初めての育児を1年くらい続けて、気づいたことがあったので記しておきたい。

子育ての先輩たちからすれば「そんなの当たり前だろ」だとか、「そんなことを気にしてどうする」と言われる向きもあるかもしれない。まあご容赦いただきたい。

 

「えらい」という言葉がある。

『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば下記のとおり。

えら・い【偉・豪】

 

1.物事の程度のはなはだしいさまを表わす。

①(副詞的にも用いられて) なみなみでない。大変だ。ひどい。

②思いもかけない。とんでもない。予想外だ。

③苦痛などが激しく、たいへんである。耐えがたい。

④疲れている。つらい。しんどい。

 

2.物事の状態などのすぐれているさまを表わす。

①社会的な地位、身分が高い。

②行動や識見がすぐれている。立派だ。

西日本のいくつかの地域では、口語だと1の意味で用いられることが多いが(「えらいこっちゃ」)、ごく個人的な印象として、2の意味では最近耳にすることが少なくなってきたように思う。

 

まあ、これも俺の観測範囲の問題なので「そんなことねーぞ」と言われると、うちの村ではそうなんですがお宅さんはそんな感じですか、へえなるほどとしか答えようがないのだが、自分自身「えらい」という言葉を使いづらくて、

何故かと言うと、この言葉は多分に権威主義的なものを含んでいるからである。

 

誰かの行いを目にして「えらい」と声をかけることを思うとき、なんだかそう口にしてる俺のほうがえらそうだなと躊躇ってしまうのだ。

 

誰かの行為に対し「えらい」と口に出すとき、俺の中には何がgoodであるか、どのようなものがsuperiorだと称されるべきかという評価の軸が先行して存在している。

評価者としての立場から、誰かの行いをその物差しに当てはめる、その枠組みに押し込む過程が「えらい」には内在する。

 

そしてここが「えらい」の独特なところだが、その物差しには、倫理的/道義的/善悪判断的なものが含まれている。

 

現代の日本では、価値はそれぞれの個人の感情、意欲、信念などに依拠する相対的なものであるとする、価値相対主義が価値観として主要なものとなっている。

そんな中で「えらい」が持つこの押し付けがましさが、今となってはなんだか居心地悪くて、人々のあいだで「えらい」を口に出すことが憚られるようになってきたのではないか。

 

そのことは特にどうこう言うことではないし、反権威主義にシンパシーを感じる身としては、むしろ良い傾向なのではくらいに思っているのだが、最近少し戸惑うことがある。

幼い娘に親として接するとき、親として、「えらい」と言うしかない瞬間があるのである。

 

子どもが一つずつ言葉を覚えたり、何か新しい技能を習得したり、身体のコントロールに習熟したことが見て取れたりしたとき、親は「すごい」「いいね」「上手」「○○ができたね」と褒める。

たぶん他の家庭も似たようなものだと思う。ここに違和感はない。

 

問題は、子どもが一家のルールに従うことができたときである。

家族の共同責任者として、そのとき俺は「えらい!」と叫ばずにいられない。

 

他に適切な言葉が見つからないのである。

 

発達心理学者Diana Baumrindは1966年に”Effects of Authoritative Parental Control on Child Behavior(子どもの振る舞いに対して親が厳然とコントロールを行ったときの効果)”と題した論文を発表した。

 

親の子どもへの接し方を2つの軸で分類する。

1つは子どもに対しどの程度監督者として干渉するか(仮にこれを「支配度」とする)

もう1つが子どもからの呼びかけ・働きかけに対しどの程度応えるか(「反応度」とする)である。

 

支配度、反応度それぞれの高低で子育てのスタイルは4つに分類できる。

 

支配度・高、反応度・低……権威主義タイプ。

子どもに家庭のルールを守らせ、その振る舞いに口出しするが、その理由を説明することは少ないか、全く無い。

子どもからの提案や要求に対しても対話せず、いちいち反応しない。

 

支配度・低、反応度・高……奔放・寛容タイプ。

子どもが守るべき家庭のルールはあまり設けないか、設けても厳格に守らせ- ることはしない。

温かみがあり子どもの感情的ニーズを満たす、子どもの意向中心のスタイル。

 

支配度・高、反応度・高……毅然・信頼タイプ。

子どもに家庭のルールは守らせ、彼らの振る舞い方についても細かく要求する。

一方で、ルールの意図を子どもにきちんと説明し、対話を行う。

監督者としての威厳を保ちながらも、子どもの自立を奨励する。

 

