赤坂にあるBar三代目というお店に行ったときの話だ。
そこには幸福の科学の総裁の実子である宏洋さんという方がいた。
なんとなく「よくわからないけど、大川隆法さんの息子さんだってんなら、いけ好かない偉そうな態度でも取ってるのかな」と思っていたのだが、お店での彼の立ち振舞いは、明らかに洗練された人を気遣える素敵なものであった。
「ひょっとして、この人は物凄い魅力的な個性を持っているのでは?」そう思い、彼の著作(幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった)を読んだところ、このような記述をみつけ、僕は天を仰いでしまった。

いったいなんでこの「一方通行でワーッとしゃべって、こちらが発現しても話を聞かず、自分の話ばかり続ける」が、僕に強烈に突き刺さったのか。
それはまさに、僕が今まで「コミュニケーション」だと思っていたものだからである。
会話は面白いか・面白くないかだけだと思っていた
僕は今まで、人が集まって会話をする際は、とにかく面白い発言ができる人が喋ればよく、面白くない話しかできない人は、黙って人の話を聞けばいいじゃんと思っていた。
実際、友人関係は全然それで何とかなってしまっていた。世の中にはあまり話をするのが好きではない人は多いし、僕は僕で物凄く面白い話をする人の話を聞くのはそこまで苦痛ではない。
苦痛を感じるのは、全然面白くない話を聞かされる時や、何の解決にもならないけど共感してほしいという願望を示された時である。
そういう時は「お前の話には生産性が一つもない」という事を、直接あるいは間接的に指摘し、面白そうな話が発生しそうな方向に舵を切るか、あるいは僕が最近あった面白かった事を、テキトーに話し続けていた。
つまるところ、全ては面白いか面白くないかの2つに1つである。
ほら、みなさんもテレビで面白そうなチャンネルがやってれば「おおー」って黙ってみるけど、つまらなかったらチャンネルを切り替えるじゃないですか?そんな感じですよ。
古来から、偉い人に物申すのは命懸けだった
そんな自分が、この会話のスタイル”だけ”だと色々な場所で支障が生じるという事に気がついたのは、他人と何回か壊滅的なケンカをし、壮大な痛い目に遭ってからだった。
会社や家族という組織においては、言うまでもなく皆に人権がある。そして人権は、地位によって若干のグラデーションがあり、そこでは権力者の意見は、正しかろうが誤っていようが、尊重されてしまう。
権力を持つものは、基本的には自分が絶対に正しく、また下は必ず自分の意見を聞くものだという執着がある。
古典なんかを読んでると、部下が将軍とかに厳しい言葉をかける事を諌めると表現し、それこそ命がけの行いのように記述しているけれど、僕の経験上、耳に痛い指摘をされて受け入れられる偉い人というのは、本当に数が少ない。
地位とその人の器が、常に見合うわけではない。残念ながら全然父親として機能できない人間が父親になったり、全然地位に見合った仕事ができない上司というのは、たくさんいる。
そういう、能力と地位が見合っていない人を、上手におだてたり転がしたりして、うまくやり過ごすのが社会性というものなのかもしれない。
だが、僕は相手が普通に間違った事をやっていたら、それを「こういう風に改善すればよい」という、相手がやれそうなエビデンス付きで提示さえすれば、みんな最後の最後には受け入れるだろうと、どこかで思っていた。
だってそれは、理屈で考えれば、正しい事のはずだったから。
話し合いたくない人は、世の中にたくさんいる
もちろん、僕の意見が間違っている時もあるだろう。
そういう時は、徹底的に議論し尽くして、お互いが納得するまで話し合えばよいではないかと、ずっと思っていた。何故なら人間というのは、話し合わなければわからないからだ。
しかし、どうも世の中には、そもそも正しい・間違っているには興味はなく
「偉い私の意見に従うのが道理である。以上」
という思想の人が、物凄く多い事に遅まきながら、僕は気がついてきた。
そういう人に「貴方の言っている事は、明らかにパワハラである」と言っても、全く聞いてなどくれない。
その人の中では「部下は偉い人の命令を聞くもの」で既に議論は終わっている。そこで下がアレコレと言葉を尽くした所で「自分の話しかしない駄目な奴」というレッテルを貼るだけで、会話すら成立がしないのである。
他人には他人の人生の裁量がある
僕はこういう、地位やら権力を使って、弱者を蹂躙するような人間の事が物凄く嫌いだった。
それこそ何度も頭の中で相手の事をクソミソに言い、怒りを爆発させまくっていたのだが、最近になって
「そういう人間にも、そういう事をやる自由はあるし、自分は自分で相手に最後まで付き合う必要はない」
と突然納得してしまい、良くも悪くも反応しては駄目なのだと納得できるようになった。
有名なだまし絵に、おばあさんと美女の絵がある。

(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Youngoldwoman.jpg)
さっき僕があげた例は、この絵の話と同じ事である。
偉い人の意見に、下は絶対に従うべきだという意見もこの世にはあるし、それで回っている場所もある。
一方で、僕のように、皆は平等だが、常に徹底して正しさだけが生き残り続けるべきで、お互いが納得できるまで最後までガチガチに議論するのが美徳であるという場所もある。
