コミュ障と就活

あまりいい単語だとは思わないが、ネットスラングの一つに「コミュ障」という言葉がある。

身体的、精神的にコミュニケーションが困難、といった医学的に定義される意味での「コミュニケーション障害」とは異なって、この場合は「人付き合いや会話が苦手な(または成立し難い)人」という程度の意味のようだ。

 

「コミュ障」と、その対義語であるところの「コミュニケーション強者(以下コミュ強者)」の違いは、特に就職活動の場で話題にされることが多い。

就活の内定が出る時期になると、ネットは不採用の原因を自分のコミュ障ぶりにあると嘆く愚痴や、要領よく立ちまわって内定を勝ち取っていくコミュ強者への嫉妬の書き込みで満たされる。

 

しかし、長年社会人としてコミュニケーションを行っている身からすると、このようなネットでの「コミュ障」と「コミュ強者」の違いが、彼らが語るほど重要なことだとは、あまり思えない。

というのも私は、ビジネス上で「コミュ障」的な性格が問題になることは防止できるし、現代においては「コミュ強者」が交渉事や営業として有利な素養だ、とも言い切れないと考えているからだ。

 

ビジネスとコミュニケーション

ビジネスには種々の企業間、部署間のコミュニケーションが不可欠である。

依頼元は顧客の要望を理解し、それを他部署や、発注先に正確に説明する必要があるし、それを受けた他部署や下請け企業の担当者は、具体的な業務に落とし込む過程で生じた疑問や、最初の説明から不足している情報を依頼元に求める。

つまりは

顧客↔依頼元↔下請け

のチェーンの中で、何度もコミュニケーションが発生することになる。

 

最終的にビジネスが完結し、成功するかどうかは、顧客の要望がチェーンに関わる全ての担当者に正確に共有され、具体的な業務に還元されているかどうか、ということにかかっている。

つまりは、ビジネスにおけるコミュニケーションの本質は、個々の担当者が他者に対するアカウンタビリティ(説明責任)を完遂できるかどうかにある、と言ってもいいだろう。

 

ビジネスで求められるコミュニケーション「能力」

その観点でビジネスマンに求められる素養を考えると、「コミュ障」であるかどうか、というのは実は大した問題ではない事に気づく。

 

なぜならビジネス・アカウンタビリティにおける、「コミュニケーション能力」とは、相手の言い分を論理的に理解し、不足している情報を洗い出し、最終的に得られたオーダーを手元の資源と照会しながら、具体的な業務に還元し、それを正確に説明することにあるからだ。

「能力」という意味では、それは論理的思考ができるとか、簡潔で正確なメールを書けるか、という事のほうが関連深い。

 

またそのような能力を先天的に備えている必要もない。ビジネス・アカウンタビリティに関する教科書は沢山あるので、それを読んで勉強しても良いし、先輩が訓練してあげてもよい。

初対面の人の前では上手く話せない、とかそんなことはどうでもいいのである。

 

ビジネスにおいて必要とされる「コミュニケーション能力」というのは「教育」によっていくらでも伸ばせるものだ、と私は考えている。

 

コミュニケーション強者を採用する企業とその間違い

少し話を戻してネット上で見聞される就職活動の様子を見ていると、どうも採用の場において、この「コミュニケーション能力」が「教育」可能であるという事実を無視して、候補者の先天的な社交性ばかりを重視している企業があるように思える。

 そのような企業は(もちろん学歴などを考慮に入れた上でだが)単に、人当たりが良く、初対面の人物にも物怖じせず話すことができ、時にはおもしろい話題を展開して相手の気分を良くさせる人物を選別しているような気さえするのだ。

 

おそらくは、そう言った人物なら、営業職にして、仕事をとってこさせることもできるし、それ以外の職分でも顧客の機嫌を損ねる対応をすることがないだろう、と思われているのかもしれない。

あるいはただ単に、仕事仲間として仕事終わりの一杯に付き合ってくれる、コミュニケーションが簡単にとれる人物であるという利点に着目しているのかもしれない。

 

もちろん、異なる採用基準を持って採用活動をしている方もいるだろう。

 

実際、私は(何故か)面接役を何度もしたことがあるのだが、面接中の候補者が、淀みなく会話をつなげることができていたとしても、事前に用意された就活テンプレートのような話をしていたり、内容のない話をしたりしていると感じた場合、その人を「コミュニケーション能力が高い」と評価することはない。

