日本人の会議の目的とは、あらかじめ決まっていることを承認すること
少し前の森元総理の発言をめぐるバタバタを見ていると、日本の抱えている問題について、実に多くのことを考えさせられる。
森さんとしては、その場で軽い笑いをとるためのちょっとしたサービスのつもりでした話で、事実、その場で聞いていた人も笑っていたそうである。
これはバカなことをいってという苦笑ではなくて、また例の森さん節ね! ということであり、そういっているあなたが一番話が長いでしょ、ということでもあったのだろうと思う。
世の中には、いろいろな研究があるもので、この森発言に対し、あらゆる会において女性の発言時間は、男性と同等かやや少ないという研究を紹介しているひともいた。
おそらく、それが事実なのであろうが、今まで発言していなかった人がどんどん発言するようになれば、当然、会議に要する時間は長くなる。
問題は、森氏が会に要する時間が長くなることを、議論が活性化して喜ばしいことだとは少しも思っていないことである。
では、会議の目的とは?
あらかじめ決まっていることを承認することである。
なぜ、あらかじめ結論が決まっているのになぜわざわざ会議などをしなくてはいけないのか?
後からそこに関係する者たちからの反論を出させないためである。「あなたもそこにいましたよね!」
あるいは、どういうわけかそこにいなかったひとが、後から「自分は聞いていない!」と怒鳴りこんでくることを避けるためである。
なぜ、会議が必要なのか?
その会での結論は全員の合議の結果である、という形式を保つためである。
一方、文科省が女性理事を4割にしろとうるさく言ってくるのも、女性参画社会という理想を達成することに文科省もまた賛成しているという形を作ることが目的なのであって、女性の理事が増えれば、議論が活性化するだろうなどとは夢にも思っていないはずである。
文科省が言っていることは、世界はその方向で動いているのだから、あなたのところもちょっとはそれを気にしてください、ということである。
遠い未来での男女平等という理想の達成のため、あなたの組織も少しは協力して下さいというだけのことである。
森氏の言っていることは、「女はまだ(日本の)会議というものを全然わかっていない。
そこに参加するということを自分の意見を求められているのだと勘違いしている。
結論なんかはじめから決まっているのだから、ただ黙ってそこに座っていればいい!」ということである。
とはいっても、あらゆる会議がシャンシャンではないことは、最近、漏れ聞こえてきた東大総長の選考のための会議の経緯を見てもあきらかで、そこでの総長選考の過程はもう滅茶苦茶で、知性の片鱗も感じられない。サル山のボスの争いである。
東大というとんでもなく大きな予算と人員を抱える巨大組織のトップを決める会であれば、そこには国家権力をふくむさまざまな方面からの思惑が渦巻いているのであろうから、ある会社でのささやかな会議などというものとはまったく異なるものになることは当然なのだが、それにしてもである。
なお、総長候補の第一次候補12名中、女性は一人だけ、現在の東大教授の内、女性の占める割合は7.6%とあった。
もしも、ある権威ある国際アカデミーなどから、2030年までに貴大学の教授に占める女性の割合を40%以上にするように、というような勧告がなされたら、どうするのだろう?
「余計なお世話だ! 学問の自由の侵害である。断固、拒否!」というようなことになるのだろうか?
