ときどき、「ずいぶん未来まで生きたなぁ」と思うことがある。

未来を感じるのは、AIをいじっている時や凄まじいクオリティのアニメを眺めている時だけでない。地方を車で走っている時も、私は同じような感慨を持つ。

 

今日では当たり前の風景になった地方郊外のショッピングモールは、昭和時代から見れば未来に属するものだ。そのショッピングモールに、徹底的に整備された幹線道路や高速道路を使って大勢の地方民が集まってくる。そこに「未来」を感じる私は、昭和生まれ・昭和育ちのロートルなのだと思う。

 

ちょうど先日、「地方が車社会になる前の話がイマイチ流れてこない」というメンションがXでバズっていたが、私が思春期を過ごしたのは、まさに車社会ができあがる直前~直後の頃だった。だからだろう、今でも明け方に見る夢のなかで当時の風景が蘇ったりする。

これもひとつの機縁と思い、今日は、車社会ができあがっていく過渡期の地方の記憶について書いてみる。

 

1970年代、地方の車社会は完成していなかった

はじめに、思い出話の舞台を少しだけ紹介する。

私は1975年に石川県に生まれた。今日でもそうだが、北陸地方は共働きや三世帯住宅が多いため、世帯収入の都道府県別ランキングではだいたい上位だ。

そのうえ昭和時代の北陸地方は繊維業が栄えていて、織物工場の威勢の良い稼働音があちこちから聞こえていた。土地の値段は安く、たいていの家は車庫やカーポートを増設するのも難しくない。

 

そうしたわけで、私が保育園に進む頃には近所の家の多くが自家用車を所有していたし、世帯収入の高くない我が家でさえ自家用車があった。

確か、マツダのファミリアだったと思う。次に我が家にやって来るカローラに比べると手狭で、子ども心にも小さい車だと感じられたが、とにかく、世帯収入が高くない家でも乗用車を保有する状況が1970年代の北陸地方にはできあがっていた。

 

では、その当時の北陸地方が車社会だったか?

そんなことはない。

自家用車が普及している状況は、車社会であることをそのまま意味しない。さきほど私が「北陸地方は共働きや三世帯住宅が多い」と書いたのを思い出していただきたい。世帯に一台の自家用車では、家族全員が車で通勤・通学・通院するような生活にはまだ遠い。

 

統計を振り返っても、そのことが確認できる。

これは不破雷蔵さんのyahooニュースの記事 から引用したグラフだが、グラフを見ると、私が生まれた1975年の日本の自動車保有台数は3000万台にも届いていない。内訳にトラック・バス・特殊用途車両が800万台程度あることを差し引くと、自家用車の実数は多く見積もっても2000万台弱と推察される。

昭和から平成にかけ、日本の自動車保有台数は右肩上がりに上昇し、最終的には約8000万台に到達した。

今日の地方でありがちな「一人一台」のカーライフが完成したのは21世紀、早く見積もっても1990年代に入ってからのことだ。

 

車社会ができあがる前の地方も、それなりに豊かだった

そうしたわけで、私が子どもだった頃には車社会以前のフレーバーが残っていた。なかでも今日なかなか見かけなくなったのは、行商人だ。

我が家では富山の薬売りの行商人が頻繁に出入りしていて、私は風船や折り紙で色々なおもちゃを作ってもらっていた。他にも色々な行商人がやってきた。これも少し前にtogetterで話題になっていた、“押し獅子舞”の話も、そういう時代のものだろう。

 

私自身は”押し獅子舞”を見たことがない。そのかわり、北陸地方だからか”押し読経”の人は一年に一度か二度ほどはやってきた。

修行僧のような恰好をした人が、頼んでもいないのに玄関で朗々と読経をはじめる。祖母から教わったとおりに私が100円玉を手渡すと、彼/彼女は深々と一礼をし、仏教に関する小冊子を手渡して帰っていくのだった。

 

それから個人商店。私の集落には複数の「○○ストア」や「××商店」があり、肉や魚、野菜や果物、トイレットペーパーや電池といった日用品まで、ひととおりののものが並べられていた。

今日のショッピングモールなどに比べれば品揃えは貧弱かもしれないが、それが当たり前だと思っていたから足りないとは感じてなかった。

 

商店はそれぞれ品揃えが微妙に異なっていて、そのことは大人も子どももよく知っていた。

たとえば1980年代前半には「ガンダムチョコボール」や「ビックリマンチョコ」といったオマケが肝心なお菓子が流行ったけれども、そうした流行の品をどの商店がたくさん仕入れているのかは、地域の共有情報になっていた。

だから、昭和の個人商店だからといって商売の機敏が問われなかったわけではない。今から振り返ると、個人商店衰退の時代にも愛顧され、長く生きながらえたお店は、子どもや大人が欲しがる商品を仕入れ、並べるのがうまい商店だったからだ。

 

ひとつひとつの商店の品揃えは少なくても、全体としてみれば半径1㎞圏内にたいていのものが売られていて、衣服でも靴でも電気機器でも手に入れようと思えば手に入ったのである。

市町村の中心部には書店や銀行の支店もあり、寿司屋や仕出し屋、食事処などが繁盛していた。商店街には人気があり、活気があり、数年後に一挙に衰退するようには見えなかった。

 

あと、路線バス網も忘れてはならない。

1980年代前半ぐらいまで、地方都市の路線バス網は今日とは比べ物にならないほど本数も路線数も充実していた。自家用車に頼れない人がまだまだいる以上、通勤や通学、街の中心部への買い物などはバスに頼らざるを得ない。

