渋沢栄一は不思議な人だ。

 

生涯に関わった会社は約500、公共事業は約600。

しかも、その多くが「日本初」である。

 

保険会社も「日本初」のひとつだ。

彼は当時のニーズを的確に掬い上げ、日本初の保険会社を手始めにさまざまな保険会社の設立や維持・改善に尽力した。

 

なぜ彼は日本にも保険会社が必要だと考えたのだろう。

 

5分間でわかる「渋沢栄一はこんな人」

渋沢栄一はどんな人物だったのだろうか。

 

「グランド・オールド・マン」

ちょうど100年ほど前の1923年9月1日、日本は関東大震災に見舞われ、10万人余りの人命と約100億円の財貨が失われた。

渋沢の事務所も被災し、全焼している。*1

図1 全焼した渋沢事務所

公益財団法人 渋沢栄一記念財団(2011)守屋淳「関東大震災後における渋沢栄一の復興支援」(2021年更新)

 

渋沢は当時83歳だったが彼の身を案じ、生家のある埼玉に行くことを勧める家族に

「こういう時には、いささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」

といい、政府に請われ、先頭に立って復興に尽くした。*2

 

そうした中、心温まる見舞いと激励のメッセージとともに、予想をはるかに上回る巨額の義援金と大量の救援物資がアメリカから届く。

渋沢が国際的な人脈を頼り、主にアメリカの実業家に援助を求めたためである。

 

かつて4度にわたって渡米し、アメリカの主要都市をすべて訪問した渋沢には多くの友人がいた。

1906年のサンフランシスコ大地震の際には、義援金集めにも奔走した。

日本からの義援金は世界中で最も多額で、大変感謝されたという。

 

日米間に横たわる課題解決に向けて粘り強く民間外交にあたり、両国の関係悪化を防いだ渋沢は、アメリカで「日本のグランド・オールド・マン」(偉大な老人)と呼ばれ、絶大な信用を勝ち得ていたのである。

 

「道徳なくして経済なし。経済なくして道徳なし」

渋沢栄一は、「道徳経済合一説」、「合本主義」を唱えたことで知られる。

「道徳経済合一説」とは、道徳と経済は表裏一体だという主張だ。*3:p.36

 

道徳とは、渋沢が生涯学び続けた『論語』の思想で、本来、金儲けとは最も遠いところにあったはずの『論語』を熟読した渋沢は、「論語は商売を否定していない」と考え、論語と商売とは一致すると唱えた。

ここに彼の独自性がある。

 

ここでいう道徳には2種類ある。

1つは、「してはならないことをするな」という消極的道徳で、今でいうコンプライアンスや企業倫理にあたるものだ。

もう1つは、「すべきことをしろ」という積極的道徳で、使命あるいは職責にあたる。

 

渋沢は「もし、道徳が欠けたならば、いかに経済上の発展があっても必ず争いが生じる。その争いの結果、経済が壊れる」

と考えていた。

 

ここでの道徳は消極的道徳で、つきつめていうと「不誠実に振るまうな」「自己の利益を優先させるな」ということである。

*3:p.37

 

さらに、

「また単に道徳とばかり言って、経済を進めることを度外視した“ただの道徳”であるのなら、その人の志は甚だ立派であっても力が足らぬ。世を済(たす)け民を救うということのできるものではない。ゆえにこの両者が一致せねばならぬ」

と述べた。

 

この「世を済け民を救う」が積極的道徳にあたる。

 

経済とは「経世済民」を略した言葉で、「世の中をよく納めて民衆を苦しみから救う」という意味だ。*4:No.11

 

経済なくして道徳はない。したがって、道徳と経済を一致させなければならない。

 

渋沢にとって最大の使命は人々の生活を経済的に心配のないものにして、さらには豊かにして、みんなを幸せにすること、つまり「公益の追求」だった。*3:p.38

したがって、人々を豊かにするための事業活動は、究極の道徳を実現させる道だ。

 

