私が医療崩壊のトリガーになる未来 

これがどういうことか分かりますか?今までは26で研修医終わって27で内科認定医、これでいよいよ循環器内科で頑張るぞ!だったのが、29で循環器内科だ頑張るぞ!になったんですよ。このサブスぺシャリティという真のスタートラインが29才になったのが新専門医制度。18才で医学部に入って真のスタートが29才って。

妊孕性が年々低下していくことなんて世間でも認知されていて、国家試験でDown症は高齢出産ほど起きやすいなんて選択肢まで出すのに私たちはいつ妊娠すればいいの?29で真のスタートラインに立った、けれど子供産んでから復帰するのであと3年は待ってくださいになるのでしょうか、それとも研修医終わりました、26で子供産んで落ちついてからから内科認定医取ります、みたいな流れなんですか。

2018年の「はてな匿名ダイアリー」に投稿された上掲記事は、女性医師のライフコースの難しさを赤裸々に記していた。

 

キャリアと子育ての板挟みに悩む女性医師は前々から少なくなかったが、昨今の医師研修制度によってますます厳しくなっている話は、もっと知られてもいいように思う。

その一方で、これは働く女性全般、いや、男性も含めたキャリア志向の現代人の大半に適用できる話として私は読んだ。

 

ここ十数年ぐらいの日本では、仕事に打ち込むうちに結婚や子育てのタイミングを逃してしまう女性が後を絶たなかった。そうでなくても、出産や子育てに踏み切ったことでキャリアが中断してしまった女性、職場に迷惑をかけていないか気にしている女性が少なくなかった。

 

少子化が喫緊の課題となったことで、男性も育児休暇を取れるようになった。もちろんそれ自体は喜ばしいことだが、育児休暇を取る男性にしても、職場を休む際には申し訳ない気持ちが湧くことがあるように思う。

従業員が子育てのために順番に休暇を取ることを当然のサイクルとみている職場は、まだまだ多くない。

 

こうした現実を振り返るに、私は思わずにいられない。

そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていないのではないか。

 

結婚。出産。子育て。

こういった、生殖にダイレクトに関わる諸々が非常に難しくなっているからこそ少子化に歯止めがかからず、ちょっと大げさな言い方をすると、日本人は絶滅の危機に瀕しているのではないだろうか。

このあたりについて、今の私が疑問に思っていることを少し書いてみる。

 

ブルジョワ化していった意識、ブルジョワ化していった働き方

さきほどから私は、現代人という言葉を使っている。

ここでいう現代人とは、できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指すことを良しとする人々のことだ。

因襲や宗教よりも社会契約や合理主義を重んじ、勤勉で、仕事をサボることを良しとしない人々のことでもある。たとえば21世紀の東京で働いている人のほとんどは、この現代人に該当すると考えて差支えない。

 

現代人のルーツは、近世以前のいわゆる第三身分、ブルジョワジーに由来する。

資本家や医師や法律家といった人々、今でいえば高級ホワイトカラーに相当する人々は、ずっと昔から高学歴志向・キャリア志向のライフコースを採っていた。

彼らは社会契約のロジックにも忠実で、勤勉に働いた。現代人の基準では当たり前に思えるかもしれないが、これらは近世以前においては例外的なライフコース観だった。

 

日本では、そうしたブルジョワ然としたライフコースを採る人が戦前から増え続けてきた。

ホワイトカラーの卵である大卒者は、明治時代にはスーパーエリートだったが、大正~昭和初期にかけてどんどん増え続けた。急激な近代化を支えるには大量のホワイトカラーが必要で、高学歴者を生み出すシステムが整備されていった。

と同時に、ホワイトカラーならではの文化や意識が社会の主流に、あるいはテンプレートになっていった。

 

とはいえ、こうした変化が本格化したのは戦後のことだ。

昨今の大学進学率が示しているように、大卒はエリートでもなんでもなくなった。できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指す意識は、資本家や医師や法律家の専売特許ではない。

どこの家庭も「自分の子どもには高学歴・高収入になってもらいたい」と願うようになり、受験戦争が白熱するようになった。

 

昭和の終わりに、「一億総中流」という言葉が流行したことがある。「一億総中流」とは、みんなが中流の年収を得るようになったという意味ではない。

みんなが中流意識を持つようになったこと、つまり、ホワイトカラー的・ブルジョワ的な意識が社会に行き渡ったことを指した言葉が「一億総中流」だった。

 

