このごろ短歌に関する本を読んでいるのだが

このごろ短歌に関する本を読んでいる。

 

短歌には本となったもの以外に、いや、それ以前の発生の場所として歌会などがあるらしい。

お題が出されて、それについて匿名で歌を提出する。歌人たちがお互いに点をつけ合う。題詠形式というらしい。

 

そんなことを読んで、おれは歌人でもないし、歌人になりたいわけでもない。

短歌を書いているわけでもないし、書いたとしてもそれを発表する気もないのに、「おいやめろ」と思ってしまう。

それはきついなーと思ってしまう。

 

なにせ、だれかと同じお題で競って、点数がつけられてしまうのだぜ。

それって、すごくきつくないか。苦しくないか。悲しくないか。怖くはないか。

 

おれは怖い。枕に顔を突っ伏して、足をばたばたしてしまうくらい怖い。

もちろん、歌会に誘われたわけでもない、参加しようとしたわけでもない。

ただ、そんなことを読んだだけで、そうなってしまう。

 

ゆとり世代とはちょっと違うかも知れないが

「ゆとり世代」という言葉がある。

実際にそういう世代があるのかどうかよくしらない。

おれはそれより少し上の世代らしいが。

運動会の徒競走でみんなが一着になるように、手をつないで走るといった話が事実だかどうだかしらない。

 

が、おれの「比べられること」への恐怖は、「ゆとり的」だなと思わないでもない。

おれはゆとり世代ではないけれど。

ともかく、他人と比べてくれるな、点数をつけてくれるな。そういう思い。

 

……が、ちょっとそれとも違う。

おれは足が遅い。

徒競走でそれが明らかになっても、べつになんとも思わない。

おれは足が遅いからだ。

 

テストについてもそうだ。おれの学習成績があきらかになって、べつに苦しいとも思わない。

むしろ、おれは勉強のテストが好きだった。

とくに勉強もせず、そこに出てくる結果。

おれにとってそれは占いとか性格判断に近かった。

 

おれは国語ができる。算数は壊滅だ。

べつにそれを誇るとも、恥じるともなかった。

その結果を面白がっていた。

 

だから、ちょっとその、短歌の歌会の採点というものを知って、「勘弁してほしい」と思うのと、徒競走やテストとは違うのだ。

 

自分の才能を評価されるのがこわいのだ

おそらくだが、おれは自分の内心からくる表現を評価されるのが嫌なのだ。

 

べつに陸上部でも体力自慢でもなんでもないから、徒競走の結果は他人事だ。

勉強の成果をはかるテストも、べつにおれの内心とは関係ない。

おれの記憶がどれだけあるか、というくらいのものだ。

それはおれの内心とは、関係ない。

切り離されている。他人事として楽しめる。

 

一方で、己の内心から表されたものを評価されるのは恐ろしい。

吉本隆明的にいえば「自己表出」とでも言うのか、それをああだこうだいわれるのは耐えられない。

他人と比べられるのはつらすぎる。

 

自意識過剰、ともいわれるのかもしれない。

とはいえ、おれがおれのセンスによって生み出したなにかが、批評されるのはあまりにおそろしい。

おれという人間の才能のすべてがはかられているように感じてしまう。

 

才能。

とくにポジティブな意味を持たずとも、だれにでも各人の才能というものがある。

突出して優れていればポジティブな意味を持つ。

おれには才能があるのか、どうか。なんの才能があるのか、ないのか。

 

やはり自意識過剰。

おれにはなんらかの才能があるはずだと信じたい自分がいる。それは否定できない。

若気の至りから二十年経ってもそういう気持ちがある。

 

そして、その才能が、まな板の上に載せられて、ああだこうだと突かれるのはとても嫌な感じがする。

やめてほしいと思う。かなわないと思う。

ほかの才能と比較されて優劣をつけられるようなことがあれば、本当に参ってしまう。

 

度胸がないだけでしょう?

度胸がないのだろうと、思う。

度胸がない「だけ」というほどの傲慢さは持ち合わせていない。

ただ、おれはおれの内心を、内心から出てきた表現を、だれかに評価されたくない。そういう思いが強い。

 

おれはたまに文章をほめられる。写真をほめられることもある。

絵だって描いたりする。

しかし、それをなんらかのコンテストに出して、他人と比較して、それに勝ちたいという心がない。度胸がない。

もしも負けてしまったら、おれの全てが否定されるような気持ちになってしまうだろう。

おれはおれでいられなくなるだろう。

 

度胸がない。とてもセンシティブ。それがか弱いおれという存在だ。

おれはおれの表現を評価されることが、とても怖いし、そんなことからは逃げ回りたい。

それだけはだめなのだ。

 

足の速さや学力テスト、性格診断、健康診断の結果はぜんぜん平気だ。

むしろ晒してみたいくらいだ。

血液検査の結果なら、いくらでも晒せるぜ。

おれのγ-GTPの値を見てくれ、みんな、というぐあいだ。

 

だけど、おれの才能を、センスを晒したくはない。

それが人と比べてどのていどのものかわからない。

いや、人と比べてくれるなと、そこで立ち止まる。立ち止まって動かない。動けない。それがおれだ。

 