また、渋沢は、私的な富・利益が究極の道徳を促進する上で不可欠だと考え、個人も富み、国家、社会をも富ますことが、道徳と経済が一致するための秘訣であるとした。*3:p.39

 

自分の利益に関わる仕事であれば、人は本気になって取り組み発展させていく、それは明白な事実だという。

 

ここで彼自身が使ったのが「合本主義」という言葉だ。*3:p.40

この「合本主義」とは以下のようなものである。

 

「公益追求という使命・目的を達成するために最適な人材と資本を集め、事業を推進する」

 

こうした合本主義に基づいた組織が合本組織だ。

適性をもった人材と多くの金を集めればよい経営ができる。

よい成果が出せれば、その富を配当という形で世の中に還元することができる。

 

本当に起こすべき事業だったら、起業し、その株をもち、実際に利益をあげるように経営していくべきだ。

渋沢はそう考えた。

 

生涯に関わった会社は約500、公共事業も約600。*5-1

渋沢の並外れた行動力はこうした信念によって支えられていたのである。

 

知性を育んだ英才教育

渋沢栄一は1840年3月16日、現在の埼玉県深谷市に生まれた。*6

家業の農業を手伝う一方、幼い頃から父親に学問の基礎を学び、7歳からは本格的な英才教育を受けた。

 

農民には学問はいらないとされていた時代にあって、渋沢家の学問熱心な家風は珍しいものだった。

用いられた書物は、『史記』などの漢籍、『日本外史』などの和書で、現在なら学者が読むほどの高度なレベルだったという。*4:No.173-184

 

激動の時代、展開する人生

渋沢の青年期は幕末に重なる。

その激動の時代と連動して、彼の人生も度重なる展開をみせた。

 

21歳からの3年間、江戸のさまざまな塾や道場で学んだ渋沢は、尊王攘夷の思想に影響を受け、倒幕の思いを強める。*4:No.254-387

 

1863年、23歳の時にはクーデターを企てたが、直前で中止し、京都へ亡命。

これが転機となる。

 

このとき頼った一橋慶喜の側近・平岡円四郎の勧めで一橋慶喜に仕えることになった。

1867年、慶喜が15代将軍となり、その4年前まで倒幕を目指していた渋沢はなんと幕臣となった。

 

同年1月、27歳の彼は徳川慶喜の実弟・徳川昭武に随行してパリの万国博覧会を見学し、万博後はヨーロッパ各国の実情を見聞した。

この洋行で学んだことを、渋沢はその後、実務に活かしていくことになる。

図2 パリ万博に参加した渋沢たちの旅程
出典:斎藤孝(2020)『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』フォレスト出版(電子書籍版)No.373

 

洋行中の1867年11月、一行に大きな衝撃が走る。

大政奉還が行われ、徳川慶喜が政権を天皇に返上、日本は開国したのである。

 

ヨーロッパでの見聞を活かした事業・経済活動

1868年12月、約2年間の洋行を終え帰国した渋沢は、慶喜が蟄居していた駿河(静岡)に行き、翌年「商法会所」を設立する。

これは、合本組織で、半官半民の金融商社だった。日本初の株式会社ともいわれる。*4:No.400-404

 

この事業が軌道に乗り始めた頃、またしても転機が訪れる。

 

明治政府に招かれ大蔵省官僚として新しい国づくりに深く関わることになったのだ。

渋沢が携わった改革事業は、2年足らずで200以上に及ぶ。*4:No.439

図3 大蔵官僚として取り組んだ改革事業の例
出典:斎藤孝(2020)『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』フォレスト出版(電子書籍版)No.439

 

1873(明治6)年、渋沢は大蔵省を辞し、民間の実業家となった。

*4:No.467-473

その遠因は大蔵省内での上司との確執であったが、日本の産業界を発展させたいという志がそれにまさっていた。

 

手始めに彼は「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)に就き、そこを拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れた。
その基盤となったのは、洋行で得た政治制度や近代産業に関する知見である。

図4 渋沢がヨーロッパ近代社会から受けた主な影響
出典:斎藤孝(2020)『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』フォレスト出版(電子書籍版)No.387