けれどもバスの本数が多く、路線のバリエーションも豊富なら、バスだって十分に使えるのである。

 

今日、路線バスの本数と路線数が充実しているのは東京や大阪といった大都市圏に限られ、地方の路線バスの時刻表はしばしば以下の写真のような有様となっている。

こんなバス路線では、通学に使うのも厳しい。しかし1980年代前半の片田舎にはもっとずっとマトモな頻度でバスが走っていて、それが重要な交通手段になっていた。

しばしば私も、街の中心にある商店街やデパート的店舗までバスで連れていってもらった。そういう時、祖母は決まって喫茶店に立ち寄り、アイスクリームやプリンアラモードなどをご馳走してくれたのだった。

 

私自身にはあまり縁が無かったが、鉄道網も充実していたことを付け加えておこう。今日では廃線になっている国鉄路線や私鉄路線が現役で、北陸本線にはたくさんの特急や急行、貨物列車や郵便列車が走っていた。

この時代の貨物列車は実にさまざまなモノを運んでいて、子どもの好奇心を刺激してやまなかった。そうした貨物列車の存在は、ロジスティクスとしての車社会がまだまだ未完成だったことを証明していた。

 

そして街の中心部や個人商店は寂れていった

昭和が終わり、平成が始まる頃、景色が変わり始めた。ちょうどその時期、私は中学→高校→大学と進学し、地方都市の中心部にあるゲーセンや商業施設の最上階にあるゲームコーナーに足しげく通っていたから、街の変化のことはよく覚えている。

 

1980年代後半の段階では、地方都市の商店街や商業施設に、それほどの翳りがあるとは感じなかった。

平日でも夕方になればお客さんがそれなりいて、ゲームコーナーには地元の学生や若者がたむろしていた。CDや本、ゲームソフトを買う際も、地方都市の中心部に行くのが一番間違いないように思われた。

 

それが、私の高校在学中のうちに変わっていったのである! かつて、週末には満車になっていた駅近くの商業施設の駐車場はガラガラになり、ゲームコーナーにたむろしていた学生たちもどこかへ行ってしまった。

バスターミナルに近い商店街も閑古鳥が鳴くようになり、シャッターが下ろされた店舗が増えていった。

世間を知らない学生の私にもくっきりわかるほどの、すさまじい速度の衰退だった。

 

市町村の中心部にいた人々はどこに向かったのか?

国道である。

正確には、国道沿いに立ち並ぶできたばかりの店舗たちだ。

 

石川県には国道8号線という大きな幹線道路があり、沿線には昔からいくらかの商業施設が存在していた。とはいえ、国道沿いにしか無い店舗といったらせいぜいホームセンターぐらいで、頻繁に足を運ぶ場所ではなかった。

 

ところが1990年代に入ると、その国道沿いに大きな商業施設、今日でいうショッピングモールの前身のような総合商業施設が建ち始めた。

2000年に大規模小売店舗立地法が施行される前の出来事だから、総合商業施設といっても、現在からみればささやかな規模でしかない。それでもこの新しいタイプの商業施設ができたとたん、人々は殺到した。

一か所でたいていの用事が片付くうえ、ひどい渋滞を起こしていた市の中心部を通らなくても構わなくなるからだ。

 

やがてそうした総合商業施設がアピタやジャスコにとって代わられ、最終的にはイオンモールになっていったのは言うまでもない。

高校生だった私たちも、次第に国道沿いに移動していた。CDショップ、カラオケボックス、ゲームセンター、ファーストフード店。そういった学生の好きそうな店舗が国道沿いに次々に建てられていったからだ。

 

私と私のゲーセン仲間のホームグラウンドは、高校一年生の段階では市の中心部、バスターミナル近くの商業施設のゲームコーナーだったが、高校3年生の頃には国道沿いの総合商業施設のゲームコーナーになっていた。

そちらほうが対戦格闘ゲームのプレイヤーが多く、最新のゲームももれなく入荷し、他の用事を兼ねるうえでも便利だったからだ。

 

家族に連れられて買い物に向かう先も国道沿いになっていた。私とその家族だけがそうだったのではなく、友人やその家族もだいたい国道沿いをあてにするようになっていた。

カメラのキタムラやアルペン、CoCo壱番屋といった、全国チェーンの専門店舗もだいたい国道沿いに建てられていた。市の中心部に店を構えていた書店や玩具店も、体力のあるところは国道沿いに移転していった。

 

それが、私が目撃したモータリゼーションだった

そうした大変化の背景にあったのが、自家用車の普及だったのは間違いない。1990年代には母が仕事帰りに買い物をする際も、国道沿いのスーパーマーケットを利用するようになっていた。

市の中心部は人が集まる場所ではなく、その役割は国道沿いにとって代わられたのだ。

人の流れから外れてしまったバスによる交通網は、干上がった川の支流のように縮小していった。

 

今の私は、その大変化がモータリゼーションと呼ばれることを知っている。自家用車が「一人に一台」まで普及し、それに合わせて道路網も整備されていった結果、地方の暮らしや街並みは激変した。

 

それが起こったのは石川県だけではない。今日では「ありふれた風景」とか、ときには「なんにもない風景」と呼ばれがちな、あの国道沿いの景観、それから巨大ショッピングモールは、1990年代にできあがった、当時としては新しいものだったのだ。

 

私の身体はその新しい世界ができあがる前のことを憶えていて、ときどき、少し寂しく思い出す。あれこそが昭和の風景だったんだな、とも思う。

そうした景色について語る意志と能力を持った人は、これから減っていくだろう。だから、こんな風に書き残すことには意義があると私は思っている。

 

 

 

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(2026/2/9更新)

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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