どちらが”正しい”かは、先ほどの絵が”おばあさんの絵”なのか”美女の絵”なのかを決定するぐらいには、無理な話である。
どっちもどっちで、成立してしまうし、現実がそれで回ってしまうのなら、そういうものなのである。
どんなに酷い機能不全家庭やらハラスメント地獄の会社であっても、現実として回ってしまっているのなら、それは存在を許されたものなのだ。
僕は僕で、相手の話を確かに聞いていなかった
他人には他人の人生の自由がある。
だから他人の人生の裁量に口出しをしてはならない。それがどんなに自分の倫理観に反するものであったり、自分から見て、どんなに極悪で残虐非道な事であったとしてもである。
相手が物凄く理不尽な要求を突きつけてきたり、あるいは相手の美意識と合わない時は、こちらにはこちらで相手に付き合わないという選択肢がある。
もちろん戦って相手を蹂躙し、従わせようとするのも1つの手段ではあるのかもしれない。だが経験上、相手も命懸けで反撃してくるので、こういうケースがうまく収まる事はまずない。相手の弱みでも握っているのなら、話は別かもしれないけど。
目くそ鼻くそを笑う
冒頭に書いた「一方通行でワーッとしゃべって、こちらが発言しても話を聞かず、自分の話ばかり続ける」という言葉に僕がウッとなってしまったのは、僕は僕で相手の事を
「コイツは自分の都合のいい話ばっかしてて、全然人の話を聞かないクソ野郎だ」
と思っている一方で、相手は相手で
「コイツは自分の都合のいい話ばかりを一方的にするだけで、こっちの都合のいい話には全く耳を傾けない」
と思っており、どう考えても、僕と僕が死ぬほど嫌いな存在が、同じ穴のムジナである事に、ハッと気がついてしまったからである。
原理原則がカチッとキマッてしまっている人は、ぶっちゃけた事を言えば最初から他人の話を聞くつもりがない。
そういう人は、まさに冒頭に出したように「自分の話ばかりし続けるので、コミュニケーションがとれない」。
最初から自分自身が”正しい”という過程から思考回路がスタートしている人は、そもそも自分の思想がガチガチに組み上がっているので、会話をしているようでいて、実際にはコミュニケーションが全く成立しない。
僕はこの事に気がついてからというものの、会話をしながら、相手が話す内容以上に
「そもそも、この人は何をしたいんだ?」
という問いを常に持てるようになってきた。そうやって、相手の行動理念のようなものを推し量れるようになってからというものの、ようやく「自分の話ばかりし続ける」という現象から脱却できつつあるように思う。
相手は、相手がやりたい事に集中し続けていてくれる限りにおいて、大体は落ち着くものだ。逆にやりたい事がやれない場合、だいたい不満そうな顔をするか、あるいは怒り狂うかのどちらかの傾向を示す。
相手のやりたい事を尊重しつつ、その枠の中で自分のやりたい事もやる。それが集団生活のコツなのだと思う。
ワガママになっても、あまり幸せそうではない
”幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった”を読み終えて思ったのは
「結局はどんなにワガママをゴリ押ししても、人はあまり幸せにはなれないっぽいぞ」
という事だった。
この本では、実子からみた大川隆法さんの像がみえるのだが、少なくとも僕には大川隆法さんはあまり幸せそうにはみえない。むしろ、ここまで壮大なものを色々と築き上げてしまったからこそ、達成できなかった様々な願望が、逆に執着として心に禍根を残しそうだなと感じられてしまった。
うなるほど金があって、うなるほどに権力があり、散々ワガママを貫きまくってても、残念ながら全てが思い通りにいくわけではない。
これなら、小汚いBarでは確かにあるが、キビキビと動いている宏洋さんの方が人生は全然幸せそうだなと思ってしまった。
結局、人の幸せというのは他人が作ってくれるものだ。
そして他人をキチンと尊重できる人になれないと、最終的には利害関係でしか、人間関係が成立しなくなる。
キチンと周りを見渡して、自分の周りにいる人がどういう事を求めているのかを察知して、それをサッと提示したり尊重できたら、別にお金や権力、能力なんて使わずとも、人はちゃんと人に好いてもらえる。
そうやって人生はやっていけばよいのだと、遅まきながら気がつけてきた。
己に求められている役割に準じれば、それでよいのである。
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システム開発やITコンサルティングを経て、
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現在はネクセラファーマ株式会社で、システムだけではなく、企業風土改革や業務改善をリードし、
日本発グローバルバイオ製薬企業にむけて、同社の成長基盤の構築に尽力している。
岡田 雄太(ワークワンダース株式会社 CTO)
野村総合研究所に新卒入社後、証券総合バックオフィスシステムやオンライントレードシステムなどの開発に従事。
その後、8 Securities(現SoFi Hong Kong)へ出向し、日本人唯一のエンジニアとして国際的なプロジェクトに携わる。
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【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
Photo by:Clement Souchet














