おれのブログが引用されました

上田信治さんという方からメールが届いた。著書におれのブログからの引用をしたので、ご恵贈いただけるという話だった。

引用に許可もなにもいらないのでありがたい話だと思った。そしておれの手元に『成分表: 偽マキロン・悲しみについて』が届いた。

申し訳ないが、おれは上田信治さんのことを存じ上げなかった。

有名漫画『あたしンち』の共作者にして俳人、漫画家のオットでもある著者による、日常の探究、ふたたび――

申し訳ないが、おれは『あたしンち』を名前しか存じ上げなかった。

 

しかし、『成分表: 偽マキロン・悲しみについて』はたいへんよい本だった。このごろ体調などもあってろくに読書していないが、たいへんよかった。

で、とりあえずおれのブログのなにが引用されたのか引用を引用しよう。「道徳」という一編にそれはあった。

思うに。

人は誰の所有物ではないのだから、個としての人には、どう考えても、自死を選ぶ権利がある。ほんとうにつらい人がそれをすることは、あるていど仕方がない。

しかし、現実に誰かがそれをしようとしていたら、反射的に止めなければならないと思うのが人情だ。

村上龍はエッセイの中で繰り返し「自殺をするな」ということを書いているし、中島義道は「きみが死んだら、ぼくは悲しい。だから、死んではいけないのだ」と書いた。二人とも人情に従って、誰かのために自分の気持ち以外に拠り所のない言葉を書いたのだ(なんと、お人のいい)。

ある人はブログで「食べようと思って作ったラーメンを床にぶちまけたら、最悪だ。だから、人は自殺をしていけないし、人を殺してはいけない」「それは比喩ではなく、間髪入れずにそうなのだ」ということを書いていて(ブログ「関内関外日記」黄金頭)それは本当のことだと思った。

おお、出てきた。おれはそんなことを書いたことがある。それは覚えている。

永井均は自殺について「自殺権は破格に重要な自然権だと思う」と言いつつ、別の場所で「真っ暗な宇宙に一つだけついているテレビを、番組がつまらないからと言って消すことは、越権ではないか」ということを書いていた。

ブログの人も永井均も、きわどいところで「それ」を言えている。それは伝声管の穴を伝って届かせるような物言いによって、可能になっている。

おれにはきわどいところで「それ」を言えているかわからない。おれは「禅の言葉」というあり方としてあやういものが好きだが、そういうあたりを偶然ついてしまったのかもしれない。

 

「道徳」はこのような言葉で終わっている。

昔と違って、人は道徳が欲しければ、それを作らなければいけない。

マンションの管理組合の規約を、出来合いのそれを使わずに書くようなもので、見栄えのしない仕事だけれど、世界の今ていどの良さを維持するには、それをするしかないのだろう。

それは、世界への「服従」でなく「支援」としての道徳になるはずだ。

ラーメンとテレビの比喩は、その一例としてある。

正直、おれが書いたことが支援としての道徳になるのかどうか、まったくわからない。ただ、そのように光を当ててくれた人がいた。

 

おれのラーメン理論

こうなると、おれは自分の書いたものを読み返さなければいけない。おれは自分のブログを検索した。次のエントリーが見つかった。

おれのラーメン理論と『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』(中島義道)

 

なんと『成分表』にも名前が出ていた中島義道の本に対する感想として書かれたものだった。おれは中島義道の本へのアンサーとして「ラーメン理論」を出したようだ。

では、それがどのようなものか、少し長いが引用しよう。

いきなりだがラーメンの話をする。おれでもいいし、君でもいいが、キッチンでラーメンを作る。君だかおれだかは腹が減っていてラーメンを作って食おうとしている。が、ちゃぶ台なりテーブルなりに運ぶ途中、手が滑ってラーメンをフローリングなりカーペットなりにぶちまけてしまう。部屋はスープでびちょびちょになるし、さっきまで腹に収めようとしていた麺も食えたもんじゃない。ゆでたまごだのほうれん草だのも湯気をたてて転がっている。最悪じゃないか。だから人間は自殺しちゃいけないし、人は人を殺してはいけないのだ。
……いつだったか、「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが流行ったときに、おれがいろいろ考えた上で出た結論がこれだった。おまえ、ラーメンをぶちまけるなんて最悪じゃないか。だから、人は人を殺しちゃいけねえんだ。勘違いしないでほしいのは、おれは比喩で言ってるんじゃないってことだ。人の命や人生というものをラーメンにたとえてるわけじゃないんだ。ラーメンをぶちまけると最悪だから、人は人を殺しちゃいけないんだ。間髪を入れず、そうなんだ。比喩じゃないというのは言い過ぎかもしれないが、曖昧でよくわからない全体がそこにはあるんだ。
こんなもの人に理解しろというのは無理がある。ただ、おれのなかでは一本の筋道がある。電光、影裏に春風を斬らん!

