P2P保険の仕組みを支えるのは「相互扶助」というコンセプトである。

 

江戸時代後期は財政難に苦しむ藩が多く、経済再建問題が重大な課題だった。

それらの対策として「相互扶助」の仕組みを活かした優れた取り組みが編み出された。

 

その中でも特筆すべきは二人の人物の施策だ。

 

一人目は、上杉鷹山。

凶作や飢饉の際の救済政策を実施し、その後の大飢饉で藩内から1人の飢餓者も出さなかったといわれる。

 

二人目は二宮尊徳。

信用組合・協同組合の先駆けともいえる画期的な相互扶助金融制度を作った。

 

それらの仕組みはどのようなもので、コミュニティにどのような利益をもたらしたのだろうか。

 

天保の大飢饉で1人の餓死者も出さなかった「備籾蔵(義倉)」

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」(どんなことでも強い意志を持ってやれば、必ず結果がでる。)

上の和歌で知られる米沢藩(現在の山形県米沢市周辺)藩主、上杉鷹山(1751-1822)は厳しい赤字財政を立て直した名君といわれている。

 

鷹山は、凶作や飢饉に備えた救済策として「備籾蔵(義倉)」に力を注ぎ、目覚ましい成果を上げた。


図1 上杉鷹山像
出典:米沢市上杉博物館「九代目米沢藩主 上杉鷹山 「成せばなる 成さねばならぬ 何事も」 改革者の功績を振り返る」 

 

度重なる凶作

江戸時代は数多くの飢饉に見舞われた。特に東北地方は連続的な凶作・飢饉におそわれ、餓死する者も多かった。

米沢藩も例外ではない。

 

以下の表1は凶作によって生じた米沢藩の損毛(損失)高を表している。
なお、[ 1石=10斗=100升 ]である。

表1 米沢藩の主な凶作における損失高(文化・文政期まで)
出典:松永貴史(2017)「米沢藩の天保大凶作時における備籾蔵の運用方法」p.74 

 

表1の一番上「享保5年」は1720年、一番下「文政7年」は1824年にあたる。

約100年間でこれだけの凶作・飢饉に苦しんだことになる。

凶作や飢饉に見舞われると、その影響はその年だけではなく翌年以降にも持ち越され、そうしているうちに、また次の凶作・飢饉がやってくる。これでは財政は逼迫するばかりだ。

 

鷹山が9代目藩主になったのは1767年(明和4年)。

それに先立つ宝暦年間には飢饉が断続的に起こり、既に逼迫していた藩の財政に追い打ちをかけた。

鷹山の先代、8代目藩主はもう財政が立ち行かないとして、領地返上を検討したほどだ。

 

鷹山が家督を次いでから譲り渡す1785年(天明5年)までの間にも次々と凶作・飢饉がおそう。1770-1771年(明和7-8年)、1773年(安永2年)、1783年(天明3年)・1785年(天明5年)、計37万8093石の損失だ。

このうち1783年(天明3年)は大飢饉だった。

 

このような危機に際して、鷹山は「相互扶助」を取り入れた施策を行う。

 

鷹山の施策「備籾蔵(義倉)」

鷹山が行ったのは、「備籾蔵」と呼ばれる対策だが、そのうち農家ではなく町家の備籾蔵を特に「義倉」と呼んだ。

「義倉」(以降、義倉も含めて「備籾蔵」と呼ぶ)は奈良・平安朝時代にまで辿ることができる制度で、倉に穀物などを蓄えておき、凶作の年にそれを窮民に分け与える仕組みだ。

 

「備籾蔵」も領民が少しずつ籾を拠出しておき、凶作や飢饉などで食料難に陥ったときにそれを困窮している人々に供給する救済策である。

 

鷹山はかねてから「備籾蔵」に着手しようとしていたが、その矢先の1773年(安永2年)に大凶作に見舞われてしまう。

しかし、その経験からますますその必要性を感じ、翌1774年(安永3年)に5棟の備籾蔵を設置し、ゆくゆくは3万俵の米を備えるという計画を打ち出した。

 

蔵を作る費用は江戸や越後の商人から借り入れた。

2年後の1776年(安永5年)には藩が建築用材と籾の 一部を用意し、藩や家臣の備籾蔵のほかにすべての村々に備籾蔵が設置され、さらにその翌年、町人のためにも2棟建設された。

こうして、米沢藩では、藩、家臣、農民、町人それぞれのための備籾蔵が設置され、画期的な凶作対策が整った。

 

農民は毎年1人1升の備籾を出すよう命じられた。

この備籾蔵は強制的なものだったが、その効果は絶大だった。この制度が活用された天明の大飢饉における餓死者は、それ以前の宝暦の大飢饉と比べると半減しているという推計もあり、設置直後でも一定の効果が認められた。

 

貯蓄20か年計画と救済ルート

鷹山は1784年(天明4年)には「20年計画」を立て、備籾蔵制度をさらに徹底した(表2・表3)。

表2 「貯蓄20か年計画(目標:1784年時点)

 

表3 「貯蓄20か年計画(1830年(天保元年)時点)
出典:松永貴史(2017)「米沢藩の天保大凶作時における備籾蔵の運用方法」p.77

 

この制度が威力を発揮したのは、鷹山の死後のことだった。

天保の大飢饉では、藩内から1人の餓死者も出さなかったと言われている。

 

ただし、そうした効果は備籾制度単独によるものでなく、その制度が組み込まれた「救済ルート」によるもと考えられている。

図2 米沢藩における凶作時の救済ルート 出典:松永貴史(2017)「米沢藩の天保大凶作時における備籾蔵の運用方法」p.89

 

