かつて私が勤務した陸上自衛隊という組織。

中でも「広報」と言う職域は自衛隊と言うある意味「閉鎖社会」と一般国民とをつなぐ窓口です。

 

平成の始まりの年に陸上自衛隊幹部広報課程と言う教育を受け、師団広報室長と言う職を経験しました。

そして、自衛隊の真の姿を国民の皆様に知って頂く事の難しさとその重要性について深く認識することとなりました。

 

幹部として勤務した昭和50年から平成18年までの30有余年。

直接広報の職域についたのは平成元年からわずか2年余りですが、その後の私の人生におけるアイデンティティ形成に繋がったように思います。

 

「広報」との出会い

私が陸上自衛隊の幹部広報課程に入校したのは、昭和天皇が崩御され元号が平成となった年です。

北海道の滝川駐屯地で約120名の部下を持つ普通科中隊長として勤務しているとき、当時上司であった國見連隊長のご配慮で次職として予定していた札幌の師団広報室長就任の為の教育を、約2ヶ月弱の間、東京の小平駐屯地にある業務学校で学びました。

 

幹部広報課程では部隊勤務では決して体験する事のない、民放のテレビ局や大手新聞社の見学などもあり、新鮮で次職への期待感がいやがうえにも高まったことを覚えています。

新聞社の編集長レベルの方々の講話も胸に沁みる貴重な体験でしたが、受講間を通じて教官から何度となく聞かされたひとつの言葉が今でも印象に残っています。

 

それは、「パブリシティ」と言う広報職域におけるキーワードでした。

広報を英語に訳すとPubric Relations(PR) 防大卒の先輩教官が教えてくれた「パブリシティ」の解釈は次でした。

「PRの一種でプレスリリースやインタビューへの応対などを通じてマスメディアに報道として伝達されるよう働きかける広報活動の手法で、広告は有料だが、パブリシティは無料である。」

ただで広報してもらえるならそれが一番。自衛隊だけでなく他の官庁や一般企業でも同じです。

 

広報課程を修了し、3年間の中隊長の務めを終え真駒内駐屯地の第11師団広報班長に着任した私の脳裏には常にこの「パブリシティ」と言う言葉が呪文のように渦巻いていました。

 

74式戦車と民間車両の接触事故

着任当初の初夏の週末のことでした。駐屯地から数キロ離れた公道上で74式戦車と民間車両の接触事故があったとの第1報が官舎で休養中の私の元に入りました。

 

「民間の方に怪我はなさそうだが、乗用車は破損している。」

気になったのは、その後の情報に「道内H紙の新聞記者が通りかかって取材した。」ということでした。

私は車を飛ばして師団長官舎まで赴き概要を報告しましが、「新聞記者が現地で取材したらしいので明日の朝刊には掲載されるかも知れません。」と付け加えることも忘れませんでした。

 

翌早朝5時頃、何か胸騒ぎがして我が家の近くのコンビニに行きH新聞を買い求め、その場で社会面を見開いて驚愕しました。

そこには「レジャー街道に戦車の牙」との5段抜き位の大きな見出しが躍っていたのです。

それは、広報室長として部隊の真姿を一般市民に知らしめなければならないと意気込んでいた私の頭から冷水をぶっ掛けられたような衝撃でした。

 

事故の起きたその道路は、駐屯地近傍の北海道大演習場(西岡地区)から一般道路を使って再び同演習場(有明地区)に至るためのものです。

国の経費で戦車が通るその連接道路の部分だけはコンクリート化してあります。

しかし記事にはそのような説明はあまりなく、ひたすらに自衛隊の物騒な戦車がレジャー街道で民間の乗用車を押しつぶしたと言うイメージの記事となっていたのです。

 

師団にとっては一大事のこの事案。

何はともあれ師団長官舎に車を飛ばして『申し訳ありません!』と言って新聞を届けました。

そして記事の書き方について新聞社に抗議いたしましょうと意見具申をしました。

 

普段、国の防衛に任ずる隊員たちが汗水垂らして訓練している中で偶然生起した民間車両との接触事故です。

もちろん重量38トンの戦車と約1トンの乗用車では勝負にはなりません。

事故原因は究明しなければなりませんが、私は自衛隊が市民に牙をむいたような表現の見出しには怒りさえ覚えました。

 

しかし、憤懣やるかたない私に師団長は一言こう言いました。

「掲載されたものはしょうがない。抗議の必要は無い」

 

その後、特科部隊の自走155ミリ榴弾砲射撃時における隊員負傷事故があったときにも。H新聞の記者の問い合わせがありました。

「砲塔内の写真を撮らせて欲しい」とのこと。

私は「申し訳ないが砲塔内の撮影は出来ないことになっており、どうしてもと言うのであれば総監部広報室の方に聞いて頂きたい。」と丁重にお断りしました。

すると、翌日のH紙のコラム欄に「自衛隊の閉鎖性」と言うタイトルで「取材拒否は、けしからん」と書かれてしまいました。

 

