肉とおれ、おれと肉

おれは前に人間がこの先食っていけるのかどうか、農業の面において学び、考えてみた。

農業なら、なにか技術進歩によっていけるんじゃないかという気になった。

 

が、肉となるとどうであろうか。

これについても同じ本であるアマンダ・リトル『サステナブル・フード革命 食の未来を変えるイノベーション』。

原題は『The Fate of Food , What We’ll Eat in a Bigger, Hotter, Smarter World』。を参考に考えていきたい。

 

ちなみに、おれ個人として肉食については、「健康と経済的な問題で野菜中心の食生活を送っているが少量の肉は買って食べているし、肉食に倫理的な忌避感はないものの、肉、とくに牛肉は、生産のためにすごいコストがかかっているのは知っているし、そのゲップがわりと馬鹿にできないレベルになっているのも知っていて、そのうち食べられなくなるのではないかとは思っているというか、そもそも牛肉は高いからあまり買いません」派である。

どういう派かよくわからない。肉を食っている人間の中でもちょっとだけベジタリアン寄りの心情がないでもない、というか。

 

今回の記事を書くに当たってもう一冊参考にした『人類はなぜ肉食をやめられないのか 250万年の愛と妄想のはてに』によれば、「肉食減量主義(リデュースタリアニズム)」ということになるのだろうか。

いや、高いから買えない、というのは、「月曜日は肉食をやめよう」とかいう減量主義でもないか。よくわからん。

ちなみにこの本は、著者の肉食への忌避感が強く表れていて、また西洋人として東洋人を見下すような印象もあって、あまりよい印象は抱かなかった。

とはいえ、そのあたりは個人的なお気持ちであって、事実関係については参照するに足るのではなかろうか。

 

肉を食わなくても

さて、肉の話である。これも肉食したい派 vs ベジタリアン(中でも熱心なヴィーガン)で日々「誇大広告と反動思想、ありきたりな言いぐさの激しい応酬」が行われているといっていい。

しかしなんだ、「ヴィーガンには栄養が足りない」とかいうような言いようは、元気に肉食派に対抗してガンガンやりあっている時点で否定されるような気もするが、まあいい。

 

いや、実際のところ、べつに人間の元気や必要な栄養の取得源として、肉は必須ではないのだ。

肉が含むところに必須のタンパク質やアミノ酸はあるが、べつにそれはなんとか豆や野菜からも接種することができる。

はるか昔の人間は、肉を食べることによって効率的に栄養を接種することができたが(進化心理学的にその流れで今の人間も肉を好む面があるのかもしれない)、べつに肉を摂らない地域の人類も生き残った。

 

そこでおれが思い出すのが、二十年以上前に見たテレビのドキュメンタリー番組である。

東南アジアのどこかの小さな島、現居民の主食はタロイモで、あとは果実くらい。食べるべき食肉なんてない。でも、島民の男たちは筋骨隆々であって、たとえば現代日本でいえばプロ格闘家以外にいないんじゃないかというところだ。

それを見たおれは、「筋肉つけるのに肉は必須じゃないんだなー」と思った。べつに肉食や栄養についてなんの関心もなかったころの話だ。

 

まあいい、ともかく、肉食は人間にとって必須の要素ではない。「おれは心理的に肉を食って元気になる」という意見はあるだろうし、おれにもそういうところはあるが(たまに牛肉を食べるとパワーアップしたような気になる)、現実問題として、べつに肉を食わないでも健康に生きられる。これは単なる事実だ。

 

魚を食え!

肉以外のなにか、で、いきなり豆だとかに行くこともない。魚がある。魚、魚、魚、魚を食べると……なんかいいことがある。肉よりも健康的かもしれない。

 

『 サステナブル・フード革命』の著者はノルウェーのサーモン養殖の現場を取材する。持続可能なタンパク質ということで、サケの養殖を取材する。

ノルウェーのサケの養殖はすごくすごい伸び方をしていて、その中でも「ニョルド」(古代スカンジナビアの海の神)と呼ばれる、世界のサケ養殖の約4分の1を指揮する時価総額32億ドル企業のボス(といっても最初の取材時に49歳)を取材する。そしてこんな言葉が出てくる。

オースクーグは何度となくこう強調した。「養殖を持続可能にすることよりも、もっと魚を食べて肉を減らすように世間を説得することのほうがずっと難しい」。

養殖の持続可能性。サケの大量の養殖には、環境汚染や生態系への悪影響、遺伝汚染の面から批判も大きいという。養殖業者もそれにさまざまな技術で対処してきた。

 