以上3つのスタイルのうち、Baumrindの研究において、子どもの将来的な幸福と大成に繋がったのは3番目の毅然・信頼タイプだった。

(なお、Baumrindの研究を2軸による4象限に整理したのはMaccoby&Martin(1983)。更に彼らは残る4つ目のスタイルを付け加えた。支配度・低、反応度・低のネグレクトタイプである。大方の予想通り、このタイプが4つの中で最も子どもに問題をもたらしやすいことが判明している。)

 

Baumrindの研究はその後、各スタイルによる結果の地域差などを指摘されつつも(例えばアジア地域では権威主義タイプによる育児が、またスペインでは奔放・寛容タイプによるそれが、毅然・信頼タイプによるものと同程度のパフォーマンスを発揮した、とする研究結果がある)、毅然・信頼タイプが子どもの生育に最もよい影響を与えることは現在も否定されていない。

であれば我が子をそうやって育てようというのが親心であり合理的判断である。

 

なのだが、ここで先程の戸惑いがある。

これまで一個人として、価値は相対的なもの(故に合意こそが尊ばれるものである)、というムードの中を生きてきたのに、親として子どもに対するとき、どこかの段階で否応なく、何らかの価値観に基づく規則を独断で措定しなければならない。

ルールの存在とその遵守を学ぶことが子どもの社会的能力の発達に不可欠だというのもそうだが、そもそも我が家のルールがなければ、家庭生活が成立しないからである。

 

例えばまだまだ先のことだが、ゲームは一日何時間までか問題が我が家にも必ず発生する。

仮に1時間としたとき、何故そうなのか、俺は説明できない(少なくとも今のところは)。

門限を何時とするのかについても、やはり説明できない。

 

説明できないが、家庭運営の共同責任者として、俺は子どもにそのルールを強制しなければならない。

(門限を設定する理由は説明できる。だがそれを何時とするかは、仮に子どもが心から同意できなくても、親が決めなければならない)

 

そしてBaumrindに従うならば、ルール破りに罰を与えるだけでなく、その遵守には賞賛を与えるべきである。

ルールを守れた子どもに、あるいは賞賛すべき行いをした子どもに、我々は親としてどんな言葉を投げかければよいのだろうか?

 

近年、子どもの行いに対して、褒めるのではなく「承認」する手法がよく推奨されるようだ(元はコーチングの技法が、子育てにも取り入れられたもののようである)。

 

例えば子どもから描いた絵を見せられたとき、

「上手に描けたね」

と褒めるのではなく、

「お魚さんの絵を描いたんだね。青いクレヨンでたくさん塗ったね」

と観察して得られた事実を言葉にして伝えるのがよい、という。

 

「褒める」に比べて「承認」の優れたところは下記のような点である。

・見たままを伝えるだけなので、口下手な親でも伝えやすい。

・具体的な言葉で伝えるので、子どもは何を褒められたのかがよく分かる。

・「承認」を心がけていると、親は自然と子どもの振る舞いに目を配るようになる。

・おべっかを使う必要がなく、露骨さも少ない。

 

なるほどこれは使いやすいなと思うのだが、ルールの遵守を「承認」しようとすると、途端に次のようになってしまう。

 

「ルールを守れたね」

「門限の時間までに帰ってこれたね」

 

これはちょっと、かえって露骨というかあざといというか、極端に言えばマッチポンプじゃなかろうか。

観察して得られた事実を言葉にして伝えているだけ、という振る舞いが、ここでだけは「それを決めたのは結局俺だよな」というなんだか釈然としない感触を残してしまう。

 

そこで「えらい!」である。

 

なんだか扱いづらかった「えらい」が、実にこの場面ではよく馴染む。

ルールを守らせる側である発言者が、家庭内での権威者であることを、「えらい」は隠さない。

「えらい」は確信犯の言葉である。

 

私たちは親として、価値が相対的なものでしかないことを知りながら、そうではないかのように振る舞わなければならない。

道徳心のあり方は多様であり、それを持たないことすらも選びうるが、その中でベストと思えるスタイルを、子の幸せを願うかぎり親は子に、確信犯として示す必要がある。

 

「みんな違ってみんな良い」は良い言葉だが、親が子に果たす責任を背負った言葉ではない。

必ず正しい答えがないことを知りながら(そして、それをきっと将来反抗期の我が子に改めて突きつけられるのだろうとおぼろげに気づきながらも)、 私たちは権威者として振る舞わなければならない。

 

世の親たちはこんな難しい課題を与えられているのかと、今更ながらしみじみと思ってしまった。

 

 

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【プロフィール】

著者:dudihan

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福岡県出身。

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