なぜ働くのかということへの考え方には、《自分のしたいことを実現するため》という方向と《自分が食べていくお金をえるため》という方向の二つの異なった見方があると思う。
三浦展さんと上野千鶴子さんが対談した本「消費社会から格差社会へ」(ちくま文庫 2010年)には上野さんの以下のような過激な?言葉が紹介されている。
わたしなんて、やりたくない仕事を身すぎ世すぎでやってる。
仕事というのは、生計の方便です。「身すぎ世すぎ」と「好きなこと」が一致するはずだ、というまったく困った幻想がある。
その幻想を、村上龍の『13歳のハローワーク』(幻冬社・2003年)は煽ってるわけですね。あんたがやったことに他人がなんでゼニ出してくれると思う? その人の役に立つことをやったから、他人の財布からカネ出してもらえるんでしょ? ・・・
自分が好きなことしてゼニもらえると思うな。自分が好きなことは持ち出しでやるんだ、バカヤロ。
上野さんは《自分が好きなことは身銭をきってやれ》という。
村上さんは《好きなことを仕事にしろ》という。
だが、上野さんがいう「仕事というのは、生計の方便です」という側面も、村上さんの本でも無視されているわけではない。
働かないでも食べていけるだけの不労所得がある場合以外には、仕事はまずもって生きていくための手段である。
ただ、実は村上龍の『13歳のハローワーク』は、確かに『自分が好きなことをやれ』というアジテーションという側面もあると思うが、わたくしから見ると、何よりも「サラリーマンにはなるな!」という煽りである。
13歳のハローワーク
植物ハンター・フラワーデザイナー・フラワーアレンジメント・華道教授・盆栽職人・庭師・植木職人・・。
これは花や植物が好きなひとに勧める仕事である。
動物好きには、獣医・動物園や水族館の飼育係・犬の訓練士・トリマー・・・。
そして人体・遺伝が好きなひとには、医師・看護師・保健師・助産師・薬剤師・理学療法士・・。
この本には「エッチなことが好きな人に勧める仕事」という項目もあって、薦められているのは、精神科医・臨床心理士・心療内科医・作家・医師・・。
わたくしは「エッチなことが嫌い」とはいわないけれど、「エッチなことが好き」だから医者になったとは、自分では思っていない。
人体が好きだから医師になるというのも、どうにもあやしい話だ。
だから、「13歳のハローワーク」はかなりいい加減な本であるという見方もあろう。
ただ、結局村上氏が、この本で一番いいたいことは《会社員という生き方以外にも、もっといろいろな働き方があるのだぞ》ということであり、「13歳のハローワーク」は、若者に対して、そこに目を向けさせるための本なのである。
実際、この本の最後の方に、結論として《サラリーマンとOLを選択肢から外して仕事を考える》ということがいわれている。
おそらく、これがこの本で村上氏の一番いいたいことなのである。
「何になるのか」ではなく、「どの会社に入るか」が重要になってしまうのは愚かなことで、おかしい、と氏はいう。
学校をでたら会社や役所に勤めるのが当たり前という考えを捨て、自分で商売を始めるとか会社をおこすということも選択肢に入れろという。
どういう仕事をしているかではなく、どこの会社で働いているかが問われる日本はおかしい、と。
もちろん、会社とは一線をおく生き方にもいろいろあって、その一つの方策として、資格をとるという方向もある。
わたくしも医師という資格によって生きてきた。
資格をとれば食べていけるとは必ずしもいえないわけで、若いころ、旧ソヴィエトでは医師免許を持っていても仕事がなく、タクシーの運転手をしているひともいるという話をきいたこともあるが、幸いわたくしは、その免許で50年間、食べてくることができた。
最近、産業医という仕事もしているが、そこで感じるのは、従業員の健康管理というような明確に限定された目的のために、しかも中途から雇用されている医師や保健師は、会社内部の人間とは、どうもみなされていないようだということである。
「先生は、ここがおかしいとおっしゃいますが、でもこの規則の必要性は、長くこの会社の中にいる人にしかわからないのです。申し訳ないですが、もう少しこのままでやらせてください。・・・」
濱口桂一郎さんの「若者と労働」(中公新書ラクレ 2013年)に「日本では、医療の世界のような特殊な分野を除けば、私はこの「仕事」がこのくらいできますではなく、私は何々という会社の社員ですということで生きている」と書かれている。
わたくしはその特殊な分野で生きてきたことになるのだと思うが、会社の顧問弁護士といった人も同じようなことを感じているのだろうがではないかと思う。
上野さんによれば、人が社会で生きていくために最も必要とされるものはコミュニケーションスキルであり、それさえあればどんな世の中になっても生きていけるという。
ひとりうじうじと自己実現などといっている若者には虫唾が走るらしく、《コミュニケーションスキルを磨けない男性は、マスターベーションしながら死んでいただければいい》などと、なかなかとんでもないこともいっている。