 

そんなものは単にその人の性格や、涙ぐましい面接練習の成果でしかなく、その人の能力や素養とは到底言えないから、という事もあるが、

一見コミュニケーション強者に見えるが、説明能力、理解力がない

という人材を抱え込むリスクを避けたい、という考えがあるからだ。

 

「一見するとコミュ強者」が持つリスク

そういう人物の何が問題なのか。

当たり前の話だが、コミュニケーションは無料ではない。メールの読み書きや、電話での会話、長いミーティングなど、コミュニケーションは、送り手、受け手双方にそれなりのコストを強いる。

 

「一見コミュ強者」な人物は、このコスト意識が非常に薄い。

何故なら彼らは性格的にコミュニケーションを苦にしていないし、このような「軽い」コミュニケーションを繰り返し行うことこそが「仕事」だと思っている。

もっと質の悪いことにそういう人は、社内では仕事熱心で多忙な人と見なされている。(業務時間中、オフィスでずっと受話器を握っているような人物を想像してもらえばいいかもしれない)

 

トラブルを起こしがちな営業やディレクター職の人は

「わからないことがあれば、いつでも聞いて下さい」

とか

「<来たメールを丸ごと転送しながら>ひとまず、これでやっといてください。何かあれば電話で。」

という事を簡単に言ってしまう。そもそもの説明能力の無さを「コミュニケーション機会を増やすことで補える」と誤解しているのである。

 

対照的に、いわゆる「コミュ障」的な傾向のある人、具体的には性格的にコミュニケーションが苦手な人は、コミュニケーション・コストが過剰とも言えるほど高い(何故なら人と話すのが嫌だからである)

このような人は、電話やミーティングを嫌い、二度と同じような連絡が来ないように、想定される事態や、次に来る質問などを想定した時間のかかった丁寧なメールを書く人が多い傾向にある。

 

それを受け取ったのが「一見コミュ強者」で、「理解力もない」場合は悲劇である。

このような丁寧なメールはほぼ無視され、彼が理解できる部分だけが都合よく解釈され、結局、双方の話が咬み合わない。ということが続いてしまう。

 

「一見コミュ強者」は誤解があれば、向こうから電話の一本もしてくるだろう、と思っている。

が、電話をかけている時間も無料ではないし、そもそも丁寧な説明を理解できないということは、往々にして、やろうとしているビジネスに関する前提知識を、その人が持っていないということを意味している。

ビジネスの当事者にも関わらず、自分がしていることも、やらせようとしていることも、理解していない人間に一から説明してあげる義理は本来誰にもない。

そんなものは自分で勉強するか、わからなければ自分で調べるのが筋である。

 

だが、こういった場合に、依頼先の企業や担当者が、基本的なことから元請け(や営業)にレクチャーする光景を見ることが多々ある。そうしないと仕事が前に進まないのである。

結果として、積み上がったコミュニケーション・コストは次回以降の発注金額の増加として、またはコミュニケーションの失敗を繰り返したことによる生産性の悪化として、企業に悪影響を及ぼすことになるだろう。

 

これからのビジネスとコミュニケーション

数多くのコミュニケーション・コストをかけるより、できるだけコミュニケーション機会を少なくできれば、それだけビジネスは効率的に回る。

その為には、それぞれの担当者が、ビジネスを理解する努力を怠たらず、説明能力に磨きをかけなければならない。

そしてそれは、本来その人が持つ社交性(コミュ障であるかコミュ強者であるか)とはあまり関連性がない、と私は考えている。

 

多くの産業がコモディティ化した今、日本のような国では、共通規格や、共通言語のない分野、横断的なビジネスの比重が高まっている。これからも企業間、部署間のコミュニケーションとアカウンタビリティの重要性は増してくるだろう。

 

「コミュ障」を気にせず採用しろ、とまで言う気はないが、そのようなビジネス環境を想定するのであれば、無駄なコミュニケーション・コストを湯水の如く使う人材を積極的に採用したり、コミュニケーション能力に関する「教育」を怠ったりする理由はないのではないだろうか。

 

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【プロフィール】

著者名:megamouth

文学、音楽活動、大学中退を経て、流れ流れてWeb業界に至った流浪のプログラマ。

ブログ:megamouthの葬列

(Photo:Asbjørn Floden)