「どうみても30代後半のおばさん構文炸裂」

X(旧Twitter)のタイムラインにこんなメッセージが流れてきた。

投稿したのは、20代とおぼしき女性だ。

 

そうか、彼女にとって、30代後半の女性は立派な「おばさん」なのだな。

 

ならば、「おばあさん」は何歳からなのだろう。

今は人生の半分近くを「おばあさん」あるいは「おじいさん」として生きていく時代ということなのだろうか。

 

そういえば先日、新聞がこんなことを報じていた。

「高齢者が総人口に占める割合は現在ほぼ3割、2040年には34.8%に達すると見込まれる」

こんな時代に「おじさん」「おばさん」は、この先の人生をどのように歩んでいったらいいのだろう。

 

全員、退散!

「どのように歩むか」以前に、「歩むな!」という意見もある。

ニコニコ動画「Re:Hack 小中高生20人vsひろゆき&成田」で、1人の少年が経済学者の成田悠輔さんに次のような質問をした。

 

「老人は実際、退散した方がいいと思うんですよ、日本から。で、そういうときに老人が自動
でいなくなってくれるようなシステムをつくるとしたら、どうやってつくりますか?」

「どうやってやるかというと、結構ありうる社会未来像なんじゃないかと思っていて。そういう社会を描いた映画があるんですよ」と、成田さんは諫めるでもなくいう。

 

2つ挙げた映画のうちの1つは、一定の年齢になった人が崖の上から飛び降りる風習がある、架空の村を描いている。

「で、こういう架空の村みたいなものっていうのは、歴史上だと存在してたらしいんですよね、それっぽいのが。そんな感じの社会を考えることはできるんじゃないですか」

淡々とことばをつなぐと、

「それがいいのかどうかっていうと、それは難しい問題ですよね。なので、もしいいと思うんなら、そういう社会をつくるためにがんばってみるのも手なんじゃないかなあ」

 

ことの是非は保留しつつも、それを望むのなら「自動的に老人がいなくなってくれる社会」の実現を目指せと、少年にエールを送ったのである。

 

ここで注意しなけれならないのは、「こういう架空の村みたいなものっていうのは、歴史上だと存在してたらしいんですよね」という発言だ。

そのエビデンスは示されていない。

 

姥捨山

日本にも「姥捨山」があるではないか、という人もいるだろう。

たしかに日本には「棄老物語」と呼ばれる伝説の系譜がある。

極貧で厳しい食糧事情を抱えた村落が舞台だ。一定の年齢に達した老人を「口減らし」のために、村の掟に従って棄てる物語である。

 

深沢七郎の小説『楢山節考』を思い浮かべる人もいるかもしれない。

映画化もされ、カンヌ国際映画祭の最高賞「パルム・ドール」を受賞している。

 

 

舞台は信州の寒村である。

この村では、何でも食べられる丈夫な歯をもつこと、長生きすることは、卑しいことだ。

主人公のおりんは石臼で自分の歯を欠き、「楢山まいり」、つまり自分が楢山に棄てられる日を待ち受けている。

 

ふるまい酒を用意し、楢山で座るためのむしろを作り、授けるべき知恵は家族に伝える。

「楢山まいり」が無事に終わって自分がいなくなった日に、家族にふるまうご馳走も算段した。

 

毅然として「その時」を受容するストイシズム、徹底した自己犠牲の美学を貫くことによって、おりんは自らの尊厳を守ろうとしているようだ。

 

ついにその日がきた。

家族が寝静まるのを待ち、渋る息子を急き立てて、「楢山まいり」の途につく。

 

険しい山道を背負われてゆく。

途中で夜が明け、まわりが白み始めた。

 

ここからがクライマックスなのだが、ネタバレが過ぎるので、この辺にしておこう。

映画を見た人は、リアルな情景が瞼に焼き付いているのではないだろうか。

 

通過儀礼

ところが、である。

アカデミックの世界では、実際にはこのような「姥捨て」はなかったという説が有力なのだ。

 

社会学者の佐々木陽子さんは、さまざまな文献を漁り、

「『姥捨て』を通過儀礼の1つとして位置付ける見解が、民俗学の主流のようである」

と述べ、以下のような学説を紹介している。*1

 

各地の姥捨て伝説では、60歳を迎えた老人を山や谷に捨てるといい伝えられてきたが、それは実際には棄老ではなかった。

死者の霊魂が集う霊山付近の聖地で、年老いた者が死を疑似体験し、再生する儀式がある。それが通俗的な伝わり方をした、というのである。

生前に死の疑似体験をすることは、通過儀礼の中ではよくあることだそうだ。

 

文化人類学の研究者である友人にも意見を求めてみた。すると彼も、「死と再生の通過儀礼と葬送儀礼のようなものが混淆したという解釈が妥当ではないか」という。

人里を少し離れたところに相互扶助的なターミナルケアを行うコミュニティーのようなものが存在していたという説もあるらしい。

「姥捨て」が実際にあったかのように、なんとなく思いこんでしまっていたのだが、そうではなかったということなのだ。

 

ここで、「老人は全員、退散!」の話に戻ろう。

少なくとも「姥捨て」はなかったようだが、もし実際に映画のような村があったとしたら、どうだろう。

 

その場合にも、それは「そういう社会をつくれるかどうか」という蓋然性に絡む問題であって、成田さんもいうように、「それがいいことかどうか」という議論とは別ものである。

