観察してみた。

すると、そこには今は亡き父母の顔が、特に眼が、左右に半分ずつ収まっていることを発見した。

二重瞼の母と、一重瞼の父が私の顔に張り付いていることに、はじめて気づいた。

 

若い頃には、どんなふうに眺めてもハンサムではないと慨嘆して、篤と観察する気も起きなかったが、いま改めて年老いた容貌を見つめてみると、ずいぶんと皺や弛みが増し、左右の不釣り合いが際立ってきた。

 

雛鳥が未練もなく巣から飛び発つように、わたしも振り返ることなく親元から離れると同時に、両親からの柵(しがらみ)など、疾(と)うに失せたものと思い込んでいたが、自分の顔に、父と母が同居してることに、血の桎梏(しっこく)の堅牢さを思い知った気分である。

 

***

 

父は語らぬ人であった。

遠藤周作の「深い河」に、ビルマのジャングルで、人肉まで口にして生き延びた帰還兵の話がでてくる。

その部分を読んでいたら、父のことが脳裏を掠めた。

 

就学前後のころだったか、父が夜勤で不在の晩に、寝物語で母から聞いたことによれば、父はどこか東南アジアのジャングルで、戦闘に参加していたらしい。

実家のアルバムには、軍刀を腰に下げた若い父の馬上姿の写真や、まるでピクニックでもしているかのような笑顔で、歩兵用の大砲を戦友たちと囲んでいるところを撮った、セピア色の写真はあったが、直接父からそれらの写真に関する話はもとより、戦場の様子など、体験めいたことは何も聞いたことはなく、父を通じて戦争を知ることなどなかった。

 

わたしが東京暮らしをしていた時分、訪ねてきた父が実家に戻るとき、最寄りの駅まで歩いて送ってゆくことになった。

その道筋には靖国神社があり、参道入り口に差し掛かった折、元来、靖国神社を戦争施設と認識しているわたしには忌避すべきものだったのに、歩を止めて、何気なく父に中に入るかと訊いたら、父は忌まわしいものでも回避するかのように、束の間も置かず先を急(せ)かした。

 

今にして思えば、わたしは何も語らぬ父をリトマス試験紙に浸してみたくなったのだろう。

しかし、そこには、何も訊くなという強固な意志を感じて、わたしたちは口をつぐんだまま駅に向かった。

 

戦闘体験がどのような様相を呈していたのか、この刹那ともいえる些事から忖度するしかない。

戦争に限らず、ずっと下積みだった仕事や、日々の出来事に関する想いや感慨など、一切何も語らず、沈黙を通したまま父は鬼籍に入った。

 

父は、わたしの記憶の中では、毎晩飽くことなく酒を飲んでいた。

朝起き掛けにいて吐きそうにしていても、晩になれば、酒なしではいられなかった。

 

家呑みに多少の気兼ねをすることもあったのだろうか、家で飲まないときには、酒屋に屯(たむろ)して、飲み仲間を見つけては、酔って近所の誰彼を連れて帰宅した。

一人で帰宅すれば母からの小言が待っているので、他人を楯として引き連れてくるのだった。

酔ったときだけは多弁であったが、それは酔漢の戯言でしかなく、聞くに堪えない酔漢たちの騒音を、思春期のわたしは階上で潮騒でも聞くように、教科書に視線を走らせていた。

 

そのような晩が明けると、母は、父の振舞った酒代を支払いに、愚癡をこぼしながら、小額しか入っていない財布を懐に忍ばせて、酒屋に出かけなければならなかった。

そんな父でも素面のときは、見事なくらい無言、無音で、足音さえ忍ばしていた。

 

明治女の祖母の躾がそうさせたのか、あるいはジャングルでの戦闘で身に付けた技なのか。

公休で在宅しているときには白昼でもコソ泥のように、戸棚から一升瓶を取り出し、コップに注いでは、そそくさと壜を戻し、一気に煽っては、口元を手の甲で拭っていた。

 

