会社経営者であれば、あるいはビジネスパーソンであれば多かれ少なかれ誰にでも通じることだが、仕事は「最悪の想定」との戦いだ。

 

例えば、大口の発注があれば、喜んで商品を引き渡す前に取り込み詐欺を疑うこともある。

もっと身近な例で言えば、住宅ローンを借りる際にボーナス時返済を組み込むかどうか、迷うこともあるだろう。

多くの場合、リスクが大きければ大きいほど、やはり最悪を想定して動きたくなるのが人情というものだ。

 

しかし、日々仕事をしている中で突然襲いかかってくる事態では、「最悪とはなにか」を考えることすらできない、非常事態が発生することもある。

 

そんな中で、最悪の事態が何かを瞬時に判断し、最高の決断を下したにもかかわらず、世間から叩かれまくった人物を私は一人知っている。

仕事や生き方を考える上でとても参考になると思い、ぜひご紹介したい。

 

航空自衛隊、杉山政樹・元空将補の決断

その人物の名前は、航空自衛隊の杉山政樹・元空将補(以下敬称略)。

東日本大震災の時に、宮城県東松島市に所在する航空自衛隊松島基地司令であった人だ。

 

空将補は、昔で言う少将に相当する階級であり、展示飛行で知られるブルーインパルスやF-2戦闘機から構成される、第4航空団を率いる将官であった。

話の前提として少し情報を整理すると、空自松島基地は宮城県の海岸から、直線距離でわずか1kmほどのところに所在する。

そのため東日本大震災の発生直後、非常に大きな揺れに襲われたのはもちろん、時間の問題で巨大津波が押し寄せてくることが確実な情勢だった。

 

そして杉山は、地震発生から数分後に、牡鹿半島付近への津波到達予想が15時10分頃であるという情報を入手する。

牡鹿半島から松島基地までは、直線距離でおよそ30kmほどだろうか。

その距離を計算に入れ杉山は、津波はおそらく松島基地付近を、早ければ15時30分頃に呑み込むであろうと計算した。

 

そして実際に、松島基地が津波に呑み込まれたのが15時54分。

松島基地には、1機120億円とも言われるF-2戦闘機を中心に28機が駐機していたが、その全てが流され水没し、完全に使用不可能になった戦闘機もあるなど、甚大な被害を受けることになった。

津波によって航空機が流され、建物に激突する衝撃的な映像は当時繰り返し流されたので、あるいは記憶している人も多いだろう。

そしてこの時に杉山は、津波が15時30分ごろには到達するかもしれない、という予想を立てた時点で基地に所在する総員を直ちに、建物の屋上に避難するよう命令している。

 

すなわち、戦闘機を始めとした各種基地設備の放棄だ。

その決断を下せば、総額で数千億円にもなる戦闘機や航空機が全て水没し、使用不可能になることは間違いないだろう。

にも関わらず、その空中退避や保全措置を放棄して、総員に速やかな避難を命令したことになる。

 

金銭的な被害はもちろん、その防衛能力上の損失を考えるとこれら戦力の喪失を決断することは、余りにも重い。

会社経営に例えれば、わずか数分間のうちに、会社の屋台骨とも言えるような主力事業を直ちに捨てる決断を迫られたようなものだ。

しかし、杉山は迷わず速やかな総員退避を決断し、直ちに命令を下した。

 

ではなぜ杉山が叩かれたのか。

結果として、地震から津波到達までには1時間以上の時間があったために、実は航空機は救えたのではないか。

なぜ、わずかでも保全措置を取らずに余裕を持って総員を避難させたのか、本当にそんな必要があったのか。

戦闘機の損失が、我が国の防衛体制に与えた影響は深刻だ。

概ねこんな感じであろうか。

 

今でこそ、このような論調は大勢になることは無くなったが、当時は一部の「専門家」が口にするほど、杉山は叩きに叩かれた。

言うまでもなく、杉山の決断はそのような批判を受けることを十分に理解した上での、人命最優先の勇気ある決断であった。

 

