先日、本メディアの書き手の一人である、高須賀さんから、著書をいただいたので読んでみた。

 

感想としては、帯に記載されたとおり、「現実を淡々と描いた本」だった。

医師である僕が医師として病院で働くことのリアルを実体験に基づいて解説したものです

あえて誇張された表現や、YouTubeにあるような「闇の部分を紹介します」といった、スキャンダラスな内容を排除したのだろうと思う。

 

だから、私の読後感は「医師も会社員と同じなんだな」だった。

 

 

医療にかかわる娯楽作品、とくに漫画は、ほかの職業と比べて、何をしているのかわかりやすく、かつドラマ性があるためだろう、数が多いと感じる。

 

例えば、私が読んだものを挙げると手塚治虫の「ブラックジャック」に始まり、「スーパードクターK」「ブラックジャックによろしく」「JIN」「19番目のカルテ」「Dr.コトー」など。

いずれも、医療を通じて、倫理観や社会課題、あるいは命の尊さなどをモチーフにした作品だ。

 

娯楽作品である以上、そこには「事件」や「闘争」、そして「問題意識」などが多分に含まれる。

たとえば、佐藤秀峰氏の「ブラックジャックによろしく」は、その最たるものだろう。

(こんな医者、ホントにいるのかよ……)

 

しかし、私は「娯楽作品」の中で描かれる医療と、現場の医療は、かなり違うものだと思っている。

娯楽作品はあくまで娯楽を目的として作られているからだ。

 

例えば、半沢直樹シリーズで描かれる企業の内情を、「超リアル」だととらえる人はあまりいないだろう。

フィクションを本気にするのは、現場を知らない人だけであり、あれは娯楽と割り切っているから面白い。

 

娯楽はリアルである前に読者・視聴者の感情を揺さぶらねばならない。

だから、描写には起伏をつける。毎回、事件が起きる。誰かが怒り、喜び、涙する。

 

しかし、私もコンサルタントの現場の話をよく書くが、現場で事件らしい事件はほぼ起きない

せいぜい、意見のくいちがい、納期遅れ、認識の齟齬、人の好き嫌い程度だ。

 

それらの課題や、ヒューマンエラーをカバーするため、仕事は可能な限り標準化されなければならず、当たり前だが、想定外の起伏がない仕事ほど、出来が良いとみなされる

 

事実、高須賀さんも「病院で行われる医療の圧倒的多くはドラマのように感動的なものではありません。正直にいうと日常診療の99%は淡々と進みます」と書いている。

 

余談だが、私の母方の祖父は、神田で町医者をやっていた。

「下手に自分で何とかしようとすると、かえってよくない」という考え方だったというから、ほとんどの患者さんの診察は、典型的な症状に対する定型的な治療で、「よくわからないと判断した病気は、さっさと紹介状を書いて、大病院に流していた」そうだ。

そこには事件も、ヒューマンドラマもない。ただ、こなさねばならない仕事があるだけだ。

 

私自身のコンサルタントとしての経験に照らし合わせても、ほとんどの場合、クライアントは典型的な課題を抱えている。(クライアントは「うちは特殊」といつも言うのだが)

ほぼ、まちがいなくテンプレ通りの施策を「やり切れば」課題は解決する。

 

標準化された業務を正確にやりきること。

非定型業務は実験的に行い、繰り返しレビューを行う中で少しずつ改善すること。

 

それがほとんどの「仕事」の現実だ。

 

 

ただし、「会社員と大きく違う」と思った箇所もある。

 

それが、最終章の「医師と社会のお話」のパートだ。

医師のような恵まれた社会的立場にいる人間が自分より健康面や金銭面で恵まれなかった境遇の人間に対し、どのような形であれ自己責任と言ってしまうのは、命を選別していることにほかなりません。

医師は医療サービスの担い手であり、己の思想でもって命の選別を行うことを許された存在ではありません。

これは、至極普通のことを言っているように聞こえるが、社会全体を眺めると、実はそうと言い切れない。

 

例えば、民間企業が提供するサービスに対して、「そのサービスが受けられないのは自己責任」という事は、別におかしくはない。

 

例えば「フェラーリが買えないのは、稼ぎが少ないから」は、特に問題はない。

「エステに通えないのは、稼ぎが少ないから」「A5の和牛が食べられないのは……」も同様だ。

 

これは「どこまでが、憲法の保障する、誰でも手にすることができる最低限度の生活なのか」

という、非常にコンセンサスの取りにくい問題が絡んでくるが、「医療」は、現在のところ「誰もが安く手にすることのできる」に当てはまると、多くの日本の医師は考えているのかもしれない。

 

しかし、これは自明ではない。

世界には「良い医療が受けられないのは、稼ぎが少ないから」という国は、いくらでも存在している。

 

アメリカでは、「カネがないと医療が受けられない。」というのが、常識となっている。

中国でも、「良い医師」にかかるには、高額の報酬が必要だ。

インドも医療は「自己負担7割」

 

世界の過半数を遥かに超える数の人々にとって「医療サービス」は「誰もが安く手にすることのできるサービス」ではない。

むしろ、日本ほど低コストで医療を受けられる国は他にあまりないと言っても良いくらいだろう。

 

 

しかし、少し考えてみると、この状態は保証されているわけではない。

日本医師会総合政策研究機構のデータでは、一人当たりGDPと一人当たりの保険医療支出は相関があるとされている。

日本にある程度お金があるうちは、まだこの制度を維持できるだろうが、日本がさらに貧しくなれば当然、「費用対効果」という話が出てくるだろうし、「医療サービスの水準を切り下げざるを得ない」という議論が出るだろう。

高須賀さんの言う通り、医療は基本的には「赤字部門」だからだ。

医師なんて見方によっては企業でいうところの赤字垂れ流し部門みたいなものでもあります。私たちは国を全く儲けさせていません。

それに伴って、医師の給与水準が下がれば、「稼ぎたい」と考える医師の中からも「お金を出せば、良い医療を受けられますよ、という考え方の何が悪い」と考える方が出てくるかもしれない。

 

高須賀さんの述べる理念どおり、医療が「安価で、平等なサービス」であり続けることは可能なのか。

今のところ、私は確信がもてないが、気になる方は、高須賀さんの本を読んでみると良いかもしれない。

 

 

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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