私は、平成9年33歳の時から平成26年50歳まで、脳梗塞で左半身まひになった母を17年間在宅で介護し、看取りました。

独身の子どもが親を介護する「シングル介護」でした。

国の介護保険制度がスタートする前のことで、職場にも介護休業制度がなく、仕事と介護の両立ができず、やむなく離職したのです。

 

今、アラフォー(35歳―44歳)男性の3人に1人、女性の5人に1人が独身です。

また、平均寿命は男女共80歳を超えています。

高齢でも自立した生活ができれば良いのですが、何らかの介助や介護が必要になる期間は、男性が約9年、女性が約12年。

75歳を過ぎると3人に1人が介護支援が必要になる、というデータもあります。

 

一人っ子の独身者が両親、祖父母、独身のおじ・おばを一人で介護することもあり得る時代になるのです。

結婚しても、今は少子化なので、義父母の介護まで手が回りません。

介護は決して他人事ではなくなるのです。

 

そうは言っても大多数の人は「今、親は元気だから」と、介護に関心を持ってくれません。

ある日突然、親に倒れられて初めて、どうすればいいか考えるのです。

自分がその立場に立たないと、自分の問題として考えないからです。

 

そして、いかに自分は介護のことを知らないか、何も知らないことがいかにロスかということを思い知らされ、呆然となるのです。

私もその一人でした。

 

***

 

母が76歳で脳梗塞に倒れた時、私はミニコミ紙の記者をしていました。

2回の転職の末やっと夢をつかみ、一生の仕事にしようと懸命に取り組んでいました。

しかし、突然の介護で心身共に疲弊し、毎日雲の上を漂っているようなフワフワした感じに襲われていました。

 

それまで家のことは全て母がやってくれていたので、私はみそ汁一杯作れませんでした。

仕事のミスも増え、楽になりたい一心で離職しました。

 

仕事と介護の両立を考えた時、介護初心者は、介護保険制度を使って勤務時間中の介護に対応できれば両立は可能だと考えるのではないでしょうか。

確かに介護度が軽ければ大丈夫ですが、介護度が上がるにつれ、難しくなっていきます。

 

なぜでしょうか。勤務時間外の介護疲労が溜まり続けることで体調不良になり、仕事の能率低下を招くからです。

 

介護離職に追い込まれる大きな要因は、職場の理解が進まず制度が整っていなくて柔軟に働けないこと、勤務時間外の介護による体調の悪化です。

介護保険制度は家族介護を前提に作られていますから、きょうだいがいない場合や未婚者などは、介護に協力してくれる家族がいないため、介護サービスを使っても負担が軽くならないのです。

 

ですから今もって年間約10万人が介護離職に追い込まれるのです。

つまり、施設入所できれば仕事との両立はできますが、それが難しく在宅介護をせざるを得ない場合は、困難を極めるということです。

 

離職後、私は母を勉強台に社会福祉を学ぼうと34歳で大学に入学。

卒業後社会福祉士の国家資格を取り、仕事を探しましたが、母の病状が悪化。

外で働くことを諦め、母の年金で生活しました。

 

介護生活が長くなると訪れる人もいなくなり、世の中から見捨てられたと感じました。

挙句の果ては「わが家が透明でよその人には空き地にしか見えないんじゃないか。だから誰も来ないんだ」と孤立感を深め、母に対して爆発することが増えました。

 

そんな頃、私に地域の隣組長の役が回ってきました。

60人ほどが集まる会合で女性は私一人。

家に帰って「どうして私ばかりこんな目に遭うの」と、母に思いの丈を話すと、母は「母ちゃんは、そういう思いを30年背負って来たんだ」とつぶやきました。

 

その言葉に、私はハッとしました。

私が子どもの頃に父が死んでから、母も私と同じ思いをしてきたんだ、と同志のような温かい気持ちが湧きました。今度こそ優しく接して恩返しをしようと決心しました。

 

ある時、母がつまずいて転んだことがありました。

段差があり、一人では通らないように言っていた場所だったので、なぜ通ったのかと問い詰めると、母は「いつもお前に怒られてばかりいるから、たまには褒めてもらおうと思って頑張ったんだ」と答えました。