また、寄生虫のサケジラミとも戦っている。農業における害虫や雑草やなにかと一緒で、化学的に対処しようとしても、耐性のあるやつがでてくうる。そんで、レーザー照射でサケジラミだけ狙撃するマシーンとか出てきて、未来よな。でも、解決していない。

海洋養殖の問題やそのあたりは面白いので本書をあたってほしい。笑わない「ニョルド」、オースクーグの人柄もだ。

 

まあとにかく、あれだ、「肉を減らす」のは難しい。

しかし、減らす必要はありそうだ。「魚を食え」というのも一つだろう。あるいは、代用肉(「だいようにく」と打って変換したら「大羊肉」とまず出てきた。肉を減らすのは難しい)というのもある。

 

なにせ、「250万年の愛と妄想」なのだ。

肉を食べることは(当時は)効率的に栄養を接種することであって、やがて権力の誇示などにもつながっていった。

人類の価値観をも左右したのだ。

 

『人類はなぜ肉食をやめられないのか』にはこんな言葉が紹介されている。

 多くの言語には実際に「肉飢餓」を表す単語が存在する。このことは、肉飢餓が、胃が空っぽになるという通常の種類の飢餓とは異なるものであることを示している。

たぶん、肉食を地理的になかなかできなかった日本語にはないだろうが、そういう言葉がある。

アフリカ中部のムブディ族はエクベルと呼び、ボリビアのユキ族はイエバシというらしい。

 

人類は、肉に独特な愛を抱いて進化してきた。あるいは、肉食を厭わなかった性質を持つ人類が自然選択されてきたといっていいかもしれない。

とはいえ、「である」から「べき」は導き出されない。ヒュームのギロチンだ。べつにそうだからといって、人類は肉を食べる「べき」とは言えない。

 

というか、「肉を食べるべき」と言おうがどうだろうか、増加する人類、豊かになる発展途上国、あまり豊かでない人間にとって「肉を食べたいけれど食べられない」という未来は確実に迫っている。

 

肉の代用品

そこで出てくるのが、代用肉だ。日本の大手チェーンのハンバーガー屋でも「ソイパテ」は珍しくなくなっている。大豆やなにかで作った植物性の肉的ななにかである。

 

たとえばアメリカの「インポッシブルバーガー」の「肉」は、肉に近づけようとして、ダイズの根粒由来の化合物「ヘム」(ヘモグロビンを構成する)を使用して、肉の血の味まで再現しようとしている。なんだそれ、すげえな。

おれは、ハンバーガー屋で「ソイパテ」を選んでも、べつになんも気にならないというか、物足りなさも感じない鈍感な人間だが。

 

こういった植物性由来の肉的なものも、肉の不足を補うものになるかもしれない。

でもって、その先を行くのが、培養肉ということになる。1931年にウィンストン・チャーチルはこんな未来予測を書いていたという。

「胸や手羽を食べるためにニワトリをまるまる1羽育てるというばかげたことをやめて、食用の部位を適切な培地で別々に育てるべきだ」

さすがチャーチルである。畜産、無駄が多い。牛ともなるともっと多い。

 

と、少し話は逸れるが、『サステナブル・フード革命』を読んでいて「あれ? アメリカ人って肉以外食わんの? 内蔵とか食わんの? モツ食わんの? ホルモン?」となった。

どうもあまり食べないらしい。でも、その不要部分を日本などに輸出しているらしい(https://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_001105.html)。

まあ、それにしたって冷凍保管や輸送のコストはかかるか。でも、あぶらかすとかがアメリカ人を魅了する時代が来るかもしれない。ビジネスチャンスや。

 

話は戻るが、本題の培養肉だ。これもホットな投資先になっていて、肉食の環境への悪影響、あるいは倫理的問題を解決する存在になるかもしれない。

とはいえ、ミート・イズ・マーダーとは別の意味で抵抗があるのも確かだろう。

 研究室で蠢いていた培養肉を食べるくらいなら豆腐を買いたい、と私は正直に打ち明ける。しかし、彼は、こちらがすぐに考え直したくなるような多くの利点をあげはじめる。「培養肉は、細胞レベルで動物の肉とまったく同じなんです。しかも、こちらのほうが栄養があって味もおいしい」。さらに、生産過程で排出される温室効果ガスを従来の4分の3以上も減らせるうえ、水の使用量も最大90パーセント削減できる。細菌感染のリスクを大幅に減らし(大腸菌の脅威や糞の混入もなくなる)、心臓病と肥満のリスクを抑えることも可能だ(脂質含有量をコントロールできる)。「わたしたちは、数十億の人間と数兆の動物の生活を変えようとしているんです」。

