先日亡くなられた、作家・漫画原作者の小池一夫さんの『人生の結論』(朝日新聞出版)という著書の冒頭に、こんなエピソードが出てくるのです。

先日、友人が亡くなりました。彼は、世間では成熟した大人の代表のような扱いを受けていました。皆が、彼のことを粋な通人と呼びました。

骨董をたしなみ、古書を集め、家に行けばチェロが置いてありました。酒に詳しく、葉巻を吸い、食通で通っていました。

 

しかし、長年の付き合いのある僕は知っています。彼は収集した本をほとんど読んではいませんでした。美しい本棚のための本でした。チェロも弾くことはできませんでした。センスのいい男でしたが、センスのよさだけで世を渡っていました。

 

しかし、僕が、彼がすごいなと思うのは、本物の成熟した人間ではないのに70で死ぬまで、その一見成熟した大人の男だというスタイルを貫き通したまま死んでいったことです。

 

死ぬまで吐き通した嘘は、ある意味真実であると思いました。

周りの近しい人間は、彼が本物の成熟した人間ではないニセモノだと知っていました。

 

しかし、皆それを受け入れて付き合っていました。本物の金貨ではないけれど、とても魅力的な贋金だったからです。

そして何よりも、多かれ少なかれ自分は彼と同類だと感じていたのです。

 

「成熟した大人」とは、自分が成熟していないニセモノの大人であると自覚している大人のことなのです。そして、少しでもホンモノになろうと考えることができる大人のことなのです。

僕は現在、40代後半で、年齢的には「大人すぎるくらいの大人」なのです。

その一方で、自分が大人になったというよりも、自分が年長者、大人としてふるまわなければならない状況が増えたというか、周りに子どもが増えた、というのが実感なんですよ。

穏当に、大人というのは、子どもの頃に想像していたほど、「大人」じゃないな、と思います。

 

小池一夫さんが書いておられる方が誰か、というのは僕にはわかりませんし、あれこれ邪推するべきではないな、という気がするのですが、世の中には「ホンモノの大人」っていうのは、僕が考えているよりも、ずっと少ないのかもしれません。

この人の「真実」がネットで流布されたりしたら、「嘘つき!」って、かなり批判されそうですよね。読んでいない本を読んだふりをして、弾けないチェロを弾けるとアピールしていたのだから。

 

ただ、僕は自分自身も「成熟した、ホンモノの大人」になりきれていない、という実感があるので、この人を責める気にはなれないのです。

そして、小池さんたちのように、それでも「大人」として振る舞おうとしている仲間を受け入れる「寛容さ」こそ、「大人の態度」ではないか、と思えてくるのです。

 

実際、「背伸び」をしていたり、意地を張っていないと、自分が損をするようなシチュエーションでも大人として振る舞うのは、キツイものではありますし。

大人であろうとすれば、損をすることだってあるでしょう。

 

それでも、人は「大人」であるべきなのか。

もしかしたら、人が「大人」であるかどうかは、「覚悟」を持っているかどうか、なのではなかろうか。

 

小池さんは、この本のなかで、こんなことも仰っています。

吉本隆明さんの著作にこういう一節があり、とても共感したことがあります。

「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人間の価値とまったくおなじである」(「カール・マルクス」『吉本隆明全著作集12』)

ここで語られている「千年に一度」の人物とは、カール・マルクスのことです。

マルクスのような世に名を残す人物の価値と、あなたや僕の人間の価値は同等であると言っているのです。

吉本さんの言葉で他にも大切にしている言葉があります。

「結婚して子を産み、そして、子に背かれ、老いくたばって死ぬ、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ」(「自己とは何か」『敗北の構造』)

この吉本隆明さんの言葉は、僕の人生観そのものです。

 

僕自身は、自分とカール・マルクスのような「偉人」が等価だとはとうてい思えません。

これを書いている小池一夫さんだって、立派な業績を残してきた方です。

でも、この吉本さんの言葉には、なんだか救われるような気がするのです。

 

もちろん、すべてがうまくいき続けて、家族や友人に愛され、惜しまれつつ死ぬのが理想ではあるけれど、世の中はそんなに甘くない。

そこで、いろんなネガティブな体験をその人なりに受け止め、あがいて死んでいくのが人間なのだ。

そういう「ふつうの大人」たちが、これまでの人間の社会を支えてきたのです。

 

たぶん、ほとんどの人が幸せになりたい。

ネットやメディアには、ドラマチックな幸福や不幸が溢れていて、平凡で見せ場もない人生って何なのだろう、と言いたくもなります。

 

だからこそ、そんななかで、「ふつうの大人であろうとする」のは、けっこう、カッコいいことなのではないか、と僕は最近思うようになりました。

どうせニセモノなら、立派にニセモノを演じ切りたい。

 

「子に背かれ、老いくたばって死ぬ」のがデフォルトであるならば、大概のつらいことは「想定内」だから。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

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(Photo:Hernán Piñera