ホワイトカラーが典型的な職業とみなされるようになり、女性に関しても、高学歴・高収入を目指す「働く女性」が当たり前とみなされるようになっていった。

そうした意識改革と経済成長がマッチしたのが、バブル景気崩壊までの日本社会だったのだろう。

 

経済資本・人的資本まではブルジョワ化できなかった

しかし、意識や働き方がブルジョワ化したからといって、なにもかも戦前のブルジョワと同等になったわけではない。

かつてブルジョワと呼ばれた人々は上昇志向で勤勉だっただけでなく、経済資本に恵まれ、人を使える立場だった。

 

仕事熱心なブルジョワの実生活を支えていたのは、使用人や家政婦のたぐいだ。

子育ての領域でも、乳母・教育係・寄宿学校といったさまざまなリソースを利用できたからこそ、ブルジョワは自分自身のキャリアに集中できていた。

 

ブルジョワの意識と実生活の背景に、「生活のことなんて考えなくても構わない」「子育てもアウトソースして構わない」があったことは、現代人の意識と実生活を考えるうえで忘れてはならないものだと私は思う。

 

さきに述べたとおり、日本社会ではブルジョワ的な意識や働き方が庶民にどんどん広まっていった。

ところが、ブルジョワ化した庶民の生活を支えるための使用人や家政婦が増えたわけではなかった。乳母・教育係・寄宿学校といったリソースは、高嶺の花であり続けている。

 

ブルジョワ化した庶民は、ブルジョワのように意識してブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを他人任せにできるほどの経済資本や人的資本を授けられなかったのである。

 

その結果、「ブルジョワのように意識し、ブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを自分でやらなければならない人々」がものすごい勢いで増えた。

つまり、本当に増えたのはブルジョワではなく、ブルジョワになりたくてもなりきれないプチブルたちだったのである。

 

はじめ、この問題は「専業主婦」というシステムで一応の解決をみた。

戦後しばらくの間は、国が専業主婦というシステムを後押しするかたちで、夫がブルジョワ的に働き、妻が乳母や家政婦の役割を担う分業が広く採られた。

『サザエさん』や『ドラえもん』を見ると、当時の家庭のテンプレートをうかがい知ることができる。

 

専業主婦システムは、家父長的な、問題のあるシステムとみなされようし、実際、母親に偏重した子育ては、マザーコンプレックスをはじめとするさまざまな家族病理を生み出した。

 

それでも父親の収入だけで家庭が賄えたうちは、専業主婦システムはひとつの解決法たりえた。

急速に普及した家電製品も母親の助けになったし、20世紀末にはレトルト食品やコンビニなども利用できるようになった。

配偶者の片方だけで十分な収入が得られ、家族病理を回避する算段が立つなら専業主婦/専業主夫による分業システムは現在でも十分通用する。

 

ところがバブル景気が崩壊してからの日本では、片方が働いて片方が養う……という分業が成立しにくくなってしまった。

ブルジョワ的な意識や働き方はますます庶民に広がっていったのに、それにみあった年収はますます庶民から遠のいていった。

 

末広がりなブルジョワの裾野に位置している人々、社会的上昇を果たせないプチブルにあたる人々は、勤勉に働いているにも関わらず、使用人のひとりも雇えない。

それどころか、夫婦二人で食っていくのに精一杯という人、結婚なんて経済的にとんでもないという人すら珍しくなくなっている。

 

コンビニなどのサービス業が進歩したため、対価さえ払えれば生活の利便性は向上したと言える。

だが、生殖、子育ての領域ではまったくこの限りではない。保育園ではカヴァーできない部分はまだまだある。のみならず、ブルジョワ~プチブル的な意識においては、子どもの教育にカネをかけるのが当然とみなされているから、保育園に子守りをさせるだけでは駄目なのである。

 

よって、ブルジョワ~プチブル的な意識をじゅうぶんに内面化した現代人は、子育てにカネがかけられる見込みがない限り結婚したがらないし出産したがらない。

「貧乏の子だくさん」などという事態を現代人は選ぼうとしない。それは、男も女も同じである。

庶民がみんながブルジョワ~プチブル化し、それでも生活や生殖が破綻しないようにするためには、本当は、生活や生殖を支えるための太い経済資本や人的資本が必要だったはずなのだ。

