おそらく西暦で言えば、2000年くらいまでのルールじゃないだろうか。

一昔前は、親、妻、夫など家族が不治の病であること、とりわけガンであることが判明した場合にはまず本人以外の家族だけが病院の「カウンセリングルーム」なる部屋に集められて、重大な決断を迫られる事が多かった。

「残念ですが、患者さんの余命は残り6ヶ月ほどです。ご本人に通知をするかどうか、まずはご家族で話し合って下さい。」

という具合だ。

 

インフォームドコンセント(患者本人が十分な情報に基づき、自ら治療方針について意思決定すること)という概念が浸透した現在では、おそらくそんな時代があったことすら、知らない人も多いだろう。

一昔前は、自分がもうすぐ死ぬことを本人に知らしめることは残酷であり、最後まで「頑張れば治るよ!一緒に頑張ろう!」
と、家族が励ますという看取りが一般的な時代が長く続いていた。

これは言い換えれば、患者本人が、自分が間もなく死ぬという事実を知り、死ぬ準備をする猶予を得られるかどうか、もしくは自分が間もなく死ぬという恐怖を体験するかどうかは、家族の意思に委ねられていたということだ。

 

このやり方には賛否の激論がずいぶん続いていたように思うが、現在では基本的に、患者本人の意志に委ねる権利が確立されている世相を思うと、僅か20年ばかり前なのに、隔世の感がある。

そして私たち家族にも、ある日突然、この重い決断を下すことが求められることになった。

 

 

1997年のある日。

母と私は病院のカウンセリングルームに通されて、主治医から、父の余命が半年であることを知らされる。

「残念ですが、ご主人様のガンはすでに肝臓と腎臓、それに肺にも転移が見られます。余命は長くとも6ヶ月です。ご本人様に知らせるかどうか。治療方針にご本人様の意見を反映させるかどうか。1週間で結論を出して下さい。」

言葉も出ない。突然のことに、嘘だろ?としか思えない。

 

その後のことは正直良く覚えていないが、次の記憶が鮮明に残っているのは、その夜に2つ年上の兄に電話し、

「オヤジ、後半年の命らしい・・・。」

と話したところで不覚にも声が詰まり、何も言えなくなってしまったシーンだ。

それ以上何も言えずに、声を押し殺し涙を堪えていると、兄も涙を堪えるような声で、話しだした。

「おい、お前ふざけるなよ?」

「・・・?」

「いいか、よく聞け。今一番辛いのは、母さんだ。そしてこの事実を知った時に一番つらいのは父さんだ。」

「・・・まあそうだろうな。」

「まだある。その次につらいのも、俺やお前じゃないぞ。なのに、お前が泣いてどうするんだ。」

この時、私の祖母、つまり父の母がまだ存命だったので、兄はその事を言っていたのだろう。

正直、子供にとって親が死ぬことはいわば順序であり、諦めがつく。

しかし、夫を失う母の気持ち、自分より早く子供を失う祖母の気持ちを考えると、兄の言うことは間違いなく正論だ。

 

そして、今から父の死を家族で受け入れなければならない時に、「大して辛くもない」お前が一番に泣くなと、いきなりの説教を喰らわされた。

説教しながら自分も泣いていたくせに、だ。

 

そして本題の、余命を父本人に知らせるかどうかについてである。

兄は、

「知らせたところで、死ぬ事実は変わらない」

「死ぬ瞬間まで、希望を持って生きる方が幸せだ」

「人生の最後に、精神的な苦痛を与えるのは間違っている。最後は父さん個人の穏やかな死に方を最優先に考えるべきだ。」

という趣旨で、最後まで父に、余命を知らせるべきでは無いと言い続けた。

 

それに対し私は、

「重い責任を担って仕事をしている父さんには、死ぬ準備が必要だ」

「突然、何の後始末もなく死んだら周囲が困る。父さんはそれを望んでいない。」

「何よりも、最期は家族でしっかりと、お別れの時間を過ごすべきだ」

と主張し、意見が完全に割れる。

 