今すぐ手に入る限りで一番上等の牛肉を買ってこい

ところで、いきなりで恐縮だが少し個人的なお話をお許し願いたい。

 

もうずいぶん昔になるが、私は24歳の頃に父を病気で失っている。闘病生活は長く、最後の入院は3ヶ月にも及んだだろうか。

日々、痛み止めの薬で衰弱していく父は次第に食も細くなり、やがてほとんど食事を受け付けなくなっていった。

 

そして、もはや食事を摂っても消化できるような体力も残されておらず、担当医から絶食が言い渡されるのは時間の問題であろうある日。

私の2歳年上の兄が、東京から父の見舞いに来た。

当時まだ20代の若いサラリーマンなので、給料も安く休みも取りづらいであろう中、兄は病状の進行に合わせて、片道3時間以上かかる道中を半月と開けずに父の見舞いに来ていた。

 

そしてその、絶食が言い渡されるのも時間の問題であろう日に病院に来た兄は、突然意味のわからないことを私に言う。

「金はいくらかかっても良い。俺が出すから、今すぐ手に入る限りで一番上等の牛肉を買ってこい。」

「はぁ?こんな時に豪華な飯の手配かよ。そんなもん自分で行けよ。」

「良いから行ってくれ、俺は俺で揃えるものがある。説明している暇はないから今すぐ行ってくれ!」

 

こんな会話だっただろうか。

余り気乗りはしないものの、取り敢えず言われたとおりに数件ほどの肉屋を周り、近江牛の上等の肉を買うことができて、病院に戻った。

すると兄はすでに何かをいろいろ買い込んでいて、私の肉を確認すると突然、「一人鍋」の準備を始めてしまった。

 

いくら個室とはいえ、そこは病院である。メチャメチャだ。

そして一人鍋に、私が買ってきた肉や別途買い込んでいた野菜などを入れると、固形燃料に火を付けて鍋を作り始めた。

兄が作ろうとしているものは、明らかにすき焼きである。

 

すき焼きは、父が家族のためによく作っていた手料理で、ほとんどの料理は下手くそで美味しくなかったが、不思議とすき焼きだけは本当に美味しかった。

一度だけ、父が不在の時に母が見よう見まねですき焼きを作ったことがあったのだが、父のすき焼きの旨さに比べて余りにも・・・であった程であった。

兄が作ろうとしているのはまさに、その家族の思い出のすき焼きだった。

 

とはいえそこは、繰り返しになるが病室である。しかも公立病院であり、多少のことは許されるような、融通がきくようなモノではない。

おそらく今やれば、そもそも火災報知器が反応して大騒ぎになるだろう。

(※絶対に真似をしないで下さい)

 

私は大いに焦り、

「こら、アホなことやめろ!」と兄を止めるが、

「うるさい、次に看護婦が巡回に来るのはいつも何時頃だ」

「そういう問題じゃない、見つからなければいいってもんちゃうやろ、今すぐやめろ!」

と小競り合いを始めたが、そんな二人を父はおもしろそうに眺めている。

 

やがて兄は本当にすき焼きを完成させてしまい、

「ほら、これ食べて元気を出してくれ」

と、肉や野菜を小鉢にとって父に手渡した。

父はそれを受け取ると、気力を振り絞るようにして、小鉢に少し浮いている汁を僅かにすすり、

「美味しかった。後はお前らで食べろ。」

と言った。

 

これが、父とともに食べる最後の食事になることは明らかだった。

そう思うと急に胸が詰まり、兄のやらかしたことに、これ以上文句をいうことなどとてもできなかった。

そして兄は、最終の電車でまた東京に戻っていったが、その時に父に手紙を残していった。

 