 

だが、実際にブルジョワ化したのは意識や働き方ばかりで、在りし日のブルジョワ“階級”のような豊かな経済資本や人的資本は望むべくもなかった。

そうした理想と現実のはざまを専業主婦システムでごまかせていた時代もあったが、バブル景気崩壊後の日本、とりわけ東京ではそれが困難になってしまった。

 

もちろんこれは東京に限った話ではない。ソウルや台北やバンコクの出生率を確かめてみればいい。

庶民のブルジョワ~プチブル化が進んでいく国にはよくある現象のようにみえてならない。

 

生殖という観点からブルジョワを批判する

大昔の、本家本筋のブルジョワが乳母や使用人を雇うことができたのは、国内の階級による格差や、宗主国と植民地との格差が存在していたからだ。

だが、途上国に追いつかれ、追い越される日本において、在りし日のブルジョワの特権を庶民すべてに授けるなど不可能である。

 

近代から現代にかけて、日本人は、いや世界じゅうの人々は、ひたすら総ブルジョワ~プチブル化の道を歩み、みんなが高学歴を志向して、みんなが勤勉に働くようになった。

それは自体は良かったのだろう。

 

他方、意識と働き方ばかりブルジョワ化し、その生活と生殖を支えるためのバックボーンを授けられなかった(それどころか、バックボーンを失う一方の)人々に、やれ、子どもをつくりなさい、世代を再生産しなさい、と迫るのは厳しいことだと思う。

その厳しいことを、日本は、いや先進的な国々はあの手この手で誤魔化しながらやり過ごしてきた。けれども、とうとうやり過ごしきれなくなって、みんな生殖を後回しにするようになった。それは仕方のないことだと私は思う。

 

冒頭の女性医師などが典型だが、現代人のライフコースは、みずから生活や子育てを実践することを前提につくられていない。

あくまでブルジョワ的に働き、ブルジョワ的に「稼ぐ」ことが前提になっていて、社会も個人の内面もそのようにつくられてしまっている。これまではそれで良かったのだろう。だが、これからもそれで良いのだろうか?

 

「ブルジョワの打倒」と書くとマルクス的に聞こえるかもしれないけれども、生殖という観点からみても、ブルジョワは打倒すべき対象ではないだろうか。

2026年になっても私は、生殖という観点からブルジョワの理想と現実について批判している書籍を見たことがない。

 

もし、この散文を読んで「そういう書籍なら、以前に読んだことがあるよ」という人がいたら、是非紹介して欲しい。

今の世の中を理解するためには、そういう視点も必要な気がしてならないからだ。
『シロクマの屑籠』セレクション(2018年7月2日投稿)より

 

 

 

【お知らせ】
Googleの検索結果はAI Overviewが上部を占めるようになり、「〇〇とは」型の解説記事は掲載されても訪問されなくなりつつあります。それでも読まれ、AIに推奨されるコンテンツをどう作るか——安達裕哉が解説するウェビナーを開催します。


このウェビナーでお伝えする内容
・AI Overviewの拡大によって、検索経由の流入がどれだけ減っているのか(最新データで確認)
・辞書系・解説記事・単純な統計など、AIの登場で効果が低下したコンテンツの共通点
・AIまとめに「勝っている」ページの共通点と、これから力を入れるべき7種類のコンテンツ
・AIの回答の中で、自社が名指しで推奨されるための3原則
・AIに推奨されると、なぜクリック率・コンバージョン率・滞在時間が高くなるのか
・GA・コンバージョンフォーム・プロンプト監視による、AI検索対策の効果測定の方法

【対象】
BtoB企業のマーケティング、広報・PR、コンテンツ企画、Webサイトの担当者・責任者/オウンドメディアやSEO記事の流入減少に直面している方/ChatGPTやGoogleのAI回答の中で自社を推奨・引用させたい方/経営層・事業責任者として限られた予算でAI時代の情報発信を見直したい方


セミナー名:AIの登場で効果が低下したコンテンツを救うたった2つの対策
開催日時:2026年9月10日(木)11:00-12:00
配信形式:オンライン(Zoomウェビナー)
参加費:無料
登壇:安達裕哉(ティネクト株式会社 代表取締役)


お申込み・詳細
こちらのウェビナー詳細ページ をご覧ください。

(2026/9/1更新)

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo: