父はまだ元気な歳だが、わたしは父からある遺言を預かっている。
そんなに複雑な話ではない。
ひとりっ子なので遺産相続できょうだいと揉めることもない。
そもそも、残す遺産なんて持ち合わせていない。
たったひとつ、自分が死んだらこうしてほしい、という話を聞いているだけだ。
離島に帰った父
母の死後、初盆を終えてから、父はそれまで住んでいた小倉を離れて、自分の実家である五島列島に帰る、という選択をした。
実家には父の兄夫婦が住んでいる。
なるほどそれなら、心配はいらない。
ひとりではないし、年金生活でも気兼ねなく住める家があるのは大きなことだ。
好きな釣りにも行き放題だし、なによりも一番好きな海に囲まれて生活ができる。
父は定年退職後、退職金を持って島に渡った。
使い道は、ひとつは実家のフルリフォーム、もうひとつは自分の船を買うことである。
最初の頃は、時々父に電話をしていた。
心配があったからだ。
しかし父は、わたしの思った以上に楽しそうな生活をしていることがわかった。
一緒に住んでいる伯母から、「毎日飲み歩いとるんよ〜」と聞かされてびっくりした。
しかし。
飲み歩くようなところがある場所か?という不思議があった。
そのくらい、何もない場所なのである。
私が近所を歩いていたら、そこで世間話をしていたおじいさんたちから、
「あんた、どこの子ね?」
と聞かれるような小さな集落でもある。
あるいは、やけ酒でもしているのか?と心配になったが、そういうわけではないらしい。
伯母も心配している様子はない。
いったいどういうことなのか。疑問だらけだった。
しかし、父が帰った後、最初に島に遊びに行った日に、すべての謎は解けた。
「先生」の家
「今日は「先生たち」が呼んでくれとるけん、行こうかね」。
最初に連れていかれた場所は「先生」の家だった。
「先生」と呼ばれる知人がいることは聞かされていた。
関東から、島の病院に単身赴任してきた外科医の男性だ。
「先生」はすぐ近所の家に住んでいる。
家の2階にはワインセラーに大量のワインをストックしているという。
ぶらぶらと歩いて行くと、鯛しゃぶの宴会の準備ができていた。
さらに台所では活きた伊勢海老と格闘する男性がいた。その様子を「先生」が見守っている。
「清水さんの娘さんが東京から来るっていうんやもん、それはおもてなしせんとって言いよったんよ」。
やがてぽつぽつと仲間たちがその家に集まり始める。父が一番年上だろうか。
近所の板前さんは立派な刺盛りを抱えてきた。
「これは食べきれない」見て一瞬でわかる量である。
正直、こうした「付き合い」はわたしはあまり得意ではない。
できないことはないが、全く知らない「父の飲み仲間」に囲まれるのである。
とりあえず、たらふく焼酎を飲んだ。
地元で造っているという焼酎もかなり美味しかった。それでも疲れた。
田舎まで来て「のんびり」させてくれないのである。
また、別の日にはこんなこともあった。
港をぶらぶらと歩いていた夕方、近くの家の2階から、
「お〜い、清水さ〜ん!」
と呼ぶ声が聞こえた。
伊勢海老と格闘していた男性が、こちらに手を振っている。
一仕事終えて、洗濯物を干していたようだ。
「ちょっと寄らんかね〜!」
特段用事はないので、声に導かれてその家に伺う。
「ちょっと飲まんかね」
「いいねえ」
とりあえず酒を飲む、いかにも島らしい光景である。
やがて。
「ちょっと、先生のところにワイン飲みにいかんかね?」
そして「先生」の家にお邪魔するのである。