欧米は「建前」の世界を指向しているが、日本は「本音」の世界のまま
わたくしが中学から高校生であった頃、アメリカからの映像では、バスは白人用と非白人用で乗り口も内部もはっきりと分けられていた。
そして、そのような差別をなくすように求める運動があることも報道されていた。
いまだに様々な差別が歴然とあるいは隠然と残っているとしても、少なくとも、そのようなはっきりと目に見える露骨な差別はなくなってきているはずである。
今、欧米は「建前」の世界を指向している。
しかし、日本は「本音」の世界のままである。
問題の一番根っこにあるのは、男に生まれるか女に生まれるかを自分では選べないということである。
あるいはどのような人種に生まれるか、貧しい家に生まれるか豊かな家に生まれるか、も。
わたくしが誤解しているのかもしれないが、ロールズの「正義論」での「無知のヴェール」というのはそのことを指すのではないかと思う。
ロールズの議論というのは観念論の極致のようなものだと思うが、それでも欧米でその論が力をもつのは、欧米が過去に犯してきた罪への懺悔と贖罪の気持ちをそのことで表しているからなのだと思う。
植民地経営、奴隷制度・・。
だから自分の男女平等への勧告が無視されると何より古傷が痛む。
わたくしがセクハラという言葉をはじめてきいたのはもう30年以上も前のことかと思う。
病院の忘年会で酔っぱらった若い研修医(男性)が看護師さん(女性)に抱き着きながら、「最近、こういうことをするとセクハラって言われるんですよ!」と教えてくれた。
セクハラという言葉もハラスメントという舌をかみそうな言葉も初耳で、そんなわけわからん言葉をつくってどうするのだろう、と思っていたが、それが何十年も使われ続けると現実を規制する力を持つようになるのだな、ということを実感している。
女性の理事を40%などというのも当初は単なる掛け声で、実態を伴わない単なる数合わせに過ぎないのかもしれないが、続けていけば、どこかで現実を変える力を持つようになるのだろうと思う。
グローバル・スタンダードの本質とは
問題は最近グローバル・スタンダードがとても旗色が悪いことで、アメリカのトランプさん、あるいは欧州の移民排斥の動きなど、各国がそれぞれのローカルに閉じこもる傾向がめだっている。
また、ロシアも中国も自国第一である。
今、日本は健気にもブローバル・スタンダードをつきつけられて、それを完全には否定できないでいるが、そのうちにブローバル・スタンダードの背景にあるしたたかな打算のようなものが見えてきて、なんて汚い奴らなのだ、お前らとはもう付き合いたくないといいだすのではないという懸念をわたくしは感じている。
グローバル・スタンダードというのは欧米世界がロシアや中国と対抗するために利用しているとても安価な武器で、ロシアだって中国だって、表立っては、「女性を登用する気はさらさらない!」とか「我が国に逆らう少数民族など弾圧しても構わない」とは言えないでいる。
村上春樹さんは河合隼雄氏との対談で、「日本の戦後的な価値観が世界の中でほとんど汎用性をもたなかった」ということをいっている(「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」 岩波書店 1996年)。
グローバル・スタンダードというのは欧米が世界でヘゲモニーを握るための一つの武器(特に中国やロシアを牽制するための)という側面を強くもっていると思うが、その偽善的な文言をそのまま額面通りに受け取って、(それが偽善であることは何よりも言っている当人が深く認識しているはずなのだが)、また「美しい国 日本」の方向へと回帰していくようなことがければいいのだが、とわたくしは思っている。
年功序列制度とか4月新卒一括採用とか、一般職と総合職の区別とか、正規・非正規の区別とか、何よりもあからさまに(あるいは隠然と)おこなわれている男女の就業上の差別は、現在はとりあえずそのやり方で表面的にはうまくいっているように見えるかもしれないが、世界が大きな流れとしてグローバル化していくなかで、ある時、突然、機能しなくなる日がくるのではないかと思う。
オリンピックの組織委員会の女性の理事の比率を40%にするなどというのはまさに単なる形式の問題である。
しかし、形から入ることが実質をも変えていく日がいずれくるのではないかと思う。
本日(3月3日)の朝日新聞朝刊に、オリンピック組織委員会に女性理事12名が新たに選任されたという記事がでていた。
それを報じた同じ紙面には国立大学の学長を選ぶ「学長選考会議」の権限を強化することになったという記事もでていた。
その朝刊に「ファクトフルネス」(日経BP社 2019年1月刊)が2020年のさまざまなビジネス書のランキングで1位になったという宣伝も掲載されていた。
同書の第7章は「宿命本能」、つまり持って生まれた宿命によって、人や国や宗教や文化の行方は決まっているという思い込みを論じている。
同書によれば、「アジアやアフリカの国々で見かける「男らしさ信仰」は、アジアの価値観でもアフリカの価値観でもなく、たとえば60年前のスウェーデンでもあたりまえに見られた「頑固オヤジの価値観」に過ぎない、ということがいわれている。
変わらないように見えるのは変化がゆっくりと少しずつしか起きないからで、その小さな変化の積み重ねによって、ある日、大きな変化がおきていることに気がつくことになるのだという。
あと10年か20年すると、あの森元総理の発言が日本の何かを変えるきっかけになったと回顧されるような日が、あるいはくるのかもしれない。