戦争の情報

これを書いている現在、国家間戦争が行われている。ロシアとウクライナがある。

これを書いている時点では、その終わりは見えていない。このさきどうなるかわからない。

 

それでも、戦争についての報道は洪水のように自分たちに迫ってくる。

精神的に不安定な人、感受性の強い人などは、テレビなどのマスメディアの情報も、ネットで流れてくる情報も絶ってしまったほうがいいかもしれない。

他人事ではないとはいえ、日本は当事者そのものではない。それで心を病むこともないだろう。

 

それでも、どうしても遮断を乗り越えてまで伝わってきてしまう悲劇があり、それを知ってしまう。

情報化社会を生きる上で、避けられないことではある。

 

ミサイルによる破壊、倒れる人々、地下壕での悲惨な暮らし……。

これを見ていて気分がよくなる人間というのは……いないとはいえないけれど、かなりの少数派だろう。

 

これを書いている現時点ではなんともいえないが、さらに一般市民を対象とした攻撃なども増えていくかもしれない。

さらに悲劇的な映像が、被害者市民の手によって、あるいはマスメディアによって撮影され、配信され、広がっていくのだろう。

 

戦場の映像から取り除かれているもの

ただ、戦場の映像から取り除かれているものがある。画像から取り除かれているものがある。

人間が死んだ、死体である。死体というものは、胸に銃痕があって静かに横たわっているものとは限らない。

もっと肉体がぐちゃぐちゃに破損され、肉や内蔵があらわになっている場合もある。戦場の死体など、そのようなもののほうが多いかもしれない。

 

われわれ日本人が、日本のテレビの日本のニュースでそういう映像を見ることは、まずないといっていい。

外傷が見られない子供の治療、そして死亡の映像は流れるが(なんて悲惨なことだろう)、もしもその子がひどい外傷を負って血まみれで肉や内臓が露出していたら、決して放送はされないか、より大きなモザイクがかかっていたことだろう。

 

戦争、紛争、あるいは自然災害。

われわれは直接見られない、大きな災害の様子を目にする。

破壊された人工物、泣き叫ぶ人々。しかし、そこに死体はない。悲惨なことになった死体の姿はない。

 

死体画像とおれ

今にはじまったことではない。

死体の画像はあまりテレビでは流れない。新聞にも載らない。載ったとしても、非常に配慮された形でだ。

 

とはいえ、おれは昔、死体画像を目にしていた。

どこでだ? ひとつには、悪趣味な雑誌でだ。具体的にいえば『GON!』というクソ雑誌があって、東南アジアだかどこかかからの報道の死体画像を転載していた。

今はどうだか知らないが、三十年前くらいには東南アジアで交通事故などの悲惨な死体が報道されていて、それを日本の雑誌が転載していたのだ。

 

さきの東京オリンピックで音楽担当者が過去の発言でやり玉に挙げられたとき語れらた、当時の「悪趣味」系などとは、このあたりまで含むのではないかと思われる。

 

そして、中学生のおれはそんな雑誌を学校に持っていっては、皆の関心の的になっていたりしたのである。

グロい死体画像。それには人に嫌な気分にさせる一方で、人の興味をひくなにかがあるともいえる。おれはそのように思った。

 

ときはしばらく経ち、インターネットの黎明期でもグロい死体画像はアングラ掲示板をかけめぐった。

それが目的というところもあったし、エッチな画像と見せかけて、見た人間をわなにはめるトラップもあった。

 

今のインターネットではあまりグロ画像も死体画像も見られないかもしれない(見られるところもあるかもしれない)。

だが、それがまだ浄化されていていない、なにものかもわからないインターネットの空間であった状態でもあった。

……おれが見ていたのが偏ったネットの空間であった可能性は否めないが。

 

死体画像による啓蒙

それにしても、だ。おれは中学生の時代、クソ雑誌を読みながら、あるいはインターネット黎明期にアングラサイトを見ながら思ったことがある。

 

「グロい死体画像は啓蒙になるのではないか」。

 

これである。交通事故死によるグロい死体画像は、交通安全のために寄与するかもしれないし、戦場におけるグロい死体画像は平和への祈願になるのではないか、と。

災害における死体画像も、防災意識に影響するんじゃないか。

 

これは、どうにも子供じみた発想のようにも思える。

今現在、おれはそう思える。

もしもそうなのであれば、世の中の啓蒙はグロい画像に溢れているはずだ。ところが、そうはなっていない。

 

なっていないのには、理由があるだろう。

無論、「そんなグロいものを見せつけるな」という声もあるだろう。

しかし、それ以上の効果が「ない」という心理学者や社会学者、何学者かわからないが、そういう人たちが研究したエビデンスというものもあるだろう。

もしも、「グロい画像を見せれば見せるほど交通安全の意識が高まり、反戦意識が高まり、防災意識も高まるだろう」ということになっていれば、役所の広報紙に死体画像が溢れかえっていることだろう。

 

とはいえ、死体が隠されすぎてはいないか

とはいえ、死体が隠されすぎてはいないか。おれの心の中の中二がそういうのである。

 