やっぱり、電光影裏とか禅を意識している。間髪をいれずとか言ってるのもそれだ。

 

しかしそうか、おれは「なぜ人を殺してはいけないのか?」論争(というものがあった)に対して、そんな答えを出していたのか。

そしてなんだろう、この考え方についていまおれが別の意見を持っているとか、否定するとかいうこともない。いまもおれのなかにはラーメン理論が生きている。作ったラーメンをテーブルに運んでいてぶちまける。嫌だろう。それだ。

 

おれはラーメンをぶちまけないようにした、のか?

ところでおれは昨年、希少がんがわかって入院、手術をした。さんざん書いてきた話だ。自分で言うのもなんだが、行動に無駄がなかったと思う。

内視鏡で変なポリープがあった。すぐに市大病院を予約した。予約して行った。行って、がん疑いになった。指定される最速の検査を受けた。検査結果が出て、最速の入院をして手術をした。

 

その後、一時的人工肛門つけたり閉鎖したりしたが、まあそれはそうとして、希少がん(NET G1)に対して、現代の標準医療が提供するものをすべて最速で受け入れた。

恐怖はあったが、迷いはなかった。おれは自分の生命を守ることに必死だった(ここで必死ってへんな言い方だな)。

 

……と、いえるのだろうか。おれにはそこまで「死んではいけない」とか「死ぬわけにはいかない」と考えていたわけではない、ような気がする。

おれには守るべき家族もいないし、今後生きていて上がり目があるわけでもないし、安定した老後を送れるような資産もない。「まあ、べつに死んでもいいか」という気持ちはあった。それはずっとあった。11年前の当該記事でもこう書いている。

いずれにせよ、おれのような者にとってこの世は生きるに値しないし、この世の方もおれは生きるに値しないと審判を下している。少なくとも資本主義のこの社会では、おれはおれが生きていくだけの糧を稼いでいくことはできない。

おれは頭が悪いし、おまけに病気だ。おれが労働の真似事をしたところで、世間はおれに回す金が無いようだ。もっとそれに適した人間のところに金は行く。そのようにできている。

だから、おれは生きている意味などないし、これより一層落ちたら住処を失い路上か刑務所に行くよりない。残されているのは自殺しかない。おれはその三つなら自殺を選ぶだろう。

そんな人間が、がんに対して最速で最適の行動をとった。苦しい検査や手術は嫌だし、人工肛門も嫌だからやめよう、とは思わなかった。

嫌なのは嫌なので、そこは誤解しないでほしい。すごく嫌だった。でも、そこから逃げるどころか、進んで治す方、生きる方を選んだ。

 

それはなにか。やはり、おれはおれのラーメンがぶちまけられるのが嫌だったのか。病気のときにラーメン理論を思い浮かべたわけではないが、心の奥底には「それ」があったのかもしれない。

現にいま、手術や治療のことを思い返すと「自分に耐えられるはずもないのに、なんでできたんだろう?」と感じる。ラーメンだけはぶちまけてはいけない。それだけだったのか。

 

人生を生きる意味は?

そんなことを考えながら、また上田信治『成分表 偽マキロン・悲しみについて』に戻ろう。「完成」という一編があった。

人生の意味は、と人は問う。
けれど、この私が生まれた意味は、多様性を生み出すための「員数合わせ」として、たぶん、すでに果たされている。
私たちはでたらめに多様に生まれついて、しかも用途があるとは限らない。
ランダムなパーツの入ったプラモデルの箱を渡されて、これですかーと思いながら生きている。

だとすれば、私たちが人生でやるべきことは、たぶん決まっている。
各人、役にも立たなければ意味もない、人との違いを楽しみ尽くすこと。
そして、パーツの揃わないプラモデルとして、でたらめな完成を目指すのだ。

多様性を生み出すための員数合わせというのはひとつの納得できる答えかもしれない。

少なくとも地球上の生命はダーウィン進化の先にあって、中にある。火星に生命があったとしても同じかもしれない。おれの遺伝子は直接的な意味でおれで途絶えてしまうが、ひとつの多様性ではあった。

 

とはいえ、おれはそれを「楽しみ尽くす」ように生きているだろうか。どうも違うような気がする。おれは物心ついたころからのペシミストだ。シオランを信奉する類の人間だ。

「おまえの人生に楽しいことはなかったのか?」、「おまえは楽しいことをしようという気持ちがないのか?」と問われれば、それはノーだろう。楽しいこともあったろうし、楽しいことをしようとするだろう。精神を病み、がんの後遺症に悩みながらも、なんらかの楽しみを求める。それは否定しない。

 

でも、おれの人生の根底、根本に「楽しみ」を置くことができるのか。置いているのか。やはりそれはどうも違う。楽しみの代わりに苦しみが置かれているような気がしてならない。

人間、どこからその違いが出てくるのか。これもまた多様性といえばそれで終わりだろう。

 

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」(Le pessimisme est d’humeur ; l’optimisme est de volonté.)という言葉を、おれはエンツェンスベルガーの本で知ったが、元はアランの『幸福論』だろう。そうすると、おれは意志薄弱というか、意志のない人間だということになる。ラーメンをぶちまけないようにしている。ただ、植物が光に向かって伸びていくように反射で生きている。

光に向かって生きているといえば、それはそれで聞こえはいいが。

 

 

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(2026/9/1更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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