私は、普段きつい言葉を投げかけている自分に気づき、それでも頑張る母の思いに胸が熱くなりました。

 

日々介護をしているとストレスは溜まります。

発散の方法を間違えると、虐待に発展しかねません。

その一線だけは超えないようにとの思いから、明るい介護を心がけ生活に笑いを取り入れるようにしました。

 

「さあ朝だ。早く起きましょ、イチ、ニッ、サン」。

こんな言葉がけから、母との一日が始まりました。

「イチ、ニッ、サン」は母の口ぐせでした。

 

入退院を繰り返すごとに動きが鈍くなる自分の体に喝を入れるため、口ずさみ始めたのです。

最初の頃、私にはとても耳障りだったので、やめてほしいと懇願しました。

けれど黙って歩こうとすると、体の動きがチグハグになってしまうのです。

 

我慢するしかないと覚悟を決めましたが、私の眉間には、くっきりと2本の縦じわが刻み込まれてしまいました。

これはまずいと考えていたとき閃いたのです。母と一緒に口ずさんでしまおう、と。

 

気持ちに余裕がない時など、ついきつい言葉を投げかけてしまいます。

そこで予防策として、言葉の終わりに母の口ぐせをつけるようにしました。

 

「ちょっと早くしてよ」と言っていたのが、「ちょっとだけ早くお願い、イチ、ニッ、サン」と柔らかい言い回しに変えるだけで、心にゆとりを持てるようになりました。

抑揚をつけると噴き出し、ぎすぎすした気持ちも消えていきました。

 

それから数年後には、ここに「いか」「たこ」という言葉が加わり、飛び交いました。

母は廊下で転び、顔面を強打したことをきっかけに、一人で歩くことに臆病になってしまったのです。

 

私が後ろから見守って歩くのですが、やはり母は怖いらしく危なくないかと私に確認するため、「いいか、いいか」と聞くようになりました。

それがいつの間にか短く歯切れの良い「いか、いか」に変化し、「イチ、ニッ、サン、いか、いか」になったので、私は「大丈夫だよ」と言う代わりに「シー、ゴー、ロク、たこ、たこ」とふざけて答えるようになったのです。

 

さらに母娘漫才のような毒舌バトルも展開することに。

例えば、母の髪を整える時、「あれまぁ、また一段と髪の毛が危機的状態になってきたねぇ」と、私が言うと「お前が髪を洗うたびに、むしるからだ」と言い返します。

 

食卓に朝食を並べ終わらないうちから、おかずに手を伸ばす母。

「作った人より先に食べるとは、何たる無礼」。

私がおどけて言うと「いいだ、世帯主だで」と、母は涼しい顔。

 

夜、母をベッドに寝かせると「ありがとうございました」と、健気にお礼を言いました。

すかさず私は返します。

 

「ございました、ということは、もう死ぬということだね。最期のあいさつか」

「ばか言え、そうそうくたばつてたまるか。今日はありがとうございました。明日もよろしく。これでどうだ」

「えー、まだ生きるの」

「当たり前だ、文句あるか」

という具合で、一日中賑やかでした。

 

この他、私の経験から介護ストレスを軽くする方法は三つあります。

一つ目は「割り切ってしまう」。

完璧は無理、自分にはここまでしかできない、と割り切ると心がとても楽になりました。

 

二つ目は「他人と自分を比べない」。

どうしても比べてしまうのなら、基準を他人ではなく、自分に置くこと。

そして自分の過去と現在を比べ、以前はできないことがたくさんあったけれど、今はこんなにできるようになった、と褒めてあげるのです。

 

三つ目は「社会とつながる」。

新聞等への投稿や電話相談、誰かに話を聞いてもらうことでもいいのです。社会とつながることで孤立感から救われ、気持ちが軽くなります。

 

介護をしていると、わからないことや衝撃的なことが起こります。

私も初めての体験に衝撃を受けました。

母が88歳の時、急性胆のう炎の発作を起こし入院したのです。

 

入院翌日、母は不思議な事を言い始めました。

突然天井をを指差して「おい、ちょっとここへハチスカオンドやってくれや」と。

「ハチスカオンドって何?」私が聞くと母は、「お前、ハチスカオンド知らねぇだか。あれはロシアの有名なカラスよ」と答えました。

 

