先月、とあるワインショップ兼ワインバーで、「最近のワインは高くなったね」といったワイン談義で盛り上がった。

ボルドーのメドック格付け第一級のワインたちは15年前の約三倍の価格。ブルゴーニュワインの値上がりはもっとひどくて、昔は三千円ぐらいだった品が、今では一万円、なんなら二万円になっていたりする。あれもこれも品薄になってしまいましたね、大事に飲むしかないですねと言いながら、慈しむようにグラスを傾ける。

 

慈しむのはワインだけじゃない。自分の財布もだ。たまたま隣同士になったお客さんと私が飲んでいるのは、ワイン好きなら必ず知っているだろう、ドメーヌ・ルフレーヴの白ワイン。確かに美味いが、値段も高い。

「十年ほど前は、このワインもムチャクチャな飲み方をしていましたね」

白髪のお客さんがそう呟く。

 

よくわかる話だ。ドメーヌ・ルフレーヴはワイン愛好家の間では有名だったが、それでもエントリークラスなら五千円もしなかった。そして日本のワイン愛好家は「ちょっと高いけれどもクオリティは折り紙付き、でもって、実はグイグイ飲めてしまう」そうしたワインたちを、頑張った週末のご褒美として、あるいはワインにそれほど詳しくない人への贈答品としてカジュアルに使っていた。

市場には同格・同価格帯のワインが他にもゴロゴロしていたから、そういう具合に消費してしまって構わないと思っていた。それが今はどうだ?

 

健康もそうやってジャブジャブ消費してなかったか?

飲み屋からの帰り道、火照った身体を夜風にさらしながら思い出す。

そういえばワインに限らず、むちゃくちゃな飲み方をしていたなぁ、と。

 

ウイスキーだって、00年代はわけもわからないままあれこれ飲んでいた。シャンパンもだ。ドンペリニヨンやクリュッグを買った翌日に飲んでしまっていた。当時の私は自分の内臓もめちゃくちゃに使っていたと思う。

徹夜でオフ会をやった後、そのまま朝飲みへ突入。若さの特権だが、今から思えば不摂生のきわみ、生命力の大盤振る舞いだ。そうした不摂生が無駄だったとか無意味だったとは言わない。しかし不健康だったとは言えるし、自分の身体が有限のリソースであることにあまりに無頓着な振る舞いだったと言わざるを得ない。

 

ちょうどその時、駅前広場のほうから酒に酔った若者たちの歌が聞こえてきた。テンポも音程もめちゃくちゃだが陽気かつ能天気で夏の夜の繁華街に似つかわしいと感じた。

かつての自分を見ているような気にもなった。自分の身体、自分の健康について、まったく無邪気に構えていた時代が私にもあったのだ。その頃の私は今よりずっと元気で、身体のホメオスタシスも強靭で、何時間でも『怒首領蜂』や『斑鳩』に集中できて、赤羽の飲み屋で四次会をやっても心配しなくて良かった。

 

それが今はどうだ! たかだか白ワインを3杯飲んだ程度ですっかりできあがってしまって、「これ以上飲んだら健康にさしさわる」などと言い訳しながら家路を急いでいるのである。20~30年前の私が見たなら、臆病な飲み方をしていると思うだろう。しかしそういう飲み方しかできなくなってしまったのだ!

元気や若さを失ってしまったから。身体のホメオスタシス機構がずっと弱くなってしまったから。なにより、「無条件の健康」を失ってしまったから。

 

つまり、健康も、値上がった後のワインと同じなのである:健康を維持するコストがはっきりかかるようになり、維持するための気配りが必要不可欠になってしまってはじめて、私はそれをいとおしく思うようになり、むちゃくちゃな使い方をしないようになった。

私は一応医療職で、自分の健康状態について細かく振り返るくせがついているから、自分の健康が希少になりはじめ、風が吹いただけでバランスが崩れると自覚するようになったが、今、自覚していない人も四十代までには気を付けたほうがいいと思う。

 

中年期、ひいては老年期の健康は、一本一万円になってしまったブルゴーニュワインのようなものだ。そしてブルゴーニュワインと異なっているのは、一度失ってしまったらどんなにお金を払っても買い戻せない、ということだ。

 

