選挙の季節
政治の季節だ。いや、選挙があるだけだが。
政治の話をしたい。実在する政党や政治団体については語らない。思想も語らない。せいぜい与党と野党、くらいの抽象性でいきたい。
なにを語りたいのか。結論からいえば、「政治はその人の人徳による」のではないかということだ。
自分の気に食わない……というと感情的すぎるか。自分の思想信条に反するような政党が躍進することがある。あるいは、すでに与党であるかもしれない。いずれにせよ、あるもの支持すれば、あるものは支持しない。そこに対立が起こる。
……と、書いたところで思ったのだが、べつに両方支持する、50%と50%で支持する、どちらでもいい、そういう考えがいけないのだろうか。べつにいいじゃないか。それもその人の考え方だ。
どのような考えを持とうと自由だ。敵か味方かの二元論におちいらないために、あえて選択から身を引くというのも一つのあり方だ。あるいは、自分の能力ではなにが正しいか見極められないと思い、投票はせずに世の中の人の良識にしたがおうというのも一つの見識ではないか。
ついでにいえば、おれは白票や棄権を批難する声がきらいだ。投票だけが唯一の政治的行動であるかのようにあがめるようなことを言って、その実、「自分の支持する党への」投票を促すような欺瞞をよく見かける。投票しないことで、政治について口出しする権利をすべて失うとまで言って脅す。そんなあからさまな言動にしたがおうという人もいないだろう。
この国では、白票を投じるのも自由だ。棄権するのも自由だ。「白票なんて行かないのと同じで意味がない」というのも嘘だ。それはだれにとっての「意味」だ。だれか他人にとっての「意味」にすぎない。人間は自由であるべきだ。自分のなかで「意味」があるのであれば、それに従えばいい。その自由を奪おうとするものには全力であらがったほうがいい。
大きな意味での自由は、「支持する自由」に加えて「支持しない自由」を含んでようやく成立する。
政治の対立
話をもとに戻す。対立が起こる、という話だ。どこかどうにも自分には受け入れることができない勢力が拡大しつつある。おもしろくない話だ。おもしろくなくなってどうするだろうか。いまはインターネットがある。気軽に自分の意見を表明できる。あるいは、いろいろな情報にもアクセスできる。その気に入らない勢力についての悪い話を探す、そして拡散する。そういうことができる。
それは悪いことだろうか。べつによくも悪くもない。とうぜんの行動だと思う。むろん、自分の気に入らない勢力も、同じように自分の支持する勢力について同じことをするだろう。そこにフェイクやデマがつきまとうのも常になってしまったが、いまの政治、あるいは選挙についての情況だ。
もちろん、おれもそうするだろう。きっとあなたもするだろう。
しかし、そうしていて、ふと、「これは自分の気に入らない勢力の勢いを削ぐことの役に立っているのだろうか?」と疑問に思うことがある。自分のしていることは、有効なのだろうか。
SNSに投稿した辛辣な一文に、「いいね」がたくさんついて、仲間から称賛されたとしても、肝心の「変わってほしい誰か」には届いていない。むしろ、「ますます嫌いになった」と遠ざかっていくような気すらする。
たとえばその気に入らない勢力がいかに誤っているかという事例が集まっていたとする。おれはおおいに納得するし、拡散に加わる。だからといって、その気に入らない勢力の人に、それが届くだろうか。届きはしないだろう。そういう気がしてしまう。
批判以外の道
では、なにが有効なのだろうか。相手を批難するのではなく、自分の支持する勢力のためになにか行動するべきか。応援文を書く、その勢力の正しいことを書く、寄付する、ボランティアをする。それもいいだろう。
しかし、「自分の支持する勢力」が明確でなかった場合はどうだ。「支持政党なし」。投票も直前まで悩んで、消去法で決める。そんな場合は。そうなると、自分の気に入らない勢力への攻撃一辺倒になってしまう。
だが、攻撃してその対象の意識を変えるのはむずかしい。ほとんど無理といってもいいだろう。攻撃には反撃があるだけだ。溝はさらに深くなる。味方と敵の間には深い川が流れている。せめて、川を渡るやつが出ないように、自らの、そして相手の攻撃をもって結束するくらいだ。
その川からはなれたところで見ている第三者の目にはどう映るだろうか。どちらかに加わるかもしれない。嫌気がさして立ち去ってしまうかもしれない。
できれば、第三者には味方になってほしい。そうでなければ、立ち去ってほしい。でも、現実には、敵に加わってしまう場合もある。「選挙には絶対に行け」と無関心層をあおる人間は、最後の場合についてはあまり考えていないように見える。
どうすれば、味方になってもらえるのか。すでに敵となった人間を変えるのはむずかしい。ほとんど無理だといってもいい。ならば、いまは味方でも敵でもない人を、どう味方にできるのだろうか。
思想や政策の正しさ(あくまでその人にとっての、だが)を述べて、それが受け入れられる、ということもあるだろう。理知による説得だ。
説得には、理知以外のこともありうる。あまりいい言葉ではないが、利益誘導だ。自分の支持する勢力が権力をにぎれば、あなたにとって得なことがある。これも大きな方法だ。利益とか得とかいうと、なにやら悪いような気がするが、べつにそれが「社会福祉」と目される場合もある。自分に得なことは自分にとってだいたい正しいと思えることだし、その仲間に加わるのも悪くはない。
このような綱引きがさまざまな場面で行われている。そのときの結果が示されるのが選挙だ。
選挙は競馬と同じだ。自分の投票が必ずしも当たるわけではない。
ただ、選挙がやっかいなのは、当たれば必ず配当金がもらえるわけではない。
野党の候補に投票してその人が当選したところで、政権交代が行われなければ、公約が果たされる可能性はかぎりなく低い。少数与党であることや連立、駆け引きで実現する可能性はちょっぴり上がるかもしれないが。
与党に入れても、はたしてどれだけ公約が形になってきただろうか。