静まり返った部屋に、微かに戸棚の戸を引く音がするので、何かと思って台所に行けば、それは見たくもない、泥棒猫のような挙動をしている父の姿だった。

朝食時には、皆が食卓を囲んでいると、前夜の飲みすぎのせいで、突然吐き気に襲われ、幾度となくわたしたちの食欲を殺(そ)いでしまった。

 

毎度のことに堪らず、箸を食卓に叩きつけて席を立つこともしたが、父の空嘔吐(えず)きが止むことはなかった。

語ることの代わりに、肚に溜めた澱を、酒で掻き回していたのかもしれないが、その沈黙の意図が今もって不可解である。

 

***

 

母が死んで、胸底に秘められていたある事柄が明らかになった。

埋葬のために取り寄せた戸籍書類に、その断片がさり気なく記述されていた。

 

母は父との結婚前に、「和」という名の女児を出産し、生後二十日にして亡くしたことが、そこには記載されていた。

相手の名前は書かれていないことから、認知を得ないまま出生届けを提出し、私生児として育てるつもりだったのだろうか。

 

その頃は、母の両親は既に他界し、一人だけの姉も他所(たしょ)に嫁いだばかりだったから、姉にも相談せずに、一人暮らしの若い母は、妊娠・出産・死後の処理などすべて独断で、徒手空拳のまま行なったのだろうか。

唯一その間の事情を知っていそうなその姉も、このことに関する質問を避けるかのように亡くなってしまった。

 

この母の秘密を知ってから、朧気ながら得心できたことがある。

 

母はずっとわたしたち兄弟に、父を父として呼ばせなかった。

わたしたちは父を、ずっと「おっちゃん」と呼んでいた。

近所の子どもたちは、父親を「とうさん」の訛語である「おっと」と呼んでいたのに、我が家だけは「おっちゃん」だった。

 

それが不思議で、一度「なぜそう呼ぶのか」と、母に質したことがあるのだが、「入婿として家(うち)にやってきた余所の『おじさん』だから」、という返事だった。

幼子には、母の言葉を疑問に思う能力もなく、更なる疑問を繰り出すこともできず、長年その説明で納得していた。

しかし、母の秘密を知った今となっては、最初に成した子のときの相手を、結婚後もずっと、心の中に想い続けていたからだ、と解釈したくなる。

 

母はその出産と喪失からほどなくして、戦場から帰還し、国鉄に職を得た父と見合い結婚をして、わたしたち兄弟を出産した。

婚前の出産については父に伏せたままだったのだろうか。

夫婦(めおと)となった夫の子を産んでも、母の気持ちは仄めく埋(うす)み火のように消え失せることなく、心の深暗部に灼然として余熱を蓄えていたのだろう。

 

母は、わたしが就学前のころ、わたしと弟を連れて、夜遅く列車で母の姉の住むところへ、猛り狂う父の憤怒を逃れるために出かけたことがある。

そのときの父の怒りが、今にして思えば、母の秘密を知ったためだったのかもしれない。

 

母鳥が翼で雛を庇うように、わたしたち兄弟は母の両腕の下(もと)で、暗がりの先遠くに見える駅の明かりを目指して、田圃道を歩んだ。

その諍いがどのように収拾したのか、幼いわたしには知りようもなかった。

 

ただ、仁王のごとき面相の猛り狂う「おっちゃん」が見えなくなったこと、深更の道行き、自宅以外での一夜など、夢の中の出来事のようで、朝帰りが何だかとても新鮮に思えた。

 

そんな夫婦でも、わたしが中学生のころ酔っ払った父が、「母さんはなあ、俳優の池部良が好きなんだ」とわたしと弟を前にして語ったことがあった。

その言葉に母は、恥じらいの態で、子どもの前で何てことをいうのかと、父を嗜(たしな)めた。

 