 

それなのに、わざわざそういう話を持ち出すのは、印象操作だろうか。

子どもを巻き込んでの「全員、退散!」説は、さまざまな面で乱暴すぎる。

 

ただ、現在の超高齢化社会には、棄老伝説を産んだ村落の環境と相通じるものがあるのも確かだ。

高齢者が増え、社会保障費は膨らむばかり。国の財政は逼迫し、若者の負担は増す一方である。

「おじさん」「おばさん」自身、親の介護に疲れているかもしれない。

 

「老化」という戦略

そもそも「老いる」とは、どういうことなのだろう。

植物学者・稲垣栄洋さんの著書『生き物が老いるということ 死と長寿の進化論』 を参照しながら、探っていきたい。

 

多くの生物は生殖能力を失うと、死んでいく。老いる間もなく寿命が尽きてしまうのだ。

ところが、人間の女性はどうだろう。

閉経後も長生きをする。

 

それは、なぜか。

生物の世界は「適者生存」、環境に適応したものだけが生き残る。生存をかけて、生物はさまざまな進化を繰り返してきた。

それが鍵だ。

 

年を取れば、体力が衰える。足手まといにもなるだろう。

それでも若者は、体力的に弱者である年長者を保護してきた。それは、年長者を保護することにメリットがあったからだ。

もしそれが生存を不利にするのなら、年長者は切り捨てられていただろう。

 

では、年長者が若者にもたらすメリットとはなんだろう。

それは、経験と知恵である。

厳しい自然界でか弱い人間が生き延びていくためには、その経験と知恵が必要だったのだ。

 

ちなみに、地球上で閉経する生物は、人間とシャチとゴンドウクジラの3種類だけだという。

最近、その「おばあちゃんシャチ」の存在理由が解明されたそうだ。

 

「おばあちゃん」がいる群れは、いない群れに比べて孫の生存率が高まる。そして、「おばあちゃんシャチ」が死ぬと、孫の生存率は低下するのだ。

 

人間の場合にも、「おばあちゃん仮説」というものがある。

「おばあちゃん」を含め親子3代で暮らしていれば、親だけでなくその上の世代からも生きるための知恵が、効率よく伝達される。

 

「おばあちゃん」の登場によって、人類は急速に発達し、文明や文化を発達させていったのではないか。これが「おばあちゃん仮説」である。

もちろん、役に立ったのは、「おばあちゃん」だけでなく、「おじいちゃん」も同じだ。

 

しかし一方で、体力的に劣る「おじいちゃん」「おばあちゃん」を抱えるためには、その集団に年寄りを保護するだけの力が必要である。

その力はどうやって養うのか。

 

年寄りを大切にする集団は、年寄りから授かった経験や知恵で集団を発展させ、力をつけた。そして、その力で年寄りを保護したのだ。

 

生物は、生存に適した特徴が発達する。

稲垣さんの言葉を借りれば、生物である私たちにとって、老化は「戦略」なのである。

 

踏まれた雑草は立ち上がらない

とはいっても、人類が進化を遂げてきた過程と現在とでは、全く事情が異なる。

何でも簡単にググることができ、生成AIが知恵を授けてくれる現在、若い世代に比べてデジタルリテラシーの低い年長者は、むしろ情報弱者ではないのか。

 

では、「おじさん」「おばさん」は、若い世代にどうやって貢献していったらいいのだろう。

稲垣さんは、示唆的なことを語っている。*2

 

雑草には「踏まれても踏まれても立ち上がる」というイメージがあるが、それは誤りだというのだ。

 

踏まれた雑草は立ち上がらない。

踏みつけられたまま、種を残す。

 

なぜなら、彼らのミッションは「種を残す」ことだからだ。

それが明確なら、踏まれたら踏まれたままでいいし、どの方向に伸びていったって構わない。

 

状況は常に変化していくのだから、戦略に正解などない。

変えてはならない絶対的な目的さえ明らかであれば、どんな戦略を選択することも可能だと、稲垣さんはいう。

 

では、「おじさん」「おばさん」にとっての絶対的なミッションとはなんだろう。

若い世代に貢献するために、見失ってはならないものとは?

 

それが明確になれば、その実現に向けて自分らしい戦略を立てることができるだろう。

絶対的なミッションさえ見失わなければ、戦略は自由なのだから、いろいろ試してみるのもいいかもしれない。

 

実りある老いに向けて、まずはそんなところから始めてみるのはどうだろう。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:横内美保子(よこうち みほこ)

大学教員。パラレルワーカーとして、ウェブライター、ディレクターの仕事もしている。

好きなことは「おすそ分け」、大伯母の教えです。「そうやると、世の中のお金が回るんだよ」と。それで、お給料日や臨時収入があったときには、まわりの人にささやかなプレゼントをします。たとえ、板チョコ1枚でも。X:よこうちみほこ

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Instagram:よこうちみほこ

Photo:Jaddy Li

 

 

資料
*1
佐々木陽子「『棄老研究』の系譜(Ⅰ): 民俗学的アプローチと文学的アプローチを中心に 」(2015)(『鹿児島国際大学福祉社会学部議集』第34巻 第3号)

*2
株式会社日立ソリューションズ「シリーズ記事第19回 国立大学法人静岡大学 農学部付属地域フィールド科学教育研究センター 教授 稲垣栄洋 動植物の生き方に生命の本質をみる」
https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_idomuhito/19/