乱暴な運転をしてしまう人間に対して、交通事故による死者の数字だけを伝えたところで、どこまで影響を与えられようか。

司法による刑罰の重さや賠償金について文字で伝えたところで、どこまで影響があるのだろうか。

 

むしろ、交通事故で悲惨になった身体の画像を、映像を見せることによって、乱暴運転を控えるのではないか。そのように思うところがある。

交通免許証の更新時に見させられる教訓的映像についても、嘆き悲しむ家族の演技などより、実際の交通事故による悲惨な負傷、あるいは死体を見せたほうが、よっぽど効果があるのではないか。そんなふうに思うところもある。

 

これは、専門家でもなんでもない、一人の素人の「思うところもある」である。

ひょっとしたら、どこかで研究が行われており、凄惨な画像を見せるほうが、なにか悪い心理的効果を与えてしまうという結果が出ているのかもしれない。

とはいえ、おれはそれを知らないので、こんなことを書いている。それは承知してください。

 

あと、NHKレベルでも、「死体画像が映ります」というような警告とともに、黒焦げになった死体が映ることもある。

 

毀損された人体と尊厳

とはいえ、毀損された人体を晒された当人の尊厳というものはどこにあるのか、という話になる。当然なる。

3.11でもたくさんの亡骸が記録され、そして公開されなかったことであろう。

毀損された亡骸の人権のようなものを考えれば当然ともいえることであろう。

 

おれがここで「強力な教訓になるかもしれない」と言っている、その当人の尊厳はどうなるのだ、という話だ。

これは無視してはならないように思う。

それは、どこそこの誰であるということが確定している話である、現代においては。

 

第二次世界大戦の写真であればいいのか、というと、そのあたりも正直よくわからない。

追跡すればできてしまう可能性もあるし、そうでなくても、そこに尊厳はあるのか、という問いは残ってしまう。

 

正直、おれにはどちらがいいかわからない

正直、おれにはわからない。戦争によって、戦闘によって毀損された身体、死体となった身体を広く報道するべきなのか。

自然災害によってもたらされた身体への毀損や亡骸を報道するべきなのか。

 

一方では、直接的な画像が大きな警告になると思う。

戦争を避けようという心持ちになるし、防災への意識の高まりともなると思う。
逆に、一方では、あまりにもダイレクトな画像によって、心に傷を負ってしまうかもしれないし、そういったことへの忌避感、無視といった心情につながるのかもしれない。

あるいは、当事者にとって、かなりの苦痛を味わわせるものになるかもしれない。それにも当然配慮しなくてはならない。

 

そのあたりは、はっきり言ってわからない。

欧米のメディア、また、日本のメディアでも、たとえば「これから津波の映像が流れます」といった警告が出ることがある。このあたりに配慮したものであろう。

 

おれは、そのような警告はまっとうなものと思える。見ることが耐え難ければ、チャンネルを変えてしまえばいい。

スイッチを切ってしまえばいい。それはまっとうな反応であろう。

 

苦しみを、いたみを、あえて取りに行く義務などないのだ。辛いと思えば、そんなもの見なくてもいい。

現在の精神状態の安定を重視するべきあ。まだ起きていない戦争や自然災害について、心を病んでしまうのは良いことではない。

心に反戦や防災意識があるのは良いことだが、心を病むのは良いことではない。

 

おれは心を病んでいるといえる精神障害者なので、心が健康、健全であることは良いことだと思う。

その健康さの上で、反戦や防災を意識すればいいと思う。

 

物語ることの重さ

だが、とはいえ、やはり直截的な画像を見せなければ、人の心は動かないのでは、という思いもある。

画像、と書いてきたが、今では動画ということになるだろう。

緊急時に素人によって撮られた動画であっても、かなりの高解像度でもって、しっかりと映されたものになるであろう。

そこに映されるものは、かつてのモノクロフィルムが語る以上の説得力がある……かどうか。

 

そのあたりはわからない。ひょっとしたら、「それ」を生き延びた人の語りのほうが、大きな影響をもたらすかもしれない。画像や映像にはフェイクがつきまとう現代である。

身をもって体験した人の語りの方が、より大きな効力があるかもしれない。

 

もちろん、「人の語り」であっても、信じられるものかどうかという情報の信頼性という問題はついてまわる。

「語り部」とよばれる人たちを信用するなとは言わないが、純粋な、なにも添加されていない情報だと言い切るには無理ががある。悲しいかな、そう言わざるを得ない。

 

情報と人間、人間と情報、そこに横たわるなにか。

なにかを考えなければならないか。むなしいことだが、そうなるのだろう。

それでも、われわれは信ずべき情報を、人類の悲惨を知らなくてはならないし、それを繰り返してはならない。

 

そこに必要なのは、身も蓋もない画像なのか動画なのか、あるいは人々の語る文章なのか、語る動画なのか……。

おれにはわからない。もしも、これを読んだ人いるとすれば、あなたはどのように考えるか、おれに教えてほしい。

 

 

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(2022/11/25更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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