この時も怒り心頭ではありましたが、師団長の答えは前回同様でありました。

 

師団長は防大の2期生。

入校したのは昭和29年で、保安隊が自衛隊となり保安大学校から防衛大学校に名称変更となる時期でした。

その当時は国を守る若者たちが税金泥棒などと罵られた時代でした。

 

昭和32年に卒業する防大1期生たちの訪問を受けた当時の吉田茂首相のメッセージがこのように伝えられています。

 

君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない。

きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。

しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。

言葉を換えれば、君達が日陰者である時の方が、国民や日本は幸せなのだ。

どうか、耐えてもらいたい。

一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張ってもらいたい。

自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。

しっかり頼むよ。

師団長は1期生が卒業する時は3年生。吉田茂首相のこのメッセージは何らかの形で後輩たちにも伝えられたのではないかと思うのです。

仮にそうでなくとも、初代槙校長の教えである「幹部自衛官である前に立派な市民たれ」は常に心に刻んでいた筈です。

 

であれば、報道記事を見て「抗議の必要はない。」と決断した師団長の心を推察いたしますと

『我々は黙々と任務に精励すことが与えられた使命であり、新聞報道に一喜一憂する勿れ。真実はちゃんと国民が見てくれているよ』

 

そんな気持ちではなかったかと思うのです。右往左往する広報室長を「じたばたするな」と諌めてくれる本当に達観された師団長でした。

 

映画撮影協力

一方で、ポジティブな出来事もありました。

あるとき、陸上幕僚監部広報室の担当者から一本の電話がありました。

 

「映画の撮影協力をしてもらいたい」

それは、札幌出身の直木賞作家、藤堂志津子さんの小説「マドンナのごとく」の映画化への協力でした。

 

シナリオは真駒内駐屯地に勤務する2人の若き陸上自衛官(加藤雅也さんと宍戸開さん)とキャリアウーマン(名取裕子さん)の物語。

2人の自衛官の訓練シーンがふんだんに出て来る内容です。

上級部隊からの命令は実行しなければなりませんが、はてさてどのように協力すれば良いのか?

送られて来た文書には協力内容は「演習風景の撮影」とあるが、これは部隊が普段行っている訓練を背景に俳優が演技するんだろうか?いやそれじゃ映画撮影にならんだろう。撮影のために部隊を動かすと言う事だよね?

 

陸幕担当者に聞くと「まあそう言う事です。」

 

自衛隊の実施する協力は『広報効果』の有無やその程度で協力の可否が決定されます。

もちろん陸幕が許可したと言う事は、映画と言う映像メディアを通じて自衛隊の存在価値や防衛の必要性を国民に周知する事ができるからです。

 

師団長に陸幕の趣旨と映画撮影の概要を報告すると

「陸幕広報がそう言うなら全面協力だ。」

「すべての自衛隊の訓練シーン撮影は広報室長が立ち会え」

との指針を頂きました。後者の意図は映像を通じて精強な自衛隊が正しく国民に伝わるように広報室長が撮影スタッフとよく調整をせよと言う事でした。

 

前述の事故対応2件については全く受け身の広報であり、広報室長としてある意味意気消沈させられました。

しかし、映画協力はまさに主導的にプレスリリースでき、積極的に報道関係者を撮影現場に案内し、新聞記事の掲載やテレビニュースとして報道してもらい広報室長としてのやりがいを感じました。

 

これはまさに『パブリシティ』の実践そのものでした。

監督とのやり取りの中で加藤雅也さんは偵察隊の小隊長、宍戸開さんは戦車大隊の小隊長の役柄を演じることになりました。

 

名取裕子さんの敬礼シーンは私が教えましたが、自衛隊式の正しい敬礼を直ぐにマスターされ演技に活かして頂きました。

また、戦車の轟音にも全く動じる様子も無く演技する姿には役者魂を感じた次第です。

師団司令部の会議室でも撮影を敢行し、撮影合間の迷彩服の俳優さんから敬礼を受けた師団長も思わず苦笑い。

 

演習場において暗視ゴーグルを使用しての夜間偵察のシーンや戦車1個小隊、ヘリコプター3機、隊員100名を運用しての突撃シーンは部隊精強の見せ所でありましたが、それぞれ2テイクでOK、映画のタイトルバックとして銀幕を飾ることになりました。

 

約2ヶ月に及ぶ撮影期間中、すべての自衛隊関連撮影シーンに立ち会って私の任務は完了しました。

撮影に協力した隊員たちは試写会や映画館に足を運びました。自分たちの姿が映画の1シーンとしてスクリーンに上映されるのは誇らしく士気が上がったに違いありません。

私自身、映画撮影の現場をつぶさに体験できた事は、退官後のいまの映像制作においても少なからず役に立っております。

 

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【著者】

氏名:小島 肇

札幌在住の映像作家。

陸上自衛隊(幹部)を定年退官後「HAJIMEVISION」を起業。

「北海道から映像発信、自衛隊感動映像」をテーマに映像制作。

その他自分史ビデオや俳句映像集も手がけている。