さらにもうひとり、年長の兄も交えてそれぞれの価値観でどうするべきかの意見を話し合うが、結論は出ない。

最後は、「子供たちの意見を伝えた上で、母に一任する」ということになり、母に委ねたが、

「最後まで本人に言わないなんて、とてもできない」

と即断したことで、結論が出た。

そして、父には余命が長くとも半年であることをそのまま知らせることになった。

 

痛みはなるべく軽くなるようにして下さい(笑)

結論は出た。

私たち家族は1週間後、同じカウンセリングルームで主治医に向き合う。

対面のレントゲン画像を映すような機械には、父のガンが深刻であることが素人にもわかる程に広がった白い影が写っている。

その画像を指し示しながら主治医は淡々と、しかしどこか感情を堪えるように父の余命が半年であることを本人に告げた。

 

そして、説明が終わり沈黙の時間が流れる。

ふと横を見ると、兄は涙が溢れないように天井を見あげ、歯を食いしばっている。

母はただ、テーブルの一点を見つめて静かに泣いている。

静かで重苦しい空気の中で、次に誰が話して良いのか。

誰も話せないでいる空気がしばらく続いた後、父が明るく、笑いを含んだ声でこう言った。

「そうですか、わかりました。最期は、痛みはなるべく軽くなるようにして下さい(笑)」

 

(え・・・?)

なぜこんなに軽く応えられるのだろう。

少し驚き、それまではとても父の横顔が見られなかったが、私は思わず顔を上げ、父の方に目を向けた。すると父は、背筋を凛と伸ばし、主治医の目を見つめながら穏やかな顔をし、そして大粒の涙を両目からこぼしていた。

 

父の涙を見たのは、人生でこれが初めてだった。

さすがにもう、涙を堪えきれない。

オヤジに余命を伝えることを一番に主張したのは俺だったのに、それは間違いだったんじゃないのか。

本当は兄貴の言うように、何も知らないままで最期の時を迎えるほうが、幸せだったんじゃないのか。

そんな罪悪感が一気に胸に押し寄せ、私は申し訳ない気持ちになり下を向いて声を押し殺して泣き出してしまった。

 

すると父は、

「大したことじゃない、泣くな」

と、私の背中をさすり始める。こんな時にも、アカンタレにも程がある醜態を晒してしまった。

 

面白い本だからだよ?

そんな紆余曲折があり、父は自分の余命が残り半年であることを知ると、病室に仕事関係者などを呼び寄せて人生の後始末を始めた。

その「準備」はおかしな話だが、多忙を極め、2ヶ月ほどは忙しく過ごしていたように思う。

 

そして、そんな「準備」も一区切りが付き、ある日病室に父を見舞った時。

父は病床に座り、分厚い1冊の本を読み込んでいた。

「メタルカラーの時代」という本で、それはどんな本なのかと聞くと、困難に立ち向かい、大きな仕事を成し遂げた人たちの話だという。

前から読みたいと思っていた本だったけど、時間ができたのでやっと読めたと笑う。

 

なぜ、余命を宣告された父が今更、そんな本を読むのか。

不思議に思ったが、さすがにストレートには聞けないので、

「なんで今、その本を読んでいるの?」

と、シンプルに聞いた。

 

すると父は、

「ん?仕事に役に立つし、面白い本だからだよ?」

と、これまたシンプルに答える。

まるで何事もなかったかのような、自宅のリビングルームで何千回と繰り返したかのような会話だ。

しかし現実は変わらない。

オヤジは末期ガンであり、後数ヶ月後には、私たち家族の前から確実にいなくなるだろう。

 

私は思わず、父は実は状況を理解していないのではないかと、痛み止めのモルヒネで意識が飛んでいるのでは無いかと疑い、あるいは期待し、少し言葉を選ばずに聞いてしまった。

「父さん、死ぬことが怖くないのか?」と。

すると父は、本を静かに閉じて、話し始めた。

「嘘だと思うかも知れないけど、俺は本当に、死ぬことは怖くないんだ。」

 

そして要旨、以下のようなことを言った。

・俺はこれまで、やれるだけのことをやり切って人生を生きてきた。

・しかも俺の後には、お前ら(子供たち)がいる。なら、死ぬことを怖いと思う理由がない。

・ただ、おばあちゃん(父の母)よりは、1分でも1秒でも良いから、長く生きていたかったなあ。

と。

 