手をつないでゴールできないのか

というわけで、おれは、ある分野に関しては、手をつないで徒競走をゴールしたい人間だ。

もちろん、あまりに足がおそすぎたり、つまづいてしまったりして一緒にゴールできないかもしれない。

それでも、優劣をつけないでくれ、そういう思いが強い。

 

同じくらいのもの同士の優劣はもちろんのこと、おれが内心から出るものについて、おれよりはるかにすぐれた人からの添削、指導、そういったものもごめんだ。

 

おれはおれがあるようにいたい。

添削や指導によって、おれの内心から湧き出るところの何らかの表現が引き上げられるとしても、おれはそれを拒否したい。

おれよりはるかにすぐれた人間との比較になってしまうし、おれのすべての否定になってしまう。

 

おれはおれでありたいし、おれのこのままでいたいという思いが強い。

向上心というものはない。

おれはおれで好きにやっていたいし、それをおもしろいと思う人がいればそれでいいし、ヘイターがいるのならそれはそういうものだろう。

 

もちろん無関心でいてくれてもいい。ただ、比較だけは見たくない。

万が一、おれが優劣の優になるとしても、それは居心地の悪いことだ。

 

おれはおれなりにやっているし、あんたはあんたなりにやった。

だったら、手をつないでゴールしてもいいんじゃないのか。おれはそう思う。

 

おれに大喜利を求めないでくれ

好き勝手にする。自由。

おれがもっとも大切に思うこと、希求することは「自由」の二文字だ。

それがフリーダムかリバティかわからん。

わからんが、なによりも自由が好きだ。

 

おれはおれの興味のあることにしか言及したくないし、だれになにかしろといわれるのがとても嫌だ。

年を経るごとにその傾向が強くなっている。

アンブライドルド。漢字で書けば不羈。

いずれにせよ馬に関係するのは面白いと思う。

 

おれは競馬でいうところのカラ馬でありたい。

カラ馬というのは、騎手を振り落としたりして、勝手に走ってる馬のことだ。

レースが始まっていれば、競走という比較から自由になった存在だ。

競走中止扱いなので、馬券を買っているがわからすればたまったもんじゃないが。

 

競走、競争。早くあれ、強くあれ。

そういうお題が求められている。

おれがお笑い番組などを見ていていちばん感心し、畏怖し、恐怖するのが大喜利というやつだ。

お題が出され、それに答える。

そこでは、その人間全体のセンス全てが問われる。これほどおそろしいことはない。

 

「とてもじゃないがおれには無理だな」ということは、それこそ数え切れないほどある。

リングに立ってボクサーに打ち勝つこともできないし、土俵で力士を負かすこともできない。

おそらく120km/hのボールを打ち返すこともできないし、東大に合格することも、美術大学に合格することも不可能だ。

 

そういったことはわかりきっている。

そのなかにあって、おれにはとてもじゃないができないと思うことは大喜利なのだ。題詠といってもいい。

なんでもいいが、お題を与えられると萎縮してしまう。はなから負けている。

 

そこでおれがひねり出す答えは面白くもなんともないだろうし、それによる評価、判定、反応は、おれの全人格を否定することになるだろう。

おれにはそれがおそろしいし、そういう舞台に立ちたいという心は微塵もない。

おれはそういうチャンスがあったとしても、逃げるだけだろう。

逃げるおれ。おれにとっては恥ずかしくもなんともない。恥をかくことがおそろしい。

 

だからおれは「何者」にもなれない

というわけで、おれは結局「何者」にもなれない。

奇跡のようななにかがおこって、おれの才能らしきものが拾い上げられることだけをあほみたいに望んでいる。

童謡の「待ちぼうけ」だ。

残念ながら、一度目のウサギすら切り株にぶつからない。

 

とはいえ、おれはおれの才能だかセンスだかをもって、戦場に躍り出る気はまったくない。

そんなおれに栄光は訪れない。拍手喝采を受けることもない。

この世の片隅でみじめに死んでいくだけだろう。

 

が、それでも構わない。それが相応という気持ちでもいる。

奇跡は起こらない。だが、奇跡と呼べるようなとくにすばらしい何かが大事なのか、とも思う。

おれはネットに日記を垂れ流している。

それを読む人もいくらかいる。それで十分ではないか。それが奇跡でなくてなんであろうか。

 

そして、自分の庭からちょっとお出かけしたこの場所の、この文章を読んでいるあなたがいる(このテキストが採用されればの話)。だれかになにかを書いてくれと求められた、それ自体奇跡だろう。

おれにとってはもうそれだけで十分だ。

 

ただ、おれをもっと引き上げたいという人がいたら、べつにそれは拒否しない。

できるものならやってみてくれと言いたい。

 

おれはなんの努力もしない。それでもおれにそういう才能があるのなら、なんて夢みたいなことを思っている。待ちぼうけ。

何者かになれたらそれでもいいし、もうおれは何者なのかもしれないし、それならそれでいい。もうなんでもいい。

「寄稿」なんてものをできるだけでかなり幸せ。そんな気持ち。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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