そのカラスを天井のカーテンレールに並ばせろ、と言うのです。

熱のせいなのか、興奮しているからなのか、母の顔は真っ赤でした。

私は驚きうろたえて「そんなカラス知らないよ」と言うと、母は「そこの箱を破いて作るだわ」と、枕元のティッシュの箱を取って、お腹の上にのせ箱をちぎって私に投げてよこしたのです。

 

私は、突然母が認知症になってしまったと思い、ショックを受けました。

これは認知症ではなく、せん妄という症状だと知ったのは、ずっと後でした。

せん妄とは、家にいる時は元気で何の問題もない高齢者が、入院などによる環境の変化で不穏状態になり、意味不明なことを叫んだりする症状が出ること。

高齢者にはありがちなことで、退院すると良くなることが多いのです。

 

母も退院する頃には治っていました。

介護が始まる前に、こういう知識を得ておくだけでパニックにならず、余裕を持って介護に向き合えるようになるのです。

 

***

 

平成26年8月、93歳の母は、呼吸が止まる間際にくしゃみを5回も連発し、私の顔にたっぷり唾を浴びせ旅立ちました。

母らしい愛嬌のある最期でした。

私はその時50歳。

 

さあ、これからどうやって生きていこう、と途方に暮れました。

年金もなければ、仕事もない。

母が死んだ喪失感を抱え、将来への不安におびえながら独学で勉強し、行政書士の資格を取り個人事務所を開業しました。

 

今、私は行政書士の仕事の傍らシングル介護アドバイザーの活動をしています。

この肩書きは閃きによるものです。

世の中に介護アドバイザーと言われる人は大勢いますが、シングル介護に特化したアドバイザーは、私の知る限りいません。

それなら私が第一人者になろうと決めたのです。

 

活動の第一弾は、「迫りくるシングル介護」と題した小冊子シリーズ(「心構え」から「看取った後まで」全5巻)を手作りしました。

大学と体験で得た知識やノウハウをリンクさせ、体系化することで他の人にも適用できるように考えながら作りました。

 

完成した時点で問題が発生。

小冊子を欲しい人に渡す方法を見つけられずにいたのです。

考えた末、新聞社に紹介記事を掲載してもらったり、地元ラジオ局に出演させてもらいました。

 

高齢者からの問い合わせが圧倒的に多かったのですが、わずかながら、シングル介護中の人からの問い合わせを受けました。

「介護離職せずに何とか頑張ります」等の声を聞き、私の方が勇気づけられました。

 

現在40・50代の独身者は約630万人。

特に団塊ジュニア世代はこの傾向が強いため、今後シングル介護は増加していくと考えられます。

 

今私は、シングル介護予備軍の人に介護の心構えを伝える方法を模索中です。

前述したように、親が元気だと関心すら持ってくれません。

ですから活動は足踏み状態です。

 

それでも時には介護体験を話して欲しいと講演の話を頂きます。

参加者は高齢の方が圧倒的に多いですから、話の中で「今日の話を皆さんのお子さんに話してください」とお願いしています。

 

先日の講演で嬉しいことがありました。

30代の独身男性が最前列で熱心にメモを取りながら、私の話を聞いてくれたのです。

後で話をすると、シングル介護予備軍とわかりました。

 

「親は元気ですが、僕は介護について無知なので勉強しようと思って来ました」。

その言葉に目頭が熱くなりました。

ここで諦めるわけにはいかない。

シングル介護の支援活動は、神様から与えられた私の使命なのだ、と再確認しました。

 

誰かのために私の経験がお役に立つのなら、これに勝る喜びはありません。

シングル介護アドバイザーの活動をライフワークにしようと改めて決意しました。

 

 

【著者】飯森美代子

高校卒業後、2度の転職を経てミニコミ紙記者になる。

脳梗塞で倒れた母親の介護のため離職。以後17年間自宅介護する。

介護中、大学で社会福祉を学び社会福祉士の資格取得。

また、独学で行政書士試験に挑み、母親を看取った後に合格。

現在は行政書士の仕事の傍ら、シングル介護アドバイザーとして活動中。

エッセー等の投稿が趣味で、これまで婦人公論などに掲載経験あり。

 

(Photo:Bong Grit)