そのまま、近くの小さなカラオケスナックへ梯子する。
家に帰って裏山を歩いていると、姫蛍が乱舞していた。
「みんなよくしてくれるっそ。やけんありがたいっそよ」。
島言葉が少し混じった父は、ずいぶんと物腰柔らかい人になっていた。
「さやかには悪いと思ったけど…」
父がいるのは上五島の若松島というところだが、これが非常に不便な場所だ。
東京から行こうとする場合、わたしの当時の自宅からだと12時間はかかる。
朝早い飛行機に乗って長崎まで行き、そこから長崎市の中心までバスで1時間ほどかかる。
そこからさらに、高速船に乗らなければならないが、これが1日4便しかないのである。
港を出て、そこから島までは1時間半くらいかかる。家に着くのは夕方6時くらいになる。
行きにも帰りにもまる1日かかる場所なのだ。もちろん、繁忙期となると、数ヶ月前単位で計画的に出発しなければ交通費はけっこうかかる。
しかしそういうわけにもいかなかった。
会社を辞める前はそれなりにお金があったので、自分の体調に合わせて遊びに行けていたが、今はその交通費もなければ、なんせまとまった休みを取るのが難しくなってしまった。
行かなくなって何年たっただろうか。
しかし、そこまで気を揉まなくても良いのかもしれない。
父はこの選択をわたしに伝えてきたとき、
「さやかには悪いと思ったんやけどね」
と言っていた。
確かに不便極まりない場所だ。
しかし、何の悪いこともない。
父には父の人生があるのだし、お互いにお互いの人生があるというのは共通認識のはずだからだ。
父と「大人同士」になった日
というのは大学生のとき、このようなことがあったからだ。
当時、烏丸丸太町のマクドナルドと、寺町通りの六角にあったミスタードーナツは良い勉強場所だった。
成人の日も、わたしと同じように特段地元に帰る予定はない、という同級生とマクドナルドで試験勉強をしていた。
いわゆる「大学デビュー」で遊び呆けていたわたしには、ありがたい同級生だった。
学期が落ち着いて、ようやく帰省した。
夫婦仲は相変わらずよくはなさそうだったが、そこは気にしない。気にしたら負けだ。
父と飲む時間はそんなに悪いものではなかったし、わたしにとってはせめてもの親孝行の時間だと思っていた。
そして、父は切り出した。
「お前ももう二十歳やね。大人よ」。
「そうやね」。
「俺、偉いと思っちょるんよ、お前いままで金貸してくれとか言っとらんやん」
「まあ、なんとかなっとるねえ」。
「これからは親子やなくて、親子やけど大人同士やと俺は思っちょる」。
「そうやねえ」。
そして本題はこれだった。
「やけんね、
これからは大人同士やけん、それぞれの人生ったい。
正直、俺はもう、お前の面倒は見らん。
そのかわり、
お前も俺の面倒は見らんでいいけん」。
突然の宣言に少し驚いた。
わたしが捻くれているのか、なんだか気持ちがすこし楽になった気がした。
何か「男の盃」を交わしたような気分にもなった。
ただ今思えばこの会話は、父なりの「子離れ」だったのではないかと思う。
自分にそう言い聞かせることで、納得しようとしていたのではないだろうか。
心臓がいくつあっても足りんから!
その会話から数年経って。
大学3回生の年を終えようとしたとき、わたしは突拍子もないことを思いついてしまう。
このままでは留年は免れられない。
就職活動のときに、留年って何か不利になるんじゃないだろうか?
であれば、何か自慢できるようなことをしておいたほうがいいんじゃないか?