父は病床に座り、それを読みながら泣いていたことを知っているが、その手紙に何が書いてあったのか。

それから1ヶ月もせずに亡くなった父の葬式のあとに、遺品を整理していたら、それらしい手紙が出てきてつい読み耽ってしまった。

その内容は要旨、以下のようなものだった。

“僕は、お父さんの子供として生まれてきたことを誇りに思っています。

ラガーマンだったお父さんから教わったことは、ノーサイドの瞬間まで決して諦めない強さ。

それは今、この瞬間も学ばせてもらっています。

だから、僕も諦めません。これからの人生でも、何があっても絶対に諦めません。“

そんな内容であった。

 

模範と言うべき指揮官の判断

話を最初に戻したい。

東日本大震災当時、松島基地司令であった杉山の脳裏には、このまま総員を退避させれば国防に深刻な影響が出るほどの被害が出ることくらい、一瞬で理解できただろう。

おそらく1分くらいは、なんとかして所在の航空機を離陸させる手段はないか、なんとかして津波で流されないように処置をする時間はないか。

そんなことを考えたはずだ。

あるいは、数千億円もの被害を出せば基地司令としての責任は免れないと、自分自身の保身のことまで脳裏をよぎったかもしれない。

 

しかし杉山は、それらあらゆることを呑み込んで、徹底的な批判は免れない「即時、総員退避」を選んだ。

おそらくこの時、杉山が航空機を退避させることを選び、ギリギリまで作業に当たらせていたら、逃げ遅れた隊員たちが確実に津波に呑み込まれ、甚大な人的被害が発生していただろう。

非常に優れた英断であり、危機に際して、

「この状況での最悪はなにか」「この状況での目的はなにか」

を瞬時に峻別できた、模範と言うべき素晴らしい指揮官の判断であった。

 

なお後日談だが、仮に津波襲来時間を15時54分であると正確に予想できていたとしても、航空機の退避は時間的にも気象条件的にも無理であったことを、多くの空自OBが震災後に語っている。

そう言った意味でも、杉山の判断には一切の間違いがなかった。

そんなこともあり杉山はその後、航空救難団司令などの要職を歴任し2015年12月に勇退となり、誇りある自衛官生活を全うしている。

 

さて、私の兄のことである。

スケールが急に小さくなって恐縮だが、突然病室で固形燃料を焚き、一人鍋を作り始めるなど、私にはとてもできない“暴挙”だ。

しかし兄には、もうこれが父と食卓を囲める最後のチャンスだと正確に理解できていたのだろう。

 

正直、個室とはいえ固形燃料を焚くことは相当良くないことだ。決して正当化できない。

しかし誤解を恐れずに言えば、見つかっても本気で謝れば、なんとか許してもらえる可能性があったかも知れない。

(※今やれば、確実に火災報知器が反応します。謝っても絶対に許して貰えません。)

 

その上で、避けられない「最悪の事態」が間もなく訪れることを正確に理解し、「この状況での目的はなにか」を考えた。

おそらく兄の答えは、「父が、思い残すこと無く穏やかな最期を迎えられること」だったのだろう。

そして、最後に家族で思い出の食事を囲むこと。

「お父さんの子供として生まれてきたことを誇りに思っています」と、率直な思いを伝えること。

その2つを形にした。

 

つまり、相当な批判がある(相当怒られる)かも知れないことを理解した上で、目的に対してとても純度の高い行為を選んだということだ。

全てを正当化できるものではないが、それを含めてこんな兄を素敵なヤツだと今も思っている。

 

ふと、杉山元空将補の決断に兄の決断が重なったので、それぞれを引き合いに出して紹介させて頂きたくなった。

わけのわからない例えになっていれば、お詫びしたい。

 

仕事をしていく上では、時に厳しい決断を瞬時に下す必要に迫られることがある。

そのような時にはぜひ、「最悪とはなにか」「この状況で最優先すべき目的はなにか」という原点に立ち返り、そして目的に対して高い純度の行動を、直ちに起こすこと。

 

拙文が、そんな当たり前のことの重要性を改めて確認する、その機会になるようであれば嬉しく思う。

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。

中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

(Photo:Shinji