ひょっとすると、これは男性差別の発言なのだろうか? コミュニケーションスキルを磨けない女性はどうしたらいいのだろう。
一方の龍さんは、ミュニケーションスキルを磨けない人間にももっと同情的だ。
彼は、「幼いころから性格が団体行動に合わず、まじめに受験勉強もできず、人間としてもかなりやばいこともやったという人生の暗黒時代」を経験している。
だから、弱いひと、日本の既存のシステム(その代表としての会社組織)にうまくなじめず、そこには入っていけないひとを応援するために、「13歳・・・」を書いて、サラリーマンでない働き方もあるのだ、組織にはいらなくてもやっていく道はいろいろあるのだという啓蒙活動をしているわけである。
*
わたくしは高校一年くらいまでは、文学部に進学するつもりでいた。
文学部を出たあと何をするかということはほとんど何も考えていなかったが、漠然と国語の先生にでもなるかといった感じだったように記憶している。
何しろ、生徒であるわたくしに見える働く人というのは教師しかいないわけで、仕事のロール・モデルはそれしかなかったわけである。
しかし、高一のころ、文学部にいっても碌なことがないなと思うちょっとした出来事があり、それでその方向は断念した。
さらに、そのころのニュースには、新入社員に自衛隊体験入隊をさせたり、滝にうたれる禊をさせたりする会社の報道が溢れていた。
これはいやだ、サラリーマンだけにはなるまいと思い、たまたま父親が医者だったので、別に人体に興味があったわけでも、エッチな方面に興味があったからでもないが、医学部を目指すことにした。
ところが医学部にはいってみると、教壇に立つ先生方はみんな研究志向でノーベル賞がどうたらこうたらという言葉がひんぱんに飛び交い、臨床医を育てるといったことにはあまり関心がないようである。
こちらは父も勤務医だったので、医者のイメージはもっぱらそれで、研究者になるつもりも開業医になるつもりもなく、学園紛争?闘争?の血沸き肉躍る一年有余の後では一向に勉強に身がはいらず、それでも追試の山をくぐりぬけて何とか卒業できた。
その後、研究室で数年、カラムや電気泳動間装置をいじっているうちに学位もとれたので、すぐに大学をでて勤務医になった。
村上さんのいう好きなことをやれという薦めには全然従ってはいないが、サラリーマンにはなるなという薦めには従ったわけである。
それで、今やっていることは、一応、上野さんのいう他人の必要に応えるということになっているのかと思う。
とはいっても、わたくしの一番の基本が《一人でいたい》《本を読んでいる時間が一番幸せ》ということなので、昼の時間は《身すぎ世すぎ》で、夜の時間こそが本当の自分という感じがどうしても抜けないでいる。
ついでにいえば、医者になって一番よかったことは、極端の貧しさは経験しないでくることができたことで、読みたい本があればかなり高価な本でも、ほぼ躊躇なく買うことができてきた。
とすれば、根本的には上野派なのだろうか?
しかし、《一人でいたい》人間としては、コミュケーション・スキルを磨こうなどという志向はまったくない。
*
昨年以降はコロナ騒ぎでできなくなっているようだが、従来、新入社員が入ってくると会社では、二週間くらいのガイダンスのような期間があり、わたくしも「新しく社会人になったひとの健康管理」といった話をさせられていた。
しかし、嫌になることには、そのガイダンスの会場にいる新入社員の全員が例外なくリクルート・スーツをきていて景色が真っ黒なのである。
しかも誰か(新入社員代表?)が声を掛けて、「起立! 礼!」などとやる。軍隊ではあるまいし・・・。
四月になって、街にもリクルート・スーツの若者があふれている。
バブルの頃にはもっと自由で、入社式の服装もてんでんばらばらでカラフルだったのだそうである。
売り手市場と買い手市場の違いなのだろうか?
そもそも入社式などというのが、「仕事は何をするか」ではなく、「会社に入ったのだぞ」ということを確認するための儀式である。
まだまだ娑婆の空気がぬけず学生気分も抜けない新入社員に、《これからかは陸軍内務班のやり方でいくから、覚悟するように》という儀式である、かどうかは自分が話すところ以外の講師の話はきいていないのでわからない。
が、話のタイトルだけみていると
「社長の講話」
「わが社の歴史と沿革」
「わが社の現状」
「わが社の・・」
で、「それぞれの仕事に早く馴染め」ではなく「わが社の気風に早く馴染め」という方向の話ばかりのようである。
こういうものが続いている限りは日本人の働き方はまだまだ変わらないのかもしれない。
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【著者プロフィール】
著者:jmiyaza
人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。
2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。
Photo by Rostyslav Savchyn on Unsplash