いいことだらけじゃないか。チャーチルの夢がかなった。……とはいえ、まだまだこういう技術は高い。とはいえ、もう品質的には実用的なようだ。

食べ慣れた味、肉として通用すること、まったく普通であること――突き詰めれば、ペトリ皿で生まれた肉としてはその点が並外れているのだった。

実食したアマンダ・リトルはこう語る。培養肉、いけるんじゃね? でも、問題はいくらで買えるかということだ。その点について、まだまだであることは否定できない。

 

とはいえ、技術進歩と普及によって、爆発的に安くなっていくかもしれない。

そのあたりは、わからん。わからんが、そういう夢を見てもいいだろう。おれが生きている間に達成できるかどうかもしらないが。

 

いずれにせよ、おれは一体の生物を多大なコストをかけて育てて、その一部を食用にするという時代は長くないと思っている。

培養肉がその無駄や倫理的問題を解決できるならしてもらいたいと思う派である

 

究極の食糧

菜食主義にせよ、肉食主義にせよ、その斜め上を行く完全食というものもある。

現代においてそれを無視することはできないであろう。たとえば、ソイレント。

ソイレントは動物質をいっさい含まず、きわめて低炭素なうえ、マクドナルドのセットよりも安い。食品廃棄物も出さない。純粋にエコロジーと社会経済学的な基準で見ると、この魂の欠けた食べ物は、地元栽培の1ポンド6ドルもするエアルーム品種のトマトよりも、「持続可能で公平な食べ物」を真に体現しているのかもしれない。

『サステナブル・フード革命』の著者はこう述べる。

たしかに「魂の欠けた食べ物」かもしれない。しかし、これを摂取することによって、余暇が生まれる。そういうのも、ありじゃないのか。そういうところは、あると思う。

 

もちろん、世の中のほとんどの人間がソイレントのみを摂取して、栄養を満たす世界は、よく言ってディストピア、そうでなければ地獄のようなものであろう。

 

とはいえ、組み合わせというものが肝要だろう。

農業において農産地の作物と都市近郊の植物工場を組み合わせること。肉的なものにおいて、商物由来、あるいは昆虫由来のタンパク質を混ぜること。一方的で、完全な食習慣の変更はむずかしい。

 

その点において『人類はなぜ肉食をやめられないのか』において、一つの見解が紹介されている。著者がピーター・シンガーを取材して出てきた言葉である。

「完全なビーガンかベジタリアンでないかといって、そういう人を悪く言うのはやめるべきです。いったんベジタリアンになったなら、肉をひとかけらでも口に入れるくらいなら飢えて死ぬべきだ、などと発言したら、ふつうの人は『そんなのおかしい。自分はそんなことはしない』と反論するでしょう。大多数の人たちに肉の消費量を減らしてほしいなら、完全に純粋な食事を強いることがそれに通じる道ではないと私は思います」

納得できる言葉だと思う。人類は、雑食なのだ。その意識を変えることは、長い時間がかかるし、とてもむずかしいことだ。

生まれ育った文化も絡む。おれはクジラの肉を食うなと言われても、クジラの肉の竜田揚げの美味しさを知っている。クジラの肉を食うことになんらの倫理的罪悪感をもたない。

 

というわけで、いずれ多くの裕福でない人類は肉を食えなくなるであろうし、代用肉の価格も下がるかどうかわからない情況において、まあおれはどうする、あなたはどうする、という話だ。

 

おれは慌てて金を使って牛肉を食い漁ろうとも思わないが、先を見据えてベジタリアンになろうとも思わない。

紙タバコの税金が高くなってまったく吸わなくなったように、自然に肉を食べなくなるようになるかもしれないし、自分が死ぬまでにそこまでの変化は訪れないかもしれない。

 

いずれにせよ、変化の時代を生きている。それは確かなことだ。

ソイレントだけ飲んで生きることになるかもしれない。でも、それを少しは楽しんでみてもいいかもしれないが、さて、どうだろうか?

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

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