そのとき両親の間に垣間見えた男女性に、わたしは理由(わけ)も分からず戸惑いを感じた。

俳優の好き嫌いごときに見せた母の反応は、埋み火をかき回わされた動揺だったのかもしれない。

見たこともない母の中から湧出した「女」の艶を含んだ声音に、思春期の性(さが)が揺さぶられる思いがした。

 

両親を亡くし、唯ひとりの身内である姉と別れ、独りとなったまだうら若い母がどんな想いで日々を暮らし、自分の身に起きた出来事にどのような心模様でいたのかを想像しようにも、手掛かりとなる残された書類だけでは余りにも頼りにならない。

 

出生届けを提出した地名は、現在はもう使われていないし、わたしたちが住んでいたところとも、母が働いていたと聞いているところとも違う。

たとえ、その届出の場所を特定できたとしても、当時そこに誰が住んでいたのかなど、探偵でもない素人には調べようもない。

 

父は、「おっちゃん」という呼称をなぜ受け入れていたのだろう。

自分のことを余所の人と母が踏まえていたことも知らず、子らの、ほかとは違う「おっちゃん」という呼称を、「おとうちゃん」の幼児語とでも納得していたのだろうか。

 

戦争のことをはじめとして、父は自らのことは何も語らず、鬱々と酒浸りの日々を過ごし、わたしにはずっと嫌悪の対象だった。

余所の人として、父をわたしたち兄弟に認識させる母の企図は功を奏した。

 

そのことで、一途な想いを囲い込む砦は守ったと信じていたのかもしれない。

小胆で酒にしか逃げ道しか見出せなかった父と、頑なに過去の想いを詰めた手匣(てばこ)を放せなかった母。

 

そこに家庭内のいざこざの根があり、その諍いの狭間で、わたしと弟は成長した。

両親のせめぎ合いの渦中で思春期を過ごしたわたしには、単に両親の不仲の様子しか見えず、親は、提出書類の「保護者」としか捉えられなかった。

 

父は老いて罹病し、浴びるほど飲んでいた酒を断ったらしい。

若いころの戦争体験と、その後の結婚をめぐる妻との確執。

ひとりの男を束縛し続けた枷から、果たして最期に解き放たれたのであろうか。

 

夫に先立たれ、老後ひとりになった母は、最晩期に去来する想いを、胸中にどのように抱えていたのだろう。

長年共に暮らせば、夫婦の間には情宜もあっただろうが、男女の衷心など知る術もないまま、わたしは実家を離れ、自身も年老いてしまった。

鏡の中のわたしの双眸は、そんな駆け引きがあったことを昔話のように語り掛けてくる。

 

母の二の腕には、コロッケくらいの大きさの痣があり、夏場の暑い日には袖なしの薄着になると、その痣はよく目に付いた。

わたしの背にも、それよりやや小さな痣があり、母の痣に、わたしが視線を向けているのに気づくと、母は、それが何よりの母子の徴(しるし)だと、碑(いしぶみ)にでも刻むかのように、繰返しわたしに語って聞かせた。

 

それに引替え、余所の人と教え込まれた「おっちゃん」とは外から見える徴は何もなかった。

しかし、そんなものが見えないほうが幸いだったのかもしれない。

そんな徴がある上に、飲んだくれの醜態を見せ付けられていれば、修復不能なくらいに関係性は壊れてしまっただろう。

 

家を離れて五〇年、齢は七〇に届こうというときに、わたしの容貌には、まごうことなく父の徴が兆している。

酔態だけしか印象に残っていない余所の人、何も語らず逝ってしまった余所の人。

それはわたしの父であり、初めてわたしは、あなたに呼びかけてみたい「お父さん」と。

 

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(2024/4/21更新)

 

【著者】

細野耕司

気象大学校卒業後、気象庁にておもに地震関連の業務に携わる。

長野市松代町にある精密地震観測室(当時)の主任研究官で退官。

60歳差の子ども(娘)を養育中の専業主夫。

 

(Photo:Jizo at Osorezan)