はじめまして、日本植物燃料株式会社、代表の合田と申します。
私は現在、アフリカの「モザンビーク」という国で会社をやっています。「モザンビーク」という国を、ご存じの方はいるでしょうか。
アフリカ大陸の南部、国民の70%が貧困ラインよりも下に位置する、世界で最も貧しい国の1つです。
「商売には向いていない地域なのでは?」
「社名の「植物燃料」って、何をやっているの?」
「そもそもなんでアフリカのモザンビーク?」
と思う方がほとんどでしょう。それはもっともな疑問だと思います。
実は、そもそも私自身もアフリカで働くなんてこと、思ってもみませんでした。ではなぜ、アフリカで事業を起こすに至ったのか。
話は少年時代に遡ります。
私は長崎の生まれです。
長崎はご存知の通り、原爆が投下された8月9日が毎年登校日となっており、学校で戦争について深く学びます。子供心ながらに、「戦争とは悲惨なものだ」という意識が芽生えました。
そして「戦争の原因の一端が石油資源の獲得にあった」事を知り、エネルギーというものの重要性を知りました。
思えば、この原体験が人生に大きな影響を与えていると感じます。
その後長崎の高校を卒業し、京都大学に進学したのですが、当時私はどうしても大学に対して価値を感じることができなくなり、大学を中退してしまいました。
ただ、もちろんしばらくするとお金もなくなり、「さすがにプータローはまずい」ということで、職業安定所に向かいました。
職安では「給料が良い」という理由だけで商品先物取引の仕事を選び、その後「災害情報の配信会社」に転職したのですが、このあたりから運命の歯車が妙な方向に回りだします。
この会社では経営陣の仲が悪く、暫くすると専務が「独立する」と外に出ていこうとしたのです。
社長は危機に際し、私に言いました。「この会社、5000万円で買わないか」と。
今思えば「崩壊寸前の会社を5000万で買う」など、狂気の沙汰と思いますが、当時の私はなんとなく「まあ、それもいいかな」と思いました。
若いというのはこういうことでしょう。
しかし、5000万円の借金を背負ったところからスタートするのは地獄です。何しろ稼がなければ「5000万の借金」→「路頭に迷う」です。
人脈を活かして、クレジットカードの端末を売ったり、郵便物を低料金で請け負う仕組みを作ったり、共通点としては「お金、もしくは決済まわりのサービスを扱う」ことをメインとした事業を必死に続けていました。
そんな中、知人からの「ある燃料会社の債権を回収してほしい」との依頼がきます。
その燃料会社に資産を確認するために訪問すると、事業所の一角にタンクがありました。
それは、彼らが実験的に仕入れていたバイオディーゼル燃料でした。バイオディーゼル燃料とは、植物から絞った油由来の燃料のことで、石油の代替エネルギーとして着目されていました。
少年の頃の「燃料」への思いが募ります。
「エネルギー」を適切に世界が扱うことが、世界平和につながる。
私はこの「バイオディーゼル燃料」をなんとか事業化したいと、燃料会社の紹介でその燃料の仕入元であるマレーシアに飛び、日本国内の事業者に販売をはじめました。
当時の顧客はバス会社や製造業の発電設備などです。
ところが、これが面白いくらい「大失敗」でした。
1年であっという間に資金を使い果たし、社員への給料も出せなくなったので社員は私ひとりだけになりました。
本当にお金がなかったので、五反田の友人の会社にぶらぶら遊びに行って、1日に500円をもらって生活したりしてました。
「なぜ売れないバイオ燃料を続けたのか?」と聞かれたこともあります。
やめなかった理由は、少年のときの原体験から、燃料が自分のライフミッションになると確信していたからです。
ただ、諦めなければいつか潮目が変わることもあります。どうにかひとりで食いつないでいた我が社ですが、ある時から急にバイオ燃料が売れ始めるのです。2003年頃からです。
2003年ってどんな年か知ってますか?