私は思わず本音を直球で聞いてしまった勢いもあり、

「でも、本当は怖いんだろ?」

「俺にできることがあれば、言って欲しい」

というような話をストレートに聞いた記憶があるが、父の答えは変わらない。

そして、

「体を大事にしろ」

「頑張れ、お前は自分の人生を頑張れ」

と、目を細めて、穏やかに繰り返し話した。

 

余命の宣告をされても後悔しない生き方について

そして病床にあった父は、結局主治医の予告どおりのきっちり半年後に、この世を去った。

そんな父を見送った私も、20代前半の紅顔の美青年(?)がくたびれた40代のオッサンになり、ぼちぼちと自分の人生の全体像は見え始めてきた頃だ。

どれだけあがいても、今からエアラインパイロットになることも、小村寿太郎のように本当に国益を思う、歴史に名を残す外交官になることもできない。

自分の経験と能力でどれだけの社会貢献ができ、どれだけの人に喜んでもらうことができるのか。

そんな人生の方向性が固まりつつある。

 

そんな頃合いだからだと思うが、父はなぜ、死の間際にあれほど潔かったのか。

なぜ突然宣告された死を恐れず、受け入れることができたのか。

考えることが多くなったが、私には一つの結論に近い考えがある。

それはなにか。

 

そのお話を始める前に一つ、前振りをしたい。

話は急に変わるようだが、

「武士道とは、死ぬことと見つけたり」

という言葉を聞いたことがある人は、おそらく多いのではないだろうか。

武士道を象徴する言葉であるかのような意味が独り歩きをしている上に、その要旨を、

「武士とは死んでこそ華」

「潔く死ぬことこそ、武士の本分」

という、全くデタラメの解釈で理解され、広く定説になっている恐るべきフレーズだ。

 

スポ根系の漫画でもたびたび取り上げられ誤解が広まっているが、元々は江戸時代初期に書かれた本、「葉隠」に収録されている一文である。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で始まる段落の冒頭の分であり、その後の文章がまるで無視されている。

中略するが、締めは以下のような文章だ。

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり(中略)毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。

要するに、毎朝毎晩、自分が明日死ぬかも知れない覚悟で、人生を大事に生きろ。

人生の選択をそれだけの重い決断で下せ。

死んだ気になって生きていれば、初めて人は自由になれる、という意味合いだ。

 

諸説あり、解釈はネット上にも様々に溢れているが、少なくとも私はそう理解している。

武士の活躍した時代は、それこそいつ死ぬかわからない。

1年後どころか、来月に突然お家が滅亡し、一族郎党が全て死んでいるかも知れない厳しい人生だ。

そんな時代に果たして、暇だからと言って無意味なゲームに興じ、見られたら困るいろいろなモノをPCやスマホに溜め込むような生き方をするだろうか。

きっと、明日死んでも良いように今日できる最善の努力をし、さらにいつ死んでもいいように、身ぎれいに生きることを心がけたはずだ。

それが、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の本旨だと理解している。

 

結局、余命を宣告されても慌てふためかない生き方は、これしか無い。

常に、自分が余命を宣告された人生を生きているつもりになり、「毎朝毎夕、改めては死に死に」、その日を生きる覚悟を持ち、その日を振り返る覚悟を持てば、自ずから生き方は変わるはずだ。

そうすれば、きっと潔く「その時」を迎えられるのではないだろうか。

 

生活もあり、背負うものが増えていけば行くほど、生き方を変えることは難しくなっていく。

しかし、そんな人生の途中で明日突然、余命半年を宣告されても、今の自分のままで「その時」を、素直に受け入れられるか。そう考えると、何か焦りに近い衝動を感じないか。

 

もしそんな思いがあれば、きっと「その時」を素直に受け入れられないはずだ。

「毎朝毎夕、改めては死に死に」

人生を考えることは、とても価値がある江戸時代の先人の知恵ではないだろうか。

 

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【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を、運営するブログでは月間90万PVの読者を持つ。

 

(Photo:jimmy huang)