 

渋沢栄一が設立に携わった日本初の保険会社はここがすごい

渋沢は、民間の実務家として多くの保険会社創立に関わったが、その中でも注目すべきは、日本初の海上保険会社である。

 

日本初の海上保険にみる保険の原点

『渋沢栄一伝記資料』という膨大な資料がある。全68巻、約48,000ページ。

渋沢栄一の伝記を書くための資料を収集・編纂したものだ。*7

 

この資料に掲載されている保険会社のうち、彼が直接関わったものだけで19社、その後進会社は27社に上る。*5-1

海上保険、火災保険、生命保険、徴兵保険、傷害保険、海上再保険など種類も多様だ。

社会のさまざまなニーズを掬い上げ、人々のリスク低減のために力を尽くしたのである。

 

その中には日本初の保険会社もある。1879年8月1日に創立された東京海上保険会社(現・東京海上日動)だ。

図5 渋沢栄一が関わった海上保険会社・火災保険会社
参考:公益財団法人 渋沢栄一記念財団「損害保険A〔金融〕」より筆者抜粋
*オレンジ枠は渋沢が直接関わった会社、黄色枠は後進の会社、青枠はその他

 

この東京海上保険会社の創立に渋沢は大きな役割を果たしている。*5-2

 

彼は華族の資産運用のために組織された「東京鉄道組合」の総代理人を務めていたが、この組合は計画が実現せず解散することになった。

その解散を決定した会議の場で、渋沢は組合の資金を海上保険業に投資することを提案し、賛同を得たのである。

 

こうして創立された東京海上保険会社で、渋沢は総代理人、発起人、相談役を務めた。*5-3、*8

 

同社は、設立時から、株主に一流の財界人や華族など200人あまりが名を連ねる株式構成をもつ企業であった。*8

ガバナンスも盤石で、100条を超える定款を備え、そこには取締役の権限と責任が明示されていた。

商法制定以前にこうした質量ともに充実した定款が作成されたことは画期的である。

このことからも、同社が本格的な株式会社の先駆であったことが窺える。

 

では、なぜ渋沢は海上保険会社の設立に尽力したのだろう。

それには主に次のような2つの社会的要請があった。

 

当時、日本には新しい産業が続々と誕生していたが、その中でも業績を伸ばしていた海運・貿易業に欠かせないのが海上保険であったということが1つ。

 

もう1つのニーズは、明治6年(1873年)、納税が物納(米)から金納に変わったことを背景とする。*9

農村の住民たちは納税するために米を売らなければならなくなったが、地方では処分できないため、米を都会に送る必要があった。そこで、運送中のリスクを保険によって補償するニーズが生じていたのである。

渋沢はこうしたニーズをいち早く把握し、海上保険への投資を決めた。

 

発足当時の支配人は、保険について研究を重ね、次のように考えた。

 

危険は個人が単独で蒙れば大変な脅威である。しかし、多数の者が保険加入者になり、少数の危険を皆で分担すれば、危険は消滅する。海上保険事業はその仲介者である、と。

 

これはまさに保険の原点である。

 

あくまで公益のために

東京海上保険会社をめぐっては、欠かせない話がもう1つある。

「関東大震災火災保険支払い問題」である。

 

関東大震災によって被災した建物の中には、火災保険を契約しているものも含まれていたが、地震に起因する火災については補償の対象外であることが約款に明記されていた。

 

しかし、補償を期待していた契約者たちの不満が高じて、社会問題にまで発展する炎上騒ぎとなった。

政府は各保険会社に犠牲的精神を発揮するよう要望したが、本来補償の対象外であることに加え、損害額が高額であることから支払いは不可能であり、各社とも対応に苦慮することになった。*10

 

この問題の解決に向けて尽力したのが、当時、東京海上保険会社の役員を務め、業界団体のトップだった各務鎌吉であった。

彼は事態の解決に向けてさまざまな関係者と協議を重ね、政府から助成金を借り入れた上で、保険金額のうち1割を見舞金として契約者に支払うという苦渋の提案をした。

 