健康以上に時間は買い戻せない

ここまで考えると、健康以上に希少になっていく「時間」というものに思いを馳せずにいられなくなる。

時間は健康以上に買い戻すことができない。

 

私は、「時間は万人にとって平等」という世間の言葉をあまり信じていない。

なぜなら、その人の境遇や状態によって同じ二十歳の一年間、同じ四十歳の一年間はまったく不平等に過ぎていき、同じ一年間で選べる行動の幅が大きく異なっているからだ。

 

とはいえ、すべての人の時間に共通しているところもある。それは後戻りや取返しがきかないこと、そして年を取るにつれて人生の残り時間が少なくなり、時間が希少になっていくことである。

 

それと、可能なことが年齢によってかなり限定されてしまう点。たとえば大学には何歳になっても入れるといわれるが、還暦を過ぎてから大学に入れるのは、お金と暇が十分に確保できる、そういうご身分の人に限られている。

よしんば老年期に大学に入学できたとしても、その意味は人生経験が浅かった頃に大学に入学するのとは必ず異なっている。

 

時間は常に先へ先へと進んでいるから、中年や老年が若者と同じ選択をしてもその個人的/社会的意味はけっして若者と同じにはならない。厳密に考えるなら、すべてのことは、本当は取返しがつかないことなのである。

 

私がこうしたことを意識しはじめたのは学生時代の終わり頃だった。光陰矢の如し。だから勉強だけしていれば良いなんてことは絶対になくて、二十代のうちにできることはなるべく二十代のうちにやってしまっておかなければならないし、それを四十代になってからやるのでは意味が違ってしまう──そう思った私は生き急いだわけだが、あまりに生き急いだ結果、自分の健康をめちゃくちゃにしてしまった。

 

健康をめちゃくちゃにしてしまったのは大きな失敗だったが、その失敗も、二十代にやらかしたのか四十代にやらかしたのかでは意味が違う。時間は買い戻せない。時間は巻き戻せない。終わりなき日々が続くようにみえる時間は決して無限ではない。そして、コロナ禍の最中にしても、リーマンショック後の一時代にしても、マクドのハンバーガーがひとつ百円で買えたデフレの時代も、その時代・その年頃の時にしかできないことなんていくらでもあった。

 

「じゃあ、時間を大切にするとはどういうことか?」

どう過ごすことが「時間を大切にしている」と言えるのかは、人それぞれだろう。ある人にとっては、動きたいのを我慢してでも静養することが時間を大切にすることかもしれないし、また別のある人にとっては、健康を損ねない範囲で仕事や勉学に励むことが時間を大切にすることかもしれない。

 

遊ぶこと、楽しむことも重要だ。時間が決して巻き戻らないことを思えば、遊ぶこと、楽しむことをおざなりにするのは危険ですらある。十代や二十代の頃に楽しんでおきたかったことを、五十代や六十代になってから取り戻せると思うべきではない。

さきほど書いたように、年齢が変わってしまえば同じ娯楽でもその個人的/社会的意味は同じにならないことを覚悟しておかなければならない。

時間は有限性の高いリソースだから、遊びたいこと・楽しみたいことをなにもかもリアルタイムで進めていくのは不可能だが、だとしても、仕事や勉学にすべてを振り分けて遊びや楽しみをおろそかにしすぎるのは危険である。

 

一本一万円になってしまったワインと同じように、過ぎていくもの、失われていくもの、希少になっていくものはいとおしく感じられるものである。

ところがワインも健康も時間も、たっぷりあると思えるうちはそれが大事だとはなかなか思えないものだし、ともすればぞんざいに扱って蕩尽してしまう。そうした蕩尽は、短期的にみれば幸福だが、長期的にみれば危うく、非効率だ。

 

ところが私たち人間は浅はかなので、ワインも健康も時間も、たっぷりあるように思える時はそういうものとしてジャブジャブ使い果たしてしまう。自然環境も、ウナギの稚魚も、化石燃料もそうかもしれない。

馬鹿だなあ私、馬鹿だなぁ人間。そういう馬鹿さ加減、未来を見通せずに生きてしまう自分自身にため息をつきたくなることもあるけれども、そうして生きていくほかないし、少なくとも私はそうして生きていくだろう。

 

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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Photo:Morgan Housel