選挙で「この人に入れるとあなたにいいことがありますよ」という勧誘も、理屈でいくとなかなかむずかしいことなのかもしれない。
理知や理屈で人を動かすのは、人を変えるのはむずかしい。いかに理路整然とした名文だろうと、魂のこもった弁舌術であろうと。そのような気がする。
人を動かすもの
人を動かすのはなにか。それは人でしかない。ずいぶんざっくりした言い方だ。「人」そのもの。その人の知識でも知能でも文章でも弁舌でもなく、「人」そのもの。これしか人を動かさないのではないか。おれはここのところ、そんなことを考えている。
大学に入ったころだろうか。おれは「薫育」という言葉を教わった。師となる人から受け取るのは、教科書に書かれているような知識ではない。接するうちに自然と受け取っていくものだ。その師の人徳を受け取っていくものだ。
果たして、日本の大学教育において薫育が存在しているのかわからない。わからないが、そういうものはあるのだろうと思う。
薫育というと、上下の関係になる。ただ、政治で誰かに影響を与えるのは、「薫り」のようなものではなかろうかと思うのだ。理論や理知でもなく、直接的なアジテーションでもなく、その人と接しているうちに、その人を信頼し、その言葉に感化されていくようなこと。
知識も、ロジックも、文章のテクニックも、演説のうまさも、しょせんは「武器」だ。「武器」では人の心の奥には届かない。人の温度がなくてはならない。
むろん、演説などは人を熱狂させるところがある。心に刺さるところがある。そういうものはある。それでも、心底、ある人間を変えることがある、変えなくてもその人の味方になりたいと思うには、影響を与えるものの人となり、生きている姿勢があるのではないかと思うのだ。その人の「薫り」だけが、ほかの人に影響を与えうる。
あまり上品な言葉ではないが「生き様」だ。その人が、どのように生きているか、その生き方に共感があるのか。そこに行き着く。
自分の気に入らない勢力が躍進するのに、いろいろな理由を探したがる、それも人間だ。社会の情勢、今まで政治に掘り起こされなかった人たち、政治未満ともいえる単純な心情。なにかに「その理由」を押し付けたくなる。それも人情だろう。
とはいえ、そういう人情の上に立って、理由を論じたところでなんになろうか。理知も理屈もそれを支持する人たちに届かなかった。その原因はなんだろう、背景はなんだろう、そんなところを論じ合って、場合によっては痛罵したところでなんになるだろう。
自分が気に入らない政治勢力が躍進したのは、自分の人徳が足らなかっただけ。そう思うのがよい。それ以外に思ってはいけない。
いかに「ファクト」を提示して、それを広めようとしても、川の向こうの通じない人には通じない。通じないどころか、攻撃と受け取ってよけいに「嫌われる」。それだけのことだ。
「人徳」だの「薫育」だの、なにやら現代政治にふさわしくない言葉ではないのか? そのように受け取る人も多いだろう。実のところ、おれもそう思っている。
しかしながら、インターネットを通して、万人が万人へのアジテーターとなった今、いったいなにが残るのかという話だ。理知やファクトを望む人は、自然とそこにたどり着く。自力でたどり着く。……歪んだ理知やファクト、世界の真相、根本情報の可能性もあるが……。
そうでない場合はどうだろうか。いくらあなたが理知やファクトを拡散したところでどうなるだろうか。もともとの味方を結束させて、敵はそれを嫌って、彼らは彼らでより結束してしまうだけではないか。
ならば、なにを言えばいいのか。なにを言ってもいいのは当然だ。それは自由だ。自分の思うようにすればいい。
だが、おれのなかでちょっぴり思えてきたのは、いざ選挙、いざ選択になったときに述べるなにかだけではない。いや、そういうときに急に訴えかけるなにかではない。
日頃からの信頼が大切なのだ。日頃からあなたがある人に信頼されているのであれば、あなたが行う政治的選択にも一目置くだろう。従うだろう、とは言わない。ただ、一考してくれるかもしれない。人が人に与える影響は、それが限界だろう。
おれはいま「あなたが」と書いた。言うまでもない、これは「おれ」の話でもある。「おれが気に食わない政治勢力が躍進するのは、おれのせいだ」。これである。
自分の支持する勢力が伸びないのも、気に食わない勢力が伸びるのも、「おれのせいだ」。おれの発する言葉に説得力がなかったから、文章がうまくなかったから、なにより、人に信用される人徳、薫りがなかったから。それだから、おれの考える政治にはならないし、おれの考える政治以外のなにものかになってしまう。なにもかもおれの力が足りないからだ。おれはそのように思うようにした。
むろん、おれが自分の理想のようにやっているとは考えていない。分断やヘイトをあおっている側ではないかとすら思う。おれは信じられる師を求めるタイプではないし、だれかに影響を与えられるような人間だとも思っていない。おれに人徳はない。しかし、一人でもいいから、おれの考えに興味を示してくれればよいかな、と思ってはいる。ほんの少しの願いだ。
なにも、一万人、一千人、百人に影響を与えようと思わなくてもよいのだ。せめて、周りの二人、三人に影響を与えることができれば、それで十分だ。自分一人の二倍、三倍だ。そのような最小単位、基礎に立ってしか、現代の政治……、いや、過去の政治も成り立たなかったのではないか。一時の勢いに流されることもなく、実直に、自分の考えを人に共感してもらうこと。そこに必要なのは人徳なのではないか。おれはそのように考えている。
このごろ、おれはそのように考えている。
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黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
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双極性障害II型。
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