約款の解釈を超越して、本来、義務のない支払いをするというのである。

 

これは、沸騰する世論を沈静化させるための苦肉の策でもあったが、同時に損害保険の公共性を考慮した決断であったといってもいいだろう。

 

一方、渋沢も問題解決に向けて積極的に動いていた。

まず、大震災から1週間後の9月8日、首相官邸を訪問して内務大臣、大蔵大臣に面会し、次のように述べた。*11

 

「保険金を支払うべきである。それについては、政府も補助をし、保険会社、被保険者も妥協点をみつけなければならない。そのために、政府と保険会社がそれぞれどの程度負担するのかを熟慮する必要がある」

こうした渋沢の意見に大蔵大臣も同意した。

 

その後、9月14日にも首相官邸を訪れてこの問題について大蔵大臣と会談し、さらに、10月5日にも私人として当時の農商務省を訪れ、大臣と面会した。

 

このとき、渋沢は、

「火災保険会社ができるだけ多額の金を支払うべきだ。そうしなければ、被保険者側は資金難に陥り、産業の復興、東京の復興は困難だ。政府は積極的に具体策を提示して、解決を図るべきではないか」

と進言している。

 

渋沢ももちろん、それが保険の約款を超えた支払いであることは承知の上であった。

「合本組織は公益のためにある」という彼の信念がここにも如実にあらわれている。

 

おわりに

渋沢は保険金支払い以外にもさまざまな形で関東大震災後の復興のために尽くした。

 

一方で彼は、政争に明け暮れる政治家や公益を忘れ私利私欲に走る実業家を強く戒めた。

急速な近代化と第一次世界大戦中に発生したバブル景気の影響で、経済活動と表裏一体であるべき道徳がないがしろされていると感じていたからである。

 

渋沢は、危機を脱し真の復興を果たすためには、物質だけでなく精神の復興も必要だと解いた。

そのための拠り所ともなるのが「道徳経済一致説」である。

 

道徳なくして経済なし。経済なくして道徳なし。

 

それは、今を生きる私たちが、真摯に引き受けるべき言葉なのかもしれない。

 

(本記事はFrichオフィシャルブログからの転載です)

 

 

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Photo by Inomshog

 

 

 

【参考文献】

*1
公益財団法人 渋沢栄一記念財団(2011)守屋淳「関東大震災後における渋沢栄一の復興支援>5.協調会と大震災善後会、海外への呼びかけ」(2021年更新)

*2
公益財団法人 渋沢栄一記念財団(2011)木村昌人「“民”の力を結集して震災復興を―渋沢栄一に学ぶ>1.震災と向き合う渋沢栄一・3.米国からの支援

*3
田中一弘(2015)「報告: 渋沢栄一の道徳経済合一説」企業家研究フォーラム『企業家研究〈第12号)』(2015年12月20日)

*4
斎藤孝(2020)『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』フォレスト出版(電子書籍版)

*5-1
公益財団法人 渋沢栄一記念財団「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図」(2019年3月29日版/2021年9月17日改訂)

*5-2
公益財団法人 渋沢栄一記念財団「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図>第4節 保険 第1款 東京海上保険株式会社・第2款 明治火災保険株式会社

*5-3
公益財団法人 渋沢栄一記念財団「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図>東京海上保険会社

*5-4
公益財団法人 渋沢栄一記念財団「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図>東京海上保険会社>損害保険A〔金融〕

*6
公益財団法人 渋沢栄一記念財団「渋沢栄一略歴

*7
公益財団法人 渋沢栄一記念財団『渋沢栄一伝記資料

*8
東京海上日動「東京海上日動の歴史

*9
岐阜大学地域科学部 地域資料・情報センター「東京海上の危機を救った二人の岐阜県人1 各務憲吉が登場するまで

 

*10
東京海上日動「1923 関東大震災への対応

*11
公益財団法人 渋沢栄一記念財団 デジタル版『渋沢栄一伝記資料』「第51巻 9款 関東大震災火災保険金支払問題