この救済ルートでは、まず「自助」や「共助」が行われ、それでも困窮している農村では各種の備籾蔵が活用された。

その使用順も、村備籾蔵→藩村備籾蔵→藩備籾蔵と段階的に利用された。

それでもまだ困窮している村があれば、村備籾を藩が買い取り、困窮した村のために分配したり、買米による食料確保をした。

 

相互扶助を基盤とするが、それでも補いきれない場合にはより大きな組織がそのリスクを引き受け補填する。

こうした救済ルートは、再保険の仕組みを備えたP2P保険の設計と同じだ。

 

世界の先駆 画期的な相互扶助金融制度

次に紹介するのは、独創的な考え方で社会を変革した二宮尊徳の取り組みである。

図3 二宮尊徳像 出典:報徳博物館「二宮尊徳と報徳」

二宮尊徳は、若い頃から卓抜した才能を発揮した。

 

幼少時から教養のある父に教育を受け幸せに育った尊徳だったが、父母が相次いで死去するという不幸に見舞われ、伯父の家に預けられた。

彼は逆境にもめげず、農作業の合間に稲の捨て苗や菜種を空き地に植えて収穫し、その収益で田畑を買い戻し、成人後間もなく家の再興に成功した。

 

その後奉公に出た小田原藩(現在の神奈川県小田原市周辺)の家老・服部家で1814年(文化11年)、28歳の頃に作ったのが画期的な「五常講」である。

 

相互扶助金融制度「五常講」

この「五常講」はこの制度に加入した人々による相互扶助金融制度だ。五常とは、儒教が重んじる以下のような5つの徳目である。

 

● 仁:金に余裕のある者がこの講に貸し出し基金を出す

● 義:この講から金を借りる者は約束を守って確実に返済する

● 礼:借りた者は貸してくれた者に感謝する

● 智:借りた者は確実に1日でも早く返済できるように努力工夫をする

● 信:金の貸し借りには相互の信頼関係が欠かせない

 

こうした5つの徳目を守るのが「五常講」に加入する条件で、尊徳はこのことを厳しく周知徹底していた。

 

実ははじめの頃の原資は全て尊徳が出していたが、この制度は一時的に金詰まりに陥っていた人を救うだけでなく、貸し倒れがなく確実に利息が入るため、利殖の手段として資金を提供する者も現れ、皆の金を皆に貸すという相互金融制度に発展したのだった。

 

銀行がなかった時代には非常に重宝な存在だったこともあり、この制度には服部家の奉公人の過半数が参加していたとみられている。

 

加入条件として五常が徹底しており、同じ服部家の奉公人同士ということもあり、返済をめぐるトラブルはほとんどなかった。

この講は修正を加え、より大規模な制度として、小田原藩にも設立されることになる。

 

信用組合・協働組合の先駆け

尊徳は「五常講」と類似した講を小田原藩にも設立した。*6:N0.363-390

 

この「小田原藩五常講」も五常を重んじることと相互扶助という基本は崩さなかった。

ただ、基金は藩が出し、借りた者同士の相互扶助制度であったという点は服部家での五常講と異なる。

 

例えば、下級武士の場合には、100両を100人で運用し、1人が借りられるのは原則1両で、返済期限は100日以内というものだった。

服部家での講と違って利息はない。

 

もし返済が滞った場合には、名簿で返済が滞った人の次に記載された10人が、1人700文を出し合って連帯返済をすることになっており、この連帯責任が果たされない限り、次の貸付は停止という決まりだった。

 

同じ組の仲間に迷惑をかけたくないため、借りた人はなんとかして返済しようと努力する。

それでも返せなければ、連帯責任という相互扶助でカバーする。

 

こうした仕組みやインセンティブは、P2P保険とぴったり重なる。

これまでみてきた「五常講」は、現在の信用組合や協同組合と大変似た仕組みだ。

 

ここで、協働組合発足の歴史を辿ってみると、以下のようになる。

 

● 五常講( 信用組合)1820年

● 小田原報徳社(小田原藩に設置された協同組合に類した組織)1843年● イギリス・ロッチデール公正先駆者組合(生協のルーツ) 1844年

● ドイツ・ライファイゼン救済貸付組合(農協のルーツ)1862年

● 産業組合法制定(日本)1900年

● 農業協同組合法制定(日本)1947年

● 消費生活協同組合法制定 1949年

 

以上のように、尊徳は世界に先駆けて信用組合や協同組合の原型となるビジネスモデルを創出したのである。

 

おわりに

以上みてきたように、鷹山の「備籾蔵」も尊徳の「五常講」もP2P保険と多くの点で共通している。

仕組みの根底にある根源的な「助け合い」、再保険に似た仕組み、新しいビジネスモデルの創出・・・。

 

江戸時代の助け合いのシステムは、世界的にみても画期的だったのだ。

 

(本記事はFrichオフィシャルブログからの転載です)

 

 

 

 

【参照・出典元】

米沢市上杉博物館「九代目米沢藩主 上杉鷹山 「成せばなる 成さねばならぬ 何事も」 改革者の功績を振り返る」

松永貴史(2017)「米沢藩の天保大凶作時における備籾蔵の運用方法」

三井住友海上「損害保険の歴史と未来」

角屋由美子(2012)「上杉鷹山とリスク管理」

報徳博物館「二宮尊徳と報徳」

松沢成文(2016)『教養として知っておきたい二宮尊徳 日本的成功哲学の本質は何か』PHP研究所

 

 

【著者プロフィール】

Frich(フリッチ)は、P2P互助プラットフォームを提供するインシュアテックスタートアップです。

市場規模が小さいなどの理由で成立しなかった「ニッチなほけん」を開発しています。

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Photo by Kim Gorga