当時わたしは、自転車が好きだった。
「よし、日本一周しよう!」
わたしには、ひとつ決めたら突っ走る癖がときどきある。
半期の休学届けを勝手に出して、まる2か月は朝夜とバイトをして資金を貯め、
残りの4か月で日本を回ってこようと決めた。
ただ、問題がひとつある。
こんなこと、親にどう伝えよう?反対されるに決まっている。
大人同士やから、とは言ったものの、仮にも一人娘である。
とりあえず走り始めてから考えよう、と北海道に渡って旅を始めた。
最終的には1か月かかって北海道を一周したのち、親に手紙を送った。
仰天したことだろう。
しかし、走り始めてしまえばもう止めることもできないだろうし、止まるつもりもない。
ただ、全都道府県を踏破すると決めていたわたしにとって、地元は避けて通れない。
とりあえず実家に一泊した。母は北海道に帰省中で不在だった。
出発してから2か月目だっただろうか。
もはや父にも止めるつもりはなくなっていたようだ。
翌朝出発する時に、おにぎりを作って持たせてくれた。
その頃の話を父はよく、友人や仲間にこう話す。
「俺はこいつを息子やと思っちょるんよ。
娘やと思っとったら心臓がいくつあっても足りんけん。
いや、もう娘とかおらんもんやと思っちょる」。
本心はわからない。
しかしもう「大人同士」じゃないか。そう言ったのはお父さんじゃないか。
もちろん、無事に帰ってこられたから笑い話になるのだが。
ただ、旅を止めなかったことには感謝している。わたしの「人生」にとって大きな経験になったからだ。
いや、止められても止まらなかっただろうとは思うが、良い意味で「諦めて」くれたのだと思う。
たったひとつの遺言
そして今、文字通り「大人同士」として、お互い好きな人生を歩めばいい、心からそう思って暮らしている。
いまは自転車旅のようにヒヤヒヤさせることもそうない。
無沙汰は無事の便り、とお互い思っている。というか、そうだといいと思っている。
とはいえ連絡も寄越さないのは流石に親不孝ではないか?と思われるかもしれない。
ただ、父から預かっている遠い将来の「頼み事」は実現するつもりでいる。
最後くらいは願いを叶えたいと思っている。
わたしにはそれしかできないし、親不孝だとしたらそれで許してほしい。
頼み事とは、
「俺が死んだら、お母さんの骨と一緒に五島の海に撒いてくれんかね。
それだけしてくれたらいいけん」。
というものである。
どうせ何かがあったとしても、自分の弱みを絶対に、相手がわたしと言えども見せたくない人である。
強がりを通すことだろう。
だからこそ、この遺言には重みがある。
ティネクト(Books&Apps運営会社)提供オンラインラジオ第4回目のお知らせ。

<本音オンラインラジオ MASSYS’S BAR>
第4回テーマ 地方創生×教育
2025年ティネクトでは地方創生に関する話題提供を目的として、トークイベントを定期的に開催しています。地方創生に関心のある企業や個人を対象に、実際の成功事例を深掘りし、地方創生の可能性や具体的なプロセスを語る番組。リスナーが自身の事業や取り組みに活かせるヒントを提供します。
【ご視聴方法】
ティネクト本音オンラインラジオ会員登録ページよりご登録ください。ご登録後に視聴リンクをお送りいたします。
当日はzoomによる動画視聴もしくは音声のみでも楽しめる内容となっております。
【ゲスト】
森山正明(もりやま まさあき)
東京都府中市出身、中央大学文学部国史学科卒業。大学生の娘と息子をもつ二児の父。大学卒業後バックパッカーとして世界各地を巡り、その後、北京・香港・シンガポールにて20年間にわたり教育事業に携わる。シンガポールでは約3,000人規模の教育コミュニティを運営。
帰国後は東京、京都を経て、現在は北海道の小規模自治体に在住。2024年7月より同自治体の教育委員会で地域プロジェクトマネージャーを務め、2025年4月からは主幹兼指導主事として教育行政のマネジメントを担当。小規模自治体ならではの特性を活かし、日本の未来教育を見据えた挑戦を続けている。
教育活動家として日本各地の地域コミュニティとも幅広く連携。写真家、動画クリエイター、ライター、ドローンパイロット、ラジオパーソナリティなど多彩な顔を持つ。X(旧Twitter)のフォロワーは約24,000人、Google Mapsローカルガイドレベル10(投稿写真の総ビュー数は7億回以上)。
【パーソナリティ】
倉増 京平(くらまし きょうへい)
ティネクト株式会社 取締役 / 株式会社ライフ&ワーク 代表取締役 / 一般社団法人インディペンデント・プロデューサーズ・ギルド 代表理事
顧客企業のデジタル領域におけるマーケティングサポートを長く手掛ける。新たなビジネスモデルの創出と事業展開に注力し、コンテンツマーケティングの分野で深い知見と経験を積む。
コロナ以降、地方企業のマーケティング支援を数多く手掛け、デジタル・トランスフォーメーションを促進する役割を果たす。2023年以降、生成AIをマーケティングの現場で実践的に活用する機会を増やし、AIとマーケティングの融合による新たな価値創造に挑戦している。
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(2025/6/16更新)
【プロフィール】
著者:清水 沙矢香
北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。
Twitter:@M6Sayaka
Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/
Photo:Benny(I am empty)