ニューヨークで911テロが起こったのが2001年です。そして、2003年はアメリカが「イラクが大量破壊兵器を保持している」という理由で、イラク戦争を始めた年です。
そういう時に植物燃料が急に売れ始めたのです。理由は簡単で、戦争がはじまるとなると石油が高騰することが予想されて(実際高騰するのですが)、とりあえず「安い燃料」を探し始める人たちが現れるのです。
ただ、売れるとわかると大手も参入してきます。
私たちが売っていた「植物燃料」は急速にコモディティ化していき、5年と経たないうちに、通常の石油燃料と価格が変わらなくなってしまいました。
ピンチです。
と言っても、このような事態は今までの自分の経験から予測済みでした。何度も失敗すると教訓が得られるものです。
「商売の上流を抑えなければ、大手には勝てない」
そう思い、自ら「燃料の原料」を開発しようと思いたったのが、この時期です。
大手は主にパーム(ヤシ)から得た油をバイオ燃料としていました。ですが、食料を燃料にしてしまうという倫理的な問題、および食料の価格も上がっていた、という問題から、我々はパームを燃料の原料とせず、別のものを探します。
そこで目をつけたのが、当時注目されていた「ヤトロファ(jatropha)」です。
ヤトロファは干ばつや害虫に強く、乾燥した地域でも栽培が可能です。
植物由来の燃料として有名なものにトウモロコシやサトウキビから作るガソリン代替のバイオエタノールがありますが、ヤトロファからできるのは、軽油代替の「バイオディーゼル」です。
前者は原料から得られる糖質を発酵と蒸留を経てエタノールを作りますが、後者は原料から油を絞りとることで作られますので、両者は精製方法が大きく異なっています。
経産省やNEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)などから資金援助を得て、2008年頃からこの事業を本格的に始めました。
ですが、もちろん競合もいます。
実は当時、ヨーロッパ系の企業が数十億円規模の投資をに次々に行い、原料を栽培するため「土地の囲い込み」を行なっていました。アフリカの安い土地を大量に買い占め、供給側から市場独占を狙うというやり方です。
しかし、我々にそのような大きな資金はありません。
そこで目をつけたのが「品種改良」です。
フィリピンに開発拠点を作り、世界中からヤトロファの種子を3万個体以上集め、交配を繰り返しならがら「単位面積あたりの収穫量」がとにかく大きい種(=取れる油の量が多い)を開発することに集中しました。
結果としてこれはうまくいき、通常のヤトロファよりも300%以上の効率が良いものを開発することができました。
ここまでくれば、品種の貸出やリース、企業への販売(100粒で2〜3000万円)も商売として成り立ちます。
そして、丁度よいことに当時、私は政府開発援助の一環でモザンビークで土地を確保し、現地の人々を雇い、きゅうりやトマトなど10種類くらいの作物を作って、それを市場で売るということをやっていました。
ここにシナジーがありました。生産性の高い品種と、モザンビークでの農業の経験を活かして、バイオ燃料の生産拠点を作れるという確信を得たのです。
加えて、アフリカは将来に渡って人口が増え続けると予測され、世界的に注目されている市場でもあります。
決意を固めてアフリカに現地法人を設立し、モザンビークの農民に対してヤトロファの苗木をわたし「畑と畑の間の垣根として植えてください」と指導しました。
そして彼らに「収穫できたヤトロファはウチが買い取ります」と打診します。
もともと余っている土地を活用できる上、彼らにとっても貴重な現金収入が生まれるのですから、皆大喜びで協力してくれ、結果として1万人の方に協力してもらえることになりました。
そして、肝心のバイオディーゼルの販路ですが、「まずは海外ではなく、モザンビークの国内」をメインとします。
なぜなら、残念ながら、まだ国際的には輸送費などを含めると石油のほうが競争力があり、我々の入り込む余地はなかったからです。
逆に、モザンビーク国内であれば外貨をあまり持たない彼らはバイオディーゼルの方が遥かに安く調達でき、十分競争できます。
こうして、ようやくここから、アフリカでバイオディーゼル事業を本格的にやろうとなるわけです。
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